失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

八王子市鑓水 ベアトの写真撮影地点の推定(1)

2006年11月04日 | 写真集
 横浜開港資料館発行の『F.ベアト幕末日本写真集』に、八王子市鑓水の写真が2葉ある。
一枚は谷戸をやや見下ろしがちにとっており(写真集のキャプションは「35.鑓水の風景」p40)、
もう一枚はその中の一部に近づきアップしたもの
(写真集のキャプションは「36.八王子へ向う道」p41)である。
 写っている場所は同じだが、カメラを設置した地点は違う。

 この写真をみるたびに、現在のどの辺りなのか推定する手がかりはないかと思っていた。
鑓水といっても5つくらい谷戸があるし、
写っている家屋は当時と変わっているだろうし、
樹木も約150年経てば盛衰があるだろう。
だから手がかりは、自然地形しかなく、
丘陵のなだらかな地形では推定は難しいのではないかとあきらめていた。

 とは言え、八王子道と言われているのは、
現在の「絹の道資料館」の前を通るものだそうである。
(「絹の道資料館」のページ
http://homepage3.nifty.com/hachioji-city-museum/kinumichi.html
に以下の文章あり、
「絹糸商人、八木下要右衛門の屋敷跡に建てられました。
要右衛門は「石垣大尽」と呼ばれただけに、通りに面した石垣が見事です。
この石垣を生かし、資料館は当時の雰囲気を伝えるような建物にしました
(復元ではありません))
 ちなみにここの谷戸は「岩耕地谷戸」と言うと永泉寺の方から伺った。
谷戸が限定されれば、写真に当てはまりそうな場所は相当絞り込めそうだ。
さらに、ベアト写真36には、左に小川が流れ、道端に石仏らしきものが写っている。
ベアト写真35には、上記の石垣のような屋敷も映っている。

 こうした情報を手がかりに、だいたいの撮影ポイントが想定できた。
あとは、現地にいって石仏を見つければ、100%確定と言ってよい。
昨日11月3日に期待とともに、鑓水に石仏探しにでかけた。

 結果は、想定した場所に石仏はなく、半分落胆。
考えてみれば、石仏が当時と同じ場所にあれば、どなたかが既に指摘していてもおかしくない。
(ベアト写真の撮影地点がどこまでわかっているかなど、
誰かがネット上でデータベースでも構築していない限り、
研究者以外には調べようがない。
こんなサイトがあるよとか知っている方がいたら是非教えてください。
ちなみに私は「宮ヶ瀬」の撮影ポイントがわかりました。後日報告します。)

 しかし、この想定ポイントから見える道の曲がり具合は、ベアトの写真とよく似ていた。
多分間違いないだろうと思った。
この日は、絹の道資料館によって、
大栗川の支流を行けるところまでさかのぼって(まや霊園付近)、
帰宅した。

 本日(11/4)、図書館に行き『八王子の石仏百景』植松森一著(揺籃社、1993年)を閲覧すると、
ベアト写真のものとおぼしき石仏が、ベアトの撮影当時とはすこし離れたところにあることが分った。
写真の力は偉大である。
この石仏を文章でどんなにうまく説明しても、
ベアトの写真と同一(少なくとも同型)であるかどうかは分かろうはずもない。
この写真を撮って紹介してくれた植松さんに感謝しなければならない。
さっそく現地に行って写真を撮って来た。

 この文章も、写真、地図が無ければ、さっぱり伝わらないであろう。
ベアトの写真については、現在、横浜開港資料館に写真転載許可申請を行っているので、
許可が下りたら、地図と、私の写真と合わせて、推定撮影地点を報告します。

 下の写真は、鑓水の谷戸の一つ「嫁入り谷戸」谷地田の最奥部。
上記記事とは関係なし。2006.11.3撮影。

コメント
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