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スイスハウス・ボストン

2009年08月13日 | サ行
                        菅谷 明子

 米国・ボストンのハーバード大学のほど近くに、瀟洒(しょうしゃ)なれんが造りの建物がある。通り沿いの大きなガラス越しに、セミナーやレセプションが開かれているのが目にとまる。夜遅くまで、ワイン片手に歓談する人たちもよく見かけた。知のネットワーキングを研究する私にとって、ちょっと気になる存在だった。

 ある時、ここがスイスの科学政策の一環として生まれた、世界初の「科学領事館」である「スイスハウス・ボストン」だと知った。スイスハウスは2000年にオープンし、現在は「スイスネックス」と名を変えている。スイスと米国の大学、研究機関、企業、起業家などを、組織の枠組みを超えてつなぐネットワークの拠点である。

 早速、ランチセミナーに参加してみた。講演と質疑応答の後、スタッフは聴衆に、各自が専門分野や関心などを手短に語ることを提案。自己紹介を聞くと「ああ、それなら○○さんの分野に近い。○○さん、手を挙げてみて。彼ですから。ランチの時に、ぜひゆっくり話してみてくださいね」といった具合で、参加者同士をあっという間につなげていく。ここでは、セミナーで知識を得ることよりも、むしろ、テーマを柱に集まる人々を効果的に交流させ、情報交換を促し、人間関係を発展させる場作りを重視している。

 続く立食のランチでも、会場を巡回しながら、「縁結び」に余念がない。ネット時代だからこそ、同じ空間に居合わせ、対面で会話をする意味は大きい。スタッフがファシリテーター(コミュニケーションを促進する仲介者)の役割を担い、即座にマッチメーキングができる秘密は、彼らの「顔の広さ」にある。

 「領事館員」はインターンを含めて約10人。パスカル・マミエール領事は外交官の経験はなく、法律とビジネスが専門だ。副領事は外交畑の出身だが、後は、国際関係を専門にする者など様々だ。そんな多様な背景を持ったスタッフが、ボストンエリアにあるハーバード大、MIT(マサチューセッツ工科大)や研究機関、ハイテク新規企業などに積極的に出向く。時には関連イベントを共催するなどして、組織やそこに所属する人々の情報収集を徹底的に行いながら、人脈を築いていく。

 それを、スイス側のニーズと照らし合わせた上で、誰と誰を、どんなテーマで出会わせ、効果を最大化するために、どんなイベントを企画すべきかと、ローカルとグローバルの間で日々戦略を練るのである。スイスで開発した技術をもとに、米国でのビジネスを始める動きを具体的にサポートすることもある。医療関係機器を開発する、Aleva Neuroという会社のケースでは、厳選したスイス関係の起業家とベンチャーリーダー20人が集う夕べを企画。同社の最高経営責任者(CEO)と引き合わせ、ビジネスのコラボレーションに結びつけた。米国とスイスの研究者の共同研究につながった例もあるという。

 運営は、活動に柔軟性を持たせるために半官半民で行われ、スイスの金融機関が大口の資金提供をし、プロジェクトのスポンサーには、バイオ医療・IT企業、大学などアメリカの組織も名を連ねている。

 ボストンでの成功を受けて、スイスハウスの拠点はシリコンバレー、シンガポール、上海、インドのバンガロールにまで広がっている。ヨーロッパやアジア各国の関心も高く、ドイツは近くドイツ・サイエンス・ハウスの第1号をブラジルにオープンさせる計画だ。

 スイスは日本と同様、天然資源に恵まれず、教育に力を入れてきたが、近年「頭脳流出」が問題になっていた。それを「頭脳循環」ととらえ直した発想が、スイスハウスに結実した。優秀なスイスの人材が世界に点在し、彼らが世界とつながることが、やがてはスイスを知のネットワークのハブに導くと考えたのだ。「21世紀に重要なのは、国の相対的なパワーではなく、いかにグローバルなネットワークを構築し、その中心に身を置くことができるかだ」。プリンストン大公共国際問題大学院のアンマリー・スローター院長は今年初めに有力外交誌でこう指摘した。

 日本でも、科学技術政策やビジネス振興などの垣根を越えて、世界の要所で国境を越えたネットワーク作りを支援する柔軟性を持った仕組みをつくることが、今まさに求められている。同時に、個人のマインドセット(ものの考え方)を大きく変えていく必要もある。スイスハウスがうまく機能している要因は、スタッフの努力だけではない。そこに集う人々のネットワーキングに対する意欲や、相手を引き込む高いコミュニケーション能力にもあるからだ。

 ギブ・アンド・テークが基本の欧米社会では、ギブする価値のあるアイデアや知見を、相手の価値観に合わせてわかりやすく「翻訳」する力が不可欠になる。いくら素晴らしい出会いの機会が与えられても、双方にとって価値のある濃密な知の触発を生み出す力がなければ、ギブ・アンド・テークも、そしてその先のネットワーキングも起こらないのである。日本にも優秀な人材は数多いが、とりわけグローバルな舞台では、自分の考えを明快に表現しお互いにメリットをもたらす人間関係を作り上げていく能力が、常に大きな課題になっている。その克服のためには、若いうちから他者と創造的な議論をし、協同して新しい考えを生み出し、それをチームの力に結集して実現する能力を徹底的に鍛える学習環境と経験が不可欠である。

 これからの時代は、個人が持つ知識量ではなく、キーパーソンをつなぐネットワーキングによる「集合知」をいかに自分の知(脳)の拡張として使いこなせるかが鍵になる。ネットワーキングの重要性をいち早く理解し、実践を重ねてきたスイスハウスの事例は、国際社会における日本のあり方を示しているだけでなく、国際人となるために必要な、日本人一人ひとりの意識改革を促しているものと、読み解くことができる。

 (朝日新聞グローブ、2009年07月29日)