マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

舌切られ雀

2006年10月25日 | サ行
   「舌切られ雀」と言わない理由

 なぜ「舌切り雀」と言って「舌切られ雀」と言わないのでしょうか。

 まず、「舌切り雀」型の用例と「舌切られ雀」型の用例を集めてみると、前者はあるけれど、後者はないのです。

 前者の例を列挙します。

 1, 忘れえぬ思い出

 2, 裏長屋──人家の裏の方(裏通り)に建てた(みすぼらしい)長屋(『新明解国語辞典』)

 3, 士官が、呟いた。いかつい顔、がっしりと鍛え上げた体格とは、およそ似つかわしくないロマンチックな言葉だった。
  (伴野朗氏『霧の密約』63回)

 4, メディアが丸裸にした被害者
  (『アエラ』50号の記事の標題。医師が妻と二人の子供を殺害して、海に捨てた事件の記事)

 5, 「ふれ合い小さな絵画展」と題したこの展示会
  (ラジオ、1994,12,17)

 このように、受け身でもよいところに能動形が好んで使われています。要するに、日本語はこういうものだというだけの話ではないでしょうか。

 外国語で似た例を考えてみます。

 日本語・人っ子一人見当たらなかった。

 英語・Nobody was to be seen.
     × Nobody was to see.

 独語・Niemand war zu sehen.
     × Niemand war gesehen zu werden.

 つまり、英語は受動形を使うが、ドイツ語は(表面的には)能動形を使う(ただし、意味は受動なので、文法としてはこれを「未来受動分詞」と言う)。

 この時、なぜ英語では to see と言わないのか、なぜドイツ語では gesehen zu werdenと言わないのか、という質問を出したとします。答えは「そういう習慣になっている」としか言えないでしょう。

 この場合も、英語には The room ist to let. と You are to blame の二つの例外がある。ドイツ語には例外はない。

 では、なぜ英語のその二つの場合は例外になったのか、という問題を出してみます。すると、歴史的な経緯で答えることは出来ても、原理的な答えとしては、ただ「そうなっている」と言うしかないでしょう。

 言葉の学問は最後は「習慣」に行き着きますが、それはソシュールが明らかにしたように、言葉の本性として「恣意性」ということがあるからです。しかし、その「習慣」を確認するために、しっかり用例を調べて見なければならないのです。

 もう一つ。「最後は」習慣に行き着くのですが、習慣も一度出来てしまうと、その後の言葉のあり方に対しては影響力を持つ。従って、ある表現がそれに先行するどういう表現から影響を受けているか、ということは問題になりうる。習慣の内部での関連である。今
の「舌切り雀」についてそれを考えてみます。

 井上ひさし氏の『私家版日本語文法』(新潮文庫)によると、日本語では利害を感ずるという意味で人格を認められる主体に対してのみ受け身表現が認められていた。しかし、明治以降、非情の物にもそれが認められるようになり、又自然可能的な受け身表現(自然
に~される、~と考えられる、といった表現)も西欧語の影響で生まれた、そうです。

 そうだとすると、「舌切り雀」の雀は有情主体だから受け身表現は可能だったはずです。従って、ここで更に、受け身表現の可能な場合でも、どういう場合には能動表現が使われ、どういう場合には受け身表現が好まれるか、という問題が生まれます。

 私はこれに一般的に答えるだけのものをまだ持ち合わせていません。しかし、今では英語の影響で受け身も奇異に感じられなくなったが、昔の人には原則として能動が自然だったのではないだろうか、という仮説を持っています。

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