すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

「面と向かって言えないことはネットで言うな」のウソ

2008-02-25 08:46:38 | インターネット
 アメリカ人なんて、日本人がとうてい面と向かって言えない本音を言い合っている。あと大阪人とか。

 その点、「和をもって尊しとなす」日本人は、直接相手に言いたいことを言ってない。

 ああ。
 
 てことはインターネットが日本人を国際化した、ってことか。大阪人はもともと国際人だしな。

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あなたのコメントが相手に火をつけるネットの原理

2008-02-16 18:15:26 | 仕事の日記
 ネット連載「松岡美樹の“深読みインターネット”」(ASCII.jp/アスキー)を更新しました。

■第7回 あなたのコメントが相手に火をつけるネットの原理

 ブログやSBMを使ったコミュニケーションでは、ちょっとした表現がもとで誤解が生まれやすい。自分にはそんなつもりはないのに、相手がキレて初めて、「ああ、そういう解釈の仕方もあるのか」てなことは多い。

 そこで今回は情報の送り手と受け手それぞれに関し、誤解が生まれるモデルケースや、曲解するときの人間の心理、またそれを防ぐ方法などを紹介する。

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筆者の問題意識が「ほかの記事も読んでみようか」と思わせる

2008-02-16 12:28:18 | へっぽこ文章講座
■あなたは自分の中に「仮説」があるか?

 前々回のエントリ『ホットな話題にリアルタイムでからむブログ力』では、アウトプットの速さとタイミングが重要だと書いた。

 ただしもちろん速いだけでは意味がない。記事に内容がなければ「仏作って魂入れず」だ。では記事の内容の高さって、いったいどこから生まれてくるのか?

 また私が書いた「話題を先読みするアンテナ力」とは、自分の中のどんな能力が作り出すのか? ブログ「DESIGN IT! w/LOVE」さんが、私の説をうまく補足してくださった。

僕は<火がつく前に先を読む>ためにも、<タイミングを逃さない>ためにも、結局、普段からどれだけ仮説をもっているのかが重要だということかと思っています。(中略)

あらかじめ仮説としての自分の視点がなくては、目の前に何か大切なものが提示されたとしても、その価値を見出すことはできないんです。つまり、普段からものを考えて、問題意識をもっていなくては、どんなに情報収集をしたところで、<ホットな話題にリアルタイムでからむ>なんてことはできないんだと思います。

自分の仮説=問題意識の文脈があってこそ、目の前にあらわれた金脈やダイアモンドの原石を発見し、それを自分で加工=編集してその価値を高めるアウトプットが出せるのだと思うんです。

●DESIGN IT! w/LOVE『最初にパッと<映像がしっかり浮かばない>と』


「自分の仮説」とは、言い換えれば自分なりの物語である。

 話題を予測し、いち早く言及記事を書くためには、ふだんから自分の中に物語がなければダメだ。つまり蓄積である。

 頭が白紙の状態なのに誰かの記事に言及しようとしても、アウトプットするまでに時間がかかる。タイムリーな話題に素早くからむには、記事を見つけた時点ですでに自分の中に蓄積がなけれならない。

■問題意識がスピードを生む「反射神経」になる

 そして「DESIGN IT! w/LOVE」さんは、文末をこう締め括られている。

結局のところ、いかに普段から頭を使って考えているか、ということなんだと思います。人間って、わかることしかわからないんですから。わかるための枠組みを事前に準備できているという前提があってこそ、<ホットなトピックにいち早くからむ>という反射神経につながります。
いろんなものごとに興味をもち、問題意識を組み立てられているかです。


 自分の中に問題意識や視点がなければ、話題の記事にからんでも内容のないエントリしか書けない。これでは単にアクセスアップを狙い、大手ブログのコメント欄に、自ブログのURL入りで意味のないコメントをするのと同じだ。

 そんな小手先のテクニックでは、読み手の心を動かし、「ほかのエントリも読んでみようか」という気にさせることはできない。たとえ「最大瞬間風速」的なアクセスがきても、読まれるのはその記事だけになってしまう。

 問題は、ほかの記事も読んでもらい、自分のブログ自体のお得意さんになってもらえるかどうか? なのだ。

 そのためには他人の記事に反応する時点で、ふだんから問題意識をもっておくこと。独自の視点がない記事は、読み手の記憶に残らないのである。

【関連エントリ】

『ブログを毎日書くとクリエイティブな思考が「クセ」になる』

『ブログを公開するには「あきらめ」が必要だ』

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ブログを毎日書くとクリエイティブな思考が「クセ」になる

2008-02-15 10:23:35 | へっぽこ文章講座
■ブログを続けて書くことの効能は?

 前々回エントリの関連であれこれ記事を読み、面白いものをたくさん見つけた。

 たとえば前々回のエントリでは、ブログの更新頻度と人気の関係について書いた。その流れで「ブログは気が向いたときに書くのがいいか? それとも毎日書く方がいいのか?」を考察した記事が読めた。

 毎日書くことの効能がわかりやすく述べられていて興味深い。

一般論的にいえば、
「毎日書く」ほうが圧倒的にいいのではないか、と思う。(中略)

毎日書く、と決めることで、
「何を書こうか?」という目線で物事を見るし、
そこから先へ進むと、何かに触れた時に、
「これってこう書けるな」とか思えるようになる


そこが無意識にできるようになると、
どんどん書けるし、
今まで考えが及ばなかったところまで、
自分の思考がまわるようになる

だから、圧倒的に毎日書いたほうがいい、と思っている。

●じだらく『ブログは書きたい時に書け論 vs ブログは毎日書け論』
(強調表現は松岡による/途中で改行した)


 書くことは、思考することとイコールだ。ブログを毎日書くようになると、思考がクリエイティブに回り続ける状態になる。私の体験でいえば、書けば書くほど日を追うごとにアイデアや視点がますます湧いてくる。

