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すちゃらかな日常 松岡美樹

積極財政などの政治経済をすちゃらかな視点で見ます。ワクチン後遺症など社会問題やメディア論、サッカー、音楽ネタも。

【中国人・土地爆買い問題】政権側が仕掛ける「スピン」の可能性もある重要案件だ

2025-05-22 17:55:15 | 社会分析
「仮想敵」を大衆に与えて自分(政権側)は世論の批判を逃れる高等戦術か?

 このところもっぱらX(旧ツイッター)上では、「中国人が日本の土地をあちこち買いまくってるぞ!」という騒動をポストする行動がやたらと目につく。

 確かに気持ち悪い動きだ。実際、私もこの案件に初期の段階で気づき、強い危機感を抱いてあれこれ調べてみたことがある。

 特に北海道の土地が、もうガンガン買われているのにはガクゼンとした。

 うっかりすると「その一点」だけに心を奪われてしまう深刻な問題だ。

 だがあるとき、ひょいと「別の角度」からこの問題を眺めてみたのだ。

 するとその結果、ある可能性に思い至った。(というか「可能性」にすぎないかもしれないが)

 つまりこの「中国人問題」騒動に火がつくことで、いちばんトクをするのはいったい誰か? という問題だ。

中国人叩きでトクするのはその影に隠れて悪政やりたい放題になる政権側だ

 いや、例えばの話ですよ?

 第2の「Dappi」みたいなヤツがすでに世の中に存在し、例えば○○党から任務を仰せつかって実はネット上の「X」の人混みに密かに紛れ込み、あの「中国人問題」へ盛んに火をつけ騒ぎ立てる役目を担ってるとしたらどうだろうか?

 そうとは知らずに(たとえば)日本を特に「大切に思う気持ちの強い」国民民主党の支持者さんや参政党の支持者さん、はたまた日本保守党の支持者さんたちが、その煽りにまんまと乗せられて(でも「そそのかされてる」とは認知できずに)ワイワイ騒ぎ立てているとしたら?

「あの中国人たちが許せない!」

「あいつらを排斥せよ」

 彼らはまんまと「第2のDappi」にハメられて、大きな策謀の「大渦」に飲み込まれてしまう。

 こんなふうに意図して人工的にあえて大衆向けの「標的」を作り、狙って社会のストレスを一点にそこへ集中させる。そのことで自分たちにとって「都合の悪い何か」から人目をそらすーー。

 つまりこの大波がそっぽ(中国人叩き)へ行くことで、見事に弾かれ「スピンされるもの」があるんじゃないか?

 もしあるとすれば、それは長年にわたるメチャクチャな「緊縮財政」と「新自由主義」により、日本を壊滅の危機に追いやろうとしている自公政権の「悪行」そのものだ。

 例えば政府のそんな悪政から目をそらす「スピン」の役割を果たす「煽り」の類いは、以下のような感じのものだ。いわば「争点そらし」である。

(1)「中国人移住者 過去最高87万人へ」(髙橋𝕏羚@闇を暴く人

(2)「選択的夫婦別姓は中国の方のための法案である」(ねずみ)

 こういう動画を観て、日本人はもっぱら「中国人そのもの」に対する怒りをたぎらせる。

 だがこうした中国人の日本流入への「ワク組み」を法的に緩め、積極的に日本へ招き入れているのは、そもそもあくまで日本政府だからね? そこから目を逸らされてはいけない。

 でも、だれもその点を指摘しないし、だれもそこに「怒りを向け」ないーー。

 不思議な話だ。

中間層(富裕層)だけを生き残らせ唯一の「市民」にする

 いや、あくまでこれはひとつの試論だが……実は政府はこういう(中国人の名を借りた)表面的な動きを隠れ蓑にして、以下のような未来社会を作ろうとしてるんじゃないか?

 この彼らが描く「未来社会」を構成する要素は2つある。(1)ひとつは(政権側から見れば非生産的な)貧しい若い層を非正規雇用に押し込め、「自然淘汰」すること。

 そして(2)もうひとつは、政権側が「社会の負担になっている」と考える高齢者層をこれまた「淘汰する」ことだ。

 まず(1)に関しては、政権側は緊縮と新自由主義の合わせ技を駆使し、まず日本の若い層を労働条件が劣悪な非正規雇用や派遣で厳しい労働環境に押し込めることだ。

 そして彼らを「安く使って」さんざん搾取したあげく、人為的にストレスを降り積もらせ、彼らのメンタルを破壊することで自○に追い込もうとしているのではないか? ということだ。

 その証拠に厚労省によれば、すでに日本の若年層の自○率はG7で日本がダントツの1位である。

 これが何よりの証拠であり、政権側の「成果」といえるのではないか?

派遣など日本の「非正規雇用」の歴史的な流れを振り返る

 そもそも雇う企業側は「正社員」より「非正規」の方が安くつく。

 だから90年代末の小渕内閣から2000年代初頭の小泉内閣の時代にかけ、(特に大企業のために)非正規雇用が社会的に強く推し進められた。

 これがまず実態だ。

 そもそも歴史を遡れば、それに先立つ1985年に最初の「労働者派遣法」が導入されたのは、派遣労働者の保護が目的だった(建前は)。

 そして当初はプログラミングや通訳など、専門性の高い13業務に限って派遣を認めた。つまりエキスパートの派遣がそもそもの目的のはずだった。

 ところが2004年に小泉純一郎首相(当時)が号令一下、竹中平蔵・内閣府特命担当大臣(同)と結託し、同法を改正(悪)する。

 これにより派遣労働者は2000年の約33万人から、2008年には約140万人に増大した。つまり大量の「非正規雇用者」を生み出し、格差が拡大したわけだ。

 この同法の改正(悪)時には「適正なセーフティーネット」がなかった。そのため製造業を中心に、派遣社員は「雇用の調整弁」にされてしまった。

 例えば「派遣切り」と呼ばれる大量の雇い止めも発生した。その後の経緯は、ご存知の通りだ。

 さてここで自民党の「政治手法」が巧妙(=悪辣)なのは、最初は小さく「風穴を開けて」おき、それをあとから次第に拡大して行く手練手管である。この手法は、歴代内閣にわたり頻出する。

 一方、これにはるか先立つ1980年代には「フリーター」なる造語までわざわざ作られ、しきりに『フリーター』ってカッコいいよねぇ!」みたいな世論形成が「人工的」に行われた。

 こんなふうに自民党は雇用の非正規化に先立ち、もう80年代から巧妙な「仕込み」を入れていた。

 なんせ80年代に念には念を入れて「フリーター」なる造語まで事前に作り、大掛かりなPR作戦を仕掛けて「社会的洗脳」が行われてきたのだ。(おそらくその陰には電通あたりが絡んでいたんだろう)

 いや、それはさておき。

社会的負担が高い高齢者層は○クチン接種で「抹消」する

 さて一方、若者の非正規労働者とは年齢層が真逆に当たる「高齢者層」に対しては、65才以上に適用される有害なレ○リコン・○クチン接種などで(若者と同じく)「人口抑制」が行われるーー。

 もちろんこれも政府の「仕掛け」だ。

 とすればこの両建ての策謀で「若年の非正規層と高齢者層」が死滅したあと、「残る国民」っていったいどんな階層か?

