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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

民主党、またもやらかす!生活保護の外国人 年金保険料免除 (イザ!ブログ 2012・10・23 掲載)

2013年12月01日 18時44分38秒 | 政治
10月20日の「東京新聞」夕刊に掲載された次の記事を見て、私は目を疑いました。

生活保護の外国人 年金保険料を免除 厚労省、国籍差別批判受け

厚生労働省は二十日までに、生活保護を受給している在日外国人の国民年金保険料について、本人が申請すれば自動的に全額免除とする方針を決めた。近く地方自治体に周知する。多くの自治体と日本年金機構の出先機関は従来、日本人と同様に申請なしで一律全額免除となる「法定免除」としてきたが、機構本部が外国人を適用外とする見解をまとめたため「国籍による差別だ」との批判が出ていた。

機構本部の見解は八月十日付。国民年金法によると、法定免除となるのは生活保護法の対象者だが、外国人は日本国民に準じて生活保護を給付しているだけで生活保護法の対象ではないと指摘。法定免除ではなく、申請すれば前年の所得などに応じて免除の割合が決まる「申請免除」で対応する意向を明らかにした。

批判を受け、厚労省は機構本部と協議。見解は変更しないものの、外国人受給者は国民年金法上、全額免除となる「保険料を納付することが著しく困難である場合」に当たると判断したという。

生活保護に詳しい熊本市の外国人支援団体コムスタカの中島真一郎代表は「全額免除なら、保険料を払えずに無年金になることはないとはいえ、本質的な解決ではない。生活保護法の国籍条項を外して、外国人も準用ではなく、日本人と同じ扱いにするべきだ」と強調している。

政府は一九五四年の旧厚生省通知で外国人にも生活保護法を準用。永住者や日本人の配偶者らには、日本人と同じ条件で給付している。


記事のなかの「生活保護を受給している在日外国人」について、3月16日の予算委員会で、自民党の片山さつき議員が、政府に疑問を突きつけました。それは、「生活保護を受けている日本人は、国民の約1.6%。それに対して外国人受給者は、有資格者のうち約5.5%。どうして、外国人の方が日本人よりも保護率が高いのか」というものでした。(http://wpb.shueisha.co.jp/2012/04/17/10958/ )ツイッターで、一時話題沸騰のネタとなったものです。

「日本年金機構の八月十日付の見解」というのが分かりにくいですね。次の記事を読むと、分かりやすくなるでしょう。

日本年金機構が、生活保護を受給している在日外国人について、国民年金保険料が一律全額免除となる「法定免除」の適用外とする見解をまとめたことが16日、分かった。これまで各地で日本人と同様に法定免除としてきた運用を事実上変更し、所得によっては保険料の一部の支払いを求める。人権団体は「国籍による差別だ」と反発している。

機構本部は、年金事務所からの照会に対し、(1)困窮する永住外国人らには日本国民に準じて生活保護を給付しているが、外国人は生活保護法の対象ではない(2)国民年金法上、法定免除となるのは生活保護法の対象者なので、外国人は該当しない―と回答。
http://www.47news.jp/CN/201210/CN2012101601001387.html 2012/10/16 14:00 【共同通信】


日本年金機構の見解が、片山さつき議員の批判的な立場に添ったものであることが分かるでしょう。法治国家にふさわしい筋道の通った見解であるというのが私の見立てです。

ところが記事によれば、「機構の見解は国籍による差別だ」との、「人権団体」による批判・反発が巻き起こり、厚労省はそれを受けて、一転「見解は変更しないものの、外国人受給者は国民年金法上、全額免除となる「保険料を納付することが著しく困難である場合」に当たると判断した」というのです。この、厚労省の判断は、いくら読み返しても意味が分かりません。法治国家にあるまじき、筋道の通らない無原則なものであると言わざるをえません。

一体なにがあったのでしょうか。文中の怪しげな「人権団体」とは一体何なのでしょうか。インターネットをいろいろと検索していくうちに「東京人権啓発企業連絡会」という団体に突き当たりました。

現理事長は永山 勝治という人物のようです。この人物をインターネットでたどっていくと、この団体が解放同盟と深いつながりがあり、同和問題では共闘関係を組んでいることが分かります。朝日新聞とも仲がよろしいようです。

また、この団体のサイト・マップをたどっていくと、次のような、韓国・朝鮮「公認」の歴史観に基づく言葉の数々が綺羅星のごとく散りばめられているのが目に入ってきます。
http://www.jinken-net.com/gozonji/knowledge/

例えば、こんな感じです。

日本が朝鮮を植民地として支配していたことが原因で、現在、日本には約62万5千人の韓国・朝鮮籍住民が居住しています。

朝鮮総督府のこの武断統治において最重要な事業が土地調査事業でした。土地調査事業とは、明治政府がかつて北海道でしたように、朝鮮の多くの土地を国有地にするための政策です。

第二次世界大戦中、日本は朝鮮から70万人とも100万人ともいわれる朝鮮人を強制的に連行し、女子挺身隊や男子報国隊などの名のもとに強制労働に従事させました。

明治政府以来100年を超えて今日にいたるまで、韓国・朝鮮や在日コリアンに対する日本人の蔑視・差別(日本人の優越)意識は根深く、未だに改善の余地が大きいといわざるをえません。


これらは、鄭大均氏や呉善花女史などによってすべて虚偽であることが立証されています。とんでもないデタラメを並べ立てているわけですね。

それはそれとして、このような団体が解放同盟などとタッグを組んで彼らの息のかかった民主党議員を通じて政府を動かそうとしたのではないでしょうか。時期が時期だけに、選挙絡みの生臭い話が交わされたものと思われます。「年金機構の言うことを唯々諾々と呑むようでは、次の選挙では民主党さんを支持できないよ」とかなんとか。この団体がそういう行動に出たことは私には実証できませんが、少なくともそういうやり取りが同種の諸団体と民主党執行部との間であったことは、まず間違いがありません。このような団体の同伴者としての日教組も、ということは輿石幹事長も一肌脱いでいるはずです。