 アウトプットするとリソースが枯渇するのではなく、逆に1回アウトプットするごとに「次」のイメージが浮かんでくるのだ。

■内なる締め切りが「書くこと」を自動化する

 また自分で締め切りを設定することの効果も大きい。別に毎日ではなく「2日に1回」でもいいし、「3日に1回」でもいい。とにかくパターンを作り、自分の中で締め切りを作るのがポイントだ。

 たとえば私は「超」がつくほど怠け者だ。だから「ブログは書きたいときに書けばいいんだ」なんて考えてると、永遠に書かなくなってしまう(本当の話だ)。

 つまり締め切りが文章を書かせてくれるのだ。

 もうひとつ理由がある。

 まず「毎日書く」とか「3日に1回書く」てな感じでパターンを決める。で、続けると、それがクセになるのである。

 同じパターンの行動を一定期間続けると、「やりたくない」という思考より先にカラダが勝手に動いてしまう。いい意味で行動が自動化される。これは心理療法のひとつである行動療法の原理に近い。(詳しくは文末の「関連エントリ」参照)

 ブログを書くことに限らず、「わかっちゃいるけどできない」ことって多い。特に私みたいに怠惰な人間にとって、「やらなければいけないこと」や「やったほうがいいけど続けにくいこと」が自動化できるってすごく大きい。

 私の体験では、早ければ3日目、遅くても1週間後くらいにヤマ場がくる。それを超えると自動化される。禁煙と同じだ。まずは1週間続けてみるのがコツである。

 てなわけで文末の「関連エントリ」にも書いたが、私は昨年12月に「毎日書いてみる実験」を一ヶ月続けてみた。効果はテキメンだった。創造的な思考やイメージが毎日湧くようになり、メンタル面でもいい意味での高揚感が続いた。

 で、年末年始をはさみ、今回は2月5日に「またしばらく毎日書いてみよう」と決めた。目下、10日間続いている。

「何かネタはないか?」と苦しむこともないし、「書くのが面倒くさい」なんて思うこともない。

 思考とカラダがかなり自動化されてきたようだ。

【関連エントリ】

『「クセをつけろ」があなたの人生を変える』
コメント (3)
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ホットな話題にリアルタイムでからむブログ力

2008-02-14 17:31:22 | へっぽこ文章講座
■火がつく前に先を読む

「ネタが腐らないうちに書く」はブログの一大セオリーだ。これを一歩発展させれば、ホットなトピックにいち早くからむのが人気ブログの秘訣といえる。

 公開されて間もない、話題になりそうなエントリを見つける。そして火がつく前に記事で取り上げ、トラックバックやブックマーク・コメントなどで言及する。

 すると紹介した元の記事がSBMやニュースサイトなどで一斉に取り上げられた時点で、その記事と同時にあなたの記事も多くの人の目にふれる。

 なんだか他人のフンドシで相撲を取るような話だ。だけど人気ブログの筆者は狙ってこれをやってるんじゃなく、自然にふるまうとそうなるのである。

多くブクマを集めているブロガーは、注目されているエントリに対して言及する早さがすさまじい。すぐに自分の意見が表明できるようだ。それは、過去に言及したことが蓄積され、すぐに提供できる状態に熟成されていたからなのだと思う。

●THE HOME RUN SHOW『言及力の蓄積』


■タイミングを逃さないための3つの能力

 旬のネタに(火がつく前に)すばやく言及するには、大きく分けて3つの能力が必要だ。

【アンテナ力】

 常にネット上にアンテナを張りめぐらせ、話題になりそうなネタをウォッチする力。まずこれがなければトピックを発掘できない。

【オリジナリティ】

 他人がもたらした話題であっても、そこに自分なりの視点を提供する力。これがないと人と似たようなアウトプットになってしまう。結果、あなたの記事は埋もれてしまい、注目されない。

【フィルタリング力】

「このネタは必ず話題になるぞ」といち早く予測し、見分ける力。ポイントは、その記事が話題になる前に見つけ出し、言及することだ。

 たとえばAさんがある日の午前中に、「○○」をテーマに記事を書いた。で、あなたはその記事をほぼリアルタイムで読み、「このネタはきっと話題になるぞ」と予測したとしよう。そして同じ日の午前中のうちに、記事を紹介するエントリを書いたとする。

 一般にブログ記事がネット上で取り沙汰されるのは、公開された当日か、遅くとも翌日いっぱいだ。

 とすれば公開日の午前中に言及記事を書けば、Aさんの記事が評判になるのと同時にあなたの記事も読まれることになる。で、あなたの記事は話題の波に乗ることができる。

 いわゆる人気ブログの筆者は、無意識のうちにこれをやっている。だから言及が早いと言われるのだ。ちなみにアウトプットの速度を速める意義については、以下の記事が参考になるだろう。

『速度を速めるとゆっくりできる』(DESIGN IT! w/LOVE)
 
 ポイントはAさんの記事がネット上でさかんに読まれている最中に、あなたの言及記事がすでに存在していることだ。

 逆に多くの人がAさんの記事を読み終えたあとにトラックバックを送ったり、コメントを書いたりしても、あなたの記事が読まれる確率はグンと低くなる。

 火がつくのと平行して自分の記事が読まれるかどうか? このタイミングが問題なのだ。

【関連エントリ】

『ブログを公開するには「あきらめ」が必要だ』

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ブロガーに蔓延する「自分は能力があるのに認められない」病の論理

2008-02-13 08:58:55 | メディア論
■「評価されるべきものが認められない」は自分を慰める口実だ

「自分は才能があるのに認められない」

「能力を適正に評価されてない」

 これはいつの時代、どこの世界にもある人間ならではの煩悶である。

 承認欲求とそれが満たされないことへの怨恨は、「恵まれてしかるべきなのに恵まれない自分」の現状を説明する合理的な理屈はないかと探し始める。で、たどりつくのが、「そうかもしれない」と思わせる都合のいい論理である。

現在、ブログで人気エントリになるのは有名ブロガーのばかりだ。たとえ同じ内容のエントリを書いたとしても、知名度によって人気エントリになるかどうか大きく変わってくる。これが大多数のブロガーのモチベーション低下につながるのではないかなと、少し思うのだ。

