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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

長谷川三千子『神やぶれたまはず』 (その3) (その4) (イザ!ブログ ’13・10・31,11・12 掲載)

2013年12月25日 07時01分09秒 | 戦後思想
長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その3)
――「トカトントン」とは何の音なのか――




もう十年くらい前のことになるでしょうか。私は、青森県津軽半島のほぼ真ん中にある金木町(現五所川原市)に行ったことがあります。もちろん、太宰治の生家である斜陽館を見るためにです。五所川原駅で単線の津軽鉄道に乗り、左右に広がる田んぼの優しい緑に目を喜ばせるうちに、電車はほどなく金木町駅に着きます。駅前から線路とほぼ垂直に延びる細い道を一度だけ左折すると、徒歩で数分、車道沿いに二階建ての大きな木造建築が目に飛び込んできます。それが斜陽館です。太宰が、「苦悩の年鑑」の中で「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もない。ただ大きいのである」と言ったとおりの、本当に大きな建物です。

大地主だった津島家は、戦後のGHQの農地改革によって没落し、この建物は手離されることになりました。それで昭和二五年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となり、全国から多くの太宰ファンが訪れることになりました。しかし長く続いた当旅館もやがて閉鎖されることになり、平成八年三月に旧金木町に買い取られ現在に至っています。

入口で入場料を支払って建物の中に入るとすぐに、奥行きのある広々とした土間になります。その左手に、開放的でとても大きな囲炉裏が見えます。太宰は、十一人兄弟姉妹の十番目に生まれた六男坊ですから、津島家は相当な大家族です。むろん、ほかにたくさんの使用人がいたことでしょう。また、権勢家ですから、毎日のように近所の人びとも集まってきたことでしょう。地元の津軽三味線の名手たちがそこで演奏することもたびたびだったのではないかと思われます。金木町では、毎日のようにライヴ会場で津軽三味線が演奏されているのですから、それくらいのことは当たり前のように行われていたと思われます。

その大きな囲炉裏を見ていると、そこを囲む大勢の人々が、どことなくひょうきんな響きのある津軽弁で話に花を咲かせたり、津軽三味線に聞き入りながら杯を重ねたりする様子がおのずと脳裏に浮かんできました。太宰は、ちょっと変わったところのある子どもではあったのでしょうが、人びとのそういう様子をつぶさに見ながら成長したことは間違いありません。私が申し上げたいのは、太宰は、神経の先細りを招来するような近代的個人主義とは無縁の、良くも悪くも、人と人とのつながりが蔦のように絡まり合っている土着的な風土で生を受け、そこでパーソナリティの基底を育んだということです。

むろん太宰は、そのことを素直に受け入れたわけではありません。故郷をめぐって、彼には彼の屈託がありました。その屈託が、彼の文学的な営みの核を成していると言っても過言ではないでしょう。その営みの過程で、彼は彼なりに、近代の毒を身体の奥深くに入れてしまったことも、確かなことです。そのことが、彼をそそのかして故郷からおびき出し、異境で野垂れ死ぬことを余儀なくさせたと言ってしまっていいとも思います。その意味で、太宰もまた楽園から追放された悲しき近代のアダムたちのひとりなのです。

それをすべて認めたうえで、太宰が、近代とは無縁の土着的な風土で生を受け、そこでパーソナリティの基底を育んだことの重要性を、私は強調したいと思います。なぜならその成育史は、彼を無類の″語り部″にすることに大いに資するところがあったからです。ただし太宰の近代性は、彼をただの語り部ではなく、語り部である自分を見つめるもうひとりの自分をいつも伴った語り部にしました。

稗田阿礼が発した言葉を太安万侶が書き留めたのが『古事記』であるということは、高校で普通に教わることですね。古代において、語り部は、共同体の神に憑依して、神の言葉を自ずと語り出すだけでよかったのです。それを書き留める役割を担う人は別にいて、それは、太安万侶のような大陸の知識を吸収した当時の「知識人」だったのです。

ところが今様の物書きというのは因果な商売で、その作家が語り部の資質を持っていたとしても、稗田阿礼であるだけではダメで、太安万侶であることも必要とされます。そうでなければ、誰も自分が語ったことを聞いてくれないからです。そのことが、近代以降の語り部を先ほど述べたような複雑なものにします。そのことに対する鋭敏な意識が太宰にはありました。その意味で、太宰は自意識の強い作家でした。

心のなかにひとりの生々しい語り部を宿す太宰が、「徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつた」八月十五日に対して鈍感なはずがありません。これまでの話の流れから、″八月十五日″が、絶対性としての大東亜戦争を戦った日本人の共同性を凝縮した瞬間であることは間違いありません。そのことに、太宰の心のなかの語り部は激しく反応したに相違ないのです。その明らかな証拠が、小説「トカトントン」であるということになるのでしょう。

長谷川氏は、桶谷の「太宰治は八月十五日正午に『天籟』を聞き、その記憶を持続しつづけ、それを表現した数すくない文学者のひとりだつた」という言葉を引きながら、彼とともに「トカトントン」(一九四七年一月発表)の次の箇所を引きます。

厳粛とは、あのやうな感じを言ふのでせうか。私はつつ立つたまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、さうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くやうに感じました。

死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました。前方の森がいやにひつそりとして、漆黒に見えて、そのてつぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたやうに、音もなく飛び立ちました。

ああ、その時です。背後の兵舎のはうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞こえました。それを聞いたとたんに、眼から鱗(うろこ)が落ちるとはあんな時の感じを言ふのでせうか。悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持ちで、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。    
(本書71・72頁)

この文章の前半について、長谷川氏は次のように述べています。

たしかにこの前半は、まさしく天籟を聞くといふ体験のなまなましい描写となつている。しかも、荘子の「斉物論」においては、その描写はもつぱら弟子が外側から見た姿として語られてゐるのであるが、これはいはば「形は槁木の如く、心は死灰の如く」の状態を内側から描き出した描写となつてゐる。その意味で、太宰治のこの文章は、「斉物論」以上に真にせまつた「天籟」体験の描写であるとすら言へるのである。   (本書72頁)

「トカトントン」において八月十五日の「天籟」を聴いた「私」は、戦時中に兵隊になり、「千葉県の海岸の防備にまわされ、終戦までただもう毎日毎日、穴掘りばかりやらされていました」。彼は「日本が無条件降伏という事になり」、故郷に戻り「Aという青森市から二里ほど離れた海岸のの三等郵便局に勤めている」人です。また、「私」の天籟体験を記した手紙を受け取ったのは、「罹災して生まれた土地の金木町に」帰ってきた「むざんにも無学無思想の」小説家という設定になっています。太宰のことを多少でも知る読者なら、手紙を受け取った小説家に作者がより多く投影されていると受け取る仕掛けになっています。言いかえれば、太宰は、自分が天籟体験をした事実になるべく気づかれないように人物設定をしたと考えることができるでしょう。自分自身の天籟体験と距離を取ることで、それが、当時の日本人全体のものであることをそれとなく読み手に受け入れさせようとしたのかもしれません。

太宰が天籟体験をしたことそれ自体への懐疑は、私にはありません。なぜなら、それを体験したことがない者が、その体験を「内側から描き出した描写」をものにすることなど到底できないからです。つけ加えれば、太宰は、本当に体験したことに嘘を巧みに織り込むことに長けた書き手ではありましたが、体験にまったく根ざさないまるまるの嘘を本当であると読み手に思いこませることに長けた書き手ではありません。

作中の「私」は、八月十五日正午に千葉県の兵舎の広場にいました。では、同日同刻、作者の太宰はどこにいたのでしょうか。年譜によれば、一九四五(昭和二十)年七月に、太宰は妻子を連れて津軽・金木町の生家に身を寄せています。また、家族とともに三鷹の自宅に帰ったのは、翌年の十一月です。だから太宰は、八月十五日を津軽・金木町の生家で迎えたことになります。青森県でも、一九四五年七月二八~二九日に、青森市が市街地の9割弱を焼失するほどの大規模な空襲を受けています。その被害のはなはだしさは、おそらく太宰の耳にも届いていたはずです。だから、太宰が終戦に至る日々に故郷でのほほんと暮らしていたとは考えられません。それなりの覚悟を胸に日々を過ごしていたはずです。

とはいうものの、金木町は田んぼのど真ん中にあります。いくら米軍が毎日雨あられのように爆弾を日本列島に投下しているとはいっても、空襲はそこにまでは及びません。つまり太宰は、一応牧歌的な田園風景のなかで八月十五日を迎えているのです。そのことの意味は、小さくないと思われます。

太宰はその地にとどまって、作家活動を続けることも可能だったのにそうしなかった。私は、そのことの意味を考えてみたいのです。仮に、太宰が金木町に留まって執筆活動を続けたならば、彼が三十九歳で命を落とすようなことはなかったのではないかと思われるのです。生家にいるときの太宰の執筆活動は、その前後と比べても一向に衰えを見せていないので、実家にたよらなくても、執筆活動で充分に糊口をしのぐくらいのことはできたはずです。だから、お金の問題で金木町を後にしたとは考えにくい。太宰の血族や周りの人びとは、「いま何も好き好んで焼け野原の東京に戻ることもあるまいに。苦労をしに戻るようなものだ」と言って引き止めるくらいのことはしたに相違ありません。

これはいまのところ想像の限りですが、焼け野原の東京に戻ることを決意した段階で、太宰の思想的身体は、死ぬことへ向けて半ば以上開かれていたのではないでしょうか。自分が「生の方へ歩きだした」日本人のひとりであることを押しとどめる強力な何かが太宰の心のなかにあったと思えてならないのです。

むろん私は、太宰に、「どうやらオレの時代が来たようだ。この際、東京に戻って大いに暴れてやろう」という文士としての山っ気や、「太田静子に久しぶりに会いたい」という男としてのあだ心がなかったとは申しません。むしろ、おおいにあったことでしょう。そういうひとりの愚かな煩悩まみれの存在としての太宰に、死へ不可避的に向けられた「思想的身体」が二重写しになっているというべきなのでしょう。

これもまた想像の限りなのですが、太宰が八月十五日の意味をより深く考えるようになったのは、故郷の牧歌的な田園風景とは対照的な、東京の荒涼とした一面の焼け野原を目の当たりにしてからなのではないでしょうか。「身と霊魂とをゲヘナにで滅ぼ」す腹を密かに固めたのも、その光景が自分の身体にきっちりと織りこまれてからのことなのではないでしょうか。その覚悟をあえて言葉にすれば、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という言い方になるのでしょう。その意味では、『敗戦後論』の加藤典洋が言うほどには、「私」の訴えと「あなた」の返答ぶりとはそれほどに喰い違ってはいないのであって、内的な連関からすれば、「あなた」が「無愛想でブッキラボーな返答」をしたことには、必然性があったと私は考えます。端的に言えば、「私」に対して、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という声ともっと真摯に向き合えと難じているのです。そうして、もっと「明るくて、単純な言い方」を心がけよ、と。

太宰は、思想的身体の次元で言えば、野垂れ死ぬ腹を固めて荒涼とした東京という異境に彷徨い出てきたのです。では、なにゆえ太宰は死のうと思ったのか。そのことには、彼の一種の戦友感覚が深く関わっています。端的に言えば、それが、先ほど述べた〈自分が「生の方へ歩きだした」日本人のひとりであることを押しとどめる強力な何か〉なのではないかと、私は考えます。そのことについては、後ほど触れましょう。

太宰の思想的身体が、不可避的に死に向けられていたからこそ、彼の耳は、天籟をぶち壊す「トカトントン」の予言的な響きを生々しく聴きとることになりました。長谷川氏は、そのことを的確に次のように言います。

河上徹太郎は昭和二十一年春の段階で、「あのシーンとした国民の心の一瞬」を振り返つて、「今日既に我々はあの時の気持と何と隔りが出来たことだらう!」と嘆じてゐたのであるが、ここには、その「隔り」の最初の動きがどのやうなものであつたかが、刻明に描かれてゐるのである。

「あのシーンとした国民の心の一瞬」の静寂は、ここでは、まず物理的なもの音によつて破られる。と同時に、その「誰やら金槌で釘を打つ」トカトントンといふ音は、そのしいんとした瞬間の「悲壮も厳粛も」ぶちこはしてしまふ。

それによつて、「憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で」その場に立ちつくす青年の姿は、一見すると、あの「天籟」を聞いたときの隠者の″呆然自失″のさまと似通つてゐるやうにも見える。しかし、このトカトントンなる音は、もちろん「天籟」ではない。これは明らかに「あのシーンとした国民の心の一瞬」の静寂を壊すものとして現はれてをり、その意味ではむしろ「天籟」と敵対するものと言つてよい。そしてこの小説「トカトントン」の主役は間違ひなくトカトントンの方なので、正確に言へば、太宰治は「天籟」の記憶を「持続しつづけ、それを表現した」といふよりも、「その記憶を持続しつづけ、それが壊されてゆくさまを表現した作家」と言ふべきであらう。
     (本書72・73頁)

上に引いた文章のなかで、私がとりわけ注目したいのは、最後の″太宰治は「天籟」の記憶を「持続しつづけ、それを表現した」といふよりも、「その記憶を持続しつづけ、それが壊されてゆくさまを表現した作家」と言ふべき″という箇所です。″天籟が壊されゆくさま″とは、端的に言えば、精神史としてとらえられたときの戦後史そのものです。

つまり、戦後史における人びとの心のなかのどこかしらにつねに潜在していて、時折ひょいと顔を出しては、私たちを「憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持ち」に陥らせ続けてきた当のものを擬音化すると「トカトントン」になるのです。その意味で、長谷川氏が、″精神史の病理として、この「トカトントン症状」は描かれてゐるのである″と言っているのは、正鵠を射た言葉です。例えば、〈日本国民は、戦争の惨禍を経験することによって、主体的に戦争を放棄し平和国家として生きることを決意したのだ〉という戦後神話につながるような言説が胸を張って展開される場面に触れるたびに、そこに敗戦による精神的麻痺状態の所在が感じられて、私は「トカトントン」の虚しい響きが聴こえてくるような気がします。

平たく言えば、強国アメリカにコテンパンにやっつけられて尻尾を巻いているだけのことを、変に力んで美化しようとするなよ、と言いたくなってくるのです。もっと卑近なことを言えば、あまり偉そうに言えた義理じゃないのですが、〈市民として〉と言いたがる人に限って、どこか個人的な勇気に欠けるところがあって、そのことをカモフラージュするために、そう言っているような気がしてならないのです。そういう空言・虚言がまともな言説としてまかり通っている場面に触れると、私は、つい「トカトントン」の響きが聴こえてくるような気がしてしまうのです。

これは、長谷川氏自身きちんと別の言い方で指摘していることですが、「トカトントン」は、実は、数ヵ月後に自死をひかえた三島由紀夫の次の言葉によってイメージされた将来の日本なるものとも内的な関連があります。

私はこれからの日本の大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機質な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つている人たちと、私は口をきく気にもなれなつているのである。   (本書83頁)

これは、「トカトントン」という音を視覚化して表現したものとしてとらえることができます。ユーモアがあるかないかの大きな違いはありますが、日本の行く末について抱いたイメージに関して、太宰と三島とは、とても近いところにいたのです。つまりふたりは、ほとんど同じものを見ていた。また、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という思いの切実さにおいても、ふたりはよく似ていました。さらには、その思いの切実さが、一種独特の戦友感覚に根ざしていた点も、情死の姿をとった戦死という、死に方における二重性もそっくりです(この点、おそらく異論があることでしょう)。ちなみに、もっとも大きな違いは、太宰には土着的なものに根ざした語り部が息づいていたのに対して、三島にはそういうものはなくて、ひたすらなる人工的な観念の構築物への意志があるだけ、という点です。

ここでひとつ、ずっと気にかかっていたことに触れたいと思います。当ブログの寄稿者でもある小浜逸郎氏が、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書・二〇一二年)において、戦前の思想家四名、戦後の思想家三名を取り上げています。そのなかで、福澤諭吉は別格として、戦中に書かれた和辻哲郎『倫理学』、時枝誠記『国語学原論』、小林秀雄『無常といふこと』と比べると、戦後の吉本隆明、丸山真男、大森荘蔵の諸著作はどうしても見劣りがしてしまう、という率直な感想を述べています。それは、なぜなのでしょうか。その理由がひとつでないのはそのとおりなのでしょうが、私には、そのことと、戦後思想が″「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました″という大東亜戦争の絶対性を集約した声と正面から向き合うことなく「生の方へ歩きだした」日本人だけにその視線を向けたこととの間には、深いつながりがあるような気がしてならないのです。言いかえれば、和辻や時枝や小林がそれらの著書に取り組んでいたとき、彼らはみな、″死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました″という声と向き合わざるをえない情況にあった。つまり彼らは、大東亜戦争の絶対性と自分の思想的営みとがどう切り結ぶのかという課題に対して、言い逃れがきかない状態に身を置き続けたのです。そのことが、戦後思想に対する彼らの卓越性をもたらすことにおおいに関連があるのならば、戦後思想がいやしくも思想的劣位にあることに甘んじるのを潔しとしないのなら、とにもかくにもその声と素手で向き合う勇気をふるうよりほかにないことだけは確かであるような気がします。その課題の前では、知識人を気取っている場合ではないのです。

(ここで、大急ぎでつけ加えておきたいことがあります。それは、先の三島由紀夫の日本人に対する遺言のような言葉に対して、それを全面的に肯定することに、いささかためらうところがあるということです。端的にいえば、「豊かになって何が悪い。豊かになることは、それ自体、とても重要なことで、それをどこか軽く見る思想的な構えは、それが三島のものであろうと誰のものであろうと、到底受け入れることはできない」という言葉になります。そこを言わなければ、私たちは、もうひとつの虚偽に陥ることになります。これはこれで、とても込み入った問題に発展しますので、ここでは、これだけにとどめておきます)

話を戻しましょう。戦後まもなくの時期において、太宰が、「トカトントン」の響きに耳を傾けることで、その後の戦後精神史に対して予言的なスタンスをとることができたのは、その思想的身体において「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という声と真正面から向き合おうとする姿勢を崩さなかったからです。そうして、その姿勢の核には、太宰独特の戦友感覚が存在した、という意味のことを先に述べました。そのことに触れておきましょう。

彼独特の戦友感覚は、「散華」(一九四四年・「新若人」三月号)を読めば、よく分かります。『散華』については、私が触れるまでもなく、本書で長谷川氏が詳しく取り上げています。長くなりますが、とても印象的で胸を打つ文章なのでそのまま引きましょう。

この「散華」といふ短篇には三人の若者が登場するのであるが、そのうちで話の中心となるのは三田君といふ青年である。鉄縁の眼鏡をかけ、「俗にいふ『哲学者のやうな』風貌」の三田君は、しずかに黙って作者の話を聞きながら、その話の「たいへん大事な箇所だけを敏感にとらへて」うなずく、といつた若者であつたといふ。

