佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

知覧特攻平和会館

2008-09-06 | 

今回の小旅行の目的地、知覧特攻平和会館に向かう。

   

 

 

目的地と言いながら、何一つ予備知識もなく来たことが良かったのだろうか・・・

私の期待は大きく裏切られた。

 

その「平和会館」にあったのは、特攻隊員として散った若き1036人の遺影と遺品、

「零戦」「疾風」などの実物戦闘機で、それは全く予想通りの展示物だった。

(館内は撮影禁止のため、写真は無し)

また、外には隊員たちの宿舎であった三角兵舎の復元舎、数々の石碑や像が建立されていたが、それもまた予期していた。

 

 

 

 

 

 

しかし、そこには、平和=戦争反対とは程遠い空気が澱んでいた。

 

土曜日とはいえ、館内は多くの来場者で混雑していたが、

人々が時間をかけて見ているのは、絶筆(遺書)や手紙のコーナーである。

そのほとんどが家族にあてたものであり、父母への恩と妻子への愛にあふれたものばかり。

中には許嫁へのもの、恩師や兄弟へのものもあるが、それらすべてに共通しているのは、彼らが「愛する人々」と「国家」と「天皇」のために自らの命を喜んで投げ出したというメッセージである。

 

何人かの人々は鼻をすすりながら読んでいた。

食い入るように読みふける若者もいた。

彼らの心を揺さぶるものは、たぶん若き特攻兵の潔い死への感動ではないだろうか?

そして、その死はより美化され、訪れた人々の心の中に深く刻印されるのではないか? 

そんな不安を感じて、私は何度もうろついた。

 

どこかに、死への恐怖を書き残した手紙はないか?

どこかに、戦争への疑問を書き記した日記はないか?

どこかに、この作戦を命じた者への恨みごとが隠されてはいないか…と。

 

そんなもの、有るはずはない。

ここにあるのは、自己犠牲を厭わない美しい言葉ばかり。

おそらく本音は書けなかっただろう。

が、仮にそれが本心から出た言葉であったとしても、

戦前戦中の教育や体制の中で育てられ強制された、いわばマインドコントロールされた思想であることを、「平和会館」ならば指摘すべきではないか。

そのような配慮はまるでない。

当時のままの思想が宝物のように保存されているばかりである。

 

館内に置かれている感想ノートを読むと、それがよくわかる。

多くの人が、今の日本の平和は彼らの犠牲の上に成り立っていたことがわかった

と書いていた。

 

冗談じゃない!

彼らは、戦争終結を遅らせた指導者たちによる最も愚かな作戦命令により殺された哀しい犠牲者に過ぎない。

悪あがきを続けた果てに、首都大空襲や原爆などの壊滅的な被害を受けてやっと為政者は負けを認めた。

国民は二度とこんな目にはあいたくないと、起草された平和憲法を喜んで受け入れたのだ。

そのときの思い、

戦争なんていやだ!

もう家族を戦争で失うのはまっぴらだ!

殺すのも殺されるのも二度とごめんだ!

この記憶がまだ国民の中に細々とあるから、今の日本はかろうじて平和なのだ。

決して特攻隊員の死によって平和が生まれたのではない。

 

私は、そのようなことを感想ノートに一生懸命書いてきたつもりだが、

この空気の中では、犬の遠吠えのようなものかも・・・。

 

歴史の真実がどこかで捻じ曲げられて伝わっている。

いや、故意に伝えられているのかもしれない。

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南九州へ

2008-09-05 | 
まだまだ佐世保は暑いのに、さらに暑そうな南九州へ小旅行。。

まず目指したのは、宮崎県は「えびの高原」。



ここが日本で最初の国立公園だったとは知らなかった。。
暑い日差しの中にも、爽やかな秋の気配を感じられ・・・来てよかった!!





この高原に、コバルトブルー色の美しい池があった。
「不動池」という。
火山の影響で池の水が強い酸性をおびていること、また池の周りや底が砂地であることからこのような青色の池が生まれたと書いてある。

そうだ。
ここは、鹿児島との県境、すぐ隣は霧島温泉。えびの高原も霧島山系の裾野にあたるんだった。ということは、霧島火山帯の中に入ってるんだ。
遠い昔、中学生の頃、修学旅行で訪れた場所。そんなことも聞いたっけナ。



その霧島へ向かった。
ある雑誌で見つけた「丸尾自然探勝路」を歩きたくて、その入口を探すが、なかなか見つからなかった。
やっと尋ねあて中に入ってみると、意外とアップダウンの激しい山道である。
あちこちにここに生息している動植物についての案内板があり、
また狭いながらも石段が整備され、きっと以前はハイキングコースとしてよく利用されたのではないだろうか。
今では、途中から道も定かではなくなっているし、別れ道には標識もないし、訪れる人は少ないようだ。
実際、誰一人出会うことはなかった。





探勝路を出て再び車に乗り向かったのは、「丸尾の滝」
写真ではわかるはずもないが、これは珍しい湯の滝。
20mの高さから温泉水が流れ落ちている。





もう少し時間の余裕があったので、霧島神宮にも足を延ばした。
神話に登場するニニギノミコトやコノハナサクヤヒメを祀っている神社で、
なんと6世紀に創建されたというから、1400年もの歴史を誇っている。

それに比べると神木はまだまだ若いと言うべきか・・・それでも、樹齢800年の大樹は貫禄充分。35mの高さであった。

平日にもかかわらず、参拝者はずいぶん多い。
観光バスが何台も並んでいた。
その団体客のほとんどが高齢者だった。
坂本竜馬とおりょうの等身大看板の前で写真撮影を頼まれ、シャッターを押した。