●BLOG15.NET『ブログはこれからおもしろくなるのかな?』


「どんなにいい記事を書いても、無名ブロガーは人気エントリ入りするのがむずかしい。能力はあっても認められない。実力以外の要素で勝ち上がれる今の世の中はおかしいんじゃないか?」

 認められないのは自分に能力がないからじゃなく、常に世の中のせいなのだ。これってブログの世界に限らず、また今の時代だけの話じゃなく、いつの時代も人間が抱きがちな思いである。

■「人気エントリ入り」は読者獲得の絶対条件ではない

 たとえばこれと同じことは、はてなブックマークがスタートした3年前にも言われていた。はてブが始まったのは2005年2月だが、以下の記事はその3ヵ月後、2005年5月に書かれたものだ。論旨は上で引用した記事とほとんど同じである。

SBMのランキング機能は(中略)、SBMのユーザ数が少ない今でこそ有効に機能しているものの、今後ユーザ数が増えるに従って

・「注目されているサイトがますます注目される」

というベキ乗の法則に従うようになって、一度注目されたサイトはひたすらクリップされるけど、注目されないサイトは内容に関わらずいつまでも衆目に触れないということになってしまうのではないでしょうか? 

●無印吉澤『「同質的」という単語の意味 / SBMはロングテールの敵か?』


 確かにいったんSBMでブクマされる常連ブログになってしまうと、あまり面白いとはいえない記事にまで大量のブクマがつくことはある。その意味では、これらの記事の分析は一面事実である。

 だけどちょっと考えてみよう。

 まず第一に、これらの記事は「読者を獲得する上で、はてなブックマークは絶対的な存在である」という前提の上に立っている。だが読者を得るための手段は、別にはてブで取り上げられることだけじゃない。

 むしろ説得力を感じるのは、これらの記事より『ブログを始めてからアクセスが伸びるまで』(北の大地から送る物欲日記)の論旨の方である。

ここで、「同じ質の記事を書いてるのに、無名な自分の記事は人気エントリにならず、有名ブロガーの記事は人気エントリになるのはおかしい!」と言いたくなる気持ちはよく分かるが、有名ブログはどうして読者が多いのかを考える必要がある。

元々知名度の高い人がブログを始める場合もあるかもしれないが、多くの場合にはブログで過去に書かれた記事によって読者をじわじわ獲得してきた結果、有名ブログになってる訳で、ブログという場にたまった評価が上乗せ、いや、かけ算で効いてくる。(強調表現は松岡による/途中で改行した)

●北の大地から送る物欲日記『ブログを始めてからアクセスが伸びるまで』


■更新頻度と人気の高さは密接な関係がある

 もうひとつ、この記事はうなづける論点を提示している。それはブログの更新頻度と人気の関係だ。

ブログに新規参入した人が気づいていない、もしくは軽視しがちな部分として更新頻度がある。更新頻度が高い、特に毎日更新されるようなブログはアクセスが伸びやすい

数多く更新されることで常に新しい情報が得られることや、多くの記事があれば、ある読者にヒットする物も見つかりやすいという効果が思ったより大きいのと、過去記事に検索エンジン経由でやってくるアクセスがほんの少しずつではあるが積もり重なって、気づくと結構な量になっているというのがある。(強調表現は松岡による/途中で改行した)


 たとえば当ブログの昔からの読者の方ならおわかりだと思うが、私のブログは更新頻度がハチャメチャだ。やる気になれば頻繁に記事を書くけど、熱が冷めるととたんに書かなくなる。1年近く更新しない、なんてことも過去にあった。駄目ブログの典型である。

 そんな毎日だからよくわかるのだが、記事の更新頻度がスーッと下がると、アクセス数は潮が引くように落ちていく。数ヶ月単位で更新しない日が続けば、1日当たりのユニークIP数が200とか300なんて状態が続く。もうほとんど「ないも同じ」状態だ。

 ところが気が向いて毎日1本づつ欠かさず更新し始めると、これまた潮が満ちるようにアクセス数が上がっていく。で、いつのまにか元のレベルに戻る。

 いったんはゼロになり完全に見放された(笑)わけだから、このとき増えた読者は以前とまったく同じ読者層とは考えにくい。とすれば状況的には、初めてブログを書く人が新規参入したのに近い状態だろう。

 でもコツコツと毎日更新していれば、アクセス数が元に戻るまでにそれほど時間はかからない。(もっとも「戻った」といっても大した数字じゃないが)

 これは自分が記事を読む立場になればよくわかる。更新頻度が低いと、RSSリーダに登録しても意味がないからだ。

 ただでさえブログの総数はとんでもない。なのにたまにしか更新しないブログまで網羅していると、リーダへの登録数が膨大になってしまう。

 だから月に1回、120点の記事を公開するブログより、3日に1回、80点の記事を書き続けるブログの方が登録されやすい。そのぶん読者も獲得しやすいはずだ。

■はてブでアクセスしてくる人は、ほかのエントリは読まない

 はてブで人気エントリになると、ワッと一時的にアクセス数が増える。だから効果が見えやすい。で、「はてブで取り上げられること」は、読者獲得の必須事項であるかのように感じてしまう。

 だが一方、更新する頻度が人気につながる過程は目に見えにくい。だからつい軽視しがちだ。しかし前述の通り更新頻度って、ブログの人気度アップに計り知れない貢献をしているのである。

【本日の結論】

「はてブで人気エントリになること」は、読者を得るきっかけにはなっても決定的な要因にはなり得ない。第一に、はてブからアクセスしてくる人は、はてブで取り上げられた1エントリは読むが、ほかのエントリはほとんど読まない

 つまりブログ自体の読者になってもらうのって、そんな簡単なことじゃない。

 また第二の理由は、人気エントリ入りで一時的に読者が増えたとしても、その後、一定水準をクリアする記事を平均的なペースで書き続ける必要があることだ。

 なんせ更新頻度が下がれば、元の木阿弥なのだから。

(追記)私が利用しているgooブログのアクセス解析ツールは、記事を更新せず放置しておくと「300IPくらいで一定になる」という証言をekkenさんから得ました(『gooブログのカウンター表示は怪しいらしい』)。私も過去に、ekkenさんとまったく同じ体験をしました。で、その体験をもとに私が何気なく書いた「200~300IP」という数字が、誤解を受けているようなので追記しておきます(2008年2月14日)

