マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お知らせ

ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

実証主義的社会学の意義と限界 船曳由美

2014年09月28日 | ハ行
    ──船曳由美著『百年前の女の子』を読んで──

 2010年に講談社から出版されました船曳由美の『百年前の女の子』は「現代の『遠野物語』」と言われる位の評価を受けています。知っている人の仕事がこのように高い評価を受けていると知ることは嬉しいことです(船曳は高校と大学で1年上級生でした。高校時代には一緒に自治会役員もしたくらいです。我が高校では「生徒会」とは言いませんでした。又、「先輩」という言葉は卒業生の事で、学年の上の人は「上級生」と言い、「さん」付けで呼びました)。

 遅まきながらこの本の事を知ったのは昨年(2013年)の11月のことでした。NHKのラジオ深夜便の「母を語る」に出演していたのを偶然、「途中から」聞いたのです。聞いている内に「これは船曳さんの話ではないかな」と思いました。翌日、少し調べてみて、それを確かめました。何十年も会っていませんので、ネットで色々な事を知りました。

 本を取り寄せて読んでみました。感想を書こうと思いました。皆さんが諸手を挙げて賞賛している本の「限界」(「悪い点」ではありません)を指摘するのですから、慎重な準備が必要でした。ようやく準備が出来ました。

 物事を評価するには対象を全面的に見て、肯定面と否定面とをその軽重に応じて評価しなければならないでしょう。しかし、世の肯定的評価に対して、1点だけにせよ欠点を指摘する場合は、とかく後者の指摘が大部分を占めるために、全体としての評価が誤解されやすいと思います。その危険は避けられませんが、それを出来るだけ小さくしたいので、先ず初めに、「アマゾン」に載っています「レビュー」から4つ引きます。そして、「私はこれらに共感します」と言っておきます。

1、このノンフィクションの主人公寺崎テイは、明治42年(1909年)栃木県足利生まれ。実の母は実家でテイを出産すると、寺崎の家には帰りたくないといって、テイだけを送り届けてそれ以後一度もテイには会いに来なかった。寺崎家には新しいおっ母さんがくるが、その条件はテイを養女に出すことだった。寺崎の家は新しいおっ母さんの産んだ子が継ぐ約束だからだ。

 2歳から5歳までテイは何度も里子に出された。いつも働かされていたので字とか数とか覚える暇はなかったがテイはいつの間にか覚えた。そして、葉っぱの虫潰しをしているときも籍にも入れてくれない義理の母に、臭い銀杏の実を拾わされているときも、虫や銀杏の数を数えた。「ひとぉつ」「ふたぁつ」「みっつ」。銀杏の実がたくさん採れたときはうれしかった。でも採れすぎても幾つ採れたのかテイには分からなかった。テイは100以上は数えられないのだ。(原文要約)

ここは泣くところではないのかもしれないが、わたしは不覚にも泣いてしまったのである。これは、凡百の小説の作り話をはるかに凌駕する。

 『100年前の女の子』テイちゃんは、著者の母である。私は、107年前の女の子である祖母 イナちゃんに育てられた。テイちゃんのように学問はしなかったけれど、雀を捕まえて焼いて食わせてくれた。笹の葉に梅干しを包んでチュウチュウ吸うおやつを作ってくれた。雪の中で凍らせて作る自家製のアイスキャンディを作ってくれた。ドブロクもこっそり飲ませてくれた。78回転のレコードで『美ち奴』を聞かせてくれた。

 私はとある首相が「もはや戦後ではない」といった頃の子供であるが、その頃までは本作のテイちゃんの世界が残っていたと思う。一人一人の心の中にきっとに100年前の女の子がいる。

 ところで、願わくは、NHKが本作に目をつけて、テレビ小説などに、なさらぬように。

2、著者の母親寺崎テイを誰よりも愛したヤスおばあさん。僕は彼女の言葉一つ一つに日本人の神を畏れ敬う心、他人を思いやる心、自然を大切にしその恵みに感謝する心、あらゆる「日本人の根底」のような物を感じた。ヤスおばあさんが守り、そしてテイに伝えた日本人の心は、著者にしっかりと受け継がれていると思う。だからこそ、この本にその心が、その世界が見事なまでに描かれているのだと思う。

 そしてそれは、僕が幼い頃にまだ生きていた祖父や祖母から受けた愛情に、そして今も父母から受ける愛情に息づいている。また、自分の中にも息づいている。だから、この本を読んでいて、自分の生まれる前の世界のことであるのに、どこか懐かしい、それでいて安らぐ世界を感じるのだと思う。

