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11・27全学連国会突入事件

2015年09月18日 | ラ行

 保阪康正に『六〇年安保闘争』(講談社現代新書1986)という本のある事を知り、見てみました。11・27全学連国会突入事件についての記述に違和感を持ちました。他にも同じ本があるのかなと思い、調べてみますと、塩田庄兵衛著『実録・六〇年安保闘争』(新日本出版社1986)が見つかりました。これは共産党系の本ですが、これにも違和感を感じました。半藤一利の『昭和史、戦後篇1945-1989』(平凡社ライブラリー)も見てみましたが、これはこの事件を完全に無視しています。

保阪と塩田と私のブログ記事をこの点に絞って比較出来るように掲載します。

1、保阪康正『六〇年安保』から

国会をとり巻くデモ隊

 昭和34(1959)年11月27日。この日は安保改定阻止国民会議の第八次全国統一行動の日にあたっていた。東京では、国会にむけて安保改定反対・交渉即時打ち切りの集団請願デモが行なわれることになっていた。

 午後二時すぎから、国会周辺にはデモ隊がつめかけてきた。

 警視庁は5000人の警官を国会周辺に配置していた。装甲車やトラックを国会の入口に並べて、厳重警戒態勢をとっていた。

 デモ隊は国会周辺の三カ所に集まってきた。チャペルセンター前、首相官邸周辺、それに特許庁前などに、それぞれ2万人近くの労働組合員、学生、市民が集まったが、チャペルセンター前の広場には、2万人を越えると思われるほどのデモ隊が集結して請願大会を開いていた。

社会党書記長の浅沼は、これほどの集まりに気をよくしたのか、激しい口調で、「戦犯岸は、安保改定によってわれわれ日本人の血をアメリカに売ろうとしている」とアジった。社会党右派を代表する浅沼は、このころには「アメリカ帝国主義は日中人民共同の敵」とぶったように、もっとも先鋭的な演説を好んでいた。このときも浅沼の演説は拍手でむかえられていた。
デモがくり返され、警官隊のバリケードは簡単にくずされて、国会は6万人近くのデモ隊によって包囲されてしまった。5000人の警官隊は、国会に近づくデモ隊に圧倒されてすぐに統制を失なってしまった。警官隊はあわてて国会正門前に十数台のトラック並べ、新たに待機していた警官隊をつぎこんだ。しかし、その警官隊も押し寄せる学生や一部の労組員によって破られてしまった。

全学連、国会構内に突入

午後4時ごろ、浅沼を代表とする社会党の陳情代表団が衆議院議長に陳情文をわたすために、国会正門の門をあけさせ、国会内にはいった。このとき、全学連の300人近くの学生が構内にはいった。これがきっかけであった。学生たちは正門の通用門を内側から開けようとし、外側からもデモ隊が鉄柵をゆすった。そのうちに柵が折れ、通用門が開いてしまった。デモ隊の数が多いために、警官隊はどうすることもできなかった。

この正門から、学生につづいて2万人のデモ隊が構内にはいった。数百本の赤旗が掲げられ、組合員や学生の渦巻きデモが構内で行なわれた。天皇や外国の元首しか通れないという正面入口までデモ隊はかけあがり、労働歌やシュプレヒコール、それにワッショイ、ワッショイというジグザグデモが、なんどかくり返されていった。

国会構内はまさに〝解放区″であった。

この解放区の中に、正門をこじあけた東大や明治大などの全学連主流派の学生たちが打ちふる「ブント」(共産主義者同盟)の旗があった。全学連主流派が、このとき初めて安保改定阻止闘争の先鋭的な部分を切り開いたのである。

全学連はもともと共産党の強い指導下にあった。しかし、学生共産党員の間から、共産党の「アメリカ帝国主義に従属している日本」という見方に疑問が出て、共産党の反中央グループが全学連執行部を独占した。そこで共産党との間に対立が起こり、その執行部のメンバーは除名された。彼らは「共産主義者同盟」(ブント)を結成(昭和33年12月)し、そのメンバーが全学連執行部を独占していた。これが主流派を形成し、共産党系、あるいはそれに近い執行委員は反主涜派を名のっていた。のちに反主流派は東京都自治会連絡会議(都自連)をつくって、主流派とはまったく別な動きをすることになる。

