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組織と個人、井口時男

2018年06月23日 | サ行
   「昭和」の体験、「戦後」の表現

       井口 時男

 本巻〔講談社文芸文庫編集『戦後短編小説再発見』第17巻〕は「組織と個人」というテーマで編集した。軽くてやわらかい「カルチャー」全盛の時代には流行らぬかもしれない、いわば硬いテーマである。まず、このテーマの背景と来歴を簡単にふりかえってみる。 

 組織というものを、血縁・地縁の自然な関係を基底にした家族や村落といった共同体と区別して、何らかの目的遂行のために人為的に構成された集団、というふうに定義しよう。すると、指揮系統があり、規約があり、成員間の役割分担に基づいた協働関係があると同時に命令・支配の関係があり、といった慣性がみえてくる。つまり組織は、成員の力を結合することによって個人の力の総和を超えた大きな力を発揮できるが、反面、個人を目的遂行のための歯車のように処遇する側面ももつことになる。そして、会社にせよ組合にせよ政党にせよ軍隊にせよ官僚制にせよ、このような意味での組織が、自然な人間関係を侵食して社会の全域に拡大していくのが、近代という時代の趨勢であることもおわかりいただけると思う。「組織と個人」という問題はここに生じる。

 日本近代小説の嘱矢たる二葉亭四迷の「浮雲」は、主人公・内海文三が人員削減のために官吏を馘になるところからはじまる。対照的に、お勢という娘をめぐる彼のライバルとして配されている本田昇は、上司の覚えもめでたく利口に立ち回るタイプである。つまり、日本近代小説は、組織から脱落した個人の苦悩を描くことから出発したのだ。

 また、たぶん最もポピュラーな近代小説といってよいだろう夏日淑石の「坊つちゃん」の主人公は、赴任した地方の中学校教員の人間関係に反撥して辞表を叩きつける。いってみれば、組織というものに反抗する主人公の行動の痛快さが、この小説の人気の中心にある。

 しかし、「浮雲」は組織から脱落した後の文三の内面に焦点を絞っているし、「坊つちゃん」の反撥も、組織そのものというより、「赤シャツだの「野だいこ」だのという教員
組織を構成する人間たちの品性の下劣さに対する反撥である。つまり、どちらも組織その
もののあり方を主題にしてはいないのだ。

 総じて日本の近代小説は、組織の中の人間を描くことが少なかったように思う。それは日本の市民社会そのものが十分に発達しなかったせいであるかもしれないし、自然主義から私小説、心境小説へと収斂していく日本の近代小説の特性によるのかもしれないし、そもそも小説家というものの大半が組織の中で生きにくいタイプであって、生家の資産を食
いつぶしたり、内海文三のような社会の「余計者」としての境涯に甘んじたりと、組織の中で苦労した経験をあまりもたなかったためであるかもしれない。

 「組織と個人」というテーマを最初に自覚するのは、昭和初年のプロレタリア文学運動だった。そこでは、「政治的価値」と「文学的価値」との関係が論じられたり、党の指導理論が掲げる創作方法と作家の自由との関係が論じられたりした。要するに、文学をも革命という至上目的のための手段にしようとする組織の要請と、文学というものが作家に要求する根本的な自由とが抵触したのである。

 だが、党が健在であるかぎり作家は組織に従属せざるをえないし、作家たちの党批判が 噴出するころには党そのものが壊滅に追いこまれていた。いわゆる「転向文学」が負い目の意識とともにこのテーマを取りあげることになるが、それも長くはつづかない。非合法の革命党などとは比較を絶した巨大な組織による強力な締めつけがはじまるからだ。しかもこの巨大な組織は全国民を巻きこんだ。いうまでもなく、戦時下の大日本帝国、全体主義化した軍事国家である。

 軍事国家にあっては、すべてが戦争遂行という目的に向けて組織される。徴兵される成
人男子だけにかぎらない、女も子供も年寄りも、隣組だの婦人会だの学校だの工場だのと いった組織に組みこまれ、軍事教練やら防空演習やらを通じて徹底的な規律訓練を受けることになる。国民一人一人の生活の隅々にまで、国家規模の指揮命令系統が貫徹するのだ。もちろん作家も例外ではない。彼らは文学報国会という「翼賛」組織にこぞって参加したし、軍の「宣伝班」に徴用されて従軍したりした。戦争とは、国民のすべてが、幾重にも重なりあいつつ系列化された組織に帰属し、個人としての恣意を矯めて統制に服し、相互に監視しあいさえした、そういう体験だったのである。

 その意味で、日本人にとって「組織と個人」という問題は、すぐれて「昭和」的な体験だったのだといえよう。もちろんその体験がさまざまな形で文学表現にもたらされるのは戦後になってからである。だから、「組織と個人」とは、きわめて「戦後文学」的なテーマなのだということもできる。

 実際、戦後文学の出発点でしきりに議論された「政治と文学」をめぐる論争も「主体性」をめぐる論争も「文学者の戦争責任」をめぐる論争も、いずれも、戦前戦中体験の反省に立って、「組織と個人」の関係を問う性質のものだった。「個人」であること、「自由」であることが保障もされ推奨もされた戦後なればこその議論である。

 人間は自由を求め、組織は自由を拘束する。だが、人間は人間との関係の中でしか人間たりえないのだし、自由も関係の中でしか現実化できない仕組みになっている。この逆説 があるかぎり、小説の主題としての流行り廃りはあろうとも、「組織と個人」という難題自体が解消することはない。(講談社文芸文庫編集『戦後短編小説再発見』第17巻〔組織と個人〕への解説から)

 感想・井口氏の「解説」を読むのは二つ目ですが、前回にもましてその見事さに感心します。とてもありがたいまとめですので、関心のある人たちと共有したいと思ってここに引いておきます。

   参考・井口「近現代日本の政治と革命」(2014年09月25日)


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