失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

谷戸田ワンダーランド

2009年06月20日 | 残ってほしい風景

にぎやかな田植えの行事とはかわって、こちらは谷戸田一枚を一人で。




先日地図を見ておりました。
よく行く場所ですが、
まだ一度も通ったことのない道がありました。
無性に行ってみたくなりました。

雑木林のいつもの道と違う道を行き


ささ藪を抜け


畑の横を通りすぎると
明るくなって
谷戸の風景が展開しました

一瞬ですが、小学校の遠足の日当日のような気分になりました


もうひとつ別の谷戸を登ってみます



昔は谷のもっと上流側まで田んぼだったんでしょう



登ってきた道を振り返って

こんな場所がまだ残されていることに感謝。

おしまい


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町田市 小野路万松寺谷戸

2009年04月05日 | 残ってほしい風景
町田市小野路町の小野神社の南側の谷戸を奥に進むと万松寺というお寺があります。
万松寺より下流側は次第に住宅や資材置き場に変わりつつありますが、
上流側はまだ水田が残っています。

<万松寺より上流側の谷戸の風景。撮影日2009年4月5日>

<上の写真の左奥あたり。撮影日2009年4月5日>


古い写真があったので一枚載せてみます。
万松寺谷戸を下流方向に向いて写したものです。
画面中央から左側に目を向けると万松寺の屋根が写っています。

<撮影日1983年4月4日>

 上の写真で画面右側の丘の中に送電線鉄塔が写っていますが、
その下あたりを通る道を登って、谷戸の上流側に向かう道をたどると、
雑木林が並木のようになっている下の写真の場所に出ます。

<撮影日2009年4月5日>
この道をさらに進むと「小町の井」に出ます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町田市 小野路

2009年03月15日 | 残ってほしい風景

昨年4月にとりあげた町田市の小野路
前回と同様「小野路宿緑地」の案内板のあるところから
恵泉女学園方向へ歩いてみました。















雑木林の落葉樹はまだ冬のままですが、
沈丁花がかおっていた。
ちょっとくせのあるヒサカキの花のにおいがした。
スミレが咲いていた。
シジュウカラのさえずりが聞こえた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐倉市 米戸の谷津田と下勝田の勝間田の池

2009年03月14日 | 残ってほしい風景
 
<各種茶色のとりあわせ。佐倉市下勝田>

 
前回とりあげた隠れ里伝説の地である佐倉市和田地区下勝田周辺を地図で眺めてみると、佐倉市の市境界がとなりの八街市に長細く入り込んでいる所が何カ所かあります。いずれも谷津田(一部は水田耕作をしていないところもあります)が細長く伸びている所です。おそらく土地所有の関係上このような市境界の線引きをしたのでありましょう。

 今回はその谷津田の一つをたどってみました。地名で言うと佐倉市米戸(こめど)になります。
 また、米戸の谷津ではありませんが、佐倉市指定文化財(名勝)勝間田の池にも行ってみました。ここは場所がちょっとわかりにくかった。
 谷津の地形をわかりやすくするため地図に着色してみました。
青い部分は標高20m以下の部分(濃い青は標高10m以下)です。
地点1は「隠れ里」伝説の場所なので写真は「隠れ里その2」を参照ください。
地点2 佐倉市米戸 浅間神社
地点3 佐倉市米戸
地点4 佐倉市上別所
地点5,6 米戸の谷津の上流部(八街市)
地点7 佐倉市下勝田 勝間田の池

地点1から地点6まで直線で約3.4kmです。
(地図 杉本智彦著『カシミール3D図解実例集』使用)








ではスタート。
   
<地点2 浅間神社>

 
<地点3 長く続く谷津田。舗装道路はここまで>

 地点3の谷戸を地図でたどると、谷は地点5と地点6あたりまで続いています。
谷筋は途中で道がなくなっているようなので、地点3から丘に登ってともかく最上流付近を見に行きました。
 