このときの国会構内への突入は、森田実、島成郎(しげお)らのブントの指導者によってひそかに計画されたものであった。彼らは安保改定反対闘争の“合法的な闘争形態〟を越え、暴力的な手段によって、まず反対闘争の内容をかえなければならないと考えていた。日本帝国主義はすでにアメリカ帝国主義に追いつくほどの力をつけてきたがゆえに、日米安保条約の対等性がはかられることになったのであり、共産党が主張するように、日本帝国主義はアメリカ帝国主義に従属しているのではないと主張していた。ブントは、反スターリニズムも掲げ、ソ連もまた帝国主義的形態の国家に堕落したと考え、あらゆる帝国主義に反対すると公然と主張していた。

日本帝国主義打倒のためには、安保改定の阻止が当面の第一目標であり、そのためにはあらゆる暴力的抗議行動を採用すべきだと主張した。その主張を裏づける行動が、この「11・27」闘争であった。

うろたえる国民会議幹部

全学連主流派を中心とするデモ隊の国会乱入に驚いたのは、国民会議の指導者たちである。
総評の岩井章事務局長が宣伝力ーでかけつけ、「われわれは今日の請願の目的は達した。これで解散しよう」と、なんども叫んだ。しかし、ブントの指導者は、その宣伝力一に乗り移り、「この態勢を解いてはならない。徹夜で座りこみをしなければ意味がない」とアジった。ブントの国民会議への公然とした批判であった。社会党や共産党の議員も、顔色をかえておろおろするだけで、「早く退去しなさい」と叫ぶだけであった。

浅沼らは「あとはわれわれに任せててださい。万歳を三唱して構内を出てください」とデモ隊を説得した。それに応じて、労働組合員らは構内をでていったが、全学連主涜派の学生たちは動かなかった。「ダラ幹」とか「イヌ」といった怒声がとんだ。浅沼が、衆議院副議長に請願書をわたしたからもう帰ってほしいと、ダミ声をいっそうからして懇願した。共産党の議員もそれに同調して説得にのりだした。全学連の学生たちは、「裏切者、このまま帰れるか」「岸に会わせろ」と罵声を浴びせた。議員団は引き揚げていった。

午後6時近くになって、2000人近い学生たちは、防衛庁にデモをかけることにして、構内から出ていった。およそ2時間にわたって構内を解放区にしての闘争であった。

 翌日の新開は、この国会乱入事件について冷たく報道した。「デモ隊、国会構内へ乱入」「赤いカミナリ族、大暴れ」「全学連 歓声あげ躍り込む」と、その暴走ぶりが半ばあきれたような筆調で書かれていた。

〝闘うブント″のイメージ

11月27日の第八次統一行動は、これまでのなかで最大の動員を誇っていた。炭労や合化労連などは24時間ストをうち、大手単産も時限ストにはいった。安保改定阻止というスローガンだけで、抗議集会が開かれたにもかかわらず、全国650カ所、約300万人もの組合員や学生が集まっていた。この日の朝、国民会議は、「安保闘争がいまや決戦段階をむかえている」という闘争宣言を発したが、規模のうえではたしかにそのとおりになった。

しかし、そのような闘争よりも、全学連主涜派の国会乱入事件のほうがはるかに大きな影響を与えた。国内だけでなく、国外にもこの乱入事件は報道され、「ゼンガグレン」という固有名詞が、世界の新聞に掲載されるようになった。

総評傘下の組合の青年部でも、「警官隊の妨害を突破したあの積極的な行動、とくに青年の情熱は高く評価すべきだ」という声があがった。
この国会乱入事件は、学生の間にも衝撃を与えた。国民会議の決まりきったワク内でのデモで、はたして安保改定が阻止できるのだろうかという疑問は、学生のなかに多かった。その疑問をブントはあっさりと突き破ってみせたのである。学生たちの間に、“闘うブント”のイメージが浸透していき、すこしずつシンパがふえていった。

