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かわなかのぶひろ『映画術の創始者 D・W・グリフィス』その1

2019-04-04 18:46:00 | ノンジャンル
 国立映画アーカイブが発行した「NFCニュースレター第47号」に掲載されていた、かわなかのぶひろさんによる『映画術の創始者 D・W・グリフィス』を全文転載させていただこうと思います。

 少年時代、夢中になって見た『鞍馬天狗』で、窮地に陥った杉作を救出するために馬を駆る鞍馬天狗の雄姿と、悪人に追いつめられる杉作が、交互に描かれるシーン。「急げ、急げ!」「早く、早く!」と悲鳴に似た声援が駆けめぐり場内は興奮のるつぼと化したものである。幼い少年達が固唾を呑むあの瞬間、“ラスト・ミニッツ・レスキュー”がクロス・カッティングと呼ばれる映画ならではの表現手法によるものであり、その創始者がグリフィスであることなど、少年時代のぼくには知る由もなかった。
 この手法は1909年『淋しい別荘』(The Lonely Villa)で編み出されたとされる。
 土壇場の救出が成功すると、当時の映画館は安堵の吐息に満たされた。期せずして割れんばかりの拍手が湧いたものである。
 後年、映画を学ぶようになってから足しげく通うようになったフィルムセンターで、あれはシネマテーク・フランセーズから大量のフランス映画が届いた「日仏交換映画祭」のときだったろうか。アベル・ガンスの『鉄路の白薔薇』(1922年)に出会い、クロス・カッティングのスピードが次第に速まってしまいにはほとんどコマ単位のフラッシュになってしまうという大胆な試みにふれたときも、当時はこれがグリフィスから発しているとは思いもよらなかった。
 映画がまだカメラの前の出来事や寸劇をまるごと活写するほかなかった時代に、その可能性を追求し、さまざまな工夫を凝らして、独自の芸術表現に高めたグリフィスの功績はあまねく知るところである。また、メアリー・ピックフォードやリリアン・ギッシュなどハリウッドを代表するスターを育てたことも、ジョン・フォードが『国民の創生』(1915年)のエキストラに参加していたことや、エリッヒ・フォン・シュトロハイムが同作品に出演後、助監督となったことも、マック・セネットがグリフィスの側近として映画を学んでいたことも、そしてチャップリン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードらと組んでユナイテッド・アーティスツ社を創設したことも、ちょっと古い映画ファンなら誰もが知っているだろう。またその作品の影響は「映画人はすべてグリフィスの影響下にある」といったフランソワ・トリュフォーの言葉を引くまでもなく、エイゼンシュテインをはじめあらゆる映画監督に及んでいる。アメリカで映画を学ぶ学生は、その第一ページをグリフィスからスタートするほどである。
 けれども日本でグリフィスの監督作品が公開されることは滅多にない。
 ぼくが『国民の創生』や『イントレランス』(1916年)に出会えたのは1960年代の後半だった。ドナルド・リチー氏所蔵の8mmによる上映が最初にあたる。フィルムセンターでは1989年3月から4月にかけて「D・W・グリフィスとその時代」と題して26本の作品が公開され、同年、東京、名古屋、大阪で『イントレランス』がオーケストラつきでイベント公開されたりしてはいるけれど、その程度にすぎない。
 今回特集上映されるのは、短篇25本、長篇5本の都合30本である。グリフィスというと『国民の創生』と『イントレランス』が代表作であるが、今回のプログラムにはこの2作品は含まれていない。しかし、技術的にも完成された超大作の派手な側面に目を奪われることなく、最初期の短篇からじっくりと鑑賞できるこのプログラミングはなかなかもって絶妙である。そこではまさに映画を映画たらしめる基本的な言葉、グリフィスいうところの「ユニバーサルな言語」の創生に立ちあうことができるのだ。あたかもひとつの国の国語がつくられてゆく過程をみるように…。(明日へ続きます……)