マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

ヘーゲル(邦訳とヘーゲル研究)(その1)(2006年10月18日)

2006年10月18日 | ハ行
 精神現象学(原著は1807年) Phaenomenologie des Geistes

    訳注付き全訳は2つしかありません。

1, 金子武蔵訳「精神の現象学」(岩波書店、上巻は1971年、下巻は1979年)

 金子は生涯に3度、これを訳しています。生涯をこれの翻訳に捧げた人です。それが、可能な限りの文献を繙いて調べた努力に出ています。内容的には、特にイポリットの仏訳及び『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』から多くを学んでいます。

 原語を活かした訳語を創り出した点にも特徴があります。文脈の理解にやや難点がありますが、ドイツ語の理解も内容の歴史的背景の理解も正確です。不滅の訳業と言えます。日本における「精神現象学」研究の到達点を示すものです。

 訳者が明治の人ですから、文体や単語が少し古くて今の人達にはとっつきにくいでしょうが、「精神現象学」の研究には不可欠のものです。これを参照しなかったために失敗した人々を反面教師とするべきでしょう。

 訳注の特徴は、形式的には先人の注解をほとんど全て調べて取り入れていることですが、内容的には哲学史的背景についての注に限られていて、哲学的な訳注はほとんどないということです。そもそもヘーゲルの現実的意味を解明した研究がないので、自分の哲学を
持たない金子には仕方のなかったことです。

 あるがままの「精神現象学」の概略を知りたい人は、金子武蔵著『ヘーゲルの精神現象学』(以文社、1973)を読むといいと思います。これは昔、南佐久哲学会で3年間(1953-6)にまたがって講演したものの速記録に基づくものです。

 本格的な研究書は沢山ありますが、生き残っているのは上掲のイポリットのものとコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』(国文社)が双璧でしょう。後者は実存主義の立場からの研究書です。

2, 牧野紀之訳「精神現象学」(未知谷、2001年)

 金子訳を踏まえているためドイツ語の読み方が正確なことは当然として、その上に訳者の哲学に基づいて訳文の中に角括弧で説明(特に文脈の流れ)を挟んでいることが最大の特徴です。訳文も現代的でこなれた日本語になっています。

 訳注としては哲学するための注解(解釈)を積極的に出していることです。竹田青嗣の解釈など、他者の解釈もきちんと取り入れています。もちろん難解なヘーゲルですから、すべての点についてその「現実的な意味」を解明したわけではとうていありません。

 金子訳を哲学史的な訳業と言うならば、牧野訳は哲学的な訳業と言えます。

 4つの付録がついていますが、これらも「ヘーゲルを読みながら哲学する」ための参考になるでしょう。付録2の「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」は精神現象学の「序論」にある方法の現実的意味を解明しています。付録3の「恋人の会話」は精神現象学全体の現実的意味の解釈です。

    訳注のない全訳は次の2つです。

3, 樫山欽四郎訳「精神現象学」(河出書房の「世界の大思想」シリーズの1つ、1966年。現在は平凡社ライブラリーの1つ)

4, 長谷川宏訳「精神現象学」(作品社、1998年)

 2つとも、金子訳の成果を学ぶ謙虚さがないために誤訳だらけです。一見読みやすいように思えて錯覚する人もいますが、きちんと読もうとすると読めないことが分かって、今では評判が落ちています。

 特に長谷川訳は出版社の誇大広告で当初は売れたようですが、内容のひどさで今では悪名の方が高くなっています。特に、真面目な批判に対してすら答えない訳者の姿勢は非学問的です。

    部分訳(「序言」と「序論」を訳したもの)

5, 真下信一訳(河出書房新社の「世界教養全集」シリーズの第4巻の「ヘーゲルの思想」に所収。初版は1963年)

6, 山本信訳(中央公論社の「世界の名著」シリーズの第35巻の「ヘーゲル」に所収、初版は1967年)

訳注が少しあります。訳文はこなれていて評判の好いものです。


7, 三浦和男訳(未知谷、単行本、1995年)

 訳者の没後に関係者が出版したもので、訳者の大学での講義の一部が解説として巻頭に収められています。注解も少しあります。

 三浦訳には、少し大げさに言いますと、日本のヘーゲル研究の特徴が好く出ています。それは、哲学一般についてはもちろんのこと、特にヘーゲル哲学について「problem-oriented」と捉える姿勢です。つまり「自分の生きている時代の問題に対して自分はどう対処していったらいいのか、自分で答えを出す」という姿勢をヘーゲルは持っていたと考えていることです。

 そして、そこに留まらないで、自分自身も同じように「problem-oriented」に哲学するためにヘーゲルを読むという姿勢です。

 しかし、実際には掛け声倒れで、自分の哲学的問題意識がないために、ヘーゲルを読んで哲学することが出来なかった死骸をさらす結果に終わっているということです。


    大論理学(原著は1812-6年) Wissenschaft der Logik

  1, 鈴木権三郎訳「大論理学」(岩波書店、上巻は1932年、中巻は1935年、下巻は未刊)