〝事件″をめぐる反応

国民会議は、国会乱入事件にあわて、すぐに全学連に自己批判を要求した。社会党や共産党は、全学連の除名を主張したが、他の幹事団体のとりなしもあって、とにかくその統制に服するようにという条件づきで国民会議の傘下におくことを決定した。
 
こうした社会党や共産党の態度は、ブントに関心をもち始めた学生たちに、既成左翼が本質的には体制内の改良主義者にすぎないという不満を与えた。とくに共産党は、全学連主涜派を“トロツキスト”と断じ、「われわれの隊列の中にまぎれこんでいるトロツキスト」「挑発者の煽動に最大の警戒を払わなければならない」と『アカハタ』で執拗に訴えていたが、その批判は学生たちにはあまり受けいれられなかった。

自民党の議員は、国会乱入に怒り、「革命前夜ではないか」「非常事態宣言をだせ」と叫んだ。27日にだされた自民党の声明には、「この集団暴力行為は社会党と共産党によって指導され、煽動されたもので、両党の共同謀議にもとづく革命的破壊行為である」という一節があり、社会党、共産党の責任を追及する構えを見せた。とくに自民党は、浅沼が意図的に学生を国会構内にいれたとみて、懲罰委員会にかけようともした。
社会党も、27日夜に声明を発表している。それはあまりにもあちこちに気をつかいすぎていて、本音では何をいいたいのか、さっぱりわからなかった。

「第八次統一行動動による国会陳情は正当なる請願権に基づくものであり、ベトナム賠償、安保改定に反対する大衆の怒りのあらわれである。しかし全学連など一部の国会構内乱入者があったことはまことに遺憾である。国会の秩序を保つためにも乱入した全学連など一部の人々にたいしては断乎たる態度で反省を求める」

そういいながら、警察側に挑発があったといったり、わが党は陳情の仲介に終始し、乱入者に対しては「速かなる退去をうながした」と弁明したりしていた。社会党の本心は、全学連主流派のこの突出した行動をコントロールする自信がなく、加えて自民党からの〝神聖な国会を汚した“という批判が何よりも恐ろしかったのである。

運動の停滞

社会党は、確かに安保改定反対闘争の主役にちがいなかったが、この期には外からは自民党からの批判、内からは路線の相違からくる分裂という事態にあった。党内右派の指導者だった西尾末広は、安保改定にやみくもに反対するのではなく対案を示すべきだと主張していた。西尾は、資本主義対社会主義という図式にこだわる左派に対して、民主主義対共産主義という図式を対置していたのである。

頑迷な左派は、西尾を綱領に反しているとして統制委員会にかけることを要求していた。昭和34年8月、9月と、社会党はこの対立に明け暮れていた。党大会でその案が可決されると、西尾派はそのまま会場を去った。そして10月18日に西尾派は脱党し、民社クラブ(のちに民社党)を結成した。その民社クラブも、国会突入を激しく責めた。

こうした混乱が、社会党の安保改定反対の動きを鈍らせていた。

全学連主涜派の国会乱入で、自民党からの社会党への警告には、反対運動の牽制という意味もあった。

12月10日の国民会議の第九次統一行動は、22の単産が抗議行動に加わり、全国600カ所で集会が開かれ、450万人が参加したと発表された。しかし、その内実は安保改定反対の抗議集会というよりは、労働組合の年末要求をスローガンにするというもので、国労が中核になってストをうつことになっていたが、早朝の時限ストでお茶をにごしてしまった。
岸首相さえ、この抗議集会の低調さに驚いたと、『回顧録』の中で告白しているほどであった。(保阪正康著『六〇年安保闘争』講談社現代新書1986年、51~60頁)

