マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

学問とは何か(その1)

2009年06月03日 | カ行
★ 目次は「ブックマーク」にあります。

          学問とは何か

   一、現実生活の問題から出発する
   二、体系にまとめる
   三、教育のシステム
   四、直面した問題から逃げない
    終わりに

 ドイツ流に言いますと、私は主専攻が哲学で副専攻がドイツ語学ですが、最近私は、よりもよってお粗末な学問を選んでしまったなと考えています。雑誌『鶏鳴』の終刊に当たってこの点について考えていることをまとめてみたいと思います。

   一、現実生活の問題から出発する

 全ての学問は究極的には現実生活の必要から出発していると思います。これは弁証法的唯物論の考えでもあると思います。エンゲルスもそう言っています。たしかにいつでもどこでも「生活、生活」とか「現実、現実」と言わなくてもいいのですが、最低限、生活と全然結びつかない学問などというものはありえないと思います。又、意識的に現実生活に背を向けた学問は本当の学問にはならないとと思います。そして、哲学とドイツ語学がまさにその間違いを犯していると思うのです。

 哲学について言うならば、例えば「理論と実践の統一」という問題がそうです。この問題をこういう言葉で定式化して大騒ぎをしているのはいわゆる左翼運動だけかもしれませんが、この問題は古代ギリシャ以来ずっと哲学の底流として流れてきたと思います。

 しかるに、その左翼運動ではこの問題はどう扱われているでしょうか。これをなるべく沢山集めてみたのが『鶏鳴』に断続的に連載してきました「資料・理論と実践の統一」です。これを見ると分かることは、この命題を巡って現実生活の中で、あるいは左翼運動の中でどういう悲喜劇が演じられているかということが全然考慮されていないということです。

 この命題は、実践という名の政治運動をしている人が他者にもそれを強要するための果たし状になっているのです。あるいは実践とやらとどう関わろうかと考えている人の呪文になっているのです。それは次の三段論法にまとめることができると思います。

 大前提・理論と実践の統一とは両者は統一すべきだという当為命題である。
 小前提・実践とは政治運動のことである(あるいは、政治団体に入ることである)。
 結論・すべての人(あるいはマルクス主義を口にする人)は年柄年中「実践、実践」と言ってデモや集会等の政治運動をしなければならない(あるいは、政党に入らなければならない)。

 それなのに、左翼運動に少しでも関わっていれば気づくはずのこの三段論法を誰も問題にしていないのです。これでは何も出てこないと思います(この三段論法に対する私の批判的検討は既に「理論と実践の統一」(『哲学夜話』所収)に書いておきました)。

 ではドイツ語学の現状はどうでしょうか。ドイツ文法は我々のドイツ語生活の中で起きている問題から出発して、それに答えまではいかないにしても考える手掛かりを与えてくれているでしょうか。私にはそうは思えません。それどころか、多くの方は、ドイツ文法にはほとんど問題がなく、ただそれを「勉強」して身につけるだけだと考えているのではないでしょうか。しかし、それは違うと思います。

 私がドイツ語生活の中で気づいた問題を例として挙げます。

 第一の例は冠詞の使い方です。これが難しい事は知られていますが、ではどういう点で我々は間違えるのでしょうか。私は今回『辞書で読むドイツ語』の決定版をまとめるに際してその内の二つを取り上げました。それは翻訳を見ていて日頃から気づいていたことです。

 一つは、或る名詞Aに他の名詞Bが同格で付置される場合の冠詞関係です。それは無冠詞はほとんどありませんから除きますと、定冠詞ー定冠詞、定冠詞-不定冠詞、不定冠詞ー定冠詞、不定冠詞ー不定冠詞の四通りです。この四つの使い分けはどのようになされているか、従ってそれぞれはどういう風に訳さなければならないか、という問題です。私がどこまで調べて考えたかはその本を見ていただくことにしまして、そういう問題があること自体がほとんど気づかれていないようです。しかし、翻訳を見ていますと、訳者は自信なく「適当に」訳しているということが分かります。

 もう一つは、限定的関係文の先行詞に定冠詞が付いた場合と不定冠詞が付いた場合の違いです。これは関口存男氏も、最近読みました石田秀雄『英語冠詞講義』(大修館書店)も取り上げています。

 第二の例は、決定疑問文に対してドイツ語では「三語回答」はできない、ということです。この問題に気づいたのは、作文の際に学生が英語的に Ja, ich bin. みたいな訳をしたからです。実際の問題はどうだったか忘れてしまいましたが、その場で「英語と違ってドイツ語では必ず es か dasを入れなければならない」ということを話しました。しかし、同時に、私にはこの問題についてのまとまった知識がなく、この場合の es と dasの使い分けについても正確な事は知らないということに気づきました。

