すちゃらかな日常 松岡美樹

すちゃらかな視点で世の中を見ます。

地獄は、それを見た人間でなければ語れない

2005-09-29 00:54:50 | 禁煙・タバコ
 私は1日にずいぶんたくさんのブログを読むが、圧倒的なエントリーに出会ってしまった。いままで読んだなかで、まちがいなくいちばん刺さった。圧巻だ。

あざけり先生、台風きどり「禁煙ファシズム発動(大事な人に押し付ける)」

 The ノンフィクション。事実の重さ。「それ」を目の当たりにしたヤツじゃなければ、絶対に切り取れないもの。

 後半の「鬼太郎」君のくだりは、世の中に存在するあらゆる「フィクション」を駆逐してしまっている。

 私は1日にタバコを3箱吸うが、たったひとりで死んでいこうと思う。
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参加型ジャーナリズムと「衆愚」のあやうい関係

2005-09-25 21:05:07 | メディア論
 ちょっと前にブログ「~大ブロ式~」さんからご指名でトラバをもらってたんだけど、反応しそこねてた。で、2点に絞って反応してみる。1点は「参加型ジャーナリズム」なるものが、いわゆる衆愚に陥る可能性について。もう1点は民主主義と衆愚のあやうい関係についてだ。

 まず初めにお断りしておくが、私自身はことさら「ジャーナリズム」なる言葉を使う気はあんまりないし、それについてうんぬんするつもりもない。このエントリーはあくまで「~大ブロ式~」さんのトラバに対するリアクションだ。

 さて「~大ブロ式~」さんの『ソーシャルブックマークこそが(市民)参加型ジャーナリズムである論』を読むと、「~大ブロ式~」さんが考える発端になったのは、私が湯川さんの「参加型ジャーナリズム」にツッコミを入れたエントリーを読んだのがきっかけらしい。

 で、以下、2点だけ、みんなで考える材料を作るために、あえて問題提起をしておきたい。田原総一郎風にいえば、「あえて暴論を言います」ってやつだ(笑)。

【1】~大ブロ式~『(1)「ジャーナリズム」の定義』

 だがより本質的に考えるなら変わっているのはジャーナリズムの「定義」ではないのだとオレは思う。変わっているのは基準やそれを決める主体の方だ。

そして今言われているジャーナリズムの変化が本当に変革と呼べるような大きなものであるのなら、そこで変わろうとしているのはまさしく「主体」の方であると考えられる。

・「誰が」情報の格付け、優先順位を決めるのか

問題はここだ。

そしてここまで考えればライブドアの堀江社長の言った「価値判断はユーザーがすべきだ」というのは正しくジャーナリズムに対する革命的な言葉であった事が分かる。
 ほりえもんさんのこの言説に対しては、私は以前書いたエントリーですでにツッコミを入れてるので、そちらをご参考に。内容が重複するから、ここではカンタンにまとめておこう。

 まあそりゃユーザー自身が情報の優先順位を決める、って方法もアリだとは思うよ。だけどそうなると必然的に、私が上記のエントリーで書いたように最大公約数のネタが誌面にならぶことになる。でも私自身は「みんなが同じように興味のあるお題」ってあんまり読む気がしない。

「いま、韓流がホットですよぉ」とか、「モヒカン族と非モテが、いまやネット界じゃトレンドになってますよぉ」なんていわれても興味がわかないのだ。

 もうひとついえることは、テレビや雑誌はもう十分に、いかにもユーザー自身が「価値がある」と判断しそうなテーマで作られてる、ってことだ。つまりマスコミの商業主義である。

 ブロードバンド・コンテンツといえば、どこもかしこも韓流を大々的に取り上げるし、実際にそういう紙面構成・サイト構成をした媒体が売れる。2月になればそこらじゅうがバレンタイン・デー特集だらけだし、これから10月になったら温泉特集なわけよ。見ててみな、必ずそうなるから(笑)。

 で、こういう造りの媒体が現実に「売れる」というのは、すなわちユーザー自身が価値判断をしてそれを「買ってる」ってことなわけだ。

 つまり現状は、たまたま編集者やらライターやらがメディアの側にいてコンテンツを作ってるわけだけど、内容的にはもうゲップが出るほどユーザー自身の価値判断にもとづいて誌面が作られてる、ってことね。だって現にそれで「売れてる」んだから。

 ゆえに「価値判断はユーザーがすべきだ」というほりえもんさんの言葉って、別に革命的でもナンでもない。というよりむしろ彼の発言は、とにかく人気のあるテーマを扱って売れる部数をふやそう(商業主義)=すでにいまマスコミが採用している既定路線の拡大再生産にすぎない。

【中間まとめ】

 メディア側の最大の関心事は、売れるかどうか? である。彼らは売れるものを作るために、ユーザーに支持されそうなテーマ選び、切り口の設定をする。売れるとはすなわち、ユーザー自身の価値判断そのものにほかならない。

 政治家は有権者の「映し絵」である、って言葉がある。それはマスコミだって同じだ。メディア側があたかも、ユーザー自身の価値判断とは異なる何かを作っているかのように感じるのは、大いなる幻想である。

 次は第二のポイントだ。

【2】~大ブロ式~『(2)はてなブックマークは(市民)参加型ジャーナリズムである』

 ここで改めて一番最初の記事の湯川さんへの松岡さんの突っ込み「質を問うことと誰もが平等に参加できる事の矛盾」に答えたいです。要するに

誰もが参加できるジャーナリズムとはソーシャルブックマークの事である。そこでは基本的には誰もが平等に一票の影響力を持つ事ができる。だが「たくさんブックマークされる記事」やそれを書く人は極わずか。そこでは当然にして質が問われる。
という事。(まぁ質が高いから多くブクマされるわけではないのだけど)

これで何の矛盾もないと思うのだけどどうだろうか。
 はい、矛盾はないです。

 ただし私の個人的な意見を言えば、「誰もが参加できるジャー○○ズム(あえて伏字)」って、実はインターネットそのものなんだけどね。私の考えでは。

 それからおっしゃる通り、「はてブ」も「人気ブログ・ランキング」のたぐいと同じく、必ずしも質が高いものにたくさんの点数がついてるわけじゃない。この点にスポットを当て、最後にひとつだけ問題提起しておこう。

「~大ブロ式~」さんや湯川さんのマスコミ民主化理論を突き詰めていくと、必ず「衆愚なるものが抱える問題点」に行き着く、ってことだ。これって民主主義の永遠のテーマみたいなもんで、私の知る限りじゃカンタンな処方箋はない(あったらゴメン)。

「参加型ジャーナリズム」って要するに、大マスコミ(資本家)が独占しているジャーナリズムの世界に共産主義革命を起こし、ジャーナリズムを民衆(労働者階級)の手に取り戻そう、みたいな話でしょ? たとえていえば。つまりジャーナリズムの民主化みたいなことだよね。

 で、革命を起こしたあとに、人々はジャーナリズムを民主主義にのっとって運営しようとするわけだ。ところが民主主義による意思決定っていうのは、最終的には多数決になる。もちろんその前提として、いろんな意見をもつ人々があれこれ議論したあとで決を採るわけだけど。

 さてここで民主主義と衆愚のあやうい関係が浮上する。これは民主主義につきまとうパラドックスみたいなものだ。

 たとえば100人中、99人の人が「韓流はおもしろい」ってことになれば、誌面は民主的に韓流一色になる。99人が「10月だから温泉に行きたい」と考えれば、誌面は同じく民主的に「温泉特集一色」になる。