 それは上記の「2層」のちょうど中間に位置する人々だ。

 つまり健康でバリバリ働ける何不自由ない壮年層である。こちらはもちろん富裕層ともかなりオーバーラップしているだろう。

 すなわち日本政府はこの選り抜きの頑強な壮年の中間層だけを、日本で唯一の「市民層」として残す計画だ。

 それに加えて支配層として政財界と官僚、およびオールドメディアを合わせて合計4本立てにより、未来に向けて(ムダのない)「頑強な日本国家」を構成しようとしているのではないか?

 平たくいえば、国から見ると「足手まとい」な中小零細企業や、(エリート以外の)貧しい働き手をこのさい「きれいに淘汰」してしまう。

 また社会的な負担が大きい高齢者層に関しても同様だ。

 そして残った「大いに稼げる大企業」と富裕層だけを中心にして「効率的」に国を回して行こうぜ、てな塩梅の社会戦略を構想してるんじゃないか? ということだ。

 すなわち究極の新自由主義である。

「まさかそんなトンデモな話があるわけないだろう」「SFの世界じゃないか?」などというなかれ。

 このブログでは社会に警鐘を鳴らすため、過去に何度も同じことをバカみたいに繰り返し書いている。ちなみに以下の記事の後半でも詳しく分析した。

『【緊縮という地獄】生活苦で国民がバタバタ自死、それでも「国の借金ガー」と叫ぶ財務省の鬼畜』(すちゃらかな日常 松岡美樹)

 これをどうお幹事になるだろうか?

野村総研や政策コンサルタントの室伏謙一氏も同じ分析をしている

 もちろんこれは、根拠もなく書いてることじゃない。

 実際、あの2020年から約1年間にわたり自公が組んだ菅政権のとき、当の菅義偉首相(当時)自身が「今後、中小企業は淘汰するんだ」と、無防備にも記者会見で堂々とペラペラ喋っていたのだ。

 この耳で聞いたから、まちがいない。

 例えばそんな菅政権(当時)の政策を緻密に分析したひとつが、以下の論考だ。

『OECDのコロナ経済対策の提言と菅政権の中小企業再編』(野村総合研究所・金融ITイノベーション事業本部 / 木内登英)
https://www.nri.com/jp/media/column/kiuchi/20200918.html

 また「室伏政策研究室代表」で政策コンサルタントの室伏謙一氏も、以下の記事で同種のことを論じている。

『菅内閣は「中小企業つぶし」という日本経済つぶしを押し進めている』(ダイヤモンド・オンライン)

 そして何より恐ろしいことは、この「合理化」とか「淘汰」という名の人工的な「中小企業潰し」や「非正規職の社会的抹消」は、何もあの菅政権に限った話じゃない点だ。

 その前後に当たる自民(公明)政権にも、同様に綿々と歴史的に受け継がれている「伝統的なお家芸」なのである。

 こんな政権は、もう一刻も早く潰す必要がある。

外国人労働者が「第5の層」として日本に加わる

 さて、話はまた一回転して再び「中国人問題」に戻ろう。

 前節で述べた未来で唯一の日本市民としての「富裕層」に加え、政府が肝入りで進めるもうひとつの「新しい階層」が日本社会に加わる動きがかなり前から着々と進んでいる。

 それが本題の中国その他、海外の人々だ。こうした外国人労働者受け入れ制度の整備は、すでに1980年代後半から1990年代にかけてとっくの昔に始まっている。

 つまり政府は彼らを「安く」使って労働力のコストダウンを図り、大企業を中心に事業の効率化を図ってうまく利用しよう、てな青写真である。

 一方、このほか新しい動きとしては、最近、話題になった「中国人観光ビザの緩和」問題がある。だがこれだって源流をたどれば、以下の通りもう今から15年前にスタートしている流れだ。

 ちなみに以下の資料は「2010年」当時の話である。つまりすでに15年前から、私が先述したような日本政府による計画的な「中国人招致計画」の先鞭が付けられていたことになる。

『中国人観光客を狙え!個人ビザ緩和で“ドル箱”出現』(経営戦略者/2010年8月号)
https://www.tkc.jp/cc/senkei/201008_special01/

『中国人観光ビザ緩和』(みずほ総合研究所・アジア調査部 / 宮嶋貴之 / 2010年9月)
https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F3509767&contentNo=1

 そしてその果てに来た最新の動きが、以下の動きだ。

『中国富裕層に10年観光ビザ新設 岩屋外相、北京で表明』(NHK)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA245OH0U4A221C2000000/

 この「大きな流れ」が、おわかりだろうか?

別に中国人が日本の土地を「勝手に買い始めた」わけでもなんでもない

 さて今回の記事のなかでは、いちばん「源流」になる発端までさかのぼり検証してきた。

 そんな経緯を見ると、もう「水が高いところから低いところへ流れるかのよう」に、ごく自然な流れになっているのがわかるだろう。

 つまり、なるべくしてこうなったわけだ。

 ちなみに岩屋大臣は上記したNHKの記事のなかで、以下のように語っている。

「岩屋大臣は、一部に中国人が急増するなどという誤解があるとした上で『ビザの種類に応じて一定の経済要件を設け、申請時や入国時には厳格な審査を行っており、ただちに中国人観光客の無秩序な急増につながるものではないと考えている』」

 ほうら、これだって同じだ。

「まず最初に小さい穴を開け、それをだんだん大穴にして行く」という自民党・お得意の戦略である。

 あの派遣だって、非正規だってみんな初めはそうだった。

 なにより上記の「ただちには」そうはならない、という表現が、如実にそれを暗示している。つまりウラを返せば近い将来、それが実際に「大きな穴」になりうるわけだ。

 そしてこうした歴史的経緯の果てに、いま盛んに話題になっている「中国人がバンバン日本の土地を買ってるぞ!」問題がやって来た。

 すなわちこれは別に何も中国人が「勝手にやり始めた」わけでもなんでもないのだ。

 つまりこれまでさんざん経緯を細かく見てきた通り、「我らが自公政権」が自分からわざわざ彼ら中国人の「手を取って招き入れ始めた」果ての現象だ。

 それが今や彼らの「日本の土地を買い漁る」という極端な行為にまで繋がっている。

 だが(繰り返しになるが)その発端、つまり元凶を作ったのは自公政権である。

 そもそも彼ら政権側が(法的整備をして)火をつけなければ、はじめに中国人の「低賃金労働者」が大挙して日本にやってきたり、また次には中国人の「お金持ち観光客」のみなさんが「10年観光ビザ」を申請して大挙、日本にお越しになるなんて事態には至らなかった。

 つまりX上でいま「中国人に土地が買われてる!」と騒いでいるみんなは、実は自公政権にこそツッコミを入れるべきなのだ。

 歴史を遡れば、あの自公政権が中国人のみなさんを手取り足取り優遇するビザで日本へわざわざ招き入れ、日本の土地を買う発端になる「誘い水」をかけなければ「実は何も起こらなかった」かもしれないのだ。

 まあこれを言い出したら、水掛け論になるからやめておくが。

なぜ自公は中国人ネタをわざわざ「スピン」として世の中に晒すのか?

