すちゃらかな日常 松岡美樹

すちゃらかな視点で世の中を見ます。

6つのブログで世界はつながる? パラレルワールドとスモールワールド

2005-05-30 00:16:18 | インターネット
 好みでブログを読んでいると、自分のいる世界が実に小さいことに気づく。興味の対象になる複数の有名ブログ(ハブ)がリング状のバックボーンを形成し、自分がそこにぶら下がっている。いわば広域LANみたいなものだ。なんだかプライベートIPアドレスで完結する世界である。

 みなさんはふだん、どんなブログの読み方をしているだろう? たいていはまず興味のある分野の文章が目につき、次にそこのトラックバックをたどってトラバからトラバへと世界を広げていくはずだ。

 たとえば私の場合は自分で意識しているわけでもないが、ジャンルでいえばメディア論とブログ論が勝手に太い幹になっている。

するとその分野ではいくつかのハブと呼ばれる有名ブログがあり、これらがつながってバックボーンを構成している。つまりトラバをたどるとぐるりと世界が1回転し、また元の位置にもどるような按配だ。

 その過程で目につくコメントやトラバを見ていると、「あっ、知り合いのあの人がいる」、「またこの人だ」てな感じである。とっても奇妙な感覚だ。

 で、なるほど1960年代に社会学者のスタンレー・ミルグラムが提唱したように、6人を経由すれば世界はつながるんじゃないか? と思えるのだが……ホントに「世界」なのかそれって?

 ネットは広大な宇宙のはずなのに、なぜか「果て」がある感じがする。自分には決してグローバルIPアドレスは振られず、まるでひとつのLAN内で完結しているみたいだ。自分が「世界」だとばかり思ってるものは、せいぜいルータの内側なんじゃないか? って気がしてくる。

 もちろんときどきWAN側に飛び出すときはある。私の場合でいえばそれはメディア論ではなく、決まってブログ論のほうを追っかけてるときだ。気がつけばいつのまにかテクノロジーの話に囲まれ、「あれっ?」と気づく。海で沖へ向かって泳いでいるとき、ある瞬間に水温が変わって浜辺がずいぶん遠くにあるのに驚くのと似ている。

 で、そうこうするうちアニメ系の会話が聞こえてきて、「ありゃ、こりゃ、わからんなあ」とあわててLAN内に引き返す。ルータ越えをするひとつのパターンは、ブログ論→テクノロジー→アニメ系→引き返す(笑)。いつも決まってコレなのだ。

 みなさん、こういうことってないですか?

 あともうひとつパターンがある。こっちは目に見えてわかりやすい。70年代のロックと映画、サッカーである。これらは分野がハッキリしている。だから目に見えてLAN内である。

 ゆえに、70年代のロック→テクノロジー→アニメみたいな複雑な経路には絶対ならない(少なくとも私の場合)。映画や音楽、スポーツは、初めからそのジャンルに特化したブログになってるからだ。するとこれらの世界もそれぞれプライベートIPの世界である。

 なわけで自分の興味を追ってるかぎり、別の世界へ飛ぶことはない。あたりを見渡し、「世界は案外、狭いなあ」と感じても、それって実はホントの意味での「世界」じゃなかったりする。

 SFには平行して存在する「パラレルワールド」という概念があるが、決して隣に広がる平行世界へスライドしないのだ。

 唯一の突破口はブログ論→テクノロジー→アニメ系→引き返す、なのだが……今度はいっぺん引き返さずに、そっちへ突っ込んでみようかな? と思っている。

 はてさてその先には何があるのか? 案外、人間の一生って、こんなことで180度変わったりするのかもしれない。

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【キリンカップサッカー】散発的な輝きのむなしい見本市~日本 0-1 UAE

2005-05-29 11:39:27 | 日本サッカー
 内容はペルー戦よりよかった。小野のコンダクターぶりは「らしさ」を感じさせたし、小笠原も前へ出る積極性を見せた。ではなぜ負けたのか? ペルー戦と同じ戦評になるが、これが日本の実力だからだ。

 日本の戦いぶりで特に目を引いたのは、前半に見せた幾度かのコンビプレーだった。中盤の高いゾーンで3人がワンブロックになり、ダイレクトプレーをからめて切り崩す速い動きをする。第3の動きがなければできない形だ。

 こういう積極的な仕掛けを増やし、あとはサイドをからめて行けば自然に道は開けるだろう。惜しむらくは、まだそれが単発で終わっている点である。

 たとえば小野のゲームコントロールにしても同じだ。小野自身は光っていたが、「日本代表がいい」のとはちがう。しょせんは小野という個人の単発だ。小笠原も積極的にペナルティエリアに侵入し、一発を狙う動きをした。だがこれも小笠原単発の動きである。

 重要なのはこれら単発のプレーが連続して押し寄せ、ひとつの大きなうねりになる時間帯を増やすことだ。でなければきれいな打ち上げ花火が一発上がり、「ああ、きれいだったね」で終わってしまう。

 特に前半、中盤で3人がワンブロックを構成したユニットでの崩しに私は光明を見た。だが大切なのは継続だ。繰り返しこのトライをし、揺さぶり続けることである。ところがこの日は後半になると、そんな動きはパッタリ消えた。前にかかる時間帯そのものはふえたが、いかにも付け刃な感じだった。

 結局、あれはチームとして意図したものではなく、個人のひらめきがたまたま集積した結果だったのだろう。ひらめきで勝つのは選手冥利につきるが、同時に90分間、「ひらめき続ける」のがむずかしいのもまた事実である。

 攻めのリズムとしては、ゆったりとしたつなぎから、キュッと速くなってフィニッシュに行く南米なノリになっていた。「らしいなあ」とは思ったが、これって王者の戦い方なんだよねえ。その「キュッ」とスピードアップする時点では、すでに敵は勢揃いしてナイフを構えて待ってるんだから。

 あれだけ陣形を整える猶予を与えちゃ、切り崩すにはかなりの鋭さがいる。アルゼンチンみたいにゴール前で速いダイレクトパスを4本つなぐ、とかさ。しかしいまの日本には、それって高望みにすぎるだろう。

 前半、UAEはFWがからんだ動きが怖さを感じさせた。「まかりまちがうとやばいな」とは思った。だがチーム全体としてはまだ未成熟な印象で、「たぶんまかりまちがうことはないだろう」と踏んでいた。

 だが最終的にはやっぱり、まかりまちがってしまった。このまかりまちがいを許したのも、やはり日本の実力である。

 相手ボールになったとき、前半から日本は中盤でボールウォッチャーになる瞬間がよくあった。集中力が切れるのだ。そして疲労が蓄積すれば、集中力が切れる時間帯はますます長くなる。

 後半の半分をすぎ、あの失点のケースではそれがピークに達していたのかもしれない。いわゆる攻め疲れってやつだ。しかし守備者の人数はいても、あれだけボールと人に寄せて行かないんじゃ、やられて当然だ。

 失点から2分後、坪井OUT、本山INで4バックにして以降は、ビルドアップに苦しむ場面もあった。チャンス自体はけっこうあったが、サイドが生きない。私にはあれが本来の形だとはとても思えない。戦況にあわせて陣形を変えた時点で、すでに勝負あったという感じだ。あの方針変更は決して先手を打つものではなく、あくまで後手を踏んだ結果である。

 小野が象徴しているように、このチームはが変わればガラリと別のチームになる。セレクション型のチームの典型だ。だがという単発の威力は加わっても、結局はそれがチーム総体としての怖さに化学変化しない。

 みなさんは何がこのチームを変えると思いますか? 「問題点をわかっている中田英が入れば」、「中村が合流して核ができれば」。イメージできるのは、すべて人、人、人という単発にすぎない。

 それでもなんだかんだで予選は突破できるだろう。だがはたしてW杯のド本番で、単発のひらめきは大きな輝きとして結実するのだろうか? 