 そういう画一的な世界って、おもしろいの? てな話である。

 で、そんな状況を打ち破るのがインターネットなわけだが、この話を続けると以前書いたことの繰り返しになるのでここではふれない。興味がある人は以下のエントリーをお読みいただきたい。

『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』

「主義」と名のつくものに、完全無欠なものなんてない。民主主義って絶対的な真理だと思ってる人も多いだろうけど、民主主義にも必ず弱点はある。それが衆愚に陥る可能性だ。

 チャーチルいわく、「民主主義は最悪のシステムだ。しかし、それ以外のどのシステムよりもましだ」。要はそういうことなのである(どういうことだ?)。

 話をわかりやすくするために、極端な例をあげよう。仮に100人中、99人がこう考えたとする。

「オレらの国は、いま経済が傾いてるよなあ。こりゃもう戦争をして植民地を作るしかテがないわ」

 これで民主的に、戦争が始まる

【本日の結論】

 世の中には、絶対的な真理なんてない。だからつねに疑う心をもて。目の前で繰り広げられてる言説は、はたして「正しい」のか? 自分の頭を使って、客観的に考えろ。

 それこそが、ジャーナリスティックな生き方である。
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ファンクラブ志向と議論志向──SNSとブログにみるコミュニケーション・ギャップの原理

2005-09-21 21:30:00 | メディア論
 SNSとブログのちがいは何か? mixiに代表されるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、「あいづちコミュニケーション」の世界だ。趣味や職業、価値観が同じ人たちがコミュニティに集い、「うんうん、そうだよね」と他人にあいづちを打つ。一方、ブログの性格はトラックバックが象徴している。ブログは自分の意見を表明し、トラバを使って「あなたはどう思いますか?」と問いかけるのに向いている。つまり議論志向である。

 まずmixiとブログを機能のちがいで分析してみよう。

 mixiでは「プロフィール」がとても重要な意味をもつ。プロフィール欄には「趣味」、「職業」、「自己紹介」、「好きな映画」、「好きなスポーツ」、「好きな音楽」などの細かいカテゴリーがある。で、ユーザはそれぞれのカテゴリーに自分の嗜好をくわしく書き込む。

 ユーザはプロフィール欄で「自分はこんな人間です」とキャラクターを明かし、自分の「好き」をずらりとならべるわけだ。

 そして他人のプロフィールを見て歩き、自分と同じものを好きな人を探す。その人が気に入ったら日記にレスをつけたり、メッセージを送ったりする。

 あるいは「同じ職業の人」や「同じ業界の人」を見つけて情報交換したり、仕事上のネットワークを作ろうとする。

 おかわかりだろうか? mixiのキーワードは、「同じ」、「好き」、「共感」なのである。

 mixiの「コミュニティ」機能はその典型だ。mixi上では、「私は○○が好きだ」、「オレはこう考える」などをテーマに、ユーザが自分好みのコミュニティを作る。で、設定されたテーマに賛同する人だけが、そのコミュニティに加入する。当然、コミュニティのメンバーには、価値観の大きなちがいはない。

 任意のコミュニティに集う人たちは、「○○はいいよねえ」、「うんうん、オレも好きなんだよなあ」と、人と同じであることの幸せをわかちあっている。「好み」を媒介にしてみんなが共振しているわけだ。

 つまりmixiではすべてのコミュニケーションが、同じものを好きな人同士のあいづちをベースに成立している。いわば「ファンクラブ志向」のコミュニケーションである。

 リアルの世界における例をあげよう。たとえばAというミュージシャンのファンクラブがあったとする。ここにはAというミュージシャンを好きな人だけが集まる。ファンクラブにおいては、「Aはすばらしい」という定義が絶対的な真理である。

 当然、「オレはAがきらいだ」なんていう異論や、価値観のちがいを唱えるヤツはいない。そもそもファンクラブはそういう場ではない。

 この「同じ」と「共振」を接着剤にしたコミュニティのあり方は、日本の社会構造にとてもよく似ている。おらが村で尊ばれるのは、なにより和の精神である。波風を立てないことが重視され、意見がちがえば議論ではなく、調整型(談合)の政治で解決される。

 mixiはとっても日本的なシステムなのだ。

 じゃあ一方、ブログはどうか?

 ブログの最大の特徴はトラックバックだ。「オレはこう思う」と自分の考えをハッキリ書き、引用元のブログにトラバを打つ。あるいは同じテーマを論じているブログにトラバを送る。

 このとき送られるトラックバックは、かならずしも賛同の意味であるとはかぎらない。

 もちろん、「あなたが書いていることに私はこう共感します」というトラバも送られるだろう。またブログだってmixiと同じように、嗜好が同じ人たちがコミュニケーションすることはできる。

 だけどブログの世界はmixiとちがい、同じ価値観の人だけが集まる閉じたコミュニティじゃない。

 だから当然、こんなトラバも送られる。

「あなたはこう書いているけど、私の考えはちがいます。私はあなたと異なり、△△は○○だと思います。この私の考えに対し、あなたはどう思いますか?」

 ここで議論が生まれる。トラックバックという機能は、議論をするのにとても向いているのだ。

 mixiがファンクラブ志向のメディアであるのに対し、ブログはいろんな価値観の人が化学反応を起こす議論志向である。ただし正確にいえば、「議論をする」という性質がワン・オブ・ゼムとして備わったツールである、ということだ。

 とすればこんな結論になる。

 同じ価値観を他人と共有したい人にはSNSが向いている。逆に以前のエントリーでも書いたように、異なる価値観をたがいに持ち寄り議論することで、自分がいままで想像もしなかったような新しい発見をしたい人はブログをやればいい──。
(※もちろんこれはどっちが正しい、どっちがまちがっている、という問題じゃない。人間同士のコミュニケーションやリレーションシップに何を求めるか? のちがいにすぎない)

 ところがコトはそうカンタンにいかない。mixiは、だれかの紹介がなければ入れない敷居があるシステムだ。

 一方のブログは、だれでもカンタンに立ち上げることができる。おまけに世間では、「ブログがすごいブームだ」ってことになっている。「じゃあオレもやってみようか」と思うのが自然だろう。

 で、本来ならばmixi的なファンクラブ志向のコミュニケーションが向いている人、またはそういうコミュニケーションをしたい人が、SNSとブログのちがいをハッキリ意識することなく、ブログで情報発信するようになる。

 だから議論志向のブログをやっていながら、こんな考えをもつ人も出てくる。

【言説A】「ブログでは価値観のちがいを表明してはいけない」

 これはファンクラブ志向の典型だ。こうした心理には、日本的な慣習も影響している。自分の考えを表明すれば、ムラ社会に「波風が立つ」からだ。

 こう考える人にとっては、議論はただのモメゴトの種にすぎない。ゆえに「他人の意見に合わせるのが正しい」という選択をし、mixi的な「あいづちコミュニケーション」をする。この行動原理は、生産的な議論が苦手な日本人が編み出した生きるための知恵といえるかもしれない。

【言説B】「○○が好きだ、というのはその人の自我そのものだ。それに異議を唱えるのは、相手の人格を傷つけることになる」

 客観的なものの見方をする習慣がない日本では、こんな発想をする人が多い。「○○が好き」であることと、「自分自身」を分けて考えられないからだ。「○○が好きであること」を自我から切り離し、「○○が好きな自分」を外側から客観的に見られないのである。