やがて三田君は、作者の友人の山岸氏のもとで詩を学ぶやうになり、山岸氏に彼のことをたづねてみると、「いいはうだ。いちばんいいかも知れない」と言ふ。しかし作者自身は、三田君の書く詩が、どれもそれほどよいとは思へず、首をかしげてゐた――そんな風に太宰治は書いてゐる。

その後一時体をこはしてゐた三田君は、元気になるとすぐ兵役につき、何度か葉書をよこすのだけれど、やはり作者はどうも感心しない。「山岸さんから『いちばんいい』といふ折紙をつけられてゐる人ではないか」と不満を感じてゐる。と、そこに最後の一通が届く。


御元気ですか。
遠い空から御伺ひします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。


この葉書に、作者は「最高の詩」を見る。

「うれしかった。よく言つてくれたと思つた。大出来の言葉だと思つた」と作者は言ひ、三田君が本当に「『いちばんいい詩人』のひとりである」ことを、からりと何の疑ひもなく信じるに至つたと語る。

やがてその年の五月の末、アッツ島の守備隊が玉砕し、八月末の新聞で、その名簿のなかに作者は三田君の名前を発見する。「任地」とはアッツ島のことだつたのである。「任地に第一歩を印した時から、すでに死ぬる覚悟をしてをられたらしい」と作者は言ふ。そして、「そのやうな厳粛な決意を持つてゐる人は、ややこしい理屈などは言はぬものだ。激した言ひ方などはしないものだ。つねに、このやうに明るく、単純な言ひ方をするものだ。さうして底に、ただならぬ厳正の決意を感じさせる文章を書くものだ」と述べたあと、最後にもう一度、あの三田君の便りを引いて、「散華」は終わつている。
 (本書87~89)

これにつけ加えることがあるとすれば、三田君の最後の便りは全部で三回引かれていることと、太宰が作中で自分を詩が分からぬ田舎者として自虐的に描いている点を除いては、ユーモアはなるべく抑えられていて、三田君の最後の便りが全編に響きわたるように書かれている点くらいです。

このくだりから、大東亜戦争の絶対性を受け入れることで、戦場において戦う友と文学という場で戦う太宰とが固く結ばれているのが分かります。太宰の戦友感覚とは、そういうものなのです。太宰自身作中でそのことを「純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力している事に於いては、兵士も、また詩人も、あるいは私のような巷の作家も、違ったところはないのである」と率直に語っています。それは、「生の方へ歩きだした」戦後に取り残された太宰にとって、無視し得ぬ大きな負債のようなものになったはずです。そうして、結局戦後の太宰は、それに殉じることになったのではないかと、私は考えます。彼は、戦後を生き抜きえない文学者であることを宿命づけられていたという印象がどうしても強く残るのです。その点、戦後思想的な弛緩とは無縁の人でした。

太宰が「天籟」を聴いたのは確かなことでしょう。しかし彼が、その神学的な中身に深く言及することはあまりなくて、もっぱら、それが壊され続ける事態にその鋭敏な感性を働かせることになりました。八月十五日の神学的中身は、依然謎のまま、吉本隆明にバトンが渡されます。


長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その4)
――吉本隆明における「神への憤怒」――




吉本隆明は、私の読書歴において、もっとも影響を受けた思想家のひとりです。と同時に、自分のこれまでの人生の無意識の舵取りにおいても、少なからぬ影響を受けたような気がしています。人生には、書を読んだり、ものを考えたりすることのほかにたくさんの楽しいことや豊かなことがあります。ところが、それらの多くをあたら犠牲にして、書を読んだり、ものを考えたり、さらには、それを文字に写し取ったりすることに、私は、自分の持てるエネルギーの大半を費やす生き方を選ぶことにいつのまにかなってしまいました。私は大学の先生でもないのですから、そんなことをしてもあまりお金にはつながりません。そんな無謀な生き方を選ぶうえで、吉本隆明の存在が濃い影を落としているような気がするのです。そういうこととあまり縁のない方からすれば、私の言っていることは、おそらく大げさに聞こえるものと思われますが、若いころに吉本隆明に入れこんだ経験がお有りの方ならば、すんなりと分かっていただけるのではないでしょうか。ちなみに、私が2009年に書いた『にゃおんのきょうふ』には、吉本隆明との訣別を果たす、という意味合いが込められていました。

だから、吉本隆明については、私なりに、考えられるだけのことは考えてきたと思っています。それは、吉本にこだわりつづけることで半生を棒に振った者としてのなけなしの自負のようなものです。

しかるに『神やぶれたまはず』において、長谷川氏は、私がまったくと言っていいほどに考えの及ばなかった鮮やかな吉本像を提示しています。しかし、それは、奇を衒ったものではなくて、本書におけるそれまでの論の運びからおのずと浮びあがってきたという趣なのです。そのことにも、私は少なからず衝撃を受けました。つまり、その吉本像は、言われてみれば「コロンブスの卵」のようなものだった、ということです。そこに焦点をしぼってお話しましょう。

まず、気になるのは、吉本が戦争体験なるものをどう捉えていたのか、です。長谷川氏は、それをうかがわせる文章を『高村光太郎』から引きます。

戦争のような情況では、だれもその内的な体験に、かならず生命の危険をかけている。だから、この体験を論理づけ、それにイデオロギー的よりどころをあたえれば、もはや他の世代にたいして和解するわけにはいかない重大な問題を提出することを意味する。わたし自身にしても、戦争期の体験にたちかえるとき、生き死にを楯にした熱い思いが蘇ってきて、もはやどんな思想的な共感のなかへも、この問題を解決させようとはおもわなくなってくる。

長谷川氏が指摘するように、ここに示された吉本の構え方は、「その2」で取り上げた桶谷の「原体験」にそっくりです。また、氏によれば、それを「支える思想も、驚くほど似通つてゐる」として、同じく『高村光太郎』から、次の文章が引かれます。

わたしは徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた。死は、すでに勘定に入れてある。年少のまま、自分の生涯が戦火のなかに消えてしまうという考えは、当時、未熟ななりに思考、判断、感情のすべてをあげて内省し分析しつくしたと信じていた。

長谷川氏がいうごとく、「まさしくこれは、桶谷氏の語つてゐた、あの「本土決戦」の思想そのもの」です。

では、ふたりの間で何が決定的に異なるのでしょうか。長谷川氏によれば、それは、敗戦という事実に直面した場面における、あるいは、その後における天皇その人に対する態度です。しばらく、氏の言葉に耳を傾けましょう。

吉本氏は、神に向けられるはずの怨みや憤りを、なにかしら別の方向へと向けてしまふ。あの、自らの戦争体験のもつ神学的な側面についてはつきりと語つたインタヴューにおいてすら、「生き神さん」や天皇についての恨みがましい言葉は一つも語られてゐない。ただ、「戦後は、自分が天皇を生き神さまと考えたことには問題があったなと思いましたが」といふのみで、天皇自身、「生き神さま」自身に問題があった、とはひと言も語らないのである。

このやうな吉本氏の姿勢は、「天皇はわたしにとって死んだ」と断言する桶谷氏と、際立つた対照をなしてゐる。桶谷氏は、敗戦後、村に天皇自決の噂が流れたといふことを回想し「一度死んだものがもう一度死ぬなどとはゆるしがたい愚劣であった」といふ激しい言葉でその憤りをあらはしてゐる。さうした憤怒の表明は、吉本氏の場合、まつたく見られないのである。
 (本書152頁~153頁)

同じような戦争体験観を持ち、同じように本土決戦での決死を覚悟したふたりが、天皇その人に対する態度において、かくも異なってしまうのはなぜなのでしょうか。それについて、長谷川氏は次のように述べます。

おそらくそれは、桶谷氏がいはば紙ひとへのところで、天皇を神とは考へてゐなかった、といふことによるのであらう。たしかに、桶谷氏は三島由紀夫の語つた「神の死の怖ろしい残酷な実感」といふ言葉に共感し、その実感は自分にも「おぼえがある」と言つてゐる。しかし、桶谷氏の場合には、それは微妙なところで比喩的な表現にとどまつてゐたのだと思われる。(中略)ただ一つ、両氏が異なつてゐたのは、「神と己との直接性の意識」をもとめるか否か、といふ点であつたと思はれる。桶谷氏には、そのやうなものを求める必要はなかつた。

氏はなによりも「民族の歴史と神話を信じていた」のであり、天皇はただ、その信仰に「密着した何か」であつたにすぎない。

これに対して、吉本氏にとつての「生き神さん」は間違ひなく「神」であつた。そこに「神と己れとの直結性」をもとめうるほど、確固とした神であつた。また、その直結性を拒まれたとき、その憤怒が、ほとんどユダヤ教における〈神への憤怒〉の逆説に近づくほど、それはリアルな実感に裏打ちされた「神」なのであつた。

だからこそ吉本氏は、ちやうどユダヤ教徒やキリスト教徒が神への憤怒を口にしないやうに、天皇や「生き神さん」への憤怒を口にすることがないのである
  (本書153頁~154頁)

私がさきほど「私がまったくと言っていいほどに考えの及ばなかった鮮やかな吉本像」とは、上に引いた文章の終わりの二段落の太字で示された部分です。

また、ここまではっきりと特異な吉本像を描き出した文章を、私はほかに知りません。この吉本像を補助線にすると、吉本隆明の次の有名な文章の味わいがとても深いものになります。

敗戦は、突然であった。都市は爆撃で灰燼にちかくなり、戦況は敗北につぐ敗北で、勝利におわるという幻影はとうに 消えていたが、わたしは、一度も敗北感をもたなかったから、降伏宣言は、何の精神的準備もなしに突然やってきたのである。わたしは、ひどく悲しかった。その名状できない悲しみを、忘れることができない。それは、それ以前のどんな悲しみともそれ以後のどんな悲しみともちがっていた。責任感なのか、無償の感傷 なのかわからなかった。その全部かもしれないし、また、まったく別物かとおもわれた。生涯のたいせつな瞬間だぞ、自分のこころをごまかさずにみつめろ、と しきりにじぶんに云いきかせたが、均衡をなくしている感情のため思考は像を結ばなかった。 (『高村光太郎』より)

吉本は、ここで自分自身いまだにはっきりとこういうものだとは言い得ぬ「名状できない悲しみ」を味わった体験を生々しく語っています。いつまでたってもその意味が自分にとってはっきりしないけれど、その記憶が鮮やかな体験とは、少なくとも通常のものではなくて、いわば異常な体験です。個人の実感を超え出たところを有する体験である、とも言えるでしょう。

この言葉に、平成十六年に行われたインタヴューにおける「僕は家族のためにも祖国のためにも死ねないと徹底して考えて、出した結論が天皇のため、生き神さんのためなんです。(中略)生き神さまは政治に直接には関与しないけれど、国家を一人で背負う巫女的な存在で、その眷属が政治をおさめる天皇になる。立憲君主なんてやつでなく、昔からそういう信仰で日本は統治されてきたわけで、こいつのためなら死んでもいいと当時はリアルに感じられたんです」という発言を重ね合わせると、次のことが浮びあがってくるように思われます。

当時の皇国青年・吉本隆明は、彼なりのやり方で、大東亜戦争という絶対的なものを闘っていました。そうして、天皇という「生き神さん」のためなら死ねるという思いを固めるに至りました。つまり吉本は、「神の前に自らの死をさしだ」す腹を決めたのでした。ところが、突然にもたらされた敗戦において、吉本は、「生き神さん」から、そのささげものを拒否され「生きよ」と命じられることになりました。そのときに彼が感じた「名状できない悲しみ」にじっと目を凝らしてみると、それは、神を深く信じていたからこそ感じる激しい〈神への憤怒〉を、神をなおも信じ続けようとするからこそ、表出できないという、だれに対しても説明し難い深い不条理感から湧き出た感情であることが分かってきます。

このときの吉本は、絶対性を帯びた大東亜戦争を観念的な意味で極限まで闘い切ったがゆえに、敗戦という晴天の霹靂によって、しばらくは立ち上がれないほどの精神的な打撃を受けることになりました。しかしそのことによって、吉本は、図らずも、文化の違いという通常は超え難い壁を超えて、実は神学の領域という普遍的な場に足を踏み入れていたのです。苦しくとも、そこに留まり、そこを深堀りしたならば、吉本は、「戦後」の限界を突破するとても大きな普遍思想を掴み取ることができたのかもしれません。あるいは、その営為は吉本を狂気あるいは死に追い込むことになったのかもしれません。

いずれにしても、戦後の吉本は思想家としてその道を選びませんでした。そのことで吉本は、彼の崇拝者たちから「戦後最大の思想家」と呼ばれるほどの存在になったのですから、思想家として悪い選択をしたとは言い切れません。その歩みをたいしたものだとも思います。しかしながら、彼が選んだ道が、彼自身を含めた日本の「大衆の原像」が被った敗戦のトラウマを根のところから乗りこえる契機を有するものではなかったことだけは確かです。長谷川氏は、どうやらそのことをとても残念がっているようで、本書に次の言葉を記しています。

吉本隆明氏の敗戦時に体験した「やるかたない痛憤」は、その核心部をみづから「ごまかさずにみつめ」ることのないまま、素通りされ、ずらされ、捨て去られてしまつた。ひょつとすると、われわれの敗戦体験を明らかにするための大きな手がかりを含んでゐたのかもしれない〈神への憤怒〉は、つひに白日のもとにさらけ出されることのないまま埋もれたのである。   (本書157頁)

ここで私は、桶谷秀明における戦後の日本人のあり方の「二分法」を評した長谷川氏の次の言葉を思い出します。

多くの人々が戦後の日本人のあり方をさまざまに分類し、評論してきたのであるが、言ふならば、それはすべて「生の方へ歩きだした」日本人のなかでの分類にすぎない。「生の方へ歩きだした」日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人と並べ置くといふ対比の仕方は、他に例を見ないものと言つてよい。

この言い方を借りれば、吉本隆明は、思想家として「『生の方へ歩きだした』日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人」や大東亜戦争の最中においてその絶対性に殉じた人びとと「並べ置くといふ対比の仕方」をしうるだけの貴重な敗戦体験をしながらも、その方法を捨てて、「生の方へ歩きだした」日本人にだけ視線を注ぐことで自分の戦後の道を切り開いていったと言いうるのではないかと思われます。それはそれで、いろいろと思想の果実をもたらしたことは確かなことだとは思います。しかしそれが、「われわれの敗戦体験を明らかに」し、それを大きく乗りこえることに資する道でなかったことだけは確かなのではないかと、私は考えます。

吉本思想の評価をめぐっては、長谷川氏の吉本評をひとつの大きなきっかけに、そう遠くない未来に地殻変動的な変化が起こるような気がしています。そのとき、護教的な吉本主義者は、おそらくその変化を乗り切ることができないのではないか。私たちが戦後思想の限界を乗り越えていくうえで、それは好ましいことなのではないでしょうか。

話を戻しましょう。吉本が抱き、あえて表出することのなかった〈神への憤怒〉を導きの糸にして、次は三島由紀夫の『英霊の聲』に目を凝らしてみましょう。 (続く)  
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 長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その1)(その2) (イザ!ブログ 2013・10・26,28 掲載)

2013年12月25日 05時24分59秒 | 戦後思想
長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その1)


詩人・伊東静雄

かつて私は、当ブログで木下恵介の『陸軍』を論じたことがあります。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/7ad13147688249e05a2d76171e2ec640 そのおり、当作品には本当の意味での反戦文学の契機が存すると述べました。また私たちが、反戦の意味を本気でつかもうと思うのならば、大東亜戦争の真っ只中に飛び込んでいって、かつての日本人たちとともに戦い、ともにもみくちゃになり、ともに敗戦のときを迎えるよりほかはないという意味のことを述べました。そうしてそれは、戦争を経験していない者にとっては、本質的に想像力の問題である、とも。戦後において流通している俗流歴史観によれば、反戦思想は、過ちの歴史を二度と繰り返さないという決意を固めることによって育まれるとされるのですが、私は、その「過ちの歴史」を何度でもくぐり抜ける観念の旅を敢行することによってしか、真の反戦思想は掴み取りえないと考えたわけです。

そこには、戦後に流通した「反戦」なる概念のまがい物性を否定的に乗り越えたいという私なりの思いがありました。もっと踏み込んで言ってしまえば、自由・平等・人権・平和などという、戦後に流通し続けてきた肯定的諸価値に対する疑念が湧いてくるのをいかんともしがたいという思いがありました。そういう諸価値に安住していられれば、どれほど楽に生きられるだろう、ということでもあります。何の因果で、かくも疑い深くなってしまったのか、自分のことながらどう考えてみてもよくわからないところがあるのです。私の場合、いわゆる保守思想にアクセスする以前からそうなのです。私には、そういう諸価値に何の疑いも持たずにそれらに基づいて言説を展開しようとする論者のナイーヴさに対する抜きがたい違和感や、さらには嫌悪感さえもがあります。そういう論者は、一種の「思想の敗戦利得者」の姿として私の目には映るのです。それは自分でも処理し難い激しい情念です。そこだけ取り出して言うならば、パリサイびとの偽善を激しく非難するイエスの気持ちが分かるほどです。

話を戻しましょう。反戦なるものにまつわって、そういうことを考えてはみたものの、そういう意味での想像力を発揮することは、実のところ言うは易く行うは難しなのです。なかなかその先へ進むことがかなわないままに、いたずらに時が過ぎていきました。

一国の歴史のうちには、ちやうど一人の人間の人生のうちにおいてもさうであるやうに、或る特別の瞬間といふものが存在する。

上記は、見返しと扉をめくった本書の「序」の冒頭です。それがすっと目に飛び込んできたとき、私は心の片隅に震えのようなものを感じました。それをあえて言葉にすれば、次のようになります。「お前はこれから日本の歴史においてとても重要なことを目撃する観念の旅を始めることになる。そうしてそれは、お前が考えようとして考えあぐねていたことに大いに関係のある旅である」。珍しいことに、そういう直観が働いたのです。

幸運なことに、その直観は当たっていました。だから、本書は私にとても実り多いものをもたらしてくれました。むろん、その分大きな課題も残されました。それらが具体的にはどういうことなのかをお伝えするのが、この文章の柱となるのでしょう。

本書は、文中の「ある特別な瞬間」とは何であり、そこで実は何が起こったのかにきっちりと答えています。というより、本書の論点はあえてその一点にぎゅっと絞り込まれています。著者ご自身によれば、それに直接関連しない事柄は、思いきりよくバッサバッサと刈り込まれました。だから、本書を読み終えた者は、それを肯定的に受け入れるにしても逆に拒否するにしても、本書から輪郭のくっきりとした歴史の一瞬の鮮烈なイメージを受け取ることは間違いありません。その意味で、本書は「読み手に、伝えたいことの核心だけを伝える」という書き手の姿勢が感じられて実に清々しいし、言っていることの責任の所在がはっきりしてもいます。それに対して批判的なアプローチが可能なのは分かりますが、私は、むしろ著者の潔いスタンスを諒とする者です。知性なるものは、懐疑においてよりもむしろ他を捨ててひとつのことを選ぶ決断においてこそ高度に発揮されるものであると思うからです。別言すれば、考えることは一定の決断に向けて開かれたものであることが必要である。なぜなら、そうであってこそ、言論の本当の意味での責任が生まれるからである。そう思うのです。

