マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

言行一致(01、学校批判者の非民主的性格)

2008年07月28日 | カ行
 「ハダカの学校」というメルマガがあります。発行者はT氏です。その第83号にそのT氏が「『入学誓約書』に異議」と題する文章を発表しました。T氏の娘さんがこの春、愛知県の公立高校に入学するにあたって「入学誓約書」を求められたのだが、それに承服できないとして校長及び教育委員会に抗議しているというものです。

 求められたものは、生徒本人に対しては「私は今般入学を許可されました。つきましては校則を固く守り、生徒としての本分を尽くすことを誓います」というものであり、保証人に対しては「御校へ入学の上は上記(生徒氏名)の在学中にかかわる一切の責任を私どもにて引き受けます」というものです。

 T氏の校長への質問は次の通りです。

 1、「生徒手帳に記載してある制服規定やアルバイト禁止などの校則と、生徒の意見表明権、表現の自由、自己決定権、および子どもへの第一義的教育権である親権との兼ね合いはどうなりますか。そもそも改廃の手続きの明記がない校則は規則とはいえないのではないでしょうか」

 2、「『在学中にかかわる一切の責任を親・保証人が引き受ける』ということは、生徒がその能力に応じて教育を受ける権利や、学校生活における心身の安全保障についても、学校は何も責任を負わないということですか?」

 3、「要するに、日本の法律に基づいて学校を運営していただきたい」

 その他いろいろと書いていますが、主要点は次の通りです。

 4、学校は生徒にとって敷居を低くし、また魅力ある学校にすべく日夜必死の努力をしなければならない。

 5、「生徒としての本分を尽くすこと」とは一体何でしょう。まず、勉強することは生徒の義務だと思わせたいのでしょうが、そうではありません。有名大学への進学率を上げることを各学校管理職は競い合っているようですが、生徒は校長や教育委員会を喜ばせるために通学しているのではありません。

 懸命に勉強して学問の道を目指すか、あるいは高校に通いつつ、スポーツ・文化活動、芸術活動、アルバイト、ボランティア、旅行、読書等で人生経験を積みながら人格と個性を磨いていくかは、全て一人一人の生徒本人が決めることである。

 6、要望を出すのは生徒・親の側です。学校に要望することは、それぞれの教科の学問としての面白さを伝え、生徒にとって解る授業を工夫することに専念していただきたい。生き生きと学園生活を楽しむことが出来る事を保障していただきたいということです。

 7、唯一の校則は、オーストラリアの学校に倣って、「全ての生徒は学校をエンジョイする権利がある」だけでよい。

 8、日本の場合はもう1つの校則が必要で、それは「児童・生徒は、校長に対して、学校の運営の全てについていつでも異議申し立てをすることが出来る」である。この異議申し立てに対しては、校長はそれを具体化出来ない時は、その理由を解るように合理的に誠意をもって、児童・生徒に説明する責任義務がある。(紹介終わり)

 私はこれに対して次のような意見を投稿しました。

 1、まず私もこの誓約書は間違っていると思います。T氏の抗議を支持します。

 2、しかし、なぜこういうものを学校が要求してくるのかというその背景についての洞察ないし推察がないと思います。そのために、対案として出されている校則みたいなものとその考えも間違っていると思います。それは、すべてを学校と教師の責任にするもので、学校の誓約書の裏返しになっていると思います。

 3、誓約書のような考えは、第1に政治的な背景もあると思いますが、その事自体、戦後の文部省と日教組の対立が背景にあると思います。

 しかし、それはともかく、第2に、学校と教師に過大な仕事と責任を押しつける日本人全体の間違った考えがあると思います。学校で起きる「問題」の8割は教師(学校)に責任があると思いますが、2割は生徒(親)に責任のあることだと思います。

 本当は学校にくる資格のない生徒もいるのです。それを退学処分にすると、世間(世論)は「悪い生徒をよくするのが教師の仕事ではないか」と言って、教師(学校)を責めるのです。教師(学校)はこれが間違っていると分かっていても、この世論が余りにも強いので抗しきれず、そのため「問題」を事前に防ごうとしてこういう誓約書になるのだと思います。