 このタイプの人は、「単なる嗜好」にすぎないものが常に自我と同一化している。だから「自分の好きなもの」を否定されると、あたかも自分自身が傷つけられたかのように感じてしまう。
  
 話をまとめよう。【言説A】や【言説B】はファンクラブ志向の発想だ。日本人に多いこのタイプの人がブログ上で意見対立すると、生産的な議論になりにくい。客観的なものの見方に慣れてないために、自分の「意見」や「嗜好」を、自我とは別のものだと認識できないからだ。

 で、異なる価値観に出会うと、主観的な感情の波に飲み込まれる。気を悪くする。その結果、誹謗中傷やあげ足取り、あるいは議論に勝つことだけにこだわってしまう。なぜなら「自分の考え」が自我と同一化しているこのタイプの人にとって、議論に勝つことは自我を守ることを意味するからである。

 ブログ上の議論で精神的なダメージを受けるのは、とても不幸なことだ。本来なら傷つく必要もないことに、傷ついてしまっているからだ。

 だがものごとに対する認知の仕方や思考法を変えれば、異論をぶつけられたってなんでもない。自分とはちがう意見を感情的にならずに受け止め、冷静にロジカルな議論ができるようになる。【言説A】や【言説B】のような発想に陥りがちな人は、自分自身を外側から客観的に観察することから始めてみてはどうだろうか。
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マスコミ殺すにゃ刃物はいらぬ、広告なければタダの人

2005-09-20 11:19:06 | メディア論
 私は以前のエントリーで、「世の中に存在するほとんどの商業雑誌は、広告がなければ経営的に成り立たない」と書いた。それを象徴するかのようなイベントが9月27日にある。山岡俊介氏のブログ「ストレイ・ドッグ」によれば、大学教授と弁護士が外国特派員協会で、「セブン-イレブンは税法・商法違反だ」などとする記者会見を開くという。巨大な広告主であるコンビニをタブー視する日本のマスコミ相手じゃ話にならん、というわけだ。

 山岡氏によれば、会見を開くのは北野弘久・日本大学法学部名誉教授と中村昌典弁護士の2人。くわしくは山岡氏のブログをお読みいただきたいが、要点はこうだ。

1 「セブン-イレブン・ジャパン」のフランチャイズ契約には問題がある。

2 加盟店を騙し、利益を吸い上げるシステムだ(不当利得=ピンハネ、商法違反等の疑い)。

3 ところが同社は日本のマスコミにとって巨大な広告主である。

4 またコンビニの店頭で売れる出版物の数も膨大だ。

5 ゆえに日本のマスコミは、コンビニの問題点を報道しない。

6 日本のマスコミじゃお話にならないから、外国特派員協会で記者会見しよう。

 コンビニのフランチャイズ・システムは、あちこちで問題点がささやかれていた。要は本部側だけが儲かり、フランチャイジー(加盟店)はやせ細る構造になっている、ってお話だ。

 しかしまあ、「日本のマスコミはアテにならないから、外国特派員協会で記者会見を開く」とは、またずいぶん日本のマスコミも恥をかかされたものである。

 大昔の瓦版屋みたいな時代とちがい、現代のマスコミが広告依存体質なのは周知の事実だ。たとえば雑誌に限っても、純粋に購読料だけで食えてる媒体なんて探すほうがむずかしいだろう。

 すると当然、広告のクライアントを慮った自主規制が行われる。あるいはクライアントから実際に圧力がかかれば、媒体の発売前に記事の内容を変える。もちろんすべての媒体がそうだってわけじゃないが、こういう構造が常態化してるのは事実である。

 ただし私の個人的な意見をいえば、杓子定規に広告そのものを否定する気はまったくない。広告と編集のバランスをいかに取るか? がメディア経営のキモだと考えている。

 私は20年ほどフリーランスで駄文を書き散らしているが、いままでクライアントがらみで記事を書き直したことが2回ある。1回は編集長自身の判断による自主規制だ。「お上からお達しが下った」わけである。

 一方、残る1回は、書かれた側が掲載媒体のクライアントを通して圧力をかけてくる、てなよくあるパターンだった。

 後者のケースでは、担当編集者のAさんがその場で突っぱねた。その上で私に対し、「松岡さんはどうしたいですか? (筆者である)松岡さんがしたいようにします」という。ちなみにAさんはこの件に限らず、私が20年間で組んだ膨大な数の編集者のうちベストテンに入る優秀な人物である。

 Aさんはだれに相談することもなく、自分の責任において先方の要求を拒否した。で、いま、「松岡はどうしたいのか?」と問いかけている。報道言論の自由だの検閲がうんぬんという大層な問題以前に、Aさんのこの言葉からは、筆者である私に対する配慮を強く感じた。

「あなたに書き直すつもりがないのなら、私はあなたといっしょに戦いますよ」というメッセージなのだ。

 もちろん本音をいえば、私は記事を書き直したいわけがない。だけどもし自分の意思を通せばどうなるか? Aさんは社内的にのっぴきならない立場に追い込まれるのはあきらかだった。で、私は自分の意思を飲み込んでこういった。

「私は特にこだわりはないですよ。Aさんはどう考えていますか? Aさんの判断におまかせしますよ」

 Aさんにボールを投げたのだ。

 そもそも私がそのとき書いた内容は、別に社会悪を追求するものでもなければ、世の中に重要な問題提起をするテーマでもない。たいした話じゃないのである。単に「書かれた側にとって都合が悪い」ってだけなのだ。

 私はそんなことよりも、Aさんの身を案じた。「筆者である松岡さんがしたいようにします」というAさんの言葉だけで、私にはもう十分だった。

 ひょっとしたら「ジャーナリスト」としての私は、あのとき死んだのかもしれない。だけど私はそんなちっぽけなことよりも、Aさんに生き残ってほしかったのだ。

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リーダーのユーモアは国民の脳をマッサージする

2005-09-18 15:32:30 | 社会分析
 政治家にかぎらず、人を惹きつける強力なツールになるのがユーモアだ。人間の脳は、長ったらしく平坦なスピーチや文章には反応しない。ジョークは会話に起伏を作り、相手の脳に刺激をあたえる。人間のコミュニケーションをなめらかにするのが「ユーモアのセンス」なのだ。

 子供のころ、私は「ナポレオン・ソロ」というスパイ・アクションドラマに夢中だった。ロバート・ボーンとデビッド・マッカラム主演のTVシリーズである。60年代後半のことだ。

 この「ナポレオン・ソロ」、なにがいいかっていうと、とにかく全編にユーモアのセンスがあふれてる。といっても別にお笑い番組じゃない。秘密諜報員である主役の2人が、悪の組織「スラッシュ」と戦うお話だ。

 たとえばロバート・ボーンとデビッド・マッカラムが、すごい人数の敵に囲まれて孤立した。もう逃げ道はない。絶体絶命のピンチだ。はたして彼らはどう切り抜けるのか? ところがここで「彼らがまず何をするか」っていうと、ジョークを言うのだ。

「奴さんたち、こんなに人数をくり出してくるんじゃ、残業手当てが大変だな」

 このセリフは、周囲の人間にどんな心理的効果をあたえるか? 

