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ヘーゲルの英雄論

2009年07月21日 | ハ行
                         牧野 紀之

 英雄待望論が聞かれてから久しい。最近のある調査も、多くの人が現状への漠然たる不満を持ち、誰かが解決してくれないかと願っている、と伝えている。我々はこういう風潮をどう見るべきなのだろうか。ファシズムヘの危険を感じるべきか、真の改革へ前段階と見るべきか。この問いに答えるためには、そもそも英雄とはなにか、英雄と大衆とはどう関係しているのか、英雄と真理とはどう関係しているのかと問うてみるのが、物事を根底から捉え直す哲学の態度であろう。管理社会といわれる現代にあって、へーゲルの英雄論を振り返ってみる所以である。

    第1節 ヘーゲルの歴史観

 へーゲルの英雄論は彼の歴史観の核心をなしている。したがってまず、その歴史観を論理的に整理しておこう。

 ヘーゲルの歴史観はいうまでもなく、彼の哲学体系の第3部精神哲学の第2巻客観的精神の第3章人倫の第3節国家の第3段階世界史で述べられている。ということは、世界史は国家の真の姿を開示したものだということであるが、それよりもまず、それは精神哲学の一部であるということである。

 世界史の地盤は「その内的な姿と外的な姿の全範囲において捉えられた精神的現実」(1) である。その実体ば民族精神である。しかるに「その民族精神は1つの自然的個体であり、したがって開花し、強くなり、また弱くなり、そして死ぬのである」(2) 。いろいろな民族精神の興隆、衰退の過程を貫いているのが世界精神であり、へーゲルはその意味で、世界史は世界法廷であると言っている(3) 。一般にも「歴史の審判」といった表現があるが、へーゲルの歴史観はそういった考えを根底に持っているのである。

 さて、民族精神の担い手である民族はそのままでは国家ではない(4) 。国家とは「民族が自己内で分肢に分かれていて、1つの有機的全体となっている限り」での民族のことである(5) 。その分肢とは、「観念的様式」としては、宗教、芸術、哲学があげられているが、そのほかにも婚姻制度や礼儀作法といった風俗習慣、工業、農業、民法、有限物についての諸科学などが挙げられている(6) 。これらのものを契機として含む全体を国家体制(Verfassung)と呼んでいる。

 国家体制は、国家が民族精神を実際に体現している姿であるから、その「現実化」とされている。同時に国家は、民族精神にのっとって作りあげられなければならないものであるから、精神の「素材」と呼ばれるのである。それでは、この素材としての国家を民族精神に合致した国家へと、しかるべき国家体制へと作りあげるのは誰の仕事なのか。もちろん歴史の主体は民族精神であった。しかし、だからといって、民族精神がみずから手を下して国家体制を作るのではない。それは自己を実現する「手段」として人間を、個々人を使うのである。個々の人間はみな自己の利益(Interesse)のために情熱をもって生きている。その目的を達成することもあれば失敗することもある。しかし世界精神は、そういった個々人の行為の織りなす現実のなかで、着実に自己の本性(自由)を実現していく。これがヘーゲルのいう、理念が個人を手段として使うということの意味であり、「理性の狡知」説である(7) 。

 以上のことを整理すると、精神的現実(歴史)の契機は結局、理念(世界精神、民族精神)と個人(情熱)と国家の3つになるが、三者の関係を考えると、「理念そのものと人間の情熱とが世界史という絨緞の縦糸と横糸である。その中項をなすのが人倫的自由(国家体制)である」(8) といわれるのである。そしてこれら3つの契機は、それぞれ、世界史に論理的に先行するとされている、家族、市民社会、国家の止揚された姿であり、だからこそ世界史は、人倫の最終段階として位置づけられたのである。

 歴史は、芸術、宗教、哲学のように純粋に観念的なものではなく、自然的現実のなかに起る出来事であった。したがって「歴史的発展の諸段階は、直接的で自然的な諸原理として現存するのだが、それが自然的であるが故に、相互外在的な多として現われる。したがって、1つの民族には1つの原理が帰属するということになるのである」(9) 。そしてこのような原理を持つ民族が、その限りで、世界精神の対応段階の執行者となるのである。その原理は4つあり、実体的精神、美的人倫的個人性、抽象的普遍、無限の分裂から統一に帰った実体であり、それぞれに、オリエント世界、ギリシャ時代、ローマ時代、ゲルマン時代が対応する(10)。これがヘーゲルにおいて世界史の一般的行程とされているものである。