2、塩田庄兵衛著『実録・六〇年安保闘争』から

ここで、〝六〇年安保闘争の主役〃と一部で「伝説化」されている当時の全学連(全日本学生自治会連合)について、一言コメントしておく必要があろう。1948年9月に結成された全学連は、学生運動の分野とかぎらず、戦後の民主運動全体のなかで、その純粋な情熱と機敏な行動力とで大きな役割を演じてきた。1955、56年の砂川基地拡張反対闘争での全学連の献身的な活動は高く評価された。ところが1958年6月、全学連指導部の共産党グループが党中央と対立し、やがて党から除名された全学連幹部たちは、12月に共産主義者同盟ブント)を結成した。そして翌59年6月の全学連大会でかれらは指導権をにぎり、唐牛(かろうじ)健太郎を委員長とする執行部をつくった。このグループはトロツキズムとよばれる極左冒険主義的思想潮流に属し、この後、安保闘争のなかで統一行動を妨害する挑発行動をくりかえした。これがいわゆる「全学連主流派」を形成して、その戦術指導に従う学生大衆も少なくなかったが、彼らの統一行動破壊に対する批判の声も強くなった。そこで全学連は事実上分裂し、いわゆる「全学連反主流派」は、60年3月に東京を中心に結集し(東京都学生自治会連絡会議)、安保闘争を国民会議を中心とする統一行動でたたかうと同時に、全学連の正常化、再建への努力をつよめた。このような問題が運動の中ではっきり表面化したのが、「11・27国会デモ」であった。

 11・27〝国会デモ事件〃

安保国民会議は、11月27日、12月10日の2回の統一行動を、安保交渉終局から調印へ進もうとする岸政府に打撃をあたえるチャンスと判断した。生産点での実力行使、全国各地での地域集会のエネルギーを11月27日に結集して、国民会議発足いらい最大規模の統一行動を盛りあげようとはかった。東京での国会請願デモは、いわばそのクライマックスとされた。たまたま、ベトナム賠償協定の強行採決が、反安保勢力を強く刺激した日であった。その日の情景は次のように報道きれている(井出武三郎編『安保闘争』三一書房1960年9月、59~60ページ)。
──午後2時半、国会に通じる三方の道路を埋めて請願大会が開かれた。国民会議は参加者八万人と発表した。警視庁は2万6000人と推定したが、それでも予想した2万を超す盛り上りだった。

警官隊5000人は三方の道路にトラックを並べ、その後に黒い人垣をつくつていた。3時すぎ、まず特許庁コースのデモが警官の阻止線に向って行動を起した。先頭には東大、早大など全学連と全金属の青年労働者がいた。デモはトラックを乗り越え、警官をじりじりと国会への坂道へと押し上げた。激しい力のぶつかり合いが続くうち、警官の背後へ別のデモ隊の一団がかけ下りてきた。たちまちデモ隊は警官隊を包囲し、その横をデモ隊がかけ上って国会構内へ。一方、チャペルセンター前から正門に向った一隊は、請願代表団のために開けられた門から学生たちを先頭に構内へなだれ込んで入ったデモ隊は、正面玄関前の広場でジグザグデモの渦を巻いた。「アンボ!」「ハンタイー」の喚声が、安保阻止闘争はじまって以来はじめて議事堂の壁にガンガンはね返った。警官隊はただぼう然として突っ立ち、その渦の熱気に呑まれた形だった。ところがスケジュールにのっていないこの事態に驚いたのは主催者側の社会党・国民会議の指導者たちであった。宣伝カーの上から岩井総評事務局長が呼びかけた。「請願の目的は達成きれた。きょうはこれで解散しよう」。社・共党代表もそれを支持して説得した。しかしデモ隊は「なぜ解散するんだ。抗議集会を開け!」「全員ここにすわり込め、岸を呼び出すんだ⊥と叫び、一部のデモ隊が構外に出はじめたあとも、全学連は動こうとはしなかった。