【関連エントリ】

『ブログを毎日書くとクリエイティブな思考が「クセ」になる』

『ホットな話題にリアルタイムでからむブログ力』

『「クセをつけろ」があなたの人生を変える』

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ネガコメを元に自戒するとき、スルーするとき

2008-02-12 07:45:49 | メディア論
■「無意味なネガコメはスルー」が黄金の法則だ

 3回前のエントリでは、ブクマ・コメントを読む側の心理を分析した。、また2回前のエントリでは逆に、書く側の論理を客観的に考えてみた。

 で、まとめとして私の主観的な結論を言えば、過去にも何度か書いた通りだ。

【ご参考】 ※いずれもアスキー連載

『小倉さん、それでもスルー力は必要ですよ』

『スルーが効く理由(わけ)、効く場合』

 自分にとってプラスになるネガコメは取り入れ、単なるノイズはスルーする。それが黄金のセオリーです、って話である。

■ネガコメ耐性を上げよう

 この間、いろんな人がネガコメに言及するのを読んだ。で、だいたい冒頭に書いた通りの結論が出たんじゃないかと思う。

ネガコメは必ず自分のところに届くものなんです。
はてブを禁止にしたら、また別の手段でネガコメを届けるだけです。(中略)

だから、ネガコメを受け取りたくないという考えは諦めてください。
ネット上に記事を公開している時点で諦めてください。
だったら少しでもネガコメに押しつぶされないように
ポジティブな意見を受け取れるようにするのが良いのです。

●304 Not Modified『はてブネガコメを嫌がるアナタへたったひとつのアドバイス』


 自分の意見に反対する意見は必ず出る。だったらネガコメ耐性を上げ、押しつぶされないようにしよう。で、ポジティブな意見の方を取り入れましょう、って話だ。

■被害妄想に陥ると自分がソンだ

 一方、コメントの読み手が疑心暗鬼にかかり、書かれてもいないネガティブなニュアンスを読み取ることで、自ら傷つくケースを指摘したのが以下の記事だ。

 はてなブックマークのコメントは、(中略)より多くの人の本音に近いコメントを見ることができる。ただ、(中略)受け取る側のリテラシーが重要になってくる。

 コメントを書いた人が思ってもいないような内容まで過度に読み取ってしまうのは読み取りすぎ(過敏)だし、個別の判断で行動しているブックマーカーに集団的な悪意を感じてしまうのは自意識過剰だろう。

●北の大地から送る物欲日記『他者のコメントとつきあう方法』


 ネット上では情報の受け手の側が過剰反応し、自分でみずから泥沼にハマっちゃうことって多い。そこで一歩引いて冷静にリテラシーを発揮し、客観的に事態をジャッジすればことなきを得られるのである。

■ただの罵声は聞き流するのがコツ

 ネガコメには2種類ある。自分のためになる(が自分を否定している)意見と、単なる罵声だ。で、後者の無意味なネガコメに係わり、一喜一憂するなんて生産的じゃないぞと諭すのが以下の記事だ。

罵倒などはノイズである。バカとか言われても、そんな相対的な指標を基準を示さずに使用する奴が自分より賢いわけがない。(中略)ノイズに対して真剣に反応する必要はないし、(中略)嫌がらせのようなものをコメントと受け取ること自体、時間の無駄だ。

●novtan別館『ネガティブコメントがどうとか、その考えが既にダメっ・・!』

 
 ネガコメにいちいち傷つき、「はてブはもう見ない」とか「ネットはやめる」とか言う人はいる。

 だけどネット上に限らず、自分に否定的な意見は必ず出るものだ。傷つく人はナイーブなんだと思うけど、それを乗り越える強さも時には必要なのである。

【関連エントリ】

『「はてブはネガコメが多い」と言われるのはなぜか?』

『はてブにマイナス・イメージを持つ人がいるのはなぜか?』

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ブログの「関連記事」は3本までにするのが読まれるコツだ

2008-02-11 08:23:11 | へっぽこ文章講座
■拾う文章と捨てる文章をフィルタリングする人間の認知システム

 いまやブログやSNSの記事は洪水のように氾濫している。その上、SBMや個人ニュースサイトからは、絶えず読むべき記事が流れ込んでくる。こうなると情報を集めることより、いかに捨てるか? が重要になってくる。

 で、人間はこんな自動フィルタリング機能を備えている。

ネット上である程度の長文を読むとき、無意識に一定範囲の文章を選択したり非選択にしたりしている。選択すると色は反転するわけだからそこを強調して読もうとしているのかというと、別にそういうわけでもない気がする。でも、読んでいるところの前後を含めて選択したり外したりしているので、読む作業とは何らかの関係がある気もする。

●kokokubeta;『ネットで文章を読むときの癖』


 これは確かに私も無意識のうちにやっている。「選択した文章」だけを精読し、ほかの部分はナナメ読みして「次のブログ」へ行くのだ。だって順番待ちしてる読むべき記事が、ほかにもたくさんあるんだから。

■表に出す情報を「いかに絞るか?」がコツ

 てことは読まれるブログを書くためには、表に出す情報をいかに絞るか? が重要になる。たくさん読んでもらおうと欲張り、あれもこれもになってしまうと、逆にどれも読まれずに終わってしまう。

 典型的なのが、ブログ記事の文末などにつける「関連エントリ」だ。「この記事と関係のある記事はこれとこれだから、ぜひそっちも読んでください」というアレである。

 ブログを書く側としては、「せっかく自分が書いた記事だ。1本でも多く読んでもらいたい」というのが人情である。

 だけど読む側の論理でいえば、読むべきものはほかにも山ほど待機している。なんせ彼は日夜、津波のようなRSS攻撃を食らっているのだ。1秒だってムダにはできない。

 そんなところに5本も6本も「関連記事だ」と表示されても、「じゃあ読もう」って気にはならない。それどころか逆効果である。

 切迫し、脊髄反射な心理になってる読み手に向かい、5本も6本もサイン(関連記事)を出すと拒否反応しか返ってこない。たちまち「彼」は逆方向に反応し、「全部まとめて読みません」という選択をしてしまう。

