教師の間違いをどうするか
作曲家の中田喜直氏は「夏の思い出」や「雪の降る町を」などで有名です。氏の未亡人がNHKのラジオ深夜便で氏の思い出を語っていました。インタビューに答えるという形でした。
その中に、かなり有名な話らしいのですが、氏が小学校1~2年の頃、音楽の先生(担任の先生?)のピアノの伴奏(特に左手の部分)がドミソばかりだったので、たまらずに、「先生、違います」と言ったという話がありました。
先生は理解してくれずに、氏を憎むようになり、何か変な事があると、「中田がやったのだろう」と責めたそうです。氏の母親は氏の才能を見抜いていて、3年の時から転校させたそうです。転校先の音楽の先生は立派な人で、中田氏の才能を認めて、音楽の時間の伴奏は全部氏に任せたそうです。だから、氏はこの転校先ではとても幸せだったという話でした。
結論は氏の才能であり、母親の偉さであり、転校先の音楽の先生の立派さでした。しかし、私はこの結論は少し考える必要があると思いました。いや、この3点が間違っているというのではありません。ここで終わってはあまり意味がないと思うのです。
なぜなら、教師より生徒の方が才能があったり、正しかったりすることはいくらでもあることで、そして生徒が先生の間違いを指摘する、あるいは質問するということも沢山あるからです。そして、本当の問題は、この場合、どう考えどう振る舞うのが正しいかという一般論が問題だからです。そして、このインタビューではこの「一般論」が全然意識されていなかったからです。
もちろん、中田未亡人やインタビューアーがこの一般論を問題にしなかったのは仕方ない事です。これらの人は学者ではありませんし、まして哲学者ではありませんから。ですからこれらの人はそういう事まで考える義務もなければ、能力もなくて当然です。
しかし私にとってはこれだけでは済まないことです。そこでここで考えを整理しておきたいのです。では、この一般論はどうなるのでしょうか。
前提は生徒が先生の授業で教えている事に疑問を持ったということです。その時、第1に考えるべきことは、生徒の方が必ずしも正しいとは限らないということです。第2に、その疑問点はその先生なり教科なりにとって根本的な問題である場合と派生的な問題であ
る場合とがあります。第3に、むしろすべての前に、教科の内部の問題でなくて、先生の態度とかの問題である場合もあります。
この3点から上の問題を整理したいと思います。私の考えは以下の通りです。
先生の態度の問題及び教科内容の問題でも根本的な問題は、先生に直接言ったり問題提起したりするのではなく、校長とかできれば学校オンブズといった公正な第三者に訴えるのが正しいと思います。従ってそのような仕組みを作っておく必要があります。
なぜなら、先生と生徒が話し合うのはあくまでも先生と生徒という関係の枠組みの中でのことだからです。これは「尊敬と信頼」の人間関係です。しかるに、態度や教科の根本について疑問を持ったとしたら、その場合は生徒は先生に対して「先生」と思えなくなるわけですから、この根本の枠組みが崩れてしまうからです。
私の多くの経験の教える所では、そして理論的にもそうなのですが、対等な立場でするべき議論を上下関係の中でするのは、不公正な人にとってのみ有利なことであって、公正な人にとっては何の利点もなく、したがって真理のためにならないということです。
これは教師の方が立場を悪用する場合もあれば、生徒の方が立場を悪用する場合もあります。とにかく、先生と生徒の尊敬と信頼の関係がなくなった場合には議論をしてはなりません。それは他の場に移すべきであり、最後は裁判で争うべきです。
こう言うと、先生と生徒の関係は上下関係であってはならないという意見が聞こえてきますが、今はそれは論じません。
ですから、私は自分の授業要綱の中で、私の授業に対する不満を2種に分けて、根本的な批判は管理者に言ってくれと伝えてあります。しかし、学生の中の不満分子はこれを理解してくれなくて(というより、学長に訴える勇気がなくて)、私に対する不満とか嫌いといった感情を直接私のアンケートに書いたりします。これはルール違反です。
したがって、直接先生に言うべきことは「態度や教科の内容に関する部分的な疑問点」だけということになります。中田氏の例も、微妙な所ですが、まあこれに入るでしょう。すると今度は、この場合、先生がどう反応するかです。
真面目に取り上げて真剣に考え話し合うのが本当です。しかし、そうしない、あるいは出来ない先生も沢山います。残念ながら。その時は、今度は先生の態度が悪いということになり、最初の「根本的な」問題に移行すると思います。
しかし、第1の問題として確認しておきましたように、生徒の意見の方が正しいとは限りません。従って、真面目に考えて話し合っても生徒の言い分を認めることには必ずしもならないということです。それは「話せば分かる」と言うかもしれませんし、たいていの事は話せば分かりますが、話しても分からない事も沢山あるということも知っておいてほしいと思います。
従って、部分的な問題では先生が真面目に取り上げて話し合ってくれたのなら、一通り話し合っても一致しない場合は先生の言う通りにするという原則を確認するべきだと思います。それは先生の言う事が正しいからではありません。先生が先生だからです。残念ながら、これが分からない人が多いのです。
ともかくこういう大切で多くの生徒が(一部の先生も)苦しんでいる大問題について、これまでに学者が理論的に研究しなかったのは間違いだと思います。これがあいまいなままであるために真面目な人々だけが苦しんでいる現状はもう止めにしたいものです。
(メルマガ「教育の広場」2001年06月05日発行)
関連項目
間違い(02、01への批判と返事)
