令和5年10月22日(日)
名古屋市: 法 持 寺
<山門>
天長年間、
空海が熱田神宮に参籠した際に
日本武尊を敬い、
延命地蔵菩薩像を彫って
小祠を建立したのが始まり。
白鳥陵の宝物を護持する寺
白鳥陵の宝物を護持する寺
である事から草創期は
「宝持寺」と称している。
宝徳元年(1449)、
宝徳元年(1449)、
あるいは文明年間(1469 - 1486年)に
圓通寺2世明谷義光によって
曹洞宗の寺院として再興され、
承応年間(1652 - 1654年)に
現在の寺号である法持寺に改称。
<本殿>
古くは熱田神宮大宮司・
千秋氏の菩提所でもあったと伝わる。
戦国時代、
織田信長が桶狭間の戦いに向かう
途中立ち寄り、必勝祈願をして
いる。
宝暦7年 (1757) の大火で
寺院の建物全てを焼失するも復興。
その繁栄の様子は
『尾張名所図会』にも描かれている。
かつては塔頭10ヶ院を数えたが、
後に3ヶ院を残して廃絶。
残った3ヶ院は末寺となる。
現在、末寺は先の3院を
含めて23ヶ寺。
<由緒>
大相撲との関わりは、
昭和32年(1957)から30年間、
名古屋場所の際の三保ヶ関部屋
の宿舎として使用されたことによる。
<山門のすりこぎ>
<すりこぎ(相撲の鉄砲柱)の説明>
境内には
横綱北の湖の石碑や土俵の跡
などが残っている。
<北の湖が横綱になった時、母親へ!>
<横綱北の湖の挨拶碑と横綱像>
また、
日本相撲協会第9代理事長に、
48歳で就任したその記念の挨拶が
碑文として残してある。
私が、一所を任されたのも、48歳。
法持寺には多くの俳人が立ち寄り
句会が催されたようだ。
~つづく。