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辞書

2006年10月10日 | サ行
1、「辞の書」ということです。この際、辞とは単語のことです(ことば一般のことではないと思います)。書とはもちろん本のことです。この事をはっきり出したのはドイツ語です。ドイツ語では辞書のことを Woerterbuch(ヴェルターブーフ)と言いますが、その意味は「諸単語(Woerter)の本 (Buch) 」ということです。

ですから、単語についての知識をまとめて本にしたものなら、その趣向がどのようなものであっても辞書と言えるのです。書(本)のことを固い言葉では「典籍」とも言いますから、同じ意味で「辞典」という言葉もあります。

2、始まりは「字引」だったとも考えられます。大槻文彦の『大言海』(富山房)は「字引」の項に次のように書いています。

 「漢字を集め列(つら)ねて、その形、音(おん)、意義、等を説きたる書の名。字の解し難きとき、引き出して見るに言う。又、和語、その他、諸外国の言語を集め説きたるにも言う」。

 つまり、漢和辞典は一種の外国語辞典ですから、やはり必要性が高かったのでしょう。国語辞典より前からあったようです。

3、「字引」とか「辞書を引く」とかのように、なぜここに「引く」という言葉を使うのでしょうか。この大槻の本はその事も書いています。その「引き出して」とは、多分、「書棚から辞書を引き出して」という意味でしょう。

 しかし、「字引」という字を素直に見てみますと、「本を引き出して」というより、「字を引き出して」ということではないかという疑念が湧きます。

 「引く」で「国語大辞典」(学研)を見てみますと、第5番目の「取る」という意味でまとめられた一群の中に入っています。その中で「あたってみる」「参照する」と説明されています。その一群の中には「1例を引く」とか「条文を引く」とか「格言を引く」とかの使い方も入っています。

 そうすると、「辞書を引く」とは、辞書の全体を読むことではなくて、辞書の「一部を引き出して」そこだけ読むことを意味しているのではないでしょうか。

 森田良行著『基礎日本語辞典』(角川書店)は、単に「一部」というだけではなく、「目指すものを捜し当て、取り出す」と説明しています。

 そう取ると、「1例を引く」「引用する」「人材を他社から引き抜く」とかも説明できると思います。

 このように理解した時初めて、「引く辞書」に対立するものとしての「読む辞書」という言葉が意味を持ってくるのだと思います。

4、「辞書に当たる」も使われます。この「当たる」はもちろん「調べる」ということですが、「調べる」の意味でなぜ「当たる」が使われるのかが問題です。

 「新明解国語辞典」(三省堂)によりますと、この「当たる」は「何らかの結果を期待して交渉を持つこと」とされています。つまり、相手と相談することです。すると直ぐにも思い出すのが英語の consult a dictionary (辞書と相談する、辞書を引く)です。しかし、これでもやはりそれをなぜ日本語は「当たる」と言うのかは分かりません。

 そこで連想されるのが「打診する」です。それは医者が患者の胸をたたいて身体内部の様子を知ることですが、転意としては、「それとなく働きかけて相手の意向を知る」ことにも使います。ここになぜ「打」という字が使われるのでしょうか。当たるの「当」と意味が似ています。対象に当たってみてこそ対象を知ることができるからだと思います。

5、さて、単語についての知識をまとめたものも、最近では、本だけではなくなってきました。電子辞書なども生まれていますし、ウェブ上に作られたものもあります。ウィキペディアはその代表的なものです。既成の辞書をウェブ上に発表している場合もあります。

 これを考慮しますと、辞書とは「単語についての知識をまとめたもの」ということになります。すると今度は、電子辞書とかウェブ上の辞典とかは書(本、典)を使っていないのですから、そういう物を辞「書」と呼ぶのはおかしいとも考えられます。