 4、換言しますと、教師の仕事は「家庭教育によって学ぶ姿勢の出来ている生徒に勉強だけを教えること」だと思います。つまり、部活は地域社会の仕事であり、生活指導は家庭の仕事なのです。日本では教師(学校)に地域社会や家庭の仕事まで押しつけているのです。

 T氏は「それぞれの教科の学問としての面白さを伝え、生徒にとって解る授業を工夫することに専念していただきたい」と言っていますが、それなら、この間違った世論が教師(学校)に生活指導や部活まで要求していることにも反対するべきだと思います。

 5、T氏のこの点でのあいまいさは、「魅力ある学校にすべく日夜必死の努力をしなければならない」という言葉と、「児童・生徒の異議申し立ての内容について、校長がどうしても具体化することが出来ない時は、校長はその理由を解るように合理的に誠意をもって、児童・生徒に説明する責任義務がある」という言葉に出ていると思います。

 教師も人間であり国家の一員なのです。それこそ「日本の法律」を適用される権利があります。つまり、教師は「日夜必死に」働く義務はないのです。法律や条例で定められた条件を守ってその範囲でベストを尽くす義務はありますが、それでも分からない生徒にはそれ以上の事をする義務はないのです。現実には、さぼり教師と過労死するほど「必死に」働いている(働かされている)教師とその中間の教師との3種の教師がいます。

 6、教師(学校)の努力と言うととかく「出来ない」生徒に徹底的に教えることを考えがちですが、現在起きているそれ以上の大問題は、能力と意欲のある生徒の才能が十分に開花されないということだと思います。ゆとり授業のため、また一部の悪い生徒のために、真面目な生徒が迷惑しているのです。

 出来ない生徒に「分かるまで」教えるなどというのはこの大問題を助長することになると思います。それこそ「個人の能力に応じた」教育がなされず、そのために意欲のある生徒が迷惑しているのです。全部の生徒が全部の授業を同じように出来る必要はないという事こそ確認するべきだと思います。

 或る授業をとってみると、教師はその授業に対して意欲と能力のある生徒を出来るだけ伸ばすことを第一に考えるべきだと思います。そうすることで、中や下の生徒も最大限に伸びるのだと思います。しかし、日本ではヘンナ平等意識のために中間か下の方に合わせた授業がなされています。これでは日本人からは優秀な人は出ないわけです。

 7、「校則廃止に向けた教員と生徒と保護者の三者共闘」では具体的にどんな組織作ってどんな共闘を提案しているのか、分かりません。又、校則廃止だけでは狭すぎると思います。

 総理大臣の「私的」諮問機関に対抗する民間の「教育改革市民会議」でも作りませんか。あるいは学校オンブズパーソンでも作りませんか。個々の問題でのゲリラ的抗議では世の中は改革できないと思います。現にT氏自身、先日の中1の女子生徒の「暴力教師にどうしたらよいか教えてほしい」という訴えに対して何の忠告も出来ないではありませんか。これでは何のメルマガなのでしょうか。(私のT氏への投稿はこれで終わり)

 少ししてT氏からメールが来て、私の投稿は載せられないこと、2人だけで話し合いたい、とのことでした。私はメルマガに載せるように要求しましたが、いまだに掲載されていません。そして、T氏を無条件に支持する投書だけが載っています。

 自分に都合の悪い事は公の場できちんと話し合うことを避ける点で、T氏も学校や教育委員会と全く同じ体質なのです。こういう人が学校批判とやらをしても世の中は良くならないわけです。

 これと同じ事を私は既に「ある体罰反対運動の民主主義」と題して書きました。拙著『囲炉裏端』(鶏鳴出版)に載っています。

 資本主義を批判した社会主義は資本主義以下でした。世のいわゆる体制批判者にもこういう事は多いようです。

(2000年10月27日発行)
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