マキペディア(発行人・牧野紀之)

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「許萬元の思い出」をまとめたい

2015年12月06日 | カ行

 インターネットで「許萬元(我々は当時「キョマンゲン」と言っていましたが、今では「ホ・マンウォン」と原語で言うらしい)」と入れて検索して見ましたら、彼についての思い出的な文章として、以下の「参考」に引きました2つが分かりました。

 私の一番知りたいことは立命館大学での「哲学概論」の授業がどのようなものであったかと大学院での「哲学演習」(東洋大学でのそれでもいいです)がどのようなものであったか、です。この2点及びそれ以外の事でも、ともかく許萬元についての「体験」を持っていらっしゃる方は教えてくださいませんか。お願いします。

    2015年12月06日、牧野紀之

 参考1・最近、ネットで許萬元(ホ・マンウォン)氏が、すでに2005年に逝去されていたことを知った。ヘーゲル研究の第一人者であったと思う。私が20代の時(1977年頃)、東京の労働学校で「弁証法」の講座(12回)があり、その講師が許萬元氏だった。弁証法の論理や、ヘーゲルの著作をわかりやすく解説する許萬元氏の講義を、夢中になって聞いていた。すでに主著である、「ヘーゲル弁証法の本質」(弁証法の理論 上巻)、「認識論としての弁証法」(弁証法の理論 下巻)、「ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理」を出されていた。講義の後、駅へ向かう道を歩きながら、許萬元氏に「次の著作は何ですか」と聞いてみた。氏の答えは「資本論の論理」を考えているということだった。私は、「資本論の論理」が出版されることを、心待ちしていた。残念ながら、それは叶わなかった。ヘーゲルに対する深い理解と、それを労働者にやさしく教えようとした許萬元氏に感謝を捧げたい。(多田)(静岡県労働者学習協会のブログ、2013年09月20日)

 感想・「1977年頃」は記憶違いでしょう。『認識論としての弁証法』の出たのは1978年で、立命館の教授になったのが1983年ですから、この両方の間ということでしょう。

 参考2・許萬元先生の思い出

服 部 健 二

 経営学部教授を経て文学部に移籍され、哲学専攻に属され、定年後特任教授として勤務されていた許萬元フォーマンウォン先生が2005年8月25日に逝去された。特任教授として5年間勤められた後も、非常勤講師として2年間主に哲学概論の講義を担当してこられたから、享年72歳であった。体調が良いときは、大学院の研究指導にも出席され、時にヘーゲル理解について鋭い質問や助言をなされるだけでなく、研究指導が終わった後の懇親会には、ご自分は食べられないので失礼するといいながら、いつも飲食代の足しにとカンパされていた。その時の先生の人懐っこい笑顔が忘れられない。

 先生は、1933年朝鮮済州道のお生まれである。東京の朝鮮人中高校在学中、校長先生に勧められ、中央大学文学部で哲学を学び、1959年4月に東京都立大学人文科学研究科に進学された。そこで『弁証法的論理学試論』(大月書店、1957年)などの著作がある寺沢恒信教授の指導を受けられ、寺沢流の解釈とは異なるヘーゲル論理学の唯物論的読解を志向された。その成果が博士課程修了の年に出版された学位論文『ヘーゲルにおける現実性と概念把握の論理』(大月書店、1968年)であった。中央大学初の哲学による文学博士であったと聞く。そして助手になられたのだが、それは在日朝鮮人として初めての東京都職員になられたことを意味する。

 私が許先生のお名前とこの本を知ったのは1972年のことであったと思う。大学院での梯明秀教授の経済哲学ゼミに、細見英先生に報告者として参加していただいたことがある。細見先生は、京都大学経済学部卒業後、かつて立命にあった大学院特別研究生制度によって学費免除と研究費毎月1万円を支給される奨学生として、立命館大学大学院経済学研究科に入学され、その後ひたすら梯経済哲学を吸収され、梯教授の一番弟子と目されていた方である。立命館の大学院経済学研究科を出られ、立命の助手から助教授まで勤められた後、1972年に関大経済学部に移られたのだが、ちょうど『経済学史学会年報』にヘーゲル研究動向の論文(「新版(ヘーゲル研究の動向)──生誕200年をふりかえつて」)を発表されていたので、その論文のお話をしてもらったときのことである。議論が日本の研究動向について及んだとき、許先生のこの学位論文が話題となった。「鳶が鷹を産んだ」という細見先生の評に、梯教授が賛意を示され寺沢批判をされたことと、細見先生が「主体思想」の国の人らしいヘーゲル解釈だといわれたことが、今でも鮮やかに記憶に残っている。

