マキペディア(発行人・牧野紀之)

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上野女性学の限界

2019年07月24日 | ア行

   上野女性学の限界

 東大の入学式で上野千鶴子さんの行った挨拶が話題になりました。新聞でも取り上げられ、東大新聞では学生から賛否のアンケートを取ったとか。

 昔は、東大の入学式とか卒業式では総長の話が話題になったと記憶しています。戦後の講和条約をどうするかが問題になっていた頃、南原総長が全面講和を主張した時には、時の総理大臣から「曲学阿世の徒」という言葉が返ってきたと思います。

 時代は変わりました。今では総長の話は話題にならず、来賓の話が注目されるようです。

 さて、6月30日のTV番組「情熱大陸」では30分近く、好意的に報道していました。問題の発言の中心は、次の3つの言葉のようです。

①がんばったから報われるとあなた方が思われること自体が、あなた方の努力の成果ではなく、環境のお陰だったことを忘れないようにしてください。

②恵まれた環境と恵まれた能力とを恵まれない人たちを貶めるためにではなく、そういう人々を助けるために使ってください。

③そして強がらず自分の弱さを認め、支え合って生きてください。(文字通りの発言のはずですが、番号を振ったのは牧野)

 私の鈍い頭にはイマイチ趣旨がはっきりしませんが、上野さんの言いたいことは、多分、「全ては自分の努力次第だ」という考えは間違いで、努力すらできない環境で育った人もいる、という事ではないかと思います。

 もちろんこれには賛成ですが、それなら、②と③は余計だと思います。これくらいの事は高校の入学式で言うのが適当でしょう。それよりも「学問の府」である大学の教授であった上野さんのするべきだった事は、「個人の人生の成功不成功における主体的条件と客観的条件を、整理して提供する」ことだったと思います。

 それは、私見では、次の通りです。

 A・客観的・環境的条件
親からの条件──素質(才能)、育てられ方(物的条件、精神的条件)
 親戚や兄弟姉妹からの条件
 幼稚園での条件、小学校での条件、中学校での条件、高校での条件、塾での条件。
 しかし、一番の前提は世界と自国(日本)の状況(政治、経済、社会)でしょう。
 注・牧野の場合。1939年の12月末に生まれた私について例解しますと、「生まれてから最初の6年間を除いて戦争のない時代に生きたこと」が第1の好い条件でした。第2のそれは、「ワープロとパソコンの登場する時代まで生き延びたこと」です。そうでなかったら、腱鞘炎で相当苦しめられ、私の業績は半減していたでしょう。

 B・主体的条件=努力
 これももちろん大切です。

 私見では、上野さんは、問題をこのように整理して学生に提示し、「問題に気付いたら、すぐに結論を求めようとしないで、まず、関連した事柄をできるだけ沢山集めて、次に、箇条書きでいいですからそれを整理して、それから考えてみてください。高校までの勉強と違って大学は研究する態度や方法を身に付けるところですが、そういう研究する態度を考えるための絶好の問題が今、出てきましたから、ここから学生生活を始めるのはとても有意義だと思います。」と結べば好かったでしょう。

 はっきり申し上げますと、こういう風に言わないで、自分の考えを「1つの考えですが」と断りもしないで、まるで絶対的真理であるかのように主張したのは不適切だったと思います。

 上野さんは沢山の本を出しているようですが、アマゾンで見た限りでは、「自分の授業」を説明したものは1冊もないのではなかろうか(もし、それを知っている人がいましたら、教えてください)。これは教員のあり方としても非常に拙いと思います。もっとも、自分の授業方法の分かるような本を出している教員はほとんどいませんから、上野さんだけを責めるのは不公平ですが、こういう事実自体はもっと意識されて好いでしょう。

 次に、7月3日付けの朝日新聞に載った記事を取り上げます。

 この記事の前文にはこう書いてあります。
 「政党に男女の候補者を『均等』にするよう求める法律が実現したが、女性が極端な少数派という状況は変わっていない。全国で唯一、女性市議が誕生したことがないとされていた鹿児島県垂水市で4月にあった市議選に挑み、次点だった高橋理枝子さん(53)と〔彼女を〕支援した「鹿児島県内の女性議員を100人にする会」代表で南さつま市議の平神純子さん(62)が、日本の女性学・ジェンダー研究のパイオニア、上野千鶴子・東大名誉教授(70)を訪ねた。参院選を控え、上野さんが2人に語った「壁」の本質とその壊し方とは。」

 さて、本文は全部引くと長くなりますので、上野さんの発言としてゴチックで書かれている部分だけを引きます。(番号は牧野)

 ①「女の被選挙権の行使が少なすぎる。選択肢がないと投票する先がない。女よ、もっと選挙に出よう。最大の敵は夫と親族という家庭内抵抗勢力。1人で決めて、家族には事後通告する」

