美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小浜逸郎氏・原子力規制委員会は日本のエネルギー行政のガン(2) (イザ!ブログ 2013・5・24 掲載)

2013年12月15日 01時41分52秒 | 小浜逸郎
今回はまず、前述した「科学カルト教」的な判断に特化した意思決定が、なぜ権威の衣をまとうことができるのかについて、少し広い観点から考えてみます。

つづいて、原子力規制委という権力組織のメンバー構成に対する疑問点、首のすげ替えは不可能なのか、などについて述べます。

最後に、そもそも日本のこれからのエネルギー行政にとって、原発に対してどういう姿勢を堅持することが必要なのかについて述べます。なお、この点はすでに当ブログへの投稿で論じています(*1)が、最も大事な問題なので、もう一度繰り返したいと思います。

規制委のすがっている「科学的根拠」なるもののいい加減さは、活断層問題だけに限定されるわけではありません。

すでに当ブログのご主人・美津島明氏が放射線被害に関するLNT仮説なるもののいかがわしさについて詳しく論じているように(*2)、また2012年8月18日に「チャンネル桜」で放映された「討論・倒論・闘論」で座談会メンバーによってさんざん指摘されているように(*3)、反原発、脱原発側が指摘する甚大な放射線被害の可能性という仮説は、ほとんど実証されていません。

広島・長崎の被害をどう考えているのだ、とか、第五福竜丸事故もあったじゃないかとか、チェルノブイリ事故の放射線によって子どもの甲状腺ガンが激増したとか、みんなまとめて「被害のひどさ」を訴えて福島事故に結びつける向きもありますが、いろいろな資料に当たってみると、どうもそれぞれ状況が違っており、また、調査結果もまちまちで、これらのデータから福島事故の放射線の影響はかくかくであると結論づけるのには、そもそも大きな無理があります。

たとえば、広島の原爆による半径1.2㎞以内の死者の8割は熱と爆風によるものであって、放射線によるものではありません。また後障害についても、もともと被爆集団を対象とした調査では、「集団中に発生する頻度が高い疾病は放射線に起因している可能性が高い」と判断せざるを得ないので、じつのところ放射線との因果関係を確定するのは難しいという記述もあります(*4)。

また、広島、長崎の場合、爆心から2.5㎞から3㎞以内での被ばく線量は、胸のCTスキャン一回の線量とほぼ同じだという報告もあります(*5)。

さらに、チェルノブイリ事故での子どもの甲状腺ガンの多発現象は、放射性ヨウ素に汚染されたミルクを飲んだためだったが、福島の場合、そういう事実はまったくないとも言われていますね。ある統計資料によれば、ベラルーシ国内での0歳から14歳の子どもの甲状腺がんが事故後増えたとされていますが、増えたと言っても、ピーク時で、人口比10万人中わずかに4人です(*6)。

正直なところ、これらの記述がどこまで正しいのかわかりません。あるいは自分に都合のいいところばかり集めていると非難されるかもしれません。しかし、わざわざこういうことを言うのは、逆に、福島事故についての大方の反応があまりに冷静さを欠いており、当時の政府の方針もそうした感情に盲従した結果だとしか思えないからです。そしてその結果、2013年4月の段階で、福島県だけでいまだに15万人の避難者が帰郷できずにいます。規制委の頑迷な方針と決定も、もとはと言えばここに由来しています。感情的なパニックほど、事態を誤らせるものはありません。

上に引いたさまざまな記述に関して、もう少し論点を整理してみましょう。

まず、日本は唯一の被爆国であるために、私たちは放射能とか放射線とか聞いただけでことさら神経質になりやすい傾向があります。しかし、原子爆弾に使われる核物質は、全天然ウラン中0.7%しか存在しないウラン235(これが中性子との衝突によって核分裂を起こす)だけをほぼ100%凝集したもので、原発の燃料とは根本的にその組成が異なります。燃料に使う濃縮ウランと言っても、せいぜいウラン235が3%程度で、残りは核分裂を起こさないウラン238です。原爆の場合は一気に核分裂を起こさせるので、ものすごい熱と爆風と放射線が発生するのですが、それでも爆心から近い距離の放射線による死者は2割にとどまると報告されています。原爆と原発、両者を混同せず、はっきり区別する必要があります。

次に、放射線による後障害について。

これは、チェルノブイリ事故の場合もそうなのですが、調査は被曝集団だけを対象として行われていて、その内部でのガン発生率の上昇が問題とされています。この調査方法は厳密に考えるなら科学的とは言えません。なぜなら、他の被曝していない集団を同じ数だけサンプルとして集めてきて、それとの比較をしたうえで、「異常に高い」という事実を確認するのでなくてはならないはずだからです。そういう調査結果があるのかもしれませんが、私が今回調べた範囲では見つかりませんでした。どなたかご存知の方がいたら教えてください。

さらに厳密を期すなら、仮にそういう事実が確認できたとしても、それは統計的に相関関係があると言えるだけで、放射線とガンとの因果関係が内在的に確かめられたわけではありません。事実、白血病(遺伝子異常による血液のガン)に関しては、ほとんど原因不明だそうです(*7)。おそらく放射線被曝は大きな要因の一つとまでは言えるでしょうが、そのほかに免疫系、遺伝的体質、環境など、いろいろな要因が多元的に絡み合っているものと思われます。

なおまた先の資料4によれば、奇妙なことに、線量反応曲線(被爆によるリスクの度合い)は、2Svから3Svの間でピークになっており、3Sv以上ではむしろ減少しています。

ちなみにこの調査では、被爆者の子どもに関する遺伝的影響(胎児の流早産、死産、胎児・新生児における奇形の発生)は検出されていません。

次に、よく言われているように、私たちは普通に生活していて、世界平均で年間2.4mSvの放射線を浴びています。地域によってはもっとずっと高いところもあります。さらに、胃のX線集団検診を1回受けるだけで0.6mSv、胸のCTスキャンを一回受けるだけで6.9mSvが加わります。これだけで約10mSvですね。先に引いた江尻宏泰氏は、100mSv以下では、明らかな健康被害はないと言い切っています。これは、物理学者の間では誰も疑う人がいない常識です。それなのに福島事故の際の菅直人政権は、避難区域の設定のために20mSv以下でなければだめだと乱暴な規制を敷いてしまいました。こうした過剰な感情的反応が、いまの規制委の強引な方針にまでずっと後を引いているわけです。

私たちは、なぜこんなに、「科学」と称するカルト宗教にころりとやられるほど神経質になってしまったのでしょうか。根拠があやふやなのに、その筋から数字を提示されると、すわたいへんと慌ててしまう。思い起こしてみれば、こと原発問題に限らず、日常生活でも私たちは、自分の自然な感覚、五感や身体感覚を信じることができず、数字情報や間接的な言語情報にとても反応しやすくなっていますね。健康診断の検査数値、美容やアンチ・エイジング広告、株価の動き、マスコミが流すちょっとした犯罪情報、等々。

これは、ひとことで言うなら、社会がやたら複雑になって、情報の無原則な洪水に見舞われているために、だれもが何を軸にものを考えてよいのかわからなくなっている事態だと言えましょう。気移り、目移りばかりしていて、自分の行動を自分なりの規範でコントロールできなくなっている。

こういう恒常的な不安状態にある現代人の心にとって、数字のような一見確実らしいものがたまたまそこにあると、全体を見渡す視野を失ってすぐにそれに飛びついて信仰してしまう。不確実性の感覚が切実なものとしてあるからこそ、手近な「確実性」にすがろうとする。

「科学、科学」と、ありがたい念仏のように唱えながら、自分たちの意図に反する相手が同じ念仏を唱えていると、それは非科学的だ(つまり異端邪宗だ)と、けんめいになって否定しようとする。話はますます細かいオタク的なところに入り込んでゆく。なんだか虚しいですね。病気です。愚かしいとは思いながら、私自身もけっして例外ではありません。

規制委もこの現代「科学」病にかかっているのですが、同情ばかりはしていられません。なぜなら、最後にことを決めるのは、往々にして理不尽なプロセスによって獲得された政治権力だからです。重い病人に天下国家の重大事を任せるわけにはいかない。

