goo blog サービス終了のお知らせ 

about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』人物考(3)-1(注・ネタバレしてます)

2009-04-07 02:24:35 | カリギュラ

セゾニア

セゾニアというキャラクターに特徴的なのは、カリギュラに向ける情熱的な愛とすでに若さの盛りを過ぎたことへのコンプレックスである。
愛と老化、このどちらも密接に肉体と結びついている(西洋で言う愛は日本語の「愛」よりも性的な意味合いが強い、らしい)。
セゾニアははっきり言っている。「あたしにはこのからだ以外に神はいなかったわ」。

彼女はエリコン同様実際的な人間である。論理や詩情のような曖昧な目に見えないものに彼女は興味を持たない。
エリコンはこれらを机上の空論と思っているから近付かないが、セゾニアははなから関心を払っていない。
こうしたセゾニアの造型には古来からの女性に対するイメージが働いているように思う。世俗的で、高邁な理想も深遠な哲学も理解しない、男や子供への愛、家庭を維持することに汲々としている精神的には劣等な存在、という。
自分の肉体だけを拠り所とし、愛する男に行動の基準を置くセゾニアは、ゆえにカリギュラの暴虐にあえて従う。
(ちなみにカリギュラが行動の基準になっているのはエリコンも同じである。またシピオンもカリギュラを愛してはいるが、彼は芸術に精神の足場を置いているため、彼女らのようにカリギュラが規範とはならない)

セゾニアは決して馬鹿な女ではなく、カリギュラの暴政にたびたび意見もしている。彼女はエリコンと比べてもカリギュラの行動に異を唱える場面が多い。
ただその反対意見はあくまでカリギュラの精神状態を気遣ってのものだ。彼女もエリコンと同じように、カリギュラさえ良ければそれ以外の他人の苦しみは基本的に二の次なのである。

しかしまさにカリギュラが行動の基準であるゆえに、彼への愛情がすべてで、カリギュラの精神を占めている論理への情熱や詩情を理解することができない。それは彼女の内側にないものだからだ。
(カリギュラに殺される直前に「わたしはあなたが治るのを見たいだけ」と言うのも、彼女が結局は神に対するカリギュラの哲学的戦いを、絶望がもたらした病の産物として片付けているのを示している)
彼を深く愛しながらもその彼の理念には共感しようもない。それはカリギュラの方もわかっていて「おまえには分かりっこない」とあっさり流す。
だからセゾニアはシピオンに言う。「あの人を理解しようとしてほしいの。」 

シピオンはセゾニアやエリコンと違い芸術に精神的基盤を置いている。彼は「自分を持っている」ゆえにカリギュラを愛しながらも彼のやり方に反発し従おうとしない。
しかし同時にカリギュラ同様豊かな詩情を持っているゆえに、カリギュラに献身しない代わり彼を理解することができる。
カリギュラも最初からシピオンには「手伝ってほしい」とも「おれに従え」とも言わない。むしろ恐怖政治の断行にあたって彼を遠ざけようとする。
カリギュラにとってエリコンやセゾニアは一種自分の付属物のような存在である(だからカリギュラは彼らには最初から自分を理解することではなく無制限に受け入れてくれることを望んでいる)が、シピオンのことは一個の独立した人間として尊重しているのだ。

セゾニアは自分には不可能な類の絆をカリギュラと結びうるシピオンにおそらくは嫉妬めいた感情を抱いていただろう。そしてシピオンの若さと美しさにも。
(シピオンは「若いシピオン」とあるだけで容姿については特に言及がないが、カリギュラと詩を詠みあうシーンなど読むと少年の面影を色濃く留めた線の細い若者の姿が浮かび上がってくる。勝地くんはそのものですね)
 シピオンに向かって言う「あたしは、もうおばあさんの愛人」という言葉にも、彼の若さに対するコンプレックスが強くうかがえる気がする。

(セゾニアがことさら自分がもう年を取ったと繰り返すのは、ただ自分の容貌、肉体的な衰えを嘆いているだけではないだろう。
いや、セゾニアとしてはそれだけの意図かもしれないが、作者であるカミュはセゾニアが「年を取っている」ゆえに「子供」なカリギュラの理論を理解できないということを匂わせているのではないか。
とくに「若い」シピオンに対してその手の発言が多いのも、詩的感受性のみならず若さ・未熟さにおいても共通しているゆえにシピオンがカリギュラと心を通じ合えるということを、セゾニアとの比較の中で浮かび上がらせるためではないだろうか)


(つづく)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『カリギュラ』人物考(2)-3 | トップ | 『カリギュラ』人物考(3)... »

カリギュラ」カテゴリの最新記事