佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

特攻隊員 林市造 その3

2008-09-30 | 平和

注文していた本『日なり楯なり』(特攻隊員林市造遺稿集:加賀博子編)が届いた。

 

 加賀博子さんは、市造さんの実のお姉さんで、彼と同じクリスチャンである。

 

 だからというわけではない。

湯川先生の「ある遺書」を読めば読むほど、また、北海道大学石川明人氏の「クリスチャンの特攻隊員:林市造の手記を読む」を読むとなおさら、全文が読みたくなった。

加賀博子さんの編著では、日記も手紙も全文そのまま紹介されているようで、私は特に日記を読んでみたいと思っていたので、この本を取り寄せることにした。

 

思いのほか、日記は短かった。

1月9日から3月21日までおよそ2か月半。そのうち、日付が記されているのは21日分で、中には日付と天気だけなどというのもあり、実際に文章が書き込まれた日記は、正味19日分であった。

 

 初日、1月9日の書き出しは次のような文で始まっている。

 

 珍しくも新しき手帳貰えるに依り、日記をはじむ。

 

そして、最後の3月21日は、

 

のこされし時間は少なくとも私は私自身一個の精神となって死んで行きたい。

 

そして、改行し、

 

私は

 

で終わっている。

この後の空白の部分にどういう気持ちが込められていたのか、また単に時間がきて打ち切ったのか、今の私にはどうともわからない。

 

この最初と最後の文をみてもわかるように、日記の文章は「母への手紙」とはずいぶん違った硬い印象を与える。

 

「母への手紙」は、もちろん口語体で書かれているための柔らかさのせいもあるが、そればかりではない。

「母チャン」と呼びかけたり、「…ですね。」「…でしたよ。」などの文末が多用され、一見女性の手紙のような優しい雰囲気が感じられる。

また、

「お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です」「お母さんは偉い人ですね」「私もまだ母チャンに甘えたかったのです」

など、当時23歳の男性にしてはずいぶん子どもっぽいなあという印象を、私は持ってしまっていた。

もちろん、それだけ純粋な精神の持ち主だという感動も覚えたのだが。

 

ところが、日記のほうは、全く違った印象を与える。

文語体で書かれ、文章は簡潔で、内容は深く内省的である。

どちらも林市造さんの人間性を表すものだと思うが、今は特に日記の方を注目してみたい。

 

この日記が書き始められたのは、真冬の朝鮮、元山にてである。

天候のこと、体調のこと、(天候のせいか)飛行訓練ができないことや戦場に出れないことへの焦り、友人たちの近況などがとりとめもなく書き綴られていたのが、2月22日を境に一変している。

全体を読んでみて、それがはっきりわかった。

と同時に、それは彼の苦悩を身近に感じることでもあった。

 

2月22日

私達は大君のまけのまにまにと云う言葉の通りに行けばよい。

私達は死場所を与えられたるものである。

新しく編成せられたる分隊の下、私達は突っ込めばよい。

人間は忘却する術を有する動物である。

 

特攻隊に編入された日、この4行だけが記されていた。

 

翌23日の日記は長い。思いのたけを綴っている気がする。

その中で特に印象的な箇所を抜粋すると、

 

2月23日

私達の命日は遅くとも三月一杯中になるらしい。

死があんなに恐ろしかったのに、私達は既に与えられてしまった。

私は英雄でもなく、偉丈夫でもない。凡人である身には世のきづなと絶たれることが、耐えられなくなってくる。

中略

母が私をたよりにして、私一人を望みにして二十年の生活を戦ってきたことを考えると

中略

私は私の生命の惜しさが、思われてならない。

中略

母の悲しみのいやされることが、あるべき筈がない。

戦死であっても子を失ったということに変わりはないのであるから。

 

というふうに、死を宣告された者の苦しい心情を正直に吐露している。

が、一方で、同じ日付の中にこのような記述も見られる。

 

私にとっては、死は心残りのすることであっても、行くべき道であり、私の心は敵船めがけての突っ込みには、満身の闘志に燃やされるに違いない。

世の人にほめられる嬉しさもある。

中略

私は国の美しさを知っている。

中略

この国が汚い奴らにふみにじられるということは私にはたまらない。

私は一死を以て、やはりどうしても敵を打たねばやりきれない。

 

このように、愛国の思いが自らの命をも惜しまないとする心境も書かれている。

学校でも軍隊でもそのように教育されたであろうし、また社会全体がそのような風潮の中で、このような観念に囚われていたのは、ごく自然なことだっただろう。

 

ただ、クリスチャンとしての彼は、「大君」のために死ぬことには多少の疑問があったのではないか?この日の日記の最後のほうに、このように書いている。

 

大君の辺に死ぬ願いは正直の所まだ私の心からのものとはいいがたい。

だが大君の辺に死ぬことは私に定められたことである。

 

 この日記を、彼は「焼き捨ててください」と母への手紙の中で頼んでいる。

 

お母さんが見られてもいやですね。お母さんだけなら仕方ないですが、こればかりは他人には絶対に見せないで下さい。必ずやきすてて人に見せないで下さい。

 

と念を押しているのに、母まつえさんの死後、姉の博子さんは公表した。

それは、市造さんの「私が世の中に石を投じたい願望」という言葉に突き動かされたようである。

「この日記こそ市造さんの天路歴程であるように思われてなりません」と。

コメント (4)
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