小柴昌俊
作曲家の中田喜直氏は「夏の思い出」や「雪の降る町を」などで有名です。氏の未亡人がNHKのラジオ深夜便で氏の思い出を語っていました。インタビューに答えるという形でした。
その中に、かなり有名な話らしいのですが、氏が小学校1~2年の頃、音楽の先生(担任の先生?)のピアノの伴奏(特に左手の部分)がドミソばかりだったので、たまらずに、「先生、違います」と言ったという話がありました。
先生は理解してくれずに、氏を憎むようになり、何か変な事があると、「中田がやったのだろう」と責めたそうです。氏の母親は氏の才能を見抜いていて、3年の時から転校させたそうです。転校先の音楽の先生は立派な人で、中田氏の才能を認めて、音楽の時間の伴奏は全部氏に任せたそうです。だから、氏はこの転校先ではとても幸せだったという話でした。
結論は氏の才能であり、母親の偉さであり、転校先の音楽の先生の立派さでした。しかし、私はこの結論は少し考える必要があると思いました。いや、この3点が間違っているというのではありません。ここで終わってはあまり意味がないと思うのです。
なぜなら、教師より生徒の方が才能があったり、正しかったりすることはいくらでもあることで、そして生徒が先生の間違いを指摘する、あるいは質問するということも沢山あるからです。そして、本当の問題は、この場合、どう考えどう振る舞うのが正しいかという一般論が問題だからです。そして、このインタビューではこの「一般論」が全然意識されていなかったからです。
もちろん、中田未亡人やインタビューアーがこの一般論を問題にしなかったのは仕方ない事です。これらの人は学者ではありませんし、まして哲学者ではありませんから。ですからこれらの人はそういう事まで考える義務もなければ、能力もなくて当然です。
しかし私にとってはこれだけでは済まないことです。そこでここで考えを整理しておきたいのです。では、この一般論はどうなるのでしょうか。
前提は生徒が先生の授業で教えている事に疑問を持ったということです。その時、第1に考えるべきことは、生徒の方が必ずしも正しいとは限らないということです。第2に、その疑問点はその先生なり教科なりにとって根本的な問題である場合と派生的な問題であ
る場合とがあります。第3に、むしろすべての前に、教科の内部の問題でなくて、先生の態度とかの問題である場合もあります。
この3点から上の問題を整理したいと思います。私の考えは以下の通りです。
先生の態度の問題及び教科内容の問題でも根本的な問題は、先生に直接言ったり問題提起したりするのではなく、校長とかできれば学校オンブズといった公正な第三者に訴えるのが正しいと思います。従ってそのような仕組みを作っておく必要があります。
なぜなら、先生と生徒が話し合うのはあくまでも先生と生徒という関係の枠組みの中でのことだからです。これは「尊敬と信頼」の人間関係です。しかるに、態度や教科の根本について疑問を持ったとしたら、その場合は生徒は先生に対して「先生」と思えなくなるわけですから、この根本の枠組みが崩れてしまうからです。
私の多くの経験の教える所では、そして理論的にもそうなのですが、対等な立場でするべき議論を上下関係の中でするのは、不公正な人にとってのみ有利なことであって、公正な人にとっては何の利点もなく、したがって真理のためにならないということです。
これは教師の方が立場を悪用する場合もあれば、生徒の方が立場を悪用する場合もあります。とにかく、先生と生徒の尊敬と信頼の関係がなくなった場合には議論をしてはなりません。それは他の場に移すべきであり、最後は裁判で争うべきです。
こう言うと、先生と生徒の関係は上下関係であってはならないという意見が聞こえてきますが、今はそれは論じません。
ですから、私は自分の授業要綱の中で、私の授業に対する不満を2種に分けて、根本的な批判は管理者に言ってくれと伝えてあります。しかし、学生の中の不満分子はこれを理解してくれなくて(というより、学長に訴える勇気がなくて)、私に対する不満とか嫌いといった感情を直接私のアンケートに書いたりします。これはルール違反です。
したがって、直接先生に言うべきことは「態度や教科の内容に関する部分的な疑問点」だけということになります。中田氏の例も、微妙な所ですが、まあこれに入るでしょう。すると今度は、この場合、先生がどう反応するかです。
真面目に取り上げて真剣に考え話し合うのが本当です。しかし、そうしない、あるいは出来ない先生も沢山います。残念ながら。その時は、今度は先生の態度が悪いということになり、最初の「根本的な」問題に移行すると思います。
しかし、第1の問題として確認しておきましたように、生徒の意見の方が正しいとは限りません。従って、真面目に考えて話し合っても生徒の言い分を認めることには必ずしもならないということです。それは「話せば分かる」と言うかもしれませんし、たいていの事は話せば分かりますが、話しても分からない事も沢山あるということも知っておいてほしいと思います。
従って、部分的な問題では先生が真面目に取り上げて話し合ってくれたのなら、一通り話し合っても一致しない場合は先生の言う通りにするという原則を確認するべきだと思います。それは先生の言う事が正しいからではありません。先生が先生だからです。残念ながら、これが分からない人が多いのです。
ともかくこういう大切で多くの生徒が(一部の先生も)苦しんでいる大問題について、これまでに学者が理論的に研究しなかったのは間違いだと思います。これがあいまいなままであるために真面目な人々だけが苦しんでいる現状はもう止めにしたいものです。
(メルマガ「教育の広場」2001年06月05日発行)
関連項目
間違い(02、01への批判と返事)
小柴昌俊