どちらから来られたのか訊くと、「タケハラよ」と言われた。
「タケハラ?」鹿児島県内か近県の地名だろうか、ピンとこない。
「広島の竹原よ。毒ガスで有名じゃろ?知らんの?」
「ああ、戦時中の日本軍の?大久野島の?」「ほうよ!」

毒ガスの話はききたかったが、バスの時間が迫っていたようなので
すぐに別れた。

あの女性たちにとって、タケハラは、全国に通じる地名なのだろう。
そのように信じるに足る経験を重ねてこられたのだろう。
私自身の不勉強は恥じながらも、それは少し嬉しいことであった。




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音訳ボランティア

2008-09-04 | 雑感

久しぶりに「憲法」に関する話をきいた。

それは、「音訳ボランティア養成講座説明会」でのこと。

「音訳」とは、視覚障害者への情報提供のために、点字ではなく音声で訳すことをいう。つまり、本や新聞や広報などあらゆる文字情報を、声で録音し、テープやCDに吹き込む作業をするのである。

長崎県視覚障害者情報センターのセンター長さんは、自発性・無償性・守秘義務等、ボランティアの心構えを説かれた後で、身体障害者福祉法について話された。

その第三条には、次のように書かれている。

国及び地方公共団体は、前条に規定する理念(すべて身体障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられるものとする)が実現できるように配慮して、身体障害者の自立と社会経済活動への参加を促進するための援助と必要な保護を総合的に実施するように努めなければならない。

条文をゆっくり読み上げ、「この条項は、憲法25条を受けて存在しているのです」と言われた。

そうだった!あの生存権をうたった25条は、国民に健康で文化的な最低限度の生活をする権利を与えただけでなく、その第2項で、国に対し社会福祉や社会保障の「向上及び増進に努めなければならない」と命じていたのだ。

だから、視覚障害者が健常者と同様に情報を得る権利が守られるよう、国や地方公共団体がそのための施設を設置したり、講習を開いたりするのは憲法に則った行為なのだ。

また、この人間らしい生活を営む権利は「すべての国民」に与えられているので、当然すべての障害者にも与えられるべきものなのだ。

私たち多数派(健常者)は、どうしても少数派(障害者)のことを忘れがちである。その不自由さや願いをことさら考えることもなく、日常を過ごしている。

この身体障害者福祉法第3条の第2項では、行政だけでなく、国民にもその努力を求めている。

「国民は、社会連帯の理念に基づき、身体障害者がその障害を克服し、社会経済活動に参加しようとする努力に対し、協力するよう努めなければならない」と。

正直なところ、私はこのような考え方を知らなかった。障害者の福祉環境を整えるのは国や地方公共団体、また、教育現場や医療関係者など専門家の仕事だと思っていた。かつて、肢体不自由児教育を学び、特殊学級や養護学校でのわずかな経験を持つ身としては本当に恥ずべきことだが、「目から鱗」の思いだった。

どこまでやれるかわからないが、これまでの反省もこめて、この音訳ボランティア養成講座に応募しようと決めた。

そして、昨日がその開講式だった。

受講者は先週の説明会のときより人数が半減していた。

でも、少数精鋭?というか、読み聞かせなどの朗読経験豊富な人、司会業に携わっていた人、リトミック教室指導者などなど音読が得意な方々ばかり。講師やこれらの仲間の方々に教えてもらいながら、焦らず少しずつ学んでいきたいと思う。

                       

 

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市長日記

2008-09-03 | 佐世保・長崎
佐世保市民と市政をつなぐ情報誌「広報させぼ」
の9月号の「市長日記」を読んで、驚いた。




「外国艦船への給油活動のため出航する」海上自衛隊艦船の見送り式で、
艦上に整列した隊員が帽子を振り、桟橋の家族や見送り人が手やハンカチを振る
その光景は「何とも言えない感動的な場面」だったというのだ。

また、わたしたち国民は、「国のため、世界平和のために頑張っておられる」自衛官やその家族の人々の存在を「心のどこかに留めておきたいものだ」とも。

なんだか、戦時中に出征兵士を送り出す映画のシーンが目に浮かぶ。

お国のために頑張っておられる兵隊さんのことを思えば、
「ほしがりません、勝つまでは」なんて標語もあったそうだが…。
そういうものも連想させるような市長のお言葉。

広報にこのような内容って、有り?!
市長さんが個人的にどのような見解を持たれてもいいし、
何にどのように感動されても、それはけっこうだけど…。

違憲かどうか問われているような「海外での給油活動」を是とし、
しかもその油は、原油高に喘ぐ国民の血税を使って、米国から法外な値で買い取ったものであり、それをインド洋まで出かけて米艦船に無償でお届けすることが、
「国のため」になっているという市長の主観を市民に押し付けていいはずがない。

本当の平和を願って活動していたNGOの若者の命が犠牲になったのは、
アメリカをはじめとする海外の軍隊が存在することへの抵抗だと言われてるのに、
その軍隊への給油活動が「世界平和のため」だなんて、私は思えない。

そんなふうに感じる市民の存在は全く無視した日記形式の発言であり、
その記事を掲載した広報編集者の見識も疑う。

私も自衛官の方々のご無事を願っている。
だからこそ、彼らを乗せた補給艦も護衛艦もUターンさせてほしい。
彼らの力と技と使命感を発揮できる場所は他にある。










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