で、政府は慌ててなりふりかまわず選挙の票集めのために機構の見解を事実上撤回した。私にはそう映ります。こんな馬鹿げた振る舞いは、法治国家にあるまじきものです。能なし民主党の浅はかさは本当に危険です。法治国家の屋台骨をぶち壊すようなマネを平気でやらかしてしまうのですから。

ちなみに、生活保護を受けている外国人のうち在日韓国・朝鮮人の割合は約2/3という高率です。また、日本での生活保護の国籍別受給率は、それぞれ日本人1.2%、在日外国人全般1.4%、在日韓国・朝鮮人3.94%、在日韓国・朝鮮人を除いた外国人0.47%で、在日韓国・朝鮮人の割合は、それ以外の外国人の3.94÷0.47≒8.4倍となっています。これは、在日韓国・朝鮮人が生活保護に対してとりわけ深い利害関係を有することをおのずと物語る数字になっています。ということは、国民年金保険料免除問題に対してもとりわけ深い利害関係を有するということでもあります。(http://kojirokatura.blog77.fc2.com/blog-entry-73.html 参照)こういったことが、在日韓国・朝鮮人関連の「人権団体」が、今回の生活保護がらみの国民年金保険料免除問題でアレグレッシヴに動いた社会的背景を成していると考えられます。

ついでに、生活保護問題についての私見を述べておきましょう。

国民が生活保護の不正受給や在日韓国・朝鮮人の生活保護に対する特権の有無を問題にしたがるのは、生活が苦しいからです。言いかえれば、デフレ不況と円高が生活保護問題を国民の間で主題化せしめているのです。つまり、その本質は不平・不満のガス抜きに他ならないのです。

だから、生活保護問題に過剰に拘泥するのは不毛な結末を招来しかねない愚かな振る舞いであると、私は考えています(どうでもいいと言っているのではありませんよ)。それよりも、デフレ不況と円高を一日でも早く解決するために、国民は、日銀に対して大胆なというよりもはや無制限の量的金融緩和を求め、政府に対して大規模な公共事業等を実施するよう求めることに意識を集中させるべきなのではないでしょうか。デフレ不況と円高を脱し、雇用状況と所得が改善されれば、生活保護問題もおのずとおおむね解決されます。不正受給も基本的には生活が苦しいから生じるものでしょう。それでも解決されない細かい点は、不況を脱した後に、冷静に実務的に粛粛と処理すれば済むことです。
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政治学者・櫻田淳氏の村上春樹批判  (イザ!ブログ 2012・10・23 掲載)

2013年12月01日 18時37分36秒 | 文学
10月15日の朝日新聞デジタル版に櫻田淳氏の村上春樹批判が掲載されています。9月28日の朝刊に掲載された村上春樹氏の長文随筆「魂の行き来する道筋」が取り上げられているのです。私自身、10月17日に同随筆を取り上げて批判した(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/adbe2040fa25ad2ca64e0d700b03f253)ので大いに好奇心をそそられました。その時点で、私は櫻田淳氏の当文章を読んでいませんでした。

拙文をご覧いただいた方も、少なからず興味を抱かれると思われますので、その全文を掲載します。

村上春樹の声望と文学者の「政治」言説/櫻田淳(東洋学園大学現代経営学部教授)

村上春樹(作家)のノーベル文学賞受賞は、お預けになった。村上が「朝日新聞」(九月二十八日付)に寄せた「魂の行き来する道筋」なる随筆は、村上の作家としての声望を反映し、内外に反響を呼ぶものになったようである。

確かに、村上の随筆は、現下の政治上の文脈の一切を無視するならば、それ自体としては何の異論を差し挟む余地もない。「平和は大事だ」というぐらいの正しい議論が、そこにある。

ところで、現在、村上の言葉にある「魂の行き来する道筋」を遮断しているのは、どこの誰なのか。日本政府が、そうした政策判断を下したという話は、寡聞にして聞かない。日本の国民レベルでも、日本の一般国民が中国に対して「魂の行き来」を拒むという事態は、相当に甚大な実害を中国から受けるということがない限りは、蓋然性の低いものであろう。

事実、中国全土で「反日」騒擾が最高潮に達した九月中旬、NHKは、三国志に題材を採った映画『レッド・クリフ』や清朝末に権勢を揮った西太后を紹介する歴史番組を放映していた。それが日本の「空気」である。

片や、中国政府が日本に対する意趣返しの意味で対日交流行事を続々と中止させている話は、頻繁に耳に入ってくる。村上が憂慮する現下の事態は、結局のところは、中国政府の「狭量さ」の結果でしかないであろう。

そうであるならば、何故、村上は、中国政府の姿勢に異を唱えないのか。村上には、是非、北京に乗り込んで、現下の「愛国無罪」の風潮を鎮めるべく、呼びかけてもらいたいものである。

村上は、今年はノーベル文学賞受賞を逃したとはいえ、来年以降も有力候補として数えられるのであろうから、そのくらいの「影響力」を発揮するなどは造作もないことだろう。「ナショナリズム」が「安酒」であるという村上の指摘に至っては、特に第二次世界大戦後、そのナショナリズムの統御が課題として語られ続けてきた経緯を踏まえれば、陳腐の極みであろう。

加えて、村上は、随筆中に書いている。

「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ」

村上は、何故、「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない」と書いたのか。それは、充分に抗議に値することではないか。始皇帝の時代の「焚書坑儒」とは趣旨が違うかもしれないけれども、少なくとも「権力」を持つ統治層の作為や示唆によって、一時的にせよ日本人著者の書が消されようとした事態には、変わりがあるまい。

目下、偶々、対日関係の悪化を反映して、日本人著者の書が槍玉に上がったけれども、先々に米国を含む他の国々との関係が悪くなるようなことがあれば、中国政府は、他国に対しても同じような対応を採るかもしれない。とすれば、これは、「言論の自由」の実質性が問われた事態である。それは、村上が書いたように、「それについてはどうすることもできない」という言葉で済まされるものなのか。

