貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

鹿島市鹿島神宮③芭蕉・一茶の句碑と大鯰の碑と巌!

2024-04-25 11:11:10 | 日記
令和6年4月25日(木)
鹿島市鹿島神宮③

 そこに(要石)、
三つ目の芭蕉句碑がある。
<芭蕉句碑>

 句は、        
「枯枝に 
  鴉(あ)のとまりけり 
     穐の暮」。            
 近くに、一茶の句碑もある。
<一茶の句碑>

 句は、
 「大地震に    
   ひくともせぬや     
       松の花」
 傘をさしていたが、
雨具を着なかったので、
びしょ濡れとなる。        
 またとない思い出の参詣となる。
<大鯰の碑>
  
 ○○小十周年の時、
子どもらの手紙をつけた風船を
飛ばす。
 それが木に引っかかっているのを、
○○のお爺ちゃんとお婆ちゃんが
お祭の後、見つけられ返信あり。
 そのご縁で手紙などの交流が続く。
 子どもたちが中学三年生の時に、
○○に招待され、神宮で面通し。
 千葉の新聞でも話題となり、
最近まで文通をしていた。
 やはり思い出深い人たちと場所!
<さざれ石の巌>

 何でも、
「細(さざれ)石(いし)」が
「巌」になるように、積み上げ、
積み重ねによって花開くことは
間違いなし。  
 生きる歓びは、そこにあるかな。


鹿島市鹿島神宮②芭蕉句碑二つと要石!

2024-04-24 11:05:19 | 日記
令和6年4月24日(水)
鹿島市鹿島神宮②
 朱塗りの楼門の近くに
芭蕉句碑があり。
<芭蕉句碑その1>

 句は、   
「名月や 
   鶴脛高き        
     遠干潟」 。 

 二つ目の芭蕉の句は、  
「此枩(このまつ)の      
   實ばへせし代や       
     神の秋」。  
<奥参道>

 奥の参道は、
土砂降りの影響で、
小川と化せり。
 高い所を選んで歩く。       
 奥宮参拝。
<奥宮>

 脇を通って「要(かなめ)石」
まで行く。 
<要石>
 
 鹿島神宮の要石は、
大鯰(なまず)の頭、
香取神宮の要石は
尾を押さえているとか、
両者の石は地中で繋がり、
地震を鎮めているとされている。
<要石の説明>

 ただ、記紀には
要石の記載はなく、
要石が一般に広く知られるように
なったのは、
安政の大地震(1855)の頃。  
~つづく。

鹿島市: 鹿島神宮①土砂降りの中参詣 名月どころではなし!

2024-04-23 10:12:23 | 日記
令和6年4月23日(火)
鹿島市: 鹿島神宮              
 松戸の泉養寺に寄るが、
7時開門という。
 駐車場で出会った若い僧侶は
挨拶もせず仏頂面。
 和顔のない僧侶は初めて。
 閉門は閉心に通ず?
  待っている時間ももったいない
のと雨模様なので、予定を変え、
鹿島神宮へ直行。
 東関東自動車道はほとんど
土砂降り。
 時々小雨になるが、
鹿島神宮に着いたらまた土砂降り。
 それでも結婚の儀式や
赤ちゃんのお宮参り、
一般の参詣者も多い。
 御朱印を依頼し、参詣。
<社殿>

 鹿島神宮は、
日本建国・武道の神様である
「武(たけ)甕(みか)槌(づち)大神」を
御祭神とする、
神武天皇元年創建の由緒ある神社。   
 古代には朝廷から蝦夷の平定神
として、また藤原氏から氏神として
崇敬される。
 その神威は中世に武家の世に
移って以後も続き、
歴代の武家政権からは武神として
崇敬される。
 現在も武道では篤く信仰される
神社。 全国にある鹿島神社の総本社。
 千葉県香取市の香取神宮、
茨城県神栖市の息栖神社とともに
東国三社の一社。   
 朱塗りの楼門の近くに
<朱塗りの楼門>

芭蕉句碑があり。
~つづく。



市川市行徳: 法 善 寺 「潮の華も浦の春」!