 まず第一に、「オレはこんなピンチなんか、屁とも思ってないぜ」という強いメッセージを伝えることができる。このセリフを聞いた周りの人間は、「こいつは窮地に陥ってるのに、ぜんぜん動揺してないぞ」と感じるはずだ。

「この男についていけば助かるかもしれない」

 彼に対する信頼感希望が呼び覚まされる。

 絶体絶命のピンチに陥ったとき、「そこでジョークを言えるかどうか?」人間の器がわかるのだ。

 さて「ナポレオン・ソロ」の主役のふたりを、別の人物に置き換えてみよう。政治家(特に民主党の代表)、企業の社長、プロジェクトのリーダー、サッカーチームのキャプテン、学生サークルの代表──。なんにでも応用がきく。

 もちろんジョークはピンチのときだけでなく、ふだんの会話をスムーズに進めるための潤滑油にもなる。

 たとえば話し相手と険悪な雰囲気になったとき、さりげなく放ったおもしろいジョークが相手の心の鎖を解く。場はとたんになごやかになり、コミュニケーションがなめらかになる。

 また相手の注意をひきつけることも、ユーモアの最大の効能のひとつだ。

 長ったらしく起伏のないスピーチは、聞く人間を退屈させる。スピーチは冒頭の5分で、「いかに聴衆の心をつかむか?」がポイントだ。

 そこでまず最初に、スピーチのテーマとからめたジョークを一発かます。すると聴衆は敏感に反応し、「おや? この人はおもしろそうだな」、「話を聞いてみようか」という心理になる。スタートダッシュで人の心をキャッチできれば、あとはもう「どうにでもしてくれ」状態である。

 アメリカの大統領がスピーチするときには、「ジョーク・ライター」があらかじめ原稿を書いておくことがある。それだけユーモアの重要性が認識されてるわけだ。

 ところが残念なことに、日本ではユーモアの地位はかなり低い。「真剣な場なのに冗談を言うなんて不謹慎だ」。こんなふうに受け取られるお国柄だ。

 だけどアメリカやイギリスなどの欧米諸国では、「ユーモアのセンスがあるかどうか?」が、リーダーにとって重要な要素だと考えられている。

 イギリス人のジョークは大陸性のアメリカとちがってシニカルなのだが、そこがまたとってもおもしろい。

 象徴的なのはイギリスの元首相・チャーチルだ。彼は有名なジョークをたくさん残しているが、第二次大戦中にイギリスが危機に見舞われた最中にも、ジョークを連発し続けた。国民はそれを聞いて勇気づけられ、「このオッサンについていこう」と感じたわけだ。

 国家が緊急事態に突入したとき、国民は国のリーダーを注視する。彼はパニックに陥ってないか? ちゃんと精神のバランスを保っているか? 

 欧米の指導者はジョークを言うことで、そんな国民の不安に答える。ピンチをユーモアで笑い飛ばし、それを乗り越えるためのエネルギーをあたえる。

 ウソだと思うならこの本を読んでみてほしい。海外のリーダーが実際に残したジョークがたくさん収められている。超おすすめだ。
(※アフィリエイトではありません)

「リーダーたちのユーモア」
村松増美・著(PHPビジネスライブラリー)

 著者の村松さんは英語同時通訳の第一人者だ。国際舞台で政治家等の通訳を長く務められた。海外の要人とも数多く接している。

 私は取材で何度か村松さんにお会いしたことがあるが、お話を聞いて海外と日本の指導者像のちがいを実感させられたものだ。

 ユーモアは知性の証明である。知的でなければおもしろい冗談なんていえない。

 また当たり前の話だが、ジョークは即興で発するものだ。瞬間的に場の空気を読み、飛び切りのジョークが言えるなら、その人物は状況判断や意思決定が速く、分析力にもすぐれていることになる。

 あるいは相手が杓子定規なカタブツなのか、それとも柔軟性のある人間なのかも、ユーモアを解するかどうかで推し量れる。

 日本人がリーダーの条件に「ユーモアのセンスがあること」を取り入れるのは、いったいいつになることやら。まだまだ日本は国際化がたりないなあ。

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政権交代が起きない日本というシステム──自民と民主の「新・55年体制」が始まる

2005-09-17 05:54:59 | 政治
小泉劇場が炸裂した。「日本ではもう永久に政権交代は起こらないのか?」、「2大政党制なんて実現しないのでは?」。今回の圧倒的な選挙結果を見て、こうお嘆きの方も多いだろう。だけどそもそも返り血を浴びながら敵の大将の首を取りに行く本気度100%の対抗軸が育たなきゃ、2大政党制なんて夢のまた夢だ。自民・主演、民主・助演の「新・55年体制」が始まる予感がするのは私だけだろうか?

 19世紀、イギリスの歴史学者であるJ・E・アクトンは言った。

「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」

 昔は別の意味で別の相手に言われることが多かったこの言葉を、いまや自民党に対して言わなきゃならない状況である。

 権力に対する対抗軸がダメっぷりをさらし続け、いつまでたっても政権交代が起きないからだ。

 もし世の中に普遍的な真理があるなら、政権交代なんていらない。1つの体制が恒久的に「正しい政治」をし続ければ、原理的にはその政権だけあればいいってことになる。

 だけど残念ながらこの世には、普遍の真理なんてありえない。だからそのときどきのイシューで民意が割れたら、それにもとづき多数決の原理で政権交代が起こるのが健全だ。

 まずこの前提に賛成できない人とは、たぶん議論にならないだろう(笑)。以前のエントリーで書いた教条主義ってのは、右にも左にも同じように存在する。

「その政権の質や内容なんてどうでもいいから、とにかく右寄りの政権が続いてほしい」

「その政権の質や内容なんてどうでもいいから、とにかく左寄りの政権が続いてほしい」

 こんなふうに考えてる人と、私は議論する気になれない。それは政治というより宗教だからだ。

「神様は存在する」と信じ、頑なに主張する人に向かって「神様なんていないんじゃないの?」と語りかけることほどむなしいものはない。単なる時間のムダである。

 ん? でもやっぱり納得できない、って?

 じゃあ、まずは歴史のおさらいをしよう。2大政党制による政権交代はなぜ必要なのか? 大幅にはしょるからツッコミどころ満載だろうが、ブログなんだからしょうがない。議論の前提をハッキリさせるためだ。

「ウザいよ」って人は以下の【復習】の部分はすっ飛ばし、その先から読んでほしい。

--------------------------------------------------------------
【復習 2大政党制・待望論はなぜ起こったか?】

 むかしむかしあるところに、「55年体制」てのがありましたとさ。その体制下では自民党が政権を握り続け、野党の第一党は旧社会党だった。だけど社会党には政権を取る気なんてサラサラなく、ひたすらツッコミ役に徹し続けた。

 国対(国会対策委員会)政治の裏取引でモノゴトが決められ、意思決定の経過がコクミンの目に見えない。そんな与野党のなれ合いが定番化した。野党は表じゃ自民党を批判するフリはするけど、政権を取る気がない。その実、裏では与党と「談合」してる。そんな状態がずっと続いた。

 彼らは右手で相手を殴る演技はするけど、左手では握手してたわけだ。

 そんな野党の「協力」で自民党政権は固定化した。利益誘導型政治の弊害やら汚職やら、権力が動かないことで生まれるいろんな歪みが生まれた。

「絶対的な権力が絶対的に腐敗した」わけだ。

 コクミンはそのありさまを見て、政治に期待するのをやめた。特に無党派層はその典型だった。

「選挙なんかに行ったって、どうせ世の中は変わりゃしない」

「与党と野党がなれあってるんだから、このまま何も変わらないんだ」

「この馬に乗れば世の中が変わる」と直感すれば、無党派層は動くものだ。2回前のエントリーで例にあげたように、今回の選挙や、土井さんの旧社会党が躍進した1989年の第15回参院選がそのいい例だ。