筆者は、現代日本の作家の文学作品を余り熱心には読まない。若き日に、アレクサンドル・I・ソルジェニーツィンやボリス・L・パステルナークの文学作品の洗礼を受けた故にか、現代日本の作家の文学作品には、「生ぬるさ」しか感じない。

ソルジェニーツィンにせよパステルナークにせよ、その文学作品は、往時のソヴィエト共産主義体制との「緊張」の上に成り立った。ソルジェニーツィンは、迫害と国外追放を経験したし、パステルナークは、代表作『ドクトル・ジバゴ』をイタリアで刊行しなければならなかった。

今年のノーベル文学賞受賞者と相成った莫言(作家)もまた、中国国内では「反体制色が薄い」と目されているとはいえ、その作品の一つが発行禁止処分を受けた経験を持っているのであるから、こうした「緊張」とは決して無縁ではないのであろう。そうした政治体制との「緊張」が反映された故に、彼らの文学作品は不朽の価値を持つのであろう。

現代日本の作家には、そのような「緊張」は皆無であろう。特に作家が「政治」に絡んだ言説を披露しようとした折に、その傾向は甚だしくなる。現代の日本では、自国の政府に対する批判ぐらいリスクの伴わない営みもない。他方、「権力」を露骨に行使しつつ、「言論の自由」に圧迫を加えようとする他国の政府に対しては、何故か、その批判を手控える。そうした姿勢のどこに、「普遍」があるというのか。

普段、秀逸な人間描写で名を馳せる作家が、「政治」に絡んだ言説を披露し始めた途端に、その議論が陳腐になる。しかも、その言説は、作家としての名声に支えられて一定の「権威」を持ちながら世に広まるのだから、余計に始末が悪い。こうしたことは、現代日本の作家の特性なのであろうか。


村上春樹氏のスタンスの虚偽性を簡潔に突いた秀逸な文章です。そう評価するのは、なにも櫻田氏が村上春樹氏をケチョンケチョンに言ってくれたからというわけではありません。

櫻田氏が乱暴な言葉を控えたところを、私は、毒舌系ブロガーとして、いささか下品に言い換えてみましょう。

村上さんさぁ、あなたが国境を超えた普遍的な文化を尊重する立場に立つのは構わないよ。だったら、中国が政治的な理由で文化(交流)を弾圧したことに対して、真っ先に勇気を奮い、抗議すべきでしょうが。それを「それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はわからない」などと寝とぼけたことを言って、中国政府の文化的暴虐に対して「見ざる言わざる聞かざる」の構えをキープするのは、はっきり言って卑怯だよ。そのうえ、「安酒」の形容によって、日本人が尖閣問題に臨んで抱く当然の危機感を揶揄し否定するなど、もってのほかというしかないよ。自分を何様だと思っているんだ。要するに、あなたは国境を超えた普遍的な文化の立場に立つ者としても不徹底であり、不誠実であるし、他方、日本人であることに立脚して物を言うことをも拒絶している。つまり、あなたはこの世のどこにもありはしない不在の場から、無責任な世迷言を天下の朝日新聞の紙面の上段すべてを使って垂れ流しただけなのだ。一個の表現者として、「安酒」をあおっているのは、日本人一般ではなく、あなたなんだよ。恥を知りなさいって。

と、なります。前回申し上げたように、村上氏には一日でも早く自分の住み慣れた「自分という牙城」に引き返して、そこでしか紡ぐことのできない繭糸のような繊細な言葉を紡ぐことに専念することをお薦めします。そこがあなたの文学者としての本来の場所です。そうしてそこ以外に、文学者・村上春樹の場所はありません。人には分限というものがあります。それをはみ出した役割を演じようと背伸びする者を、かの魯迅は「馬鹿者」と呼びました。

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戦後民主主義・左翼性・主権者意識   (イザ!ブログ 2012・10・21 掲載)

2013年12月01日 18時26分40秒 | 戦後思想
由紀草一様

ご返事(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/38fdad7329a8d39c38eed6394553059e)をいただいてから、2ヶ月弱の月日が経ちました。由紀さんの「今後どれくらい時間はかかってもかまいませんから、できたら、対応してください」というお言葉が脳裏を去ることはありませんでした。私も、いわゆる言論人の端くれと自認していますので、相手の真摯な問いかけを無視することなど思いもよりません。折に触れ、考えたことがありますので、どこまで由紀さんの問いかけに応えることができるのかはなはだおぼつかないのですが、やれるだけはやってみましょう。

「戦後民主主義」についての由紀さんの、私に対するご注文・ご忠告は、要するに「美津島よ、戦後民主主義を敵視し過ぎないように。その構えは戦前の軍国主義を敵視し過ぎた戦後民主主義者と結局は同じ思想的な構え・図式に陥ることになってしまうのだよ。そういう危惧を自分は美津島に対して抱かざるをえない」ということではないかと受けとめました。少なくとも、由紀さんのお言葉にそういう含意があることは間違いないでしょう。

とするならば、由紀さんのご忠告に年長の言論人としての温かいまなざしを、私は感じざるをえません。ありがとうございます。

また、由紀さんにそういう危惧を抱かせる思想的な体質が自分にあることも承知しています。単純に好き嫌いで言えば、私は戦後民主主義的な言辞を弄したがる手合いを骨の髄から嫌い抜いています。軽蔑しています。馬鹿じゃなかろうかと思っています。他方、戦前の日本を感じさせる気風には、なにやら懐かしさを覚えますし、好ましく思ってもいます。私が映画監督の成瀬巳喜男や小津安二郎を酷愛するのは、彼らが本質的に戦前の人たちだからです。そんな彼らが戦後をどういうふうに見ていたのかということに、私はとても興味があります。書けるものならそういうことをテーマに一冊書いてみたいくらいです。

しかし他方、言論人としての責任ある言説を展開しようと思うのならば、そういう好悪の次元にとどまるべきではない、ということも私は知っているつもりです。つまり、好悪の次元を一度はカッコに入れて、諸思想の対立関係の総体を見晴らせる場所に立たなければ、本当に思想を論じたことにはならない、という問題意識を、及ばずながら自分に課しているつもりなのです。