 そうして調べ始めてみますと、これをまとめたものは一つもないらしいことが分かってきました。英語を習う時は、中学で最初の内に、Are you a student? Yes, I am.とか、Do you speak english? Yes, I do. とか、Can you swimm? Yes, I can. といった問答を習います。しかし、なぜかドイツ語の授業ではそういう練習をする教科書はないようです。

 その後分かったことは、やはり関口氏がこの点についても言及していたということなのですが、それが又氏らしく、文法書の中に必要十分な事をまとめるのではなくて、読本の注釈の中でそそくさと書いていたのでした。

 さて、この問題の研究は発展しました。決定疑問文に対する答えだけではなくて、その他の場合でも Ich bin es.と Das bin ich. Du bist es. と Das bist du. 等々は使い分けられているということです。では、この二つはどう使い分けられているのか、これが問題です。どうも肯定的な平叙文の場合以外に、否定文の場合、疑問文の場合と、色々な場合があるらしいのです。私にはまだ結論は出ていません。

 ついでに書いておきますと、この用例をよく提供してくれるのがNHKのラジオドイツ語講座なのです。昨年、中級の担当者の矢羽々崇(やはば・たかし)氏(独協大学助教授)に、他の講師への質問や意見と共に手紙を送りました。係からは「いま、三人の講師の先生方に渡して回答をお願いしています」との葉書の返事をもらいました。しかし、「三人の講師の先生方」は誰一人として返事をくれませんでした。矢羽々氏への質問はまさにこの問題を聞いたのですが、それというのも氏の講座のテキストにこの構文が何回か出ていたからなのですが、返事はありませんでした。世の先生方は学問的な話はお嫌いなのでしょうか。

 第三の例は「直前の過去の表現」です。これは関口氏がその『新ドイツ語文法教程』(三省堂)の中で時称総論を論じた時、動詞の現在形の用法の一つとして「真近の過去を表す」ということを述べている、それの事です。しかし、私は「真近の過去」はいつでも現在形で表現されるのではないことにすぐ気づきました。過去形が使われる場合があるのは当然です。その外、現在完了形ももちろん使われますが、実に過去完了形も使われるのです。

 では、これらはどう使い分けられているのでしょうか。いくつかの場合についてはやはり関口氏が教えてくれています。しかし、全部ではありません。私は特に同じ動詞が使い分けられている用例を集めています。結論は分かりません。今回、途中経過をそのまま発表することにしました。こういうのも「研究するとはどういうことか」を考えていただくのに役立つと思ったからです。

 実際、世の本を見ていますと、自分には何でも分かっているのだと言いたげな書き方の本がほとんどだと思います。しかし、実際にはそんな事はないのです。もう少し正直にやりたいものです。学問のためには、ここまで調べてここまで考えたということを率直に発表した方が好い場合も多いと思います。

 この「自分には何でも分かっているのだ」式の最たるものが国語辞典だと思います。しかし、国語辞典ほどでたらめな本も少ないと思います。そして、これが又現実生活の問題を知らなさすぎるのです。

 「逸話」と「募金」は何度も触れましたから、今回は「一方(と他方)」のことを書きます。これは最近、HP「ヘーゲル哲学辞典」にも書いたことです。

- 一方(と他方) -
 一、二つの事柄を対比的に表現する場合の言い回しとして、今では、多く、「一方では~、一方では~」という言葉が使われる。しかし、かつては「一方では~、他方では~」だったと思うし、英語を見ても、例えば on the one hand .., on the other hand .. である。いつごろからどうして変わってしまったのだろうか。元に戻したいと思う。

 ★「一方では、他方では」の用例
 1. しかし、気をつけなければならないことがある。一方の重要性を強調するあまり、他方をまったく否定するような二者択一の議論は非建設的だということである。(2002,1,25,朝日)
 2. マルキシズムでは一方で必然論を主張しながら、他方ではまた強度の理想主義的な政治行動を要求するという点では、従来もしばしばその矛盾として指摘せられ(宇野弘蔵「歴史的必然と主体的行動」一九四九年、『「資本論」と社会主義』こぶし書房に所収)
 3. 「あるがままに書こう」。「正直に書こう」。美文の型が力を失って以来、こう唱え続けられてきた。(略)ところで、「あるがままに~」、「正直に~」という場合、当の事柄が眼に見える外部の世界のことか、眼に見えぬ内部の世界のことかによって、一方では、「見た通りに~」ということになり、他方では、「思った通りに~」ということになる。(清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書)

 ★「一方では、一方では」の用例
 1. Tのファッショくさい雑文には閉口していたが、それだけならばいい。つまり一方では平気で帝国万歳を唱え、一方ではきわめて自由主義的なものを書く。そこに彼の自由主義の本質があるのだ。(一九三五年二月二日の中島健蔵の日記。高田里恵子『文学部をめぐる病い』松籟社、七三頁から孫引き)
 2. もっとも陽明学も支那におきましては、末流になるにつれ随分余弊もありました。ニーチェやキェルケゴールにしてもそうですね。一方に於て驚嘆すべきものがあると同時に、一方に於ていろいろ余弊が出ております。(安岡正篤『人生と陽明学』の内の「王陽明の人と学」その2、昭和四六年の話)
 3. たとえば、朝すれ違って「おはよう」という言葉を交わす。一方にとってはただの挨拶でも、一方にとってはそれだけで、一日が輝いてしまうことだってある。(俵万智と読む恋の歌百首23)
 4. 「青鞜」に集った「新しい女」は、一方でもてはやされ一方で日本の公序良俗を破壊するものとして世のひんしゅくを買う。(2002,7,30,朝日、早野透)