 反対に「どうせ変わらない」てな厭世観が定着すれば、無党派層は決して行動しない。「55年体制」が生み出した最大の弊害は、動かない無党派層を作ったことだ。

 こんな「55年体制」の反省から(もちろん理由はそれだけじゃないが)、90年頃に「このままじゃヤバいんじゃないか?」って議論が活発になった。そこで出てきたのが「2大政党制を作ろうぜ」論だ。

「このままじゃ政権交代は起きない。大きな2つの政党が闊達に議論し、そのときどきのイシューによって政権が変わるシステムが必要なんじゃないか?」

 この流れで、死に票は多いけど2大政党制を作りやすい小選挙区制(小選挙区比例代表並立制)が、1994年に導入された。こいつが初めて使われたのは、1996年の第41回衆院選挙からだ。

 民主党が結成されたのは、まさにこの年(1996年)である。

 ※厳密にはその後、1998年に野党4党が合流して現・民主党が生まれた。

----------------------【復習】はおしまい--------------------------

 ふう疲れた。さてここまでで、すでに異論がある人もいるだろう。

「今回の選挙結果を見てみろ。民意が議席数に反映されてないじゃないか。小選挙区制度は見直すべきだ」

 そう考えてる人もいるはずだ。

【ご参考】

毎日新聞「衆院選:自民圧勝、得票率と議席数がかい離する小選挙区制」

 だけどこの言説には根本的な疑問がある。

 今回、民主党が政権交代を実現できなかったのは、選挙制度が悪いからなのか? そうじゃないだろう。話はもっとカンタンだ。

 人々は小泉さんに魅力を感じた。

 一方の民主党は魅力的じゃなかった。

 こういうことじゃないの? ハナ水が出るくらい単純な理屈だと思うんだけど。だって民主党が小泉さんをはるかに上回るほど人々を惹きつける存在だったなら、過半数を取れるはずじゃない? それが取れてないんだから議論の余地はないだろう。

 もちろん小選挙区制は死に票が多く、民意が「議席数」に必ずしも直結しないって論点で語るなら、前述の言説にも議論の余地はある。ていうか、どんな選挙制度がいいのか? に関しては大いに議論すべきだろう。

 だけど民主党が政権を取れなかったのは、選挙制度のせいじゃないことだけはあきらかだ(当たり前の話だけど)。だからこのエントリーでは、選挙制度自体の問題は「次の議題」として保留にしておく。論点がいくつもあったらややこしいだけだ。

 今回の選挙結果は本当に自民の大圧勝なのか? それとも選挙システムが作用して大圧勝に見えているだけなのか? 

 私はそんな議論にはあんまり興味がない。それよりもなぜ日本では政権交代が起きないのか? を考えるべきじゃないか?

 正直、民主党は今回の敗戦で右と左に党を割り、カンバンをすげかけて出直すのかと思ってた。だけどどうやら新代表を選び、まだ続けるらしい。

 9月17日(土)の両院議員総会で、新代表を選出するという。立候補したのは若手・中堅に推された前原誠司さん(43)と、菅直人さん(58)=前代表の2人だ。

 この原稿を書いてる当日に選挙があるんだからあんまり意味ないが、一応、前原さんと菅さんに対する私なりの寸評を書いておこう。

【前原誠司さん】

<出馬にあたっての前原さんの主張>

1 民主党が郵政民営化関連法案の対案を出せなかったのは、労組の影響だ。

2 労組や業界団体と意見が合わない場合は、ハッキリものを言うべきだ。

3 年功序列や利益集団とのしがらみを断ち切り、新しい党運営をしたい。

4 人事は徹底した能力主義で行い、民主党を「闘う集団」にしたい。

5 自分は党内の各グループに、組織としての選挙応援は依頼しない。

 なるほど前原さんが言ってることは、すべて正しい。かつ前原さんは私が以前、エントリー「なぜ日本では議論が生まれにくいのか? ──議論とケンカのメンタリティ」で書いたように、自分の考えをハッキリ言える人物のようだ。こういうタイプの人はマトモな議論もできるだろう。

 だけど前原さんの大きな弱点は、線が細いことだ。ひとことで言えば、知的で「正しい人」。だけど人生の機微や苦労を知らない優等生のおぼっちゃん、みたいな感じだ。

 これなら河村たかしさんのほうが、はるかに人間的な魅力がある。これは冗談ではない。ユーモアのセンスがあるかどうかは、リーダーにとって大きな要素なのだ。日本ではユーモアって重視されないが、海外、特にアメリカやイギリスでは、ユーモアがわかるかどうかが人間の器をはかる尺度になっている。

 さて、私はいま「イメージ」だけで前原さんの印象を書いた。もちろん前原さんが本当にそういう人物かどうかは知らない。だけど人間は見知らぬ人と会ったとき、まず相手から受けるイメージでその人物を認知するのがふつうだ。

 選挙になれば私と同様、有権者は最初にイメージで判断する。その次が政策である。前原さんはこの点で、見る者にあたえるファースト・インプレッションが弱い。

 民主党はこれから返り血をあびながら、敵の大将の首を取りに行かなきゃならない立場だ。前原さんはそんな修羅場で血糊にまみれたとき、はたして動揺せずに相手の首をかっ切れるのか? 

「民主党は闘う集団にならなきゃダメだ」という前原さんの問題意識は、まったく正しい。でもイメージだけで判断すれば、その前原さん自身が本当の意味で「闘える男」なのかどうかが見えない。もちろんそれは本人が実際に党代表になったとき、自分自身の行動で証明すればすむ話だが。

【菅直人さん】

<出馬にあたっての菅さんの主張>

1 不幸な人をなるべく作らない「最小不幸社会」をめざす。

  (2は前原さんと同じ)

3 中央官庁を解体・再生する。

 1は、小泉流の「勝ち組優先・自由主義」に対抗したものだ。だけど岡田さんの「日本をあきらめないで」と同じく、やっぱり菅さんもネガティブな発想にもとづいている。

「輝ける未来」をめざすんじゃなく、「負ける人」を少なくしよう──。

 足し算ではなく、引き算の思想なのだ。この受身の姿勢はいかにも野党的である。政権奪取のニオイがしない。もちろん社会的なセーフティネットを作るのは大事だ。だけど菅さんは社会保障制度を作るために、党代表になるのだろうか?

 菅さんがしゃべるのを私が初めて見たのは、1980年代後半頃に放送された「朝まで生テレビ」だった。当時、菅さんはまだ社会民主連合(1994年に解散)にいた。

 朝ナマで菅さんが話すのを初めて見た瞬間、「この人はすごいな」と感じた。菅さんの発言はとても論理的で知性を感じさせた。そしてなによりバランス感覚が豊かだった。

 以後、「朝まで生テレビ」に菅さんが出るたびに、私は発言を注視するようになった。私のなかでは80年代後半からずっと、「注目の人物」のひとりだった。1996年に菅さんが民主党代表(2人代表制)として、第41回衆院選を迎えるまでは。

 1996年に菅さんは厚生大臣になり、薬害エイズ問題で当時の厚生省にキツイ一発を食らわせた。世間は彼の行動に快哉を叫び、人々の支持と信頼を一身に浴びた。

 ところが……。その同じ年に行われた衆院選を迎えるにあたり、菅さんはマスコミに向けてこう言った。

「今度の選挙では、政権交代は争点にしない」

 私はわが耳を疑った。当時の菅さんには、薬害エイズ問題でまさに世の中の支持が降り注いでいた。いってみれば今回の選挙における小泉さんと同じ状態だ。いまやらずにいったい、いつやるというんだろう? いますぐ動けばひょっとしたら首相になれるかもしれないのに。

 あの発言を聞いたときの衝撃は、いまでもハッキリ覚えている。政権交代をめざして生まれた民主党の代表が、しかもわが身に張った帆に「風」をありったけ受けているのに「政権交代は争点にしない」という。「ああ、この人じゃダメだな」。私は思った。

 政治は、どう世の中にうねりを作るかが勝負だ。そのためには意思決定が大胆で速いこと、そしてなによりタイミングを見分ける目が死命を制する。あれから約10年がたったいま、もし菅さんが今回代表になったとしたら……はたしてもう一度うねりを起こせるのだろうか?