それでは、規制委のメンバー構成を見てみましょう。

委員長   田中俊一  東北大学工学博士。元日本原子力学会会長。専門は放射線物 理学。
委員長代理 島崎邦彦  東京大学名誉教授。元日本地震学会会長。専門は地質学、地 震学。
委員    大島賢三  元国連日本政府代表部特命全権大使。外交官。
委員    中村佳代子 元日本アイソトープ協会主査。専門は放射線医学。
委員    更田豊志  元日本原子力研究開発機構 安全研究センター副センター長  専門は原子力基礎工学。

これだけ見たのでは、正直なところ、委員会の性格がよくわかりませんね。いくつか重要なポイントと思われる点を補足しておきます。

規制委は、環境省の外局として設置され、事務局として480人からなる原子力規制庁をもちます。規制庁の職員全員には、少なくとも5年間は出身省庁に戻ることを許さないノーリターン・ルールが適用されます。

また、規制委員の任期は5年ですが、最初の委員のうち、2人は2年、残りの2人は3年となっています。委員長及び委員の資格としては、心身の状態などについての欠格事由のほか、次のような厳しい条件が付けられています(*8)。

【欠格事由】

①原子力事業者及びその団体の役員、従業者
②就任前直近3年間に、原子力事業者及びその団体の役員、従業者等であった者
③就任前直近3年間に、同一の原子力事業者から、個人として一定額以上の報酬等を受領していた者

【任命に際して情報公開を求める事項】

①個人の研究および所属する研究室棟に対する原子力事業者からの寄付について、寄付者及び寄付金額(就任前直近3年間)
②所属する研究室等を卒業した学生が就職した原子力事業者等の名称及び就職者数(就任前直近3年間)

なお、委員長及び委員は、首相が任命して国会の同意を必要としますが、首相その他政府関係者には罷免権が認められておりません。

これらは、いずれも原子力機関の安全性を確実なものとするためにいかに時々の政治や行政や事業者の意向に左右されない独立性・中立性を担保するかという発想から考えられたルールです。日銀法下の総裁、審議委員人事、独禁法下の公正取引委員会人事によく似ていますが、それらよりもずっと厳しい条件がつけられています。

こんなに厳しくすると、ただでさえ原子力行政の現実感覚をよく持たないオタク学者だけが集まってしまうのではないかと危惧されますが、むしろそれ以上に懸念されるのは、委員はいわば看板にすぎなくて、行政手腕などほとんど持たず、実質的な方向性は事務局の規制庁が握っているのではないかという点です。たとえば今回の活断層調査団の人事などは、島崎委員長代理ひとりの意向によるものではなく、おおむねここが決めたのではないでしょうか。

私は4年間、横浜市の教育委員を務めた経験がありますが、その経験をそのままスライドして解釈するわけにはいかないにしても、概して、事務局の判断や方向性に根本的な異議を唱えたり、それらを大きく覆すようなことはできませんでした。

ところで、現在の規制委員長および委員がどういう経緯で決まったのかを振り返ってみましょう。

2012年7月に野田佳彦首相(当時)が国会に提示しましたが、当時民主党政権は統制がとれず、この人事に関しても党内に反対論が強くありました。なぜ民主党内の反対が強かったかというと、輿石氏、仙谷氏ら党内サヨク陣営が、事前に人事案が報道機関などに漏れたら国会で同意しないというヘンなルールにこだわったからです。このヘンなルールは、このたびの日銀総裁人事でもまだわだかまっていましたね。政権が交代して本当によかったと思います。

それはともかく、野田首相は、9月になっても党内統一が図れないことに業を煮やしたのか、緊急事態宣言発令中の例外措置として、国会の同意を得ずに一方的に任命してしまいました。9月と言えば民主党内はひっちゃかめっちゃか、もはや政権政党の体をなしていないと言ってもよく、2か月後に野田首相のヤケクソ解散宣言に至ったことは、みなさんの記憶に新しいところです。

で、いまの規制委のメンバーは、国会の同意を得ないまま決まってしまったので、ようやく2013年の2月15日に事後承認されたというわけです。

いまのメンバーが適切かどうかは別としても、これって、手続き上すごくまずいですよね。まあ、いずれにしても、もし安倍安定政権が続けば、2年ないし3年で人事を刷新することは可能です。しかしその時期が来るまでは、安倍政権のエネルギー政策理念と完全にねじれているいまのメンバーの承認事項をそのまま受け入れていくほかはない。すると、活断層問題で次々に原発関連機関(六ヶ所再処理工場まで!)を停止に追い込むような現在の流れ(ムード)は、まことに困ったことだと言えます。

以下は、現在の規制委員長、委員に対する私の印象批評です。

じつは私は、規制委員たち個人をやり玉に挙げて、あいつ(たとえば島崎氏)がガンだ、あいつの首をすげ替えろ、と声高に主張するつもりはあまりないのです。私の得た印象では、むしろ彼らの多くが学者オタクであり、自分の専門分野ではそこそこ誠実な人たちだと思っています。しかし、その政治的な力量のなさこそがじつは問題なので、彼らはそもそも、日本のエネルギー行政の全体にとってどういう方向に踏み出していくことがいま要請されているか、という総合的な視点をもち、それを実行に移せるような人たちではないのですね。

たとえば田中委員長。彼は人事が内定した時にサヨク団体や原発事故関連団体から、「除染マニア」「賠償に対してコストダウンばかりを考えている原子力ムラの利権屋」などとさんざん叩かれたものです。しかし彼は、先に引いた江尻氏と同様、「100mSv以下では人体に害がない」という物理学界での常識を披瀝してきたごくまっとうな人です。「放射線による実害よりも、被曝を恐れる心的なストレスのほうが大きい」と、正当なことも主張してきました。

しかし事故対策の責任者という立場に着いたので、政策として打ち出された20mSvという線を守らなければならず、賠償請求団体などの際限のない非科学的な要求に対して一応の抵抗を示したのです。ところがそれが、ヒステリー集団の竜巻によって、原子力ムラと癒着したコストダウン主張者と受け取られて押しまくられ、だんだんと気弱になってしまったようです。動画で記者会見や委員会の模様などを見ると、もともと押しが弱く訥弁で、失言してはならぬと気を配るあまり、会見では何を言いたいのかよくわかりません。委員会では下を向いて規制庁の作文を読み上げてばかり。お飾りのような印象です。不向きな役割を引き受けてかわいそうですね。

次に島崎委員長代理。この人は活断層調査団の代表ですから、原発推進派からはいま最も悪者視されていますが、この人も別に自説を通して権力を行使してやろうというような野望の持ち主とは思えず、印象はとても繊細な学者タイプです。自分に割り当てられた役割を誠実な学者としてオタク的に果たそうとしているだけという感じがします。だからこそ問題なのですね。

大島委員。外交官で、幼少時に広島での被爆体験があり、その関係で国際機関で核問題にかかわった経緯があります。おそらくその縁で抜擢されたのでしょう。外交畑という、科学者ではない民間人的な立場からの自由な発言が期待されたのでしょうが、なんだかてんで影が薄く、どういう識見を持っているのか、存在感が感じられません。

中村委員。この人もただの放射線医学専門オタクでしょう。やはり影が薄い。

更田委員。日本原子力研究開発機構の前身である日本原子力研究所を25年間歩んできた人で、おそらく田中委員長の弟子筋でしょう。この人も原子力行政に関してどういう主張をもっているのか、よくわかりません。

このように、委員全員が、これからのエネルギー安全保障行政に対して、はっきりとしたポリシーや総合的な視点を持たず――だからこそ選ばれたのでしょうが――、福島事故が呼び起した放射線に対するヒステリックな恐怖と不安を「専門的見地」からどう根拠づけるかという観点にのみ籠絡されてしまっています。

もともとこうした独立委員会の役割と使命は、情緒的な恐怖や不安にただ迎合するのではなく、安全に原発を運営していくにはどうすればよいかという問いに現実的・実証的なヒントを提供していくところにあるはずです。それなのに実態は、反原発、脱原発の一方的なムードに席巻されて、限定的な専門知をもっぱらその方向に利用されている体たらくです。この世にあり得ない「絶対安全」という空想的なお札に金縛りになっているのですね。

このことが、活断層理論による敦賀、東通原発への廃炉勧告、もんじゅの廃炉勧告、六ケ所再処理工場の稼働停止勧告など、暴走としか思えない方針の打ち出しになって現われているのだと思われます。