 つまりたくさん表示しすぎると、逆に1本も読まれない可能性が高まるのだ。

■3本以内の関連記事なら全部読まれる可能性も

 とすれば読んでほしい自分の気持ちをグッと抑えよう。

 関連記事は、本当に自信のある3本までに止める。

 これならそのうち1本が読まれる可能性は高まる。目に飛び込んでくる「3本以内」の記事数が、急ぐ相手に心のゆとりを与えるからだ。で、「これなら読もう」と、運がよければ3本全部読んでもらえるかもしれない。

「急いてはコトを仕損じる」は、ネット上でも有効な普遍の法則なのである。
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はてブにマイナス・イメージを持つ人がいるのはなぜか?

2008-02-10 11:12:59 | メディア論
■読み手じゃなく書き方が悪い場合もある

 前回エントリ『「はてブはネガコメが多い」と言われるのはなぜか?』では、「はてブにはネガコメが多い」と感じる人の心理を客観的に分析した。

 書いたのはあくまで読み手に関する分析だ。そこで今回は少し視点を変え、情報の受け手の側の心理に加えて書き手の問題も掘り下げてみる。

■「批判されるのがガマンならない」人は異論を嫌う

「ネガコメが多い」てな印象論に代表されるように、はてブにマイナスイメージをもつ人は存在する。じゃあいったいそれはなぜなのか? 理由は大きく3つに分類できるだろう。まず受け手の側の問題からだ。

 いちばんありそうなのは、ブックマーク・コメントで自分の記事に異論を唱えられ、それを不愉快に感じるケースである。で、はてブをネガティブに捉えてしまう。自分とは異なる意見を受け入れられないために起こる悲劇だ。

 無用に挑発的で礼節を欠く表現でもない限り、コメントで反対意見を述べるのは正当な行為である。異論コメントを書かれたせいで、はてブに否定的な感情をもつのは正しい態度とはいえない。

■短く言い切る断定調のコメントはキツイ印象を与える

 ブクマ・コメントは文字数制限のせいで、短く言い切る断定調にならざるをえない。こういう表現は往々にして、読み手にキツイ印象を与える。断定調の短文は、「強い調子でヒステリックに言い立てている」と受け取られることも多い。

 だから本人にそんなつもりはないのに、「この人は自分に敵意があるんじゃないか?」などと誤解されることもある。

 また文字数制限に起因する類似のケースとして、「私はあなたの意見に反対だ」という結論部分だけしかコメントに書けない問題もある。つまり思考した過程を相手に説明できないため、記事の筆者がコメントの意見に納得しにくいのだ。

 論拠が示されず、「反対だ」「まちがっている」と結論しか書いてなければ、だれだって反対意見を受け入れにくい。それどころか反感を覚えるのが自然だろう。こういうコメントの書き方は、相手に意味もなく不快感を与えてしまう。

(だから字数制限をなくせ、という意味ではない。文字数に見合う種類のコメントを書けばいいだけの話だ)

 そこで私は対策として、論拠を十分に説明できないと判断したら、正当な異論であってもなるべくブクマ・コメントには書かないようにしている。そんなときはブログで記事にすればいい。

■コメントが揶揄や嫌味まじりになってしまう

 次が問題のケースである。読んだ記事とは異なる意見を、ブクマ・コメントに書き込んだ。ここまではいい。だがそのコメントが揶揄するような表現だったり、嫌味まじりだったりすれば相手は当然反感をもつ。

 たとえばブクマ・コメントを、自分のためだけのメモ用として書く人はけっこういる。もちろん正当な使い方だ。

 だけどそういう書き方をしている最中には、「そのコメントが広く公開・共有されていること」や、「記事の筆者本人もコメントを読む」んだってことが頭から抜け落ちていることがある。

 で、誰も読まないチラシの裏に書く感覚で、揶揄や嫌味を付け加えてしまう。そうでなくても人に読まれることを意識してなければ、ぞんざいな言葉遣いになるのはよくあることだ。

 また他人に読まれることを意識している場合でも、気がつくとコメントが何の気なしに揶揄や嫌味まじりになってる場合もある(自戒も込め)。もちろん嫌がらせのためにそう書いているなら論外である。

 同じ異論を述べるのでも、表現のしかた次第で生産的な議論になったり、罵詈雑言を投げ合う引き金になったりする。快適なコミュニケーションを成立させるには、「書き方」って重要なのだ。

【本日の結論】

1. はてブにマイナス・イメージを持つ人がいるのはなぜか? 理由のひとつは、単に「自分がコメントで批判されたから」。自分と異なる意見を受け入れられない人は、異論を聞くと感情的な反応をしがちだ。

2. 逆にコメントを書く側の問題もある。ひとつは文字数制限により、相手に反対意見を示すとき「結論だけ」しか書けないケースだ。論拠を示さない書き方は、相手の共感を呼びにくい。

3. またコメントが揶揄や嫌味まじりになっている場合も、説得力が低くなる。意味もなく反感をもたれ、相手が異論を受け入れにくい。

4. コメントの論旨は正しくても、表現のしかたひとつで不快感を与えることもある。快適なコミュニケーションを実現するには、書き方に気をつけることは重要だ。

【関連エントリ】

『ネガコメを元に自戒するとき、スルーするとき』

『「はてブはネガコメが多い」と言われるのはなぜか?』
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「はてブはネガコメが多い」と言われるのはなぜか?

