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形而上学

2006年10月27日 | カ行
 (1) 形而上学という日本語は英語の metaphysicsの訳語として生まれたのでしょうが、これと同じ欧米語はみな、ギリシャ語の metaphysika (メタフュシカ)に由来します。

 しかるにこのギリシャ語はアリストテレスの本に後の人が付けた名前です。アリストテレス自身はその本を「第一哲学」と呼んだようですが、それを編集する際に physika(自然学)の後に置かれたという理由で、「後」にあたる meta を付けてその名としたのです。

 (2) 日本語の訳者も「形(を持った物)より上(の事柄を扱う)」という意味で「形而上」という言葉を作ったのでしょう。

 (3) しかるにこの本は内容的には「存在の一般的規定」を扱ったり、最高の実在として「純粋形相」を想定したりしていました。そのためこの語は第一に、超感覚的な存在を想定してそれを思弁(純粋な思考)によって認識する学問という意味になりました。この意味での形而上の対概念は形而下です。

 (4) しかし、第二に、必ずしも超感覚的とは限らず、存在一般の規定を考えたり、従って世界観的な思考をする学問を形而上学と言う場合も多いです。この意味では観念論的なそれも唯物論的なそれも可能です。

 (5) 第三に、しかるに不可知論や実証主義の立場に立つ人々はこういう一般的な事柄の認識は原理的に不可能だとしますので、経験を越える事柄を認識する学問をすべて形而上学とします。

 (6) ヘーゲルはたいてい第二の意味で使い、自分自身の論理学は本当の形而上学だと考えていました(参考の01を見よ)。その時、自分以前のドイツで通用していた形而上学、特にヴォルフのそれを「古い形而上学」と呼び、その考え方の特徴は悟性的であることだとしました。

 (7) エンゲルスはこの用語法を踏まえて「悟性的」という意味で「形而上学的」という言葉を使い、その意味での「形而上学的な考え方」を「弁証法的な考え方」に対置しました。しかし、弁証法的な考え方と対立する考え方を「形而上学的な考え方」と呼ぶのはエンゲルスだけの特殊な用語法です(参考の05を見よ)。

 エンゲルスはこれを使った『反デューリング論』の中で、従って又『空想から科学へ』の中で、この「形而上学的な考え方」という言葉を使う時、「いわゆる」という言葉を冠していますが、そういう呼び方は当時はやっていたのでしょうか。

 多分、ヘーゲルの用語法を踏まえてという気持ちだったのでしょう。しかし、やはり「悟性的な考え方」と呼ぶ方が正確だったと思います。それを理解するためにも、又エンゲルス的な意味が極めて特殊であることを知っておくためにも、形而上学という言葉の諸義を正確に理解しておかなければならないと思います。

   参考

 01、形而上学とは、思考の一般的な規定の全領域のことにほかなりません。それはいわばダイヤモンドの網のようなもので、我々は[自分の直面した]全ての素材をその中に投げ込んで理解するのです。教養ある人なら誰でも皆、自分の形而上学を持っています。それは本能的に働く考え方であって、我々はその力に絶対的に支配されています。それを統制するには、その自分の考え方を対象化して認識しなければなりません。(自然哲学246節への付録)

 01の説明
 意味とは単語と単語との結びつきのことであった。したがって、ある個人が意味の世界を持っているということは、まず、いくつかの単語を知っていることを前提している。この個人の知っている単語のことをその人の「所有語」という。しかも、その人はそれらの所有語に何らかの結びつきをつけているということである。「人間は理性的な動物である」と理解している人は、人間と理性と動物とを結びつけている、といった具合である。その結びつきがどのようなものか、それが正しいかどうかは今は問題ではない。何らかの結びつきがあればよいのである。へーゲルはこれをダイヤモンドの網にたとえている。そして、個人のもつ意味の世界のことを「形而上学」と呼び、「人は誰でも自分の形而上学を持っている」とも言っている。これは我々が普通「ある人の思想」と呼んでいるもののことである。(牧野紀之「生活のなかの哲学」166頁)

 02、17世紀の形而上学(デカルトやライプニッツ等)はいまだ実証的な内実を持っていた。それは数学や物理学及びその他の形而上学に属するとされていた諸科学でいくつかの発見をしたのである。(マルエン全集第2巻134頁)

 03、形而上学的思考方法は、個々の事物に囚われてそれらの間の関連を忘れ、事物の存在[現状]に囚われてその生成と消滅を忘れ、事物の静止状態に囚われてその運動を忘れるからであり、それは木を見て森を見ないからである。(マルエン全集第20巻21頁)

 04、形而上学──事物の科学──運動の科学ではない。(マルエン全集第20巻476頁)

 05、エンゲルスが「弁証法」と対立させて用いる「形而上学」とは、ヘーゲルが「弁証法」と対立して用いた「悟性」という言葉の異なった表現であるにすぎないであろう。エンゲルスがどうして「形而上学」という語を「弁証法」と対立するものとして用いるようになったかについては、おそらく、ヘーゲルが『エンチクロペディー』の「予備概念」において、「古い形而上学」の悟性的性格を指摘したことに由来するであろう。(許萬元『ヘーゲル弁証法の本質』青木書店、第3編第3章)

 用例

 01、このひっそりと暮らしている一人の男の毎日の行動を、デ・シーカの眼で見つめていれば、すべての日常的な些事が一種の形而上学的な意味(「それが人生だ」)を帯びてくる(朝日、2002年01月23日)

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