この日の警官隊との衝突で重軽傷はデモ隊、警官合わせて300人にのぼった。

私も、このデモ隊の中にいた。晩秋の短い日が暮れて、早くも夜のとばりにつつまれた国会構内に、新聞社がたくフライヤーのあかりに照らしだされてデモ隊の旗がなびき、歌声と喚声がとどろき、興奮を誘う光景であった。近くにいた全学連主流派の学生は、「議事堂に突入して、国会の審議を止めよう」と上ずった声でわめいていた。

この日の統一行動は東京での国会デモのほかに、大阪では5コースで約4万人の求心デモが行なわれ、京都円山公園の集会には学者、映画・演劇・崇敬人をふくむ5000人が集まったという。このほか関西地区の集会参加者は8万人にのぼり、東海・北陸では6、7カ所で8万6000人、中・四国では1万4000人、東北5万4000人がそれぞれ集会・デモを行なったと報ぜられている。全学連はこの日、全国121自治会、18万人が参加したと発表した。

この日の統一行動は、国会デモのほかに総評、中立労連翼下の組合で炭労・合化労連の24時間ストをはじめ200万人参加のスト、集会が展開され、安保反対勢力の盛り上りを示したが、政府・自民党の側も反撃に転じ、反対勢力の陣列に動揺と混乱をひろげることをはかった。自民党は同夜ただちに、デモ非難声明を発表した。

「国会前に集結した数万のデモ隊が社会党の浅沼書記長、共産党の志賀義雄氏らを先導として国会内に殺到、乱入し長時間にわたり構内を占拠して騒乱をきわめたことは民主主義の殿堂たる国会の権威と秩序をじゅうりんする痛恨事である。この集団的暴力行為は社会党と共産党により指導され、扇動されたもので、両党の共同謀議に基く計画的な革命的破壊行為であることは明らかであり、国民とともに憂慮にたえない。わが党はあくまでも民主主義と議会政治を守る決意を新たにしかくのごとき破壊勢力と対決し断固としてこれを粉砕するものである。」
加藤衆院議長も同じ趣旨のデモ非難声明を発表した。

自民党はこの機会に国会周辺のデモ規制法を画策した(この法案はやがて衆議院を自民党の単独審議・単独採決で通過し、参議院で継続審議の扱いになった)。また衆議院に懲罰委員会を設置して、浅沼社会党書記長らを対象にあげておどしをかけた。
翌朝の新聞は、「無政府状態は許せぬ」(「毎日」)、「陳情に名をかりた暴力、大衆的テロリズム」(「読売」)などとデモ隊を非難した。これを背景に警視庁は翌朝、全学連本部を摸索、指導部3人を逮捕、夜には総評・東京地評・全国金属を手入れした。そのうえ、第九次統一行動(12月10日)には「特定の場所で集団陳情を行わぬよう」との警告を国民会議幹事団体に通達した。

一方、社会党は同夜、「国会請願は正当な権利であり、この大衆行動はベトナム賠償、安保改定についての政府の態度に対する大衆の憤激の現われである」としながら同時に、「全学連など一部が広場に乱入したことは遺憾であるが、警察側で意識的に乱入を挑発した点もまた遺憾である。院の秩序を保つためにも、乱入した全学連など一部の人びとに対して断固たる態度で反省を求める」と声明したうえ、さらに翌28日の中央執行委員会で「全学連に国民会議からの離脱を求める」ことを決定し、国民会議に申し入れた(この件は全学連が〝反省〟の形式をとって蒸発した)。共産党も29日付で、正当な国会請願行動を妨害した政府与党、警官隊を非難するとともに、「このとき、反共と極左冒険的行動を主張していたトロツキストたちは、右翼の暴行や警官の弾圧などによって緊張した状況を逆用して挑発的行動にいで、統一行動をみだす行為にでた。」ときびしく批判した。