 ここまで読み、「自公政権が自分から音頭を取って中国人を招き入れているのはわかった。だがなぜその自公政権は、そんな中国人ネタをわざわざ自分からスピンとして世の中に晒して自分たち(自公政権)の悪行を覆い隠そう、などというややこしいことをするのか?」と思う人もいるだろう。

 その点については、こんな可能性を考えている。

 自民党は一方では中国にいい顔をしておいて日本に招き入れ、その実、いざとなったら彼ら中国人を「エサ」としてスピン化して自国民にネタの形で提供する。

 それによって国民間に騒ぎを起こすことにより、その陰に隠れて自分たち(政権側)だけが「難を逃れる」という離れ技を演じてるんじゃないか?

 つまり仮に日本で「中国人バッシング」が起こったって、自民党の腹はちっとも痛まない。

 それどころか中国人問題がより目立てば目立つほど、相対的に自公政権の(緊縮財政と新自由主義で日本社会を壊す)悪政は、その陰に隠れてますます見えなくなる。そんなうまい仕掛けだ。

 現にいま中国人問題がこれだけX上で賑わっているのに、そもそもそのきっかけを作った自民党を「批判する声」なんて(少なくともX上では)まるで見かけない。

 たぶん世間の人は、この案件の経緯をよく知らないのだろう。

 そんなふうに(個人的には)疑っている。

 話をまとめると、とにかく自公政権の「近視眼的で場当たり的な政策展開」には腹が立つ、というのがまず一点だ。

 そしてもう一点は繰り返しになるが、この「中国人が日本の土地を買ってるぞ」問題はひょっとしたら、自公政権が自らの緊縮と新自由主義政策による「大失策」を隠すための「スピン」を仕掛ける動きなのかもしれない、という点だ。

 しかもネット上のXのポストやYouTube動画などの流れを細かく観察していると、どうもこの騒ぎを先頭に立って扇動していると思われるような一団がいる気配もある。

 それは決まって「何人か特定の人物たち」であり、なんだかどうもスピンの疑いを拭い切れない。

 またこれも繰り返しになるが……もしそれら「第2のDappi」みたい集団に相当するモノがすでに密かにネット上で立ち上がっているとすれば、それらの煽りに乗るのは実に愚かな話だ。

 そして第2点として言えることは、その「第2のDappi」がもし存在するなら、当然、そんな「第2のDappi」は政府による例の「SNS規制」(情報流通プラットフォーム対処法)と連動した動きをするはずだ。

 つまり「第2のDappi」はSNSを使ったネットユーザの「自由な発言」を抑え込み、例えば(「情プラ法」のように)政府批判などの政治的投稿を抑制する活動をするに違いない。

 すなわち彼らは、自公政権の援護射撃をやる集団なのだから当然だ。

 この点に我々は今後、細心の注意を払って臨まなければならないだろう。

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【選択的夫婦別姓】「特に理由もないのに主張するヘンな奴がいる」という大いなる勘違い

2025-05-14 11:22:06 | 社会分析
イデオロギーという名の魔法にかかり「論理」が崩壊する

「選択的夫婦別姓は中国の方のための法案である」(YouTube動画「ねずみ」より)
✴︎「ねずみ」さんは「誰も困ってないのに、なぜやりたがるのか?」というが……。

いつも観ているYouTubeチャンネル「ねずみ」で選択的夫婦別姓が話題に

 私は「ねずみ」という、とてもおもしろい知的なYouTubeチャンネルを登録し、いつも観ている。

 だが先日、「選択的夫婦別姓」を取り上げた回は、なんだか実に奇妙だった。

 あらかじめ断っておくが、私は別に「選択的夫婦別姓」問題に特別なこだわりなんてまったくない。

 いや、その制度がもし必要ならどんなケースや理由が考えられるか? なら別にふつうに想像し説明できるが(これは後述する)、そもそも政策というモノには順序があるのだ。

「どの緊急的な政策を優先し、どの政策を後回しにするのか?」

 この棲み分けは、とても重要だ。

 とりわけこれだけ経済が完全崩壊した現代の日本では、夫婦別姓の問題よりも優先して先にやるべき政策が山ほどある。

 それが経済政策、ことに財政政策だ。

 日本は経済が完全に崩壊し国が壊れかけているのだから、経済政策をまず優先しないことにはお話にならない。(このへんの認識はどうやら件の「ねずみ」さんも共通しているようなのだが……不思議なことに途中で議論が枝分かれして結論が食い違ってくる)

 だから(というか元々)私は別姓問題に特にこだわりなんてないし、ぶっちゃけ「どーでもいい」(失礼)とすら思っている。

 いや、この「ねずみ」チャンネルの運営者さんがもともと「岩盤・右派」さんらしいことは、ちょっと観ただけでわかっていた。

 だけど私は「右か? 左か?」なんて瑣末なことにはまるで拘らないので、いつもゲラゲラ笑いながらこのチャンネルを観ている。

別姓問題を取り上げる? あー、ついに来たか

 で、先日、たまたまねずみさんが取り上げたテーマが「選択的夫婦別姓」だったので、もう立ち所に観る前から内容が予測できた(笑)

「あー、ついに来たか」って感じだ。

 あんまり気が進まなかったが試しに観てみると……「ねずみ」さんが別姓に反対する主張と論拠って、もうあまりにもメチャクチャなんだわ。(なんか中国の話が出てくるし)

 つまりテーマが「選択的夫婦別姓」であることにより、「今回は自分が右派としてそれを扱うのだ」という気負いが意識過剰になり、みずからメンタルのバランスを崩して自分のフォームを失っている感じがした。

 つまりふだんの彼の理知的で聡明なスタンスを逸脱してしまい、その回で主張するその持論が完全に破綻してしまっていた。

 なんだかムリな我田引水のオンパレードで、完全に論理が崩壊しているのだ。

 例えば、ねずみさんはーー。

「特にまったく何も理由がないのに、世の中には選択的夫婦別姓を強く主張する人たちがいる」

「なぜ別姓が必要なのか、論理的な理由がまるで見当たらない」

 ーーなんていう。

 えっ? 「根拠になる理由」がない?

 いやぁ、この人って……もしかしたら現代の人間社会のことを、なんにもわかってないのかなぁ?