「ある特別な瞬間」とは何であり、そこで実は何が起こったのかについてとりあえずさわり程度に触れておきましょう。

「ある特別な瞬間」とは、一九四五年八月十五日正午に日本国民がラジオで昭和天皇の「終戦の詔書」を聴いたときに、国民の心のなかで起こったことを指しています。では、いったい何が起こったのでしょうか。著者は、それを語り切るために、戦後日本の選りすぐりの思想家たちとの語らいに十年の歳月をかけました。もちろん、ずっとかかりっきりというわけではなくて、気長に折に触れてという形だったのでしょうが、本書と取り組みはじめてから十年の歳月が流れたのは確かなことです。本書には、それだけの膨大な時間が織り込まれているのです。三〇五ページの、分厚いとは言えないほどの分量なのですが、読後、もっと大部の本を読んだような感触が残るのは、そういう事情があるからなのではないでしょうか。その歳月分の重みを尊重するならば、先の「国民の心のなかで起こったこと」をあっさりとここで言ってしまうことを、私はいささかためらってしまいます。もったいぶるわけではなくて、そうしてしまうと、それをはじめてご覧になった方(それを想定して、この文章を書いています)は、おそらく字面だけは追えるものの本当のところ何が何だかわからないのではないかと思われるからです。それではあまりにもったいない。

そこで、必要最小限のまわり道をして、著者の対話の相手となった思想家たちとのやり取りのポイントを順次押さえながら、そのとき「国民の心のなかで起こったこと」に肉薄して行こうと思います。そんな流れをたどることで、読み手が、本書の提示した鮮やかなイメージを等身大で受けとめることが可能になれば、私としては本望です。むろん、それを受け入れるにしろ、拒否するにしろ、ということです。そうして、それは私自身の問題でもあるので、出来うる限りそのイメージに対する私のスタンスも明らかにするよう心がけましょう。また、その一連の試みが、本書の単なる祖述に終わってしまったのではつまりませんから、折に触れて私見を織り込むことにします。もしもウザイと感じられたならば、そこは読み飛ばしていただいてもけっこうです。

著者の対話の相手を、掲載順に列挙しましょう。折口信夫、橋川文三、桶谷秀明、河上徹太郎、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫、そうしてデリダ。

あらかじめ申し上げておけば、吉本隆明や三島由紀夫との対話が最大のポイントになります。また、それらの重要性をくっきりとあぶり出すために、著者は、デリダの『死を与える』に焦点を当てようとします。その過程で図らずも、思想家としての吉本の価値と三島の『英霊の聲』の評価をめぐって、読み手は重大な視線変更を余儀なくされます。むろん、そのほかの思想家についても同じことが言えます。その意味で本書は、戦後においてもっとも考えるべきことをどこまで深く考えているかという観点から、戦後の諸思想家の大胆な読みかえ作業、さらには、戦後思想のパラダイム変更を敢行しているともいえるでしょう。本書は、思想書としてとても刺激的で挑戦的な本なのです。

それでは、そろそろ本文に入ってゆきましょう。

本文の冒頭に登場するのは、折口信夫が戦後まもなくに書いた詩「神 やぶれたまふ」です。

「神やぶれたまふ」

神こゝに 敗れたまひぬ─。
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内つ御庭(ミニハ)の
宮出でゝ さすらひたまふ─。

くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて
蛆 蠅(ハヘ)の、集(タカ)り 群起(ムラダ)つ
直土(ヒタツチ)に─人は臥(コ)ひ伏し
青人草(アヲヒトグサ) すべて色なし─。

村も 野も 山も 一色(ヒトイロ)─
ひたすらに青みわたれど
たゞ虚し。青の一色
海 空もおなじ 青いろ─。


著者は、「ここには、絶望の極まつた末の美しさ、酸鼻のきわみのはてに現はれる森と静まりかえつた美しさといふものがあ」り、「昭和二十年八月十五日正午の、『あのシーンとした国民の心の一瞬』のかたち」があると評します。「あのシーンとした国民の心の一瞬」とは、河上徹太郎が敗戦後ほどなく書いた「ジャーナリズムと国民の心」の一節であり、後に桶谷秀明によって『昭和精神史 戦後篇』(平成十二年)に再録されることになったものでもあります。詩の終末部の青のイメージには、八月十五日の快晴のそれが織り込まれています。そのイメージは、詩人・伊東静雄の日記の次の一節にもはっきりと顔をのぞかせています。

十五日陛下の御放送を拝した直後。
太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面を木々を照し、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然に起こらないのが信ぜられない。  
(101頁)

この一節に込められた不可思議な激情が、時の風化作用を経てなおも遠く残響として残ったときに、それは、次のような世にも美しい叙情詩として結晶しました(この詩は本書からの引用ではありません)。

夏の終り

夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐわしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落とす静かな翳は
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
いちいちさう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田(みずた)の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
ずっとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる


         (詩集『反響』創元社・一九四七年 より)

「気のとほくなるほど澄みに澄んだ/かぐわしい大気の空をながれてゆく」「白い雲」。このイメージの淵源は、上記の日記の一節の「太陽の光」が「透明に強く田と畑の面を木々を照」す中に「静かに浮か」ぶ「白い雲」に求めることができるでしょう。動いているかとどまっているかの印象の違いはありますが、前者に〈時の流れ〉を織り込めば後者になると解釈すると、両者はスムーズにつながるのではないでしょうか。

私が頭をつっこみかけているのは一種の作品論ですから、異論があるのは承知していますが、要は、伊東静雄にとって、八月十五日の森とした青空のイメージが、一種のアーキタイプ(元型)のようなものとして心の奥深くに貼り付いてしまったことが確認できれば、私としてはそれでいいのです。そうでなければ、「夏の終わり」のような決定的で鮮やかな印象を与える叙情詩を書くことは不可能であると思います。

そうして、その同じ事態が、伊東静雄のみならず、折口信夫にも、橋川文三にも、桶谷秀明にも、太宰治にも、吉本隆明にも、三島由紀夫にも、それぞれ個性の数だけのバリエーションを伴いながらも、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)の形で起こった。本書は、そのように読み手に語りかけ、そのことの深い意味合いの気づきに読み手を誘い込んで行こうとするのです(磯田光一を外したのには、後述しますが、訳があります)。

流石に折口は、著者によれば、敗戦のアーキタイプの意味をきちんとつかんでいます。彼は、敗戦の只中から、新しい神学を打ち立てる必要性を悟り、学生たちに「あなたがたの中に、神道の建設に情熱を向ける者が出てもらいたい」と熱をこめて語りかけているのです。

しかし折口の「新しい神学」を打ち立てる試みは挫折しました。それは何故なのでしょうか。その理由を語るには、彼の愛弟子の春洋(はるみ)のことに触れないわけにはいません。

本書によれば、石川県能登半島生まれの「藤井春洋は二十一歳のときから折口の家に身を寄せ、出征まであしかけ十六年間、生活をともにしつつ折口の薫陶を受けた、文字通りの愛弟子」です。折口の同性愛的な傾向を考えれば、当然肉体関係もあったのでしょう。そんな存在であった春洋が、一九四三年、二度目の召集を受け、金沢歩兵聯隊に入営し、四四年七月、硫黄島に着任し、陸軍中尉を拝命するのですが、同月に、折口信夫の養子として入籍します。本書によれば、「氏にとって藤井春洋氏を失ふといふことは、我が子を失ふことであると同時に自らの学問の後継者を失ふことであり、また自らの生活そのものを失ふことでもあった」とあります。まったくもって、そのとおりだったことでしょう。四五年三月十九日、春洋は硫黄島にて戦死しますが、それを知った後の折口の取り乱しぶり、落胆ぶりは、身も世もないほどのものだったようです。そうして彼は、死に至るまでついにその精神的な打撃から回復することがかなわなかったようでもあります。折口は春洋の故郷の能登一ノ宮に父子の墓を建て、次のような碑文を刻んでいます。

もっとも苦しき  たたかひに  最もくるしみ  死にたる
むかしの陸軍中尉  折口春洋  ならびにその 父 信夫の墓


この碑文は、折口の心にぽっかりと空いた傷口が遂にふさがらないまま鮮血を流し続けたことを生々しく伝えています。こうしたことを踏まえたうえで、長谷川氏は次のように述べます。

折口信夫氏は、明らかにその(すなわち、大東亜戦争の――引用者補)「絶対的なもの」を垣間見てゐた。さもなければ、あの「神 やぶれたまふ」のやうな詩が書けたはずもないし、また「神道宗教化」を言ひ出したはずもない。しかし、氏にとって、その「絶対的なもの」をそれとしてつかみ出すのは、ほとんど構造的に不可能なことであつた。単に、折口氏が自らの悲歎をのりきることができず、それを見つめる勇気に欠けてゐた、といふのではない。実は、本来それを為すべき者は折口氏ではなしに、「息子」の春洋氏であつた。

長谷川氏は、ここで一見謎めいたことを言っています。ここで述べられていることをまっすぐに受けとめるならば、著者は、″新たな神学を打ち立てるのは、折口信夫にとってはなはだしい難事であって、実は「息子」の春洋にしかできないのだ″と言っているように読めますね。それは、いったいどうしてなのでしょうか。その謎解きは、デリダの『死を与える』を論じるときまで待たなければなりません。デリダはそこで『旧約聖書』の「イサク奉献」を取り上げるのですが、その詳細については、そこで説明しようと思います。(*と言いましたが、いま取り組み中の「その4」三島由紀夫編で、先取りしています。2013・12・25 記す)とりあえず端的に、著者は″イサクの父は、実のところ神学の真髄の内側に入ることができない。それができうるのは、息子のイサクである。折口信夫はあくまでも「イサクの父」の立場にあり、藤井春洋こそが「息子のイサク」立場にある。だから、折口が新らしい神学を打ち立てるのは構造的に不可能なのだ″と言っている、とだけ申し上げておきましょう。

次に対話者として登場するのは橋川文三です。長谷川氏によれば、橋川文三は、″「戦争体験」を「絶対的な戦争をやつた経験」として語らうとした人″です。私としても、それに異論はありません。保田与重郎を排撃・無視しようとする戦後の風潮のなかで『日本浪漫派批判序説』(一九五九年)を世に問い、自分はなにゆえ戦時中保田に強く惹かれ続けたのかをきちんと述べようとした橋川の心に、〈絶対的なものとしての大東亜戦争〉という観念があったことは間違いないと思われるからです。

橋川文三には、戦前と戦後をどうつなぐかという課題をめぐっての遠大な構想があったようです。彼は、戦前と戦後とを分断している、先の大戦と敗北という結末そのものの内に「超越的な価値」を見出そうとしました。つまり、戦前と戦後とを分断しているものの核心に両者をつなぐものを見出そうとしたのです。その分かりにくい難事を成し遂げなれば、両者はつながらないという確信が彼にはあったのでしょう。彼は、日本人が体験した戦争・敗戦と「イエスの死」とを対比させて、その分かりにくいことがらの重要性をなんとか伝えようとします。

私は、日本の精神伝統において、そのようなイエスの死の意味に当たるものを、太平洋戦争とその敗北の事実に求められないか、と考える。イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、太平洋戦争は、たんに年表上の歴史過程ではなく、われわれにとっての啓示の過程として把握されるのではないか。 (「『戦争体験』論の意味」)

著者の言葉を使うならば、橋川はここで、太平洋戦争とその敗北の事実を「神学的な領域」として把握し、そこに踏み込む入口に立っています。「イエスの死」を持ち出すことによって、彼がそのことをはっきりと自覚していたことが分かります。そういうアプローチをしなければ、その歴史過程を「超越的原理過程」としてつかみ取ることはかなわないことを、言いかえれば、戦前と戦後とをつなぐことはかなわないことを、彼はよく分かっていたのです。

しかるに、この論考が書かれてからおよそ二十年後の昭和五四年に、橋川は、次のような言葉をもらしています。

結局あの戦争はあったことはあったが、なかったといっても少しもかわらないことになる。  (41頁)

謎めいていて、また、相当に過激でもあるこの言葉を、著者は、次のように受けとめます。

これは、橋川氏の「戦争体験論」そのものの敗北宣言である。戦争体験のうちに「超越的意味」をさぐらうと求めつづけて、つひにその試み自体がつひえ去つたことを自ら認めた宣言である。(中略)けれども、見方を変へれば、橋川氏は自らのあの企てを忘れ去つてはゐなかつたのだ、といふことにもなる。「あの戦争」に、なにか超越的な意味をさぐらうとしつづけた人間でなければ、このやうなことは決して言へない。  (41頁~42頁)

自分の試みがどういう性格のものであるか十分に分かっていたはずなのに、橋川の試みはなにゆえ失敗してしまったのでしょうか。それは、「あの戦争」を太平洋戦争と呼んでしまったところに、致命的な誤りがあると著者は言います。著者によれば、この呼称を選んだ段階で、橋川はあらかじめ「戦争体験」をその内側からとことん掘り下げる道筋を放棄しているのです。


それは、橋川氏がいかなるイデオロギイ、いかなる歴史観にくみしてゐるか、といふこととは直接にかかはらない。それは、ただ端的な事実――「太平洋戦争」を体験した日本人はゐないといふ事実――によるのである。自ら積極的に戦争に参加した人であれ、不満をかかへつつそれを横目でながめてゐた人であれ、すべての日本人は「大東亜戦争」を体験したのであつて、それ以外ではない。 (40頁)

たかが呼称、されど呼称なのです。「あの戦争」について正鵠を射た問題意識を持ちながらも、橋川が呼称の問題につまずいて、戦争体験を徹底的に内側から掘り下げる道をまえもって自分から塞いでしまったという思想の悲劇に、私は、戦後の言語空間の歪みの強度のはなはだしさをあらためて感じる思いがします。

十月二十日に、私は、著者の長谷川三千子氏を交えての本書の読書会に参加しました。そのとき、当ブログに本書の書評をお書きになった由紀草一氏が、「自分が『軟弱者の戦争論』(2006)を書いたとき、大東亜戦争という呼称を使うのに、けっこう勇気が要った。それがいまでは、その呼称を使っても、そのときほどの抵抗感がない。そこに、時代の変化を感じる」という意味のことを言っていました。私なりの言い方をすれば、いまは以前とくらべると戦後の言語空間の歪みからいささかなりとも距離を置くことが可能になったのではないかと思われます。本書もまた、それを可能とすることに大いに貢献しているのではないでしょうか。私たちは、もう二度と、橋川文三の思想的悲劇を繰り返してはならないのです。 (続く)



長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その2)



私は、長谷川氏の文章にとても惹かれます。旧仮名遣いが特徴的なその文章には、独特の、読み手の身体性に心地よくなじむゆるやかなリズムがあって、いちどハマったらクセになってしまう、危険な文体でもあります。なんというか、読み進みながら、すぐ傍らで著者自身が丁寧に朗読している声が聴こえてくるような雰囲気が感じられるのです。それで、読書会のときに、ご本人にご自分の書き進めている文章は朗読して出来具合を確認していらっしゃるのかどうか訊いてみました。すると、「いい気になって書いた文章を翌日みると『ああダメだ』とガッカリしてしまうことがしょっちゅうです。何度も読み返してみて、こういう感じかなという感触が得られるところまで直します」という意味のことをおっしゃいました。それで、いま述べた、氏の文章を読み進めるときの自分の感触がこういうものだと正直に言ったところ、「そういう感じなら、私の読み返しはなんとか成功したのでしょう」とのお答えでした。氏の見事な文章の陰には、無限の推敲があることを知って、感慨を新たにしました。

さて、本文に戻りましょう。次に登場するのは、桶谷秀明の『昭和精神史』と『昭和精神史 戦後編』です。これらは、合わせると文庫版で約1300ページという膨大な量の書物であるのみならず、内容の点でも、昭和を生きた日本人の心の歴史を考えるうえで到底無視し得ない存在です。その意味で、桶谷のライフ・ワークとも言えるでしょうし、戦後の広い意味での思想史においても、ひとつの「事件」と形容しても過言ではなかろうと思われます。私が主宰している読書会でもかなり力を入れて取り上げたことがあり、読書仲間とかなり突っ込んだ話をし、その詳細にもいろいろと触れはしましたが、いまもっとも鮮やかに残っているのは、なぜか、桶谷の思想家としての孤独な精神の立ち姿です。お会いしたこともないし、いまどんな顔をしているのかもよく分からないのですが、それは確かなことです。

そういえば、その孤独な立ち姿は、どこか橋川文三のそれに通じるところがあるような印象があります。その印象には、おそらく根拠があって、ともに〈大東亜戦争の絶対性〉という神学的リアリティを懐深く抱いて戦中をくぐり抜け、そのまま戦後という精神的異空間に放り出された者に特有の孤独を刻印されている、ということなのでしょう。

いささか脇道にそれますが、それで思い出したのは、当ブログでも触れたことのある小野田寛郎氏の存在です。彼もまた、「〈大東亜戦争の絶対性〉という神学的リアリティを懐深く抱いて戦中をくぐり抜け、そのまま戦後という精神的異空間に放り出された者」のひとりです。ただし、彼の場合、本当にいきなり放り込まれた点と、戦後という精神的異空間が高度に確立された只中に放り込まれた点が、彼らとは違います。心の準備が一切できない状態で唐突に暴力的に放り込まれたのです。それを思うと、彼が抱いた孤独感には、到底余人にはうかがい知れない凄まじいものがあっただろうことが、戦争を知らない者にもじゅうぶんに分かるのではないでしょうか。と思うのですが、小野田氏が祖国に帰還してから一年足らずでそこを後にしたことを当時非難した者が少なからずいたそうです。それは、人の心をまったく思いやらない、野蛮で想像力のかけらもない言動にほかなりません。小野田氏のことについては、後にふたたび触れることがあるような気がします。

では、桶谷氏の敗戦時の精神の風景はどのようなものであったのでしょうか。長谷川氏は、次のような桶谷の印象深い文章にスポット・ライトを当てます。

敗戦の年、わたしは、北陸の山村にいて、芋がゆをすすりながら幼い弟妹を抱えていた母と、家族の生命を支えるために山の斜面のわずかな畠を耕す生活を送っていた。わたしは中学の二年になっていたが、数ヵ月前、中学を退学していた。乏しい食糧と農民の卑小な頑ななエゴイズムにとりかこまれた日常はやり切れなかった。召集された父はもはや帰らないと覚悟していた。じぶんについてはこの先どのようにして何年生きるなどという算段は問題外であった。