<地点4 丘に上がると隣の谷津の風景が目に入ってくる。佐倉市上別所>

 地点5,6は八街市です。道が谷を横断するので坂道になります。 
  
<地点5 谷津の最上流部その1。右の写真は谷底近くで上を見上げたもの。>

地点6に、もうひとつ坂道が現れる。
  
<地点6 谷津の最上流部その2 谷底という表現がもう適当かどうかわからないがともかく底から上流方向を。中央が緩くくぼんでいる>

勝間田の池へ 
 
<地点7 勝間田の池 左:ゴミ捨て禁止の看板かと思いきや、勝間田の池への案内板だった。
右:古さびた静かな池ですが、すぐ近くにミニゴルフコース?がありました。>
 
<地点7 勝間田の池 左:現地案内板に書いてあったが、いかにも谷をせき止めてつくったため池という感じ。
右:その堤の下流側> 

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝五郎生まれ変わり物語の舞台 八王子市東中野周辺

2009年01月11日 | 残ってほしい風景

<勝五郎生まれ変わり物語の舞台。東中野バス停付近。中央大学正門から南に下ったところ。>

 平成20年9月27日から12月14日まで日野市郷土資料館特別展「ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語」が行われていました。郷土資料館作成の資料*1によると、この特別展は、平成一八年から行われている市民参加の「勝五郎生まれ変わり物語探求調査団」の活動成果発表とのこと。勝五郎生まれ変わりの詳しい話は、日野市のページhttp://www.city.hino.lg.jp/index.cfm/185,53080,225,htmlに載っています。あるいは、岩波文庫*2で読んでいただくとしまして、ここでは郷土資料館作成の資料をもとに最低限の話のすじだけ超圧縮して述べておきましょう。

 江戸時代末の頃、程久保村(現日野市程久保)に藤蔵という子がいましたが、数え年6才で疱瘡でなくなります。三年後に中野村(現八王子市東中野)で勝五郎として生まれた子が、兄弟に、「自分はもとは程久保村の藤蔵だった」と語ったというのです。この話がだんだんと広まって、国学者の平田篤胤が『勝五郎再生記聞』*1を著したりもしました。後にはラフカディオ・ハーンも別の文献(『椿説集記』)を英訳し「勝五郎の転生」*2を著しました。




<美しい小道が残っています。この先に谷津入地蔵があります。>


<同じ小道を反対方向から>



<勝五郎の生家があったという谷戸を野猿街道側から。土地造成されているが開発は止まっているように見える。この先どうなる>

<生家があった谷戸から南方向を>

  
<左:東中野の熊野神社。勝五郎に生まれる前の魂がとどまっていたという。
右:八王子市柚木の永林寺にある勝五郎のお墓。開発のため永林寺に移されたとのこと>
勝五郎さんは確か明治2年になくなったとのこと。「そこに私はいません」けれども、お墓の前は故人を偲ぶ重要な場所の一つには違いありません。

<左:永林寺の門から、南大沢方向を望む。都立大学の建物が見える。右:永林寺境内の雑木林>


 さて、上述の郷土資料館作成資料では、「勝五郎生まれ変わり物語探求調査団」の「目的は、生まれ変わりの真偽を検証することではなく」と書かれています。これは賢明な態度でしょう。その時点の技術で検出され得ないもの、現象が再現できないものは、万人が納得する形で(理知的にというべきか)真偽の検証などできません。あとは、「自分はこう考える」と言えるだけです。では以下に私の愚問愚答を。

 勝五郎の例で、生まれ変わりがあったと見なされる根拠は、「勝五郎が前世の記憶(藤蔵の記憶)を持っており、その記憶内容を何らかの手段で後から知った可能性も低く、その記憶の内容が藤蔵の家族等によって確かめられたことです。そうでないと、仮に生まれ変わりがあったとしても、それが生まれ変わりなのかどうかは確かめようがありません。つまり生まれ変わりがあったのだという証拠の強さは「記憶」の正しさに依存しているように思えます。(前世の記憶が確かめられただけでは生まれ変わりの完全な証拠とは言えませんが、では前世の記憶は生まれ変わり以外の何によって生じるのかというとそれにも完全に答えることは難しいそうです)