ですから、問題の要点は、規制委員たち個人に責を帰するところにあるのではありません。規制委員会設置法に書かれたような、純粋理想主義的な資格条件のあまりの厳しさ、それを杓子定規に適用すると、どうしてもほとんど現実感覚を持たないオタク学者が集まってしまうという難点、そしてこういう条件を許している福島事故以来の原発に対するアレルギー的な空気、これらをどう見直し、改善してゆくか、というところにあります。

この稿の最後に、では、これからの日本のエネルギー行政にとって、どういう視点を踏まえておくことが不可欠か、その要点を述べます。

福島事故は、放射能汚染が心配されてきましたが、現状では死者はおろか一人の汚染患者も確認されていません。もちろん、放射性セシウムの半減期は30年ほどであり、また今後、事故当時の内部被曝によるガンなどの障害が発生する確率がゼロとは言えません。さらに、汚染された土壌や海水による被害が発生する可能性も否定できないでしょう。

しかし、放射性ヨウ素の半減期はとっくに過ぎており、この被害の可能性はほぼゼロです。また半減期が長ければ長いほど一回に浴びる線量は少なくなるというのは常識であり、したがってセシウムによる被害もほとんど考えなくてよいはずです。いまだにメディアで報道されている線量数値も、ずっと前から問題ないレベルにまで下がっていますね。ガンの発生が確認されるのには時間がかかりますが、この因果関係もそれほど確実には実証されていないということはすでに述べました。ですから、まず、根拠のないパニックを続けるのはもうやめましょう。

次に、これからの日本のエネルギー政策にとって、さまざまな形での発電スタイルをバランスよく確保しておかなくてはならないことは自明です。これまでわが国では、内外のさまざまな事情から、一つのエネルギー資源に特化しない多様な電力資源構成を取ってきました。現在、原発がほとんど停止しているために、火力(石油、石炭、天然ガス)が占める割合が9割に近くなっています。

それぞれのスタイルには利点と難点があります。

ダム建設などによる大水力は、大規模な公共事業と環境破壊に対する批判・反発が大きいため、今後発展させていくのは難しいでしょう。

石油、天然ガスは、産出国の政治的事情があるため、供給の不安定が懸念されます。アメリカのシェールガスも、いろいろと問題が多いようです。

石炭は、産出国が多くあり、日本との外交関係が良好な国もありますので、これを伸ばしていくことは有望ですが、環境汚染が心配されます。しかし、CO₂などの排出量を減らし、かなり利用率も高い火力技術の実用化が進んでおり、今後期待できそうです。

原発はごく少量の資源を輸入すれば賄うことができ、産出国も多様で、しかも日本には高度な技術の蓄積があります。供給が安定しており、発電コストも廉価です。難点は言うまでもありませんが、福島事故の教訓を生かして、より安全な発電技術の研究開発が進行中です。これをやめてしまうことは、火力への過度の依存をもたらし(現にいまそうなっています)、資源獲得問題、外交問題、発電コスト問題、環境汚染問題など、多くの難問を抱えることになります。

再生可能エネルギー(太陽光、風力、中小水力など)は、クリーンで資源が無尽蔵であるため、今後大いに期待されますが、供給の不安定、発電コストが高いこと、立地の問題(太陽光の場合、広大な土地が必要。風力の場合、大規模な開発が必要な割には、適地が限られ、あまり大きな電力が望めない。健康によくないという説もある)などが解決されておらず、適切なシェアを占めるには相当の時間がかかりそうです。

メタンハイドレートもまだまだ研究段階です。

いずれにしても、これらの新エネルギーを少しでも実用性のあるものに導くためには、何よりも経済を活性化しなくてはならず、それを果たすためには、電力の余裕ある安定供給が不可欠の課題です。その意味でも、感情的な不安、恐怖だけから、いますぐ原発廃炉などというバカな方針を打ち出してはなりません。オタク的な専門家の視野の狭い「科学」的提言を盲信するのではなく、適切な安全管理を確保した上で、できるところから原発を再稼動すべきなのです。

安倍首相はすでに世界各国を回り、日本が誇る高度な原発技術の輸出に踏み出しています。新興国、発展途上国は、喉から手が出るほどこの技術をほしがっています。原子力規制委員会のみなさん、そういう事情でありながら、本国ではやめちゃうの? 事業主体の原燃をつぶして、これまで膨大な出資をしてきた電力会社を引き揚げさせるの? 原発推進勢力がどこにもなくなって、優秀な研究者がいなくなったらどうするの? 「絶対安全」などという空想に耽らず、少しはそういうことを考えて物事を判断してください。それができないのなら、不適格を自覚して、役目を降りてください。

先に引いた江尻宏泰氏の本の巻末には、2012年4月段階での著者自身の述懐と、彼の友人であるユーリッヒ中央研究所のO・シュルツ教授が震災1か月後に彼に送った手紙が掲載されています。一部を引用してこの稿を終わります。

(江尻氏の述懐)現在の放射線は、いわきでは1時間当たり1マイクロシーベルト(引用者注――年間8.8ミリシーベルト)くらいで、これが数カ月続いても全然問題ありません。原発も時間が経って冷えれば、放射能もそのうち減るでしょう。いまの程度なら空気の済んだいわきにとどまり、平常の活動を続けるのがいちばんだと思います。
(シュルツ教授の手紙)私たち物理学者は、放射線のことをよくわかっているから問題ありませんが、一般の方々は恐れています。政府はていねいに説明する必要があり、政府が神経質になっているだけでは、問題の解決になりません。

 いま私たちは、「こうすれば絶対安全で、危険はなく、永遠に生きられる」ということはありえない、ということも認めるべきです。

 世の中には色々な危険があります。ドイツでは交通事故で、毎年5千人くらいが犠牲になっています。ただし、テレビで大々的に報道されることはありません。原子力発電所の場合、トイレが一寸故障しても、原発事故としてニュースになります。危険については、観念的でかたよった考えでなく、バランスのとれた適正な考えをもつことが大事です



【参考資料】

*1:http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3003112/
*2:mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3045655/
mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3046585/ 
mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3049512/  
*3:mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3067302/
*4:www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php
*5:www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/15e.html
*6:ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%AA%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E4%BA%8B%E6%95%85
*7:ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%A1%80%E7%97%85
*8:www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/info/120703/guideline.pdf
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小浜逸郎氏・原子力規制委員会は日本のエネルギー行政のガン(1) (イザ!ブログ 2013・5・20 掲載)

2013年12月15日 01時22分53秒 | 小浜逸郎
この2カ月ほど原子力規制委員会(以下、規制委と略記)は、7月に予定されている安全基準づくりを前にして、たたみかけるように自分たちの思い通りの方針や要請を打ち出しています。これが何を意味しているか、本ブログの読者のみなさんには大方お分かりと思いますが、このかさにかかった態度と信じがたい視野狭窄ぶり、横暴な権力行使には腹に据えかねるところがあると感じられるため、この問題について私見を述べます。ここで取り上げる規制委の方針は以下の三つです。

①3月下旬、12月に施行する予定の再処理施設の新規制基準に適合しないかぎり、青森県六ケ所村の再処理(プルサーマル計画)工場の稼働を認めない方針を突然表明した。
②5月13日、福井県敦賀市の高速増殖炉原型炉「もんじゅ」の運転再開を当面認めない勧告を出すことを決定した。
③ 翌14日、福井県敦賀原発2号機直下にある破砕帯が「活断層」であるとする報告書をまとめ、専門家会合でこの内容が正当なものであると正式に決定した。


これらがすべて単純な反原発、脱原発の思想にもとづく方針であることは明らかですが、ひとつひとつにはそれぞれもう少し詳しく検討してみなくてはならない事情がまとわりついています。

まず①。

六ケ所再処理工場はもともと1997年完成予定でしたが、ガラス固化過程その他でトラブルが相次いだため、完成が延び延びになり、ようやく稼動目前にまでこぎつけ、現在アクティブ試運転中でした。

プルサーマル計画は、原発の使用済み燃料として残るウランとプルトニウムを混合したMOX燃料を再利用することによって、二次的に発電エネルギーを取り出し、同時に放射性核として危険度の高いプルトニウムの処分先に利用できるという発想のリサイクル計画です。まったく問題がないわけではありませんが、基本的に一石二鳥のアイデアだと言えるでしょう。世界では、1963年から運用が開始され、フランス、ドイツ、アメリカ、ベルギー、スイスなど9か国で実施されてきました。2007年までにMOX燃料集合体の装荷数6018体(57基)を処理してきた実績があります。日本でもすでに2,009年からいくつかの原発で営業運転が実施されてきました。しかし福島事故が生み出した情緒効果により休止され、現在は運転再開のめどが立っていません。