 さて、民主党はこの前原さんと菅さんの二択だ。しかも民主党は郵政民営化関連法案の対案を出せなかった失着だけでなく、いままでに何度も致命的なミスを犯している(そもそも結党時のメンバー構成自体が矛盾の固まりだ)。

「民主党じゃ、いつまでたってもラチがあかない」

 無党派層の票で勝負が決まった今回の選挙では、こう考えて小泉さんに投票した人も多いだろう。コクミンはバカじゃない。いつまでも気長に待ってくれると思ったら大まちがいだ。

 サッカーでは、1試合で1人の選手に2枚のイエローカードが出れば、その選手は退場になる。結党以来、民主党に今まで出ているイエローカードは2枚どころじゃない。もしサッカーの試合ならとっくに退場になっていてもおかしくないくらいだ。

「政権交代を実現する」

 口で言うだけならだれにでもできる。

 政権交代が起きない日本というシステムの不幸は、与党に対する対抗軸がかつてはあの旧社会党、いまは民主党であることかもしれない。この2つの政党がダブって見えるのは私だけだろうか?

 想像するだけで慄然とするが……自民党・主演、民主党・助演による「新・55年体制」の足音が聞こえるのは私だけだろうか?

 空耳であってほしいものだが、そうならないためにも民主党に2つだけ注文をつけておきたい。

 まず今回の選挙で自分たちはなぜ負けたのか? 敗因を徹底的にマーケティングすることだ。

 たとえば民間企業が社運をかけた商品を開発し、市場に投入したとしよう。だがその商品はまったく売れなかった。結果、会社は一気に倒産しかけてる。そこでふつうならどうするか?

 なぜその商品は売れなかったのか?

 消費者(有権者)ニーズにどうマッチしてなかったのか?

 徹底的に分析し、そのデータをもとに消費者ニーズに合った新しいコンセプトを立案するはずだ。そしてコンシューマの心に刺さる切り口を考え、次こそは売れる新商品を作ろうとするだろう。

 いったいどこの世界に「売れなかった理由」を分析もせず、社長の首だけすげかえて「なんとかなるさ」とタカをくくる企業があるだろうか? もしあったとしたらその企業は早晩、市場から退場することになるだろう。

 もうひとつ、注文がある。

「リメンバー・2005」を党の合言葉にし、額縁に入れて飾っておくことだ。その額縁はもちろん、党代表の机の前にかけておくべきなのはいうまでもない。

【関連エントリ】

『コクミンは「小泉純一郎」にYESと言った──擬似・大統領選だった第44回衆院選』

『 「小泉劇場」はいかにして作られたか? ──シングルイシュー戦略とその深層心理』
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「小泉劇場」はいかにして作られたか? ──シングルイシュー戦略とその深層心理

2005-09-13 22:24:27 | 政治
 今回の選挙で小泉さんが勝ったのは、「争点を1つに絞り、わかりやすくしたからだ」という分析をよく耳にする。だけどもっと踏み込んで考えれば、あのシングルイシュー戦略は「ある心理的な作用」を情報の受け手の側に呼び起こしたんじゃないか? それが人々の投票行動につながり、結果的に自民党が大勝した。とすればその「心理的な作用」っていったい何か? これが今回のお題である。

 たとえばあなたの目の前に、政策を訴える1枚のビラがあるとしよう。そのビラには100項目にわたる政策と、そのくわしい解説がならんでいる。

 ところが人間の脳というやつは、複数の重要なことがらを同時に考えられないようにできている。

 例をあげよう。あなたはいま会社にいる。何かの書類作りに深く集中している最中だ。そこに隣の同僚から「おい、この企画書を読んでみてくれないか?」と声をかけられたらどうだろう?

 極端な人なら、呼びかける声そのものが聞こえない(私はこのタイプだ)。あるいはそこまでじゃなくても、相手に対する反応が生返事になるのはよくあることだ。

 で、人間の脳は100項目の政策を追ううちにキャパシティを超えてしまう。だんだん知覚があいまいになり、書かれていることを正確に認識できなくなる。

 100項目のうち、5項目あたりを読んだところであなたは顔を上げ、こうつぶやくだろう。

「なんか疲れたなあ」

 あなたはもう読むのをあきらめ、ビラをゴミ箱に捨ててしまう。この時点であなたの記憶には、さっきのビラがどの候補者のものだったか? すら残っていない。

 じゃあ小泉さんのケースはどうだったか? ここでは3つのポイントをあげ、小泉さんが人々にあたえたと推測できる心理的な作用について考えてみよう。

 まず小泉さんは論点を1つにしぼった。そのことが政策自体よりむしろ、小泉純一郎という人物のほうを際立たせる結果になった。それはどういう意味か?

 論点が1つしかなければ、脳には十分なキャパシティがある。政策を記憶したあとの人間の脳は、その政策を訴える人物と論点をセットにして明確に認知するはずだ。これくらいの作業なら人間の脳は同時並行的にこなすことはできる。

 かくて人々の脳には「小泉純一郎」+「改革」という非常にシンプルで、しかも強烈な組み合わせがしっかりと印象づけられた。

 また今回、小泉さんは小泉改革というフレーズを多用した。おわかりだろうか? ここでも「改革」という2文字に、「小泉」の名前がセットになっている。

 だから人々は「小泉改革」という言葉を聞くたびに、これまた同じ作業を頭の中で無意識に繰り返す。「小泉純一郎」+「改革」のわかりやすいセットメニューを脳に刻み込むわけだ。

 こんなふうに小泉さんは(本人が意図したかどうかは別にして)、郵政民営化という政策のむずかしい中身よりも、改革者としての小泉純一郎という人物そのものを押し出していた(少なくとも情報の受け手の側はそう感じた)。

 にもかかわらず小泉さんは、選挙カーから「自分の名前だけ」を連呼するたぐいの候補者とは決定的なちがいがあった。

 名前を聞かされ続けても、固い「支持者」から見ればなんてことはない。だが候補者と地縁血縁金縁のない無党派層が、名前だけを連呼する候補者を目の当たりにすればどう感じるか? 「ああ、この人には確固たる政策なんてないんだな」とジャッジする可能性はとても高い。結果、名前の連呼は彼らの投票行動に結びつかない。

 ところが小泉さんは政策の中身より「人物」のほうを強く打ち出していながら、今まで見てきたように名前が常に郵政民営化という政策とワンセットになっている。

 そもそも今回の選挙自体、郵政民営化がトリガーで起きたイベントなのだ。人々は「郵政民営化」という言葉を聞くと、反射的に小泉さんのことを思い浮かべる状態である。とすれば彼らは小泉さんをどう認知するだろうか?