 以前に、朝の通勤で混雑する新宿駅周辺を歩いていて、いったいどこからこんなに大勢の人がやってくるのだろうと思いました。そのとき「私」という不思議さ*4がなぜか頭に残りました。この不思議さをたどっていくと、「過去のある時点で、私でないものから今の私が生じたように、未来のいつか、どこかでまた私が生じることはないのか」という疑問も出てきます。いつかまた私が生じるという考えは、死んだ人から魂が抜け出てまた誰かに宿るという考えとは違うことかもしれませんが、生まれ変わりの1種ではありましょう。「いつかまた私が生じることがあってもいいのではないか」と今の私は思ってもいます。しかし、特定の分子や原子の組み合わせが私になったのだとしたら(何が私と私でない誰かを分けたのかわかっているわけではありませんので断定などできませんが)、もういちど私が生まれる確率は限りなくゼロに近いのでしょう*5。さらに、今のこの私が前世のいかなる記憶も持っていないように*6、生まれ変わった次の私は、今のこの私の記憶を持っているとはかぎらないので、結局、今の私にとっては生まれ変わりがあってもなくてもどちらでもいいのだ、ということに落ち着きそうです。




*1 日野市郷土資料館「日野市郷土資料館特別展 ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語」リーフレット 平成20年

*2 平田篤胤『仙境異聞・勝五郎再生記聞』岩波文庫

*3 『仏の畑の落穂』(平井逞一訳 恒文社)所収

*4 「私」問題について書かれた文章を最初に読んだのは、
茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』(NHKブックス,2001)でした。
(引用開始)pp.146-149
なぜ、「私」はまさにこの「私」であって、他の「私」ではなかったのか?
一体、悠久の宇宙の歴史の中で、なぜまさに今この場所に、「私」は存在することになったのだろうか?
(引用終わり)

「私」問題で、ある種の爽快感を感じた本
 前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房,2004)
(引用開始)p.119
人間の身体一つに<私>は一つ。進化とともに「意識」というものができた以上、人間の身体一つに、一つの<私>というものが定義された。それだけの話なのだ。
(引用終わり)

茂木・前野両氏の本の中でも引用されている本
永井均『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書,1996)
(引用開始)p.34
ぼくであるというこの特別さは、いったいどこから来るのか。ぼくというものはいったい何なのか
(引用終わり)

*5 私になったもの、私にはならなかったはずのものの違いは、細胞を構成している分子・原子の違いだったのか?私になった細胞を構成していた分子・原子が、どのくらい別の分子・原子置き換わっていたら、私でなくなっていたのか? 以下の引用はこのような問いとは別の文脈で書かれている文章ですが・・・
ビル・ブライソン『人類が知っていることのほとんどすべての歴史』楡井浩一訳 NHK出版p.530
(引用開始)
あなたの両親が契りを結んだ瞬間が少しでも―1秒でも、1ナノ秒でも―ずれていたとしたら、あなたは今ここにいない。そして両親の両親が精確なタイミングで契りを結んでいなければ、やはりあなたは今ここにいない。さらに、そのまた両親や、明らかに無数に存在するもっと前の両親たちについても同様でなければ、あなたは今ここにいない。
(引用終わり)

*6 とはいっても、私の中で前世の記憶がいつか浮かび上がるかもしれません。
勝五郎の物語を取り上げた小泉八雲は別の作品でも、死、自己、生まれ変わりについて興味深い文章を残しています。
例えば 「門付け」(『心』所収)
「死ぬといっても死者の一切が死んでしまうわけではない。死者は、疲れた心臓や忙しい脳のどこともわからぬ細胞の中で眠っており、ごくまれに、なにか自分たちの過去を呼び覚ます声に感応したときにだけ、はっと目を覚ますのだ。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立川歴史民俗資料館周辺2

2008年12月07日 | 残ってほしい風景

先週金曜日(12/5)の強風で、木々の葉っぱがだいぶ落ちました。
これで、くぬぎ・こならなど雑木林のオレンジ色/茶色の葉が目立つようになりました。

以下でみると、今年は10月13日あたりからわずかに色づきはじめてます。

6/21                        11/1

7/13                        11/8  

8/10                        11/15

9/13                        11/22

10/13                       11/29

10/25                       12/6
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大栗川右岸散策2 (緑の小道探し)