由紀さんとのやり取りにおいて、私はできるだけそういう姿勢で臨もうとしています。むろん、それがうまくいっていない、というご批判は甘受しますよ。

で、私なりのそういう見地からの、大げさに言えば言語戦略は、戦後民主主義批判を通じて民主主義の鍛え上げをすることなのです。それは、舌っ足らずながらも、ずっと言い続けてきたつもりです。

そういう風に考えている私にしてみれば、戦後民主主義を批判しさらには否定したからと言って、民主主義まで否定する気はまったくありません。むしろ、戦後民主主義から民主主義の可能性を救い出したいと思っているくらいなのです

だから、由紀さんの

戦前の日本はすべて悪、愛国心も悪、とするところから生まれてくる極端な、というよりは常軌を逸した反日感情は、例えば美津島さんの心に逆の情念を植え付けてしまったではないですか。情念といっしょに言葉のイメージが反転して、民主主義は、少なくとも日教組など左翼勢力が看板にした「戦後の民主主義」は悪なんだ、ということになりました。

これでは民主主義が可哀そう過ぎます。


という言葉に、私は正直なところ面食らってしまったのです。由紀さんからすれば、私の言い方には、民主主義そのものに対してまでもどこかしら否定的であるかのように受けとめられてしまう側面があるのでしょう。

私なりの言説戦略について、言葉を変えて言ってみましょう。

私は、戦後思想の著しい特徴としての「民主主義の意匠によって偽装された左翼性」をできうる限り対象化し批判し否定したいと思っています。それが、私にとっての戦後民主主義批判の核心であります。

いわゆる人権擁護法案を例にとってみましょう。

これは、人権侵害によって発生する被害を迅速適正に救済し、人権侵害を実効的に予防するため、人権擁護に関する事務を総合的に取り扱う機関の設置を定めた法案です。人権擁護は民主主義の核心を成していますから、法案の内容・趣旨を素直に受けとめれば、民主主義の社会的な深化を目指す極めて素晴らしい法案というよりほかありません。で、人権擁護を単なるお題目にせずにその実効性を担保するために人権擁護委員会という極めて独立性の高い委員会(これを第三委員会といいます)を作り、そこに持ち込まれた案件を委員たちがきちんと取り上げて、悪質な事案については過料を課す(この点は閣議決定時や法案作成時に引っ込められる場合もあります)ことも辞さない、という徹底ぶりです。なお、人権擁護委員会は、人権侵害の事案を細かくすくい上げるために、市町村レベルにまでその下部組織が張り巡らされます。報道機関も当然人権侵害の訴えの対象になります。少なくとも同法案作成者たちはそうしたがっています。そんなふうにして民主主義が現実的な形で日本の隅々にまで行き渡るのですから、万々歳です。

しかし、ここに大きな問題がいくつかあります。まず、この法案では「人権侵害」の内容があいまいなのです。とにかく当事者が人権侵害を被ったと認識したなら、その人はその案件を人権擁護委員会に無条件で持ち込むことができるのです。人権を侵害したとみなされた側は異議申し立てをする間もなく、審議は粛粛と進められます。密告社会の息苦しさ・空恐ろしさがこの法律によって醸成される危険性があるのです。

もっと大きな問題は、この法案をこれまで強力に推進してきたのが解放同盟とその同伴議員たちである、ということです。彼らが弱者利権の暴力的な守護者であることはマスコミではタブーとされていますが、社会的には周知されています。解放同盟は、日本に健全な民主主義を広めるために人権擁護法案の成立に邁進しているのでしょうか。それは、まずありえないでしょう。閣僚からの独立性の高い人権擁護委員会の委員長や委員として自分たちの息の吹きかかった人物を送り込もうとしていると考えるのが自然でしょう。そうして、当然のことながら、国家権力の中枢に独立性の高い状態で巣食うことによって、日本の言論状況を自分たちのコントロール下に置く、あるいはそこまでいかなくても少なくともそれを自分たちに有利な形に変えることを目論んでいると考えるのが普通ではないでしょうか。

権力の中枢に潜り込むのが得意なラディカル・フェミニストグループや民団・朝鮮総連などの反日勢力が、それを指をくわえ黙って見ている姿は想像しにくいですね。彼らが、解放同盟に負けてはならじとばかりに、人権擁護委員会への人員送り込みを画策するのは目に見えていますね。また、それらのグループの同伴者としての日教組が彼らのそういう動きを陰に陽にサポートするのもおそらく間違いないでしょう。

つまり、人権擁護法案という表面的には極めて民主主義的な法律が成立してしまったなら、権力の中枢に極左反日勢力の強固な牙城が築かれる事態に至る危険性が現実のものになってしまうのです。

彼ら極左反日勢力は、戦後日本において、言説レベルで民主主義の用語に左翼的な情念を吹き込む術を熟達させていく内に、今度は公権力の内側に潜り込んで公の意匠をまといつつ偏向思想を流布する術をマスターするに至りました。ラディカル・フェミニズムが自分たちの信奉するジェンダー・フリー思想を公教育を利用して流布したことは、その分かりやすい一例です。また、少なからぬ極左勢力が、法務省や内閣府に法務官僚として潜り込んでいるとも聞いています。

彼らが目指しているのは一般国民の幸福追求に資する健全な民主主義社会とは似て非なるものです。言論の自由に即して言うならば、彼らに都合の良い言論の自由は頑として守ろうとしますが、それ以外の一般的な言論の自由はおそらく弾圧しようとするでしょう。それが彼らの言論体質ですから。一言でいえば、全体主義体質なんですね。人権委員会のシステム一つとってみても、旧ソ連の秘密警察組織にそっくりです。血は争えないとはこのことです。

戦後民主主義は、国家の存在そのものを悪とみなし、国家権力への異議申し立てをアプリオリに善・正義とみなしてきました。亡くなった小田実なんてそれを純粋に形象化したような存在でした。