 予選終了から本大会まで、一定の時間はある。残された猶予は少ないが、何かを変えるとすればそこしかない。

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【匿名論争始末記】トラックバックスパムと議論の「呼びかけ機能」のあやうい関係

2005-05-26 21:08:30 | インターネット
 匿名・実名論争では、ひとりでも多くの方に議論を呼びかけるため、私はスパムチックなトラックバックの使い方をした。批判を覚悟の狼藉だったが、幸い趣旨に賛同していただけ、たくさんのトラバと有意義なコメントを頂戴した。ブログが議論を喚起する力にはまったく脱帽だ。

 私のたくらみの趣旨と経緯については、ニュースサイトの「RBB TODAY」で私が連載しているコラムにくわしく書いた。もしご興味のある方は、そちらもあわせてお読みいただけると幸いだ。

◆第11回 『松岡美樹のブロバンよろずウォッチング』
 ─議論の呼びかけはトラックバックスパムか?─


 さて今回、考えさせられたのはトラバの使い方だ。たとえば匿名論争について、「Aさんならきっと洞察力ある論述をされるだろう」、「Bさんならご自身の立場柄、参考になる体験談が聞けるにちがいない」と思ったとしよう。

 で、Aさん、Bさんに意義のある意見表明をしていただければ、議論するためのいいタタキ台になる。みんなでそれをもとに論議を深めることができる──。こう考えたとする。

 この場合、私はいわば作家さんに原稿を依頼する編集者みたいなものだ。「依頼」とは、匿名問題について私がエントリーを立て、みなさんにトラバを送ることである。つまりトラバで議論を呼びかけるのだ。

 ところがこの場合、Aさん、Bさんが匿名・実名問題について過去に書いたことがなければ、トラバを送れないことになる。強引にやったらトラックバックスパムだ。

 さりとてテーマには公益性があり、Aさん、Bさんの意見表明はきっと社会的な利益になるはずだ……。で、前述のコラムに書いた経緯とやり方で、私は「やっちゃう」ことにした。

 さて私の行為はいわば「非合法」なわけだが、みなさんはどう思われるだろうか?

 上記のコラムの文中では、匿名問題を取り上げているいくつかのブログを紹介した。そのうちのひとつ、「むだづかいにっき♂」のえっけんさんが当のコラムをお読みになり、さっそくエントリーを立ててご意見をくださった。少し長くなるが、一部を引用しよう。

『記事全文を読むと、スパムとされないための工夫はいろいろとされており、こういうやり方であれば僕は不快感は感じないものの、僕は記事の話題と無関係なトラックバック・コメントは歓迎しないのです。「知的で洞察力があるからご意見を聞きたい」と言われたとしたら、まぁ悪い気はしないだろうけれど、その話題に関しては不得手な分野という事もあるだろうし、そうしたコメントがあることで、それまでのコメントの流れを断ち切ってしまうような気がします(もっとも松岡さんのように最新記事の感想をも書く、というのならば、最大限の配慮が感じられ、悪い気はしませんが、そこまで考えて「呼びかけ」を行う人は、一体どれくらいいるだろう?)』

 はい、わかっております、えっけんさん。だからえっけんさんには、呼びかけのトラバを送らなかったんです(笑)。

 私は「むだづかいにっき♂」をよく読んでいるので、えっけんがトラバに対してどんな考えをお持ちなのか知っていた。

 で、「えっけんさんはこの方法はヨシとしないだろうなあ」と思ったので、ご意見は拝聴したかったが呼びかけトラバは送らなかったのだ(すでにえっけんさんは何度か匿名問題を取り上げていたから、というのもある)。

 また、えっけんさんがおっしゃることはすべて正論である。そんなわけで微妙な問題をはらみながらも、みなさんからは匿名・実名についていろんなご意見をいただき、私自身もとても勉強になった。トラバ、およびコメントをくださった方々には、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 いずれにしても今回の件で、私はブログのもつ途方もない可能性に驚かされた。アメリカじゃ、「ブログ廃人」が続出してるっていうけど、わかる気がするなあ。いやホントに。

 とはいえ今回は、たまたまお叱りを受けなかっただけだ。最後に自戒を込めて、コラムの方に私自身が書いた結論を付記して懺悔の記録を終えさせていただく。

「もちろんトラバに対する考えは人それぞれだ。また公共性があるからといって、みんながやたらに対象エントリーとは無関係なトラバを打つようになったらカオスである。あくまでトラバを送る先は『他人の家』だってことを忘れてはいけない。最終的にはトラバを送られた側が、それを許容するかどうかの問題なのだろう」

【関連エントリ】

『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』

『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』

『小倉さん、印象操作はほどほどに』

『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』

(追記)結論部分を付記した(5/27)
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【キリンカップサッカー】けたぐりで転ぶガラスの巨人 ~日本0-1ペルー

2005-05-24 20:22:28 | 日本サッカー
 ボクシングでいえば、撃ち合おうとするとクリンチに持ち込まれ、ズルズルと相手のペースにされた試合だった。ペルー戦の敗戦をことさらあげつらうつもりはない。だが日本のサッカー界は、世界における日本代表の位置づけを、もう見直すべき時にきている。「大いなるカンちがい」は百害あって一利なしだ。

 立ち上がり、ペルーはハーフウェイラインあたりからしきりにプレスをかけてきた。日本のボール運びは1~2タッチ以内でスムーズだが、ペナルティエリアに入るとことごとくはじき返されてしまう。

 これが「ボールキープ・ゲーム」なら日本の圧勝だ。だがいかんせん、サッカーは点を取って勝敗を競うゲームである。なんだか日本は「別のルール」で試合をやってるみたいだった。きっと選手たちは負けた気がしないだろう。だがこれが今の日本の実力なのだ。

 特に前半は2列目、3列目の飛び出しが少なく、相手ゴール前でサムシングを起こす気配がなかった。トップにボールを当てたあと、周囲の動きがあまりにも少なすぎる。「あとは頼むよ」てな感じだ。あれでは鈴木はたまらないだろう。クサビの選手はある意味「つぶれ役」だが、「つぶれただけ」で終わってしまうのだ。

 ペルー側から見ればトップに入ってくるボールと、もとから張ってる選手だけをケアすればいいんだから、こんなにラクな話はない。

 サッカー・ネタでは、何度も同じことを書くハメになって参ってしまう。だが修正点が直らないんだからしかたない。パス&ゴーをしなさい、あなたたち。少年サッカー団の教科書にも書いてありますよこんなものは。

 サントス、三浦の両サイドは生きていた。だがサイドから折り返しが入ったときも、まったく同じパターンだ。シューターは鈴木と玉ちゃんだけで、クロスに反応して飛び込んでくる2列目がいない。

 センタリングが入る時点では、もうペルーはゴール前に人数をかけてガチガチに固めてる。なのにあれじゃあ、「何か」は起こりようがない。将棋でいえば、穴熊な相手に飛車だけで攻めてるようなもんだ。

 後半24分に稲本が入り、彼がしきりに前へ飛び込むようになってゴールの匂いがしてきた。だが時すでに遅し。最後は絵に描いたようなカウンターでご臨終とあいなった。ナムアミダブツ。

 唯一の救いは、途中から入った大黒様と稲本が片鱗を見せたことだろう。

 大黒はボールの受け方がよく、常に相手にダメージをあたえる動きをする。守備側から見ればやっかいな相手だ。ああいうニトログリセリンみたいにデインジャラスでゲルト・ミュラーな男は、代表じゃ久しぶりに見る気がする。

 もし私がカントクだったら、後半のド頭から使うけどな。てかキリンカップなんだから先発で使うわ。

 それと三浦にもふれておこう。クロスとシュートだけなら、彼は超一流の選手だ。中村も鋭いボールを蹴るが、あれはアート。三浦のはカミソリだ。あんなふうにククッと落ちながら曲がるんじゃたまらないな、相手は。キーパーのほぼ正面に飛んだシュートなのにキャッチングできないんだから、こぼれ球も狙えて一石二鳥だ。

 だが惜しむらくは……。前にできたスペースの生かし方、ボールの受け方をマスターしてれば、いい選手なのになあ(ポツリ)。サイドでやるならこれって必修科目だ。ボールをもったときだけ輝くんじゃなくて、周囲の選手に連動し、有機的なユニット単位で切り裂けなきゃ。だいぶマシにはなったが、同じことはサントスにもいえる。