そのなかで、六ケ所再処理工場は、普通の原発と異なり、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターなどが併設され、さらにMOX燃料工場の建設も予定されており、はじめから核燃料サイクルのコンビナートとして計画されたものです。これまで膨大な費用をかけてきた事情もあり、この施設を正常に稼働させることは、事業主体の日本原燃にとっていわば悲願と言ってもいいわけです。最大処理能力はウラン800t/年、使用済み燃料貯蔵容量はウラン3000t。

現在、全国の原発が大飯を除きすべて停止していますが、停止しているからといって、これまで蓄積されてきた使用済み燃料が消え去るわけではありません。放射性廃棄物の処分先を確保してきちんと処分することは、まさに喫緊の課題です。したがって、六ケ所再処理工場の稼働は、この窮状を少しでも解決に導くための最大の手段なのです。

それにもかかわらず規制委は、法的な根拠も示さないままいきなり稼動ストップをかけました。いったい何を考えているのでしょうね。原発関係は何でも止めればいいという超ヒステリックな判断としか思えません。危険性のある廃棄物処理に真剣な熱意を示すことこそ、安全管理に責任をもつ独立機関の最大の務めではありませんか。

次の記事をお読みください。

原燃によると、稼働が認められなくても、燃料貯蔵プールの機能維持や安全確保のために、年1100億円の経費が必要という。

特に差し迫った問題は、燃料貯蔵プールの現在量が2937トンで、満杯に近いことだ。今年度は志賀原発(石川県)と伊方原発(愛媛県)から計約13トンが搬入される予定で、当面プールの容量を超えないが、26年度に60トン、27年度には320トンの搬入予定があり、稼働が遅れると計画の見直しを余儀なくされる
。(産経新聞5月4日付)

さてここでプルトニウム再処理問題にかかわるので少し脱線。毎度おなじみ、朝日新聞のバカ社説をご紹介しましょう。

東京電力がフランスで保管していたプルトニウムを、ドイツが英国に持つ同量のプルトニウムと交換した。原発事故で行き場がなくなっていたプルトニウムをドイツに使ってもらうことで、国際的な減量に貢献する。さらなる圧縮も期待できる新しい試みである。こうした国際連携の活用に、政府が中心となって取り組むべきだ。(中略)

再利用の手段だった高速増殖炉計画は破綻し、普通の原子炉で使う道も原発事故で不透明になった。使うあてのないプルトニウムをどう処理するのか。各国の懸念に、日本は早急に答える必要がある。(中略)

昨年夏には、英独仏の3者で同様の交換を実施してもいる。こうした取り組みを、日本自身のプルトニウム削減にも結びつけたい。例えば、今回の契約にかかわった英国の原子力廃止措置機関(NDA)は11年末、他国のプルトニウムを引き取って英国で管理してもいいとする案を打ち出した。実際に所有権を移すとなれば課題はあるものの、日本のプルトニウムを少しでも早く減らすための有力な選択肢となる。(中略)

米韓の間で2年の延長が決まった原子力協定でも、「自国での再処理や濃縮」を求める韓国を米国が拒否した。日本に注がれる目も、厳しさを増していることを忘れてはならない
。(5月4日付)

なんとまあ救いようのないひどい議論でしょう。論旨めちゃくちゃ、エゴ丸出しの公共心ゼロ、欧米コンプレックス100%。これが日本の「一流紙」(!?)を気取る新聞の「一流論説委員」(!?)が書いた文章だってさ。

まず行き場のなくなったプルトニウムをドイツに使ってもらうなら、ドイツはそのために再処理工場を稼働させるのでしょう。英国が他国のプルトニウムを引き取って管理してもいいとする案を打ち出したのなら、英国も自国なりの仕方で再処理施設をフル稼働させなくてはならないでしょう。それを日本も見習って「各国の懸念に、日本は早急に答える必要があ」り、しかも高速増殖炉が破綻していることを認めるなら、日本の再処理工場を稼働させる以外にどんな方法があるのですか。しかもそういう連携に参加するなら、他国のプルトニウムを大量に引き受ける覚悟がなくてはなりませんね。どうして「日本のプルトニウムを少しでも早く減らすための有力な選択肢となる」のですか。これってすごく身勝手な論理ですね。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」自国の安全保障をおろそかにしてきたどこかの国の風潮とまったく同じ発想です。

第二に朝日新聞は、脱原発、反原発一本槍の言論を張ってきましたが、それとこの提案とはどう矛盾なくつながるのか。朝日新聞は、このたびの規制委の六ケ所再処理工場に対する無謀な要請に賛成なのか、反対なのか、そういう具体的問題については口を拭って一切触れず、きれいごとを言って済ませています。朝日論説委員さん、「一流」(ホントは五流)の言論人として、政治家や官僚を追及するときにあなた方が好んで使う「説明責任」とやらをきっちり果たしてくださいね。全然期待してないけど(笑)。

第三に、「米韓の間で2年の延長が決まった原子力協定で、自国での再処理や濃縮を求める韓国を米国が拒否した」のは、アメリカが、ナショナリズムでカッカしがちな韓国の核武装を警戒しているからで、実際その懸念はかなり現実的です。では日本には、蓄積した使用済み燃料のウランとプルトニウムを核武装に利用するような動きが中央政治に具体的にありますか。六ケ所再処理工場の運用を実施寸前まで進めることができたのも、そんなことにしてはならないという内外の力が有効に働いてきたからこそでしょう。そしてそういう国際的な信頼があるからこそ、この計画が容認されているのでしょう。なんで「日本に注がれる目も、厳しさを増していることを忘れてはならない」などと自虐的なことをのたまうのか。論理の飛躍もいい加減にしてください。

第四にこの論調には明らかに、欧米がやることならなんでも正しいという相変わらずの欧米信仰が見え見えですね。欧州諸国は地理的にたいへん近いしEUという統合機構もあるので、こういう交換ゲームもわりとたやすくできますが、日本と欧米のプルトニウムを相互に交換するとなったら、その場合の輸送リスクはどう解決するのですか。両地域の間には、剣呑な国々、テロリストたちがひしめいていることをまさかお忘れではないでしょうな。要するに、根強い欧米信仰のために目が曇らされて、交換ゲームをどう実現させるのかという現実問題に全く頭が及ばなくなっているのですね。

②高速増殖炉「もんじゅ」の運転再開停止勧告の問題に移りましょう。

この問題については、三つの点に注意する必要があります。

第一に、規制委には、本来、原子力事業者に直接事業の停止を命令する権限はないという点です。原子力規制委員会設置法のどこを読んでもそういう権限があるという規定はありません。この点に多少ともかかわるのは、第四条2項の次の規定でしょうが、これが事業者への命令の権限ではないことは明白です。

原子力規制委員会は、その所掌事務を遂行するため必要があると認めるときは、関係行政機関の長に対し、原子力利用における安全の確保に関する事項について勧告し、及びその勧告に基づいてとった措置について報告を求めることができる。

つまり、新聞記事には「命令」と書かれていますが、本当は「行政機関の長に対する勧告」なのです。もちろん規制委の人たちがそれを知らないはずはない。しかし彼らは自分たちの威力を十分知っているので、事実上「事業者に対する命令」と同じ効果を持っていることを存分に利用しているわけです。

この事情は、先の広島高裁が出した、昨年の衆院選を違憲・無効とする判決と似ていますね。違憲・無効判決が出たからと言って、国会がこれに従う法的義務はありません。ただ、「一票の格差」問題についての司法の裁定が国民や政治家に与える重みという感覚的な効果をねらったものにすぎないのです(なおこの問題については、月刊誌『Voice』6月号の拙稿を参照していただければさいわいです)。

第二に、「もんじゅ」の場合、事業主体である日本原子力開発機構(JAEA)が一万点近い機器の点検を怠っていたという事実がある点です。

この点に関しては事業者側には弁解の余地がありませんね。こういうずさんな組織に国民の生命の安全を任せるなんてとんでもないことだ、と思うのが人情でしょう。私自身もそう思います。JAEAはただちに組織体質や安全管理面での抜本的な改革を推進すべきです。