 ★「他方では」だけの用例
 1. たとえば東京大学なんかでは、中国のことをやっている人は、先生も学生も、同僚なり同窓生からちょっとばかにされてきたのじゃないかと思うのです。/ ところが、京都大学はそうではなかった。手近な例は、国文学と漢文学とは、明治以来伝統的に仲の悪いものですよ。二つのあいだは犬猿のごときものです。ただ、京都大学は、藤井乙男先生という方がおられましたが、この先生は、中国文学の先生にしても、一かどの講義ができただろうと思うくらいの人です。それから、西洋のことをやっている方でも、西田先生は中国が好きでしょう。ひじょうに好きです。そして狩野先生の親友だった。それからドイツ文学の藤代禎輔先生、これも狩野先生の親友だった。これは、中国のことをやっている先生たちも、鴎外さんの言うように二本足の学者であって、旧来の偏狭な漢学者でなかったということに基づくでしょう。/ 〔他方その弟子筋の〕小島介祐馬(すけま)、本多成之、それから青木先生、この三人は、いずれもそういう初代の先生方に反発を感じていた人です。(竹田篤司『物語京都学派』中公叢書)
 感想・この「他方」は引用されている吉川幸次郎の話自身にはない言葉で、引用者の竹田氏の補ったものだが、問題はここを「一方」としないで「他方」としたことである。私はこういう所は「他方」で正しいと思う。しかし、実際にはこういう所を「一方」とする人が多いようである。
 2. ライシュの主張は、だから産業革命期のラッダイト運動のように、新しい機械打ち壊し運動でこの流れ〔ニューエコノミーの流れ〕を逆転させよ、というのではない。他方で、マイナス面には目をつむり、流れを加速させようということでももちろんない。(2002,8,11,日経)
 感想・ここも「他方」で正しいと思う。

 ★「一方では」だけの用例
 1. 祭りの熱気がしずまった今、韓国の人々がとらえる共催の意義は二二歳の男性会社員の次の見方に象徴される。/ 「これまで東アジアは日本の存在感だけが際立っていた。だが、この地域に韓日がともにいることを、世界に知らしめることができた」。/ 代表チームの成績が日本を上回り、全国で何百万人もが街頭応援を繰り広げるなど、日本にはない熱気を世界に見せつけて得た自信。それは国際的地位を高めようという自意識につながった。一方で「韓日の距離が近づいた」との言葉はあまり出てこない。(2002,7,26,朝日)
 2. いま日本経済はあやうく、政治はひどいことになっている。一方、日本語に対する関心がすこぶる高い。この二つの現象は別々のことのように受取られているけれど、実は意外に密接な関連があるはずだ。(2002,7,31,朝日、丸谷才一)
 感想・こういう場合も、本当は「他方」と言うべきなのではなかろうか。「一方」は言われていないだけで意識の中では前提されているのだからである。大野・田中『必携国語辞典』(角川書店)は「一方」のこの用法に気づいていて、「もう一つ別の面では。さて」として「一方、親の側からみれば」という使い方を挙げている。この辞典は「他方」の語釈の中に「また、一方では」というのを挙げて、「他方は赤である」「明るい性格だが、他方さびしがり屋でもなある」という使い方を挙げている。どちらも認めているようである。
 3. 田辺〔元〕氏が冷徹な哲人である一方、いかにもロマンチックな詩人的素質をもっているかを学んだ私には、これはなかなかおもしろく、またいかにも自然におもはれる。(竹田篤司『物語京都学派』中公叢書に引用された野上弥生子の日記)
 4. 今日では、株価万能経営の破綻から米国型への不信が一挙に高まる一方、日本型モ
デルを見直す機運がみられる。(2002,8,28,日経)
 感想・二つの事を対照的に言う場合、先に言う方が「一方」で後に言う方が「他方」だとするならば、この・と・の場合は先に言う方の事だから、ここなら「一方」で好いと思う。表面的に見ても、この「一方」は前の文の最後に付いていて、その後に読点が打たれている。
 5. 〔第二東名建設は〕「県政の最重要課題の一つ」(神奈川県)、「道路はつながってこそ意味がある」(愛知県)と総決起大会に臨んだ両県副知事も述べて、第二東名が通る三県はスクラムを組んでいる。/ その一方で、日程に制約があったとは言え、県知事自らが出席したのは静岡だけというのは気になる。(2002,8,23,日経)
 感想・ここに「その一方で」と言うのは、私もあると思う。ここに「他方」はあるのだろうか。ないとも言えない気もするが、あるとも断言しにくい。

