”ばっきん”のブログ

日常生活中心のブログです。
平成28年9月から妻と息子、母の4人で暮らしています。

雇用の場を無くしたの誰なのか?

2010年01月07日 13時26分05秒 | 政治
ここでは高邁な理論を述べるつもりはないし、そんな力も僕にはない。
ただ、「働く」という意味を考えさせる小さい頃の記憶があるのでここで紹介したい。
昔は、一般の家庭でも商店から商品を届けてもらうという習慣があった。
それは、今でも市内に存在する小売店なのだが、配達員にAさんという人を使っていた。
このAさん、仕事はまじめなのだが知的にやや劣っているところがあって、たとえば、配達品を届けるときは届けるだけ、注文を聞きに来るときは注文をとるだけ、集金するときは集金するだけしかできない人だった。
普通、頼まれていた商品を届けた際に、次の注文があるかを聞き、ついでに以前に納品したものの集金を同時にやれるのが当然なのだが、Aさんにはそれができなかった。
だが、雇い主はこのAさんを雇用し続けていたのだ。
お客さんも、それを知ってかあまり多くを望まない、いわば温かい目でAさんに接していた。
そういうことが許された時代だったのである。
これは、今風のサービスを提供という考えの中では推し量ることのできないことであり、いつしか社会は、失敗なくて当たり前を要求する時代になってしまった。
つまり、Aさんのような人を雇用することを許さなくなったのだ。
弱者を雇用から締め出す社会は、やがて成果第一主義に陥るようになり、高度成長時代に日本の社会は、総上昇志向に飲み込まれる。
今、派遣切りなどで仕事を無くしている人たちも根源では、そうした風潮の真っ只中にいた人が多いと思う。
ただ、システムとしての日本の雇用環境があまりに無策だったのと、多くの利益を少ない人間が独占するのではなく、少ない利益を多くの人が享受するといった慈悲的共存の精神が失われたからだろう。
おいしいものは一人で食べようという貧困な精神が、そのおいしいものをつくる人の生活を破壊し、結局自分も食べられなくなった。
技術力が高い日本の産業が行き詰まりを見せているのは、実はグローバリズムの波に乗れなかったのではなく、自らを滅ぼす因を自らがしてしまったということ。
結局、雇用の場を無くしたのはわれわれ自身の貧困な精神だったのかもしれない。
社会は、究極のワークシェアリングを要求しているが、皮肉にもそれが生活保護にとって代わり、やがて全ての人々の意欲をも減退させる。
日本は明らかに滅亡の一途をたどっているといえるだろう。
Aさんはもうこの世にはいない。
いい時代を生きれて良かったねと思うばかりである。