しかしそういう組織上安全管理上の課題と、ハードとしての高速増殖炉それ自体をつぶせばよいかどうかとは別問題です。反原発派は、鬼の首でも取ったように「ざまあみろ」と思っているでしょうが、両問題は分けて考えるべきです。例によって朝日新聞は、5月14日の社説で「国は一日も早くサイクル政策を捨て、もんじゅの廃炉を決めるべきだ」などと息巻いていますが、どうしてこういう感情的なことを平気で口走るのでしょうね。頭のレベルがじつに低い。

サイクル政策をすべて捨てて、現にある使用済み燃料の処理をどうするのですか。ドイツやフランスに全部押しつけるのですか。火力に過度に依存して、資源獲得競争激化の真っただ中におかれたら、日本はエネルギーの安全保障が維持できるのですか。もし「一日も早く」再生可能エネルギーによる電力供給が賄えるとでもいうなら、朝日さん、そのやり方をぜひ教えてください。

もちろん、組織問題、安全管理問題がきちんと解決するまで、当分の間、「もんじゅ」の稼働(かつても実験炉としてのみ稼働していた)は、見合わせなくてはなりません。ですがこれを機会に高速増殖炉実用化への可能性を捨ててしまえばよいのかと言えば、それは違います。この点が第三点目です。

私は、高速増殖炉の実用可能性を捨ててはいけないという趣旨の文章をすでにこの美津島さんのブログに投稿しました(http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3003123/)。この原稿は月刊誌『正論』6月号にも掲載されましたが、ここで、もう一度、その重要性について述べておきます。

高速増殖炉は、中性子の運動速度を速めることによって、ウラニウム238に効率よく吸収されるようにし、プルトニウム239を核燃料として取り出せるようにする装置です。現在冷却材等に問題があることは事実ですが、これらの技術的な諸問題が解決されれば、天然ウラン60%が利用可能となるので100倍近い利用率が達成できます。原理的には可能なはずですから、エネルギー安全保障の観点からは研究開発の火を絶やさないことがぜひとも必要なのです。大阪大学名誉教授、チェコ工科大学客員教授の江尻宏泰氏は次のように書いています。

(高速増殖炉は)現在、種々の技術試験中であるが、地道な研究開発が最重要な課題だ。安全で安定した動作が可能になれば、エネルギー源として有望である。(『ビックリするほど原子力と放射線がわかる本』サイエンス・アイ新書)

要するに、なべて人間社会の物事は、冷静で地道な努力と、ある視点だけに特化せず常に全体を見渡す洞察力との組み合わせによって進んでいくのであって、大騒ぎしてただ反対、反対などと叫んでいるだけでは、何も生まれてこないということです。

③福井県敦賀原発2号機直下にある破砕帯が「活断層」であるとする専門家調査団の報告書を規制委が了承した件に移りましょう。

調査団の報告書によれば、2号機直下の破砕帯D-1の延長上にK断層が存在します。このK断層が9.5万年前に形成されたとみられる地層に変位を与えており、かつK断層の近くを走る活断層の「浦底断層」と連動して動いた形跡があるので、活断層と判断したというのですね。なお規制委は13万~12万年前よりも新しい時代に動いた断層を「活断層」と定義しています。しかし素人考えで見ても、この断定には三つの疑問が残ります

一つは、ついこの間まで規制委は、活断層の定義を40万年前としていたのに、いつの間に13~12万年前と、その定義を緩めたのでしょう。私はその時点を確かめることができませんでしたが、いずれにしても、地質学を唯一の判断根拠にして調査を進める人たちがこんなにあっさりと判断基準を変えるということは、現在の水準では、何年前以降に生じた断層が活断層であるかどうかについて定説がないことを示していますね。そんなあやふやなレベルの学問にだけ頼って判断を下してよいのでしょうか。

第二に調査箇所は2号機直下から300mも離れています。たしかにD-1破砕帯はその調査箇所付近まで延びているようですが、その延長とK断層とが一致するとどうして断定できるのでしょうか。仮に一致していたとしても、それだけで2号機が廃炉に値するなどと結論できるでしょうか。

第三に調査報告では、K断層が活断層である「浦底断層」と連動した「形跡がある」と言っています。「形跡がある」というだけで、証拠だと断定してはならないことは、犯罪捜査などの場合は常識ですね。まして10万年も前のただの「形跡」です。この報告がいかに曖昧な根拠しか示せていないかがわかろうというものです。「はじめから結論ありき」が明らかです。

これに対して事業者側の原電は、K断層は活断層ではなく、またD-1破砕帯はK断層の東8メートルにあるG断層と連続しており、G断層は13~12万年前の地層には変位を与えていないので、活断層ではないと主張しています。

さてどちらが正しいのか、どちらも正しくないのか、素人にはわかりませんね。いずれにしてもこの論争は、「自然科学」という名を借りた神学論争で、「風が吹けば桶屋が儲かる」式のマユツバ話という印象が否めません。

くどいようですが、みたび朝日新聞のバカ社説(5月16日付)の一部を引用しておきましょう。「敦賀原発 退場勧告は当たり前だ」と反原発運動団体のチラシみたいにセンセーショナルな見出しがつけられています。

今回の議論の進め方は妥当であり、結論を支持する。とりわけ、有識者会合が過去のしがらみを断ち、これまでの原発の安全審査などにかかわったことのない研究者で構成された点を評価したい。(中略)

原電は有識者会合の結論に納得していない。反論の権利はあるが、覆すだけの科学的根拠がないまま「休炉」を続けるのは、核セキュリティーを含む安全を考えると好ましくない。(中略)

活断層研究はまだ発展途上の学問領域だ。今回は違うが、研究者によって活断層かどうかの判断がわかれることも少なくない。かつて「活断層ではない」と判断されたものが、学問の進展で「活断層」と変わることはあるだろう。


読むだけでゲンナリです。支離滅裂とはこれを言う。

有識者会合の議論の進め方がなぜ妥当なのかと言えば、「これまでの原発の安全審査などにかかわったことのない研究者で構成された」からだというのですね。つまり安全審査の専門家ではない点がかえってよかったのだと言っています。ハナから、安全審査にかかわった専門家はすべて権力と癒着していて利権に結びついているから信用できないと主張していることになります。ここにこの大新聞が、いかにある勢力だけに媚びるポピュリズム・メディアであるか、その腐敗した体質がいかんなく発揮されています。

次に事業者の原電には、覆すだけの科学的根拠がないとエラそうに決めつけています。しかし妥当かどうかはともかく、いま両論併記したように、原電側もそれなりに科学的な分析を提示しています。「科学」の権威を振りかざす相手と同じ土俵で闘うには、「科学」という意匠を用いるほかはないですからね。それを無視しているのは、「科学」を尊重しているはずの朝日さん、あなた自身ですよ。

さらにとんでもないことを言っています。活断層研究がまだ発展途上で、研究者によって判断がわかれることが少なくないと認めておきながら、どうして規制委の調査報告だけを科学的として絶対化するのですか。かつて「活断層ではない」と判断されたものが「活断層だ」と変わることがあるなら、逆に「活断層だ」と判断されたものが「活断層ではない」と判断されることだってあるわけじゃないですか。そうなったとき、一部科学カルト教のいわれなき権威にすがってきた朝日論説委員さん、あなたは自分の言論に責任を取りますか。

これにて朝日に代表される低レベル・サヨク・メディアが、「科学」という葵の印籠を振りかざしながら、じつはイデオロギーのためにそれを利用しているだけで、まともな科学的精神など何も持ち合わせていないことが明瞭になったと思います。

この原稿を書いている最中(5月18日)に、次のようなニュースが飛び込んできました。

原子力規制委員会の専門家調査団は17日、東北電力東通原発(青森県)敷地内断層の評価会合を開き、「耐震設計上考慮すべき活断層である」と断定した報告書案を提示した。ただ断定する根拠が明確ではなく、耐震設計審査指針上の「否定できない限り活断層」とみなす姿勢を貫いたものだ。同じ理屈は敦賀原発(福井県)の報告書でも提示されたが、有識者から「科学的な判断なのか」と疑問の声が上がっている。