 それにしてもペルー戦を見て、もうジーコでいくなら3点取られたら4点取って勝つサッカーをするしかテがないんじゃないか? と思えてきた。小笠原が中村に変わっても、前に飛び込まないのは同じだ。ならボランチの一角は稲本で決まり。とすればもう片方はふつう守備専になるが、んなこた言ってらんないから小野チンで。

 もうこのチームはバランサーがどうの、ワイパーとアンカーがこうの、なんて言ってたら点取れないわ。FWだけを入れ替えたって何も解決しないぞこれ。そういう知性のないサッカーは好みじゃないけど、ヤケクソだ。バランスなんて考えず、もう百姓一揆でぶちかましてこい(まじで捨て鉢だな、わし)。

 それからもうひとつ。冒頭でも書いたが、日本のサッカー界は関係者、サポーターも含めて世界における日本の立ち位置を再確認すべきだ。以前、「次の目標はW杯でベスト8だ」なんて言ってるおめでたい人がたくさんいて「おいおい」と思ったが、とてもそんなレベルじゃないぞ。

 大切なのはくり返しW杯に出続けること。そして「決勝トーナメントの常連」になることだ。

 決勝トーナメントに進むのと、そこからひとつ勝つのとじゃ、えらいちがいだよ。その狭間には深くて険しい谷がある。日本はとてもそこまでいってない。ちょっと前までトラップもロクにできない選手がゴロゴロいたんだからさ、日本代表には。

 とにかくW杯の決勝トーナメントに足跡を刻み続ける。W杯でいいサッカーを見せ続け、世界の脳裏に「日本」を焼きつける。そうすればサッカー・ネイションとの人的交流や、クラブ単位でのつながりも定着するだろう。これって日本サッカーのレベルアップにとっては大きな財産だ。

 今だってユベントスやらレアルやらが来日してて、一見、交流があるように見える。でも「儲かるから行く」ってんじゃだめなんだ。相手が日本に敬意を払い、「タメになるから行く」って思わせるようにならなきゃ。

 そのためには歴史の蓄積が必要だ。たとえばチェコなんて今でこそ世界の強豪ってことになってるが、世界レベルでは2流国、3流国の時代が長かった。チェコは急に強くなったわけじゃない。ヨーロッパの強国に囲まれて、虐げ続けられた歴史がある。

 日本は決勝トーナメントで何度も叩き潰されるだろう。だけどサッカーには負けなきゃわかんないことって多い。だからタメになるんだ。決勝トーナメントで向こう50年間、負け続ける。そのときやっと我が代表は、「次へのパスポート」を手にするのだ。

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ライブドアPJ vs ブログ時評、血戦ふたたび?

2005-05-21 02:26:45 | メディア論
 5/20付「ブログ時評」さんによれば、なんとライブドアから、「ブログ時評を当社で展開するBlogニュース(仮)の対象にさせて欲しい」てな申し入れがあったらしい。びっくらこきまくりですなぁ。あんな騒動があったのに(笑)。なんか礼節とかモラルとか規範とか、飛んでけ飛んでけ、ちちんぷぃぷぃ、って感じだ。

 そりゃまあ、ひょっとしたらですよ、「あんなことはあったけど、あなたのブログは認めていますよ」って意図があるのかもしれない。しかしそれにしても、「ブログ時評」団藤保晴氏の以下のお怒りはもっともだろう。

「ライブドア・PJニュース・デスク役の小田某がPJニュースでブログ時評について、つい最近、何を書いたか、知らないなら論外だし、知っていて何の挨拶もしないのならメディアの世界から退場された方が良いでしょう」

 事前に「あの件」について、ひとことくらい挨拶があるのがふつうだよねえ。「メディアの世界」というか、人間社会の常識のような気がするんだけど。もしライブドア側がその必然性を感じてないんだとしたら、なんとまあデリカシーのない話じゃあーりませんか。

 また団藤氏は同じエントリーで、「何十かのブログを対象に声をかけたそうですから、見物です。どなたが応じるのか」と強烈な牽制球を投げている。

 団藤氏にすれば、ジャーナリズムのイロハも知らないばかりか、人間としての礼節すら欠く「あそこ」にシッポを振るブログはどこだ? てな感じなのだろう。

 確かに誘いに応じれば、ライブドアPJをめぐるモロモロを支持してることになるもんなあ(と、誘いが来てないから強気な私。あ、わし、メアド公開してなかったわ)。

 さらに団藤氏は5/21付のエントリーで、「ライブドアPJ批判は『妬み』だと、世界に発信されました」とこれまた痛烈なパンチを放っている。なんでもくだんの小田氏が「Japan Media Review」のインタビューに対し、ライブドアPJへのバッシングは「妬みだ」と答えているらしい。

 団藤氏はこれについても、「噴飯もの」「これが世界に発信されてはいかがか」と強い調子で批判している。私は英語がアレなもんで訳して読む気力がないが……文末で氏は「今はするべきことがあるので、発見した英文の紹介だけに留めます」としている。

 てことは団藤氏による第二弾、第三弾の追撃があるかも? うーん、しばらくは目が離せないなあ。

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RSSで広く薄くつながる僕らのキモチ

2005-05-20 23:25:21 | インターネット
 RSSの普及で、サイトの更新チェックは革命的に楽になった。もうお気に入りのサイトに「出かける」必要なんてない。家にいながらにして新しい記事だけを選んで読める。だが裏を返せば濃密だったお気に入りサイトとのつながりは、どんどん薄くなっている。私たちはいまやRSSという細い蜘蛛の糸でかろうじてつながるガンダダだ。

 毎日ネットサーフィンしていると、お気に入りサイトは雪だるま式にふえる。「あ、いいな」と思ってブックマークしても、巡回先が広がるにつれ気がつくと二度と見てなかったりする。ネット上にあふれる情報量は、すでに1人の人間の処理能力をはるかに上回っているからだ。

 そこで革命を起こしたのがRSSだった。RSSのおかげで私たちは、いちいちサイトへ出かけなくてすむ。新しく書かれた記事だけを選択的に読める。「アクセスしてみたら更新してなかった」なんて空振りがないから、そのぶんチェックできるサイトの数は飛躍的にふえた。

 事実、私はRSSリーダの「Headline-Reader」を使っているが、いまやこれがほぼメインブラウザ化している。愛用していたタブブラウザとの使用比率は、6:4から7:3くらいになっている。

 だがここでひとつ問題がある。RSSリーダを使っていると、お気に入りサイトが引っ越しても気づかない可能性があるのだ。ブログ「デジモノに埋もれる日々」のCK氏は、「URLというブランド力 - 機械処理を介して繋がる人々」の中で、自サイトの固定客が体験した笑えない笑い話をこう披露している。

「私の旧ブログ(Doblog版)を定期的に巡回してくださっていた方がいました。仮にAさんとします。Aさんは、私のブログが新MT版に場を移していることに、数ヶ月もの間気が付かなかったというのです」(一部、改行した)

 Aさんはティッカー型のRSSリーダを使っていた。で、「そういえば最近、デジ埋のエントリがないな~」と不審に思いながらも、なんと引っ越したことに数ヶ月も気づかなかったらしい。んー、ありえるわ、これ。

 さてそこで素朴な疑問がわく。私はRSSってあんまりくわしくないんだけど……。たとえばURLが変わったとき、新しいURLを含めて書き込んで、新サイトへ自動的に飛ばすようにできないんだろうか? 技術的には案外カンタンそうに思えるが、そういやこういの、だれも言ってなくない? どうなのよこれ?