 当時、というより戦後のマルクス主義哲学者は、レーニンの指摘に従ってヘーゲル論理学の唯物論的読解をしようとしており、寺沢恒信氏の研究もその最初の試みであったといえるが、今読んでみてもどこか図式的でぎこちなさを禁じえない。梯ゼミで話題になったあと、すぐに許先生の著作を買って読んでみると、梯経済哲学に親しんだ目からすると意外と共感するところがあった。対象科学としての経済学の諸範疇を主体としての人間の対象的本質を解明する諸範疇として読み直すという経済哲学の方法に、ヘーゲル論理学の諸範疇を主体的実践的な認識論として読もうとする許先生の姿勢が重なってみえたのである。もちろん許先生は弁証法を認識論にとどめることには反対なのだが。許先生は学位論文に続き、『ヘーゲル弁証法の本質』(1972年)、『認識論としての弁証法』(1978年)を世に問われ、1988年にはこの両著をまとめて『弁証法の理論』(創風社)の上下巻とされた。ヘーゲル論理学の理解をめぐって見田石介民らと論争を続けてこられたこともあって、上巻だけで一万部という哲学書としてはまれに見る売れ行きがあったという。

 許先生が立命館大学経営学部教授として赴任されたのが1983年、私が文学部助教授に採用されたのがそれに先立つ81年であった。一般教育担当者が専門に近い学部に所属することとなったために、先生は1993年に文学部に移籍された。私が学部主事のときであった。それから卒論指導などご一緒することもあって、あるとき梯ゼミでの先のエピソードを話し、かねてから思っていたことを聞いたことがある。「先生はあの著作を書かれたとき、梯先生の思想から大きな影響を受けておられたのではないですか?」「そうです、そうです。何回も読みました」という答えであった。ヘーゲル弁証法の思弁的契機を重視され、悟性的契機の強調を批判されておられると感じていただけに、私にはその答えで十分であった。

 許先生はヘーゲル弁証法の唯物論的解釈にあたって、これまでの解釈がヘーゲルのここは観念論的だからだめ、ここは唯物論的だから良いといった切捨て主義をとられなかったし、またヘーゲルの観念論を唯物論に転倒させれば、弁証法が手にはいるという単純な弁証法理解を批判され、弁証法の諸契機として総体性と内在性と歴史性に着目されそれらがヘーゲルとマルクスでどうことなって組み合わされているのかを分析されてきたと思う。そうした研究姿勢は、ヘーゲルについての現在主流の、資料批判を踏まえた文献史的研究のスタイルとは異なるし、マルクス主義からマルクスやエンゲルスを切り離す現在の研究手法とも異なる。しかしながら、許先生の弁証法研究には、やはり伝統的なマルクス主義の教科書的なヘーゲル理解、マルクス理解とは鋭く一線を画するところがあって、ヘーゲル・マルクス問題を自分の問題として格闘した一人のデンカーの姿が示されているといえよう。

 最後に私事になるが、私が梯経済哲学の手法を援用して、経済学の対象的諸範疇を、主体の対象的本質を示す諸範疇としてだけでなく、社会的自然に転化した自然の姿と、人間の自然に対する関わりを示す諸範疇を読み取ろうとしたとき、許先生が暖かく見守ってくださったこともあった。また、船山信一先生の『日本哲学者の弁証法』をこぶし書房から復刻した際に、私が書いた解説「船山信一の人と思想」に意外と感心してくださったこともあった。後者の件は、許先生が戦前の唯物論におけるいくつかの論争の当事者であった船山信一の仕事を高く評価しておられたからであろうと思う。前者の件については、私としては許先生にも議論を展開してほしかった点である。『認識論としての弁証法』がその表題にもかかわらず、その背後に存在としての弁証法を秘めていると思うだけに、梯的な全自然史の思想をどう評価するのか、ぜひ聞いてみたいところだからである。今となっては忙しさにかまけて議論を詰めてしなかったことが悔やまれる。ヘーゲルについて論じる機会があれば、そのときにでも、一字一句をおろそかにしない許先生のヘーゲル解釈と哲学的議論を戦わしてみたい。(はっとり けんじ 立命館大学文学部教授)

 感想・こういう文章が雑誌『立命館哲学』の第17集(2006年)に出ていることを知ったので、1部送っていただきました。


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