 ヤスおばあさんが寝たきりになり、イワおっかさんの看病に涙を流すところ、おばあさんがなくなってテイが涙を流すところは、涙が溢れてしょうがなかった。悲しいけれど、つらいけれど、とても自然で素直な別かれ方。こんなに素直な涙を流せたのはいつ以来だっただろう。

3、私は子どものころから東京住まいですが、両親は長野県の農家出身で、私が物心つく頃まではまだ、「おじいちゃん・おばあちゃん」のところに帰省すると、「お蚕様」を飼っていました。群馬県とは違う部分もあるものの、似た方言・風習があって、私の歳でよくわかるのも変かもしれませんが、何だかとても懐かしく感じました。

 私の祖母はテイさんのような辛い幼少期を歩んではいませんが、同じ年の生まれで、今年2月に100歳で亡くなりました。昔の農家の女性の役割の厳しさをときどき口にしていました。稲作・蚕産農家で、昔は当然のことながら家で舅・姑を見送りながら、息子4人を大学にやるまで必死に働いた、そうです。

 著者さんの弟さんにあたる大学教授の方は新聞のインタビューで、「泣いてしまって客観的に読めなかった」と語られていましたが、第三者である私でも、同じでした。テイさんは今は、高齢者の施設でお暮らしで、もうよくわからなくなっている、ということですが、まだお元気だったときにお子さんたちがご立派になられて、そのお幸せをじゅうぶん感じられた時期があったことでしょう。それを思って、うれしくて?また涙が出てしまいます。

4、筆者は平凡社と集英社で編集に携わってきた人。黒川能やイザイホーの保存に功があったほか、寿岳文章訳『神曲』を復刊し、鈴木道彦のプルースト新訳、奥本大三郎のファーブル新訳を世に送りました。文化人類学者船曳建夫は実弟、心理学者岸田秀は義兄にあたります。

 本書は哀切な「家族の肖像」であり、失われた世態風俗の散文詩であり、志操高い一女性のメモワールです。ミューズたちの母たる記憶女神ムネモシュネーの声は高くはないけれど、厳かでしかも甘やかです。

 すばらしい親孝行をなさいました。かかる後は編集者としてのご自分の回想を是非ものされますよう。それもまた、現代出版史の貴重な証言とも飾りともなるでしょうから。(「アマゾン」からの引用終わり)

 さて、これら全ての賞賛を共有しつつも、この本には大きな欠点(欠けている点であって、悪い点ではありません)が1つだけあると思います。これは私にとっては言わなければならないことです。それは「社会主義思想ないし運動について、当時の人々の中でも特に優秀な庶民がどう考えていたかについて、聞くチャンスがあったのに聞いていないこと」です。そのために折角の「民俗学の名著」に穴が開いたということです。

 「聞くチャンスがあったのに聞いていない」と判断する証拠が278頁にあります。

──子どもが独立し、父が亡くなり、母は姉夫婦や私と暮らすようになつてから、ようやく外国への旅にも出かけられるようになった。あるとき、どこの国にでも好きなところに連れていく、というと、「社会主義の国を一度は見ておきたい」と答えた。77の喜寿を迎えた年〔1986年〕であった。

 そこでブルガリアからユーゴスラビアヘ、バスで旅するツアーに2人で参加した。ベルリンの壁崩壊の前である。秋の日が照り輝く紅葉の山の斜面に牛や羊の群れが散らばっていた。舗装されていない村の道には馬車が鈴を鳴らして往き交っている。その荷台にはおじいさんやおばあさんが孫たちとギッシリと乗り込み、手を振ってくれるのであった。高松の村のようだ、と母はいたく喜んだ。

 しかし、こんなこともあった。首都ソフィアのデパートで、ケースの中の小さな人形を母が指さしてこれが欲しいといった。大柄の女性の店員はニコリともせず、時計を指さした。1時5分前だ。さらに、大声で何かをまくしたてた。

 「あと五分間は昼休みの権利がある」といったのだと、ソフィア大学で川端康成の『雪国』を修士論文にしたという通訳の女性、ルシカが、顔を赤らめてそっと伝えてくれた。
 「社会主義の制度はどこか人間をダメにしてしまうのかねえ」と母は、かつて若き日、理想としたその夢を破られたのか、ガッカリして悲しそうであった。(引用終わり)