 またCK氏はRSSが登場する以前には、「サイト引っ越しましたよ」「はい、ブックマーク変更しておくね」てな管理人と固定客のコミュニケーションがあった、とも指摘する。いわれてみると確かにそうだ。

 考えてみれば、これって便利になった現代のコミュニケーションすべてにいえる気がする。

 たとえば私の仕事なんかも、いまどきはメールとファックス、電話ですべて完結する。打合せのために編集者の方が拙宅へお見えになったり、私が編集部に出かける機会はめっきり減った。顔をつき合わせたコミュニケーションはなくなり、ネットワークとツールがそれを補完している。

 もちろんどっちがいい悪いの問題じゃない。これにはメリット、デメリットが両方ある。

 RSSを使えばより多くのサイトをチェックできるのと同じく、メールで打ち合わせがすむおかげで、こなせる仕事量は物理的にふえた。時間も有効に使える。ただしそのかわり相手の顔を見て、体温を感じながらでなければ生まれない新しい発想や切り口は、芽を摘み取られているかもしれない。

 記者が地べたを這いずり回って取材することを「足でかせぐ」という。そんなふうにして書いた原稿は、「記者の足音が聞こえてくるような記事」なんて呼ばれる。また人間が泥臭く努力することを称し、「汗をかく」って表現が使われる。

 その意味じゃ現代のコミュニケーションは汗をかかなくていいし、足でかせぐ必要もない。人間が動き回って人との距離を埋める行為を、ネットワークが瞬間的に代替してくれる。

 人は便利さに慣れるともう後戻りできない。特に私みたいに不精なヤツはなおさらだ。この流れは止めることは不可能だろう。

 とすればそんな世界に放り込まれた私たち現代人は、いままで以上に精いっぱい感性を研ぎ澄まし、心が磨耗しないよう覚悟を決めておく必要がある。いつも相手の顔を脳裏に描き、あちらの気持ちをイメージしなければならない。匿名論争でもお題になった、「相手の立場になって考える」ってやつだ。

 でなければ、あなたと私をつなぐRSSという名のガンダダの蜘蛛の糸は、いつぷっつり切れてしまってもおかしくはない。

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匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?

2005-05-17 23:48:46 | 実名・匿名問題
 書くときに実名やコテハンを明示すると、なぜ罵詈雑言の抑止力になるのか? ズバリ、私は「世間体」だと思う。この点についてブログ「綾繁重工杜内報」さんから、再度異なる意見が寄せられた。そこで今回は匿名と実名における人間心理について考察してみる。

 人がネット上で文章を書くにあたり、その人の「心の居住まい」を左右するものは何か? 「綾繁重工杜内報」のいそはち氏は、エントリー「続・実名と匿名」の中でこう論じている。

「最初から完全に偽名・匿名で発信した場合と、ある程度身元の割れた、実名と紐付けされたハンドルネームなりで発信した場合とでは大きく記入者の心構えが異なるはず、という事はまず考えられると思います」(一部、改行した)

 ここまでは「YES」である。ただし私は、ハンドルが必ずしも実名に紐付けられていなくても心構えは変わると考える。これはちょっとした意見の相違に見えるが、そうじゃない。何が抑止力になるかについて、私といそはち氏の決定的なちがいが実はここにあらわれている。

 いそはち氏は、なぜ実名とハンドルの「紐付け」にこだわるのか? それは次の段落で明らかになる。以下、引用する。

「匿名掲示板ですら今の警察の手にかかれば、限界はあれど個人特定は可能という事が分かっているはずなので。(まだ犯罪予告などで逮捕される連中もいるが…)」(同)

 つまりいそはち氏は「法的制裁」が抑止力になると考えているのだ。

 だがちょっと考えてみてほしい。たとえばあなたは、どこかのブログのコメント欄に書き込むときに、「いまから書く内容は刑法に触れるかどうか?」なんてことを考えているだろうか? あるいはまた、「あっ。この表現は刑法に触れるから書き直そう」などとイメージするだろうか?

 百歩譲って法的制裁が抑止力になるとしても、ネット上にあふれる誹謗中傷のたぐいは大半が削除、またはスルーで事なきを得ているのが現状だろう。おとがめなしだ。

 書かれた側が名誉毀損(刑法230条・231条、民法709条・710条・723条)で「おそれながら」と訴え出るには、膨大なエネルギーがいる。「そこまでする気はない」というのが素朴な庶民感情である。

 とすれば罵詈雑言を書き込んでも、司法が介入するなんてことはめったにないわけだ。これじゃあ当然、抑止力にはなりえない。

 一方、私は冒頭で「世間体が抑止力になる」と書いた。いったいどういう意味か?

 たとえば私は実名でブログを書いているが、これを読んでいるのは別に知人だけじゃない。ふだん仕事でおつきあいのあるメディア関係の方々や取材先、その他もろもろの人も目にしている。私が知らないだけで、思わぬ人が読んでいる可能性もある。

 なんせ実名ブログだから、Googleで何かの検索中にたまたまココを見つけたとしても、「あっ、これ松岡さんじゃん」とすぐわかっちゃう。この状態でヘンなこと、まちがったことを書けば、「松岡さんて、こんな人だったのね」とたちまち白い目で見られてしまう。

「あんな人に原稿を依頼するのはやめよう」(非常にコワイ言葉だ。両手が震えてきたぞ)などと信用をなくしたら一巻の終わりだ。つまりひとことでいえば、これは「世間体」なのである。

 別に私に限った話じゃない。たとえばAさんがいつも使っているHNで、どこかのサイトに罵詈雑言を書いとしよう。その「どこか」はAさんの巡回先である可能性が高い。

 すると似たようなサイトを巡回しているAさんのネット上の知り合いが、それを目にする可能性は高い。「Aさんて、電波だったのね」。そんなふうに思われ、友人をなくしてしまう。つまりネット上における世間体が歯止めになるわけだ。

 だれにでも覚えがあるだろう。何かがきっかけですっかりキレまくり、ブログのコメント欄や掲示板にハチャメチャなことを書き込んだ。で、「送信する」ボタンを押しかけた瞬間、思いとどまったことが。

 そのときあなたの頭によぎったものは何か? 「刑法に触れるから」ではないだろう。「人に見られるから」であるはずだ。

 たとえ実名に紐付けられてなくても、いつも使っているHNはネット上で実名と同じ機能を果たす。趣味などを通じてAさんが築いたコミュニティとAさんは、HNで結び付けられている。

 罵詈雑言を書いたせいでHNが穢れてしまえば、Aさんはかけがえのない自分のコミュニティを失う危険性がある。これはリッパに抑止力になるだろう。

「世間体を気にする」といえば、なんだか形だけの体裁にこだわる形式主義みたいで評判がよくない。だが実はもっと深い意味がある。世間を考えれば人は行動を律するようになる。他人に迷惑はかけないし、いい評価を得ようと努力もする。

 つまり「世間体を気にする」とは相手を思いやることであり、「こんなことを書いたら本人は傷つくかな?」とイメージすることだ。また人のために何かをし、尊敬されることでもある。人間が社会的な生き物である限り、自分の姿の映し絵である「世間様」はどこまでもついてくる。

 世間体は古くて新しい言葉だ。地域共同体が存在し、まだ近所づきあいが活発だった時代には、世間からつまはじきにならないことが行動の指針だった。だがリアルの世界では、その世間体なる感覚は崩壊した。

 そしていま、ネット界を律しているのが、ネットワークという名の「世間」なのである。

【関連エントリ】

『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』

『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』

『小倉さん、印象操作はほどほどに』

『【匿名論争始末記】トラックバックスパムと議論の「呼びかけ機能」のあやうい関係』
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読売新聞「ヒゲ記者」事件で考える匿名と実名の功罪

2005-05-16 23:50:22 | メディア論
 JR西日本を恫喝した読売の「ヒゲ記者」が実名を晒された事件を機に、匿名と実名それぞれの功罪が議論になっている。記者の署名制度については前々回のエントリーでふれたので、今回はネット上における匿名・実名問題を考えてみよう。

 まず「匿名」の定義は以下の通りだ。

「自分の実名を隠してあらわさないこと。また、実名を隠して別の名を用いること」(三省堂「大辞林 第二版」より引用)

 これをネットのコミュニケーションにあてはめれば、匿名なるものは大きく分けて「無記名」(完全な匿名)、「自分がいつも使ってるHN」、「捨てハン」(そのときだけ使う名前)の3種類になる。