2008-02-09 11:05:40 | メディア論
■賛同のブクマはしても、コメントを書かないケースは多い

 人間のネガティブな思考は、強いエネルギーをもっている。だからネット上で人物や意見に否定的な感情をもつと、ことあるごとに「彼」に対して嫌味や揶揄を連発するようになる。いわゆる「粘着系」の行動だ。

 これは特に意見を表明するための敷居が低いネット上では、よく起こる現象である。

 それに対して「好感をもちました」とか「おもしろかった」、「気に入りました」程度のポジティブな感想は、コメントとして発露しにくい。「思い」が負のエネルギーほど強くないから、単にブックマークしただけでコメントを書かずに素通りすることも多い。

 よっぽど「感動した」「強く賛同します」的な気持ちが湧いた場合を除き、わざわざポジティブな意見をコメントに書くことは案外少ない。

■9つの「無言ブクマ」より、1つのネガコメが印象に残る

 このネガ・ポジ比較論は、『はてブネガコメを嫌がるアナタへたったひとつのアドバイス』(304 Not Modified)を読んで浮かんだものだ。

 文中で筆者のまなめさんは、ネガティブな意見のインパクトについてこう分析する。

私も一人のブログ書きとして
99の賛同より1の反論の方が心に響いちゃうってのは分かるつもり。
そして、ネガティブな意見に同調した人がぞろぞろやってきて
ネガコメで埋まってしまうって状態もはてブではたまにあるからなんとも言えないけど。
人ってのはどうもネガティブな意見の方が書きたがるんだよね。(強調表現は松岡による)


 加えて冒頭に書いたように、記事に好感をもってもコメントは書かずにブクマするだけって例は多い。

 すると10個ついたブクマのうち、9つは賛同の意味だがコメントがない。唯一ついたコメントがネガコメだった、なんてケースも頻発するようになる。

 この場合、記事の筆者には、たった1つのネガコメが強く印象に残るだろう。

 その結果、筆者には「イヤな感じ」のほうが植えつけられる。記事に賛同する意見はステルスであることが多いのに、否定的な感想はコメントとして可視化されてるんだから当然だ。

■意見を否定された感情的な反発が「ネガコメ多い」論を生む

 もうひとつの要素はまなめさんも書いてる通り、「支持する意見」と「否定する意見」に対する情報の受け手の心理に落差がある点だ。

 人間は圧倒的に、自分を否定されたときのほうが心に残る。もちろん「おもしろい」と言われれば気分はいい。だが、「この記事のどこに価値があるかわからない」などと評されたときのショックとくらべれば格段の差だ。

 だからネガコメは記憶に刻み込まれる。で、「はてブはネガコメばかりだ」という印象論が多くなる。

 そんな人間の感情の動きと、印象論を生む構造を指摘したのが以下の記事だ。

これらの問題は、「気分が悪い」というごく私的で感情的な問題だ。そこに客観的な正しさを持ち込んだところで気分の悪さは消えるものではない。嫌なもんは嫌なもんなのだ。(中略)

実際はネガティブじゃないのにネガティブばっかりと思う人が結構いるということは、何か原因があるのだろうから、そこから見ていかないと駄目なんじゃないかなあ。

●Prepared Mind『「実際どうか」よりも「どう感じるか」が大事』


 たとえネガコメの内容が「客観的な事実」を指摘するものであっても、受け手の側はそれを快か不快か? の主観で判断する。で、感情的に反応する。いわゆる「気を悪くする」というやつだ。

 そして今日もまた「はてブは不快だ。ネガコメばかりだ」という印象論が再生産されるのである。

【本日の結論】

1. 最近またもや、はてブのネガコメ是非論が話題だ。だけどネガコメって実は数そのものは多くない。

2. なのになぜ「はてブはネガコメが多い」と言われるのか?

3. それは記事の筆者から見て「ポジティブなコメントより、ネガコメのインパクトの方が強いから」である。

【関連エントリ】

『はてブにマイナス・イメージを持つ人がいるのはなぜか?』

『ネガコメを元に自戒するとき、スルーするとき』

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ネット上で公共性はありえるか?

2008-02-08 12:18:52 | メディア論
■パブリックな精神は自律的に生まれる

 ITジャーナリストの佐々木俊尚さんは著書「フラット革命」の中で、『「公共性の見えない世界へ』という節を立て(P209)、「フラットな社会の中で、公共性は保証されるのか? インターネットは公共性を保証できるのか?」と問題提起している。

 私は「公共性がそこにある状態」って別に誰かが与えてくれたり、システムが保証してくれるものじゃなく、「自分で勝ち取るもの」だと考えている。もっといえば、ネット上でそれは自律的に形成されて行くというのが私の結論だ。

■公共性って「アーキテクチャー」が作るのか?

 佐々木さんは同じ節の中で、2006年12月に筑波大学で開かれたパネルディスカッションの1シーンを紹介している。会場で質疑の際、ある大学院生がこう質問した。以下、同書から引用する。

たとえばアフリカの飢饉や内戦といった情報や理論を伝える媒体は、これまではマスメディアが担っていたんですよね。それがインターネットのような媒体が拡大していき、逆に旧来のマスメディアが市場を占める割合が少なくなってしまうと、社会貢献が困難になってくると思います。そういう場合、公共性はだれが担っていけるんでしょうか?

●佐々木俊尚・著「フラット革命」(P211)


 そしてパネリストの1人だった佐々木さんは、この質問に答えている。佐々木さんの結論は私の考えに近いんだけれど、ちょっと気になるのは回答の途中に出てくる以下の佐々木さんの表現だ。

だから集合知が実現すれば、アフリカに行く人も出てくるでしょうし、それまで興味を持っていなかった人がアフリカのことを知ることも可能になる。
 だから問題は、そうした仕組み--人々が関心のない問題に対してもきちんと接することができて、それに対して何らかの知見を得られるようにできるようなアーキテクチャーを、インターネット上でどれだけ実現できるかにかかっているんです。

●同書・P212より引用(強調表現は松岡による)


 ここでいう「アーキテクチャー」とは計算して作った仕組みのことではなく、「自然にそうなる社会構造のありよう」のことを指しているのだろうか?