中学を退いたことをべつに残念ともおもわなかった。日本が永遠に亡びないと断定することは、わたしに生きることが無意味ではいと信じさせるに充分だった。

わたしは、この山村にいて、近く、竹槍をもって米ソの侵入軍と一戦をまじえ死ぬだけなのである。わたしの死地はこのやり切れない日常の世界であるはずだった。しかし、その日には、この日常世界は一変し、わたしたち日本人のいのちを、永遠に燃あがらせる焦土と化すであろう。わたしはそれを待っていた。
 (本書96頁・『土着と情況』所収「原体験の方法化について」昭和37年 より)

ここには、耐えがたい日常を忍びながら、それが「わたしたち日本人のいのちを、永遠に燃あがらせる焦土と化す」ときを息を凝らすようにして待っているひとりの皇国少年がいます。桶谷は、皇国少年であることを脱した後においても、その姿をある確信を持って描き出しています。″あのときはオレもいっぱしの皇国少年でね″などと頭を書きながら弛緩した精神で描き出しているのではありません。では、その「確信」とは何なのでしょう。長谷川氏は、次の文章を引用することで、それを説明しています。

現在、わたしのモチーフの究極のところにあるのは、いかに強力な史観、いかに優勢な時代精神のもとにあろうと、ひとりの人間の原体験は、それらと同等の独立した価値をもつという確信である。(本書100頁・従前)

ここで桶谷は、思想なるものに何かしらの形で関わろうとする者にとって、きわめて重要なことに触れています。彼が言わんとしていることを私なりに言いかえると、次のようになります。すなわち、″戦後は、命至上主義の世界であり、その考え方が圧倒的に優勢を占めている。しかるに、自分が皇国少年であった戦中においては、いかに死ぬかということが何より大事であった。それは、戦後思想からすれば、一顧だにされる必要のない、唾棄すべき全否定の対象となるほかはない。しかし、戦中における自分の精神の相貌には、自分の全存在の重量がかかっていた。そのことが自分にとって決定的な何かであることは間違いない。それゆえ、ものごとを突き詰めて考える場合、必ずといっていいほどに、自分の心はそこへ舞い戻る。その不可避の精神の在り処を自分は原体験と呼ぶほかはない。それを戦後思想的価値観に無造作に譲り渡すことは、自分で自分の首を締める振る舞いに等しい。そんなことは断じてできない″私は、桶谷の言葉をそういうものとして受けとめます。

そういう確信を持っているからこそ、桶川は、伊東静雄が日記に記した神話的な〈八月十五日のアーキタイプ〉について、次のように述べることができるのではないでしょうか。

この(伊東静雄の日記に記された神話的な原風景における――引用者補)内部感覚は、八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人と、すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人との結節点を象徴してゐるやうに思はれる。   (本書103頁・『昭和精神史』より)

この箇所について、長谷川氏は次のように述べています。

敗戦後の日本人をこのやうに二分法でとらへた人を、私はほかに知らない。あとで見るとほり、多くの人々が戦後の日本人のあり方をさまざまに分類し、評論してきたのであるが、言ふならば、それはすべて「生の方へ歩きだした」日本人のなかでの分類にすぎない。「生の方へ歩きだした」日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人と並べ置くといふ対比の仕方は、他に例を見ないものと言つてよい。   (本書104頁)

管見の限りですが、私もほかには知りません。この二分法は、〈大東亜戦争の絶対性〉がキー・ワードになるものと思われます。つまり桶谷は、大東亜戦争の最中にその絶対性に殉じた戦死者に、戦後において自ら命を絶つことで連なった日本人と、そうすることなく「生の方へ歩きだした」日本人とを対比させているのです。ここでひとつお断りしておきたいのは、私はなにも、大東亜戦争における戦死者が皆その絶対性に殉じたといいたいのではなくて、戦後において大東亜戦争を意識しながら自ら命を絶った日本人の心中には、その戦争の最中にその絶対性に殉じた戦死者の姿があっただろうことが申し上げたいだけです。さらには、どっちがいいとかわるいとかの問題ではないことも、誤解を恐れるがゆえに付け加えておきます。

長谷川氏は、この二分法をとても重視しているように感じます。つまり、敗戦という歴史的な事実に、〈大東亜戦争の絶対性〉に殉じた、広い意味での戦死者の存在が内在していることに対する感度があまり鋭くない思想家や文学者を、著者は、あまり評価していないように感じられるのです。その感度を、戦友感覚と言いかえると、少なくとも『戦後史の空間』の磯田光一には戦友感覚があまり感じられないし、石原慎太郎に至ってはまったくと言っていいほどに感じられないとして、本書においてかなり厳しい評価を下しているのです。彼らは、〈大東亜戦争の絶対性〉の問題をそれほどあるいはまったくといっていいほどに引きずることなく戦後空間に歩みだしているようなのです。それに対して、これまで取り上げた思想家や文学者には、鋭い戦友感覚があるとして高く評価しています。また、これから取り上げることになる太宰治や吉本隆明や三島由紀夫にも鋭い戦友感覚があるとされ、本格的な検討の対象になっているのです。彼らの戦後とは、敗戦のもたらした精神的な麻痺との悪戦苦闘の歴史であると申し上げても過言ではない、ということです。著者は、どうやら彼らのそこに向けて目を凝らしているようなのです。

桶谷秀明に、話を戻しましょう。桶谷は、先ほど述べたような敗戦の原風景に関する「確信」をさらに大きく独特の歴史観の形に広げて、『昭和精神史』と『昭和精神史 戦後篇』を著しました。これらの著書で、桶谷は八月十五日をどう描いたのでしょうか。著者が引用した箇所を孫引きしましょう。

八月十五日正午、昭和天皇の終戦の詔勅を聴いて、多くの日本人がおそはれた″呆然自失″といはれる瞬間、極東日本の自然民族が、非情な自然の壁に直面したかのやうな、言葉にならぬ、ある絶対的な瞬間について考へた。そのとき、人びとは何を聴いたのか。あのしいんとした静けさの中で何がきこえたのであらうか。

『天籟』(てんらい)を聴いたのである、と私は(『昭和精神史』の第二〇章で――引用者補)書いた。天籟とは、荘子の『斉物論』に出てくる言葉で、ある隠者が突然、それを聴いたといふ。そのとき、彼は天を仰いで静かに息を吐いた。そのときの彼の様子は、『形は槁木の如く、心は死灰の如く』『吾、我を喪ふ』てゐるやうであつたといふ。

そういう状態でなければ『天籟』は聞こえない、と荘子は隠者の口を通して語つてゐる。
 (本書61頁 『昭和精神史 戦後篇』より)

桶谷は、八月十五日正午、日本人は、昭和天皇が終戦の詔書を読み上げるのを聴きながら、音なき音としての「天籟」を聴いた、と言うのです。ふつうに考えれば、そう言われて「そうですか」と素直に納得してうなずく読み手はいないでしょう。平成三~四年当時の人々は、この言葉に触れて、はじめはキョトンとし、やがて、著者に対して憐憫の情を抱くか、何もなかったことにするかのいずれかだったでしょう。たとえ、他の箇所に大いに感動していたとしてもです。

私自身、読書会でつぶさに内容を検討した気でいましたが、残念ながら「天籟」という言葉の印象はあまり残っていなくて、せいぜい、桶谷好みのレトリックが使われているのだろうくらいにしか受け取らなかったと思います。桶谷自身、「だから、どうしたといふのか。そんな怪訝をともなふ反感あるいは薄ら笑ひを、私はたびたび経験したが、賛意をつたへてくれた人はひとりもゐなかつた」と言っているくらいです。さらには、「私のいつてゐることは独断妄念にすぎないのであらうか」とまで突き詰めています。ここで桶谷は、孤独な想念を抱いた者が不可避的に襲われる不安を率直に語っています。

その不安を払拭するかのように、桶谷は、「天籟」という言葉で自分が指し示そうとした事態に同じように気づいたと思われる四人の文章を引用します。それは、昭和二十年九月五日の朝日新聞の社説の筆者と伊東静雄の前回引用した日記の一節と河上徹太郎の文章と太宰治の小説「トカトントン」です。

河上徹太郎の名とその文章のごく一部分は、前回の当文章に出てきましたが、とても重要なものなので、ここできちんと掲げておきましょう。

国民の心を、名も形もなく、ただ在り場所をはつきり抑へねばならない。幸ひ我々はその瞬間を持つた。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違ひはなかつた。又、あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曾て持つたか、否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか、私は尋ねたい。御望みなら私はあれを国民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。ただ国民の心といふものが紛れもなくあの一点に凝集されたといふ厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起こしたいのだ。今日既に我々はあの時の気持ちと何と隔たりが出来たことだらう!                                        (本書50頁 「ジャーナリズムと国民の心」より)

河上徹太郎の文章を真正面から受けとめるならば、桶谷が「天籟」という言葉によって指し示そうとした何かとても重要なことが、八月十五日には確かにあるようです。それは、伊東静雄が詩的直観によって神話的なアーキタイプとして定着したイメージともどうやら深い関連がありそうでもあります。そこまでは、おぼろげながら私にも分かってきました。

長谷川氏は、現存する思想家ではおそらくただひとり、桶谷の「天籟」という言葉には、八月十五日の謎を解明するうえで極めて重要な手がかりがあることを直観し、深く洞察し、それを読み手がきちんと読めば分かる表現にまで十年の歳月をかけてゆっくりと練り上げたのです。それが、本書の価値の核心をなすものです。しかし、私たちがそこにしっかりとした足取りでたどり着くまでには、太宰治、吉本隆明、三島由紀夫という三つの山を越えた後、『旧約聖書』の「イサク奉献」という峠を越えなければなりません。太宰治の「トカトントン」については、次回に取り上げることにして、差し当たり、次の引用をしておきましょう。文章中の「佐藤氏」とは、『八月十五日の神話』を書いた佐藤卓巳のことです。

佐藤氏は、竹山昭子氏の『玉音放送』を引用して、「この放送の祭儀的性格」を指摘する。すなわち、それは単なる「降伏の告知」ではなく、「各家庭、各職場に儀式空間をもたらした」出来事であり、この放送を通じて国民全体が「儀式への参加」をした。だからこそそれが「忘れられない集合的記憶の核として残った」のだ、と佐藤氏は述べるのである。さらに氏は「この場合、昭和天皇が行使したのは、国家元首としての統治権でも大元帥の統帥権でもなく、古来から続いた祭司王としての祭祀大権であった」と述べて、この八月十五日の玉音放送が徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつたことを指摘してゐるのである。

これはきはめて重要な正しい認識であり、あの「シーンとした国民の一瞬」の謎を考へる上でも、出発点とすべきところである。    (本書69頁)

「八月十五日の玉音放送が徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつた」というキー・センテンスを手放さないようにしながら、私たちは次の「その3」で、太宰の「トカトントン」の音に耳を澄ませてみることにしましょう。  (続く) 
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絶望的な政治状況に絶望するのはよそう (イザ!ブログ 2013・10・22 掲載)

2013年12月25日 05時13分49秒 | 政治
絶望的な政治状況に絶望するのはよそう

下記の論考は、10月17日(木)にFBに掲載した「私の政治的なスタンスの現状」を大幅に加筆訂正したものです。

*****

最近いろいろなところに折に触れて書いている政局がらみの文章を、ここでちょっとまとめておきたいと思います。自分自身の頭の整理をしておきたいというのもあります。

最近の私は、TPP絡みで安倍政権に対する批判を強めています。また、首相の消費増税決定措置に対しても、なんと馬鹿で愚かな意思決定をしてしまったのだという強い憤りがあります。それを中韓が高く評価したという報道に接したときは、「だから言わんこっちゃない」と思いました。歳に似合わず、精神的に相当なダメージを受けて、正直、ガックリときています。さらに、10月15日の安倍総理による所信表明演説が、電力・農業・医療の分野における規制緩和の積極的な推進の意志を断固として表明した、極めて新自由主義路線に急接近したものであったことにも改めて落胆しました。http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement2/20131015shoshin.html

「痛恨の極み」と言い続けてきた靖国神社参拝の見送りを、彼が、今回の秋の例大祭についても繰り返してしまったことについても、少なからず失望の念を抱きました。というのは、「戦後レジームからの脱却」を唱えてきた政治家が、その抱負を実現するためには、人並みはずれた胆力がなければならないものと思われますが、今回の振る舞いは、安倍総理にそれらしきものがどうやらないらしいことがうかがわれたからです。「アメリカからの圧力」は理由になりません。なぜなら、「戦後レジームからの脱却」をトータルに実現しようとする場合のアメリカの外圧のすさまじさに比べれば、靖国参拝を封じようとするそれなど取るに足りないレベルのものに過ぎないと思われるからです。だったら、最初から「戦後レジームからの脱却」などと言わなければ良かったのにと言いたくもなってきます。

こんなふうに、今の私は安倍政権に対して不満タラタラなのですが、それでも、同政権支持を撤回しようとは今のところ思っていません。かろうじて、ごく消極的な気持ちに過ぎないのではありますが、消去法でいけば、いまのところ、安倍総理くらいしかいないのではないかと思われるのです。

これは、理詰めで考えれば、根本的に矛盾した態度です。安倍政権は、消費増税反対、TPP反対という選挙公約を明らかに破ったのですから、それを信じて安倍自民党に投票した者が、なおもそれを支持し続けるのはあきらかにおかしいのです。「安倍信者」なる言葉が跋扈するのもむべなるかなです。しかし私は、いまのところその「致命的」な論理的自己矛盾に耐えようと思っています。

本当は、支持を撤回して「国民に信を問い直せ」というのが筋ですね。しかし、選挙が実現する可能性は限りなくゼロに近い。ねじれ国会が解消して政治運営が楽になった自民党に、選挙に打って出るモチベーションなど湧いて来るはずなどないからです。百歩譲って、安倍自民党が選挙に打って出たとしても、現状では、安倍自民党がふたたび圧勝するでしょう。理由は簡単。私が抱えているような不満の受け皿となる健全野党がいまの日本には、まことに残念なことながら存在しないからです。共産党じゃねぇ、というやつです。

にもかかわらずあくまでも筋論を言い募ろうとするのは、一種の現実逃避にほかなりません。とするならば、自ずと別のことを考えるよりほかはないでしょう。

そもそも政治には、次の二つの面があるのではないかと考えます。ひとつは、自分の思想信条を貫き通すことが大事で、それと反する政治勢力の動向に対して果敢にノンを突きつけるという面。もうひとつは、リアルな力関係において、敵対勢力に負けてしまったら元も子もないという面。それぞれを、政治の理想主義的側面と現実主義的側面と言いかえてもいいかもしれません。

私なりの考えですが、平時においては、どちらかと言えば前者が尊重されるべきなのではないかと思われます。政治思想に磨きをかけることは大切ですから。しかし、緊急時においては、後者の方が尊重されるべきなのではないかと思われます。なぜなら、緊急時に敵対勢力に負けてしまったら、取り返しがつかないからです。

そうして、いまは緊急時です。それが私の現状認識です。ここで敵対勢力というのは、中国・韓国すなわち特亜と、国内の親特亜勢力です。彼らは、日本を敵国とみなして、着々と国内法を整備し、情報戦において日本に対して優位に立っています。領土問題についても一歩も引こうとしません。また、スキあらば、日本のEEZを掠め取ろうともしています。さらに中国は、ハワイから西を自分たちの海にするという遠大な計画があります。その第一歩が、尖閣諸島領有なのですね。日本がどうなだめすかそうとしても、中国が「中核的利益」としての尖閣諸島の領有に関して譲る気などまったくありません。その点、朝日・毎日の親特亜系メディアが日本政府に対して良きものとして提唱し続けている対話的外交路線は、空理・空論であることを超えて、恥知らずな利敵言動であると断じざるをえません。中国情勢についてちょっと冷静に勉強してみれば、中共の対尖閣のスタンスがどういうものか、すぐに分かることです。

で、その特亜勢力がとても嫌がっているのが安倍政権なのです。つまり、安倍政権の存在そのものが、中韓の軍事的冒険主義に対する抑止力になっているという現実を私たちは活用しない手はないのです。少なくとも軽視すべきではないのです。

アメリカは、どう思っているのか。細かく言えばいろいろとあるのでしょうが、東アジアに関しては、現状維持をもってベストとしているのではないかと思われます。別の言い方をすれば、「分断して統治する」というスタンスをよしとしている。その方が御し易いですからね。だから、日中や日韓が小競り合いをして仲良くしようとしない状況は、実はアメリカにとってそれほどに不都合ではない。だから、日中・日韓の首脳が関係改善のために腹を割った会談をするという事態は、実は歓迎すべきものではない。それゆえ、いまの日中・日韓の膠着状態にはアメリカの意思が反映されていると見るべきでしょう。

そういう状況において、これまで安倍政権を強力に支持してきた保守勢力が、消費増税問題とTPP問題をきっかけに四分五裂してしまったら、特亜と親特亜勢力が大喜びをするのは目に見えています。それは、力関係に著しい不均衡をもたらすことにつながります。そうすると、対特亜において抑止力たりえてきた安倍政権が抑止力たりえなくなるのです。権力掌握者として弱体化するわけですからね。そうなると、アメリカはしぶしぶ重い腰を上げて、不均衡是正のために措置を講じなければならなくなるものと思われますが、その場合、安全保障の面で弱体化した日本はアメリカの都合のいいように弄りまわされることになるでしょうね。非関税障壁をめぐって、さらなる難題をふっかけられるのは必至でしょう。G0(ゼロ)状況において、いまのアメリカは、覇権国家としての理性よりも一主権国家としてのエゴイズムを優先させようとしますから。

だから、私としては消費増税やTPP問題や新自由主義路線の強化をめぐって、現政権を筆鋒鋭く批判するのはやぶさかではありませんし、そうすべきだとも思いますけれど、だからといって、安倍政権の支持をやめてしまうのは、得策ではないと思うのです。時期が悪すぎる。いささか根本的なことを言えば、そういう振る舞いは、もともと不完全にできている人間存在にあまりにも多くのものを求めすぎる姿である、とも言えるでしょう。

もともと政治なるものは、権力欲という人間の抜きがたい煩悩を原動力とする嫉妬まみれの詐術に満ちた説得の言語ゲームなのです。端的に言えば、政治はもともと「汚い」ものなのです。そんなことなど、われわれは十二分に分かっていたのではないでしょうか。

安倍さんには、つかの間のいい夢を見させてもらったことを感謝して、今後はもっと醒めた心で功利主義的な観点から、支持し続けようと、私は思っています。仮に安倍さんを力ずくで政権の座から引きずり下ろしても、現状では、石破総理大臣が誕生するだけでしょう?彼は典型的な経済音痴で軍事オタクですから、彼に権力を握らせたら、場合によっては異次元緩和をやめてしまうかもしれません。少なくとも国土強靭化路線は確実に撤回するでしょう。その点、非常にリスキーです。また、その歴史観にも自虐史観の影響が色濃いところがあって問題です。あるいは、麻生総理大臣とか。今回の消費増税問題で、彼は安倍総理に対してハシゴを外す役割を果たした裏切り者ですよ。そんな人に首相になってほしいと思いますか?私は、それよりは安倍総理のほうがいまだにちょっとマシだと思っています。問題は多いですけれどね。民主党政権の方がマシだった?そう思うのは、ちょっとモノの見方に偏りのある方だけでしょう。朝日新聞やNHKがいちばん正しいことを言っていると信じ込んでいる人とか。