 「一方では、他方では~」という用法より「一方では~、一方では~」という用法の方が今では優勢になってきているのは前々から気づいていた事なのですが、昨年、学生が授業中にそう言ったので、改めて話をしたことを覚えています。

 とにかく、国語辞典ではこの問題について考える手掛かりは得られません。これは編者がこの混乱、日本語生活の中で起きている混乱に気づいていないからだと思います。そして、こういう「生活上の問題に気づいていない」ということが沢山あるのです。新聞を普通に読み、NHKの報道番組を普通に聞いていれば気づくはずの問題に気づいていないのです。これでは国語辞典を編集する資格がないと思います。

   二、体系にまとめる

 「体系的でない知は学問ではない」という言葉はヘーゲルのものです。体系的でなく、細切れの知識の集まりでも、日常的には「あいつは学がある」などと言われますが、この「学」は単なる知識の意味で、学問という意味ではないと思います。それはともかく、ここではこのヘーゲルの考えが正しいか否かは議論しません。それを前提して考えを進めます。

 この考えを基準にして哲学の世界とドイツ語学の世界を見てみますと、哲学もドイツ語学も十分に体系的ではないことに気がつきます。個人の学問も体系にまとめられていない場合がほとんどですが、学界全体としてそういう体系がないと思います。

 しかるに、学問の立場から見ると、これまでの成果が何らかの体系にまとめられていて、それが共通の土台となって、その上で研究が進められる方が好いと思います。その共通の前提のここについて異論があるとか、あるいはその前提そのものをこう変えるべきだとか、そういう風に議論した方が生産的だと思うのです。哲学以外の学問ではたいていそうなっているように見受けられます。

 たしかに哲学では学派によってその体系自身が根本的に違うからそれは難しいとは思います。しかし、難しいのは確かですが、出来ない事はないと思います。少なくとも、個々の学者は自分なりにそういう展望をもって研究し、発表するべきだと思います。
 具体例で考えてみましょう。

 先には、自称マルクス主義陣営での「理論と実践の統一」の議論が現実生活から出発していないと指摘しましたが、その議論は体系的でもありません。それを議論する人はほとんど必ずマルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」を引き合いに出すのですが、この十一個から成るテーゼ全体を一つの体系として理解しようとした人はいないのです。そして、全体から切り離して「哲学者たちは世界を解釈してきただけだ。それを変革することが問題だろうに」などという「言葉」が引用されるのです。これでは学問ではないと思います。

 もちろん「体系」を立てさえすれば好いというほど単純でもありません。寺沢恒信氏は『弁証法的論理学試論』(大月書店)という「体系」的な本を書きましたが、氏のそれ以外の本においてこれへの言及がありません。特に問題なのは、ヘーゲルの「大論理学」を訳した時、その訳注の中に自分の「試論」への言及が全然ないということです。これは氏の研究が相互に関係しておらず、自分の体系を繰り返し反省していないということだと思います。これでは体系を作る意味がないと思います。

 その体系は辞典でもいいと思いますが、世に出ている哲学辞典やその他の思想辞典は余りにお粗末すぎると思います。最近も「キリスト教辞典」とかいうものが出ましたが、私は関心のある「原罪論」と「終末論」の項を立ち読みしました。あまりにも問題意識がなさすぎて買う気になりませんでした。やはりヘーゲルの書いた「哲学の百科辞典」が基礎になるようにしなければならないのでしょう。

 ドイツ語学についても「共通の体系」がないという点では同じだと思います。確かにドイツ語学についてはドイツのドゥーデン社の文法書などがその「共通の前提」になっているとは思います。さすがにドイツ人らしいことだと思います。しかし、内容的に見ると、ドゥーデンの文法書は欠陥だらけです。ドイツ人はこれを完全無欠だと思い込んでいるようですが、そうとは認められません。現に、先に例として挙げた三つの問題は、問題そのものすら気づかれていません。現在形の用法に「直前の過去を表す」用法があることすらドイツ人は気づいていないらしいのです。

 実を言いますと、私も、先の「直前の過去を表す四つの時制の使い分け」についてドイツ人に質問したのです。しかし、「ドイツ語は筆者に大きな自由を与えている」といった返事しかもらえませんでした。無意識の内になされている事にこそ法則が貫徹しているとは、これも関口氏の言葉だったと思いますが、こういう事も分からない人には学問は無理だと思います。何かあったら直ぐに「そこにはどういう法則があるのかな」と考えないような人は、学問の異邦人だと思います。