2024-04-22 10:25:57 | 日記
令和6年4月22日(月)
市川市行徳: 法 善 寺       
 3時に目が覚める。
 ゆったり準備し、
3時55分に出発。
 中央高速・首都高速銀座線を
すいすい。
 首都高速はカーブも多く、
今回初めて一車線が狭く、
ちょっと怖いなという印象を
持つ。
 5時過ぎに法善寺近辺に到着。 
 寺町でいくつもお寺がある。
 法善寺の表示もなく、
一方通行の道が多し。
 一巡りする。

 車を停め、
歩いて法善寺を探すと
駐車場の看板があり。
<山門>

 日曜日の早朝ということもあり、
寺内は新たな静寂に包まれている。
 本寺は、
小田原征伐後に江戸城に入城した
徳川家康を喜ばせた行徳の塩田。
 領内一番の宝として、
江戸時代行徳は天領として
保護される。
<本堂>

 塩場寺の別名のある法善寺は、
関西から「塩焼」の製法を伝えた
河本弥左衛門により建立。
 行徳浦安三十三所観音札所
第14番札所。

 境内の庭には四万十川の巨石と、
豊臣秀吉が京都聚楽第に集めた
ものと同じ石が配されており、
四季折々の花木が彩を添えている。
 古刹!
<会館もあり>

 芭蕉句碑は松の木の下にあり。

<芭蕉句碑>

 句は、 
「うたがふな 
  潮(うしお)の華も 
     浦の春」


希からのより道 Ⅵ  蕉 道 : 鹿 島 詣の体験!

2024-04-21 10:26:57 | 日記
令和6年4月21日(日)
古希からのより道 Ⅵ  蕉 道 :   鹿 島 詣         
 ☆☆☆     
「夏衣 
  いまだ虱を 
   とりつくさず」
 『野ざらし紀行』を締め括った
芭蕉の句である。
 巻頭の暗い句との差を
指摘したのは、ドナルド・キーンさん。
 「旅の苦労を言っているが、
句の調子は、一目瞭然明るいもの
である。」と。
 そう言われれば
そんな感じがしないでもない。
 江戸に帰着したのは、
貞享2年(1685)4月末である。
 鹿島の根(こん)本(ぽん)寺の
仏頂和尚の誘いに応じたのが
その2年後で、
これが鹿島詣。
 『野ざらし紀行』は
江戸の大火で庵を焼かれ、
無常の念を抱く決死の
旅立ちである。  
 しかし、
鹿島詣は、心に余裕のある
風流な旅といえる。
 同行者は、
曾良と住職の宗波で、
両人とも門弟。
<鹿島神宮前参道にあり>

 さて、
「月を見にいらっしゃい。」
と誘いの手紙を送った仏頂和尚。
 寺領を鹿島神宮側に奪われ、
それを取り返すべく江戸寺社奉行
に訴え、訴訟審議の9年間、
深川の臨川寺を住まいとしている。
 臨川寺で開かれる句会だけでなく、
芭蕉が仏頂和尚からいろいろ
教わったようだ。
 貞享4年(1687)8月14日、
鹿島へ向かう。 
 芭蕉庵の門前は小名木川に
通じる水路。  
 船で港町行徳(現市川市)まで
行き、布佐(我孫子市)まで徒歩。
 そして布佐より利根川を
船で佐原へ。
 水郷を船で潮来へ出、
また船で大船津に出て、
目的地の鹿島へ。
 3分の2は水路の船旅。
 さて、
月見だが、芭蕉は生涯に月の句を
60句ほど詠んでいる。
 さてさて、芭蕉は、
中秋の名月を拝むという幸運に
恵まれるのだろうか。
 私は息子が柏市にいるので、
息子の所に行く用もあり、
陸路での鹿島詣をし、
二つの用を足すことにする。