 しかし、これは言葉の意味の変化の法則に叶ったことで、例えば「黒板」が緑色になった時「緑の黒板」という言い方が出来たのと同じことです。この点の認識論的な説明は、牧野紀之「昭和元禄と哲学」(『生活のなかの哲学』鶏鳴出版、1972、に所収)にあります。

6、また、例えば「ことわざ辞典」などのように、必ずしも「単語」についての知識ではないものをまとめたものにも「辞典」という言葉が使われます。これも転意の1つです。この際には、「ことばについての知識をまとめたもの」という意味に広がっています。

 同じ単語についての知識でも、古語についてまとめたものは「古語辞典」などと言います。ということは、辞書とは普通は現代語の辞書だということが暗黙の内に前提されているということです。

7、更に、現代語についての知識といっても、単語の何についての知識かということが問題になります。通常は、その「意味」についての知識をまとめたものが本来の辞書と理解されています。従って、例えば語源についての知識をまとめたものは「語源辞典」などと言います。また、用例を集めたものは「用例辞典」と言います。

 しかし、語源というのはその単語を作った人々がその単語について理解していた意味ですから、現代の立場からも「参考にするべき1つの意見」ではあります。ですから、本当の辞書には語源についての説明もあった方が好いと考えられます。この点を重視したのが先にも挙げました大槻文彦のもので、これは国語辞典の草分けと言われています。大槻文彦とその「言海」については高田宏著『言葉の海へ』(新潮社、1978)が詳しいです。

 さらに、意味の正確な理解には用例も大切であるという考えもあります。この点を最も重要なことだとして編集したものが、これも既に挙げましたが、「国語大辞典」(金田一春彦・池田弥三郎編、学研)です。これには主要な単語については主として小説などからの用例が出典付きで挙げられています。

なお、用例とは、実際の文章の中で使われていた文例のことです。これと区別するために、辞書のために意図的に作った例文は「作例」と言います。「言葉についての学問は用例集めから始まる」と言われるのもそのためです。これは他の学問で「研究はデータ集めから始まる」と言われるのに対応しています。

8、辞書の目的は何でしょうか。先にも述べましたように、多くの国語辞書は事実上、意味の説明こそが最大の目的だとしています。これは暗黙の常識になっているとすら言えると思います。ですから、例えば国広哲弥著『理想の国語辞典』(大修館書店、1997)などはこれを当然の前提として、その意味をいかに正確に記述するかだけを検討しています。著者が意味論の研究家であることもありますが、しかし、これはあまりにも狭い理解だと思います。

 まず第1に、「花とは flower です」と和英辞典で説明するよりも、日本語で花とは何かを説明する方がとても難しいという事情があります。日常的に感覚的に分かっている事柄ではそれが一層言えます。

 第2に、日本語の現実を好く観察していますと、言葉の使い方に多くの問題があると思います。ですから、国語辞典の目的は意味もそうですが、それと同等に、あるいはそれ以上に、単語の使い方の説明だと思います。そのためには用例を、誤用例を含めて多く挙げる必要があると思います。

 現に、英語の dictionary は安易に「辞書」と訳されますが、語源的には diction(用語法、用語選択)の本という意味です。思うに、母語人にとっては母語の意味は大体分かっているが、それの使い方では困ることがあるから、それに指針を与えるという主旨なのでしょう。我々はこの英語の語源的な意味を今、かみしめるべきだと思います。

 このように言いますと、意味の理解には用例も大切だから、意味の正確な記述には用例も必要になってくるという言い訳もあるでしょうが、そういう不毛な議論は止めたいと思います。そうではなく、一段高く、国語辞典の目的は日本語生活を豊かにするのに役立つこと、あるいは日本語生活の中で起きている諸問題を考える手掛かり(指針とか正否の判断の基準、ではない)を与えること、とするのが適切だと思います。