 たしかに言葉の問題を議論するのはとても難しいことです。なぜなら、ドイツ語について日本語で議論するためにはこの二つの言葉をかなり知っていなければならないからです。関口氏はドイツ語とは根本的に違う日本語に翻訳しようとするからその違いに苦しんで理解が深まるのだという趣旨のことを言っていますが、そういう面のあることは確かだと思います。
 そこで日本語文献の世界だけで考えますと、何度も言いましたように、四〇年以上も前に出た橋本文夫氏の『詳解ドイツ大文法』(三修社)以来、これを越える包括的な文法書は出ていません。これでは困ります。

 では辞書はどうだろうかと考えてみますと、これが又お粗末だと思います。この点は後で書きます。

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学問とは何か(その2)

2009年06月03日 | カ行
   三、教育のシステム

 以上をまとめますと、学問は現実の問題から出発し、その成果を体系にまとめていく、ということになります。そして、その後の問題は既存の体系の中に参照箇所を見いだしてそれを手掛かりにして研究していく、ということになります。もちろんその過程で体系自身の欠陥や不正確な点が是正されることはいくらでもあるでしょう。

 そこで次に問題になるのは教育のシステムです。教育はどう行われるべきでしょうか。現在のシステムはどこに問題があるのでしょうか。

 哲学とドイツ語学以外の分野を見てみますと、職人の修業はもちろんのこと、学問でも理工系などでは、研究室に入って先生の研究の一部分を手伝う中で、研究の仕方を学んでいくのではないでしょうか。では、哲学とドイツ語学ではそういう事はなされているでしょうか。少なくとも私は経験しませんでしたし、私の知るかぎりではそうはなっていないと思います。

 たしかに文学部系のゼミナールは法学部や経済学部系のそれとは違ってギルド的閉鎖性がないという問題があります。これは多くの人の指摘していることで、私も同意見です。しかし、現在のようなゼミナールでも本当の修業はさせられると思います。

 例えば、先に挙げました「理論と実践の統一」の問題にしても、先生にそういう問題意識があって研究しているならば、学生にそれぞれの資料を分担させて発表させ、議論して各自の考えをまとめさせるという方法も可能だと思います。

 いくつかの概念について色々な哲学辞典の説明を比較して考えていくという方法もあると思います。

 ドイツ語学についても勿論できます。例えば、今年は前置詞の使い方を研究しようと決めて、テキストを読みながらそれの用例を見ていくのです。私は静岡大学の独文科の三年生の集中講義(四日間)を二回受け持ちましたが、その時は、テキストから用例を集めるということはできませんので、数種類の辞書の説明を集めて比較してまとめるという課題を出しました。最初の時は話法の助動詞の接続法第二式を、二回目の時は前置詞の用法を課題としました。各自にその内のどれか一つを割り当てたのです。

 ではなぜこのような「研究するとはどういうことかを教える」授業が行われないのでしょうか。先生が「研究」していないからだと思います。現在の先生がそういう教育を受けておらず、そのまま先生になっているからだと思います。では、現在の先生はなぜそういう教育を受けなかったのでしょうか。現在の先生のその又先生がそういう教育を受けてこなかったからだと思います。最近、私はそういう結論に達しました。

 高橋英夫『偉大なる暗闇』(講談社文芸文庫)は漱石の『三四郎』に出てくる広田先生のモデルと言われる旧制一高のドイツ語教師岩元禎(いわもと・てい)の評伝ですが、岩元氏を中心として様々な人を描き、当時の雰囲気を伝えるものです。その中に岩元氏の授業の様子を描いた堀辰雄の文があります。

  - 岩元先生にはじめて教はつたのは三年のときで、アダルベルト・シュティフテルの「ホッホワルド」の講読をうけた。今でこそシュティフテルも一部の人々に人気のある独逸の作家の一人になつてゐるやうだが、その頃はまだ殆ど誰にも知られてゐないやうな不遇な作家だつた。さういふ半ば埋もれていた作家のものを岩元先生は好んで取り上げられ、一年間、文学にあまり関心をもたない理科の私達に熱心に訳読して下すつた。先生が深みのあるしはがれた声で徐(おもむ)ろに一人で訳読せられてゆくのを私達はただ茫然として聴いてゐた。ときどき先生の声がとだえると、私達は急に緊張して、一層小さくなつてゐた。さういふときはいつも先生が次の言葉の訳し方を考へあぐねながら、私達の上にその炯々(けいけい)たる眼光を、そそがれてゐるのを知ってゐたからである。先生の訳語はいつも厳格をきはめてゐて「Fichte」は「フィヒテ」といふ木であつて「蝦夷松(えぞまつ)」とは異なる木の名であり、「Tanne 」は「タンネ」といふ木であつて「樅」などと訳すとまちがひとせられた。万事がその調子であつた。「ホッホワルド」は何処から何処まで深い森の中の物語であり、すべての人々や出来事が森の静寂の中に溶け込み、ひとり先生のしはがれた声のみがその静寂を破つて、流れ来たり流れ去る渓流の音と入り交じりながら、森の主めいて聞こえてきてならないこともあつた。そしてその物語の最後の夏がきて「一人の老人がそれからなほしばしば影のやうにその森の中を過ぎるのが見られた。しかし彼がいつごろまでゐたか、いつごろからもうゐなくなつたか、誰ひとりさだかには知らぬのである」と終る。その最後を訳し終へられると共に、岩元先生は最後に私達をぎろりと見渡されてから、さすがに深く疲れたやうな様子をなすつて教室を出てゆかれたが、そのときの先生のすこし猫背のうしろ姿はいつまでも私のうちに残つてゐた。(引用終わり)