 そんなふうに、ちょっとびっくりしまった。

私が実際に見聞きした過去のエピソードをあげよう

 いや、たぶん右派の「ねずみ」さんとしては、言葉には出さないけれど言外に「世の左翼がしきりにイデオロギーに基づき、最近、夫婦別姓を頑強に主張してるよねぇー」と言いたいんだろう。

 まあ、そういう人もたくさんいるだろうけれど……実質、見当はずれだよ、それって。
 
 こんなものはただ一点、「彼の持論に存在する、あるポイント」をひと突きして反論するだけで議論にカタがついてしまうのだ。

 例えば私が実際に体験した、過去のエピソードをひとつだけあげようか。

 当時、私はガラにもなく、あるファッション雑誌の編集者をやっていた。

 で、某「誰でも知ってる超・大手アパレル企業」の広報部に、ネタ取りやら打ち合わせやらで、しょっちゅう出入りしていたのだが………。

 あるときその企業でマスコミ対応している(結婚されたばかりの)「広報担当」のとても有能な女性と、こんな世間話になった。

 その女性いわく、「私、結婚したら姓が変わってしまったので、以前から仕事上のお付き合いがあったお馴染みのメディアの方々が違和感を持つらしくて……その方たちは私の名前が変わったせいで、『覚えにくい』とか『別の人だと勘違いしてしまう』『とても仕事がやりにくい』って言うんです」

 私はそれまで、そんなことなど想像すらしたことがなかったので、「はー、そんなこともあるのか?」とその人の話をただ聞くだけだった。

 で、その広報の女性は結局あれこれ考えたあげく、仕事で使う名前をいわば「ニックネーム」(通称名)という形で「元の姓」に戻したのだという。

 だがこれはあくまで単なるニックネームであり、法的・制度的な根拠などまるで何もない。単に自称しているだけだ。で、そういうヘンな形で仕方なく自主的に業務を続けているのだという。

女性が働くなら勝手に「通名で」やれというのか?

 繰り返しになるが……それまで私は「夫婦別姓」について、まるで一度も考えたことさえなかった。

 だから「なるほど世の中には、そんなこともあるのか?」「働く女性って、いろいろ大変なんだなぁ」と実感し、とても勉強になった。

 いや、もちろん彼女のケースのように社会的には「通称名」で仕事し、通用するのだろうが、なんで女性だけがそんな手間ひまかけて苦労しなきゃならないの?

 もし社会制度がおかしいなら、制度の方を変えちゃえば良くない? とも思う。

 ただしこれも繰り返しになるが……いま日本は経済的に大変な時期だから、政策としての「選択的夫婦別姓」制度に必要以上の「社会的エネルギー」を果たして使うべきなのか? とも、もちろん思う。

 この点では、「ねずみ」さんのご意見と私の見方は見事に一致している。

 どう考えても、いまは経済、ことに財政が重要だろう。 

 ただし件のYouTubeチャンネルで「ねずみ」さんが、「特に必然的な理由はまったく何もないのに、別姓を主張している人たちがいる」的なちょっとピント外れな反論を繰り返しているのを観て、「この人はひょっとして社会における(私が実際に「垣間見た」ような)ビジネスの現場でいま何が起こっているのか? なんて何もわかってないんじゃないか?」とちょっと思ってしまった。

「同性でどれだけの人が困ってるんですか?」「そんな人ってどこにいるの?」と、ねずみさんは動画の中でしきりに繰り返すが、私があげたみたいに困ってる人は世の中にたくさんいるんだと思うんだ。

 なのに、なんだか彼の主張はまるで「自分は今の世の中とはまるで接点」がなく、まるっきり社会の「現場」のことを何も知らない人なのかな? という感じもした。

女性はいっさい社会に出ず家に閉じこもってひたすら家事をしてろって?

 いや別にこれは何も彼を批判しているわけでもなんでもない。

 ふだん彼の動画での論理展開があまりに知的でロジカルなだけに、逆に「こと夫婦別姓問題」みたいなちょっとイデオロギーちっくなお題を取り上げると途端に馬脚をあらわす(いや、ゴホゴホッ)、どこか冷静さを失うところが非常に興味深かった。

 だって論理が破綻してるんだもんw

 つまり人間というものは自分の持つ特定の「岩盤イデオロギー」みたいなものにあまりにもこだわりすぎると、それを元にこじつけ理論を展開してしまうことになり、たちまちバランスを崩して崩壊してしまうんだなぁ、というのが印象深かった。

 だって彼の論理に反論するなら、カンタンなお話なのだ。

「えっ? じゃあ、あなた。女性は社会にいっさい出ず、家に閉じこもってひたすら家事をしてろ、ってことですか? いまどきそんな人っているんですか? ちなみに一体そういうライフスタイルって、現代日本社会のどれくらいの比重を占めてるんですか?」と問えば、議論は終わりだ。

 つまり彼は右派だから別姓問題に過度なアレルギー反応を示してしまい、ことこの問題となると自身のイデオロギーに引きずられるあまり、ふだんの論理的で理知的な論述スタンスがたちまち崩壊してしまう。で、ヘンに「感情的」になってしまうのだろう。

 まあ「女性が勝手に通称を使えばいいじゃん」といえばそうかもしれないが……女性にそんなふうに負担をかけ続けてるばかりじゃ、ますますこの日本の「未婚社会」化が固着し、もうどうにもならないところまで行くんじゃないのかなぁ? とも思うのだ。

いまの世は男性よりも明らかに女性のほうが元気だ

 それより何より、いまは男性より女性の方が明らかに元気でエネルギーがあるでしょう?

 それは最近、特に「れいわ新選組」を見ていて、つくづく感じる。

 特にリーダーシップがありエネルギッシュな西郷みなこさんが加入して以降、女性陣がグンと活性化し、長谷川ういこさんや奥田ふみよさん、大石あきこさん、安持なるみさん、くしぶち万里さん、やはた愛さん、佐原若子さん、米村明美さんらが躍動している。

 なんだかアレを見ていると、議員はもうみんな「女性のほうがいいんじゃないの?」っていう感じさえする。

 おっさん達って、たとえ仮に「初志」は良くても、すぐ利権に足を掬われておかしくなるからなぁ……。

 まあ、そんなことを感じる今日この頃だ。

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【国家の自殺】牛や鶏を殺せば国から補助金が出る「謎の仕組み」とは?

2025-03-11 16:41:40 | 社会分析
食料自給率が低い日本、こんな政策でいいのか?

 農林水産省は2023年3月〜12月まで、なんと畜産農家が乳牛を殺せば補助金を15万円出すという生産抑制を行った。

 これは「酪農経営改善緊急支援事業」の一環として実施されものだ。

 農水省によれば、理由は生乳の生産過剰である。

 直接的な要因としては、コロナ禍で学校給食や外食産業の需要が激減したのが原因だという。

「乳産物の生産量は、もともと生産者団体があらかじめ生産計画を作り決めています。それが(コロナ禍で)余ってしまった。余ればまず、生産量を絞るのがセオリーです。で、殺処分が行われました」(農水省)

 またこれに先行し、卵を生む鶏を殺しても1羽当たり310円、屠殺する食鳥処理場には1羽につき47円が支払われている。

 鶏は一度に何万羽も屠殺するから、農家には膨大な補助金が入る。例えば2020年には、16億円が支払われた。

 この鶏に対する政策は、2020年以降に鳥インフルエンザが本格化して以降に拡大された。まあ鳥インフルを防ぐためなら仕方ないともいえるが、それにしてもなんだか割り切れない。

人間の勝手な都合で生き物をバンバン殺していいのか?