 また、外国人が日本語を学び使うことも多くなっている現状を考えますと、読み方やアクセントや共通語と方言の違いなどを説明することも必要になってきています。

 この点で、ウェブ上の辞書ならこれからは発音も実際の発音で教えることができるようになるでしょうし、それも「共通語ではこう、大坂弁ではこう」といったように沢山の事を説明できると思います(なお、現今の紙の辞書にもアクセントの説明はたいていありますが、日本語のアクセントは強弱アクセントではなくて、高低アクセントのため、紙の上で説明するのでは分かりにくいという大欠点があります)。

9、最後に、辞典と事典との関係を考えてみたいと思います。

 多分、平凡社の社長か誰かが「世界大百科事典」の書名として、これは言葉を説明しているのではなくて事物を説明しているのだから「辞典」はおかしい、「事典」と言うべきだと言って、この事典(じてん、または「ことてん」)という単語を使い始めたのだと、記憶しています。

 英語でも dictionary と encyclopedia と分かれています。しかし、辞典と事典とは本当に区別するべきものなのでしょうか。

 たしかにそれぞれの単語はそれの信号する対象とその信号自身との両面を持っています。イヌという単語はその対象(実際のイヌ)とイヌ(犬)という特定の表記(発音と文字)とを持っています。しかし、辞典は後者のみを説明し、事典は前者のみを説明すると分けることにどれだけの意味があるでしょうか。

 (単語の信号対象は単語の生成時に隣接する諸単語との関係で画定されるし、また歴史的に変更もされるという、ソシュールの発見した事実については、述べません。考えたい人は丸山圭三郎著『言葉とは何か』夏目書房〔1994〕が手頃でしょう。どのようにして画定されたかにかかわらず、所与の時点では単語の対象は画定されていますから、この文章の趣旨には無関係です)

 実際の百科事典を見てみますと、それには固有名詞が多く載っているようです。しかし、理屈を言うならば、固有名詞も単語の1種です(固有名詞と普通名詞の相互転化については上掲の「昭和元禄と哲学」が認識論的な説明を与えています)。

 「名は体を表す」という言葉もあります。言葉の説明と事物の説明はそんなに厳密に切り離せるものではないと思います。日本語の「生き字引」を意味する英語とドイツ語を比較してみますと、英語では a walking dictionary ですが、ドイツ語では ein wandelndes Lexikon と Lexikon(事典)を使います。

 まあ、事典は事物そのものの説明が多く、辞典は言葉の説明が多いという程度の違いにすぎないでしょう。この区別にこだわるのも愚かなら、同一視にこだわるのも愚かだと思います。

 百科事典は「百科」事典で、普通の国語辞典がカバーしない専門的な単語の説明も含んでいるという面もあると思います。しかし、これは辞典と事典の違いではなくなりますから、これ以上論じません。

10、外国語辞典については別に述べるほどのことはないと思います。これは方向が反対の2つの部分から成るのが本当だ、と言うくらいにしておきましょう。例えば、英和辞典と和英辞典というわけです。

 この点について1つ述べるならば、日本では後者が弱いという特徴があります。イギリスで出ているドイツ語辞典を見てみると、独英の部分と英独の部分との量がほぼ同じで、しかもたいてい1冊の辞書にまとめられています。

 これは外国では外国語を学ぶのはその外国語で発信するためだということが常識になっていることと関係しているように思われます。

 最初に漢和辞典は外国語辞典の1種だと言いましたが、和漢辞典は国語辞典がそれを担っています。

11、単語の並べ方もアインウエオ順( abc順)が普通ですが、必ずしもアイウエオ順( abc順)ではないものもあります。漢和辞典もそうですが、類語辞典などもそうです。ヘーゲルの「哲学の百科辞典」にいたっては概念の論理的体系に則っています。

12、最後にと言った後で、終わりにを書くのも気が引けますが、今回調べてみて、これまでの辞書ではどれも、「辞書」の項の説明がおざなりであるという事実に気がつきました。ここにこれまでの辞書の根本的な欠点が好く出ていると思いました。

 仕事をする前には、自分の仕事の意味と目的をしっかり考えたいものです。
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