  2, 武市健人訳「大論理学」(岩波書店、上巻は2冊で1956年と1960年、中巻は1960年、下巻は1961年)

 鈴木訳の改訳として出たものです。横文字を縦にしただけの翻訳です。

  3, 寺沢恒信訳「大論理学」(以文社、第1巻は1977年、第2巻は1983年、第3巻は死後の1999年)

 読むに耐える邦訳で力作と言えます。しかも、訳注が付いています。

 難点は、第1に、第1巻は原著初版の訳であって第2版の訳ではないことです。初版と第2版との違いを考慮するのは大切な事ですが、両方訳して、比較についての結論は読者に任せるべきだったと思います。

 第2の難点は、第3巻の訳注が概念論の第1部(主観性)までで、第2部(客観性)と第3部(理念論)との訳注はついに書かれなかったことです。哲学にとって一番重要で訳者の本領も発揮されたであろう所が落ちてしまいました。

 第3の難点は、第1巻にある訳者の7つの付論を見れば分かるように、ほとんどもっぱら初版と第2版の内容の並べ方の比較に関心が集中していて、ヘーゲルを読んで哲学するための訳注はほとんどないということです。

 これと関連していますが、寺沢はかつてヘーゲルの論理学以来の論理学体系を建てると言って『弁証法的論理学試論』(大月書店、1957年)を出したのに、個々のカテゴリーの検討の中でそれとの比較が全然ないことです。

 寺沢の哲学はヘーゲルを踏まえたものではなかった、というより、寺沢には哲学がなかったと言わざるをえません。

 第2巻の訳の中で、原著の編集者も気づかなかった間違いを指摘しているのは大きな功績でしょう。寺沢は大学か院の卒業論文でも、イェーナ論理学のドイツ文字の読み方を手掛かりにしてその編集に疑念を呈したようですから、これは寺沢の得意技なのでしょう。ともかく大きな功績です。

  5, 牧野紀之訳「概念論」(第1分冊)(鶏鳴出版、1974年)

 概念論の序論(概念一般について)と第1部(主観性)の第1章(概念)だけです。

 ヘーゲルを読んで哲学するという意欲は買えますが、力不足でした。現に第2分冊以降が出せませんでした。


    小論理学(哲学の百科事典の第1部。原著は3版出ていて1817-30 )

  1, 速水敬二訳「小論理学」(鉄塔書院、1931年。戦後も築摩書房で復刊)

 最初の全訳です。 Zusatz を「補遺」と訳すのはこれから始まったのでしょうか。

  2, 松村一人訳「小論理学」(岩波文庫、上巻は1951年、下巻は1952年)

 元は北隆館から1943年に出たものを文庫にするに際して少し手直ししたようです。岩波文庫で出たということもあり、当時のマルクス主義の人気もあり、それに何より達意の訳文で「小論理学」の代表的な訳となりました。

 誤訳も散見されますが、全体として原文の真意を好く伝えています。日本の哲学界、特にヘーゲル研究と翻訳に与えた影響は大きかったです。

 しかし、松村にはヘーゲルで哲学する力はなかったようです。その『ヘーゲル論理学研究』は存在論だけですし、内容的にも浅薄なものです。

 後年、松村は毛沢東主義に走りましたが、それで共産党系から見放されて終わったようです。

 松村の功績はやはり哲学そのものではなくて、その翻訳でしょう。本訳書とレーニンの「哲学ノート」の翻訳(岩波文庫)が双璧で、その他にフォイエルバッハの翻訳も優れています。

 この翻訳を絶版にしている出版社の見識を疑います。

  3, 牧野紀之訳「小論理学」(鶏鳴出版、1978年以降に5分冊で出たものを、1989年に上下巻にまとめた。上下巻とも注解が別の冊子になっている)

 初めての訳注付きの全訳です。私塾でのゼミナールを踏まえて訳していますので、豊かな内容を持つことになりました。

 Zusatzを「付録」と訳していますが、その付録は編集者が聴講生のノートを編集したものですから、不適切な配列もあるとして、自分の編集を提案しています。しかし、これは原著や他の翻訳との比較を難しくしてしまい、受け入れられませんでした。

 角括弧を使って敷衍して訳す独特の方法といい、問題を出して答えるという説明方法といい、ともかく「小論理学」の翻訳史上画期的な訳ではあります。

  4, 真下信一・宮本十蔵訳「小論理学」(岩波書店、1996年)