 農水省は、「余ればまず生産量を絞るんだ」とカンタンに言う。だが殺される牛にとっては、たまったもんじゃない。

 まず第一に、人間のこんな勝手な都合でバンバン生き物を殺すことが許されていいのか? という疑問がひとつある。

 次は食料自給率との関係だ。

 ただでさえ日本は「自給率が低すぎる。上げなきゃダメだ!」とさかんに言われている。なのに生乳や卵を産む生き物を殺すなんて、いかにも極端な政策ではないか?

 食糧危機を叫ぶ切羽詰まった声が片方にあるのに、この動きはそんな流れに完全に逆行しているように見える。

 この奇妙な現象を見れば、まるで日本という国はみずから進んで「自殺しようとしている」かのようだ。

 例えば古くは米の減反政策や、最近では稲や麦、大豆の生産を増やすのを目的にした「種子法」が2018年に廃止されるなど、似たようなヘンな流れが続いている。

 いったいなぜ、日本はこんな「国家の自殺」ともいえる政策を取り続けるのだろうか?

農家は補助金をもらう代わりに「資産」を失う

 まず牛や鶏の殺処分に関しては、農水省の言い分では「思ったより生乳や卵の生産量が多かったから」のひとことに尽きる。

 だが農家は何年もかけて牛の購入資金から設備費、飼育費などを投資している。牛は農家にとって財産なのだ。それをいかにも安直に「殺して解決する」なんて、あり得ないだろう。

 また農家は牛の頭数が減れば、将来的な収入が安定しなくなるという可能性もある。

 突き放し(感情抜きで)この現象を見ると、まず市場全体の「需給バランス」というマクロの視点で殺処分が行われた、ということになる。

 だが一方で家畜は農家にとって資産だから、ミクロの視点=個々の農家の都合で考えれば、経営の縮小や資産を失う大きなデメリットにもなる。

 なのにこの政策は、目先の需給バランスに帳尻を合わせた一時的な埋め合わせにすぎない。いかにも近視眼的で、長期的な視点に欠けている。

 事態を改善するには、もっと大胆な政策転換が必要だろう。

国債発行して国が買い上げればいいじゃないか?

 二度あることは三度ある、という。

 官僚がこんな緊縮的な発想のままでは、今後もまた同じこと(殺処分)があるかもしれない。そのときのために、最後にひとつだけ提言しておこう。

 例えば余った生乳を国が買い上げ、加工して日持ちする状態にして備蓄すればいいんじゃないか?

 なんなら後日、国が「ヒノマル印の加工乳製品」として、国民に安く売れば喜ばれるはずだ。

 これなら加工業者にとっても収入になるし、農家は国に生乳を買い取ってもらえて牛は殺さずにすむ。

 万々歳だ。

 え? 国が買い取るなんて、そんな予算がどこにあるんだって?

 いやいや、このブログではさんざん何度も書いているが、日本には「円」という自国通貨がある。

 そして国は通貨発行権を持っている。また自国通貨建て国債は、論理的に破綻するなんてあり得ない。

 だったら国が国債をガンガン発行し、それで資金を作って買い上げれば済む話じゃないか?

 そもそも牛を殺して補助金=「国のカネ」を出すくらいなら、生乳を買い取るのに同じ「国のカネ」を使ったほうがずっと生産的だ。ポジティヴだろう?

 何よりこれなら食料自給に貢献できるし、農家のためにもなって一石三鳥だ。

 なにしろ牛を殺すほどの非常事態なんだから、これくらい大胆な政策転換をするべきだろう。

政権交代して積極財政を行う「シン・財務省」を作れ

 もっともこのプランには、ひとつ大きな難点がある。

 それは財務省が決して「ウン」と言わないだろう点だ。

 だったらもう、いっそのこと政権交代し、その暁には新政権のもとで財務省を解体・再編して積極財政を行う「シン・財務省」を作るしかない。

 これを実現しない限り、いまの緊縮財政オンリーのドケチな財務省のままでは日本に未来はないだろう。

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【地獄の棄民政策】政府は日本をエリートと大企業だけの国家にするつもりだ

2025-03-09 10:51:32 | 社会分析
貧乏人と中小零細企業を抹殺する弱肉強食の新自由主義だ

 最近、あなたは日々、生活していて「なんだか日本はおかしくなったなぁ」と異変を感じないだろうか?

 たとえば典型的なのは、あの地震に見舞われた悲惨な能登だ。昔ならあんなケースでは、地震発生と同時に速攻で自衛隊が出動し、必要な助けが入っていただろう。

 だが今回、能登は完全に見捨てられている。

 あの能登の姿が象徴的だ。

 そう。実はいま日本では、国家レベルでの大規模な「トリアージ政策」が行われている。

 トリアージとは、大きな災害や事故などが発生し、負傷者全員に十分な治療ができない場合の「究極の選択」を指す。

 つまり治療する患者に優先順位をつけて生き残らせる者を選び、ほかは「見捨てる」という選択だ。これはフランス語の「trier(トリエ)」に由来しており、「選別する」の意味がある。

 すなわち能登は、日本政府によって「トリアージされている」のだ。

自死する非正規の若者や高齢者、中小零細企業もトリアージの対象に

 この国家的トリアージの犠牲者は、もちろん能登の人々だけじゃない。

 例えば日本政府は、いまや意図的に少子化を推進している。そして若年層の働き手を派遣など非正規雇用で冷遇し、生活苦を強いて自殺に追い込んでいる。

 他方、増える一途の高齢者層も同じだ。例えば65才以上を対象に昨年9月から始まった(有害な)新型コロナワクチンの定期接種などで高齢者を「人口抑制」し、社会の高齢化を非常手段で止めようとしている。

 こうした非正規の見殺しや高齢者層の意図的な人口削減は、日本政府による「トリアージ」なのだ。

 つまりここ何年も続く日本の人口減は、自然に起こったものじゃない。人工的な現象だ。明らかに政府のトリアージ政策によって、その流れが作られている。

 これはいったい、何を意味するのか?

『国に負担ばかりかける「余計な奴ら」はいなくなれ』

 そんな政府による非情なサインといえるだろう。

 この体制下では、例えば何らかの障害を負ったり、ケガしたりした人はもうそれっきり、国から一切、顧みられない。保護されない。完全に見捨てられる。

 つまり弱い者から順番に「勝手に死んで行け」ということだ。

 もはや日本という国は政府が無責任化し、そんな状態にまで陥っている。

エリート壮年の富裕層と大企業だけで効率的に国家運営しよう

 その一方で、日本政府が優遇する階層もある。

 それは政府が意図的に人口抑制している上記2層の中間に位置する、壮年でバリバリ働けて一定所得以上のあるエリート層だ。

 つまり日本政府は明らかに彼らだけを残し、少数精鋭でやって行こうという国家戦略を描いている。

 一方、国民だけでなく、企業に関しても同じ政策が取られている。

 どういう意味か?

