失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

岩屋古墳の椀貸伝説

2009年02月21日 | 隠れ里

<JR成田線 下総松崎駅>


財宝をもって充満したる底つ国の仙境と足らぬ勝ちなる人間の世界とは、何でも塚または窟の口をもって通路としていたに相違ない。
(柳田國男『柳田國男全集 5』「山島民譚集」ちくま文庫p.409)
 
<左:上福田岩屋古墳、左:岩屋古墳。この写真ではわかりませんが、下の引用文にあるようにこの岩には貝殻がたくさんはさまっています。>

 
 柳田國男の著作を手がかりに、隠れ里探訪に出かけてみましょう。
 ちくま文庫『柳田國男全集 6』に納められている「一つ目小僧その他」に「隠れ里」という文章があり、全国の「椀貸伝説」を集めて論じています。
ここには南関東の地名がいくつか登場しますが、まずは見つけやすそうに思えた次の場所に行ってみました。

(引用開始)ちくま文庫『柳田國男全集 6』 pp. 390-391
千葉県印旛沼周囲の丘陵地方は、昔時右のようの食器貸借が最も盛んに行われたらしい注意すべき場所である。なかんずく印旛郡八生村大竹から豊住村南羽鳥へ行く山中の岩穴は、入り口に高さ一丈ばかりの石の扉あり、穴の中は畳七八畳の広さに蠣殻まじりの石をもって積み上げてある。里老の物語に曰く、往古この中に盗人の主住みて、村方にて客ある時窟に至りて何人前の膳椀を貸して下されと申し込むときは、望み通りの品を窟の内より人が出して貸したということである。大竹の隣村福田村にはこれから借りたという朱椀が一通り残っている由云々。・・・
・・・
・・・高田与清の『相馬日記』もこの時代にできた紀行であるが、下総印旛郡松崎村の付近に三つの大洞穴があって、その中に隠れ座頭と称する妖怪の住んでいたという噂を載せている。しかるにその松崎は前にいう八生村の大字であるのみならず、洞の外に名木の大松樹があるという点まで似ているから、疑いもなく今日の土地の者が、盗人が椀を貸したという穴と同じであって、また、他の一二の書にはこの穴の名を隠れ里と唱えているをみれば、隠れ座頭という新種の化物は、その隠れ里の誤伝であったことが容易に知り得られる。

(引用終わり)
(『成田市史 原始古代編』によると、『相馬日記』は、文化十四年(1816年)だそうです。)

 ここに出てくる地名、大竹、南羽鳥、松崎、福田(上福田、下福田)はいずれも現在は成田市内です。
 岩穴というのは印旛郡栄町にある岩屋古墳のことでした。

<岩屋古墳>

 三つの大洞穴とは、「成田・栄・房総のむらミュージアムタウンマップ⑦龍角寺伝説マップ」によると、三ヶの岩屋といわれている、みそ岩屋古墳、岩屋古墳(上述)、上福田岩屋古墳が該当するようです。いずれも方墳です。
 このうち最大の方墳は「岩屋古墳」で、「成田・栄・房総のむらミュージアムタウンマップ③龍角寺・房総のむら-古代マップ-」によると、その規模は一辺約79m高さ13mで、築造時期は7世紀前半だそうです。飛鳥の石舞台古墳の墳丘が一辺50m(『蘇我氏三代』飛鳥資料館、1995年、p.58)ということですから、けっこう大きな方墳です。

 柳田國男は、「阿州(引用者注:阿波の国)の古い学者の中には、古墳の副葬品のいろいろの土器を、質朴なる昔の村民が借りてきて時々使ったところから、こういう話が始まったのではないかという人もあって、これはちょっともっともらしく聞こえる一説である。」が「膳椀を貸したという場所が必ずしも古墳ばかりではない」(『柳田國男全集 6』p.374)と指摘しています。
とはいえ、この岩屋古墳の場合は、伝説の舞台は古墳でした。


 このあたりは、房総風土記の丘として整備されていて、房総のむら、龍角寺などとあわせて、歴史散策、自然観察にもいい場所です。
 風土記の丘資料館では上記のものを含めてマップが入手できるので周辺の散策に便利です。
 
<左:風土記の丘資料館の横から龍角寺に至る白鳳道、右:龍角寺>

 
<風土記の丘 旧御子神家住宅付近>
コメント
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