 また匿名問題を考える場合には、書き込むときの「シチュエーション」も合わせて検討する必要がある。こっちは無限にパターンがあるが、代表的なモデルケースをあげればこんな感じだ。

1 他人の行動や言動、持論に反論したり、それについて議論する(対立しがち)。

2 客観的なことがら(出来事や概念など)について、他人と議論する。

3 他人にアドバイスする。

4 何かに関する感想を述べ合う。

5 内部告発する。または外部の人間が告発する。

 では、上にあげた匿名の種類とモデルケースについて、順列組み合わせでセットにしてみよう。ただし匿名問題は人によってまるで意見がちがう。よって、これはあくまで私個人の考えであることを前置きしておく。

 まず他人の行動や言動、持論に反論するときはどうか? この場合、相手がネット上で実名を掲げているなら、自分も実名で反論するのが望ましい。

 たとえばAさんが実名で「○○は××である」と持論を言うとき、Aさんは実名を出すことでリスクを背負っている。リスクとは言い換えれば、「自分の言動に責任をもつ」ということだ。実名でテキトーなことを書いたり、事実とちがうことを主張すれば、Aさんはヘタすると社会的生命を失う可能性すらある。いいかげんなことができないのだ。

 一方、そのAさんに対し、Bさんが匿名で反論するのはカンタンだ。もし自分の主張がまちがっていても、Bさんは匿名だから何も失うものはない。裏を返せばBさんは、いいかげんな言説を意図的にぶつけ、Aさんのイメージを貶めることさえできる。

 この点について考えるいい材料になるのが、ブログ「綾繁重工杜内報」の「いそはち」氏の問題提起だ。「いそはち」氏はエントリー「弁解…のようなもの」の中で、こう書いている。

「自分が思うに、何かしらの情報発信を行う者はその責任を負う義務があり、その情報の発信者の記載は(例えば、署名)必要とは感じます。が、それが実名である必然性は、果たして? ということ。

 例えば私が事実と異なる情報を流布したことで、その責任を問われる事態となった場合、警察の捜査によって自分の身元特定がなされます。それで充分なのではないかと」(一部、改行した)

 一見、正論なのだが、実はこれは「シチュエーション」による話だ。

 たとえば実名を掲げて書いているAさんに関して、Bさんがあることないこと悪意の言説をふりまいたとしよう。で、仮にBさんが刑事犯になって逮捕されたとする。だがいったんついてしまったAさんのマイナスイメージは、払拭するのがすごくむずかしい。

 極論すれば、Bさんが逮捕されようがされまいが、Aさんにとってそんなことは関係ないとさえいえる。

 匿名問題とは関係ないが、JR品川駅で手鏡を使い、女性のスカートをのぞいたとして逮捕された植草一秀・元早大大学院元教授の例を考えればわかりやすい。仮にまったくの冤罪だったとしても、植草元教授が「偏見の目」で見られないようになるまでの道のりは限りなく遠い。

 また実際には、警察沙汰にならない範囲で、かつAさんが致命的なダメージを蒙るケースはたくさんある。

 あるいは「イメージ」ではなく、物理的な実害を考えてみよう。Bさんとのやり取りが原因で、Aさんが職を追われたとする。この場合、そのあとでBさんが逮捕されたとしても、Aさんが復職するのはむずかしいだろう。またBさんが刑法に触れない悪意の仕掛けをし、けれどもAさんが失職する可能性などいくらもある。

 リスクをしょって言動に責任を負う実名のAさんと、テキトーなことをやっても被害がない完全匿名のBさん。どだいこの2人が議論するのは、どうしたってフェアじゃないのだ。

 また害うんぬんだけじゃない。Bさんが匿名であることにより、議論全体の「確からしさ」や「話し合いが有意義であること」が担保されないケースは当然出てくる。

 たとえば脳機能学者の苫米地英人氏は、このところ立て続けに匿名の弊害を考察するエントリーを公開されている。氏の場合は匿名についてかなり厳格にお考えになっているようだ。それらのうちジャーナリズムやコメント削除についても書かれているものを、参考までにひとつだけあげておく。

「ブログ、実名か虚名か?」

 何度も同じテーマでお書きになっていることから考えれば、相当、思われるところがあるのだろう。

 ただ、私の場合は氏の考えに大筋うなずきながらも、どこか人間を信じたい部分がある。たとえ実名と匿名が入り乱れても、なんとか何も問題が起こらず有意義な場ができないものか、と思ってしまう。

 またもうひとつ、ネットにおける実名制度にどこまで現実味があるか? の問題もある。現状、みんながみんな、実名でネットをするというのは、やはり現実的じゃないだろう(将来的にはそうなるのかもしれないが)。

「実名には実名で」を絶対条件にすると、ものを言えなくなる人がたくさん出るはずだ。ネットはせっかく広く開かれた世界なのに、それではネット上で議論できるチャンスが減ってしまう。

 また第3の理由として、匿名でなければ実現できない「意味あること」や、「匿名ゆえの面白み」というのもネットにはある。これについては後述する。

 で、次善の策として、実名のAさんに反論するなら最低限、Bさんは「自分がいつも使っているHN」や「自分のブログ等のURL」を明示すべきだと私は考える。もちろんHNやURLは詐称できるし、本人確認なんてできない。だからあくまで紳士協定みたいなもんだ。

 では「本物」のHNやURLを出すのは、どんな意味があるのか? たとえばHNやURLを明かした上で誹謗中傷したり、いいかげんなことを主張すれば、BさんはそのHNやURLを二度と使えなくなる可能性がある。

 で、HNを作り直して友だちに告知したり、サイトを引っ越すハメになる。これってめんどくさいし、お金がかかる場合もある。もし私ならゴメンだ。こういうリスクを背負うぶん、Bさんは自分の言動に「確からしさ・誠実さ」を心がけるようになるはずだ。

 前出の「いそはち」氏は同じエントリーで、「早い話、ハンドルネームと実名が紐付けされていればいいんですよ」とする。この考えに近いかもしれない。だがもっと踏み込めば、コミュニケーションの確からしさや生産性さえ確保できれば、「実名に紐付けられなくてさえいい」のである(もちろん私の個人的な考えだ)。

 実名やHN、URLはあくまで「手段」であり、目的は「議論を有意義、かつ生産的なものにすること」である。だから目標を達成できるなら、手段は別にHNやURLでなく何かほかの新しいシステムでもいい。

 理想論にすぎないと笑われるかもしれないが、もっと言うなら仮にすべての人が公明正大で生産的な話し合いをしたいと願ってさえいれば、しくみなんて何もなくたってOKなのだ。

 とはいえ現状、現実的な解は「なんらかの名称」だから、それについてもう少し考えてみよう。

 次に想定できるケースは、実名ではなくHNで持論を述べる人に反論したり、彼と議論するときだ。これにはもちろんHNでいいだろう。まあ実名を出したきゃ、本人の勝手である。

 で、このときHNは、議論する相手を識別するための「記号」として機能する。「無記名」では、いったいだれが反論してきたんだかわからない。たがいに意見交換するのが不便でしょうがない。また実名ではなくHN 対 HNなら立場は対等だ。とすればこの場合、HNは議論の利便性を高めるための符号になる。

 それなら上に上げた「2」はどうか? 誰かの持論に対してでなく、客観的なことがら(出来事や概念など)について第三者的に議論する場合だ。

 これだと「1」とくらべて、相手の尊厳を傷つける可能性は低くなる。ただしやり取りがヒートアップすれば別だ。揚げ足取りになったり、誹謗中傷になるんじゃ時間のムダだ。やっぱり相手が実名ならば、「いつも使っているHN」でやり取りするのがベストだと思う。

「3」の「誰かにアドバイスするとき」も、HN 対 HNでOKだろう。実名の人に善意でアドバイスしようとしてるのに、「オレは実名だからあんたも実名でアドバイスしろ」なんてのはギャグだ。善意にもとづきアドバイスが行われる限り、別に「無記名」でもいいかもしれない。とはいえ1回だけのやり取りでは済まず、継続的にレスしあうなら識別記号はあったほうが便利だろう。なら捨てハンでもええわな。