さらに立証責任の偏りが結論に影響した。調査団の審議では、事業者側が活断層ではないとする証拠を示す必要がある。事業者側から「説明責任を過剰に転化している」との批判があるが、調査団は「事業者が明確に否定できない限り活断層」との姿勢を崩していない。専門家によると、活断層研究はまだ発展途上の学問領域であり、(中略)「活断層はないとする証明は大変困難だ」と指摘する。

敦賀の報告書に加わった宮内崇裕・千葉大教授は「科学的にということで引き受けたが、それと離れたものを求められた気がした」と苦言。藤本光一郎・東京学芸大准教授も「学術論文には到底書けない」と感想を漏らしていた
。(産経新聞5月18日付)

活断層はないとする証明が大変困難なのは当然のことで、これはちょうど、近代法治国家では、刑事被告人に、犯行を犯していないことを証明する義務がないのと同じです。規制委をはじめとした人権大好きのサヨク人士のみなさん、反原発イデオロギーにもとづいて、活断層がないとする証明をすべての事業者に要求するなら、このあたりの論理的整合性に少しでも思いをいたしてくださいね。

この点については、すでにHCアセットマネジメント社長・森本紀行氏の「非科学的な原子力規制委員会の行動を憂う…不公正を許してはならない」という論文があります(http://blogos.com/article/62257/)。一部引いてみましょう。

……それを考えると規制委員会は、科学の名のもとに何か科学とはまったく次元の異なることを論議していると認識できる。議論されるべき活断層の定義は、地質学という科学の問題ではなくて、あくまでも原子力安全基準との関連におけるものだ。施設の立地を制限するという政策目的に従属した行政の問題、まさに政治の問題なのである。

原子力に限らず安全性の問題は、完全な安全性の証明や保証があり得ない以上、残された微小な危険を総合的な利益考量のなかで国民として受け入れるかどうかという政治決断に帰着する。

規制委員会は、検事兼裁判官のような役割をもつように見える。原子力事業者に「これは活断層だろう」という嫌疑をぶつけ、「反論があるなら、その嫌疑を自分で晴らせ」と言うようなもの。その上で、「反論は不十分だから、嫌疑通りの廃炉という裁きを受けろ」と命じる。そのような構図にみえる。原子力事業者はお白州に土下座させられているようなものであって、お奉行様に嫌疑を持たれたら、もうお終いということだ。


私もこのとおりだと思います。このほかにも規制委は去る2月6日に、沸騰型の原子炉にフィルター付きベント設備の設置を義務づける新安全基準を了承しました。しかしこれは工事が極めて難しく完成には2年かかりますので、国内に26基ある沸騰型の原子炉はすべて再稼働できなくなります。

さらに4月3日、規制委は、放射性物質を多量放出するような原発事故の発生確率を原発一基につき100万年に一回以下に抑えるとする安全目標を定める方針を決めました。これはアメリカが原発を新設するときの目標と同じそうですが、何にせよ、100万年に一回だってさ!

人間の歴史時代が始まってまだ1万年足らずで、しかもここ数百年で文明の発達が驚くべき速度でなされてきたのに、100万年後の人類社会がどうなっているか、予想がつくんですかね。原発技術が500年後にせよ1万年後にせよ、いまのままで続いているわけがないでしょう。まあ、それはある計算上の言い方にすぎないよ、と誰かが言うでしょうが、それにしてもこういうトンデモ数字で私たちの身近な問題であるはずの「安全目標」なるものを表現しようとする、その非現実的感覚って、いったい何なんでしょうね。

以上見てきたように、いまの原子力規制委員会が、あのオウム真理教も真っ青の科学カルト(エセ科学)精神にすっかりやられており、日本のエネルギー行政にとって不可欠である総合的な視野、ある限界内におけるバランスある政治的決断の必要性の認識をまったく持ち合わせていないことがほぼ明らかになったと思います。その正体は、恐怖感情と不安感情だけを根拠に反原発、脱原発イデオロギーを押し通すという意図によってつくられた、非理性的、反国民的な組織ということができるでしょう。



〈コメント〉

Commented by プシケ♂ さん

美津島さん、久しぶりにブログ本体にコメントを失礼します。
小浜さま、初めまして、文章拝読させていただきました。

まさに仰るとおりで、「恐怖感情と不安感情だけを根拠にした反原発、脱原発イデオロギー」ですね、もはや。。
以前、Twitterで美津島さんにはお伝えした感想だったかと思いますが、〈放射能〉に関する問題は、多くの日本国民にとって、被爆国としてかねてから、そして、東日本大震災以後は一層、感情の問題として刷り込まれ、受け止められています。

そうした中で、なにやら権力を批判・否定することだけが趣味というか、人生となっている人種と組織は、どうやらこの反原発に活路を見出そうとしているのでしょう。

これまでは有効だった歴史認識、中韓へのご注進も、国民の外交・安全保障に関心が高まった目下の状況下では効果なし。経済面でも(TPPは綱渡りだと思いますので私は反対ですが)なかなか付け入るスキをみせない。

特に反日マスコミは反原発が最大の武器だという認識で選挙まで国民に「反原発、脱原発イデオロギー」を刷り込むのでしょうね。
  
※目下ネタとしては、橋下氏がかっこうのエサを提供してくれているようですが。 

で、私が考えるのはこれをどう周囲に伝えるか、逆に、伝えないかという点です。
目前であり、大丈夫な感じはしますが、参院選で安倍総理が負けてもらっては困りますので。
(安倍総理が長期的に安定できる環境を手に入れれば、おバカな反原発路線は大軌道修正されるでしょう)

ネットを情報源として認知した人たちはもうよいかと思います(中にはそれによって反原発に目覚めちゃう感覚の方もいるようですが)、自ら信用できると感じた情報源に触れたうえでの考えた結果で行動(投票)するでしょうから。

ただ、少なくともまだ私の周囲では、新聞・テレビニュースは大きな影響を持っていることは確かです。まさか新聞にウソは書いてないだろうという感覚でいますから。ほんとかよ?という感想持ちながらもテレビを情報源にしてます。

そうした人たちからすると、引用された社説などを読み、なんとなく、あくまでなんとなく刷り込まれるのでしょうね。
テレビニュースはさらにその傾向だと思います。

普段は自分の仕事などのことで頭がいっぱい、気分転換も兼ねて、なんとなく新聞、テレビを見る。それ自体は仕方がないです。
そうした人たちにどう伝えればいいのかなと思う昨今です。(こうした人たち能動的に調べたり、考えてみたりはしないようです)

雑感です。そんな雑感を持ちつつ拝読しました。
続編楽しみにしております。
 
追伸:引用された新聞の文章、まじめに読もうとすればするほど意味がわからなくなります。あんな文章で給料もらってていいんですかねと、いつも思います。


Commented by 美津島明 さん
To プシケ♂さん
美津島より。小浜逸郎氏から、プシケさんの上記のコメントについてのご返事をいただきました。次に掲げます。

*****

プシケさんへ commented by kohamaitsuo

ご丁寧なコメント、ありがとうございました。まったくおっしゃる通りと思いま
す。単純でおバカな反権力派って、いつも政治・行政のほころびを狙ってあちこ
ちと「課題」を嗅ぎまわり、弱点と見るや狡猾に勢力拡大を図るのですね。かの
民主党政権はその最大のものでした。政権崩壊後も始末が悪いのは、規制委のよ
うな病巣がそのまま残っていることです。次回に書こうと思っていますが、たと
え安倍安定政権が続いたとしても、特別の欠格事由がない限り、5年任期の委員
たちを罷免することができないんですよ。どうしましょうかね。

それと、プシケさんの言われるとおり、普通の人たちは忙しいですから、何とな
くテレビや新聞に接して、ふうん、そんなものか、とサブリミナル・レベルで刷
り込まれてしまいますね。

そこがまさに、彼ら反日マスコミの付け目でしょう。オピニオンは、朝日の低能
社説のようなもののほうがかえって通りがいいのかもしれません。

96条改正もいまのところ反対派の方が上回っているようです。めげず、粘り強く、それぞれのポジションでできることを続けていくほかはないと思います。「継続は力なり」!