そういう思想的な傾向は、極左反日勢力の権力中枢への潜入をどこかで許容してしまうところがあります。彼ら戦後民主主義者が絶対悪とみなす国家権力に対する左翼のシロアリ的な行動が相対善になってしまうのは物の道理でしょう。

そこで私の目は、おのずと戦後民主主義の根本的な欠陥に行きます。

日本国憲法に即すならば、戦後民主主義の柱は①憲法9条的な絶対平和主義と②基本的人権の尊重と③国民主権の三つです。

このうち、①の憲法9条的な絶対平和主義と民主主義とは論理的にはつながりません。政体としての民主制と国軍の存在はなんら矛盾しないからです。戦後において、憲法9条的な絶対平和主義が民主主義の代名詞のようになってしまった事態には、いわゆる東京裁判史観が時代のイデオロギーになってしまったことが深くからんでいます。

東京裁判史観は、日本国民にとって、敗戦がもたらした負の精神的な遺産です。日本人が国際的な意味でのcommon sense を取り戻すには、それを乗り超えることがどうしても必要であると私は考えています。その乗り越えの過程で、憲法9条的な絶対平和主義=民主主義という誤った偏頗な思想的等式は雪が溶けるように解消されるものと思われます。

②の基本的人権の尊重は近代憲法の本質を成しています。また、それに基づいた法体系も日本国は充実しています。不足があれば、それを個別に補充すればいいだけのことで、別個に「人権擁護法」などという空恐ろしい法律を作って全社会的に網をかける必要などまったくありません。また、国家を絶対悪とみなしてきた左翼連中は、呉智英氏のいわゆる人権真理教的な言辞を弄してきました。それは、憲法に定める基本的人権の尊重の精神とは似て非なるものであって、先ほどのべた「民主主義の意匠によって偽装された左翼性」のもう一つの例であるというべきでしょう。

憲法9条的な絶対平和主義=民主主義という等式に頭の中をなんとなく支配されてきたせいもあって、戦後の日本では、③の国民主権が実質的にはないがしろにされてきました。私が申し上げたいのは、対外的独立性・統治権という意味での主権を守ることについて、主権の存する国民が当事者としてあまり真剣に考えてこなかったということです。対外的に主権を守るのは主に外交と軍事の役割です。戦後の日本において、前者については基本的には配慮外交・土下座外交を国民はなんとなく甘受してきました。後者については、ひたすらアメリカ任せで来てしまいました。せいぜい、デモに参加することが主権者としての主体的な行動だくらいの浅はかな主権意識しかなかったのではないでしょうか。この、主権者としての意識の脆弱性に、私は戦後民主主義の、民主主義としての根本的な欠陥を見ます。

尖閣問題に直面することで、国民の少なからぬ部分が、それではにっちもさっちもいかないことにようやく気づきはじめたのではないかと私は考えています。つまり、日本国民が主権者として領土問題・外交・軍事について真剣に考えはじめているのです。それを主権者意識の目覚めと形容してもいいのではないでしょうか。それが安倍晋三自民党総裁誕生を後押したのではなかろうかとも考えています(中国の対日強硬路線の継続は、安倍自民党単独政権誕生の可能性を高めるのではないでしょうか)。この新しい事態が、鍛え直されたまっとうな民主主義が左翼性に蚕食された戦後民主主義に取って代わる社会的な背景をなすものと思われます。このことについての交通信号の喩えはあまりあてはまらないのではないかと思われます。尖閣問題を村上春樹がいうように実務問題として技術的にクールに解決するのは不可能ですから。大急ぎで申し上げますが、情念が解決するとも思っていませんよ。私は、国民の付託を背負った外交・軍事の担当者の現場での相手国とのせめぎ合いは厳粛な営為であると思うのです。貧弱な装備しか与えられないままに、命の危険と隣り合わせの状態で、尖閣海域で領土を守るために踏ん張っていらっしゃる海上保安庁の職員の皆さまに、私は頭の下がる思いを禁じえませんもの。

さらには、朝日新聞に掲載された村上春樹の(おそらくノーベル賞受賞実現に向けての計算ずくの)ふやけ切った文章を批判したり、大江健三郎らの反日知識人が絡んだ「『領土問題』の悪循環を止めよう!」アピールを徹底批判することも、私にとっては力の及ぶ限りの戦後民主主義批判です。コスモポリタン気取りは、主権問題からの当人の逃げを美化するにはとても便利です。そういう思想的な利便性への、言論人の相も変わらぬ依存の姿を、私は醜悪であり貧相でもあると感じています。そういう手合いとは「戦争」あるのみです。

以上を要して、私は「国家権力への異議申し立てと安易なコスモポリタニズムをアプリオリな正義とする戦後民主主義から、主権概念を梃子として鍛え直された民主主義へ」と申し上げてきたつもりだったのです(コスモポリタニズムへの言及は今回新たに付け加えてみました)。このことについては、由紀さんがおっしゃるような情念がどうのこうのというのはあまりありません。

教育問題については、私には由紀さんに対する異論はありません。由紀さんらによる、教育現場の試行錯誤の只中からの教育言説の力強い立ち上げを私は貴重なものであると思っています。できうることならば、それらがもう少しだけ広く世間に知られることを心から願っています。もしも私でもお役に立てるようなことがあるならば、なんなりとおっしゃってください。一度自塾を畳んでからは、教育言説に自分を差し向けるエネルギーがすっかり低下してしまっていますので、どこまでお役に立てるのか、心もとないのではありますが。

とりとめのない返事になってしまいました。では。
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村上春樹のノーベル文学賞受賞逃しを祝す 小浜逸郎氏のコメント付き  (イザ!ブログ 2012・10・17 掲載)

2013年12月01日 18時19分45秒 | 文学
タイトルから、私をへそ曲がりと判断しないでください。私はある意味でへそ曲がりですが、今回はどうやら曲がってはいないようです。心の底から「村上春樹さん、ノーベル文学賞を取れなくて、本当に良かったですね」と思っているのです。

なぜそう思うのか。それは、村上春樹さんがいまの状態でノーベル賞を取ってしまうと、決定的に「第二の大江健三郎」になりさがってしまうのではないかと思うからです。私にとって、それはいささか残念なことなのです。

