<稲荷塚古墳付近 南西側から>
大栗川右岸の丘陵部は寺社、古墳、農家の屋敷林、生け垣の小道、石仏などが点在していて、結構いい散策コースです。でも風景がどんどん変わりつつある場所でもあります。
和田・百草遺跡群は、聖蹟桜ヶ丘駅から直線で約1.5kmくらいのところ、大栗川の右岸丘陵地にあります。大栗川がすぐ近くを流れていて、丘陵の傾斜も緩やかで、大昔の人にとっては住みやすい場所だったのだろうと思います。
これまでに行われている遺跡調査は開発に伴って行われたものが大半のようです。現地に行って目でみて分かる遺跡は、古墳数基しかなさそうです。特に現地に案内版が設置されているのは「稲荷塚古墳」と「庚申塚古墳」だけでした。
遺跡の位置は一般の地図にはのっていないと思いますので、文末に遺跡のポイントを落としたものをつけておきます。1/25000地形図なので少々小さいです。ネット上では、東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスhttp://www.syougai.metro.tokyo.jp/iseki0/iseki/index.htm
で1/10000の地図が見られます。
もうすこし大縮尺の地図は、『多摩市埋蔵文化財調査報告書』「和田・百草遺跡群」関係の分冊(例えば『多摩市埋蔵文化財調査報告書43 東京都多摩市 和田・百草遺跡群、塚原古墳群』)の調査箇所図が1/4500です。これらの報告書は多摩市の図書館にあります。図書館は聖蹟桜ヶ丘駅、永山駅のすぐ近くにもあるので、散策前に寄っていくのも一計かと思います(開館は朝10時から)。
●塚原(つかっぱら)古墳群●
<左:西側から 右:南側から>
場所は多摩第二小学校の南側あたり。送電線の鉄塔のたっているあたり一帯です。
『多摩市埋蔵文化財調査報告書43 東京都多摩市 和田・百草遺跡群、塚原古墳群』(多摩市遺跡調査会 1998)の第4図(p.9)をみると、現在までに確認されている古墳は10基、そのうち現存のものは2基になっています。ただし、上記の東京都遺跡地図(2007年3月刊行版)では、現存5基(リストは9号墳まで)になっています。なにをもって「現存」というのかわかりませんが、墳丘の残っているものだけでなく、発掘調査後主体部を埋め戻したものも含めて指しているのかもしれません。
『多摩市埋蔵文化財調査報告書16 東京都多摩市 塚原古墳群―5号墳の調査(昭和62年度)―』(多摩市教育委員会 1988)には、昭和62年(1987年)の「8月27日、玄室内から大刀3本が発見された・・・9月5日に多摩市役所で新聞発表が行われ、テレビの取材も受けた。翌6日の日曜日には現地説明会を実施したが、これらの報道も手伝って300名以上の見学者が訪れ盛況であった。」とあります。21年前の話ですが、私はまったく覚えていません。
ビデオ『稲荷塚古墳 ―八角形墳の謎に迫る―』に発掘調査時の映像があります。
現地にいって墳丘がわかったのは個人のお宅の中にある1号墳だけでした。
<1号墳。建物右側の緑の墳丘がわかりますでしょうか>
●庚申塚古墳●
庚申塚古墳については「多摩市史」にも、現地の案内説明にもあまり詳しい記述がありません。
「現在まで残っている=開発を免れてきた=発掘調査されていない=詳しいことはわからない」ということでしょうか。
<横から>
●稲荷塚古墳●
『多摩市史』によると「この古墳の築造年代は七世紀前半と推定されており、東京都内の七世紀古墳としては最大級のものである」(p.365)。とあります。
石室は平成10年ころに埋め戻し保存されました。
ビデオ『稲荷塚古墳 ―八角形墳の謎に迫る―』があります。
<東側から。中央の送電線鉄塔奥の木立のあたりが古墳>
●臼井塚古墳●
『多摩市史』によると「稲荷塚古墳の西方約50メートル、臼井千秋氏の宅地内には臼井塚古墳があるが、墳丘は残っておらず、横穴式石室の下部が地下に眠っている。」(p.365)。
したがって外からはなにもわかりません。
<臼井塚古墳周辺。右の木立の奥に恋路稲荷神社社殿の屋根が小さく赤く見えている>
この他、大栗川対岸の「万蔵院台古墳群」「中和田横穴墓群」も和田古墳群に含まれますが、いずれ取り上げたいと思います。
◇◇◇ 地 図 ◇◇◇
<1塚原古墳群 2庚申塚古墳 3稲荷塚古墳 4臼井塚古墳 (5地蔵堂)>
国土地理院1:25,000地形図 武蔵府中
杉本智彦『カシミール3D』実業之日本社 使用
5地蔵堂は古墳ではありません。ついでにここでとりあげようとおもったのですが長くなったので大栗川右岸丘陵部散策2として次の機会に回します。
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