失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

源流探訪 奈良橋川

2012年08月18日 | 源流探訪

<国土地理院1:25000地形図を『カシミール』で標高別色分け表示し加工縮小>

奈良橋川(東大和市高木で空堀川に合流)を下流側からたどってみました。
以下の地点番号は地図中の番号に対応しています。

はじめはもちろん空堀川との合流点です。

<地点1 高木橋のところで空堀川に合流 右側が奈良橋川 2012/07/29>

私が勝手に選んだ奈良橋川風景のハイライト。
正直言って川沿いには絵になる場所が少なかったです。

<地点2 奈良橋2丁目 2012/07/29>

しばらく行くと東大和市立郷土博物館。奈良橋川はここの少し南側を流れています。 

<地点3 奈良橋1丁目 東大和市立郷土博物館 2012/07/29>

このあたり川がずいぶん蛇行しています。 

<地点4 蔵敷2丁目 2012/07/29>

あっさりと奈良橋川上流端の表示に出くわしました。
したがってこれより上流は「奈良橋川」ではなくなります。

<地点5 芋窪4丁目 奈良橋川上流端の表示 2012/07/29>

「むさしむらやま歴史散策コース案内」などの地図をみますと
川は「谷戸川」と「入谷川」の2つにわかれます
(2つの川が合流して一つになると言う方が正確ですが)
そのうちの「谷戸川」は八坂神社の前あたりで暗渠になります。
  
<地点6 武蔵村山市中藤4、5丁目 左:川はここで暗渠に 右:八坂神社鳥居 2012/07/29>

<地点6 武蔵村山市中藤5丁目 八坂神社 2012/07/29>

八坂神社の前から青梅街道に沿って暗渠が続いているようなので
しばらく青梅街道を進みますと道路は大きくカーブします。

<地点7 中藤3丁目 青梅街道が大きくカーブ  2012/08/4>
熊野神社の前のあたりに水路がありました。
<地点7 熊野神社のあたり 2012/08/4>

この先は赤坂池(今回は写真なし)と番太池を目指します。
水路をまた見失いますが、赤坂池の水の出口と思われるあたりに再び水路があらわれます。
  
<地点8 中藤2丁目 水源の一つである赤坂池からの水はこの水路に落ちているようです 2012/07/29>

ここで、この水路を下流側にたどるとまたすぐ暗渠になります。
それらしいところを探してたどってみると青梅街道にぶつかります。
さっきの熊野神社より南側にでます。
 
<地点11 中藤3丁目 この水路もすぐ暗渠になってしまう 2012/08/4、2012/07/29>

もとにもどって上流へと進み、番太池に着きました。

<地点9 中藤2丁目 番太池 2012/07/29>

池のさらに上流に向かうべく番太池の北側の道を行ってみました。

<地点9-10 中央5丁目 2012/08/4>

最上流端の水の湧き出ているところを見てみたいのですが、なにぶん谷の奥は草深くなって
道からも外れるようなのであきらめることにしました。
そのかわりに「大多羅法師の井戸」がありました。
「井戸」なので、ここから流れが始まっているわけではありません。
私が見たときはほとんど水がありませんでした。

<地点10 中央5丁目 大多羅法師の井戸 2012/08/5>
『武蔵村山の昔がたり』にはこの大多羅法師(ダイダラボッチ・デエダラボッチ)の井戸の伝説は
「神明ヶ谷戸」の話として載っています。そこのほかに「坂本・池の沢・赤堀・山王前」などにもあったということです。
(各地名がどこを指すのか私はよく知りません。この写真の場所は「赤堀」なのか?)
ダイダラボッチという名前がどこに由来するのかちょっと興味をもったのですが、
柳田国男の「ダイダラ坊の足跡」には「大太」「大多良男」という名前があがっています。
足跡の形をした窪地や沼地などを大男の足跡に見立てたというのがダイダラボッチ伝説の本質であるとすると、ともかく大男であることがわかる名前を示せば充分で(「大太」というのはいかにもこれにぴったりという感じがします)、その名前にことさら深い意味や由来はなさそうです。


さて、大多羅法師の井戸のよこを通り過ぎ、谷を登り詰めました。
そこが分水界と考えてよさそうです。

<中央4、5丁目 谷をのぼりつめました 2012/08/4>












コメント
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