「この人は名前を連呼するだけでなく、きちんと政策もあるんだな」

 当然、こう考えるはずだ。「人物」をアピールしながらも、名前と政策が表裏一体になっていることで人々からプラスの評価を得られる。とにかく改革してくれる人なんだ、という認知のされ方をする。

 小泉さん本人が戦略的に意識していたかどうかはともかく、今回の有権者の投票行動の背景にはこんな心理的要素があったんじゃないだろうか?

 さて最後は最大のポイントだ。「政策よりむしろ小泉純一郎という人物」を強く認知していた人が投票するとき、どんな心理状態になるのか? である。

 今回の選挙の最大の特徴は、前回のエントリーでも書いた通り、都市部の無党派層が自民党へ雪崩を打ったことだ。

 たとえば支持政党のない無党派層のAさんが、自民党に投票したとしよう。Aさんには、政策や党よりむしろ「小泉純一郎という人物」が強く印象に残っている。すると自然に頭の中で、「これから投じる1票は国のリーダー=人物を選ぶための1票だ」という認識になるだろう。

 Aさんは、比例区で自民党に投票しにきたわけじゃない。また小選挙区で自民党の○○候補を当選させるのが目的でもない。Aさんはとにかく、小泉純一郎という(Aさんが考える)国のリーダーに票を入れるために投票所へやってきたのだ。

 Aさんは比例区で自民党を選んだ。だけど「心の投票所」で、自民党じゃなく小泉さんに投票した。彼(彼女)が小選挙区で自民党の○○候補に入れたのも、理屈は同じである。Aさんは○○候補を選んだのではなく、そのことによって小泉さんを選んだのだ。

 今回の選挙では、この現象が全国規模で起こった。だから落下傘候補であれ何であれ、自民党のカンバンを背負っていれば当選する候補者が目立った──。こう考えれば自民圧勝の理由にも辻褄が合う。

 私が前回のエントリーで、「今回の選挙は擬似・大統領選だった」と書いた理由はこれだ。

 政策よりむしろ「小泉純一郎という人物」が人々の印象に残ったために、システム自体はこれまで通りの選挙でありながら、仮想的に国のリーダーを直接選挙で選ぶ土俵ができ上がった。

 自分の1票で「大統領」を選べる。しかもその人物は「改革者」だ──。

 今回の選挙でたくさんの無党派層が自民党に入れた理由。それはあのイベントが彼らにとって、バーチャルな大統領選挙だったからではないだろうか?

【関連エントリ】

『コクミンは「小泉純一郎」にYESと言った──擬似・大統領選だった第44回衆院選』

『政権交代が起きない日本というシステム──自民と民主の「新・55年体制」が始まる』
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コクミンは「小泉純一郎」にYESと言った──擬似・大統領選だった第44回衆院選

2005-09-12 12:15:27 | 政治
 衆院選で、自民党が単独絶対安定多数を超える296議席を取った。歴史的な勝利だ。小泉さんは「郵政民営化に賛成か反対か」を問う選挙だ、てなシングルイシュー戦略を取った。だけど自民党に入れた人たちは、ホントに「郵政民営化そのもの」に票を投じたのか? そうじゃないだろう。「何か改革をやってくれそうな小泉純一郎という人間」にYESと言ったのだ。いわば今回の選挙は擬似・大統領選だったのである。

 もうこの先、10年くらい小泉さんに首相をやってもらえばいいんじゃないの? それくらい圧倒的な選挙結果が出た。これは歴史の大きな転換点だ。

 じゃあ何がどう転換したのか?

 まず今回の選挙でいちばん特徴的だったのは、都市部の無党派層が自民党に雪崩を打ったことだ。

 これは土井たか子さんを党首にかついだ旧社会党が、1989年の第15回参院選で改選議席の倍以上を取り、マドンナ旋風を巻き起こしたときと同じ構造である。あのとき土井さんは「山は動いた」と言った。

 自分の理想に近い人物がトップにいる党に投票する。今回の選挙結果は、この投票行動がハッキリ出た。たぶんもう日本人は、直接選挙(大統領選挙)をやりたいのだろう。

 もうひとついえるのは、無党派層が投票すれば山は動くことが、またもや証明されたってことだ。こんなのはもうわかりきってる話である。だけど今までの旧弊な政治業界は「じゃあどうすればそれが実現できるのか?」に対し、実効性のある答えをまるでもってなかった。だから投票率は長期低落傾向の一途をたどってた。

 今回の結果をマトモに分析できるマトモな政党なら、今後は政治や選挙に無関心な層にアピールするための戦略を、いままで以上に真剣に考えるだろう。そのいちばん有効な手段は、インターネットをフル活用することだ。

 ネットを使ってるユーザのうち、いちばん大きな比率を占めるのが若い層だ。一方、無党派層や政治にあんまり関心がないのも、若い人たちが圧倒的に多い。つまり無党派層とネットユーザは、ニアリー・イコールの関係にある。彼らにプレゼンして山を動かすには、インターネットは最強のツールになるはずだ。

 今回の選挙結果をふまえれば、政治家はもう、「インターネットなんてよくわからん。そんなものを使うようになったら、今までの選挙戦略は通用しない可能性がある。するとオレは当選できないかもしれない。だから反対だ」なんて言ってる場合じゃないだろう。

 公示日以降は、政治家が自分のHPやブログの更新をピタリと止める──。まるっきり本末転倒した公職選挙法のこんな拡大解釈は、即刻、やめるべきだ。

 家にいながらにして候補者のブログにアクセスしさえすれば、その候補者の日々の行動や政策の変化が手に取るようにわかる。それが毎日毎日、時々刻々と更新される。これがメリットでなければ、いったい何だというのだろうか?

【関連エントリ】

『「小泉劇場」はいかにして作られたか? ──シングルイシュー戦略とその深層心理』

『政権交代が起きない日本というシステム──自民と民主の「新・55年体制」が始まる』
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人は映画の中に「観たいもの」を観る

2005-09-09 09:32:23 | 映画
 やっと仕事がひと段落しました。ふう。しかしこのブログの更新頻度は……(笑)。毎日エントリー上げてる人ってたくさんいるけど、なんであんなことができるのかなあ(素朴にうらやましい)。てなわけで今回は仕事上がりの脱力状態、当然頭がカラッポなので、めずらしく日記(というか映画の話)を書こう。お題は「ぜひまた観たいこの1本」であります。

 仕事が落ち着いたんで、きのうの夜中にレンタルビデオ屋さんで映画を3本借りてきた。脳がすっかり仕事モードでヨレヨレだから、観たことない映画を観ても頭が対応できそうにない。で、前に1度観てよかったやつをまた借りてきました。その3本てのは『プレッジ』、『父の祈りを』、『シャイン』です。

 今回はまだ観てないけど、カンタンに紹介しよう。ちなみにアフィリエイトではありましぇん(笑)

『プレッジ』(2001年)
  監督:ショーン・ペン、主演:ジャック・ニコルソン

 この映画を以前観て、「ショーン・ペンってマジで才能あるんだなあ」とうならされた作品。ジャック・ニコルソンはいうまでもなくハマリ役だ。

 ちなみにgooの映画紹介では、主人公の刑事が「妄執に取り憑かれて行動する」とか書かれてる。おいおい、「妄執」じゃないだろこれ(笑)。人間の「根源的な良心」が逆に人の人生を破綻させていく、っていう高度にシニカルなひねりを入れた話じゃないか。この映画は人間の脳の奥底に隠された「動かしがたい良心とは何か?」を問いかけてるでしょうに。妄執どころか、私はニコルソンの行動原理に激しく共感してアツくなったよ? ってあんまり書くとネタバレになるからやめとこ。