2008年10月25日 | 残ってほしい風景

<八王子市東中野>

 大栗川右岸に残る石仏や古墳、寺社を訪ねると、途中のところどこに生け垣の小道があらわれたりして、たどってみたくなります。

 想定したコースは京王線聖蹟桜ヶ丘駅出発、京王堀之内駅または多摩センター駅着です。
 聖蹟桜ヶ丘駅からまず大栗川に出てしばらく川沿いに進みます。東寺方橋のところで「お化け坂」を登って、「山神社」に寄り、「和田古墳群」を巡って、多摩ニュータウンの鹿島団地・松が谷団地の北側を進みます。
 京王堀之内駅までだいたい8km、多摩センター駅までだいたい9kmくらいです。
 写真説明の地点番号は下の地図を参照してください。
 
<地点①、② 東寺方>
 
<地点③ 送電線の右の樹木の下に祠が>
     


  
<地点④>
 
 
<地点⑤ 地蔵堂 交差点を3方向から>

<地点⑥> 
      


 
<地点⑦ 大塚公園>
 
<地点⑧、⑨>
 
<地点⑨、⑩>

<地点⑩>
  
<地点⑪>
 
<地点⑫大栗川、地点⑩付近>
     

使用した地図は国土地理院1:25000地形図「武蔵府中」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉沢谷戸 日野市百草

2008年09月28日 | 残ってほしい風景

一気に秋がすすんだかのように土曜日から急に空気がひんやりしてきました。
写真は9月23日撮影。

同じ場所をもう一枚。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山神社 多摩市東寺方地区

2008年09月07日 | 残ってほしい風景

9月7日は山神社の祭りだった。



 
8月30日に書いた「おばけ坂」を登り切ると、
大栗川の宝蔵橋から上がってくる道(乞田-東寺方線)にぶつかります(写真左)。
そこを左に折れて、すぐ、左の小道に入ります(写真右)。



進んでいくと、桜ヶ丘住宅のすぐ下とは思えない景観が展開します。


 
樹林や農地、生け垣の住宅などが断片的ながら残っていて、新興住宅街とは違う雰囲気があります。



大いに期待して先に進むと



少し先に森が見えてきます。



9月7日は山神社の祭りの日で、幟が立っていました。(この写真は9月6日のもの)
 山神社について『多摩市史 民俗編』(p.413)には

 「祭神は、大山祇(おおやまずみのみこと)である。
 山神社の社地はかつて寿徳寺の境内地であった。
 寿徳寺所有の「旧年代記」によると、
 弘治三年(一五五七)に開山の和尚が、寺の鎮守として境内に鎮座せしめ、
 三代住職守頓坊が生国の山城国伏見より神籠石を持参してご神体として祀ったという。」

とあります。


(以下、寿徳寺の写真は8月31日撮影)

山神社に隣接して寿徳寺があります。




『多摩市の町名』(多摩市 平成4年)(p.154)によると

 「入道谷戸
 寿徳寺の裏山付近で、入道が出没するとのことで恐れられていたところ。」

だそうで、この写真の奥から、写真枠外の右側にかけての場所だろうと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多摩動物公園草食動物用栽草地

2008年08月10日 | 残ってほしい風景

 今回の場所は住所でいうと八王子市大谷町です。
都立小宮公園の東側、中央道八王子ICの南側です。
この丘陵の上に、牧草地のような景観があります。

 15年前に撮ったビデオを見てみると、このあたりに
「草食動物用栽草地
 ここではかわいい動物たちの草を栽培しています
 大切にしてください
 東京都多摩動物公園」
と書かれた看板が立っていました。

しかし数年前に訪れたときは、栽草地の看板は壊れかけていました。
今回はこの看板がみあたりませんでした。
 立っていた看板(写真に映っている白い板)は「ひよどり山農園」となっています。
 あれ、ひょっとしてここはもう動物園の草食動物用栽草地ではなくなったのですか?

でもこの写真のずっと奥の方(東側)に
「ユーカリ栽培地 多摩動物公園」の看板が立っていました。
だからまだ、(少なくとも一部は)動物園の栽草地のようなのです。

<左側の何本かの木がユーカリのようです>


<道を行くと小宮公園の前に出る>

<反対方向に行くと下って中央道の側道に出る>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする