令和4年1月2日(日)
城下町金沢に着いたのは、
元禄二年七月十五日。
この地には七月二十四日まで滞在。
最初の夜は、薬種業の宮竹屋の
最初の夜は、薬種業の宮竹屋の
経営する宿屋に泊まった。
そこに、金沢の俳人たちが集まり、
芭蕉が会いたいと思っていた一笑が
去年十二月に死去の由を伝えられる。
翌日は、宮竹屋の本家に招待されて、
翌日は、宮竹屋の本家に招待されて、
俳人たちが大勢(人数不明)長旅の末に
現れた芭蕉をねぎらい、挨拶をした。
芭蕉接待の中心にいたのは、
芭蕉接待の中心にいたのは、
小春と名乗る宮竹屋の三男であった。
その後も宮竹屋の分家の経営する宿に
泊まることが多かったようだが、
正確な記録はないようである。
金沢の場合、豪華な宴席が多く、
金沢の場合、豪華な宴席が多く、
連句を巻くことはなかったようだ。
金沢に滞在して多くの門人・知人
金沢に滞在して多くの門人・知人
との交友があったことが、
『曽良日記』には記されてあるが、
日々に誰が同宿したか、
あるいは誰の接待を受けたかについては、
あまり具体的な記述がない。
人の名前やと地名も耳で聞いた
だけの場合、誤記がままにある。
また、後世の研究によって、
判明した新事実がある反面、
創作上句会が開かれ、
芭蕉も『おくのほそ道』以外の句を
詠んだことになっている偽作も
流通していたようだ。