 これ以外にも雑誌『ラジオ深夜便』(2014年2月号)によりますと、「ヤスおばあさんと同様、田中正造などの義民を尊敬していた」そうですから、そういう話しを聞いたことがかなりあったはずです。それなのに、社会主義にどういう期待をしたのかといったことを意識的に詳しく聞き出していないと推定されるのです。

テイの自立後の年表を作りますと、次の通りです。

 1926年(昭和元年)、16歳で女学校を卒業。自立。上京。
 1928年(昭和3年)、女子経済専門学校に入学。
 (1931年・昭和6年、満州事変。戦争時代に入る)
 1934年(昭和9年)、25歳。船曳昌治(しょうじ)と結婚。

 船曳昌治はキリスト者だが、消費組合に勤め、左派であったと言います。当然、社会主義についても話したでしょうに。

 それなのに、その話しを詳しく聞いていないらしい。少なくとも本に書いていないのです。これは大欠点だと思います。なぜなら、民俗学とは「民間に伝承されてきた風俗・風習などを調査し、その民族の生活史・文化史を明らかにしようという学問。フォークロア」(明鏡国語辞典)だそうですが、その「民間」には「農山漁村の人々」だけでなく、「都市住民」も入ると考えられるからです。

 普通には「民」は「官」に対比されますが、「官」にも高級官僚と下級官僚の区別があり、又「民」にも裕福な人と中ないし下層の人がいます。そうすると、「民俗学」という時の「民」とは役人も民間人も含めて「上の方」ではなく「下の方の人々」つまり「庶民」のことと理解するべきだと思います。

 こう捉えますと、大正時代末から昭和初期の庶民、とりわけその中でも知的レベルの高かった人々が社会主義思想と運動にどういう希望なり期待なり憧れなりを持ったかを記録しておくことは「民俗学」の重要な課題の1つだと思います。満州事変までは大正時代の続きで、寺崎テイは、多くの人々と同様に、何か積極的な行動はしなかったのだと思いますが、「社会主義の国を1度は見ておきたい」と即座に答えるような人ですから、社会主義思想と運動には多大の関心を持っていたはずです。そして、これは当時の多くの平均以上の頭を持った若者に共通することだったと思います。

 関川夏央はこう書いています。「大正の時代精神は『改造』への意欲であった。そして、それをになったのは新興する『中流』家庭の息子と娘たちであった。/ 彼らはみな『コミューン』について考えた。ある者は夢想的であった。ある者は冷静で、ある者は皮肉であった。コミューンの建設と維持が現実にそぐわないと見とおす者は少なくなかったが、最初からこれをばかにした者はいなかった。その背景には社会主義への希望がたしかに横たわっていた」(『白樺たちの大正』文藝春秋、213頁)。

 これには、とにかく日露戦争に「勝って」政治的に一等国に近づき、続く第一次世界大戦でもうけて経済的にも「豊か」になった日本が、ロシア革命への干渉(シベリア出兵)のような事があったとはいえ、全体としては、平和だったことが前提でした。これはほぼ1931年(昭和6年)の満州事変まで続いたと言えるでしょう。

 ですから、テイから「社会主義についてお母さんや周りの人たちはどう考えていたの?」と聞くことは、社会〔学〕的に見ても不可欠の重要事なのです。今から考えれば、それは幻想であったと言わなければなりませんが、幻想でもとにかく人々の「生活史と文化史」の重要な一部だったのです。これを記録するチャンスを逃したのは大失敗だったと思います。

 では船曳はなぜこれを逃したのでしょうか。それは、思うに、船曳自身に「社会主義の思想や運動とは関係したくない」という気持ちが意識的・半意識的・無意識的にあったからだと思います。船曳や私が大学に入った1957-8年頃は、学生運動が再度隆盛に向かう時期でした。当時はまだマルクス主義が盛んで、マルクス主義の側は「社会学なんてのは階級的視点なしに社会現象を実証的に記録するだけの学問だ」と捉え、軽蔑していました。逆に、運動ばかりやって勉強をしない学生と違って、勉強の出来る人は船曳のように社会学科に集まり、あるいは教養学科に進みました。

「船曳には社会的関心が全然なかった」などとは言いませんが、マルクス主義や左翼運動をきちんと研究したとも思えません。関わりたくないというのが真意だったのではないでしょうか。しかし、こういう気持ちはその人の学問に出るものなのです。理工系でも同じでしょうが、文系の学問ではかなりはっきり出ると思います。そして、誰にでもあるこの「傾向」と意識的に戦って、学問的に振る舞える人はとても少ないと思います。