 いい業績を上げている優良な大企業だけを優遇する一方、青息吐息で業績の悪い中小零細企業はどんどん潰す。

 そして産業界のスクラップ&ビルドを進め、企業についても国民同様、少数精鋭主義で行く。

 かくて国民と企業、それぞれの階層を絞り込んだ上で車の両輪としてエリート化し、社会全体の効率を上げてうまく国家運営して行こう。

 そんな戦略だ。

 つまり極端な自己責任原則に基づく新自由主義である。

 あのトンマな石破首相が、こんなズル賢い政策を思いつくはずがない。

 おそらくシナリオを描いているのは財務省あたりだろう。

 確かにこのやり方なら、今までみたいに(政府にとって)「余計な社会福祉」なんて必要ない。つまり国家予算のコスト削減が図れる。

 財務省の思い描く通り、そのぶんムダな支出を削って収入と一致させられる。こうして究極ともいえる「地獄の緊縮財政国家」が完成するーー。

 そんな恐ろしい事態が日本でいま、刻々と進んでいる。

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【スピン報道】権力側に都合の悪い事案から世間の目を逸らすトラップにご注意

2025-02-04 17:46:23 | 社会分析
フジの女子アナ・上納案件は囮の「エサ」だ

 フジテレビの女子アナ・上納案件に絡み、「これでもか」とばかりに余波が続いている。

 元女子アナ・青木歌音さんなる新キャラが飛び出したかと思えば、今度は笑福亭鶴瓶さんにも報道被害が飛び火するーー。

 こうして次々に新ネタが発射され、大きな世間の話題になって行く。

 かと思えばつい先日、今度はホリエモンと組んだ対談で、あの長谷川豊・元フジTVアナがスキャンダラスな暴露発言をして大きな話題を呼んでいる。

「これを機に、また浮かび上がれるのでは?」

 過去に一度、社会的に「沈んだ」経験のある長谷川氏にとっては、最後の勝負をかけた行動なのかもしれない。

 そのYouTube動画(以下)でひさしぶりに同氏の喋りを聴いたが、実際、彼はとても語りのスキルが高く、まったく技能が錆び付いてない。

 今からでも番組のひとつも仕切らせれば、立派にコンテンツが成立しそうなレベルにあると感じた。

【緊急対談】「フジテレビに上納文化はあります」日枝久が作った“歪な構造”を元フジアナウンサー・長谷川豊が猛烈批判(堀江貴文 ホリエモン)
https://www.youtube.com/watch?v=V7xXAJ7upeQ

「結果的にスピン」になれば目的は達成される

 さて、こんなふうに世間の耳目を集めそうな(特に下卑たネタなど)旬の話題が繰り返されると、どうなるか? 社会の目はその一点に引きつけられる。で、ほかの出来事に対する注意がすっかりおろそかになる。

 こんなふうに権力側にとって都合の悪い事実から、ズル賢く世間の目を逸らす目的で行われるゴシップの撒き散らしは「スピン報道」などと呼ばれる。

 いや、別に「誰かが意図的に狙って目を逸らしているのかどうか?」は(実態的には)問題じゃない。

 結果的にいまの社会が抱える深刻な「本題」がボケさえすれば、「彼ら」の目標は達成される。例えばそんなスピン報道について評論家の荻上チキ氏は、以下のように分析している。

『僕は、「スピンか否か」という政治意図に着目するのではなく、「結果がスピン的になっていないか」という政治効果に着目するのが重要だと思っている。そして、結果的に政治ニュースの優先順位を下げるような報道のあり方を、「結果スピン」と読んでいる』(「桜を見る会」と芸能報道から考える、「結果スピン」の効能/2019年11月19日付・同氏の以下noteより)
https://note.com/ogiuechiki/n/nc37d8eb10b76

 うなずける意見である。

 つまり「悪いのは狙ってスピン報道するメディアだ」という陰謀論的な意味で言ってるわけじゃない。

 メディア自体にその意図があるかないかに関わらず「情報の受け手の側」(=私たち)は、それに踊らされて結果的に重大事から目を逸らされてはマズい、危ないぞ、ということだ。

 要は、メディアから情報を受け取る側の「私たち」が、どう理性的・客観的に自制するか? の問題である。

 繰り返しになるがフジの関係者だった(しかも非常に饒舌で能力のある)あの長谷川・元アナの参戦は特に直近、話題を呼んでおり、このぶんでは二の矢、三の矢で同氏への後追い報道なども今後ありそうだ。

 とすればこのフジ案件でもうこの先、数ヶ月間は社会の「目隠し状態」が続くのではないか?

 そんな気配も漂ってきた。

 非常に危険な状態だ。

「食料供給困難事態対策法」が4月1日に施行される

 そんなわけでこうしている間にも、たとえば農林水産省が管轄する「食料供給困難事態対策法」(今年4月1日施行)がスーッと通った。

 これはもともと昨年5月23日に第213回通常国会でひっそり成立し、6月21日に公布されたものだ。今年4月1日から施行される。

・ご参考「食料供給困難事態対策法について」(農水省)
https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/anpo/horitsu.html

 内容は、異常気象や国際情勢の悪化で米や麦など主要な食糧が足りなくなったとき、その深刻度に応じ政府が生産者などに生産や出荷の調整を要請・指示できるという食糧安全保障を目指したものだ。

 実は以前からこの法律は「台湾有事」を想定していると囁かれており、カンタンにいえば罰金付きで農家に生産調整を半強制するある種、過激な法律になっている。また農家の営業の自由を侵害するのでは? という議論もある。

 そもそも食糧安全保障という意味でいえば、この問題は(もはや政府がまったくやる気のない)日本の食料自給率をどう上げていくか? という死命を制する重大事とも密接に関係している。

 つまりこの法律のように緊急事態になったら「そのとき(場当たり的に)対策する」なんて問題じゃなく、平時から安定的な食料の生産と供給ができる体制を整えておくべきお話なのだ。

 また立場によって、例えば生産者か? 消費者か? でも意見は分かれる。まさに国民的な議論が必要な大テーマだといえる。

国民に向けたパブコメの募集が始まった

 さて、これについて農水省はきょう4日、「食料供給困難事態対策の実施に関する基本的な方針案」(以下URL)を公示した。この案について3月5日まで、国民に対しパブリックコメントを募集する。

【食料供給困難事態対策の実施に関する基本的な方針案】
https://public-comment.e-gov.go.jp/pcm/download?seqNo=0000286633

 パブコメするには、以下のページへアクセスする。

「食料供給困難事態対策の実施に関する基本的な方針案」についての意見の募集について
https://public-comment.e-gov.go.jp/pcm/detail?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&Mode=0&id=550004063

 上記のページからコメントを投稿する際には、まず同ページにある3つのPDFをひと通り開いた上で中身を読む。

 すると次にその下段にある「意見募集要領(提出先を含む)の全部を確認しました」という一行の冒頭にある四角い空欄にチェックマークが付き、さらにその右下の「意見入力へ」のボタンを押すと投稿できる。