 もしそうなら私の考えに近い。ただ新聞出身のジャーナリストらしいなあと思うのは、「自律」が本質である集合知を語っていながら、何ものか他者が人々を導き、よき方向へと「向かわせる」かのようなニュアンスを感じさせる点だ。

 別に佐々木さんを批判するつもりはないが、この発想って<たとえ人々の関心がなくても新聞が「それ」を報道し、人々を啓蒙し、教え導くんだ>というのとルーツが同じであるような気がする。

 それを作るのはシステムや技術、アーチテクチャーじゃなく、自律的な「人間」そのものだと私は考えるのだが。

■インタラクティブなコミュニケーションが証明したネット上の公共性

 それならインターネット上で、公共性はどこでどんなふうに発生し、形成されているのだろうか? 具体論に移ろう。

自分のエントリーは、たぶん、アウトプットした時点で自分のモノじゃないんだと思ってます。
そこにコメントがついたりして、いろんな人の手垢がついて。
そしてしばらくたって、それを(検索してきた人とかが)見たときに、
「ああー、こりゃ集合知だわ」っていう1つの話題ができあがってるんじゃないかなと。

●Attribute=51『Web 2.0での上手な発信方法』(行間を詰めた)


 文章をアウトプットした時点で「自分のものじゃなくなる」と自覚することは、すなわち公共性を意識するということである。いや正確には、たとえ意識してなくても結果的にそうなる(後述)って話だ。

 で、自分が書いた文章やコメントが他人と共有され、自分だけの所有物じゃなくなる事実を考えることから、だんだんこんな意識が生まれてくる。

「いま自分が書いてることは、みんなの利益にかなうか?」

「他人が読みやすい書き方(=公益)を心がけよう」

「ウケる(=人の役に立つ)情報を発信しよう」

 こういう感覚は、ネット上に広がるバーチャルな「公」を意識すると自然に出てくる。もちろん公を意識しながらあえて私的なことを書く人、ケースもあるし、また繰り返しになるが、意識はしてないけど結果的にそうなる場合も多い。

■「自分のため」が「他人のため」になる

 こうした感性は別に「Web 2.0だから」とか、いまあらためて新しくできたわけじゃない。昔からあったものだ。

 ブログやSNSなどのコミュニケーションは、相互に意思や情報をやり取りするインタラクティブな要素が強い。だから他者との接点がふえ、そのことがネット上に存在する公共性をひときわ目立たせているだけだ。

 たとえば掲示板文化が華やかりし頃、板に集う人にはパブリックを意識する感覚があった。(これはいまのQ&A掲示板にも引き継がれている)

「ADSLが開通したけど速度が出ません」

 そんな質問があると「あなたのRWINはどうなっていますか?」とか、「もし接続が切れるなら、家の保安器が6PTの初期型じゃないですか?」てな感じで、自分のトクになるわけじゃないのにみんなが手間をかけてレスをする。

 他人のことを考え、他人のためにと手間を惜しまず回答するわけだ。

 もちろん自分の知的探求のためとか、「オレにはこんなに知識があるんだぞ」と自己顕示欲を満足させるために回答する人もいるだろう。だけどインターネット上では、そんな自分のためにした情報発信が他人のためになることって多い。

■公共性はインターネットの属性だ

 またパブリックを意識すれば、「他人のために回答する」というだけじゃなく、掲示板を使う場合のあらゆる立ち居振る舞いについて公共性を考えるようになる。

 たとえば「適当なところで改行したほうが閲覧者は疲れない」(これも公益だ)てな書き方の問題から始まって、「質問する前にはまず過去ログを読む」(リソースの節約と他の閲覧者に対する配慮=公益)とか。

 あるいは「この論点はここの掲示板ではまだ出てないから、一度書いておけば閲覧者全体の利益になりそうだ」などなど。そこに集う人々が能動的に、そのコミュニティにおける公共性の維持・確保と公益を考えるようになる。

 今回はたまたま掲示板文化の例をあげたが、過去を振り返ればメーリングリスト文化にしろオープンソース文化にしろ、パソコン通信文化にしろ、こうした公的な感覚や概念はネット上では継続してあり続けた。

 冒頭の話にもどると、「発信した文章は自分だけのものじゃなくなる」(=公共性を帯びる)というテーゼはWeb 2.0特有のものじゃなく、インターネットの属性だって話である。

 それは別にアーキテクチャーやシステム、技術がそうさせてるんじゃない。そこに集う人間自身が、自律的に生み出しているのである。

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ブログを公開するには「あきらめ」が必要だ

2008-02-07 10:14:52 | へっぽこ文章講座
■アウトプットするには2つの難関がある

 ブログ記事を書いて投稿するまでには、2つの大きな難関がある。

 1つはネタを考えつくまでの産みの苦しみ。もう1つは「もっとよくなるんじゃないか?」と思いながら書きあがった記事を、思い切って公開する踏ん切りだ。

 前者については、ネタが思いつかなければ誰かの記事に反応することから始めてみるといい。創造物にインスパイアされ、他人の思考(記事)への感想から書き始めるのだ。すると自分にしかない発想って、案外、あとから湧いてくる。

 だが問題は後者である。

■完全主義者タイプは読ませるのをためらう

 世の中には2種類の人間がいる。

 完全主義者と、そうでない人だ。

 何か行動するに際してあまり構えない人は、気軽に何でもやってみることができる。トライ・アンド・エラーで、走りながら考えることが可能だ。だからサクッと記事を投稿するのもわけはない。

 だが走る前にあらゆる要素を熟慮してからでないと、スタートできない人もいる。完全主義な人である。

「半分くらい書いたが、なんかイマイチだな」

 そう考え、また冒頭の導入部に戻っていじり始める。

「ひと通り書き終えたが、このネタはもっと面白くなるはずだ」

 いったいどこが悪いのか? 何度も推敲しては各部分を修正する。あげく、現段階の原稿が果たしてベストなのか、だんだんわけがわからなくなってくる。

「とりあえず原稿を保存しておき、寝かせてから明日また読んでみよう」

 こうして書きかけの原稿ばかりがたまっていく。

 そうこうしているうちにタイミングを逃し、せっかくタイムリーだったネタが腐ってしまう。

■「公開してから完成させる」というブログ時代の新発想

 紙の媒体とくらべ、消費のサイクルが速いブログ記事は、内容もさることながらスピードが命だ。「書き直せばもっとよくなるはずだ」と思っても、思い切ってアウトプットしてしまう勇気も大切である。