 更に竹山道雄氏(『ビルマの竪琴』の作者)のドイツ語の授業(ゲーテの『ファウスト』の訳読)の様子を高橋氏自身が描写していますが、「授業は全部先生が訳読する独演であった」とあります。

 堀氏も高橋氏も肯定的な感慨を持っているようですが、私は「これだから日本のドイツ語学は低下する一方だったのだな」と思ったことでした。教育というのは、これまでの成果を後の世代に引き継がせる「システム」だと思います。ここには文学がほんの少しあるだけで、語学もなければ教育システムもないと思います。

 かくして「先生が悪かったから、先生が悪かったから」と遡っていきますと、では最初はどうだったのかという疑問が生まれます。東大が明治一九年に出来た時、既にその前身がありましたから、日本人のドイツ語教師もいたようですが、ドイツ人教師が中心ではなかったでしょうか(当時、外人教師として呼んだ人は優秀な人達だったようで、給与は総理大臣より高かったそうです。当時の日本政府の見識の高さに感心します)。そして、ドイツ語で授業をしたのだと思います。生徒も優秀な人達ばかりでしたから、これでもよかったのでしょう。ともかく生徒はドイツ語が読め話せるようになったのだと思います。しかし、ドイツ語についての学問はほとんど発達しなかったようです。上のような授業ではドイツ語学が全然発展しないのは当たり前だと思います。

  - 付記 -

 ついでに「偉大なる暗闇」という言葉ないし考えについて一言しておきます。この「暗闇」というのは、「著書を公刊しないので実力があるのにそれが世に知られない」という意味です。こう捉えると、それがカントの「物自体」であることが分かります。従って、これに対してはヘーゲルのカント批判がそのまま当てはまります。「著書を公刊しないが実力がある」ということはないと思います。内にあるものは外に出てくるものです。外に出てこなかったものは内にもなかったのです。そもそも先の岩元氏は「暗闇」ではありません。氏の授業の中に氏のドイツ語学も教育観も人間観もちゃんと出ています。そして、それは「偉大」と評することはできないお粗末なものです。「偉大なる暗闇」などという言葉は、実力がなく出すものがないのに偉いと思われたいと思っている多くの大学教授に都合がいいだけです。「沈黙は金」などというのは学問の世界では通用しません。

   四、直面した問題から逃げない

 最後に心構えみたいな点について一言しておきたいと思います。というのも、やはりそういう事を痛感するからです。つまり、直面した問題から逃げているのではないかということです。たしかに全ての問題と格闘しているわけには行かないでしょうが、それにしてもこの逃げの姿勢が強すぎると感じることが多すぎます。

 その直面する問題のレベルに合わせて二つの場合を論じておきたいと思います。

 第一は、学問内部で出会った問題から逃げている場合です。哲学でも同じですが、最近よく考えるドイツ語学の例を挙げます。

 読本のテキストには巻末などに「編者の注解」というのが付いています。それを見ていますと、書いても好いと思われる事や書かなければならない事で書かれていないことが結構あるのです。しかるに、その書かれなかった理由には三種あるということが分かってきたのです。
 一つは、書く必要がないと主体的に判断して書かなかった場合です。第二は、「ここは説明しなければならない」と思ったが説明できないので逃げた場合です。第三は、説明するべき大切な事柄があることに編者自身が気づいていない場合です。憚りながら、私は書かれていない場合、この三つの内のどの理由によって書かれなかったかが分かるようになったと感じているのです。

 今年の夏休みの宿題には白水社の「アルト・ハイデルベルク物語」を使いました。その冒頭の第二段落に次の文があります。

 In der kleinen Zeitung stand eines Jahres im Monat April die Nachricht, dass der Prinz sein Examen am Gymnasium bestanden habe und dass er am 1. Mai auf ein Jahr nach Heidelberg reisen wuerde.

 この最後の wuerdeには絶対に注解を付けなければならないと思いますが、付いていません。これは「ここは説明しなければならない」と思ったが説明できないので逃げたのだと思います。というのは、同書の第一七節には次の文があるからです。

 Er war nicht sehr erstaunt, als er hoerte, dass der Prinz augenblicklich nicht da sei, aber wahrscheinlich bald wiederkommen werde.