閑話休題。これまで安倍政権を強力に下支えしてきた三橋貴明氏が、「いまの安倍政権は、レントシーキング内閣であり、日本の民主主義を骨抜きにしかねない危険な政治手法を強化しつつある」という意味のことを言って、厳しく批判しています。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/page-1.html#main 

また、これまで「チャンネル桜」で異彩を放っていた若手の論客・倉山満氏が、安倍総理の消費増税決定をきかっけに、「チャンネル桜」と袂を分かつという保守陣営にとって小さくはない出来事が先日ありました。
http://www.youtube.com/watch?v=Evn6d2Mu_C0

これらは、安倍政権の中核的支持層を担ってきた保守陣営の四分五裂状況と安倍政権における新自由主義路線の加速度的強化とを象徴する現象です。その意味で私たちは、いま絶望的な政治状況に直面していると言っていいでしょう。

そういう状況は、私たちを「絶望」という名の情緒的停滞へと誘ないがちです。その誘惑に抗して、「絶望的な政治状況」を冷静に把握し、批判すべき急所をさまざまな形で安倍政権に突きつけ続け、同政権を国民経済を担うに足る存在として鍛え上げることができるかどうか、少なくともその思いを持続させうるかどうかが、「戦後レジームからの脱却」という課題を自分のものとして本当に引き受けうるかどうかの試金石になるのではないでしょうか。

立派なことを言いたがっているように見えるかもしれませんが、心のなかには、あの太宰治の、すべての熱意を虚しくさせる「トカトントン」の残響のようなものが執拗に響いています。それに抗して、こんなことを言っているのではあります。



〈コメント〉

☆Commented by kohamaitsuo さん

全面的に共感します。私のなかにも「トカトントン」がかすかに響いていながら、しかし自分を「神経症患者」という弱者像に安住させたくない、という思いがあります。

それにつけて思うのは、現在の政局で一番キャスティングボートを握っているのが公明党でありながら、不思議にもこの事実に対する批判がほとんど見られないことです。安倍政権の「戦後レジームからの脱却」という理念が、与党の一角を占める公明党によってすべてなし崩しにされていることに、私たちはもっと目を向けるべきではないでしょうか。安全保障問題、憲法改正問題、原発問題で、与党であるゆえの力を悪用して、最も有効な邪魔立てをしているのは、山口代表率いる公明党です。安倍自民党は、石破幹事長に代表されるように、この党に過度に遠慮し、ご機嫌を取ってばかりいます。

この政党が強力な宗教団体をバックとした圧倒的な組織票を根拠に成立していることはもとより自明であり、それゆえにその力に対する「怖れ」を周囲に不必要に肥大させている事態を招いていることは理解できなくはありません。しかしそれはいまや、単に私たちの心の中に住む「妖怪」であるかもしれないのです。そもそもこの党が何を言っているかといえば、何の国際的視野も経済的定見も政治的理念もなく、ただ「平和ニッポン大事、日中、日韓友好ご大切、消費増税賛成、TPP賛成、集団的自衛権承認反対、憲法改正反対」という一部の惰性的風潮に便乗しているだけです。その空想的・ポピュリズム的姿勢において、まさに「戦後レジーム」そのものであり、朝日新聞や社民党と何ら変わるところがありません。問題はそれが権力中枢の一角を占めていることなのです。

この政党と手を切る、とまでは言わないにしても、何らかの形ではっきりと距離をとる姿勢を示さない限り、私は、いまの自民党を支持する気になれません。

無責任な言辞を弄しましたが、ご一考願えれば幸いです。

☆Commented by 美津島明 さん
 To kohamaitsuoさん

おっしゃるとおりです。安倍自民党は、公明党などというバカ政党と連立を組んでいる限り、戦後レジームからの脱却などできるはずがありません。公明党は、戦後レジームそのものの愚にもつかない存在ですから。ちなみに、もともと自民党もそうですね。違いは、自民党の方がより多く敗戦利得を得ている点だけ。また、相も変わらず公明党と組もうとした段階で、自民党も戦後レジームからの脱却をやる気などなかったのでしょう。今国会で自民党が新自由主義路線に舵を切ったことも、考えてみれば経団連などの財界べったりの自民党本来の姿に戻っただけのこと。消費増税を決めたことも、財務省べったりの自民党体質を考えれば、これまた当たり前のこと。

さらに悪い想像を続けると、あの小泉元首相が、形勢不利な総裁選で「自民党をぶっ壊す」とブチ上げマスコミと世論を見方につけて見事総裁選を制したように、安倍首相は同じく形勢不利な総裁選で「日本を取り戻す」とブチ上げインターネット世論を味方につけて見事総裁選を制しましたね。安倍首相は、もしかしたら、小泉元首相の政治手法を深く学んでいるのかもしれません。

状況を曇りなき目で見渡せば、絶望感がひたひたと湧いてきます。まさしく「トカトントン」。

「戦後レジームからの脱却」を担うのは、結局は、それをよしとするひとりひとりの名も無き存在なのかもしれません。なんとなく、村上一郎の草莽論的な心境に近づいてきた感があります。「戦後レジームからの脱却」の重要性を示し、そのためには一にも二にも「デフレからの脱却」をするよりほかはないという正論を強調したのは当時の局面では安倍晋三氏しかいなかったのですから、ひとりの草莽として、彼を選んだ判断に間違いはなかったと今でも思います。まあ、それでいいのではないでしょうか。

彼をなおも消極的にでも支持し続けることと、諸般の事情から彼がダラダラと今後も政権を担い続けるにちがいないこととは、それほど大きな違いはないのかもしれない、という気がしています。今の彼を尊敬する気持ちがなくなってしまったのは残念ですが。

☆Commented by プシケ♂ さん

美津島さま。
ブログを拝見しました。

私も、特に消費増税延期を判断しなかった10/1以降、そして、秋の例大祭での安倍総理の対応、新自由主義と称される系統のフレーズが並ぶ所信表明などの当初は想像していなかった安倍政権の方向性に、何とも言えない虚脱感を覚え、かといって、「安倍は終わった。もう何もできやしない。」的なスタンスを取る気はないという状態でして、美津島さんが分析された如く『「致命的」な論理的自己矛盾』の中にいるのだなと、思考の端緒をいただき、頭の整理をさせていただきました。

 それでもまだ、今後のスタンスに確たる定見を持てずに右往左往している状況です。もうしばらく色んな方の主張を聞きながら右往左往してようと思います(結果的に、『もっと醒めた心で功利主義的な観点からの安倍支持』に帰結する気がしていますが)。

1年前に安倍晋三という人間に感じた何か、「国柄を護る」「瑞穂の国の資本主義」という言語を自らの言葉として発した(少なくとも、そう感じさせた)安倍晋三という人物は、一体どこへ埋没してしまったのでしょうか?

ツイッターの方でちょっと触れましたが、安倍総理の心身が激務に悲鳴をあげ、変調をきたした判断しかできない状態なのでは?などという「希望的観測、願い」を捨てきれません。それが、まだ右往左往していたいという気持ちに繋がっているのだと思います。

さて、美津島さんも触れられているように、いわゆる保守系言論空間においても、各人のスタンスと手法が分裂してきました。

反日を主是とする勢力に、ここにつけ込まれることは避けねばなりませんが、私はある種面白くそれぞれの言論を拝見しています。盲信的に、どなたかの言論についていく必要はないですし、こちらもしばし傍観していようと思います。
(続く)

☆Commented by プシケ♂ さん
(続き)
そんな傍観する私の中で、目下疑問であり考えているのが、安倍政権を誕生させ、参院選でも圧勝させた「世論」とは何だったのだろうかという点です。

○民主党には懲りた
○チャイナ、コリアは嫌いになった
○景気回復するといいな

程度が、実は世論の共通項で、美津島さんも触れられ、多くの保守系の思考の方々が感じている「今は平時ではなく、危機・緊急時だ」という認識は、世論の中にはないのかもしれませんね。というか、ないのでしょうね。(好んで接するネット情報の中にいると、自分のポジションが判らなくなります(笑))

TPP交渉に参加しようが、消費増税延期を見送ろうが、国柄を壊す規制緩和を持ち出そうが、「世論」はあまり反発を示さないようですので。

当事者意識、危機意識を国民の多数が共有していないのだとすると、実に脆い世論をバックにした安倍政権だなと思います。また、「世論」としても、危機ではないという認識をしているうちは、のほほんと、やり過ごすのも当然といえば当然です。

こうなってしまった安倍政権という現実を受入れ、美津島さんご指摘の『「絶望的な政治状況」を冷静に把握し、批判すべき急所をさまざまな形で安倍政権に突きつけ続け、同政権を国民経済を担うに足る存在として鍛え上げる』ためには、目先の尖閣諸島の安全保障などだけではなく、もっと深いあらゆる分野の安全保障に対する危機意識をもっと多くの国民が共有していくことが必要なのだと思います。

ブログを拝読して頭の整理の端緒をいただいたことに感謝するとともに、上記のような雑感を覚え、今後、美津島さんを始め、保守系の方々の「世論」の分析と接し方、また、単なる一国民としての私などでも出来る周囲の「世論」への効果的なアプローチ方法なども、ご示唆をいただきたいなと、そんなことを感じました。私自身、やはり右往左往注状態ですね、脈略のないコメントになりました。失礼します。

☆Commented by 美津島明 さん
 To プシケ♂さん

熱のこもったコメントをありがとうございます。右往左往は、私も同じようなものです。プシケさんがおっしゃるように、消費増税決定、TPP聖域破棄、所信表明演説における新自由主義路線への傾斜ぶり、秋の例大祭不参詣決定と、コアな安倍支持者として、4連打を喰らった形ですから、それは当然のことだと思います。安倍政権は、おそらく長期政権をより確実なものにするために、支持基盤のシフトを図っているのではないかと私は思いはじめています。アメリカの大統領がよく使う手法ですね。つまり、形勢不利な総裁選を乗り切るには、チャンネル桜を象徴とするような、保守系の熱狂的なネット世論の後押しを必要とした。しかし、保守系ネット世論はいわゆるマスメディアの世論操作には容易に動じない。つまり、為政者からすれば本質的に御しにくい。政権を奪取し、ねじれ国会状態は解消し、当分解散もない。つまり、政権として安定期に入った。とするならば、自分たちの政権の支持基盤を、小うるさい保守系ネット世論から、モードのところにいる一般国民にシフトしたほうが安定期を長期化するうえでいいのではないか。彼らは、増税しようが、TPPで選挙公約を破ろうが、靖国神社に行かなかろうが、あまり気にしないし、大手新聞やテレビの情報を鵜呑みにするので、コントロールしやすい。そんなことを考えているような気がするのですね。とすれば、最近の安倍政権の一連の振る舞いはにわかに合点がいきます。しかし、それは愚かな浅知恵に過ぎないことを、私は非力ながらも、訴えたいのです。小うるさくない一般国民は、消費税8%が実施される来年の四月に、避けようもなく迎えることになる「経済の崖」(約10数兆円規模のGDPのブレイク・ダウン)を境に、安倍政権を支持しなくなります。一般国民は、経済状態がなんとなく好転しているような気がするからぼんやりと支持してきただけですからね。そこで慌てて、保守系ネット世論に擦り寄ってきても、時すでに遅しなのです。保守系ネット世論は愚かではないので、安倍政権のそういう動きの本音をすぐに見抜いてしまうから、支持熱は昔のようには盛り上がらないことでしょう。私は、いまの安倍政権に「支持層のシフトの目論見を中止せよ。それは、愚かなことであり、自分たちの政権を短命化させるだけのことだ」と警告したい。
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由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(その4) (イザ!ブログ 2013・10・19 掲載)

2013年12月25日 02時48分14秒 | 由紀草一
由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(その4・完結篇)
 ――昭和天皇の平和主義+長谷川先生からの御返答――



昭和天皇の日本国憲法署名

大東亜戦争の降伏とは、一億総玉砕といふ形で、神に命を捧げようとしてゐた日本国民が、その奉献を拒否された事態だつた。しかしその時、陛下の玉音放送があり、民を救ふために身を投げ出す聖王の意思が、日本国民に直に伝へられた。この時、神風は吹いたのであり、神人対晤が行はれた。ただそれは、はるか上空を一瞬吹き渡つた天籟であり、確かに聞いたにしても、その意味は忘れられたり取り違へられたりされることが多かつた。

これがざつと『神やぶれたまはず』の主旨である。魅力的なストーリーであるが、そこには収まりきれないこともあるのを、私はこれまで吉本隆明と三島由紀夫に即して述べてきた。我々もまたけつかう複雑なのが当然なのだから、私はここで長谷川氏へ反論するつもりではなく、一種の注釈つけのつもりであつた。

今後もさうだ。が、天皇自体のこととなると、話はいよいよ広遠かつ微妙であつて、私はただ疑問、それも愚問に過ぎないものしか提出できないかも知れない。ただ、私なりのこだはりはどうしてもあるので、長谷川氏を初め、博識の人のご教示をお願ひしたい。

疑問は大きく分けて二つある。

第一に、「天皇」の性格、といふか我が国体に関すること。長谷川氏はそれを、藤田東湖「弘道館記述義」を援用して次のやうに述べる(以下の語釈は長谷川氏に依る)。我が国には「宝祚無窮」(皇室がきはまりなく続きさかへること)「国体尊厳」「蒼生安寧」(天皇が民の安寧を第一のこととして常に心がけられること)「蛮夷戎狄率服」(周辺諸国が自ずから日本に従ひ服すること)の四つが実現されてゐるが、重要なのはこれら四つが互ひに循環し、つながり合つてゐることである。「すなはち、天皇が民を「おおみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である」(P.242)。

俗人である私から見ると、なんだか都合が良すぎて危い。最後の「蛮夷戎狄」など、周知の如く、支那の王朝が周辺の諸民族に与へたれつきとした蔑称である。日本ももちろん「東夷」の中に数へられる。皇帝の徳にこれら野蛮人どもが心服する、といふのも支那ふうだ。これだけでもやや不愉快な感じになる。

東湖は「蛮夷戎狄」で具体的にどの国々を考へてゐたらうか。特に考へなかつた可能性もある。つまり、それこそ「周辺諸国」と同じであつて、深い意味はないのかも。しかしながら、これを「当然のこと」として掲げたりしたら、実際の国々からは単なる夜郎自大と映るのはやむを得ないであらう。それを「八紘一宇(日本書紀の文言なら八紘以宇)」=「世界中が一つの家族のやうになりませう」と言ひ換へても同じこと、相手の国情も民族性も日本との具体的な関はりも無視してこんなことを言ふのは、何か悪しき意図を隠してゐるのではないかと疑はれても仕方がない。

日本人はずいぶんデリケートな国民であるのに、かういふところへは神経があまり行き届かないやうなのは、残念である。だから、現在の中韓の日本叩きは、自国の都合によるところが大半ではあらうが、かつての日本の態度がその種を蒔いた面も決して否定できない。

以上は本書の内容から離れてゐる。ここで一番の問題は「宝祚無窮」と「蒼生安寧」の密接なつながり、即ち、一心に民の幸せを念じる天皇が、当然民に慕はれ、万世一系の皇統が続いてきた、とするところである。

このやうなあり方は、本当に日本古来のものと言へるであろうか、と問ふことはここでは棚上げにする。第2節で挙げた、叔父と甥の議論以上のことを私が言へるわけではないから。

ただ、長谷川氏が、旧約聖書の「イサク奉献」を引いて、西洋の不滅の神(不滅であるおかげで、全知全能だが死ぬことだけはできない)と、民のために死ぬこともできる現御神(個体としての天皇は死んでも、次の世代に皇統が引き継がれるので、全体としては不滅である)といふ対比を示したのは、一読したときには行文の美しさに惹かれて納得してしまひさうになつたが、落ち着いてみるとやや強引な感じが持たれるのは否めない。

「日本の伝統的な「愛民」は、天皇自身の自己犠牲の決意にささへられてゐる」ことの例証として長谷川氏が挙げたのは次の三例である。民の窮乏を見て課税を一時停止し、宮殿がどれほど傷まうと修繕せず、自分もまた弊衣粗食に耐へた仁徳天皇。元寇の際に「わが身をもつて国難に代へむ」と祈願なされたといふ亀山天皇。大雨で死者がでたとき、雨が止むようにと「民に代つて我が命を弃(す)つる」の祈願をした花園天皇。

すべて自己犠牲的な精神と呼んでよいが、イエスの刑死や、お釈迦様の「捨身飼虎」に比肩し得るやうな苛烈な自己犠牲ではない。現にこの御三方とも、これによつて崩御なさつたわけではない。日本の神は、自分の身を犠牲にして他者の幸福を願ふ者に対して、その祈りを聞き届ける時もあればさうでない時もあるが、めつたに命まで奪はうとはなさらない、優しいと言ふか、曖昧と言へばさう言へるやうなご性格であるやうだ。

一方、山背大兄王が「われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定(さだめ)し。しかあれど一つの身のゆゑによりて、百姓を傷(やぶ)りそこなはんことを欲(ほ)りせじ。このゆゑにわが一つの身をば入鹿に賜はん」(「日本書紀」)と言つて、蘇我入鹿との戦ひを避け、法隆寺で一族とともに自害したといふ逸話には、たぶん仏教をベースにした、自己犠牲そのものが現れてゐる。

しかし、どうだらう。山背大兄王が本当に聖徳太子の子であるかどうかはさておき、「王」なのだから天皇になる資格は認められてゐたのだろう。また、だからこそ入鹿に襲はれたのだらう。結果、即位しなかつた。だからこのやうな鮮烈な、紛れもない英雄的な死も似つかわしいのであつて、天皇その人の場合はどうか、と感じるのは、私が軟弱だからだらうか。

因みに、歴代天皇の中で自死したことが知られてゐるのは御二方、弘文天皇(大友皇子)と安徳天皇だ。前者は明治になつてから諡(おくりな)された方だし、後者は御年八歳で、母方の祖母である二位の尼(平清盛の正室)に導かれて、いはば無理心中に近い形で入水なされた。御二方とも、別々の意味で、天皇としては例外的な存在なのである。また、その死には、普通の意味で自己犠牲的な要素は乏しい。さうではなくて、山背大兄王のやうな壮烈な死に見舞はれる場合が多かつたとしたら、天皇家は百二十五代も続かなかつた、やうな気がしませんか?