 完全主義者はとかく、「非の打ち所のない最高のものを作ってみんなを驚かせよう」なんて考えるもの。

「パーフェクトなパッケージを作り、完成したらあとは見てもらうだけだ」

 だがその発想はブログには合わない。

 記事をいったんオープンにしても、あとから書き直すなんていくらでもできる。逆に読んだ人から感想をもらい、それに触発されて新しい何かを書き足すのだってOKだ。読み手とのコラボレーションって、いかにもブログらしい。

「完成されたパッケージを作る」というのは、そもそも紙の媒体しかなかった時代の発想だ。

 適当なところで見切ることも、ときには必要なのである。
コメント (1)
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池田信夫さんはOpenIDでOKなんですね?

2008-02-06 11:19:28 | 実名・匿名問題
■OpenIDやgooIDなどを列挙し推奨する池田さん

 ヤフーが1月30日、OpenIDに対応して「おっ」と思わせたが、実名派の巨頭と目されていた池田信夫さんはOpenIDを支持しているらしい。

松岡氏もDan氏も勘違いしているが、完全匿名の補集合は完全実名ではない。OpenIDでもいいし、当ブログのようにgooIDでもいい。diggやSlashdotのようにメンバーどうしで格づけして悪質なコメントを隠すしくみもあるし、Boing BoingのようなIDと事前承認の2段構えもある。何もしないと、日本のウェブは芸能情報とオタク情報で埋め尽くされるだろう。

●池田信夫 blog『ウェブを「匿名の卑怯者」の楽園から脱却させるには』(2008年2月5日付)


 匿名主流だとウェブが芸能&オタク情報ばかりになるというのはよくわからないが、池田さんは完全実名派ではなくOpenIDでOKなんですね?

 ちなみに私はgooブログを使っているので当然IDも持っているが、池田さんはgooIDでも「是」らしい。

 現に池田さんは2月1日付のブログ記事で、「今後はgooIDでログインしないとコメントできない仕様にしました」と宣言されている。

 その上で「確信犯は防げないので、どの程度、効果があるかは、やってみないとわかりません。ただ『実名か匿名か』という不毛な論争の妥協点になる可能性もあるので、テストしてみます」とお書きになっている。

 またこの記事では以下のように、OpenIDに対する支持も表明されている。

私は、実名や特定のIDを法的に強制することには反対です。OpenIDのようなシステムを多くのサービスが採用することによって「自生的秩序」が形成されることが望ましいと思いますが、今のところOpenIDはまだマイナーなので、gooIDでやってみます。

●池田信夫 blog『gooIDについて』


■「IDが穢れるから中傷が防げる」は、私が主張する原理とまったく同じだ

 ところで池田さんは上記の記事で、gooIDを使う効果について「これによって口汚ないコメントをしたら自分のIDが汚れるというreputationを意識するようになるでしょう」としている。(強調表現は松岡による)

 加えて私も連載しているアスキーのASCII.jpでも、2月5日付のコラムでこうお書きになっている。

 最近いくつかのサイトで採用され始めた「OpenID」は、複数のウェブサービスにおいてログイン時のID入力を簡便化するための認証システムになる(関連記事)。これがウェブ全体で使う「固定ハンドルネーム」的になれば、口汚ない発言をするとIDの評判が落ちるので、自分の評判を守るようになるだろう。(強調表現は松岡による)

●池田信夫の「サイバーリバタリアン」『第2回 ウェブを「匿名の卑怯者」の楽園から脱却させるには』


 主旨としては、私が3年前にエントリ『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』で書いた「いつも使うハンドル」支持論、および、それが暴言を防ぐ原理とまったく同じなので、ちょっと驚いた。

 私のエントリの該当箇所を引用しておく。

 たとえばAさんがいつも使っているHNで、どこかのサイトに罵詈雑言を書いとしよう。その「どこか」はAさんの巡回先である可能性が高い。

 すると似たようなサイトを巡回しているAさんのネット上の知り合いが、それを目にする可能性は高い。「Aさんて、電波だったのね」。そんなふうに思われ、友人をなくしてしまう。つまりネット上における世間体が歯止めになるわけだ。(中略)

 たとえ実名に紐付けられてなくても、いつも使っているHNはネット上で実名と同じ機能を果たす。趣味などを通じてAさんが築いたコミュニティとAさんは、HNで結び付けられている。

 罵詈雑言を書いたせいでHNが穢れてしまえば、Aさんはかけがえのない自分のコミュニティを失う危険性がある。これはリッパに抑止力になるだろう。

●すちゃらかな日常 松岡美樹『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』(2005年5月17日付)


■それなら「はてなID」もOKなのでは?

 発言者が誰なのか? を示す何らかの記号が存在し、それが同じ発言者であることを継続して担保することにより、誹謗中傷が防げる──この点において、池田さんと私の主張は何ら変わりない。

 またこれら一連の記述から池田さんは、<発言者の同一性が保持・継続されるならシステムは問わない>とお考えになっているようにも思える。

 とすれば「はてなID」や、はてなIDを使ってブクマ・コメントするはてなブックマークでもOKなんじゃないか、と感じるのだが、どうなんだろうか?

【ご参考】

『はてなでOpenID』(はてな)

『OpenID入門――その導入で何が変わって何が変わらないのか』(ITmedia)

『OpenIDの仕様と技術』(@IT)

(追記)話をわかりやすくするために、文末に参考資料を付けた(2008年2月6日)

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インタビューがJ-CASTニュースに載りました

2008-02-05 16:14:22 | 仕事の日記
 J-CASTニュースからインタビューを受けました。テーマは誹謗中傷問題と実名・匿名です。(遅ればせながらご報告まで)

文筆家の松岡美樹氏に聞く ネットでの誹謗中傷問題(下) 気軽に参加の匿名 ネットの発展につながる(J-CASTニュース)

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