 また「4」の何かに関する感想を言い合う場合も同じだ。ただしこれについては「無記名」で、かつ、脊髄反射しあってこそ成立する「面白いコミュニケーション」、「匿名ならではの瞬間芸」ってのはありえる。だから私は名前にこだわる必要はないと思う。

 というか私はとにかく「面白いこと」が大好きなので、実名にしたせいでこのテの芸やユーモアが絶滅するんだとしたら、とっても残念なのだ。

 実のところ、ホントに面白い人が定期的に私のブログのコメント欄にやってきたとする。で、無記名でなきゃできないめちゃんこオモロイ芸をかまして笑わせてくれるなら、まあ10回に1回くらいは別のヤツに無記名でボロクソ叩かれてもしようがないかな、とすら思っている(あっ。や、聞かなかったことにしてくれ)。

 さて、最後に「5」の不正を告発する系の番だ。こいつは匿名じゃなきゃできないケースのほうが多いだろう。だから名無しはアリ。あくまで告発者の安全を保証するのが最優先だ。ただしこれは内部告発なのか、外部の人間なのかにもよる。また実名で告発しても被害を蒙らない場合もある。だからいちがいにはいえない。ケース・バイ・ケースだ。

 まとめると、その人固有の名称(実名やHN)には2つの機能がある。1つはコミュニケーションに責任をもたざるをえなくなる「お札(おフダ)」としての働き。そしてもう1つは相手を識別しやすくするための記号性である。

 現状、実名でブログをやってる人は、ビジネス目的以外ではごく少数だ。だからみんな、前者の「お札」機能はピンとこないかもしれない。けど、実際に実名で書くとホント実感するぞ(笑)。現に私なんか、いったん書いた下書きを「こりゃヤバイな」と思って書き直すこともけっこうあるしな。

 私の場合は仕事で署名原稿をさんざん経験してるが、ブログと仕事の文章じゃぜんぜんちがうんだよ、感覚が。なんかブログだと、催眠術にかかったようになぜか匿名で書いてるような気分になるんだ(これがネットの魔力か? でも仕事でWebにも書いてるしなあ)。

 んで、公開してから、「あっ、この原稿って、現実世界で知り合いの○○さんが読むかもしれないじゃん。とするとアレがああなってこうなって……うへ、やべっ」みたいな瞬間があるんだわ。ホント、危ない橋を渡ってるよなあ、わし(笑)。

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ジェスロ・タルでタイムスリップした渋谷の夜

2005-05-15 03:09:43 | 音楽
 渋谷公会堂でジェスロ・タルを観てきた。1曲目が始まるなり、イアン・アンダーソンの声の枯れ具合にびっくり。んー、かなり張りがなくなってるなあ。でもまあいい年だしなあ。あとドラムが倍テンでごまかしててもどかしいぞ。イクときはイケよ。

 そんなことを考えながら聞いてるうちに、コンサートは中盤にさしかかる。するとじわじわとバンドのボルテージが上がり、前半と同じメンバーが演奏してるとは思えないほど演奏がアグレッシブになった。ライブのよさだな、これは。

 以前のエントリーで書いたように、チケットを買った時点ではいろいろあったがやっぱり観てハマった。この日はアルバム「アクアラング」を全曲演奏したのだが、あれを聴いていた高校時代が頭の中でぐるぐる回る約2時間だった。「クロス・アイド・マリー」には泣けました。

 会場にはオールドファンらしき人が多く、特に30~40代くらいの女性が目立ったのがちと意外だった。ジェスロ・タルって案外女性ファン多いのね。サラリーマン風のおじさんたちも程よく出来上がっていて(謎)、たどたどしくリズムを取る姿がほほえましい。なんだか同じ時代を共有してたんだなあ、と熱いものが……。

 しかしジェスロ・タルはもう、アンプラグドに切り替えたほうがいいと思う。アコースティックないい曲をたくさんもってるし。なによりバックがエレクトリックになると、イアンの声が負けてしまうのだ。だがアコースティックならまだまだあの声はいけるし、説得力もある。さて、どうなんだろうか。

 それともうひとつ感じたのは、やっぱりイギリスの音だなあってこと。イギリスのバンドったって音楽性はいろいろなわけだが、どこか共通してるのだ。ちょっと屈折してて、アメリカみたいなノーテンキで大陸性の土地では生まれないカルチャーというか。

 似たようなことは以前青森へ旅行したとき、地元で有名な津軽三味線のライブハウス「山唄」へ寄って感じた。あの音って、太陽がさんさんと降り注ぐジャマイカじゃ絶対に生まれないよな。やっぱこう、寒くて自然がキビシくて、「つらくないと出てこない音」っていうか(笑)。ちょうどイギリスの音もそんな感じだ。

 コンサートが終わり、ロビーへ出るとTシャツやらCD、DVDが山積みされている。

 さっそくTシャツを買い、CDを物色したがほとんどもってるからなあ。ワイト島のDVDは買いそうになったがグッとがまんした。とにかくほっとくとなんでも買っちゃう勢いなのだ。

 でも帰ってからアマゾンで買うんだろうなあ、わし。いまDVDドライブが壊れてるから、これ買っちゃったらドライブも買わなきゃなんないんだよ。んー、ま、いいか。ドライブはどうせいるし。ってやっぱ、業界に食い物にされてる気が……。

 外へ出ると、なんと渋谷公会堂の前でフルート吹いてるおっさん発見(笑)。片足は上げてなかったけど。熱心だねえ。しかもけっこううまくて、ウケてるんだなこれが。しばし鑑賞し、警備員に追い出されて街の通りへ。

 小雨の中を渋谷駅へ歩きながら、「クロス・アイド・マリー」を口ずさむ。また高校時代の自分が蘇ってくる。音楽ってある意味、それを聞いてた時代や場所にタイムスリップさせる空間移動機なんだな、きっと。

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フリーランスは「人間じゃない」のか? 文化レベルを露呈したTBS盗用問題の実態

2005-05-14 09:04:21 | メディア論
 TBSが公式HPのコラム35本を、なんと読・毎・朝など各新聞社から盗用していたことが判明した。しかもあきれたことにTBSは当初、「外部のフリーライターがやったことだ」とウソの発表をしていた。まったくどうしようもない会社だ。

 記事の盗用と虚偽の申告は、TBSの現場の部長がやったことだ。だがウソの報告を真に受けて発表するTBSは、内部調査が致命的に甘い。しかも部長はTBSが軽んじているらしいフリーランスの人間ではなくTBSの社員なんだから、彼らの価値観をそっくり当てはめれば「TBSがやったこと」だと断定していいだろう。

TBSホームページにおける新聞記事盗用について(TBS)

TBSのコラム盗用、執筆は部長(YAHOO! JAPAN NEWS)

 盗用した件数は発表ごとに増えるわ、「真犯人」は変わるわで、この問題についてはいつ書こうかとタイミングを見ていた。だがキリがないのでもう書いてしまおう。締め切りだ。

 まず釈然としないのは、上記のTBSによる「お詫び」の文面である。

 読者は知らずに読まされてるんだから、盗用していたすべての記事のタイトルと文面、日付の一覧をつけるだろう、ふつう。誤報をやったときには記事を特定して該当箇所を明示するでしょう? ある意味、誤報よりひどい話ですよ、これって>TBSさん

 おまけにTBSの文面には、「当初は自らの責任を転嫁する虚偽の説明を行っていたことはまことに遺憾」としか書いてない。フリーライターのせいにしましたとハッキリ明記すべきじゃないの? 公式HP上で。

 テレビや新聞、雑誌などのいわゆる「大マスコミ」では、何かあると「フリーランスの人間がやったことだ」てな言い訳が伝統化している。もはや古典芸能といってもいいだろう。まったく目も当てられない後進性である。