ここで「第二の大江健三郎になること」とは、高い知名度ゆえに柄にも合わない知識人の役割を引き受けることで、具にもつかない政治的発言を垂れ流し、文学者としての自分の価値・名声を台無しにしてしまう間抜けな小説家の二番煎じを演じることを指しています。違った言い方をすれば、本人は、ドロドロとした国際政治状況から一定の距離をとった、地球市民的な麗しい人類愛に満ちた立場を保持しているつもりでいるが、政治状況の全体的な構図にその発言を置いてみると一定の生臭い政治的役割を果たしてしまっている、という政治の不可避的な力学に対して致命的に無知な知的愚者の二の舞を演じることを指しています。

という言い方に、村上春樹ファンは不快感を抱くのかもしれません。「村上春樹さんは、そんな愚か者ではない」というふうに。しかし私は、村上春樹さんを愚弄するつもりなど毛頭ありません。「春樹さん、自分の文学者としての名を惜しみなさい」と申し上げたいだけなのです。というより、「神の見えざる手」が、彼を誤った道から救い出すために、今回あえて彼にノーベル文学賞を与えなかったのではないか、と言いたいくらいなのです。「ちょっと頭を冷やして、お前の仕事はもっと良い小説を書くことだけなのだという厳粛な事実に気づきなさい。バカ新聞にバカ発言を載せている場合ではないのだよ」というふうに。

私の念頭にあるのは、9月28日(金)の朝日新聞朝刊に載った彼の「魂の行き来する道筋」という文章です。この文章を読んで、こんな(どんななのかは後ほど具体的に触れます)、タイトルを裏切るような「魂」のない文章を書くようでは村上春樹も焼きが回ったものだと、私は思いました。

彼は、稀代の文章家として名を馳せ続けてきた文学者です。私は伊達や酔狂でそう言っているのではないのです。以前親しくおつきあいいただいていた、ある大手名門出版社のかつての名編集長が一緒に酒を飲みながら次のようなことをしみじみと語ったことがあります。「編集者というのは、自分が関わっている文章にちょっとでも変なところがあると、無性に赤を入れたくなるものなんだよね。だから、私はほとんどの書き手の文章に赤を入れてきたよ。でも、村上春樹の文章にだけは一度も赤を入れたことがないんだ」私は、それを聞いて心のなかで唸りました。そのときに自分が文章家村上春樹の凄味に触れる思いがして絶句したことを、いまでも鮮やかに覚えています。

そんな名人芸の域に達した文章書きの村上春樹さんが、今回まったく読み手の心に響かない死んだ文章を長々と書いているのは、彼が文学者としていま危機的状況にあることのなによりの証拠です。歌心に溢れた歌手が突然変調をきたしたら、聞き手は「あ、こいつヤバい」と思うでしょう。要するにそういうことですね。

新聞に載るにしてはけっこう長めのこの文章の核心的なメッセージは二か所あります。まずは一か所目を転載します。ちょっと長くなりますが、ご勘弁を。

国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし、賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。

彼が政治問題に対して一定の見識を披露し、そこから具体的な提案を導き出している以上、それは、社会性を帯びた責任ある政治論として遇されなければならないでしょう。私はこれから、村上領土問題論を根のところから否定する言説を展開するつもりですが、そこに文学者の素人くさい政治論をシバキ上げる加虐趣味を読み取ってもらっては困る、と申し上げたいのです。

「領土問題は実務的に解決可能な案件であるはずだし、そうでなければならいない」という村上領土問題論は、近代国民国家の本質への洞察を致命的なまでに欠いた愚論中の愚論です。

まず、国境とは何でしょう。それは、二か国以上の主権の及ぶ範囲の境目を示すものです。その範囲についての認識が行き違うとき「領土問題」が生じます。

だから、「領土問題」の本質は「主権と主権とのぶつかり合い」なのです。そうして、主権の本質は、それが独占的で排他的であるところに存します。そのことへの共通了解が成立することによって、独立国家の集まりとしての近代国際政治の世界が生まれるのです。

だから「領土問題」が生じた場合、当事国はお互いに譲るわけにはいきません。なぜなら、「領土問題」について譲ることは、近代国家成立の根本要件としての主権の毀損・喪失の甘受を意味するからです。それは、独立した近代国家としてはあり得ないことなのです。しかし、そこをなんとかしなければなりません。そこで国際政治は、経済力や軍事力を背景にした外交によって、その都度解決しがたい領土問題を暫定的に解決してきたのです。その「解決」の中には、クラウゼビッツのいうような、戦争という名の「別の形をとった外交」も含まれます。そうやって、大きく言えば第一次大戦までは勢力均衡方式で、その後は集団安全保障方式によって、国家間の「領土」をめぐる激突を避けようとしてきたのです。

ところで、近代国民国家において、主権者は国民自身です。だから、主権問題は国民自身の問題なのです。とするならば、領土問題はその当事者としての国民の最大の関心事であらねばならないし、現実的にもそうなっているものと思われます。でなければ、マスコミが連日のように尖閣問題を報じるはずがありませんものね。とするならば、領土問題に深甚な国民感情が伴うのは、人性のしからしむるところとなります。それを拒否する言辞を弄するのは、「人性の専門家」である文学者として失格であると断じざるをえません。とても関心があることに強い感情がまったく伴わないなんて状態は、ごく普通の感性の持ち主には想像しがたいでしょうから。

国民主権の代理人としての外交担当者は、領土問題が主権者としての国民の「最大の関心事」であり、深甚なる国民感情がそこに込められているという認識を胸の奥に深く叩き込んで、ぎりぎりの交渉をしなければならないのです。それが、外交担当者の、ノーブレス・オブリージュ(高貴なるがゆえの責任)を果たそうとする政治的に高度な構えを生むことにもなります。そういう国民的な思いの裏付けのない単なる「実務」として外交をとらえる場合、そこにノーブレス・オブリージュは生まれようがないのです。