私は一個の日本人として次のやうに感じてゐる。天皇陛下には犠牲にまでなつていただかなくてもよい。国民の安寧を一心に祈つてゐるらしき存在がゐてくれるのは、その祈りの現実的な効果はあつてもなくても、心の救ひになる。その意味でなら、「宝祚無窮」と「蒼生安寧」は密接不可分のものだと言はれることに同意する。平時なら、これで特に問題はないだらう。

平時ならば、だ。そこで第二の、わが国未曾有の国難時に際会された昭和天皇の場合に移る。

以下の事実はいろいろな本に載つてゐて、よく知られてゐるだらうから、『神やぶれたまはず』の記述(P.263~266)から概要を記すに止める。日本政府にポツダム宣言が伝へられたのは七月二十六日。ソ連は八月八日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、八月九日侵略開始。これによつてソ連を仲介にして和平を結ぶ案は完全に潰えた。この午後、ポツダム宣言受諾の可否を巡つて閣僚会議が開かれるが、賛否二つに分かれて決着がつかなかつた。そこで深夜に御前会議が開かれ、ご聖断が仰がれた。この時天皇は「自分の意見は東郷外務大臣の申したことに賛成である」と、受諾の意思を示された。それで受諾と決まつたのだが、この時は「右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解」を条件とするものだつた。八月十三日、この申し入れに対する回答(いはゆるバーンズ回答)がもたらされたが、これでも天皇及び天皇制がどうなるかについては曖昧なままであつた。そこで八月十四日朝、再度の御前会議での、再度のご聖断となる。

天皇は、玉砕をもって君国に殉じようとする国民の心持はよくわかるが、「自分は如何にならうとも万民の生命を助けたい」、戦争をやめる他に、日本を維持する道はない、と懇々と諭し、戦争での死傷者・遺族、さらに国民全般に「御仁愛」の言葉を発した。さらに、国民に呼びかけることが必要なら私は何時でも「マイク」の前に立つ、とも述べた。(伊藤之雄『昭和天皇伝』P.388)

これはこれで英雄的な御姿と呼ばれてよいものであらう。この後昭和天皇は処罰もされず退位もなされなかつたが、それはアメリカ占領軍の都合によるものであつて、陛下御自身の自己犠牲的精神を疑ふべき理由はどこにもない。

我々はこれを忘れたからこそ、堕落の道を歩まなければならなかつたのだらうか。さうかも知れない。堕落とは具体的には、長谷川氏によると「いまも日本は安全保障を米国に頼らざるをえないでゐるのだし、「日本国憲法」などといふものが半世紀以上も存在しつづけてゐるのだし、北方四島もロシアにとられたまゝである」(P.42)やうな状態、さらには我々がそのことを普段一向に気にとめないで過ごしてゐる状態を指す、としてよいであらう。

私もまた、一日も早く、憲法を改めるべきだし、独立国なのに他国の軍隊が常時駐留してゐる異様な状況は解消されるべきだと思ふ。そのためにはまづ、八月十五日の、「宝祚無窮」と「蒼生安寧」が見事に合体して、我が国体の尊厳が輝いた瞬間を思ひ出すべきであらうか。確かに、それこそ正道なのであらう。

しかし、昭和天皇は戦後まで長く皇位にお留まり続けられた。その中で、戦後政治史の過程にもいくらか関はつてをられる。八月十五日を思ひ出して、こちらを忘れる、といふわけにもいかない。

まづ、「日本は安全保障を米国に頼らざるをえない」ことを、占領中の段階では、昭和天皇が積極的に望まれた事実がある。

以下は豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』に依つて述べる。戦後独立前には実質的な日本の支配者であつた連合軍最高司令官と天皇とが、何度も会見を重ねたことは周知のことである。その中で、昭和二十二年五月六日に行われたダグラス・マッカーサーとの第四回会談は、三日前に施行されたばかりの新憲法の、九条問題に終始した。この時マッカーサーが、「日本が完全に軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障」であるとしたのに対し、天皇は、日本が軍備を放棄する以上、「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております」と答へてゐる。

軍人であるマッカーサーより天皇のはうが、安全保障の問題について「現実的」だつたことには苦笑させられるかも知れないが、この時マッカーサーは外国からの日本侵略のことのみ考へ、その可能性はごく少いとしたのに対して、天皇は国内の革命勢力こそ最も危険、と考へたところで食ひ違ひが出たやうである。後のいはゆる「沖縄メッセージ」で言ふ「占領終結後、ロシアによる日本への内部介入の口実として使えるやうな「事変」を惹き起こす可能性がある極右及び極左グループの勢力拡大」こそ押へなければならぬ、特に「極左」の、共産主義者の場合、どうしても天皇制を廃止するだらうから。天皇が皇統の存続を最優先と考へること自体は、ごく自然なことである。

ところでこの「沖縄メッセージ」、詳しくは「沖縄の将来に関する天皇の考へを伝へるため」のメッセージは、この昭和二十二年九月二十、御用掛寺崎英成を通じ、マッカーサーの政治顧問にして総司令部外交局長W.J.シーボルトに伝へられた。これをシーボルトが文書化したものが昭和五十四年に進藤栄一によつて発見され、現在「沖縄公文書館」のホームページに写真版で公開されてゐる。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html

この中では、「天皇は合衆国が沖縄及び他の琉球諸島の占領を継続することを希望する」とされ、そのやり方についても「合衆国の沖縄(及び要求される他の島々)への軍事的占領は、日本に主権を置いたままで、長期間の―25年から50年、あるいはそれ以上―貸借といふ擬制(フィクション)の上に基礎を置くべきであらう」と記されてゐて、その後の沖縄はほぼその通りの状態になつたことを考へれば、天皇は戦後も、否むしろ戦前にも増して、内閣をも飛び越えて実質的な「外交」をしてゐたのではないか、と勘繰りたくもなるだらう。豊下氏などはその説である。

実際はそんなことはなかつたらうと思ふ。昭和天皇とジョン・フォスター・ダレスらに代表される当時のアメリカ政府が、反共の一点で一致したから、結果として天皇の望むと ほりに政局が動いたやうに見えるだけではないか。

だから、この点天皇の政治責任などはないのだが、長谷川氏が桶谷氏から受け継いだ「精神史」から見るとどうだらうか。「大君の辺にこそ死」すべき「醜の御楯」が失はれた状態で、アメリカ軍に肩代わりをしてもらつて、「宝祚無窮」を保たうとするとしたら、「国体尊厳」はどうなるのか。この時期には他にどうしようもなかつたことは、それこそ政治的には納得できるとしても。

「蒼生安寧」については、天皇が沖縄を積極的にアメリカに差し出したやうに見えるところが、単に「見える」だけであるのはわかつてゐても、喉に小骨がひつかかつたやうな感じを残す。「日本に主権を置いたまま」の一語で、将来沖縄が日本に復帰する布石を打つたのだとする説もある(ロバート・D・エルドリッジ『沖縄問題の起源』)が、今の私は説得されてゐない。

次に日本国憲法。ごく大雑把に言へば、日本政府内部で憲法改正に従事した人々は、天皇制存続のためにはこれしかないと言はれ、GHQ案を受け入れざるを得ない、と考へてゐた(佐藤達夫『日本国憲法成立史』など)。言はば、天皇制と引き替へに今の憲法がある。やはり、いくさに負けた以上、なんとしても陛下をお守りせねばならぬといふ民の決意と、自分の身を捨てても民を救はねばならぬといふ大御心はあつても、それだけで、なんの代価も払はずにすむ、といふわけにはいかなかつたのである。

さらにまた、憲法についても昭和天皇のお言葉がある。六法全書で憲法の頁を引けば、最初に出てくるものであるが、ここにも引用しよう。

(1)日本国に憲法公布記念式典において賜つた勅語 昭和二十一年十一月三日詔勅

本日、日本国憲法を公布せしめた。

この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたのである。

即ち、日本国民は、みづから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。

朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。


(2)日本国憲法公布文

朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

これらに対しては、僅かながら、保守派と呼ばれる人々の間に論争がある。承詔必謹の精神からすれば、詔(みことのり)が現にある以上、これによつて現憲法は正式なものと認めざるを得ない、とか、占領中、即ち日本が独立してゐない時期に出された法令も詔勅もすべて無効だ、とか、そもそもこれらの文は一種の「飾り」であつて、実質的な意味など考へるには及ばない、などなど。

法律論的には、たとへ最初の承詔必謹説を採つたところで、その憲法自体の中に改正条項があるのだから(九十六条)、変へてはいけない、とまではされてゐない、といふことで、特に今後に問題を残すものではない。

一方、無効説を採つた場合、たとへこれまた法律論的にはそれが成り立つとしても、精神史的に、天皇が、こと「平和主義」に関してはかなり同意なさつてをられたのではないか、と考へられることまで無効として、無視してよいものか、疑問が残る。ためしに、『神やぶれたまはず』にも取り上げられてゐる、俗に「人間宣言」と呼ばれる、昭和二十一年一月一日の詔書(占領中の法令も詔勅も無効、といふなら、これも無効になつてしまふんですがね)の次の御言葉を見ていただきたい。

「我國民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、旦徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、獨リ我國ノミナラズ全人類ノ爲ニ輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ」。「平和を求める決意」が、「全人類のために」なるといふところ、憲法公布時の勅語とも、日本国憲法の前文とも、主旨が通じてゐると見られるのではないだらうか。

私として最も気にかかるのは、「人類普遍の原理」就中「平和主義」を、「自由に表明された国民の総意」で「みづから進んで」、日本国民が選んだのだといふ、この戦後神話を最初に言つたのは昭和天皇だつた事実である。我々が民族に関する物語を、本当に「自ら」築いていくうへで、これをどう考へたらいいか、一つの課題にはすべきであらう。

以上の私の勝手きはまる「書評」を、前もつて長谷川三千子先生に御目にかけましたところ、先生から懇切な御返事をいただきました。これは『神やぶれたまはず』に関する貴重な解題ともなるものですので、私一個のものにしておくのは非常にもつたいないと考へ、長谷川先生の許可を得て以下に掲げます。

***

たいへん詳しい、丁寧な書評を有難うございました。
ご指摘の「すっきりさせ過ぎ」という評は、まさにその通りと言うべきで、実はこれを一冊の本に仕上げるのに十年以上かかってしまったというのも、結局のところ、様々の本を読み、かき集めたものを、どう削ってゆくかーその削る作業、すっきりさせる作業にかかった時間なのです。

もともとが、非常に屈折した精神の軌跡を追ってゆく仕事ですから、裏を探るとさらにその裏が出てくる。「かと思うとそれだけではなくて」の繰り返しという道のりで、それをそのまま辿ったのでは収拾のつかないことになる。そこで、ある時思いきって一点に中心を絞り、それ以外を、切り捨てるのではないけれども、裏側に置く、という書き方に切り替えました。

したがって、由紀さんがご指摘の部分は、そのほとんどが、本来、注で詳述すべきところだったと言えます。

現に、最初は削った原稿を全部注に放り込んで、すごい分量に膨れ上がったのですが、これもある時点でばっさりと思い切りました。

まあ、言ってみれば、この本は削りに削って出来上がった本だと言えます。ある人が、アマゾンのレビューに、この本は学術研究書とは言えない、と「批判」していましたが、「これって、学術研究書として書いてませんから(笑)、」というほかはありません。ただひとつ、これは語るべきことを、これだ!という形にまで持って行けたかどうかーそれだけを考えていました。
作品を仕上げるとは、そういうことだと思います。

由紀さんの丁寧なご書評のおかげで、忘れていた執筆時のことを生々しく思い出しました。
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由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(イザ!ブログ 2013・10・17,18 ,19 掲載)

2013年12月25日 02時18分21秒 | 由紀草一
由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(中央公論新社平成二十五年)
(その1) ――戦後の神学に向けて――




明治維新から大東亜戦争まで、日本といふ国は過酷で巨大な悲劇を演じたやうに観じられる。

悲劇のヒーローとは世界と戦ふ者である。この劇は、世界のはうが四艘の黒い船の姿をした使者を寄越したところから開幕となる。「地球は狭くなつちやつたの。あなたにいつまでも引き籠つてゐられると迷惑なのよね」。さう言はれて外へ出て行つてみると、そこは「帝国主義」と呼ばれるマナー(作法・様式)で動いてゐる場所のやうだつた。そこで生きるためには、否応なくこのマナーに従はなければならない、と感じられた。そこで非常に努力して、幸運にも恵まれ、日本は勝ち残つたが、それは同時に、世界(正確には世界を支配してゐた欧米諸国)を敵に回した戦ひへ通じる道でもあつた。

この戦ひには敗れた。その事実はどうしようもないとして、問題は、この後我々日本人にはいかなる物語が残されたか、といふことである。決定的な敗北をした以上、日本のそれまでの歩みは失敗だつたのであり、そんな国・民族にはもういかなる物語も許されない。我々はさう思ひ込んだかのやうである。それでも特に差し支えはない。国はどうでも、仕事や家庭の日常はあり、我々庶民とはもともと、それを第一の関心事にして生きる者だから。

半年のうちに世相は変つた。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散つたが、同じ彼等が生き残つて闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送つた女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかづくことも事務的になるばかりであらうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変つたのではない。人間は元来さういふものであり、変つたのは世相の上皮だけのことだ。(坂口安吾「堕落論」昭和二十一年)

人間はいかにも、「元来さういふ者」であらう。さうであればこそ、うはつつらの下にある世間、人間同士の世界を保つために、何かが必要なのである。「何か」のうち最大のものは、今のところ国家である。普通の人とは商売に忙殺されたり、色恋にうつつをぬかして、大部分の時を過ごす者ではあるが、一割でも、一パーセント以下の時間でも、「自分は国民だ」といふ意識を持たねば、近代国家は成立しない。

成立しなくてもかまはない、といふ人もゐるが、それはごく一部に止まる。ならば、我々はどういふ国の、どういふ国民か、最小限の了解がなくてはすまぬはずである。その了解をもたらすものを、私は上で「物語」と呼んだ。ならば、その喪失は、やはり問題にならずにはすまない。

いや、物語も、了解もあるよ、と言ふ人もゐる。「平和国家日本」といふのがそれだ、と。戦後の日本は自国の交戦権の放棄を謳つた憲法九条を抱き、世界のどの国にも先駆けて、戦争の廃絶といふ人類の理想に足を踏み出した、のだと。これはこれでまた、凄い物語である。あまりにも凄過ぎて、どうも実感がない、といふのが、大方の心持ではないだらうか。

それはこの物語を、我々が「自ら選んだ」といふのが嘘だからではない。物語は、必ず幾分かは、事実ではないといふ意味の、嘘を含む。問題は、我々自身が、この物語を(言ひ方は難しいが)「真実」として生かしてゐるか、少なくとも、生かさうとしてゐるか、にかかつてゐる。

自民党の議員などが、「戦後、自衛隊は、一人も殺してゐないし、また一人も殺されてゐない。これはたいへんなことだ」と言ふのを、TVで何度か聞いた。本気で言つてゐるのかな、と思つた。それが望ましいことだつたとして、日本はさうなるためにどういふ努力をしてきたのか、考へたことがあるのだらうか。

例へば、平成二~三(1990~91)年の湾岸戦争に際して、結果として自衛隊を送らず、合計百三十億ドルを「経済援助」として出しただけに止つたことがその「努力」だつたのだらうか。

これについて私は、TVで見た、田原総一郎氏が当時のアメリカの、アマコスト駐日大使にインタヴューした映像を今でも鮮明に覚えてゐる。田原氏が、「日本の拠出した金が、非軍事物資にのみ使はれるのかどうか、心配する人もゐるのですが」云々と問ふと、大使は急に激高して、次のやうに反問したのだつた。

「非軍事物資だつて? それはいつたいどういふ意味なんだ?」

これ以上は言はなかつたと思ふが、私は彼の言ひたいことがすぐにわかつた。「同じぢやないか」つてことだらう。「武器弾薬を買はうが、食料や医薬品を買はうが、要するに戦争の遂行のために使ふんだから。日本はそんなことにこだはつて、何を示さうとしてるんだ?」と、言はれてしまつたら、まさにその通り。抗弁はできない、とも感じた。

以上は拙著『軟弱者の戦争論』に書いた。この本はこのやうに、戦後日本の「平和主義」を問ひ直すのが主眼だつたのだが、どうも驚いたのは、「お前はアメリカの基準に合はせろと言ひたいのだな」といふ批判に何度か出会つたことである。私はむしろ、「アメリカにどう思はれたつてかまはないぢやないか」といふはうに賛成する。ついでに、「中韓からどう思はれてもかまはない」とも言つてくれるなら、ますます賛成する。自らのプリンシプル(原理・原則)を貫いた結果さうなるのだとしたら、けつかう至極。

本当に身に付いたプリンシプルならば、だ。「平和主義」は、我々にとって、さう言へるものかどうか、一度じつくり考へていただきたい。それが私の一番言ひたいことだつた。

いや、そんな御大層な「げんりげんそく」なんてものこそ、我々日本人には身に合はぬもの、現状に合はせた変はり身の速さこそ身上、といふ人もゐるが、それなら、平和主義も、今後の国際情勢次第でどうにでもなる、といふことだ。そんなものでよいものか。

ついでに言つておかう。戦後の日本にも戦死者はゐる。昭和二十年以後、日本軍は解体されたが、掃海艇の乗組員だけは「日本掃海部隊」の名で再編成され、日本近海の、日米両軍によつてばらまかれた機雷の除去に従事した。これは現在でも非常に危険な仕事で、二十五年までの五年間で殉職者は七十七名に達した。それだけではない。二十五年に朝鮮戦争が勃発すると、この部隊はアメリカ占領軍の命令で、朝鮮半島の元山・仁川方面に送られて、掃海作業をしてゐる。作業中、一隻が機雷に触れて沈没、乗組員のうち炊事係の中谷坂太郎が死亡した。当時は占領中であり、自衛隊の名前すらなかつた時代だから、「自衛隊は戦争で一人も殺してゐないし、殺されてもゐない」は、まあ嘘ではないけれど。

この事件は当時は秘密とされ、政府がようやく中谷などの功績を認めて勲章を贈つたのは昭和五十四年になつてからだつた。それでも、現在でもよく知られた事実とは言ひ難いだらう。

そればかりではない。湾岸戦争のとき金を出したことも、平成十三年にはアメリカ軍の後方支援のためにイージス艦をインド洋に派遣したことも、それより先、ヴェトナム戦争時には、日本の基地から米軍爆撃機が飛び立つて行つたことも(すべて広義の戦争協力と見られる)、当初こそ賑やかに議論されるが、すぐに忘れられ、なにごとも無かつたかのやうに時が流れる。大東亜戦争時の悲惨は、八月になる度に繰り返し語られるのに、それ以後の戦争関連事はあまり注目しないことが、戦後といふ時代が成り立つ要件ででもあるかのやうだ。