 そもそもテレビなんかは、外部の番組制作プロダクションがなければ成り立たない構造になっている。雑誌にしても実際に誌面を作っているのはフリーランスのクリエイターだ。

 たとえばテレビ局へ行くとフロアが番組ごとに分かれていて、制作している各プロダクションが会社単位でデスクに陣取っていたりする。雑誌だってフリーランスの席を作っている編集部も多い。なのに何かあったら「外部の人間のしわざです。ウチには関係ありません」じゃ通らないだろう。

 どだい会社組織の名の元に情報発信してるから、辻褄が合わなくなるのだ。会社として責任を取る気がないのなら、すべてのメディアはハナから署名制度にすべきだろう。「文責はオレにある」という意識でモノを作っているフリーランスの人間は多いんだから。

 なのに書いた個人の名前は隠しておいて手柄は会社がちょうだいし、何かが起こると「実はアイツのせいなんですよ」ってすごい世界だよねえ、しかし。

 このあたりは署名制度が発達し、会社組織の人間であっても「個人が情報発信している」という認識のある欧米のジャーナリズムとくらべ、意識が100年遅れている。もはや文化の問題だ。すでに落日の観がある日本独特の頑迷なカイシャ主義、士農工商フリーランスという意味不明な価値観に原因がある。

 たまには権力の不正を暴いたりして「進歩派」を気取っているが、その実、ある意味日本でいちばん文化的に遅れているのがマスコミなのだ。

 その証拠に私が見聞きした範囲では、TBSは「犯人」の部長(47)の名前を公表していない。前回のエントリーではJR西日本の記者会見場で名を名乗らなかった読売新聞の記者を取り上げたが、根はまったく同じだ。

 まずはフリーランスのせいにしよう。その堤防が崩れたら、今度は「会社」の傘に隠れよう。こうして「個人」は限りなく厚い組織の襞に隠れていく。マスコミの隠蔽体質はこんな構造になっている。

 まあふだん取材で危ない橋を渡っているから防衛手段が発達するわけだが(笑)、手管を使っていいときと、使うべきじゃないケースは明確に分けて考えるべきだろう。

 これじゃあ「名前を暴いてやろう」って人が出てきても、それを止めるだけの「理」がマスコミの側にはなくなってしまう。内部で自浄作用が働かないなら外からチェックしよう、って流れになっちゃうでしょう。

 現にさっそく「サイバッチ!」が実名を公表しているが、未確認情報だしあえてリンクは貼らない。「サイバッチ!」は、「90パーセント以上まちがいない」だの「ただし同じ年齢の部長があと数人いる」(いかにもサイバッチらしい・笑)だの、あやふやな前置きを並べるヒマがあったら、書く以上はウラを取れよ。もしまちがいだったらとんでもない話じゃないか。

 さて、ここまでは同義的責任について述べてきた。だが今回の事件には、法的な問題もある。現状、どの記事がどんなふうに盗用されていたかが明らかにされてない。だから判断のしようがないのだが、これって著作権法違反の可能性があるんじゃないの?

 もちろん著作権法は親告罪だから、著作権者(被害にあった新聞社側)が告訴しない限り罪には問われない。だが仮にこのままマスコミ同士のナアナアですんだとしても、読売記者のケースとちがってTBSは違法行為の構成要件を満たしていた可能性があることを自覚すべきだろう。

 TBSは自社のHPで「今後、厳正に対処いたします」などと、あたかも終わったことのように書いているが、コトは限りなく重大だ。

 おまけにこの部長はフリーランスという個人の人権をまるで認めていない。その部長はTBSという組織に属している。とすればこの場合、部長=TBSだと解釈できる。さて、そこで疑問がある。

 たとえばもし仮にくだんの部長が新聞の記事ではなく、ブログやHPみたいな個人の文章をバクっていたとしたらTBSはどうしただろう? 今回みたいに自社のHPで「松岡美樹さんのブログ『すちゃらかな日常』から盗用しました」(笑)とお詫びを掲載するのだろうか? またその場合、世間は騒いだだろうか? 「たかがブログだ」で終わっていたにちがいない。

 つまり今回の事件は「個人」ではなく新聞社という「大組織」の記事を盗用したから騒動になったわけだ。

 不正な行為を働いた組織の中の個人は、フリーランスという組織の後ろ盾のない個人のせいにする。で、バレると今度は会社集団の中に隠れる。おまけにパクったのが「個人」ではなく「組織」の持ち物(新聞の記事)だったからこそ騒ぎになった──。

 すべては個人とカイシャという、日本文化の問題に帰結していく。

 最後にもうひとつおまけだ。

 読売新聞は5月13日付の社説で「お粗末」「著作権侵害だ」「あきれてしまう」などと口をきわめてののしっている。

 だが、あきれてしまうのはこっちだ。あなたたち、人のこと言えるんですかぁ?(笑)。ののしりながらも社説の文末で「私たちも、自戒したい」なんて1行を付け加えているのが、とっても笑えるんですけど。

 これってひょっとしてギャグなの?

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(追記)「サイバッチ!」の実名報道について加筆した(5/14)
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JR西日本を恫喝した「髭記者」の実名にたかるブログ・スクラム

2005-05-12 15:21:09 | メディア論
 JR西日本列車事故の記者会見で、下品な怒声をあげた「髭記者」の実名が暴かれたようだ。で、その実名をいっせいに晒し、これまた下品な「ブログ・スクラム」が行われている。やれやれ、である。

 私はいままでJR西日本関連には、ひとこともふれていない。右へならえで他人と同じことをするのが嫌いだからだ。

 あの事件が発生した時点で、その後なにが起こるかはだいたい想像できた。

 まず既存メディアがいっせいに報道し、メディア・スクラムが起こるに決まってる。ブログも同じように事件を取り上げ、似たような文面があふれ返るんだろう──。案の定、想像通りだ。うんざりである。

「JR西日本現象」をおさらいすると、こんなふうだ。まず既存メディアが第一報を流す。次に原因をめぐって第二報が続いた。置石だ、過密ダイヤだ、過剰な定時運行だ、と推測だらけの情報が飛び交う。

 一方、ボウリング大会がどうの、旅行がどうの、と観衆の「情動」に訴えかけるどーでもいい批判記事も続発した。JR西日本の社員がやったことは、すべて「悪」にされるマスヒステリー状態である。

 こうなるともう彼らは全社をあげてひたすら黙祷し続けるか、救出活動に参加する以外の行動は許してもらえない。もし事件当日にトイレでウ○コした社員がいたら、「この非常時にウ○コをするとは何事か! けしからん」てな状況だ。

 もちろんその日の夜に、夫婦生活を営むなんてとんでもない。謹慎だ、チ○コはしまっとけ、と怒られちゃう。

 かたやブログも事件当時から、いっせいにネタにした。もうどこへ行っても似たような文章ばかり。すっかりまいっちんぐマチコ先生(古)である。あなたたち、ちょっとは独自性とかオリジナリティとか考えないんですか? てなあんばいだ。

 で、事件の本筋と平行してずっと流れていたのが、「記者会見で怒鳴り声を上げたあのヒゲの記者はだれなのか?」だった。実名らしきものを暴いたのはブログ「清谷防衛経済研究所 ブログ分室」らしい。管理人さんはフリーランスのジャーナリストのようだ。

 まあ清谷さんの記事は、情報を掘り起こしたんだからオリジナリティはある。だがそれに群がるほかのブログには「何もない」。尻馬に乗り、他人がくれた情報に便乗して騒いでいるだけ。ただのコピペみたいなもんだ。なんだかなあ、である。

 JR西日本を寄ってたかって吊るし上げる既存メディアと、髭記者の実名をこれでもかと晒す無数のブログ。どっちも同じ穴のムジナに見えるのは私だけでしょうか? 要はあなたたち、祭りに参加したいだけ、魔女狩りを楽しみたいだけだよね? なんか後味悪いよなあ。 

 自分は匿名のくせに、髭記者の実名を晒してすっかりコーフン中のあるブログは、こんな趣旨のことを書いている。

「既存メディアはもうやりたい放題できないぞ。われわれネット住人が監視してるんだからな」

 や、監視されてるのは別にマスコミだけじゃないよ。ブログだって同じだ。この人、自分には関係ないみたいな書き方してるけど……もって銘すべし、とはこのことである。やれやれ。

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リアルな世界とインターネットはどっちがリアル?