村上領土問題論が、近代国民国家の本質への洞察を致命的なまでに欠いた愚論中の愚論であることの説明は、これで十分なのではありませんか。

ここまで述べてきたことから、村上春樹さんがなぜ「魂」のこもらない死んだ文章を書いてしまったのか、もうお分かりいただけるのではないでしょうか。彼には、領土問題について論じながらそれについての当事者感覚がないのです。つまり、この文章には村上春樹という文学的存在が投企されていないのです。だから、この文章が状況との関連においてたとえ正しいものであろうとあるいは仮に間違ったものであろうと、村上春樹さん自身はまったく傷つかないのです。その意味で、これは血の通っていない文章なのです。だから、この文章には魂がまったく感じられないし、読み手はこれに対して死んだ文章の印象しか抱かないのです。「魂の行き来する道筋」、なんと馬鹿げた恥知らずなタイトルをつけたものでしょう。この文章を書いた段階では、村上春樹さんは最低の文学者なのです。誤字脱字がないことと文法的に誤りのないことだけが取り柄の文章を垂れ流してしまったのですから。

この文章の核心的なメッセージの二つ目を転載しましょう。

最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的な行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。

これ、おかしな文章だとは思いませんか。「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない」と言いながらも、ちゃっかりとすぐその後に「一人の著者としてきわめて残念には思う」と言っているのですよ。十分に「はっきり言」っているではありませんか。そのうえで、さらに日本政府に対して「そのような中国側の行動に対して、どうか報復的な行動をとらないでいただきたいということだけだ」と重ねて「はっきり言」っているのです。日本政府に、日本の書店で中国人著者の書物を引き揚げるようなマネは絶対にするなと言っているわけですね。それが、「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示す文化的に立派な態度なのだと、春樹さんはどうやら言っているようです。主権問題はそっちのけで、売文業者としてずいぶんと手前勝手な格調の低い議論をけっこう「はっきり」と繰り広げていますよね。

私は、これを読んで苦笑するよりほかありません。なぜなら、日本がそんな文化的に野蛮な振る舞いをすることは万に一つもありえないからです。それは、この国に住んでいればごく普通に分かることです。つまり、日本政府のそういう粗暴な振る舞いを日本国民は支持しないし、もっと強く言えばそれを拒絶するのではないでしょうか。ごく普通の日本人のそういうことがらについての標準的な考え方は「中国は確かに馬鹿なことをしている。だからと言って、日本はそれと同じ振る舞いをすべきではない。そんなことをしたなら、世界から中国と同じ文化的に低レベルの国と思われる。それは嫌だ、損だ」というものではないかと私は考えます。だから、もしも日本政府がそういう振る舞いに出たならば、国民の拒否反応がてきめんに内閣支持率の劇的な低下として政府に突き付けられることになるでしょう。そうして、政府はそれを織り込み済みです。だから、外交的選択肢として、そういう振る舞いはあらかじめ排除されています。

つまり村上春樹さんのご心配は、いわゆる杞憂にほかならないのです。杞憂に過ぎないことを本気で心配して警鐘を鳴らすのは滑稽というよりほかありません。だから、私は苦笑を禁じ得ないのです。それとも春樹さんは、ごく些細な心配事にも過剰に気を病む貴族の上品さを演出したいのでしょうか。とするなら、どうぞご勝手にと申し上げるよりほかはありません。

平たく言えば、これらの言葉はすべて、あなた(と言いましょう)の個人的な勇気を奮って中国政府に対して断固として向けられるべきものでしょう。それを私たちにいうのは、お門違いだし、いたずらに中国政府を利するだけのものにほかならないのですよ。分かりますか、村上さん。

もう一つ指摘しておきたいのは、「領土」という名の主権をめぐる国民の憂慮とそれを背景にした政府の苦慮とを「安酒呑み」という言葉で愚弄しかねない、あなたの度し難いまでの政治音痴ぶりあるいは傲慢さです。あなたは、自分に政治を論じる資格と(あえていいましょう)文学的な感性とが決定的に欠如していることをはっきりと自覚すべきです。政治をきちんと論じるには、ある種の文学的な感性が必要なのです。そうしてそれは、自分のことばかりにこだわり続けることで自分の文学世界を構築した春樹さんにはないものです。その意味で、村上文学は倫理とは無縁な文学なのです。念のために言っておきますが、これは村上文学を否定しているのではありませんよ。

さらに言っておけば、尖閣問題には、中共の覇権主義の妥協なき追求という側面があります。つまり、日本にとってはこれだけでも主権を揺るがす大問題なのですが、西太平洋全体の制海権を確保しようと思っている中共にとっては、それはファーストステップの通過点的な問題に過ぎないのです。その視点がないと、いくら何を言っても尖閣問題の本質にはかすりもしないのです。

もう、これくらいでいいでしょう。春樹さん、今後絶対に不得手な政治分野には口出しをしないことです。それが、個人的なことについてこだわり抜く自分の文学的な資質・生命を保持することにも通じるのです。あなたにアタッチメントは似合わない。あなたが政治問題を語るのは無理です。人にはそれぞれ天が与えた持分があるのです。それを自覚することが成熟することなのではありませんか。

あなたは、日本近代文学の最高傑作として三遊亭円朝の『真景累ケ淵』を挙げているそうではありませんか。私は、それに心から同意する者です。近代文学の大胆なルール破りを敢行することなしに、近代文学の限界を超えて魂の奥底への冒険を繰り広げることがとても難しくなっている文化状況に私たちはさしかかりつつあるのではないかと私は感じています。そういう問題意識を持つ者にとって、『真景累ケ淵』の存在が大きく浮かび上がりつつあると私は考えているのです。村上春樹さんの文学者としての勘の良さ・嗅覚はまだまだ衰えていないと、私は再認識しました。さすがは、村上春樹と思います。春樹さんの文学的な勘の良さは昔から一級なのです。

今回、ノーベル文学賞を逃したことを天の声と受けとめて、自分本来の場所に心静かに戻って行って、そこからもう一度あなたにしか紡げない、心の底からの美しい言葉を紡いでほしいと私は心から願っています。あなたは若いファンも多いようですから、間違っても彼らをたぶらかすような馬鹿なマネはしないでくださいね。