 ②「男を立てる」のなら、当選を譲らないといけない。「おっさんたち、あんたたちに任せられないから、私が代わりに決める」というのが女の政治参加

 ③「女性議員がいない弊害を感じたことはない」というコメントにあぜんとした。そんな人たちが勝手に決めたら「何の問題もない」になるに決まっている。妊娠、出産、育児支援、当事者抜きで決めないでほしい。
 性別だけでなく、年齢クオータ(一定数の割り当て)もつくった方がいいんじゃないかって思う。若い人にも出てきてもらわないと。

 ④「今の野党共闘の難しさもそうだけど、マルチイシュー(複数の課題)を抱えて、統一戦線を組むのは難しい。シングルイシュー(一つの課題)だから、広い裾野が持てる。「女性」はその大きなキーワードになる」

 ⑤「20代や30代のシングル(独身者)やシングルマザーの女性を引っ張り出したらいい。そうした人たちの利益の代弁者がいない。立候補の抵抗勢力がないから出やすい。仕事を辞めなくても議員を続けられるようにする、託児所をつくる、供託金をなくす─ー。
 パートタイムで誰でも地域貢献できる仕事にしていく議会改革や選挙改革に、取り組む時期が来ている」

 ⑥「10年前には考えられなかった候補者均等法。女性候補を擁立しないと恥ずかしいっていう建前はつくった。各政党、やる気があるのか、大きなチェックポイント。やんなきゃ、ネガティブキヤンぺ-ンをやりたいくらい」 (朝日、7月3日、福井悠介、野崎智也)

 さて、これについての感想を書きます。

 ①の中で「女よ、もっと選挙に出よう」と言っていますが、こういう「提案」ないし「激励」を聞くと、マルクスとエンゲルスが1848年に「万国の労働者、団結せよ」と叫んだのを連想します。周知のように、この呼びかけからまもなく200年が経ちますが、これは未だに実現していません。「万国の労働者の団結」は当時30歳前後だった「世間知らずのマル・エン」が思うほど簡単ではなかったのです。今後も出来ないかと思われる位です。若い青年の夢想なら笑って済ますことも出来ますが、70歳の老人の言葉がこのレベルでは困ります。

 上野さんは、自分の授業、特にゼミの生徒にどういう教育をしたのでしょうか。何十年もの間には沢山の生徒がいたはずです。その学生の中から何人の立候補者が出たのでしょうか。ひょっとするとゼロではないでしょうか。それを反省しないで、「女よ、もっと選挙に出よう」と言っているような能天気では困ります。

 ⑤では「仕事を辞めなくても議員を続けられるようにする、託児所をつくる」といっていますが、これは政治家(議員)に成ってからの事です。その前にはまず、「供託金をなくす」という提案が重要です。これは正しいと思いますが、先日の選挙では誰も問題提起しなかったと思います。同時に考えなければならない事は、仕事を辞めて立候補したが、落選した場合のことです。今回の選挙で、共産党は「立候補者の内、55%が女性だ」と自慢していたと思いますが、それは、共産党では供託金を含めてすべての費用を組織で出してくれるからです。それに、候補者はほとんど「党組織の役」についている人ですから、今後の事を心配する必要がないのです。つまり、共産党は「政治的シンクタンク」という性格を持っているのです。他の党も、新たに政治に乗り出そうとする人々も、これを学ばなければなりません。

 ですから、社会学者であり、Wemens action networkの理事長である上野さんのするべき事は、その団体に政治的シンクタンク的性格を持たせるか、新たにそういうシンクタンクを作るかのどちらかであったと思います。上野さんのように東大教授で相当の給与をもらい、その上退職金ももらい、印税も相当あり、講演も1年に100本くらいこなす人気者なら、億単位の財産がおありでしょうから、その一部を「恵まれない人々を助けるために使って」欲しいと思います。そのように、自分が出した上で、皆に寄付を呼びかければ、松下政経塾ほどの物は無理でも、地方選はもちろん、国政選挙にでも出せる程の物には成ると思います。

 最後に言いたいことは、上野さんの考えを聞いていますと、あたかも「女であることは無条件に全面的に善である」かのように聞こえる事です。女性代議士が部下の男性に対して暴言を吐いたり、暴力を振るったりして問題になったのは、ついこの間の事ではなかったでしょうか。

 残念ながら、以上のような率直な感想を述べざるを得ませんでした。東大の教授などというと、皆さん途端に無批判的になりがちですが、どんな偉い人の言動でも疑って考えるのが学問です。

 かつて朝日新聞は、小柴さんの「ニュートリノの発見」でのノーベル賞受賞決定の発表の翌朝、「小柴語録」とかいって、彼の言葉を載せましたが、私はそれに対しても批判的でした。

 cf. 小柴語録(2008年8月2日)

PS(7月27日に記す)
 本文章の題名を替えました。
 本文章は、上野さんの功績を認めるが、氏の考えにも大きな欠点(欠けている点。悪点ではない)があるのではないかと、問題提起したものです。氏の「挨拶」に対する批判は、「入学式で言うべきことではない」といった超越的な批判はあるようですが、私見のような内在的な批判はないようですので。
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