 社会学の創始者はコントでした。コントには実証主義者というレッテルが付いています。しかるに、実証主義者は自分が思想という名の「偏見」から自由に「客観的事実」を観察し、記録していると思っているようです。しかし、実際には「先入見を持たないで対象を見聞し、記録し、その真相を捉える事は不可能」なのです。なぜなら、所与の人間(研究者)を取ってみますと、誰でもそれまでの人生経験に基づいた考え方を持っているからです。それは文字通り「先入見」であって、それを「方法」と言おうと、「偏見」と言おうと、同じことです。人によって異なるのは、どういう先入見か、その自分の先入見をどれだけ正確に自覚しているか、それを繰り返し反省しているかの程度でしかありません。

 このテイの社会主義についての感想に関しては、ほかにも考えるべきことがあると思います。それは、そもそもここで問題になっている「労働時間を厳格に守る」ことは果たして「ダメな事」なのかという事です。更にまた、それは社会主義と結びつくことなのか、それとも西欧では或る程度一般的な事ではないのかも本当は問題だと思います。

 この点には深入りしませんが、私は、それを「悪い事」とは思いませんし、ドイツなどでも十分に考えられることだと思います。百貨店ではなくて個人商店ならば、そもそも昼休みはドアを閉めているところも多いと思います。私はこれを忘れて、ウィンドーショッピングで目星を付けておいたものを、「汽車に乗る前に買おう」と思っていたために、昼休みにぶつかり、買いそびれたことがあります。

 英語の得意な同級生でどこか西欧の大使館に事務員として就職した女性が、クラス会で、「5時になったら、その時打っているタイプライターを途中で止めても何も言われない」と話していました。

 船曳はこういう事を知らないのでしょうか。何しろ77歳とはいえ、まだ頭のはっきりしていた母親テイです。社会主義の悪いところはそういう所にあるのではないという自説を述べて、母親世代の社会主義観がどういうものであったか、理解を深めることもできたでしょうに。とても残念です。

 本書は、「昭和9年〔1934年〕、25歳のテイの巣ごもりの季節であった」(269頁)として、その後の事は概略しか述べていません。101歳まで生きた人の生涯の叙述を25歳で終える事自体不思議ですし、又昭和史の観点から見ても昭和9年以降は大切なのに、それが省かれるのは残念です。自分の事が出て来るので書きにくかったのでしょうか。

 そう考えていると、先日、テレビで見ました「少年H」という映画が本書の続編に成っているのではないかという気がしてきました。それは太平洋戦争を挟んだ前後の時代に生きた神戸の仕立て職人一家の没落と再生の物語でした。この人たちは決して左翼ではありませんが、自由主義的な正義派で、母はキリスト者であったり、父は仕事柄西洋人とつながりがあったりで、そのためにいじめられるのです。その中には左翼への弾圧も出てきますし、父親も捕えられ、拷問を受けます。神戸という都会の庶民の生活史ですから、その点でも寺崎テイの農村生活にはなかったものを補っていて、適当だと思います。

 最後に、「悪点」と思われることを1つ出しておきます。251頁にある「普通の家なら、女が経済を学ぶなどと聞いたら、アカにでも染まったかと目をむいたであろう」という文言です。この「アカ」という語が問題だと思います。

 私にはこの辺の言葉がテイの言葉の「伝達」なのか、船曳の考えなのかが分かりませんが、いずれにせよ、この語は避けた方が好かったと思います。当時はまだ「主義者」という言葉が使われていたかもしれない(丸山真男対話篇『一哲学徒の苦難の道』岩波現代文庫、34頁)というのが第1の理由です。

 それ以上に、そもそも「アカ」は今では「侮蔑語」だと思うからです。『新明解国辞典』には「象徴的には共産主義者」という「語釈」が載っていますが、私見では、「共産主義や社会主義を嫌悪する人が使う侮蔑語」という説明が必要だと思います。最近は「ヘイトスピーチ」が問題になっていますが、これは「ヘイトワード」だと思います。私は今では社会主義者ではありませんが、読んで気持ちの好いものではありません。

 ともあれ、以上の点は非常に残念ですが、全体としては素晴らしい作品だということに変わりはないと思います。これを最後にもう一度言っておきます。(2014年9月24日)

関連項目

実証主義