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斎藤美奈子さんのコラム・その36&山口二郎さんのコラム・その21

2019-04-02 18:21:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている山口二郎さんのコラム。

 まず、3月27日に掲載された「残念な最終号」と題された斎藤さんのコラム。全文を転載させていただくと、
「昨年十二月に『週刊文春』が報じたフォトジャーナリスト・広河隆一氏の性暴力。その検証を謳う『DAYS JAPAN』(広河氏は同誌の元発行人兼編集長)の最終号が発売された。
 中間報告とはいえ検証とは名ばかりの内容だった。第一部『検証委員会報告』は広河氏の釈明とそれに対する検証委の冗長な論評。第二部『性暴力を考える』は識者が語る性暴力論。被害者の証言もなく、事実を黙認してきた疑いのある会社の責任にも言及せず、広河氏がどんな行為に及んだかさえ明示しない。見事なはぐらかし方だ。
 予想はしていた。徹底調査を要求した従来の編集スタッフを現場から外し(これ自体パワハラだけど)この号は外注で制作された。会社の意向だ。急遽(きゅうきょ)仕事を請け負った検証委、第二部の責任者、発言者には気の毒だが、結果的には彼らも事実の隠蔽に手を貸してしまっている。被害者の声に耳を傾けず、内情を知る社員を排除して、どんな検証ができるのか。
 創刊の年から十五年、私は同誌にコラムを連載してきた。その最終回は辛うじて掲載されたが、往年のDAYSらしさはカケラもなく、雑誌の抜け殻を見るようだ。
 わずかな救いは元社員らが『DAYS元スタッフの会』を発足させたことだろう。当事者目線で証言を集めるというこの会に、今は希望を託すしかない。」

 また、3月24日に掲載された「引き際」と題された山口さんのコラム。
「イチローという選手の躍動を見続けてこられたのは、この時代の野球ファンにとっての幸せだった。しかし、この超人も年には勝てない。思ったように球を打ち返せないことへのいら立ちや焦りもあったのではないかと想像するが、実に淡々とした引き際だった。いかにもイチローらしいと感心した。
 個人でも、国という単位でも、自分自身を正確に認識することは難しい。特に、過去に栄光の時代を経験し、誇らしい思いをした人ほど、過去の残像にしがみつくものである。日本というまとまりで振り返れば、人口減少時代に入り、経済成長をけん引した産業の多くも消えていった。残念ながら、衰弱の局面である。もちろん、国が廃業するわけにはいかないので、課題を乗り越え、後世に文明を引き継がなければならない。
 そのためにも的確な自己認識が必要である。折しも、現役の厚労省官僚がソウルで泥酔し、暴言を吐くという情けない事件が起こった。エリートにあるまじき愚行である。
 衰退の入り口で、現実を否認して夜郎自大の国民になるのか、現状を受け入れて成熟、賢慮を発揮する国民になるのか、今は分かれ道である。日本人が、他者を見下すことによってしか自分の存在意義を見つけられないような、情けない国民になってはならない。」

 そして3月31日に掲載された「戦いは続く」と題された山口さんのコラム。
「本紙の望月衣塑子記者と新聞労連委員長の南彰氏が著した『安倍政治100のファクトチェック』(集英社新書)を読むと、安倍政権の下でどれだけの虚偽、捏造(ねつぞう)、犯罪行為が横行してきたか、改めて教えられる。日ごろ政治を観察している私でさえ、二、三年前のことについては記憶が薄れてしまう。でたらめの日常化こそ、安倍政治の権力維持のための高等戦略である。
 権力者の嘘に慣らされてはならない。権力者による沖縄の人々や原発事故被災者に対するいじめや冷酷非情な仕打ちに対する憤りを絶やしてはならない。すべての人の尊厳と権利が保証される社会を実現することを諦めてはならない。憲法十二条で言う通り、自由や権利は我々自身の不断の努力によって保持しなければならないのである。
 十二年に及ぶ私のコラムも、今回が最後となった。途中、己の言説の無力さに意気阻喪することもしばしばあったが、読者の皆さんの励ましのおかげで今日まで書き続けることができた。心よりお礼申し上げたい。
 筆を置くに当たって、今の政治の劣化状況がとめどなく続きそうなことは心残りである。しかし、民主主義を求める戦いは永久運動である。これからも様々な機会で、いろいろな方法を通して、読者の皆さんとこの戦いを続けていきたいと念願している。」

 今回もどれも読みごたえ十分の文章でした。