このなかで国民会議幹事会は、27日夜の声明では国会構内にデモ隊が入ったことには触れず、「われわれの請願運動に政府は警察力を動員して弾圧を加え、多くの負傷者を出した。12月10日の第九次統一行動には交渉即時打ち切り、調印停止のため、全国のあらゆる町から村から国民総抵抗の闘争を進める」と宣言した。しかし国民会議指導部が予期しなかった11・27の突発事件は、寄り合い世帯である国民会議を混乱させ、動揺と内部対立をひきおこし、運動の停滞をまねいた。12月10日の国会デモは、労働者・学生の部隊は計画を中止し、安保批判の会の文化人・芸術家集団だけが、警官隊に守られた国会に静かにデモ行進した。(塩田庄兵衛著『実録・六〇年安保闘争』新日本出版社1986年、67-73頁)

3、牧野紀之のブログ記事「60年安保」―歴史のためにーから

立花隆氏は「中核 VS 革マル」(講談社文庫)の中でこう書いています。

 「11・27の国会突入闘争は、当時いわれていたように、偶発的に起きたものではなく、ブントの指導の下に、目的意識的に起こされたものだった。それにもかかわらず、闘争を現場で指導した加藤昇全学連副委員長、糠谷秀剛(ぬかや・ひでたけ)全学連副委員長、永見暁嗣都学連書記長らは、なんの警戒心も抱かずに自宅に帰り、その夜のうちに逮捕された。自宅に帰らず逮捕をまぬがれた清水丈夫全学連書記長と、葉山岳夫(たけお)ブント東大細胞キャップとは、逃げ場を失ってそれぞれ東大駒場と本郷に逃げ込んで、世に言う「籠城事件」を起こす。」

 この辺の記録ないし考察で重要な事だと思うのは、この11・27国会突入事件を契機にして、それをどう評価するかで学生運動の中の4つの派(だったと思う)の提携関係が変わったということです。

 私の記憶では当時の東大駒場(全国の縮図)には4つの派があったと思います。民青(共産党系)とブントと第4インター系(表向きの名前は覚えていません)と、もう1つあったと思うのですが、名前は覚えていません。

 そして、11・27まではレーニンの「外部注入説」を機械的に主張するブント系のやり方に反対する大多数の学生の意向を反映して、ブントに対して他の3つの派がまとまって反対していたのだと思います。従って、ブントは主導権を握れなかったのです。

 それが11・27の評価をめぐって、否定する共産党系と肯定するそれ以外の3派という対立に分かれたのです。そして、後者の中心にブントが座ったのです。

 この対立は結局60年安保闘争の間ずっと続き、その後も解消することはなかったと思います。

 思うに、この辺の事は立花隆氏が好く知っているはずです。氏はどれかの派(多分、第4インター系)とつながっていたはずですから。それなのに氏がこの辺の事を書かないのは、何か後ろめたいことでもあるのでしょうか。とにかく歴史に対して無責任だと思います。

 西部氏は1958年秋ころの委員長の名前として小島昌光を出していますが、私には懐かしい名前です。個人的にもサークルで一緒だったことがあるからです。たしか日比谷高校を出た人でアコーディオンのうまい人でした。外部から注入しなければならないと主張するブント系の人々に堂々と反論していた姿を思い出します。

さて、11月27日は安保改定阻止国民会議の第8次統一行動でした。私も参加していましたが、途中から用事で帰りました。その後、国会突入事件が起きたのです。

 これが計画的だったかは大した問題ではないと思います。計画的にしては、ほんの少し柵を動かして中に入った後、何も予定がありませんでした。

 まあ、それは大した問題ではないと思います。私の記憶が立花氏の記述と違うのは、駒場と本郷に1人ずつ籠城したという点です。私の記憶では2人とも駒場寮に隠れたのだと思います。

 それから12・10の次の統一行動で逮捕されるまで、駒場キャンパスの中は騒然として、様々な議論が起きました。警察は「大学の中も治外法権ではない」と主張して、踏み込むぞと脅しました。恐れをなした教員たちは、警官が踏み込めば大学の自治が否定されるから自主的に出てゆくべきだと主張しました。結局、上のような妥協が成立したようです。初冬のキャンパスで遅くまで議論していたことが強く印象に残っています。(以下略)





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