 最低限、3つのPDFのうち、いちばん上にある「意見募集要領」さえ開けばラジオボタンにチェックマークが付き、投稿可能だ。だが、できればなるべく3つとも読んでほしい。

 なお、このテーマは「アベマプライム」でも取り上げられ、ひろゆきさんら数人のメンバーによって討論されている。動画は以下から視聴可能だ。

『食料危機の新法「農業の自由奪われる」本当か? 3Kイメージも? 減少する農家』(アベマプライム)
https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p6208?pl=1&resumeTime=803&utm_campaign=times_yahoo_10160974_centertx_ap_free_episode_89-66_s99_p6208&utm_medium=web&utm_source=abematimes

 一方、例えば外務省の関連では、昨年12月25日、来日する中国人富裕層向けに10年間も有効になる観光用の数次ビザが新設されると同時に、団体観光ビザの滞在日数も延長された。

「両国間の経済・文化交流を促進する」といえば聞こえはいいが、中国関連では特に北海道の土地が中国資本にバンバン買い漁られるなど、いまや深刻な社会問題になっている。

 このほか現在いくつもの社会問題になるような重要案件が控えているのだが、長くなるので今回はこのへんにしておこう。また回を改めて深掘りするつもりだ。

 お楽しみに。

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【右傾化の仕掛け人】なぜ日本はそもそも「右」が当たり前になったのか?

2025-01-08 09:42:09 | 社会分析
80年代発のTV番組「朝生」司会者・田原氏のシナリオでそれは始まった

 まず素朴な疑問がある。

 過去に以下の記事で書いた通り、2020年代にグンと台頭した石丸伸二・元安芸高田市長と玉木雄一郎・国民民主党代表、立花孝志・N党党首の3者やその支持者たちは、そもそもなぜ揃いも揃って右派なんだろうか?

✳︎ご参考【現代の真相】政治に新風を吹き込むビッグ3「石丸・玉木・立花」はなぜ揃って右なのか?(すちゃらかな日常 松岡美樹)

 実は、上記の記事ではあえて書かなかったが、それにはハッキリ歴史的な由来がある。

 はるか日本の右傾化の源流を辿れば、最終的には「あるテレビ番組」に行き着くのだ。

 で、その番組から生まれた新世代の右派を(いわゆる「伝統的右翼」と区別して)第一世代と定義付けたとしよう。

 こう見ると、その後も続く第二、第三世代の右派が、すでにテレビやネット世代において代替わりを続けている。

 そして今では、すっかり何世代かが生まれ変わっているのが現状だ。

朝ナマで田原氏は「意図的」に右派の論者をしっかり揃えた

 では、その「テレビ番組」とは、いったい何か?

 正体は、80年代にあのジャーナリストで評論家の田原総一朗氏が仕掛けた討論番組「朝まで生テレビ!」(1987年4月放送開始)である。

 現在では、同番組はBS朝日に引っ越している。だが当時は放送開始からずっと、より視聴率が高く社会に影響量のある地上波のテレビ朝日で、金曜〜翌日未明までの深夜帯に放送されていた。

 番組・司会者の田原氏はあの番組で、左派の言論人に対抗させる形で抜け目なくしっかり右派のデキる論客をズラリ揃えていた。

 例えば当時、メインパネリストとしてレギュラーだった評論家・保守思想家の故・西部邁氏(元・東大教授)と映画監督の故・大島渚氏という両雄を左右に従えていた。

 あの番組では、彼ら2人が右派と左派を象徴する存在としてキャスティングされていた。

 そのほか特に右派としては、東大教授(当時)の舛添要一氏や故・西尾幹二氏(元・電気通信大学名誉教授/元・新しい歴史教科書をつくる会会長)や、また「右」の革新者である故・鈴木邦男氏(民族主義団体「一水会」創設者)、そして大物の故・野村秋介氏(新右翼、民族派活動家。のち朝日新聞に乗り込み1993年に拳銃自死)ら、それまでテレビなどの一般マスコミには絶対に呼ばれなかった右派の大物言論人らを、あえて積極的に番組に招いた。

 そんな彼らが発火点となり、かくて日本で初めて「右傾化の波」の第一波を巻き起こしたわけである。

巧妙な演出で左派の「穴」を突かせた司会者の田原氏

 旧来のマスコミによる紙面づくりや番組制作では、主に左派の有名言論人や知識人だけを揃えるのが常だった。

 もっぱら彼らに「人権重視」を基調とする、左派の考え方を「正論」として語らせるのがメディアの常だった。

 だがあの朝ナマの(左派だけでなく)右寄りの論者をスキなく配置した常連出演者の陣容を見れば、司会者である田原氏の狙いと仕掛けはハナから明らかだった。

 おそらく「すっかり左に偏った今の世の中に、一発、オレが風穴を開けてやろう」てな狙いだったのだろう。

 そんなわけで番組の基本的な演出は、こんなふうだった。

 まず「左」の論者にいかにも「正論」に聞こえる(実は建前的な)持論(つまりこれが当時のすっかり左に偏ったスタンダードな世論になっていた)を語らせる。

 で、次に「右」の論者に、彼らの矛盾点を突く知的で巧妙なツッコミを入れさせるのだ。

 つまり左の論者の論理に潜む、根本的な矛盾点(これがそっくりイコール、当時の日本社会が抱える根本的な論理矛盾だった)を突かせて叩かせるーー。

 そんな番組進行だった。

 とすれば、生まれて初めてテレビでこうした右派の論理を聞いた視聴者は、「あれ? 自分は今までてっきり(左の論者が番組で語る論理が正しい)と思っていたが……まちがいだったのか?」と自然に気づくーー。

 そんなうまい仕掛けだった。

(まあ後から考えれば、実はこれも田原氏・一流の左から逆方向へと向かわせる「洗脳」ではあるのだが)