Commented by tiger777 さん

規制委の活断層専門家が暴走しているのは確かであり、先の立川断層調査では人工物を活断層を確認したと誤って発表した教授は「見たいものが見えてしまった」と述べたというお粗末振り。

しかし、このドタバタはこの学者が単にアホだったということで済んでしまい、活断層学者自体の権威が揺るいだ訳ではない。そのため、敦賀原発直下にある破砕帯が活断層かどうか、小浜氏のいう「どちらが正しいのか素人にはわからない。いずれにしてもこの論争は「自然科学」という名を借りた神学論争」に確かになってしまっている。

「活断層研究はまだ発展途上の学問領域だ」といわれると納得してしまいそうだが、本当は発展途上の学問領域は「地震発生原因の研究つまり地震学それ自体」だ、と考えてみるべきではないか。

東日本大震災の地震学者の慌て振りやイタリア地震学者が予知失敗で有罪となってから、地震被害の誇大予測に拍車が掛かっているが、これらの動きに心ある人たちは、なんだか地震学者の連中はおかしいなと感じ始めている。つまり今の地震学って大丈夫なのかと。そう今の地震学そのものがおかしいのだ。

活断層説すら仮説でしかない。地殻の歪みの蓄積と弾性反発という概念も、ゼンマイ時計のようにエネルギーを溜めこむ性質という簡単なアナロジーで地震のエネルギーを説明できるのか?素人にも不思議なことばかりだ。
活断層は地震の原因ではない、としたらどうか。そうなれば、神学論争から降りてまともな議論ができるのではないか。

これらの定説地震学を否定して、地震は地下の爆発によって起こるものだという地震爆発論という説を石田昭氏が提唱している。地震爆発論とは、地震というのは地殻下で水素と酸素に解離した水が爆発を起こす現象、それが地震の爆発的エネルギーになっているのだと。

石田氏は「活断層というのは虚妄の概念。断層は地震の原因ではなく、あくまでも過去の地震の痕跡でしかない。活断層が動くと地震になるという定説論者は原因と結果を取り違えている」と。

この説は定説地震学からみればトンデモ理論のようだが、日本の地震学の流れを発展させたものといえるとのこと。今この説は誰にも認められていないが、現在の地震学を巡る閉塞状況を突破できる力を秘めているのではないか。

Commented by 美津島明 さん
To tiger777さん

小浜逸郎氏に、tiger777さんのコメントをお伝えしたことをご報告いたします。

tiger777さんのコメントのおかげで、石田昭という学者の存在を初めて知りました。活断層地震原因説がまだ仮説の段階にあることもよく分かりました。ありがとうございます。
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「木下恵介生誕100年祭」のお知らせ (イザ!ブログ 2013・5・19 掲載)

2013年12月15日 01時15分30秒 | 映画
*当企画は、すでに終わってしまいましたが、当企画を自分がどう受けとめたのかを確認し記録しておくために削除しないことにしました。



池袋新文芸座で、六月一日(土)から十日(月)までの十日間、「木下恵介生誕100年祭」が実施されることになりました。一日に二本ずつ木下作品が上映されます。トークショーも四回実施される予定です。話者は未定のようです。

木下恵介は、戦中からずっと名も無き庶民の哀歓を描き続けた映像作家です。その諸作品は、大東亜戦争のただなかで生まれ、昭和の歴史とともに歩んだ足跡そのものです。残念なことに、昭和の終焉とともに、その名はどことなく忘れ去られたような印象があります(そのことには、彼が途中からテレビ・ドラマに軸足を移したことが災いしているような気もします)。彼の作品を辿りなおすことは、昭和という激動の時代を、庶民がどのような思いを噛み締めながら生きてきたのかを再認識することでもあります。『二十四の瞳』や『喜びも悲しみも幾歳月』を思い浮かべればわかるとおり、彼はクロニクル物の名手なのです。

個人的には、未見の作品を中心に観てみようかと思っています。今回上映される十九作品のなかで未見のものは、デビュー作の『花咲く港』(1943)、『日本の悲劇』(1953)、『わが恋せし乙女』(1946)、『破れ太鼓』(1949)、『新釈 四谷怪談』(1949)、『お嬢さん乾杯』(1949)、『今年の恋』(1962)の七作品です。特に、『花咲く港』を楽しみにしています。

もしも、このお知らせを目にして気持ちが動いたものの、どの映画を観たらいいか分からずに迷っていらっしゃる方がおありでしたら、私は迷わず『陸軍』(1944)をお薦めします。この作品は、木下恵介が天才的な映像作家であることをあなたに納得させることでしょう。また、当作品の主演の田中絹代が偉大な女優であることも納得なさるのではないかと思われます。『陸軍』については当ブログで以前に触れたことがあるので、そのURLをご紹介しておきます。mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2751026/

当企画のスケジュールや上映作品の内容紹介は、以下のURLでご確認願います。

http://www.shin-bungeiza.com/pdf/0601.pdf
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美津島明   名曲紹介・シェーンベルク「浄夜」  (イザ!ブログ 2013・5・14 掲載)

2013年12月15日 00時45分57秒 | 音楽
このブログではめずらしいことに、クラシック音楽の紹介をしようと思います。私よりはるかにクラシック音楽についての造詣の深い方が、この曲を知らなかったのを意外に思ったのがそのきっかけです。その方が知らないのだから、思いのほか人口に膾炙していないのではなかろうかと考えたのですね。こんな素晴らしい曲がそういう状態なのはちょっと残念なことなので、少しでもより多くの人に知っていただければと思い、ご紹介する次第です。もしかしたら、杞憂にすぎないのかもしれませんけれどね。

シェーンベルク(1874~1951・オーストリア生まれ)といえば、調性を脱した無調音楽の作り手であり、12音技法を創始したことで有名な作曲家・指揮者です。平たくいえば、あの小難しい現代音楽の元祖というわけです。

シェーンベルクについてのそういう一般的なイメージからすれば、この作品のあくまでもリリカルな響きは意外な印象を与えるのではないかと思われます。当作品は、彼の作曲家としてのキャリアのごく初期である1899年に作曲されています。ワーグナーやブルックナーに代表される後期ロマン主義の流れが歴史の表舞台から途絶える直前の、その最後の最も美しい果実の少なくともひとつが当作品なのではないかと思われます。作った人の出自や制作された時期を反映して、ウィーン世紀末の雰囲気が濃厚です。

私がこの作品をはじめて耳にしたのは、大学に入ってすぐのころのことでした。当時ひたすらなるロック青年で、シェーンベルクのシェの字さえ知らなかった私の耳に、この作品の味わい深い音は、魅惑に満ちたものに響きました。なんといいましょうか、その爛熟の極みのような音によって、人生の赤裸々な苦悩や哀歓が彫り深く表現されているような印象を抱いたことを覚えています。大人のドロドロした実人生にどこか憧れるようなところがあったのでしょうね。背伸びしたい盛りのころでしたからね。

この作品について抱いた、私のそういう印象がそれほど的はずれなものでなかったことは後ほど知りました。

当作品は、リヒャルト・デーメル(1863―1920)の詩「Verklärte Nacht」を下地にしています。この詩を法政大学の新田誠悟という方が訳されています。私がインターネットで調べた範囲では当訳がいちばんいい感じなので、それをご紹介します。ただし、その翻訳口調が私にはどうにも障るところがなきにしもあらずなので、そこは私の感覚で直しています。ご容赦のほどを。
http://blog.livedoor.jp/audimax1/archives/50705587.html


浄夜 


冬枯れの森を歩く二人がいる
月がその歩みについてきて、
二人は顔を見合わせる
月は、高い樫の木の上にあり
月夜をさえぎる雲一つない
夜空に木々の黒い影が突き出ている
女の声がする

「お腹の子は、あなたの子ではありません
私はあなたにも迷惑をかけようとしています
私は取り返しのつかない過ちを犯してしてしまいました
自分には幸せというものがあるとは思えませんでした
それでも自分なりの生きがいを見つけ、
母親の喜びや務めを味わってみたかったのです
身の程知らずにも、見知らぬ男に我が身をゆだねました
今思うとぞっとします
私は身ごもり、人生の報いを受けました
そうしてあなたに、あなたに出会ったのです」

女の足取りは重い
見上げると、月がついてくる
女の暗いまなざしが、月明かりに呑まれる
男の声がする

「孕んだ子どもを
心の重荷にするな
ほら、夜空がこんなに輝いているじゃないか
何もかもを包み込む輝きだ
冷たい海を僕とさまよっているが
君の温もりを僕は感じ
君も僕の温もりを感じているだろう
その気持ちがお腹の子を浄めてくれる
どうか僕の子として産んでほしい
君は僕の心を照らしてくれた
もう君のことしか考えられなくなった」