 さて、この映画でたったひとつだけ不満に感じたのはラストシーンだ。あそこに限ればニコルソンは「演じすぎ」だと思う。あのシーンでは、「逆に何もせずにボーッとただ座ってるだけ」のほうがインパクトが強烈じゃないか? なによりそのほうが、主人公の心象風景がよりリアルに出ると思うんだけど。

 これ、はるか昔にタルコフスキーの『惑星ソラリス』(1972年)を観て、唯一ラストシーンだけが不満だったのと理屈は同じだ。要するに「説明しすぎ」なの。どっちもすごくいい映画なのに、最後の最後でマイナス点がついちゃうのはもったいないよなあ。てか、あくまで「私的に」だけど。

 要は、「説明しなきゃわからない人もいるから」ってことなんだろうけど、「わからなきゃわからないでいい」じゃない? 映画って。

『父の祈りを』(1993年)
  監督:ジム・シェリダン、主演:ダニエル・デイ・ルイス

 監督のジム・シェリダンは、あの『マイ・レフトフット』(1989年)の監督さんです。ダニエル・デイ・ルイスの才能を確信させられた映画であります。

 父と子の物語なんだけど、人生の「答え」を探して紆余曲折してた息子が最後には、みたいなお話。私が以前、エントリー「自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋」で書いた、魚屋さんになったほうのA君とその親父、ってところだ。70年代のロックを取り巻く状況が小道具として出てきておもしろかった。この作品もかなりイキました。

『シャイン』(1995年)
  監督:スコット・ヒックス、主演:ジェフリー・ラッシュ

 ピアニスト役を演じたジェフリー・ラッシュが、第69回アカデミー賞で主演男優賞をとったので、この作品は知ってる人も多いだろう。精神病院で長い間を過ごした主人公が、天才ピアニストとして開花していく物語だ。

 しかしよく考えたらこの作品にも、父と子のあり方がサブストーリーとして流れている。こうしてみると、私がツボにくる映画ってけっこう共通してるのか? たしかに「父親」なる存在は、私の深層意識にトゲとして刺さってるわけだし(謎)。人は、「自分の観たいものを映画の中に観る」みたいなことですかね?(笑)。

 私は映画を観て泣くことはあまりないが、この映画にはワアワア泣いた。たぶん私は「ハンディキャップを乗り越えて」みたいな、アメリカ人が好きそうなわかりやすい設定にハマったんじゃない。主人公に強く感情移入したのは事実だけど、それは「うんうん、天才ってこういうもんなんだよなあ」とか、例の「父と子のモンダイ」の部分に心をゆさぶられたからだ。

 んー、映画のネタって、あんまりくわしく書くとネタバレになるんでむずかしいわ(笑)。この3本はとにかく観てソンはありません(キッパリ)。おすすめです。ただし『プレッジ』だけは、「ものすごくツボにくる人」と「それほどでもないけど、でもおもしろいと感じる人」に分かれるかもしれないけれど。

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(追記)一部、語尾を整えた(2005,9/10)
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違和感ありまくりのmixi的コミュニケーション

2005-09-01 22:55:52 | インターネット
 なんかムカつくんだよなあ、mixiって(笑)。いや自分で入っていながらいうのもナンだけどさ。てか、もうすっかり飽きてぜんぜんいじってないし、「やめようかなあ」みたいな今日このごろだ。

 私はなぜそんなふうに思うのか?

 まず第一に感じるのは、そもそも私はmixiのコンセプトにまるで適合しない人間だってことだ。mixiって、内輪だけで閉じられたコミュニケーションをするための道具だよね? 基本的に。

 で、なにがいちばんムカつくかっていうと……。

 たとえばmixiでは足跡が残る。んで、私のところに足跡が残ってるからと思って、その人のところにアクセスしてみると……。

「この日記は友だち以外には公開していません」

 みたいな画面が出ることあるでしょ? つまりその人は自分の日記にアクセス制限かけてるわけよ。

 この「進入禁止」みたいな画面を突きつけられたとたん、なんか「ムカーッ」とするんだよねえ(笑) 自分でもよくわからないんだけど、この気持ち。うーん、あえて説明すると……。

 あなたは私のところにアクセスして私の日記を見てるのに、私にゃ日記を読ませないわけ? みたいなことかなあ。

 これってどう? 私と同じように違和感おぼえてる人っていない?

 いや別に「その人の日記がどうしても読みたい」とか、そんな話じゃぜんぜんないんだけどさ。ただなんか向こうはこっちに対して自由自在にアクセスできるのに、「あんたは自分を公開しないのかよ?」って心理かなあ。相手は万能の力をもってるのに、こっちだけが権利を制限されてるみたいなイヤな感じっていうか。うまくいえないや、やっぱ。だれか代わりに説明してよ(笑)

 そもそもインターネットの精神って、すべての人に情報を公開し、また逆にすべての人から公開してもらう、みたいなことじゃない? つまりオープンな場所だってことね。で、せっかくそういう開かれたインターネット上にいるのに、わざわざ自分から閉じてどうする? って感じがするんだわ。

 もちろん「同じ価値観を共有してる人だけとコミュニケーションしたい」とか、「特に親しい人たちとだけ」、「仕事関係のグループ内だけで」やり取りしたい、ってニーズや心理はわかるんだけどね。

 でもなんか私の皮膚感覚としては、そういう「身内だけコミュニケーション」な人たちと同じ空間を共有したくないなあ、って感じがするんだよねえ。なんとなく。で、もうやめようかなあ、と思ってるわけなんだけど(笑)。

 それで思い出したのは、チャットについてだ。

 たとえばチャットって、いわゆる常連だけで仲よく固まってる閉鎖的な部屋があるじゃない? 初めての人が入室してきてもあいさつさえしない、みたいな部屋。私の場合、ああいうコミュニケーションのしかたって基本的にきらいなんだよねえ。

 私にとってインターネットって、「今度はいったいどんな見知らぬ人と出会うんだろう?」って感じの場だ。私は自分とはちがう価値観の人とどんどん知り合いたいし、むしろそういう人と話がしたいと思う。だからチャットではおハツの人ってすごく大切だと思う。

 ところがチャットの常連部屋やら、mixiでアクセス制限かけてる人たちって、親しい身内だけでやりたいわけだよね。私から見るとそういうコミュニケーションのしかたって、なんだか排他的な気がしていい感じがしないんだ。

 もちろんコミュニケーションに対する考え方は自由だし、そういう人たちの気持ちもわからないわけじゃない。なおかつ彼らがそうしたいなら、「そうできる権利」は守られるべきだと思う。

 けど私はやっぱりチャットでは見知らぬおハツの人を大事にしたいし、シカトするようなまねはしたくない。他人を排除するような行為はどうも肌にあわない。

 だから「身内だけコミュニケーション」な考えの人たちに文句をいうつもりはないけど、あんまり同じ空気は吸いたくないなあって感じがする(笑)。いや別に彼らに対して悪気があるわけじゃないし、うまくいえないんだけどさ。ソリがあわないってやつかなあ。

「同じ空気は吸いたくない」ってことは、逆にお前自身が彼らを排除してるじゃないか? ってツッコミはやめてね(笑)。それ以前に彼らは、自分から閉じてるわけだから。

 みなさんはネットやってて、こんな違和感を感じる瞬間ないですか?


●追記/タイトルおよび文中のミクシーをmixiに変えた(2007-10/30)
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