冒頭に掲げた坂口安吾のやうに、戦後の日本人のあり方を「堕落」と見、しかし堕落こそが人間本来のあり方だからよいのだ、とする立場もあり得るだらう。しかし、我々はいつから堕落したといふのか。その記憶すらないなら、人間にとつて、時間はないのと同じ。即ち、歴史がなくなる。歴史のない民族には、顔がない。戦後の日本は、何か得体の知れない、薄気味の悪い国になつた。他国の人がどう思ふかではなく、我々自身がさう感じはしないだらうか。この不安は、オリンピックを招致したぐらゐで根本的に解消されるやうなものではないのだ。

前置きが長くなつたが、長谷川三千子『神やぶれたまはず』は、昭和二十年八月十五日、日本民族が体験した稀有の感情を忘却の底から掘り起こし、もつて日本人の歴史を、顔を取り戻す第一歩としようとした試みである。その志をまづ壮としたい。

八月十五日が日本人にとつて特別な日であることを否定する人はゐないだらう。ただし、大東亜戦争が終つた日といふなら、重光葵と梅津美治郎が降伏文書にサインした九月二日とか、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立した昭和二十七年四月二十八日とかのはうが相応しいと言ふ人はゐる。本書で取り上げられてゐる佐藤卓己氏は、八月十五日を「終戦記念日」とするのはマスコミによる刷り込みであると言つてゐるさうだ(P.51)。八月十五日は新暦では全国的にお盆の日にもなつたので、戦死者の慰霊の日としても相応しいやうに感じられるし、といふわけだ。

さういふ主張は法的にはいかにも正しい。しかし、日本人のこころ、あるいは精神、の問題として考へたときには、八月十五日、玉音放送が流れたことには、誰もが無視できない重さがある。

重さとは、具体的にはどういふものだつたか。著者はまづ、書き残されたいくつかの体験を検討して、この日の意味に迫らうとする。

例へば折口信夫は、玉音放送を聞いて悲嘆にくれる。彼の愛弟子で、養子で、おそらく愛人でもあつた春洋は、硫黄島で戦死した。もちろん日本人の多くが、この戦争でかけがへのない人を亡くしたのだ。その多大な犠牲にもかかはらず、日本はつひに勝利することはなかつた。なぜか。日本を守るはずの神々は、どこへ行つてしまはれたのか。否むしろ、我々が神助に相応しくない者に成り果てたことを思ひ知るべきなのだらうか。

このやうに問ふとき、戦争はのつぴきならない絶対の相を帯びる。悲嘆がないところでは、戦争に格別の意味はない。これを長谷川氏は「すべての戦争は「普通の戦争」なのだと言つてもよい」(P.29)といふ言葉にしてゐる。

普通の戦争としての大東亜戦争で日本はなぜ負けたのかと言へば、アメリカに比べて経済力軍事力すべてひつくるめた物理的な国力が劣つてゐたからだ。それ以外にはない。そんなことは最初からわかつてゐたはずなのに戦争を始め、大きな犠牲を出すまで止められなかつた愚かさ、即ち日本の首脳陣の無能、これに、多くの人と同様、折口も怒つた。怒りに対応する形での、日本及び日本軍の作戦行動の批判的な分析は、現在まで数多い。「歴史から学ぶ」とは、普通にはさういふことであり、それは今後のために必要である。

問題は、悲嘆と怒り、本書で取り上げられた河上徹太郎の言葉では「絶望と憤怒」(P.53)だけが戦後の、大東亜戦争に対するいはば公的な感情とされたところにある。特攻隊員の遺書にしばしば見られる、絶望も気負ひもない清澄な感情などは、無視されるか、せいぜい、軍国主義教育による「刷り込み」の結果とされるぐらゐだつた。

折口信夫の目は、さすがに深いところまで届いてゐたらう。しかし、おそらく、「絶望と憤怒」が大きすぎたせゐだらう、翌二十一年には「神こゝに 敗れたまひぬ―」と歌ひ、せつかく志した「新しい神学」の樹立、「神道の宗教化」も見るべき形を取る前に雲散霧消してしまふ。

いつたい、絶望と憤怒の向かう側に、「八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」(河上徹太郎「ジャーナリズムと国民の心」、本書P.50の引用文より)をもう一度みることはできないものだらうか。それができれば、「新しい神学」の立ち上げも可能であらう。「イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、太平洋戦争は、たんに年表上の歴史過程ではなく、われわれにとっての啓示の過程として把握」(橋川文三「『戦争体験』論の意味」、本書P.35の引用文より)できるのであれば。

河上や橋川の言葉に垣間見える、「あの戦争の、とりわけ敗戦の、本当の意味」の探求を根底に置いた数少ない文業の一つに、桶谷秀昭『昭和精神史』がある。これに触発された著者が、改めて、「啓示」とはなんだつたのか、正面から取り組んだ姿が本書『神やぶれたまはず』には刻まれてゐる。桶谷氏の大著は、むしろこれを語ることの絶望的な困難に呻吟してゐる部分が多いのだが、ここで長谷川氏は、驚くほど闊達で真率である。

ただ、これに単純に「共感する」と言ふにしては、現代に生きる我々は、残念ながら余分なものを抱へ過ぎてゐるやうに思ふ。本書の読後感は、「すつきりし過ぎてゐる」ところがあるのだ。

たぶん、これまで述べたこと以外にも、小さな躓きの石はある。それを無視しては、一歩以上を進める障碍になるのではないかと案じられる石が。私が本書を読みながら抱いた小さな違和感が、その在り処を指摘できるものであればよいと願つて、この一文を草する。



(その2) ――吉本隆明の「転向」――



例へば、「戦後の吉本隆明氏が熱心な反天皇主義者となつた」(P.233)といふ言ひ方にはちよつと違和感がある。私は吉本にさほど深く親炙した者ではないので、もし知らないことがあつたらご教示願ひたいのだが、彼が、この言葉からすぐに連想されるやうな、天皇制打倒を声高に叫んだといふやうなことは、なかつたと思ふ。もつとも、天皇及び天皇制の擁護者や賛美者には、なほさらならなかつたけれど。

戦時中の吉本は、混じりつけなし、純度百パーセントの皇国少年で、天皇のために死ぬのは全く当然だと思つてゐた。玉音放送を聞いたときには「名状できない悲しみ」(吉本隆明「高村光太郎」、本書P.138の引用文より)を感じ、「生きることも死ぬこともできない精神状態に堕ちこんだ」(P.141)と言ふ。これを著者は次のやうに解釈する。

戦中の吉本は、彼の有名な著作『マチウ書私論』中の言葉を借りれば、「神と己れとの直接性の意識」で生きてゐたのだらう。特攻隊員と同様の、「自分の命を喜んで捧げる」といふ心境は、そこからしか出て来ない。しかし、あの日、この「捧げ物」は、当の神によつて拒否された。これ以上残酷なやり方はない。「喜んで死にます」と言つてゐる者に、「生きよ」と言はれても、「すでにいつたん投げ出した命を、もう一度拾ひなほして、いはば廃棄物となつた生を生きること」(P.142)しかできはしないのだから。青年吉本隆明からすると、高村光太郎のやうな、戦争中は天皇のための美しい死を称揚し、終戦となると同じく天皇の名のもとに強く生きることを訴へる詩人は、倫理的といふより感覚的に理解し難い者だつた。

それでも、敗戦後の吉本から、生き神さん=天皇への呪詛の言葉は聞かれなかつた。「神に憤る人間は、その憤怒によつて神にそむくと同時に、その憤怒によつて神へとしばりつけられてゐる…」(P.147)。たぶんこれ以上神に縛り付けられることは耐へ難かつたのだらう、吉本の憤怒は、戦争を引き起こした権力へと向かふ。もつともそれは、戦後の一般的な大東亜戦争論のあり方だつたのだが。長谷川氏はそれを、〈神学〉から「戦争のモラル」へと問題をずらし、後者に戦争犯罪のレッテルを貼ることで、詔勅の衝撃から逃れ、信仰を捨て去ることができたのだらう、と評する(P.157)。

それはさうかな、とも思ふが、吉本についてはもう少し詳細を見ておく必要があるやうに感じる。

昭和三十四年、今上天皇の御成婚時の、いはゆる「ミッチーブーム」に触れて書かれた「天皇制をどうみるか」といふ短文がある。冒頭で吉本は、「戦後、奇妙なノイローゼが、われわれ一部の年代に流行したことがある」と書く。「天皇とか皇室とかいうコトバを眼にしたり耳にしたりすると、肋間神経のあたりが痛くなってくる」から始まり、もう少し症状がすすむと、君が代を聞いたり日の丸を目にしただけで逃げ出したくなつたり、みぞおちのあたりが冷たくなつてくる、のださうだ。今では減つたやうだが、私も同種のノイローゼを患つてゐさうな人には何度か出会つた覚えがある。

吉本自身がこのノイローゼに罹り、治療法を医者に聞いたところ(それはウソでせう…)、「積極療法がいちばんだ、ひとつ天皇とか天皇制とかいうのを、徹頭徹尾、論理的に追及してみろ、ということだったので、早速、実行にうつし、どうやら快癒することができた」。

これが、〈神学〉を「戦争のモラル」へとずらして、根底的な憤怒・苦悶から逃れたことになるだらうか。さうだとしても、吉本隆明を特長づけるのは、この場合の「論理的追求」の徹底性のはうにある。それは戦後すぐに彼が陥つた「ノイローゼ状態」の深刻さの裏返しではあるだらうが。

「天皇制をどうみるか」が発表された『夕刊読売新聞』は、吉本以前に井上清と肥後和男の意見を載せてゐて、この文章は彼らへの批判を骨子としてゐる。御成婚パレードを見送る庶民の熱狂を、井上清のやうに危険視する学者もゐて、「事実、天皇がその歴史的本質に帰って平和と文化の祈とう者として立ってもらいたいなどという肥後和男の空おそろしい発言を読むと、そう考えたくもなる。/しかし、憲法が改悪されず、憲法を超越する法制が存在しないかぎり、天皇制は墓場から復活できないとおもう」。

このやうに天皇制存否の問題は政治的に「大したことではない」、それは今ではもう墓場に入つてゐるのだから、とする態度を、「生き神様」への感情の残滓から、と見るのは、穿ち過ぎといふものであらう。戦後の吉本が、天皇にある種の神性を、たとへ悪しき神性であつても、認めてゐたといふ証拠はまづ見つからないのである。

せつかくだからもう少し。戦争責任といふことになれば、吉本も天皇・天皇制に責任なし、とはしてゐない。御成婚が大騒ぎされたことは「天皇の戦争責任がいまも問われていることのアイロニカルな証拠」だ、などと言つてゐて、これは私には理解し難い。

吉本隆明の戦後の天皇論の要諦を一番短く述べたものとしては、赤坂憲雄氏との対談本『天皇制の基層』(平成二年)中の次の発言になりさうだ。「僕にとっては象徴天皇制は無意識の基盤としては肯定的だ、ということなんです。けれども、理念としていったら全面的に否定します、ということになります」(講談社学術文庫版P.39)。これまた理解し難いところがあるが、たぶんかういふことらしい。天皇および天皇制そのものについては、象徴天皇制を含めて、どこまでも反対の立場である。しかし、それを無意識の地盤の一つとして成立してゐる現代日本の市民社会を認める以上、その限りでは現在の天皇制も認めざるを得ない、と。

確かなことは、吉本は天皇制打倒を喫緊の政治的な課題だとは考へてゐないことで、天皇制は日本の農耕社会の文化がなくなれば自然に消滅するし、産業化が進んだ現在だつて、さほど恐るべき威力を持つてゐるわけではない、といふ見解は、上記二つの文献にも、他にも、記されてゐる。

ただしそれで終はりかといふとさうでもなくて、『天皇制の基層』では、天皇制で本当に問題にすべきなのは、明治国家によつて作り上げられた近代的なイデオロギー及び社会システムとしてのそれだ、とする赤坂氏にはつきり反対してゐる。あのとき、自分を含めて多くの日本人がそのために死なう、死ぬのが当然だ、と感じた「天皇」といふ存在は、もつと広く深い視点から考究されねばならぬのだ、と。

吉本隆明の天皇論にこれ以上つきあふことは、本稿が課題とする範囲をはるかに超える。ここではもう一つ、昭和三十五年に書かれた「日本ファシストの原像」といふ一文を瞥見して終はりにしたい。この文の中ほどで吉本は、女性の戦争体験文集である鶴見和子・牧瀬菊枝編『母たちの戦争体験―ひき裂かれて』(昭和三十四年)を取り上げ、庶民にとつての、戦争に関するイデオロギーはどういふものであつたか、考察してゐる。この記録中から抜き書きされてゐる部分は、吉本自身の文より興味深いし、『神やぶれたまはず』の内容とも関連してゐるので、二つばかり孫引きする。

(1)津村しの「無智の責任」

戦争中人間魚雷に乗って死ぬことを夢としていた弟が、戦後あるとき「たとえ、自分に偽りが全然なくとも、おれたち(わたしをも含めて)の取った態度、また思ったことは、悪いことであった。エゴイズムからでも、戦争に協力しなかったほうが正しかったのだ」という。主婦はこれにたいして、「いや、わたしはそうは思わない。戦争をはじめから否定し、知性ある節操で消極的にでも反対の姿勢を取り続けた人々に対しては、もちろん心の底から頭を下げるけれども、それとは別の人々の中でも責任をとって自決した軍人のあり方はどうしても立派に見え、戦争悪をはっきりと認識しておりながら、時の政府の前に影をひそめて生きていて、戦後になってからわたしは弱い人間ですなんてひとりごとを言って、傷のつかない程度に自分をあばいて見せるインテリのあり方のほうが不潔でいやだわ」と主張する。(後略)

さらに、この主婦の記録は、弟の死を決定的なものとする出征を、悲しみもせず平然と見送った母親が、死の病床で「いろいろのことがあったけれども、どうしてもいちばん大きなことは、八月十五日のことだったよ、一億玉砕しないで生きているということが不思議でね。幾日も幾日も、ご飯がどうしてものどに通らなくてね。廃人というのだろうね。あんな状態を―」と述懐するのを記録している。


(2)田村ゆき子「学徒出陣」

学徒出陣をひかえた息子と陸軍中将で司令官である叔父とが、この記録の主婦の家で談合し、たまたま戦争観について激しく対立する。天皇に御苦労であったと言われて、ありがたがっている叔父に、息子がいう。「(前略)こんな意味のないくだらない戦争に、ぼくは大事な命を投げ出そうとは思いませんよ。まるで、どぶに捨てるようなものだ。」叔父の軍人的庶民はこたえる。「いや、この光輝ある歴史と伝統のある日本に生まれたわれわれは、幸福だよ。国家あっての国民だからな。国の危急存亡の時、一命を捧げることのできるのは、無上の光栄というものだ。」息子はいう。「それじゃおじさん、その国を危急存亡の中へ追いやったのはだれですか。(後略)」叔父「(前略)わが国の御歴代の天皇は、国民の上に御仁慈をたれ給うて、われわれを赤子と仰せられる。恐れ多いことではないか。(中略)民のかまどの仁徳天皇のお話もよく習ったろう。明治の御代からこのかた、国運は隆々たるものだ。みな御稜威のいたすところだ。」息子「おじさんは『日本書紀』もお読みになったでしょう。武烈天皇はどんなことをしましたか。人民の妊婦の腹をさいて胎児を引きずり出したり、人民を木に登らせて下から弓で射させたり、その他天皇たちの非行はたくさん挙げられているではありませんか。これが御仁慈というものですか。それで『大君の辺にこそ死なめ』か。」

このような叔父と息子の対立には、後日譚がついている。やがて、敗戦となり帰京した息子は、家が焼失して、主婦は疎開、夫は近所に間借りの状態で真夜中に帰京し、仕方なくさきの叔父の家の戸を叩いたが、先の大口論にもかかわらず、ずぶぬれの軍服姿の息子をみて、「おお、帰ってきたか。さあさあ、お入り、御苦労だったな」と、温かく迎えたというのである。

このうち(2)の弟と叔父については、また吉本特有のわかりづらい言ひ方で、要するに彼らはインテリの口真似をしてゐるに過ぎない、と言はれてゐる。どんなに激しく言ひ争はうと、そこには人を決定的に、根底から動かすやうな力はない。だから時代が変はるにつれて簡単に変はる。それくらゐだから、「理屈」よりは肉親の情のはうがたいていは大きいのであり、庶民にとつてはそれでよい、否むしろそのはうがよい。しかし、言葉を使ふこと、理屈をこねることが仕事であり存在理由であるはずのインテリまで似たやうなものであり、言葉が羽よりも軽いのだとしたら、それは問題とされずにはすまないだらう。

これに対して(1)については、「残念なことに、わたしたちの戦争責任論は、心情的な基礎として、ここに記録された主婦と弟と母親の準位を超えることができていない」と吉本は言ふ。ここの理路がまた非常にわかりづらいのだが、つまり、「戦争中人間魚雷に乗って死ぬことを夢としていた弟」にしても、「弟の死を決定的なものとする出征を、悲しみもせず平然と見送った母親」も、戦争に対する観念が生活意識のレベルにまで達してをり、その意味でイデオローグたちの言説から「自立」してゐる。戦争で死ぬのは全く当然、それについて彼是の理屈を必要としない程度に。そして吉本(たち?)には、そのレベルで「戦争」を論理的に扱ふことはまだできない、といふことらしい。

果たしてさう言へるのかどうか、疑問はある。この話の中の母は、(2)の叔父の話を聞けば一も二もなく同意したのではないか。こんな知識やら理屈付けはいらないらしいところは、なるほど強さに見えるが、それこそ吉本たち左翼的なインテリが「ナロード(民衆)」に対して過剰に抱いたロマンチズムにすぎないのではないだらうか。

ただ、戦後まで生き延びた主婦と弟には、「無智であることそれ自体に責任はあるか」といふ問ひが生まれる。究極的な問ひの一つではあるが、この問ひもまた、庶民の生活の場で追及されなければならない、と吉本は言ふ。さうでなければ、理屈が一見どんなに精緻になつても、本当に人を動かす力は持たないから、「無智ゆゑの間違ひ」は何度でも繰り返されるであらう、と。これは説得力が感じられる。

以上がざつと、戦後の吉本隆明の立脚点であり、それは戦中の皇国少年の立場からすれば「転向」と呼ばれてもよいのではないかと思ふ。なぜこんな神を信じたか、と悔やまれたとしても「すぐに自分の神学的思考を切り換へて、もつと別の神をさがしたり、無神論を選択したりすることができるといふものではない」(P.146~147)と長谷川氏は言ふのだが、「たやすく」ではなかつたにしろ、戦後の吉本は天皇とは別の神を探し出した。その御名を尋ねれば、たぶん「科学的社会主義」といふのが一番近いであらう。