    第2節 民族精神と個人

 歴史の実体は民族精神であった。しかしヘーゲルはスピノザ主義者ではなかった。実体を同時に主体と見るのが彼の哲学であった。民族精神はいかにして主体化されるのか。個人によってである。したがって本節では、英雄論をにらみながら、この点を立入って検討しよう。

 ヘーゲルは言う。民族の興隆期にあっては個人が民族精神から分離するということはない。民族の反省期において初めて両者は分離するのである(11)。従ってどの個人も民族の子であり、その国家が発展途上にある限り、時代の子である、と言われるのである(12)。

 個人はそれぞれの目的を追求して生きる。しかしそれによって、その個人には意識されない、より高い目的、民族精神の事業が成就される(13)。歴史にあっては、その精神の努力の結果は、個人の技能のような主観的なものの場合もある(14)が、同時に、科学、宗教、芸術、制度といった形で客観化されている(15)。従って一般に「個人は、民族の存在を自己がそれに合体しなければならないところの、すでに出来上がった、固定した世界として目の前に見いだすのである。個人はひとかどの者になるためには、この実体的存在が自己の感覚様式や技能になるくらいにまで、それを我が物としなければならないのである」(16)。このような前提のもとに行なわれる個人の努力の結果が歴史の絵模様となるのであるが、それはいろいろな分肢を持った国家体制の中で具現されるのであった。したがって個人は、一般的には民族の子であるが、特殊的にはどれかの地位(Stand) に属し、国家体制の中に自己の位置を持つのである。そのことは同時に、各個人にとってはその地位に固有の義務が前提されるということでもあるのである(17)。

 個人はみな、民族の子であり、時代の子であり、それぞれの地位に属している。それでは、個人はみな、互いに同じなのだろうか。ヘーゲルは答える。諸個人はこの民族精神を体現している度合いによって互いに区別される(18)。つまり、個人によって実体の主体化の程度が異なるのである。したがって個人の価値は民族精神の代表者であることに存し、個人の道徳性はその人が自己の地位の義務を忠実に果すことに存する、と言われるのである(19)。そしてヘーゲルは民族精神を十全に体現した人々を Geistreiche(精神に満ちた人々)と呼び、der gebildete Mensch(形成された人、教養ある人)と呼んでいる。こういう人々は民族精神を知り、自己の特殊性を放棄し、自己と民族全体とをその普遍的精神にしたがって導びくのである(20)。

 それではこれらの民族偉人たちはこの普遍的精神をどのようにして知るのか。それは義務や法律(掟)や習俗の中に与えられているのである。したがってそれを知ることは難しいことではない。難しいのは、自己の特殊性を放棄してそれを実行することなのである。この点にこれらの偉人が凡人と異なる特長があるのである。私ばこの種の偉人を「体制内指導者」と呼びたい。これは民族精神と個人とが一致している時期に、その精神を発展させ、完成させ、維持していく過程での指導者だからである。

    第3節 英雄と民衆と哲学者

 民族精神は自然的個体として、開花し、また衰えるものであった。その死は、国際社会において価値を持たなくなる点に現われる(21)。しかしその民族の達成した原理は現実的なものであり、死ぬことはない(22)。新たな民族精神は前の民族精神の真理であり、展開された形態なのである。

 それでは、ある民族精神が前代のそれに代って登場するとき、新しい民族精神(実体)を主体化し、実現する個人はどのようなものであろうか。へーゲルはこれを先の体制内指導者と区別して、「英雄」とか「世界史的人物」と呼んでいる(23)。英雄は、それ以前には知られていなかった新しい原理を最初につかむのである。その原理は、体制内指導者の場合のように、法律や習俗の中に与えられてはいない。したがって英雄は、自己の成就する普遍的なものを自己自身の中から汲み出すのである。しかし、だからといって、その普遍的なものは英雄によって作り出されるのではない。それは永遠に現存しているものであり、ただ英雄によって定立され、英雄とともに尊敬されるのである。したがって、英雄において驚嘆に値することは、ただ彼らが自己を民族の実体の器官へと作り上げたということだけなのである。そしてへーゲルはこのことを、英雄は民族精神を知る (wissen) と表現しているのである(24)。以上が英雄と民族精神の関係である。