2005-05-07 23:58:05 | インターネット
 ネットはバーチャルな世界だ、って言うけどホントだろうか? 実はリアルの世界より、ずっとリアルなんじゃないだろうか?

 たしか私が中学生のとき、学校の国語の教科書に安岡章太郎の自伝が使われていた。安岡はその作品で、自分がいかに勉強のできない子供だったか、自分がどんなにだらしない人間なのか、を書いていた。彼はしきりに「俺はダメなやつだ」「劣等生だった」とくり返し強調するのだ。

 私はそれを読み、子供心に本当にハラが立った。

「でもさあ、あんた、小説家になってるじゃん」

「人生の成功者じゃないか」

 いくら「僕はあなたたちと同じようにダメな人間なんですよ」と言われても、説得力がないのだ。「インチキだろう、その物言いは」。とにかく私は子供ながらに不愉快だった。

 今でこそ当たり前だが、安岡の時代には「学歴だけがすべてじゃない」と言えばそれだけで、「こいつはトンガった奴だ」とされ、先進的だと称えられた。だから彼はそれを売り物にしてた。まあ本心でそう思ってたのかもしれないが。

 こういうのって、よくある話だ。

 メディアにのっかってる人物が、自分のダメ度をテレビや雑誌でアピールする。斜に構えて「いやあ、僕なんかどうしようもない人間なんですよ」と自嘲気味に語る。

 けれども彼はメディアに登場している時点で、成功者である。成功者であるがゆえに、自分の欠点をアピールすればするほど「かっこいいヤツ」になれる。「ダメであること」が、逆に武勇伝になる。

 これが一般人だとそうはいかない。自分の弱点を吹聴すればするほど、権威は失墜する一方だ。ホームレスの人が「僕はダメな人間なんですよ」なんて言ってもシャレにならない。つまり彼は成功者であることで、いくら自分を卑下しようと安全を担保されているわけだ。一種の欺瞞である。

 たとえば「朝まで生テレビ」で、「大学の問題点」をテーマに討論が行われたとしよう。すると出演者は口をそろえて、今の大学がいかに意味のないものであるか、また大学がどんなにくだらない機関に成り下がっているかを強調する。

 だが現役の受験生から見れば、「でもあんたら、そう言いながら東大出てるじゃないか」となってしまう。いっこうに説得力がない。つまり本当にダメな人は、既存メディアには出てこないのだ。これがリアルな世界のしくみである。

 一方、インターネットの世界はどうか? こっちは本当に「ダメな人」が情報発信している。

「僕は働くのがイヤだから、生活保護受けてます」。そんな人がブログを書いていたりする。「30代の独身・無職です。親元にいて遊んでいます」。こういう人とチャットでふつうに出会える。リアル世界より、こっちのほうがよっぽどエキサイティングで現実味がある。

 リアルな世界と、インターネット。果たしてどっちが「リアル」なんだろうか?

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みんなが書くことについてマジメに考える時代

2005-05-04 21:50:06 | メディア論
 ブログをあちこち見て回っていると、みなさんけっこう「どうすれば読む側を惹きつけられるのか?」について思案しているようだ。

「最新のニュースについて、続けて書いたらアクセスがふえた」

「テーマや文体を今風に変えたら、集客力が激増した。だけど自分が自分でなくなって、結局は行き詰った」

「半年乗り切れば固定客がつく。それまでのガマンだ」

 なかには都市伝説風の言説もあったりしておもしろいが、いずれにしろ悲喜こもごもである。みんなが「おもしろいと思わせる文章の書き方」をめぐり試行錯誤している。

 それにしてもこれだけたくさんの人が「文章を書くこと」について真剣に考えてるのって、ひょっとしたら日本という国始まって以来のことじゃないだろうか?

 たぶん第一波はネット利用が一般化し、みんながいわゆるホームページをもつようになって巻き起こったのだろう。「どうすればウチのホムペのアクセスを上げられるのか?」。管理人さんたちはいろいろ考えた。

 で、今度はブログの大爆発でそれがさらに増幅され、第二期「文章について考えます」ブームが到来している。まあ細かく言えばその間に、メーリングリストとかメルマガとかいろいろあったわけだが。

 ちょっと前に日本の子供の学力が下がった、というのが話題になっていた。だが一方、日本人全体の文章を書く能力は、かつてないほど飛躍的に上がってるんじゃないだろうか? 掲示板なんか見ててもおもしろい書き込みはよくあるし。いまや一億総コラムニスト時代なのだ(ちょっちオーバー)。

 ところが、である。検索してみると日本人の文章力のなさを嘆く批評はあっても、「書く能力が上がった」みたいな調査結果がどうも見当たらない。これってどういうわけなのだろうか? 

 たぶんいままで価値があるとされてきたような、「意味もなく難解」で読むのも苦痛に感じる論説文のたぐい(実は悪文)を書く若い人は、確実に減っているだろう。その意味では従来の価値観で見れば、「文章力が落ちている」と感じるのかもしれない。

 だが感覚的でわかりやすく、「おもしろいな」と感じさせる文章を書く能力は、まちがいなく全体に上がっていると思うのだが。みなさんはどう考えますか?
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プロが取材してブログに書くことはありえる(前言撤回)

2005-05-03 00:01:21 | メディア論
 書くことを生業にしている人間が、ブログのためだけに取材することはありえる──。私のようなフリーランスの文筆業者の立場で考えた場合の話だが。のっけから前回のエントリーで書いたことを否定している矛盾だらけな私である。いや、あれからイロイロ考えたんですよ、ない脳ミソを逆さに振って。で、こういう結論に至りました、はい。

 まず自分を振り返って懺悔しておきたい。

 前回はどうやら無意識のうちに、私はウケを狙っていたようだ。「身も蓋もないことをハッキリ書いて、ウケてやろう」。そんないやらしい心理が働いていたらしい。

 しかも自分でそのことに、なかなか気づかないでいた。自分で自分の本心を整理できていなかったのだ。4月25日に加筆修正したあたりで、「なんかおかしいなあ」と感じてはいたのだが。始末の悪いことである。

 そしてもうひとつはテーマの問題がある。前回取り上げた「たばこを切り口にして日本を語る」てなお題は、私にとって取材するだけのモチベーションを起こさせるものではなかった。やるかどうかはテーマによるのだろう。

「事実を明らかにして書こう」

 そんな衝動につき動かされ、取材して(商業媒体ではなく)ブログに書く。それがいったいどんなテーマなのかはわからない。だが、これはありうる。

 ちなみに前回のコメント欄でkanさんに教えていただいたブログ『Grip Blog 私が見た事実』さんの場合、ご自身のプロフィールによれば「ルポライターを目指している素人さん」らしい。

 プロを目指す素人さんなら、取材してブログに書くのは普通にありえるだろう。なぜならアピールして売り込まないことには、何も始まらないからだ。とはいえそのこととはまったく別に、彼女のブログを読み、何かピュアなものに触れた感じがしたのも事実だ。がんばってほしいと思う。

 一方、私が前回のエントリーでマナ板にのせたのは、それとは次元のちがう話だ。素人さんではなく商業媒体に書いている立場の人が、ブログのためだけに取材することはありえるのか? だった。で、前述の通り、それはありえるという結論に達した。

 なんだか今回はずいぶんベタで「まっとう」なことを書いてるなあ。ヒネりも何もないじゃないか(笑)。恥ずかしいので早々に撤退することにしよう。

 本日の結論。

「それはありえます」

(追記)私自身はフリーランスの文筆業者であるため、この文章は自分に引き付けて「フリーランスのプロならどうか?」を想定して書いた。ところがブログ「よろずもめごと論」さんからトラックバックをいただき、「フリーランスのプロ」を想定して書いた旨を説明していなかったことに気づいた。そこで冒頭に「私のようなフリーランスの文筆業者の立場で考えた場合の話だが」との文言を加筆した(5/3)。

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