 真下の25歳の時(1932年)、脇坂光次と共訳で岩波書店から出したものの改訳となっています。真下が途中まで訳しておいたものを、その死後、宮本が補って、完成したものです。 Zusatz は「補説」としています。一生をヘーゲル研究に捧げたというにしては注釈もなく、見るべき所のない訳です。牧野訳は参照することもしなかったようです。

 岩波書店があらたにヘーゲル全集を編むために、松村訳に代えて出したものです。武市健人訳「大論理学」はそのままこの全集に入っていますが、本当は逆で、松村訳を残して、「大論理学」の方を訳し直すべきでした。

  5, 長谷川宏訳「論理学 - 哲学の集大成・要綱(第1部)」(作品社、2002年)

 「精神現象学」の翻訳で虚名を博した長谷川が今度は「エンチクロペディー」の全訳に取り組みました。2005年に「自然哲学」、2006年に「精神哲学」を出して、形の上では完成となりました。

 しかし、長谷川の仕事の粗雑さを知ってしまった人々にはもはや見向きもされないようです。
コメント

ヘーゲル(邦訳とヘーゲル研究)(その2)(2006年10月18日)

2006年10月18日 | ハ行
    自然哲学(哲学の百科事典の第2部)

  1, 速水敬二訳「自然哲学」(筑摩書房、1949)

 速水は「法の哲学」は訳していますが「精神哲学」は訳していません。もしこれを訳していれば、ヘーゲルの「エンチクロペディ」全3巻を全部訳したことになったでしょう。

  2, 加藤尚武訳「自然哲学」(岩波書店、上巻は1998、下巻は1999。通し頁)

 多くの仲間や元生徒に下訳をしてもらった上で加藤が仕上げたよ
うです。 Zusatz を「補論」としています。

 下巻には訳者による解説と4つの付録があります。その解説はほとんど原典批判みたいなもので、寺沢の上掲の訳書に付いている「付録」と似ています。寺沢は共産党系で、加藤は信左翼系でしたが、その政治的違いにもかかわらずヘーゲル研究は本質的に同じであるとは、これこそが興味深いことです。

 長々とした原典批判を除くと加藤のヘーゲル自然哲学理解は次の言葉に集約されます。

 「ヘーゲルの『自然哲学』は、その哲学、特に論理学解釈にとって不可欠な体系の全体像を示すという点で重要であるのは言うまでもないことだが、その以上に科学思想史の歴史的なドキュメントとしての価値が大きい」( 720頁)。

 平凡な文献読みにはこのような「理解」(無理解)しか出来ないのでしょう。内容が全然ありません。加藤にはヘーゲル論理学の何らかのカテゴリーの現実的な意味を解明した著作も論文も1つもないし、ヘーゲル自然哲学の貢献を具体的に説明した点もないし、加藤自身が自然科学の特定の問題について所与の科学理論の論理的再検討を通して新しい回答を提案したという話も聞いていません。

 真の哲学者のヘーゲル評価と比べてみると加藤の貧しさが一層はっきりします。

 「カール・フォークト流の無思慮な俗物と一緒になってこれまでの自然哲学を非難するのは簡単だが、自然哲学を正当に評価することは大変である。確かにこれまでの自然哲学の中には下らない物も沢山あるが、それはこれまでの経験主義的で非哲学的な自然科学理論でも同じ事である。

 自然哲学の中には有意義なものもあるということは、進化論の普及以来ようやく認識されるようになってきた。ヘッケルが正当にもトレヴィラヌスとオーケンの功績を認めたのがその例である。即ち、オーケンは原粘液と原気泡というものを生物学の公準として提案したが、これはその後、原形質及び細胞として確認されたものである。

 特にヘーゲルについて言うならば、ヘーゲルは多くの点で同時代の経験主義的な自然探究者よりもはるかに優れていた。経験主義者たちは説明できない現象に出会うと力、例えば重力とか浮力とか電気的接触力とかを当てはめるとか、あるいはそれが出来ないと、未知の物素、例えば光素とか熱素とか電素とかを押しつけて、それで説明したつもりになっていたのである。

 そのような根拠のない物素は今やほとんど語られなくなったが、ヘーゲルの反対した力概念に対する妄信は1869年の今でも生き残っている。それはヘルムホルツの「インスブルックでの講話」を読めば分かる。

 ニュートンに対する信仰は18世紀のフランス人から来ているのだが、それに対してヘーゲルは、ケプラーこそが現代天体力学の本当の創始者であり、ニュートンの重力の法則〔万有引力の法則〕は既にケプラーの3つの法則の中に、特にその第3法則にははっきりと言い表されていると述べた(因みに、イギリスはニュートンに名誉と富を与えたが、ドイツはケプラーを餓死させた)。