 しかし個人はみなが英雄なのではない。それ以外の人々は民族精神とどう関係しているのか。へーゲルはこの観点から、英雄以外に民衆と哲学者とが区別されるとして、民衆が民族精神をとらえる様式を「感じる」 (fühlen) とし、哲学者のそれを「概念的に理解する」(begreifen) と呼んでいる(25)。これら3つのとらえ方はどう違うのか。へーゲルはいう。一歩先に進んでいる精神はすべての個人の中にある魂なのである。しかしこれは民衆にとっては、意識されない内面性にとどまっている。英雄はこれを民衆に意識させるのである。民衆は、自分の固有の内的な精神が自分の向こう側に立っているのだが、それにもかかわらず、それが不可抗な力をもって現われるのを感じるが故に、英雄たちに従うのである。英雄はといえば、それはいまだ隠れている精神が現在の戸をたたくのを聞き知り、最初にそれを告げ知らせるのである。しかし英雄は、自分たちの作り出す諸形態もまた普遍的理念の契磯にすぎないことを概念的に理解するには到らない。概念は哲学にのみ固有のものなのである。世界史的人物は概念を持たない。なぜなら彼らは実践的だからである(26)。ということは、移り変る諸形態の「生成の必然性」を認識するのは、実践的ではない人、つまり観想的な哲学者が、事が済んでからする仕事だということである。これがへーゲルのかの「ミネルヴァのふくろう」理論であった。

 要するに、民衆は感じ、英雄は知り、哲学者は概念的に理解するという図式は、実は、へーゲル論理学における存在論、本質論、概念論に対応し、それぞれ、感覚、悟性、理性に対応しているのである(27)。ここまでくれば更に、英雄の知と哲学者の概念は、『精神現象学』における意識の立場と我々(哲学者)の立場に対応していることに気づくのも容易である。しかし同時に我々は、ここで、論理学や現象学と歴史哲学との違いを見落とすことはできない。前二者にあっては、理性は感覚と悟性とを統一するものとして、また哲学者の立場は意識の立場を止揚するものとして捉えられていた。しかるに歴史哲学では、英雄と哲学者は分けられたままついに統一されないのである。それでは英雄の仕事の理性的性格、その真の根拠はどこに求められるのか。実に、この問いへの答えとしてヘーゲルの出したものこそ、かの有名な「理性の狡知」だったのである。私はここにヘーゲル歴史哲学がへーゲル哲学の根本的立場から一歩後退している姿を見るのである。こういう所に彼の観念論が顔を出してくるのである。したがってマルクスの英雄論(あえてそう呼ぼう)は、まさにその唯物論の故に、この点でへーゲルの概念の立場を正当に継承し、発展させることができたのである。

 マルクスはいう。「たしかに批判という武器は、武器による批判にとって代わることはできない。物質的暴力は物質的暴力によってくつがえされなければならない。しかし理論でさえも、それが大衆をつかむやいなや物質的暴力に転化するのである」(28)。すなわち大衆は存在であり、理論家(指導者)は思考であるということであり、これはへーゲルにおける英雄と民衆の関係に酷似している。しかしマルクスは、英雄と哲学者とを分けるへーゲルには従わない。マルクスは言う。「経済学者たちがブルジョア階級の科学的代表者であるのと同様に、社会主義者たちと共産主義者たちとはプロレタリア階級の理論家である。プロレタリアートがまだ自己を階級に構成するほどにまで発達していない限り、したがってプロレタリアートとブルジョアジーとの闘争そのものがまだ政治的性格を持たない限り、そしてまた、ブルジョアジー自身の胎内で、生産諸力がまだプロレタリアートの解放と新しい社会の形成とに不可欠な物質的諸条件を予見させるほどにまで発展していない限り、これらの理論家たちは抑圧されている階級の窮乏を予防するために、いろいろな社会体制を案出したり、社会を再生させるような科学を追い求めたりする空想家にとどまるしかないのである。しかし歴史が前進し、それとともにプロレタリアートの闘争が一層明確になってくるにつにつれて、プロレタリアートの理論家たちはその科学を自分の精神の中に捜し求める必要はなくなるのである。彼らは自分の目の前で起っていることを理解し、その器官になりさえすればよいのである」(29)。

 これは、自分たち(マルクスとエンゲルス)の科学についてのマルクスの自己認識であり、これが唯物史観の唯物史観的把握である。つまり、目の前で起っている事柄の器官になることである。ヘーゲルの英雄も民族構神の器官になった人のことであった。しかし、ヘーゲルはそれを悟性の仕事とし「知」と呼んだ。マルクスはそれを理性の仕事とした。それによってマルクスは、このような実践と結びついた理性とは無縁の、観想的な哲学を否定したのである。ここにへーゲルとマルクスの違いがある。