もちろん旧来の社会主義者とは一味違ふ。吉本は、庶民の生活意識の根底(大衆の原像)から軸足を離さず、一方で目は世界全体を鳥瞰する普遍性をあくまで希求する、理念上の巨人であらうとした。これはこれで一種の神学と呼んでもよい。吉本隆明のカリスマ性は、そこで何が成し遂げられたか、よりは、そこでの彼の意欲の激しさと逞しさに因る。これまた、宗教指導者の持つカリスマ性に似通つてゐると言へる。

そしてかういふのもまた、八月十五日の衝撃が生み出したものなのである。


(その3) ――三島由紀夫の「忠義」――



戦前に生まれ、天皇を神とし、戦後になつても「神へとしばりつけられ」てゐる徴である憤怒を持ち続けた数少ない人物の一人として、長谷川氏が挙げたのは三島由紀夫である。ただし三島は、八月十五日にはあまり衝撃を受けなかつた、と何度も、自ら言つてゐる。例外はただ一つ。

たしかに、二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直観したものと、どこかで密接につながつてゐるらしいのを感じた。(「二・二六事件と私」、本書P.163の引用より)

このエッセイは、「二・二六三部作」として、「英霊の聲」「憂國」と戯曲「十日の菊」をまとめて『英霊の聲』の総タイトルで出版された(昭和四十一年)ときの、あとがきとして付されたものである。「神の死の怖ろしい残酷な実感」こそ、吉本隆明や桶谷秀昭氏が八月十五日に感じたものであらう。「これまでいつもはぐらかすやうな仕方でしか語らなかつた自らの敗戦体験を、三島由紀夫はここではじめて、小説の形をかりて語り出さうとしてゐるらしい」との期待を長谷川氏は抱く。ところが小説「英霊の聲」には、八月十五日のことなどほとんど何も書かれてゐない。二・二六事件に際して感じられた「神の死」は、終戦の翌年の「人間宣言」に結びつけられる。

三島にとつては、敗戦は実際に痛恨事ではなく、上の文中の「敗戦に際会したとき」云々は、「筆のすべり」に過ぎなかつたのか、とさへ思へるが、さうではなく、「告白するやうな顔をしてかくし、かくしながらひそかに告白する」といふ彼の習性に則つて八月十五日が描かれてゐるのだらう、と長谷川氏は考へ、そこから「英霊の聲」の分析に向かつてゐる。

私はこれに関しては、「筆のすべり」のはうが正解に近いやうに感じてゐる。むろん「真実」はわからない。今も三島が生きてゐて、尋ねることができたとしても、彼が「正解」を言ふかどうか、いや、彼自身が「正解」を覚えてゐるかどうかも確実ではないだらう。だいたい、三島といふ多作で多弁な作家の遺した大量の言葉のうちから、彼が積極的に示さうとしたぺルソナ(仮面)を見て、とりあえずそこの「真実」に基づいて考察を進めるより他に、彼とつきあふ道はないと思ふ。

三島が敗戦前後を語つた文書のうち、一番詳細なものとしては小説「仮面の告白」がある。そこでは例へばかう言はれてゐる。「戦争が勝たうと負けようと、そんなことは私にはどうでもよかつたのだ。私はただ生れ変りたかつたのだ」。

「生れ変」るとは、この場合は死ぬことを言ふ。この主人公は、普通の、平凡な生活を何よりも嫌悪し、また恐れてゐた。文学の世界でこそ、天才の声名を一部からは受けてゐたものの、それ以外の彼は、虚弱で、また男色の性癖を隠し持つた青年だつた。この時代では、今よりずつと生きづらさを感じざるを得なかつたらう。殊に、彼のやうに自意識もプライドも異常なまでに強い者は。空襲時の火に捲かれて夭折する、そちらのはうが、退屈で無意味な日常に埋没し、そこからの侮辱を絶えず感じながら生きるよりずつとよい。

と、思つてゐてもその時は来る。それは八月十五日の少し前だつた。彼は父親から、「確かな筋からきいたといふ原文の英文の写し」(ポツダム宣言かしら?)を見せられる。

私はその写しを自分の手にうけとつて、目を走らせる暇もなく事実を了解した。それは敗戦といふ事実ではなかつた。私にとつて、ただ私にとつて、怖ろしい日々がはじまるといふ事実だつた。その名をきくだけで私を身ぶるひさせる、しかもそれが決して訪れないといふ風に私自身をだましつづけてきた、あの人間の「日常生活」が、もはや否応なしに私の上にも明日からはじまるといふ事実だつた。

敗戦の衝撃がなかつたわけではない。しかしそれは、「私にとつて、ただ私にとつて」とわざわざ繰り返して、天皇も日本民族の運命も、全く念頭にない主人公の身勝手さが強調されるていのものだ。これが三島由紀夫の文学の出発点だつたのである。

それでも、三島が、二・二六事件の青年将校たちに憧憬を抱いてゐたことは本当だらう。「二・二六事件と私」の、先程の引用文の後は次のやうになつてゐる。

それがどうつながつてゐるのか、私には久しくわからなかつたが、「十日の菊」や「憂國」を私に書かせた衝動のうちに、その黒い影はちらりと姿を現し、又、定かならぬ形のままに消えて行つた。

 それを二・二六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。その純一無垢、その果敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。

三部作のうち最初に書かれた「憂國」(昭和三十五年)は、正にその陽画を描いたものだ。主人公の青年将校は美男であり、彼が半年近く前に娶つた妻は美女である。夫は蹶起将校たちと親しく、当然誘はれたはずだが、たぶん新婚であることを慮つてのことだらう、相談も受けなかつた。蹶起の二日後、即ち二十八日の夜、彼は警備の任を一時解かれて帰宅する。もはや蹶起部隊は叛乱軍と決まつた。明日は自分も討伐に加はるやう命じられるであらう。それはできない。と言つて軍人として勅令にも逆へない、とすれば、残された道は、今晩のうちに死ぬしかない。

「俺は今夜腹を切る」と夫が告げると、妻は少しもたぢろがず、「覚悟はしてをりました。お供をさせていただきたうございます」。夫「よし。一緒に行かう。但し、俺の切腹を見届けてもらひたいんだ。いいな」

これでこの小説の物語は終はる。後は、死を前にした若夫婦の交合と、切腹の詳細な描写が続く。至高の死に密着した至高のエロスが描かれてゐる、といふことなのだらうが、臆病で凡庸な私にはその味はひはわからない。ただ、三島にとつて、死の必然性が最も重大なのだな、とはわかる。必然的な死こそ、生を必然的なものとする。それを得た者が英雄なのであつて、偶然の死によつて終はるしかない人生など、なんの意味も値打ちもない。「仮面の告白」中の二十歳の青年が抱く日常性への嫌悪を辿ると、かういふところへ行き着くのは見易いだらう。

同様に、直ちに気がつくことだらうが、ここでは天皇はほとんど関係ない。「憂國」には、その題名とはうらはらに、国家への思ひも微塵もない。ただ至高の死を導く条件として、討伐の勅令が予想されてゐるだけだ。ここでも三島は、恐ろしく身勝手なままなのである。

さてしかし、三島が創造した青年将校はそれでよいとして、実在の蹶起将校たちの死はどうなるのか。この時「偉大な神が死んだ」とは、どういふ意味になるのか。ここで初めて、神としての天皇が問題になつてくる。これを最も直截に伝へたのが「英霊の聲」であつた。

あらかじめ言ふと、ここには「神への奉献としての死が、当の神によつて拒まれる」事態が描かれてゐる。これこそ『神やぶれたまはず』のテーマであるが、長谷川氏が八月十五日のこととして提出する「神学」とは大きく隔たつてゐる。土台がまるで違ふのである。

「英霊の聲」が雑誌と単行本の両方に発表された昭和四十一年の三月初旬、伊澤甲子磨と、蹶起将校のうちただ一人自決した河野壽大尉の兄で、二・二六事件研究家の河野司が来訪したときの談話の「要約」が、安藤武『三島由紀夫「日録」』に収録されてゐる(P.315)。

三島「二・二六の挫折の原因は何でしょう」河野「三〇年に亘る私の研究の結果は、口にすることは憚るものがありますが、最終的には天皇との関係の解明につきると思います」三島「やはりあなたもそうですか」河野「蹶起将校一同は全員自決を決意し、自決に際しては、せめて勅使を仰ぎたい旨の懇願を、本庄侍従武官長を通じて奏上した。陛下のお言葉は、陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なりと仰せられたと本庄日記にある」三島「人間の怒り、憎しみですね。日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」河野「三島さん、彼等が若し獄中で陛下のこのような言動を知っていたら、果たして『天皇陛下万才』を絶叫して死んだでしょうか」三島「君、君たらずとも、ですよ。あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万才を唱えたと信じます。でも日本の悲劇ですね」

これが三島の天皇神学のエッセンスである。蹶起将校に勅使を送らず、その死に栄光を与へなかつたことこそ最大の過ち、神としての天皇にはあるまじきふるまひであつた、と。将校たちのテロル(近代政治の文脈ではさうとしか言ひやうがない)は政治的にはどのやうな正しさが認められるのか、その次元のことは関心の外であるかのやうだ。たぶんさうなのだらう。敗戦が重大事ではなかつたやうに。

しかしいつたいそのやうなことがどうして可能であつたらう。賜死とは、支那に由来する制で、身分の高い者が罪を得たとき、公然と追求して縄目の恥に晒すことを避け、潔く自裁した形を取ることで、ぎりぎりの面目を立ててやらうとするものだ。それが日本で、「御馬前の死」=「戦場での討死」となんとなく混同され、栄光ある死だと考えられたのは、ある種の転倒があつたやうに感じられる。

それに第一、臣下に死を賜はることは「日本の天皇の姿」として正しいと言へるのだらうか。支那では多くの場合、毒を贈ることがその作法だつたやうだが、日本では上記の「美意識」の結果、切腹といふ独特の形式に昇華したことは御存知の通り。しかし言ふまでもなく、これは武家の習はしであり、死を命じる主君もまた武士である。長谷川氏も指摘する如く、天皇がさうしたといふ記録は、記紀にはない。

では、変革の原理としての天皇はどうだらう。三島は「英霊の聲」の翌年に書いた「『道義的革命』の論理」で、「国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があつて」「国体論自体が永遠のザインであり、天皇信仰自体が永遠の現実否定なのである」と述べてゐる。

それは国体の中心核としての天皇が、日本の「道義」そのものであるからだ。古来、天皇かそれに近いところで企てられたクーデターから皇族内部のいざこざを除いて数へると、大化の改新、承久の変、建武の中興、といふことにならう。これらはいづれも、「我が国の本来の姿である皇道に戻る」ことを中心理念として掲げてゐた。明治維新も然り、徳川幕府の治世は、あるいは幕府の存在そのものが、国体に悖るとされて、葬られた。倒幕のために天皇信仰が利用されたと言つたはうが現実的には正確であるとしても、理念としてまたタテマエとしてそれは有効、といふより、日本では唯一無二の革命理念であつた事実は揺がない。

しかし、かういふのが野放しにされるのは危険極りない。現実のどんな政治体制も、完全に道義的になどなり得ない。「神の王国」から見たら、この世は常に汚れてゐる。そもそも、人間は道義的に完全にはなれないからこそ、政治が必要とされたのではないか。それを忘れて、「永遠の現実否定」、当時流行つてゐた言葉だと永久革命、をあくまで指向したりしたら、理の当然として、国家・社会は滅ぶ。その危険ぐらゐ、三島もよく弁へてゐた。そのうへでしかし、二・二六の青年将校たちが目指した完全なる道義による変革に、己を託さうとしたのである。

ところで、この時の天皇は国家元首として、また大日本帝国陸海軍の大元帥として、現実の国家の統治者であつた。現体制を守らうとするのが当然であり、軍の統制を最大規模で乱した者たちは、叛乱軍として処罰せねばならぬ。昭和天皇が迷はずさうしたのは、そこに「人間の怒り」があつたことは否定できないにしろ、やはりご英断であつたと評するしかない。

もちろんそれは、蹶起将校たちが求めた、「絶えず変革を誘発する契機としての国体」、その体現者としての天皇像から見れば逸脱であつた。しかしその逸脱がいつ起きたかと言へば、昭和十一年ではなく、遅くとも、帝国憲法によつて天皇が立憲君主となつた明治二十三年まで遡らなければならない。つまり、昭和維新を志した者たちにとつて、「神の死」はもう起きてしまつてゐたのである。

私は先ほど「(終戦の折の)神の死の怖ろしい残酷な実感」は「筆のすべり」としたほうが正解に近い、と推測した。どこがすべつたのかと言ふと、たぶん、「神の死」ではなく、「神の不在」と書くべきだつたのではないか。戦争で多くの者が死んだが、その死を嘉すべき神は最初からゐなかつたのだ(もちろん三島が求めてゐるやうな神は、だが)。さうであれば、三島が戦中に思ひ描いてゐたやうに、戦火に焼かれて死んだとしても、それは偶然の死の一つに過ぎないことになつてしまふ。さらには、特攻隊員の死ですらもが。

天皇の「人間宣言」は、その内容に関はらず、さう呼ばれることによつて、この恐るべき事実を明らかにした。そこが呪はしいのである。

これは当然、「神風はつひに吹かなかつた/何故だらう」の答へになる。三島はそれを、特攻隊員の霊の口を借りて、次のやうに言つてゐる。



陛下の御誠実は疑ひがない。陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、そのお言葉にいつはりのあらう筈はない。高御座にのぼりましてこのかた、陛下はずつと人間であらされた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらされた。清らかに、小さく光る人間であらされた。

それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。

だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらされるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらされるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらされるその深度のきわみに於いて、正に、神であらされるべきだつた。それを二度とも陛下は逸したまふた。(下略)


「何と云はうか」と言ひ澱んでゐることからも察せられやうに、ここで英霊は非常に困難な、いや、明白な不可能事を要求してゐるのである。ある決定的な瞬間において神であること、それが人間である天皇の最高の義務だ、などと言はれ、具体的にはどうすればよいのか、わかる人がゐるだらうか。蹶起将校たちの志を嘉納すること?

しかしそのためには、幾分かは、彼らの行ひを認めなくてはならない。蹶起将校が生前思ひ描いてゐた理想としての「絵図」第二の中で、天皇は彼らに死を命じるのだが、その前には、「今日よりは朕の親政によつて民草を安からしめ、必ずその方たちの赤心を生かすであらう」などと言ふ。天皇の親政? 北一輝だつて実質的にさうなることなど求めてゐなかつた。また、ただそれだけで、蹶起将校たちが政治の貧困・悪徳の証としてゐた、当時の「民の貧しさ、民の苦しみ」まで自動的に救ふことができたらうか。それなら、政府はいらない。憲法もいらない。つまりは、天皇が国家元首、などといふ体制もいらなかつたといふことになる。

これを逆に見れば、天皇が江戸時代まで続いた武家政権で概ねさうであつたやうに、政事や軍事の実権から離れてゐたとしたら、彼らのために一掬の涙をお流しになるぐらゐはおできになつたかも知れない(なさつたかどうかはわからないが)。思へば、そのやうな存在のみが、「絶えざる変革の原理」となり得るであらう。

しかし、陛下が大元帥であり、軍の統帥権を総攬するのだから、自分たちは真直ぐに陛下とつながつてゐる、との思ひが、青年将校たちの第一の行動原理だつたのだから、ここには、この世にあつては、いや、いかなる神をもつてしても、絶対に解き難いアポリアがあるとしか言ひやうがない。

と、いふこともまた、三島は私などよりずつとよくわかつてゐたに違いない。コウルリッジはシェイクスピアは万の心を持つと言つたが、優れた劇作家でもあつた三島にも、百ぐらゐの心はあつたらう。蹶起将校の霊に憑依されてゐない時の彼は、次のやうに昭和天皇の大御心を思ひやることもできたのである。

ああ、お上、尊いお上、けだかい、あらたかな、神さびてましますお上、今やお上も異人の泥靴に瀆されようとしておいでになる。民のため、甘んじてその忍びがたい恥を忍ばうとしておいでになる。(中略)かつて瑞穂の国、日出る国であつたこの国は、今や涙の国になつた。お上こそはこの国の涙の泉だ。遠く苔むした山の頂で、限りもなくあふれるおん涙の泉を、私ははるか山裾にゐて川へ伝へる一本の筧だつたのだ。

これは「英霊の聲」の翌年に書かれた戯曲「朱雀家の滅亡」の一節である。この作を私は、現代日本語で書かれた最も美しい戯曲の一つだと考へてゐる。

主人公は、古くから琵琶をもつて宮廷に仕へてきた朱雀家の当主で、戦争中、この国に仇なすと思へた首相(東條英機がモデルだとすれば、彼が気の毒に思へる)を退陣させるために一役買つたが、それを奏上した時の陛下の目に「何もするな。何もせずにをれ」との詔を読み取る。さうであるならば、ただ黙つて滅びるしかない。

陛下のお考への中にさういうものが実際にあつたかどうかはわからない。が、二・二六事件や三島事件のやうなことをしでかすくらゐなら、何もしないでゐてくれたはうがよい、とはされたであらう。そして、それが大御心に叶ふことだとして、「生きることも死ぬこともできない精神状態」に敢へて留まり続ける者に、不思議な至福が訪れる。承詔必謹の極みだからである。これはこれで、「神人対晤」のある形かも知れない。ただし、よそ眼にはそれは「静かな狂気」と映る。

かういふ境地もあり得ることを示した三島だが、自分自身は最終的にはもつと激しい狂気に身を委ねた。一つには年齢の問題もある。「お上の御学友」だつた朱雀家の当主は終戦時で四十五歳だらうが、昭和といふ年代と生まれを同じくしてゐた三島は二十歳。黙つて滅びを受け入れたまま生きて行くにしては死までの道のりが遠すぎる。もつとも、戯曲では当主の息子は、朱雀家の最後を飾るべく「南の島」で戦死するのだが、三島は、徴兵逃れに近い形で、その機会を自ら逸してゐた。

ここからは私は長谷川氏の論にほぼ完全に同意する。三島に残されたのは、「行動学入門」(昭和四十四年~四十五年)に言ふ、最も純粋な行為としての死である。政治的な有効性はもとより、究極的な必然性を与へてくれる神の有無さへ問はない、心情において徹底的に純粋であることによつてのみ、「道義性」が保証されてゐるやうな行為。三島はこれを、「豊饒の海」第二巻「奔馬」(昭和四十二年~四十三年)の主人公にかう言はせてゐる。

忠義とは、私には、自分の手が火傷するほどの熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前にささげることだと思ひます。その結果、もし陛下が空腹でなく、すげなくお返しになつたり、あるいは、『こんな不味いものを喰へるか』と仰言つて、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を切らねばなりません。何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。飯はやがて腐るに決つてゐます。これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかえりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。

かくして昭和四十五年十一月二十五日のあの蹶起となる。これによつて三島由紀夫は、戦後日本の伝説となつた。しかし、最後に「天皇陛下万歳」が叫ばれた、その時の「天皇」とはいつたいなんだつたのか、それは私などの理解を絶する領域である。
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