ここで少し文学史のおさらいみたいなことをするが、文学と政治とは、実は日本の近代文学の出発点から深い関わりをもっていた。
近代写実小説というものを初めて紹介した坪内逍遥の「小説神髄」が、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」を批判の槍玉に挙げたことはよく知られている。八犬士などは仁義忠孝といった観念のお化けであって人間ではない、小説というものはそんな人間ばなれした英雄たちの波瀾万丈の行動を語るものではなく、ありふれた普通の人間の心のドラマ、すなわち「人情」をリアルに描くものだ、と逍遥は主張した。
しかし、逍遥の「八犬伝」批判は、実は、それ以前、自由民権運動の渦中で書かれた多くの政治小説に対する批判を含意していたのだとみなすことができる。「八犬伝」は、儒教的徳目を体現した英雄たちがうしなわれたユートピアの再興という政治的目的のためにたたかう物語だが、政治小説も、主人公たちが自由と民権という政治的理念を実現するためにたたかう物語だったのだから。
つまり政治小説は政治的イデオロギーを具体的に興味深く読者に伝えるための啓蒙と宣伝(プロパガンタ)の役割を託されていたのであり、逍遥は、そうした政治的目的に従属するものとしての小説を否定して、文芸としての小説を自立させようとはかったのである。
坪内造遥が「人情」という古い言葉で呼んだものに「内部」という抽象的で孤絶的で近代的な呼称を与えたのは北村透谷だった。透谷は、山路愛山との論争で、文学は現実の役に立たぬもの、というより、役に立とうとしないもの、「空の空なる」事業なのだといいきった。つまり彼は、人間というものの内面性に定位した文学を、現実的な効用性から徹底的に切りはなそうとしたのである。
透谷によって、文学は政治(イデオロギーや現実的効用性の領域)から限りなく遠ざけられたようにみえる。しかし、逆説的だが、そのことによって、文学はもう一つの政治、「革命」と呼ばれる現実否定の政治と親近しはじめるのだ。
そもそも北村透谷は、弱冠の身で自由民権運動に参加し、過激化する党派から離脱したのち、キリスト教に入信し、ロマン派の旗手となった。透谷の遍歴した政治と宗教と文学とは、激しい自己意識のドラマを生きる近代青年たちの情熱を吸い寄せる三幅対にほかならない。この三つのものは、たしかにたがいに鋭く対立し批判しあうが、しかし、功利的で利己的な現実への埋没を拒絶する点で共通している。現実への苛烈な否定性を潜めたその危険な魅力が青年たちを惹きつけるのである。
透谷が文学を現実的効用性から切りはなしたとき、そのラディカルな現実否定の強度において、文学は、政治(革命)への情熱とひそかな交わりを結ぶのだ。文学と政治(革命)とがともに共有するのはこの情熱である。
政治(革命)と文学という問題は、一九二〇年代、マルクス主義という革命運動の登場とともに、文学青年たちに重くのしかかるようになる。しかし、昭和における問題の基本は、すでに、逍遥と透谷によって準備されていたというのが私の考えだ(厳密には、もうひとつ、「大衆=国民」という新たな要素を加えなければならないが)。
以後、満州事変後のいわゆる「転向」の季節を経て、戦時下の「国策」という政治に翻弄されたあげく、文学は戦後をむかえることになる。戦後もまた、「民主主義革命」、六〇年安保闘争、六〇年代末の学生叛乱というふうに政治(革命)の季節のトピックはつづくが、問題の基本構図はほとんど変わっていない。
(『戦後短編小説再発見』9〔講談社文芸文庫〕への井口時男の「解説」)
感想
この方面に詳しくないからかもしれませんが、私にとってはありがたいまとめでした。これだけ見事にまとめた文章を知りません。下線と題は牧野がつけました。
近代写実小説というものを初めて紹介した坪内逍遥の「小説神髄」が、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」を批判の槍玉に挙げたことはよく知られている。八犬士などは仁義忠孝といった観念のお化けであって人間ではない、小説というものはそんな人間ばなれした英雄たちの波瀾万丈の行動を語るものではなく、ありふれた普通の人間の心のドラマ、すなわち「人情」をリアルに描くものだ、と逍遥は主張した。
しかし、逍遥の「八犬伝」批判は、実は、それ以前、自由民権運動の渦中で書かれた多くの政治小説に対する批判を含意していたのだとみなすことができる。「八犬伝」は、儒教的徳目を体現した英雄たちがうしなわれたユートピアの再興という政治的目的のためにたたかう物語だが、政治小説も、主人公たちが自由と民権という政治的理念を実現するためにたたかう物語だったのだから。
つまり政治小説は政治的イデオロギーを具体的に興味深く読者に伝えるための啓蒙と宣伝(プロパガンタ)の役割を託されていたのであり、逍遥は、そうした政治的目的に従属するものとしての小説を否定して、文芸としての小説を自立させようとはかったのである。
坪内造遥が「人情」という古い言葉で呼んだものに「内部」という抽象的で孤絶的で近代的な呼称を与えたのは北村透谷だった。透谷は、山路愛山との論争で、文学は現実の役に立たぬもの、というより、役に立とうとしないもの、「空の空なる」事業なのだといいきった。つまり彼は、人間というものの内面性に定位した文学を、現実的な効用性から徹底的に切りはなそうとしたのである。
透谷によって、文学は政治(イデオロギーや現実的効用性の領域)から限りなく遠ざけられたようにみえる。しかし、逆説的だが、そのことによって、文学はもう一つの政治、「革命」と呼ばれる現実否定の政治と親近しはじめるのだ。
そもそも北村透谷は、弱冠の身で自由民権運動に参加し、過激化する党派から離脱したのち、キリスト教に入信し、ロマン派の旗手となった。透谷の遍歴した政治と宗教と文学とは、激しい自己意識のドラマを生きる近代青年たちの情熱を吸い寄せる三幅対にほかならない。この三つのものは、たしかにたがいに鋭く対立し批判しあうが、しかし、功利的で利己的な現実への埋没を拒絶する点で共通している。現実への苛烈な否定性を潜めたその危険な魅力が青年たちを惹きつけるのである。
透谷が文学を現実的効用性から切りはなしたとき、そのラディカルな現実否定の強度において、文学は、政治(革命)への情熱とひそかな交わりを結ぶのだ。文学と政治(革命)とがともに共有するのはこの情熱である。
政治(革命)と文学という問題は、一九二〇年代、マルクス主義という革命運動の登場とともに、文学青年たちに重くのしかかるようになる。しかし、昭和における問題の基本は、すでに、逍遥と透谷によって準備されていたというのが私の考えだ(厳密には、もうひとつ、「大衆=国民」という新たな要素を加えなければならないが)。
以後、満州事変後のいわゆる「転向」の季節を経て、戦時下の「国策」という政治に翻弄されたあげく、文学は戦後をむかえることになる。戦後もまた、「民主主義革命」、六〇年安保闘争、六〇年代末の学生叛乱というふうに政治(革命)の季節のトピックはつづくが、問題の基本構図はほとんど変わっていない。
(『戦後短編小説再発見』9〔講談社文芸文庫〕への井口時男の「解説」)
感想
この方面に詳しくないからかもしれませんが、私にとってはありがたいまとめでした。これだけ見事にまとめた文章を知りません。下線と題は牧野がつけました。