 しかしヘーゲルが、英雄は実践的であるが故に概念的ではなく悟性的であると言ったことには何の意味もないのだろうか。我々の経験に照らしてみても、理論家必ずしも名リーダーならず、名リーダー必ずしも大理論家ではない。実践において直接扱われるのは個別の世界なのである。したがって例えば、蜂起の日は10月26日でなければならず、25日でも27日でもいけないということを、その時の状勢から見抜くのは判断能力の問題であって、このことを論証することは不可能なのである。しかし、同時に我々は、正確で深い判断能力は長年の経験と多くの思索の結果であることを知っている。つまり個別的な事柄についての判断能力と普遍的な事柄についての認識能力とは、一応別々だが、その根底においてはやはり深い関係を持っているのである。

 ヘーゲルが、概念の判断と概念の推理(客観性及び理念)の統一として絶対理念を出し、また認識の理念と実践の理念との統一として絶対理念を出してきたとき、そこで意図していたことは実はこのようなことであったと考えられる。そしてこれはすべて、概念の立場からの必然的帰結だったのである。ということは、概念の立場を追求していけば英雄になるということである。概念の立場とは、かつて論じたように(30)、真理を主体的に実現していく立場であり、自我の目覚めにおいて純粋に現われるように、一切のことを人類の立場から、また自分はどう生きるかという観点から、自分の頭で考え直す立場のことである。従って、英雄とは徹底的に概念の立場に立っている人のことだとするならば、人間はだれでも、自分の頭で考えれば考えるほど、それだけ英雄になるということである。

 英雄はどこか外からやってくるものではない。すべての人が自分のなかにその可能性を持っているものなのである。ただ人によって違うのはその自己内の可能的な英雄をどれだけ現実化したかということにすぎないのである。英雄の意義を低めるのも間違いなら、それを天から降ってくるものと崇めるのも間違いなのである。これがへーゲルとマルクスの英雄論からの帰結であり、一切の個人崇拝を拒否する真の英雄論である。従って、現下の英雄待望論は、自分自身こそ英雄であり、自分自身が立上る以外に真の改革はありえないことを忘れて、自分の外に英雄を待望している限りにおいて、疎外された英雄論と評されなければならないのである。

 (1) ヘーゲル『法の哲学』第341節
 (2) ヘーゲル『歴史における理性』ホフマイスター版、67頁
 (3) ヘーゲル『法の哲学』第340節
 (4) 同上所
 (5) 『歴史における理性』ホフマイスター版、114頁
 (6) 『歴史における理性』ホフマイスター版、129~135頁
 (7) 『歴史における理性』ホフマイスター版、105頁
 (8) 『歴史における理性』ホフマイスター版、83頁
 (9) 『法の哲学』第346節
 (10)『法の哲学』第347節
 (11)『歴史における理性』ホフマイスター版、67頁
 (12)『歴史における理性』ホフマイスター版、95及び122頁
 (13)『歴史における理性』ホフマイスター版、88頁
 (14)人間国宝などがその例である。
 (15)『歴史における理性』ホフマイスター版、65~66頁
 (16)『歴史における理性』ホフマイスター版、67頁
 (17)『歴史における理性』ホフマイスター版、137頁
 (18)『歴史における理性』ホフマイスター版、60頁
 (19)『歴史における理性』ホフマイスター版、94頁
 (20)『歴史における理性』ホフマイスター版、60及び65頁
 (21)『歴史における理性』ホフマイスター版、68頁
 (22)『歴史における理性』ホフマイスター版、69頁
 (23)『歴史における理性』ホフマイスター版、97頁。ヘーゲル自身にこういう区別があったと主張するのは、私が初めてのようであるが、その根拠は、第1に、本文で述べたように、実体を知る方法が根本的に違うこと、第2に、ヘーゲルの次の言葉である。「国家の中では〔国家体制が出来てからでは〕英雄は存しえない。英雄はただ、まだ形成されていない状態にのみ現れるのである」(『法の哲学』第93節への付録)
 (24)『歴史における理性』ホフマイスター版、98頁
 (25)『歴史における理性』ホフマイスター版、98頁
(26)『歴史における理性』ホフマイスター版、97~99頁
 (27) ヘーゲル認識論の実際の意味は、拙著『労働と社会』に収めた論文「弁証法の弁証法的理解」、及び「『パンテオンの人人』の論理」で、分かりやすく述べておいた。
 (28)『マルクス・エンゲルス全集』ディーツ版、第1巻、385頁
 (29)マルクス『哲学の貧困』
 (30)拙稿「ヘーゲル哲学と生活の知恵」(『生活のなかの哲学』に所収)

  (この論文はお茶の水書房刊『社会科学の方法』1972年2月号に掲載された)

     関連項目

「英雄やーい」(『生活のなかの哲学』所収)
牧野紀之著『マルクスの<空想的>社会主義』(論創社)

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