 この werdeにも注解が付いていません。この二つは結び付けて問題にし理解するべきだと思います。問題は、間接話法で過去における未来を表す werden の接続法の第一式と第二式の使い分けということです。間接話法に接続法を使う場合、第一式が原則だが、第一式を使うと直接法形と同じになる場合は第二式を使ってもよいという原則もあります。問題は、第一式を使っても直接法形と同じにならないのに第二式を使う場合があるということです。

 辞書を見ても、この問題には皆さん気づいているのに逃げているらしいのです。アクセス独和辞典は、 Sie sagten, sie wuerden morgen kommen.という文を挙げて「第一式が直説法と同形になるために用いられる」と書いています。これなら原則通りです。この辞書は問題にすら気づいていないようです。これは論外です。

 シンチンゲルの「現代独和辞典」は Ich sagte, auch ich wuerde mitkommen. という文を挙げていますが、説明をしていません。大独和辞典とクラウン独和辞典は事実上同じですので、後者を引きます。「間接話法などで過去の時点から見た未来を表す」として、Sie sagte, sie wuerde(= werde) bald kommen.(すぐにやって来ると彼女は言った)、Ich glaubte, dass sie bald kommen wuerde.(彼女はすぐにやってくると私は思っていた)とを挙げています。

 この説明を読んで感じる疑問は、第一に、 wuerde(= werde) とは何を意味するのかということです。もちろん両方使われるということでしょうが、この例文自身がそうであるように初等文法の原則に外れた使い方については説明をしてほしいと思います。第二に、二つ目の例文では「(= werde) 」がありませんが、この場合は第二式しか使われないということなのでしょうか。では、「こういう場合」とはどういう場合なのでしょうか。それを説明するべきだと思います。

 ドゥーデンの文法書の「体験話法と内なる独白」の項に次のような説明があります。
 直接話法・ Er dachte: "Morgen gehe ich ins Theater. Ich werde mir 'Die Nashoerner' ansehen."
 間接話法・ Er dachte, dass er am anderen Tag ins Theater gehe. Er werde sich 'Die Nashoerner' ansehen.
 体験話法・ Er dachte: Morgen ginge er ins Theater. Er wuerde sich 'Die Nashoerner' ansehen.
 内的独白・[Er dachte:] Morgen ginge ich ins Theater. Ich wuerde mir 'Die Nashoerner' ansehen.

 つまり、クラウンと比較すると、体験話法を入れた分だけ詳しいと言えます。これで、先の「こういう場合」は独白の場合だということが分かりました。肝心の間接話法で例外的に使われる第二式の説明はここにはありませんが、 wuerde+ Infinitivをまとめた所にあります。つまり、間接話法で過去における未来を表す場合は第一式と並んで第二式も「好まれる」ということです。

 ドイツ語の接続法(特に第二式)は難しいとよく言われます。しかし、それはこのように逃げているからだと思います。研究すれば八割は分かります。八割分かれば十分です。日本語でも十割は分かっていないはずです。

 分からなかったので逃げたのだという私の解釈に対しては、それは教室で先生が説明することだという反論が予想されます。この点について触れます。

 昨年(2001年)の夏休みには白水社の「エーリヒとマリア」を宿題にしました。その時は注解があまりに少ないので、私が詳しい注解を作って学生に配りました。それを白水社を通して元の編者にも送りました。葉書でお返事をいただきました。こう書いてありました。

 拝復、「エーリヒとマリア」についての白水社あてのお手紙拝読いたしました。同書の注釈に関する御意見ありがたく拝読いたしました。ただし私の考えでは教室用の教科書と自習用のたとえば対訳本の場合とでは注のつけ方におのずから違いがあると思っています。端的に言えば教科書の場合の注は必要最小限度にとどめるべきであるというのが私の考えで、学生が予習する場合、まず自分で考え悩むべきだということを前提としています。貴兄のようにくわしい注をつけてしまうと、教師のやることがなくなってしまうのではないでしょうか。お礼かたがた私の考え方を申し上げました。暑い中どうぞお大事に。

 この方の反論は二点です。詳しい注解を書いてしまうと、学生が予習段階で頭を悩ませることがなくなるし、先生のする事がなくなってしまう、という二点です。

 本当にそうでしょうか。注解がない時学生は頭を悩ませているでしょうか。それによって学生の語学力は高まり、日本のドイツ語学は進歩してきたでしょうか。そうは思えません。

 注解がなければそのまま素通りするだけだと思います。確かに学生の頭を悩ませることは必要です。しかしそれは編者が適当な注解を書くことで始めて期待できる事だと思います。教室の先生の役割は編者の注解を含めて自分の考えで再検討し、問題を出して「学生の頭を悩ませ」、説明をすることだと思います。

 実を言いますと、この本はイギリスの中学でドイツ語を習いはじめた生徒のための読本なので、とても易しいのですが、先に問題にした Ich bin es.と Das bin ich. の使い分けの用例の沢山出てくるものなのです。しかし、編者を含めてこれまで一体誰がこの問題に「頭を悩ませた」でしょうか。