男は身重の腰に手を回す
二人の息が空中で口づけを交わす
二人は澄みきった月明かりの夜を歩く

この詩をお読みいただけば、私のにわか仕立ての解説など不要なほどに、この作品の心がよくお分かりいただけるのではないでしょうか。先ほど、「ウィーン世紀末の雰囲気が濃厚」と申し上げましたけれど、それはあくまでも時代背景です。この作品の核心は、男女のエロスに関わっての倫理的なものをめぐる真摯な懊悩です。そうして、それを踏まえたうえでの人間臭い寛容のもたらす救済感です。退廃的な美に官能を震わせることを自分に許す悦楽的な傾向は、この作品には見いだせません。それをヨシとするか、物足りなく思うかは、それぞれの好みなのでなんとも言えませんけれど、私はそれをヨシとします。そのことが、この作品に文化と時代の違いを超えた、心に訴えかける普遍性を与えているように感じるからです。

なお、1950年に発売された弦楽六重奏版のレコードにシェーンベルク自身が譜例付きの解説を書いています。それを要約すれば、以下のとおりになります。

″第1部(導入部)はニ短調ではじまり、月夜に林の中を歩く男と女を描写している。

第2部の女の告白はヴィオラによって始められるが、明確な形の主題はヴァイオリンによって提示される。この主題が「女がドラマティックな爆発で男に自分の悲劇を告白していく」様子を表わす。チェロとコントラバスが強奏すると、ヴァイオリンが女の「大きな罪への自責の念」を表現する旋律を提示する。

第3部は月夜のなかでの女の不安な心境を描き出す。第3 部の終わりで第2 チェロの変ロ音だけが残る。

第4部の男の告白がニ長調の主題の提示で始まる。このニ長調の感動的な響きは「男の寛大さは彼の愛と同じように崇高である」ことを表わし、女の苦悩を癒す優しさに満ちている。副主題によるヴァイオリンとチェロの二重奏の部分は「男の愛の雰囲気であり、その愛は自然の壮麗さや薄光と調和して悲劇的な状況を無視できる」ことを表現している。

第5部(コーダ)ではそれまでの部分で用いられたモティーフが回想・展開され、ニ長調で曲が静かに閉じられる。″

30分弱の単一楽章です。よろしかったらお聴きください。指揮はピエール・ブーレーズです。


Schoenberg: Verkl�・rte Nacht, Op.4 - Boulez.
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 「団塊の世代の共通点~おもに高学歴・高キャリアの人たちの特徴 (イザ!ブログ 2013・4・30 掲載)

2013年12月15日 00時41分50秒 | 文化
以下は、まあ一種の放談として聞いてください。

私は、世代論的な物の言い方には、これまで一定の距離を置き続けてきたつもりです。しかし、世にいまだにはびこる団塊の世代なるものに通弊があることは、いつのまにか、体験的に否みがたいものになってきました。特に、「高学歴・高キャリアの団塊」ほど、看過しがたい共通点があるように感じられてしかたがありません。それを思いつくままに列挙してみましょう。

(1)相手からマウンティングされまいと身構えて、スキあらば、相手をマウンティングしようとする。ほがらかに、くつろいで話せない。

(2)強引で、アクが強く、傲慢である。さらには、そのことに無自覚で、人によっては自分は謙虚で腰が低いとさえ勝手に思い込んでいる。その思い込みのはなはだしさに、内面的な強引さ、アクの強さ、傲慢さが、ニンニク臭のようににじみだしていることに当人はどうしても気づかない。

(3)権威・権力を嫌うわりには、自分自身、権力志向が強く、権威主義的である。反権力ではあるが、自分は権力になりたい。

(4)他人(ひと)の話を落ち着いて聞こうとしない。自分の意見をとにかく言い通そうとする。聞いている場合は、本当に聞いているのではなくて、勝手に話し手よりも高い位置を頭の中でこしらえて自分をそこに置き、「聞いてやっている」というスタンスを保とうとする。対話によって、自分の意見を変える気など鼻からない。

(5)権威主義的であることとつながるが、自分より上と思っている者には媚びへつらうのに対して、自分より下と思う者に対しては、とにかくキツく当たる。だれにも、そういう傾向は多少なりともあるのかもしれないが、その程度がはなはだしいのである。犬のような習性が抜き難くある。

(6)良く言えば生命力旺盛、悪く言えば鈍感・無神経。

(7)概して、声がでかい。

(8)以上のことについて無自覚なので、自分だけはこれまで私が述べたことと無縁だと思い込んでいる。


もうひとつ、高額の年金やそのほかのあぶく銭をつかんで、「自分は逃げおおせた」という強い思いを抱いている(日本のためには、文字通り、一日でも早く死んだほうがよいですね)。そのうえで、あくまでも「リベラル」を気取りたがる。

また、これは団塊全体の「通弊」というほどのことでもないのであえてリスト・アップから外しますけれど、七〇年ごろにブント派の切り込み隊の一員のようなことをやっていたO氏が、九〇年代の半ば頃、吉本隆明の影響をふんだんに受けていた私を、「美津島さんのような吉本主義者は・・・」と指弾したのに面食らってしまった経験がありました。この世に「吉本主義者」なる言葉があろうとは想像だにしなかったからです。それを真顔で言うO氏の思い詰めたような表情に対して、私は向けるべき言葉がどうしても浮かんできませんでした。団塊の世代のなかには、議論の相手にレッテル貼りをしないと気がすまない方もいらっしゃるのでしょう。

閑話休題。「高学歴・高キャリア」の方々は、なまじっか自分に自信がある分、そのことがかえって悪く作用してしまい、世代的な特徴がゆがんだ形で顕在化しやすいのかもしれません。

なかなか死なない彼らは、これからも生臭い匂いを無自覚に発散しつつ、現役時代と同様に、周囲の人々に迷惑をかけ、負担をかけ続けていくのでしょう。どうですか、周囲を見回して、思い当たる方はいらっしゃいませんか。ひとつ言い忘れていました。もちろん、何事にも例外はあります。団塊の世代のなかにも、そうではない方は(ほんのひとぎりですが)いらっしゃいます。個人的には、その確率は二~三割程度です。

と、一気に書き連ねてはみましたが、「自分は、そういうこととは無縁だ」と私自身が思い込んでしまったら、世代の違いを超えて、彼らと同じ穴のムジナという陥穽に落ち込むことも大いにありえますので、ここまで悪口を言ってしまった以上、心静かに我が身を振り返ってみましょう。

人生の半ばを折り返した中高年は、個人的な運・不運はとりあえず措くとして、周りのひとたちとは、今後なるべく良い感じでお付き合いをしたほうが、その有終に、美を飾る、とまでは言わずとも、少なくともそれを醜で終わらせることを避けるうえで、よろしいのではないかと思われます。死んだとき、周りの人たちから内心ほっとされるのは、いかがなものか、ということです。野暮を承知で大真面目に言ってしまえば、そういう事態を招いてしまうことは、「弔う」という人倫の根本感情を、自ら知らぬうちに少しずつ毀損し続けてきた帰結・集大成という意味合いになってしまうのではないでしょうか。
                                                                                                          (自分のFB記載原稿から転載・改稿しました)


〈コメント〉*FBでのやり取りを転載しておきます。

嶋村 伸夫 :自分も組合理事長も同世代です。つまらないことを、まき散らしていますね。

*自分は団塊の世代だと言っているのでしょう。そうして、一把ひとからげにして論じられるのは不愉快であると。(ブログ主人:注)

美津島明 :どのように受け取られようと、それは、読み手の自由なので「つまらない」と言われても「そうですか」としか申し上げようがありません。ちなみに、これは、読書会の、団塊の世代の複数のメンバーと、普段から、ごく普通に話し合っていることを、知的なことにかかわる人間一般にもありがちなこととして論じている文章です。私自身も、ここで論じた性格類型から免除していない書き方をしていることは、できたらご承知おきください。私は、「自分を戯画化する視点」を非常に大切である、とも思っています。

嶋村 伸夫: 「自分の戯画化」とは興味深い視点ですね。いつか、詳しく聞かせてください。

*いまさらながら思うのですが、これ、「図星」の反応なのじゃないかしら。自分の「まき散らし」にいささかながら自信を持ちました。(2019.03.28)
コメント (1)
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