ちなみに「元祖大江健三郎」は、死んだ、魂のない文章を取り巻きから褒められ続けて、ついに自分の文学的な天分を食いつぶし尽くしてしまいました。村上春樹さんには、その轍を踏まないようにしていただきたいものです。見ている人はちゃんと見ていますから、間違っても「裸の王様」にならないようにしてくださいね。

〔付記〕

当ブログに二度投稿していただいた小浜逸郎氏から、この文章にちなんで次のようなコメントをいただきました。朝日新聞掲載の村上春樹の文章に対する批評として傾聴に値するものです。

村上春樹は、この種の文化人のご多分に漏れず、異文化を最大限に尊重するようなことを言っていますが、「文化」人として力を注いでいるはずの自分の仕事が、北京独裁政府という「政治」によって蹂躙されている事実に対して、「残念だ」などと腑抜けた感慨を述べているだけで、文化の扼殺(焚書坑儒)に対する何の抵抗も表明していません。彼は自分の本が本屋さんから消されたことは、「政治の悪」の問題以外のなにものでもないのに、それを、「異文化」の問題として免罪するというとんでもないスリカエをやっています。腰抜けというほかありません。日本国民の健全なナショナリズムの反応を「安酒による悪酔い」とけなすなら、北京政府のどうしようもない政治的「泥酔・狼藉」に対してなぜ言及しないのか。中国国内で身柄を拘束されるわけではなし、いくらでも自由な発言が可能なはずなのに、文学者にとって命と同じくらい大切な自分の仕事に対する弾圧に、なんの対応もしないというこの態度は、彼がじつは自分自身の本丸であるはずの文学などもはや大事にしていないということの証明ではないかと思います。そう思いたくはありませんが、彼のノーテンキな言葉からは名利に溺れて初心を忘れた者の腐臭がどうしようもなく漂ってくるように私には感じられます。

小浜氏の、批評家としての慧眼を再認識しました。
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次の対安倍総裁ネガティヴ・キャンペーンは「世襲批判」  (イザ!ブログ 2012・10・17 掲載)

2013年12月01日 18時15分00秒 | 政治
『三橋貴明の「新」日本経済新聞』から先ほど配信されたメールの内容が面白い。メール配信の主・東田剛さんによれば、次の安倍総裁に対するネガティヴ・キャンペーンは「世襲議員批判」だそうです。

東田さんは、世襲議員批判のほとんどは、いわれなき偏見に基づくものであって、よくよく考えてみると、世襲議員のメリットはたくさんある、という。また、戦後左翼的な条件反射的思考によって、マスコミは、世襲議員に特権階級の匂いを嗅ぎつけてそれを制限する論調を展開したがる。が、それは、憲法が国民に等しく保証する被選挙権の規定(第15条など)に明らかに反する、とも。

よって、世襲批判の方が、世襲議員の存在より、よっぽど近代民主主義の原則を踏みにじっている、と述べられています。常識的なイメージの裏を掻く卓見が散りばめられた好エッセイです。ものごとはよく考えてから発言しましょう、ということですね。

バカ・マスコミの姑息なやり口やミスリードにゆめゆめひっかかることのないようお互いによおく気をつけましょうね。後で、アイツらに乗せられたことに気づくと、腹が立って腹が立ってしょうがないですからね。

FROM 東田剛 

10月15日の讀賣新聞(ネット版)に、「自民公募に「世襲」ぞろぞろ、議員子息が続々と」という記事が掲載されていました。同じ日の朝日新聞(ネット版)には、「自民、「世襲候補が公募」なら党員投票 批判かわす狙い」と題した記事がありました。

ほほう、マスゴミ、次は、世襲批判に目をつけましたか。自民党は、総裁も幹事長も、世襲議員ですからね。

確かに、ちまたの政治談議でも、よく「世襲が日本の政治を駄目にした」などと言うのをよく聞きます。

しかし、何で世襲がいけないのでしょうか。さっぱり分かりません。

親の地盤を引き継ぐから、よくない?なんで?選挙基盤が安定しているからこそ、得票のことよりも、国全体のことを考えて、大局的に行動できる場合もあるではないですか。

地盤が安定していない政治家の方が、大衆迎合に走ったり、当選するために信念を曲げたりせざるをえない場合が多いのではないですか。

それに、誰でもまったく平等ではありません。そりゃ、生まれ育ちによる有利・不利はあるでしょう。

では、地盤で有利になる世襲は駄目で、知名度で有利になるタレント候補ならよいのですか?

私に言わせれば、知名度を利用するタレント候補の方がよっぽど駄目なのが多いですね。もっと言えば、立派な政治家は、むしろ世襲議員の中により多いようにすら、思いますね。

そもそも、政治家に限らず、どんな職業だって、親父の背中を見て育った子供が、親父のような仕事をしたいと思うのは、至極自然なことであって、まったくおかしいことではないでしょう。

まして、政治家というのは、公のために働く尊い職業ですから、間近で親父さんの苦労を見た息子が「俺も政治家になりたい」と思って、どこがいけないのでしょうか。

むしろ、立派なことじゃないですか。それに、政治家というのは特殊な職業ですから、子供のときから政治家というものを間近で見てきた世襲議員の方が、政治家としての適性がある可能性が高いくらいです。

「世襲を制限しろ」などという意見がありますが、言語道断です。だいたい、親が政治家だから被選挙権が制限されるなんていう差別が、なんで許されるのですか?

民主政治の根幹をなす基本的な権利である「被選挙権」をそんな風に制限するなんて、そりゃ、れっきとした憲法違反ではないですか。

それに世襲であろうがなかろうが、選挙の洗礼を受けるのですよ。そんなに世襲が嫌なら、自分が世襲の政治家に票を入れなければいいだけでしょう。

世襲を批判する人は、どうせ戦後左翼的に、「世襲は封建的で近代的ではない」くらいの気分なのでしょう。

しかし、世襲批判の方が、よっぽど近代民主主義の原則を踏みにじっているのです
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