 読本の注解はすべからく、関口存男氏の注解のように徹底的であるべきだと思います。そうすることで初めて、どういう事にどう頭を悩ませるのかが分かってくるのだと思います。そうしても教室の先生の仕事はなくなりません。関口氏の注解本でも先生の仕事は残っています。それが出来ないとしたら、それは先生が研究しておらず、先生の学力が低下しているからだと思います。

 「直面した問題から逃げない」ということが問題になる最大の問題は政治との関わりです。いや、もっとはっきり言いますと、共産党に対してどういう態度を取るのか、それを理論的に説明するということです。

 思うに、近世哲学はヘーゲルで頂点に達しました。その後の哲学はみなヘーゲルとの対決から生まれたと言ってよいと思います。しかし、対決したといってもヘーゲル哲学のどこと対決したか、核心と対決したのか、枝葉の部分と対決したのかで分かれました。

 核心と対決したのがフォイエルバッハでありマルクスだったと思います。しかしそのマルクスの思想は社会主義運動という社会運動ないし政治運動と結びつくものでした。そのため、哲学を考えることは政治的立場を明らかにすることになりました。これは困難な仕事でした。それは生活のかかるものだったからです。

 この事はレーニン以降において一層強まりました。共産党というものが出来、各国の共産党がその正統的代表者を自認したからです。

 哲学の世界を見ていますと、この共産党に対してどう考えてどういう態度を取るかという問題をほとんどの方が避けていると思われます。共産党に賛成して入党すれば好いというほど単純なものではありません。例えば、私のかつての指導教官のT氏は、その死去したときの「しんぶん赤旗」によりますと、共産党を応援する学者・研究者の会の会長だったそうですが、自分のそういう生きかたを理論的に明らかにしませんでした。これでは哲学ではないと思います。

 反対の方もいます。最近の例では東大教授のS氏がその典型例です。『マルクスがわかる。』(朝日新聞社)に寄稿した「マルクス主義と近代科学」という文章をみても、マルクス主義と各国共産党のことは論じていても日本共産党という言葉は出てこないのです。同氏が最近の『思想』誌に発表した「復権する陳独秀の後期思想」などを読みますと、氏は社会主義への希望をまだ捨てていないようですが、中国共産党には言及しても日本共産党には触れていないようです。

 哲学一般でも言えると思いますが、少し狭く取って社会主義を考えた人で共産党に対してどういう態度を取るかを中心的に考えていない人は一人もいないと思います。それなのに皆これを避けているのです。これでは哲学は出来ないと思います。

 唯一の例外はサルトルだと思います。内容的にはきわめて不十分でしたが、サルトルはともかくフランス共産党に入るか否かを考え、それを哲学しました。これが哲学者の態度だと思います。

    終わりに

 終わりにお金の問題に触れます。最近、竹田篤司著『物語「京都学派」』(中公叢書)を読みましたが、その中に、西田幾多郎や田辺元を初めとして京都学派の人達は定年後に沢山の業績をあげたということが書かれていました。

 なぜ定年後なのでしょうか。もちろん定年後は授業もなく学校の雑務もなくて時間があるからであり、退職金などで生活が確保されているからです。従って、それまでの蓄積にその後の研究を加えて業績を残すことができるのだと思います。

 しかし、最近の方々は国立大学を定年になると私立大学の専任教員になることが多いようです。これでは業績を残すことは難しいのではないでしょうか。そんなにもお金が必要なのでしょうか。専任教授としてやってきた人なら退職金もあれば年金もありますから、生活の心配はないはずです。ですから、そういう人は授業をするにしても、非常勤講師として週に一日くらいにするのが理想だと思います。そうすれば、今までは出来なかった丁寧な授業が出来ますし、教科通信も発行できますし、学生との対話のある授業が出来ると思います。そして専任教員の口は若い人達に譲れば、学問の発展にとって好いことだと思うのです。

 それなのにどうして皆さん、専任教授として私立大学に天下るのでしょうか。お金の魔力に勝てないからだと思います。しかし、これはやはり学問のためとは言えないと思います。

 教員職の終身制にもやはり問題があると思います。いったん専任教員になれば適当に授業さえしていえば、いやひどい場合には授業さえろくにしないで政治運動とかをしていても、首にならないというシステムでは学問は発展しないと思います。私の知っている範囲でも、大学院時代は勉強するような振りをしていた人が助手なり専任教員になってからはほとんど勉強しなくなった例がかなりあります。

 一部の先進的な人は全教員を一年間の非常勤にせよと主張しているようですか、そこまでいかなくても任期制は出てきました。そもそも大学教員に定年制の出来たのが、不適格教員に辞めてもらうためだったとか聞いていますが、これからは一層競争原理を導入しなければならないでしょう。

 学問も社会の活動の一部としてなされている以上、こういう面も考えに入れないと本当の事は分からないと思います。

 六〇を過ぎてようやく分かってきた事をまとめました。(2002,8,30 )



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