 グスタフ・キルヒホフがその「最新の数学的物理学の講義」の中で最新の数学的物理学の結果として提出している事は、ヘーゲルがその「自然哲学」の第 270節及びそれへの付録の中で2、3の簡単な数式を使って説明した事の繰り返しに過ぎず、その説明の仕方も
ヘーゲルが展開した簡単な数学的形式と本質的に同じである。

 自然哲学者の自覚的な弁証法的自然科学に対する関係は、空想的社会主義者の現代共産主義思想に対する関係と同じである。」
  (エンゲルス『反デューリング論』の第2版への序文)

  3, 長谷川宏訳「自然哲学」(作品社、2005)


     精神哲学(哲学の百科事典の第3部)

  1, 船山信一訳『精神哲学』(岩波書店、1931、改訳、1965)

 読みやすい訳ではあります。訳注はありません。 Zusatz は「補遺」と訳しています。

  2, 樫山欽四郎訳『精神哲学』(河出書房「世界思想教養全集」5、1963)

 これには Zusatz は訳されていません。

  3, 長谷川宏訳「精神哲学」(作品社、2006)


     法の哲学(原著は1821年)

  1, 速水敬二・岡田隆平訳『法の哲学』(鉄塔書院、1931、改訳は岩波書店、1950)

  2, 高峯一愚訳『法の哲学』(創元社、1953-4、1961、論創社、1983年)

 かつて東京都立大学の同僚たちと行った読書会に基づいて訳しています。

  3, 藤野渉・赤沢正敏訳『法の哲学』(中央公論社「世界の名著」35、1967年)

 少し訳注があります。

  4, 上妻精訳『法の哲学』(岩波書店)


   ヘーゲル研究について

 研究書は沢山ありますが、ヘーゲル哲学の現実的意味を追求しようとしたものはほとんどありません。というより、追求しようとしたけれど壁に跳ね返された記録がほとんどです。

 歴史的に価値のあるものは次のものです。

  1, マルクスとエンゲルスの著作

 特にマルクスの『資本論』『経済学哲学草稿』、エンゲルスの『反デューリング論』『自然弁証法』『フォイエルバッハ論』などは屹立しています。

  2, レーニンの『哲学ノート』

 マルクス主義をヘーゲルから理解しようとして読んだ記録です。たった1度読んだだけでここまで理解した力は驚嘆すべきものです。

  3, 許萬元の3部作

 『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』(大月書店、1968年)と『ヘーゲル弁証法の本質』(青木書店、1972年)と『認識論としての弁証法』(青木書店、1978年)の3冊です。後の2冊はその後、『弁証法の理論』(創風社、上下2巻)としてまとめられました。

 第1書はヘーゲル弁証法の核心たる現実性概念と概念的把握の論理を、第2書はヘーゲル弁証法の全体像とマルクス及びエンゲルスによるその継承を、第3書はレーニンがヘーゲル弁証法をどう理解したかを、研究しています。

 ヘーゲルとマルクスとエンゲルスとレーニンの弁証法の学説史的研究として不朽の名著です。これを越えるものは今後も現れないでしょう。というのは、それほど本書が徹底的だということでもありますが、同時に、ヘーゲルの理解のためにはマルクス主義を通る必要がありますが、社会主義の失敗以降、マルクス主義の哲学を理解しようとする努力が見られなくなったからです。

 許萬元の弁証法研究の意義と限界を好くまとめたものが牧野紀之の「サラリーマン弁証法の本質」(『哲学夜話』鶏鳴出版に所収)です。

 実際、許萬元のヘーゲル研究は深いものですが、結局は学説史的研究でり、用語もヘーゲルやマルクスのままですから、「内容はあるようだけれどこの叙述では分からない」という感想を皆が持つのです。

 4,牧野紀之の哲学

 牧野の哲学は、ヘーゲルの現実的意味を理解することであり、現実の中にヘーゲルを読むことですから、その全ての哲学的活動がヘーゲル研究でもあるのですが、主たる物は以下の通りです。

 ヘーゲルの弁証法の根本については、「弁証法の弁証法的理解」(『労働と社会』鶏鳴出版、1971年、及び波多野精一著牧野紀之再話『西洋哲学史要』未知谷、2001年、に所収)に所収)がそれまでの理解とは根本的に異なった理解を示しています。

 主著は『生活のなかの哲学』(鶏鳴出版、1972年)です。ヘーゲルの概念的把握についても、許萬元の説明と牧野の「『パンテオンの人人』の論理」を比較すると、その違いがはっきりすると思います。

 資本論の価値形態論の認識論については「悟性的認識論と理性的認識論」(『ヘーゲルの修業』鶏鳴出版、1980年、に所収)ほど正確かつ分かりやすく解明したものはないでしょう。

 以上を見ると、マルクス主義系の人々の研究だけですが、この事が「ヘーゲルの現実的意味を理解するには弁証法的唯物論の立場に立たなければならない」ということを示しています。

     関連項目

鶏鳴出版
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