マキペディア(発行人・牧野紀之)

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矢切の渡し

2009年06月08日 | ヤ行
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 縁日でにぎわう帝釈天の参道を抜け、江戸川の土手に出る。対岸に日をやると、白地に赤い文字で「矢切の渡し」と書かれた旗がひるがえっていた。運航しているしるしだ。

 シロッメクサや名残のタンポポが咲く土手を下りると、小さな桟橋のたもとでは、柳の綿毛がふわふわと舞っていた。

 「気をつけて乗ってよ」

 船頭の杉浦勉さん(52)に声をかけられながら、定員31人の小さな船に、観光客が次々と乗り込む。東京都葛飾区柴又と千葉県松戸市下矢切を結んで、川幅約150㍍を手こぎでゆったりと行き来。多い日には千人ほどが約5分の船旅を楽しむ。

 岸辺のやぶでヨシキリが、天高いところでヒバリが鳴いた。

 「手長エビやハゼ、フナ、ウナギ、何でもいるよ。地方から東京見物に来た人が、ほっとするって喜んでくれるね」

 大学を卒業した1981年、父の正雄さん(85)に頼み込まれて家業を継いだ。勉さんで4代目。「絶やしちゃいけないって、使命感でやっているようなものだよ」。約7㍍の櫓(ろ)を静かに操りながら言った。

 かつては東京にも多くの渡し船があったが、今に残るのはここだけ。江戸時代に武蔵と下総の国境だった江戸川には、関所として渡し場が設けられ、人の出入りが厳しく管理された。だが、川の両岸に田畑をもつ農民などのため、15カ所の渡しが認められた。矢切もその1つだ。

 葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員、谷口栄さん(48)によると、矢切がはじめて文献に登場するのは14世紀後半。治承4(1180)年に源頼朝が「八切」を渡ったという記載が、『保暦聞記』にあるという。

 「江戸川の底は岩盤で浅く、舟を渡せる所は限られる。渡し場にできる地点として古くから利用されていたのでしょう」

 広くその名が知られるようになったのは、明治39(1906)年に発表された伊藤左干天の『野菊の墓』で舞台になってから。悲恋の物語の主人公、政夫と民子が最後の別れをするのが、この渡しだった。

 長らく庶民の足として親しまれてきたが、1965年にすぐ上流に新葛飾橋が架かるなど、存続が危ぶまれた時期も。それが、映画『男はつらいよ』のおかげで息を吹き返す。1969年封切りの第1作で、寅さんが渡し船で柴又に帰ってきて以降のことだ。

 「柴又が舞台になった理由のひとつに、渡しの存在があったとも聞いているよ。田舎っぽいところがね、いいんじゃないかな」。杉浦さんはそう話すと、矢切側から柴又観光に向かう家族づれを乗せ、再び船をこぎ出した。

  (朝日、2009年05月26日。田中順子)

     感想

 かつて東京に住んでいて、子供たちも小さかった頃(1970年代前半)、春になると、家族でハイキングにここを訪れたものです。総武線の市川駅で降りて、少し戻ってから土手に出て、歩き出します。

 適当な所でお昼のお弁当を食べて、この渡しを楽しんで、柴又界隈を歩き、京成電鉄で帰りました。懐かしい思い出です。

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