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空を愛する者として各地を歩いた際の航空機の写真災害時の活用法などを掲載しています。現場の意見などコメントをください。

38豪雪ヘリコプター救助活動の記録

2014-02-20 10:41:21 | 趣味・航空機
昭和38年豪雪(三八豪雪)災害について、陸上自衛隊航空部隊の活動の記録を作成する際、新島氏から聞き取りさせていただいた貴重な資料です。今回の豪雪被害の教訓も多いと思いますが、昭和38年頃、装備も現在よりは数段劣っていた時代に懸命にヘリコプター救助活動をされ、妊婦さんを救助、そのお子さんと42年ぶりに対面したことなどを詳細に聞き取りできました。全文ではないですが、一部を紹介します。
ヘリコプターによる降雪条件下での救助活動などの困難さがわかると思います。その後、HU-1Bと言う初めてのタービン多用途ヘリコプターを導入し、装備改善をして現在に至っています。時代とともに更に装備も充実されることでしょう。今回の雪害での行動での課題をしっかり教訓として次世代に反映されることを願って紹介します。写真については残念ながら掲載できませんでしたのでご了承ください。

昭和37年12月末頃~昭和38年2月にかけて主に新潟県から京都府北部の日本海側を襲った記録的豪雪(新潟県長岡市では318cm)による災害であった。この年は、九州地方でも記録的な積雪を記録し、鹿児島県でも30cmを超える積雪が記録された。昭和38年1月17日付けの毎日新聞記事よれば、『北陸地方で12日間にわたって猛吹雪が吹き荒れ、一部では3mを超える積雪に見舞われた。国鉄各線は長期間にわたって、まひ状態に陥り、上越線、北陸線の長距離列車は18日間も運休した。石川県の白峰村など、約2カ月間、陸の孤島となる地域もあった。積雪による被害は死者178人、負傷者288人、家屋全半壊1566戸。被害総額748億円。』と記され、猛吹雪の中、夜を徹して除雪作業をする自衛隊員の写真(毎日新聞http://showa.mainichi.jp/news/1963/01/post-f47c.html)が掲載されている。陸上自衛隊航空科部隊の出動の模様を、新島章一氏の記録を基に記述する。
昭和38年1月28日第1ヘリコプター隊(霞ヶ浦)に災害派遣の命令が下り、29日に出動した。当初は、新潟・金沢・福井の3ケ所にH-19×1機づつ、計3機が派遣されたと記憶している。1月29日福井への前進を命ぜられ、パイロット2名と整備員2名、計4名で名古屋経由「福井城址」に設定された臨時のヘリポート(写真は地元新聞に掲載されたヘリポート)に向かった。通信が途絶した福井周辺の各地の安否確認、孤立した地域への物資空輸、各種患者の空輸(写真右は地元新聞が当時伝えた急患空輸)等多様な任務を実施した。ヘリコプターの残時間の関係でいったん霞ヶ浦に帰投、その日にH-19×3機に増強して再び石川県金沢駐屯地に推進、そこを基地として2月28日まで任務を行った。金沢地区での任務は、物資空輸が主体であり、孤立した集落の生命を救ったとの自負がある。H-19での雪雲の流れる厳しい気象条件で、天候が急変する中でまさに命を賭けたものであった。新島氏も任務中2度天候の急変により、雪雲の中に入り込んでしまい、視程ゼロの恐ろしい経験をしたと以下のように回想されている。
※H-19の特性と雪雲中飛行の概要: H-19は、朝鮮戦争時代の第1世代のシコルスキー社製(9気筒レシプロエンジン)の中型ヘリである。操縦の3舵・E/G回転数等は、すべて油圧などの援助なしの手動式であり、有効搭載量は、キャビンの大きさに比し、僅小であった。吹雪時などの飛行は、ワイパーなどないため、左右操縦席ヨコの両窓を開放して、外を見ながらの操縦であった。乱気流の中の雪雲中飛行のヘリは、木の葉のように全周に揺れながら、かつ、上下のエアーポケットに入ったように、ドンドンと急激に上昇・降下を繰り返す激しい運動を伴った。そして、気圧や気流の急激な変化のためか、ピトー管による速度計の針は、瞬時に何十ノットも±に変化し、また、唯一の気圧高度計も、一瞬のうちに何百フィートも±に変化した。高度がマイナスと言うことは、地中・海中に潜ることを意味している。只一つ信用できる飛行に係わる計器は、ジャイロによる水平儀のみであった。機体を水平に維持することに務めるだけでも、猛吹雪の中の雪雲中の飛行は、疲労が激しく、かつ恐怖の極限に陥り、雪雲の中をさまよえば、たちまち機位・水平維持が困難になり、死を覚悟しなければならなかった。(新島章一氏回想)
※冬の「越前海岸」と「両白山地」での任務の恐怖:1月29日に小牧基地を離陸し、匍匐飛行で、琵琶湖北岸を経由して日本海へ出た。海岸沿いに行けば、目的地であるが、越前岬付近で、流れてきた雪雲に巻かれてしまった。陸地に近づけば、地面に激突する恐れがあり、北に進路を取り、洋上に出た。悪戦苦闘の末、ようやく敦賀市の町はずれの幼稚園の広場に不時着して難を逃れることができた。2月2日には、積雪が6mを超える「池田村」から妊婦の救助・空輸の依頼が来た。直ちに出動したが、雪雲があって何回も挑戦したが池田地区へのある「両白山地」へ入るチャンスが無かった。3日午後になって、7回目の挑戦をした際、「武生盆地」から今立~池田への任務中にも雪雲に巻かれてしまい、機位不明となって、たまたま降下したところが「武生駅」近くであった。当日夕刻となって任務を一時中止し、福井に帰投した。そして翌日は天候が回復し、いよいよ8回目の挑戦で池田村の2人の妊婦さんを救助したのであった(写真右は、池田村の中学校で、ヘリポートは踏み固めて整備してあった)。2月6日無事に生まれたお子さんは「ヘリ子ちゃん」と地元で呼ばれ大きく育っていた。平成16年9月、新島氏は42年ぶりに、救助された当時の「ヘリ子ちゃん」との“初対面”を果たした。救助された女性は、「生きてきて良かった!」と当時の救助チームに感謝し、地元新聞で大きく紹介された。「元気なうちにもう一度この不時着した場所へ行き、近くの福井神社と永平寺へお礼参りがしたいものである。」と新島章一氏は目を細めて回想された。写真は昭和38年頃陸上自衛隊の主力多用途ヘリコプターで、伊勢湾台風災害などでも活躍したH-19(航空学校所蔵写真)です。

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