最近の主たる仕事である「小論理学」(未知谷版)の準備は「本質論」まで終わりました。後90頁足らずで、全体の4分の1が残っていることになります。
ここで「
現実性論」についていくつかの問題点が出てきました。寺沢訳「大論理学2」に付いている「付論」(本質論の構成についての大小論理学の比較)を読んで、考えています。つまり、「概念論」に入る前に小休憩をしています。
「現実性」論を考えるために、ヘーゲルの「哲学史講義」でスピノザを読み返し、更にライプニッツ等の読み返しも必要だと分かりました。寺沢の意見を読んでいて、ユダヤ教とキリスト教の異同が分かっていないのではないかと、感じましたので、この点の確認もしています。
現実性論にはスピノザが出てきます。ヘーゲルは、スピノザはユダヤ教の当時の公式的な立場には反対しましたが、キリスト教に改宗はしなかった、それが「実体」を「主体」と捉えることを妨げた、と言いたいようです。
ヘーゲルにとっては神を「
三位一体の神」と捉えることが肝心の点だったと思います。これは単なるヒラメキですが、ヘーゲルの「概念の内在的展開」という考えは、「三位一体の神」を「父なる神から子なる神(イエス)が出て来るのだが、そこで聖母マリアが間に立っている(媒介の役を果たしている)」というの解釈と、その論理構造で一致している、と気づきました。後者の解釈はヘーゲル独自のものかもしれません。キリスト教辞典などには見られませんから。また、両者が一致していると気付いたとしても、どっちを基にして他に気づいたかは、分かりません。いずれにせよ、先を急がないで寄り道をするといい考えに気づきます。
少し偉そうな事を言いますが、日本人が欧米の文学や思想を研究する場合、キリスト教の勉強を回避している人が多いように思います。しかし、欧米の思想を語るには、キリスト教の基本くらい勉強しなければならないでしょう。そして、そのためには、キリスト教とユダヤ教の根本の違いくらいは知っていなければならないでしょう。
一般化して考えますと、思想については、或る思想に興味を持つとその思想ばかり知ろうとします。他の思想の事は勉強しません。これが普通でしょう。1つの思想を勉強するだけでも大変ですから、こういう態度も理解はできます。しかし、本当を言えば、これでは拙いと思います。
語学についても同じです。1つの言葉をマスターするだけでも大変なのに、複数の言葉を勉強しなければならないなんて、という訳です。そのため、ほとんどの文法家は1つの言語の文法しか調べないのです。日本人の場合なら、せいぜい日本語と比較して考える程度です。しかし、これでは本当の文法は出来ないと思います。文法は原理的に比較文法なのです。ですから、関口さんやザメンホフのような語学の天才にしか、本当の文法は分からなかったのでしょう。
断っておきますが、私は自分を文法家だとは思っていません。私の仕事は、「関口を中心とする諸氏の文法を整理し、比較し、用例を集めてみた」というだけです。しかるに、この「まとめる」仕事こそ哲学だと思うのです。「哲学は形式に関する学問だが、その形式とは内容を生み出す形式である」というのヘーゲルの考えだったと思います。
関連項目
牧野紀之