 つまりすっかり左に傾いた世論のバランスを取り、今度は逆に右へ寄せようとする司会者・田原氏が描いた巧妙なシナリオだったのだ。

舛添氏が見せた左派へのトボけたツッコミは絶妙だった

 ともあれこのやり方で番組は見事に大成功し、ウケまくった。

 まず珍しくテレビでこんな寸劇を観た右派の人たちは、「そうそう、オレが言いたかったのはそれなんだよ!」と賛同する。

 一方、「なんとなく左派」だった人たちは、「あれ? 自分が今までもっていた(左派的な)考えは、実はまちがっていたんだろうか?」と自分に疑問を持つようになる。

 そんなウマい仕掛けで、番組は当時の左派が支配する「致命的な陥穽に落ちた日本社会の基本的な矛盾点」を次々に暴き出した。

 特にそんな欺瞞的な左翼論者が持つ「穴」の突き方が、バツグンにうまかったのが舛添要一氏だった。

 彼は敵の手の内を(実は)完全にわかっていながら、最初はわざとトボけて相手の左傾化した話を「うんうん」と聞きながらエンエンとまずしゃべらせる。

 で、次にやおら、こう切り出すのだ。

「あれ? でもあなたのその論理って、実はこうおかしいんじゃないですか? そこは矛盾してますよね?」

 こんな具合いで、見事に敵の首を取って見せるわけだ。

 彼のこのやり口は、実に巧妙でおもしろかった。番組では、このやり取りがウケまくった。

 かくてそんな手法で番組に出る左の論者たちは、揃って片っ端から論破されて行った。

 その田原氏による狙い通りの「右方向への修正作用」(世論誘導策)がやがて番組のワクを飛び出し、まるでさざ波のように世の中一帯へと浸透して行った。

 これがその後の日本の右傾化の起点になったのだ。

 当時、「朝ナマ文化人」などというネーミングができたほど、この番組での右派の論陣は冴えていた。

 で、やがてはそれがだんだん社会のデファクト・スタンダードになって行くことになる。

 のちに日本は90年代以降にかけてさらに右ぶれし、やがて社会の隅々にまで右傾化の波が浸透した。それが今や、2020年代では「右であることが当たり前」の世の中になった背景だ。

知的刺激でいっぱいだった「朝ナマ」の議論

 80年代当時、あの「朝ナマ」が発信した議論は新鮮でまったく見たことがなく、かつ知的刺激でいっぱいだった。

 特に常連だったあの西部氏が次々に繰り出す、聞いたこともないような「ひねりのある知的な問題提起のしかた」には、口をあんぐりさせられたものだ。

 当時、まだ戦後の日本が左翼運動の思想や論理にどっぷり占拠されていた状態のなか、各家庭では判で押したようにみんなが「朝日新聞」を購読し、揃って左の人権意識に染まっていた。

 その大衆があの「朝ナマ」を初めて観て、後頭部をガツンと一発やられることになった。

「世の中にはこんな思想があったのか!」

 実際、そんな「ニューワールド」は、実にエキサイティングだった。

最後にトドメを刺したのは橋下徹・大阪市長(当時)だ

 一方、こうした右傾化の波が社会全体を覆うにつれ、90年代以降の左派はすっかり退潮して行った。

 特に右派のニュースターとして期待を一身に背負い、日の出の勢いで維新から台頭した橋下徹・大阪市長(当時)が、2012年に勃発した「左の巨頭・朝日グループとの骨肉の戦い」に完全勝利を収めたのが大きかった。

 そして最後には朝日グループ側から謝罪を引き出す。あれで朝日に代表される「左の権威や文化」がガタ落ちし、右の完勝がすっかり確定した。

 以後、今に至るも左の勢力は、もはや見る影もないのはご存知の通りだ。

 果たして今後また時代がもう一回転し、「左の世界」が来ることはあり得るのだろうか?

 個人的にはそんな新しい潮流を唯一、「もはや左右の争いではなく、上流階級(既得権益者層&支配階級) vs 下層階級(一般庶民&被支配者階級)の戦い」へと昇華させようとしている、れいわ新選組の山本太郎代表には注目しているが……さて、どうなるだろうか?

 ここは注目の焦点である。

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【兵庫案件】いま日本社会は「マス・ヒステリー状態」にある

2024-12-31 20:25:03 | 社会分析
とんでもない怪情報が次々にネットで飛び出す

マス・ヒステリー」とは?

 まぁ、こうなることは予想していたが、今日もまた兵庫に絡むとんでもない怪情報がネットで飛び出した。

「あれって、まにウケる人もいるんだろうなぁ」

 これじゃ、SNS規制が日本でも実現してしまうぞ。

 例えばオーストラリアで実現しそうな以下のような法律だ。

SNS規制が検討される世の中になった

オーストラリア、16歳未満のSNS利用禁止案可決 世界初」(日経)

 上記のニュースを伝える日本経済新聞によれば、同法案はオーストラリア議会で今年11月28日に可決されたばかり。法律は成立後、1年後に施行される。

 ザックリいえば、16歳未満のSNS利用を禁止する内容だ。X(旧ツイッター)やTikTok、インスタグラム、フェイスブックなどが対象になる。

 各SNSサービスを運営するIT企業側が、子どものアカウントが作られないよう措置を取る義務を負う。

 違反した場合は「運営企業側に最大4950万豪ドル(約50億円)の罰金が科される」(同紙)。ただし利用者である子ども本人や保護者に罰則はない。

 同紙は「親の同意があった場合でも、子どものSNS利用が禁止されるのは国家レベルでは世界初」だという。

 記事のコメント欄では、プライバシーや知る権利の保護、言論の自由などを危ぶむ声も出ている。

日本でも「こども家庭庁」がネット規制の検討を始めた

 一方、日本でも、こども家庭庁が11月25日、有識者や関係各省庁の課長級で構成する「インターネット利用を巡る青少年の保護のあり方に関するワーキンググループ(WG)」の初会合を開いたばかりだ。

 こんな対策が検討されるほど、いま日本のネット上では真偽不明の怪情報が乱れ飛んでいる。まあ、とんでもない状態である。例えば本ブログで過去にザッと紹介した事例だけでも、以下の通りの有様だ。

【兵庫に見るメディア論】終わっているのは「オールドメディア」だけじゃない
https://blog.goo.ne.jp/matsuoka_miki/e/d171834d596908e377d81e5136651f6c

マス・ヒステリー状態を作り出したのはN党・立花孝志氏だ

 日本におけるそんなマス・ヒステリー状態の発火点になったのは誰か? 紛れもなく先日の兵庫県知事選挙に乗り込んだN党の立花孝志氏だろう。

 彼は「いま自分は躁状態だ」と自ら語りながら、くだんの兵庫県知事選で怪しい言動を繰り返した。

 かくて次は泉大津市長選に臨むという立花氏に対し、今度は同じく「目立とう精神」に駆られたごぼうの党・奥野たかし氏が場外乱闘を宣言する始末だ。

 絵に描いたようなマス・ヒステリー現象である。

 いや立花氏はそもそも躁状態で、ネットなんてやっちゃダメなのだ。そりゃあタガが外れるに決まっている。

 それでなくても日本のネット界は、上記の通り無法状態なのだから。

 やれやれ。

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【兵庫案件】今回の現象は「1%(利権者側) vs 99%(庶民)」の争いだ 〜古谷説に異論あり

2024-12-21 12:15:31 | 社会分析
知的好奇心をくすぐられる古谷氏の言説

 今回の兵庫県知事選挙をめぐる興味深い分析記事を読んだ。

 作家で評論家、また一般社団法人・令和政治社会問題研究所所長の古谷経衡氏がお書きになった記事「なぜ彼らはテレビよりSNSを信じるのか~「検索とクリック」という魔物~兵庫県知事選挙から1か月」である。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f3dc243808ed052f4deb69ccadd992e21648a429

 おかげで触発され、次々に新しいアイディアがわいた。そこでそれらをこの記事で紹介しながら、私なりの論駁を交えて書いてみようと思う。

 まず古谷氏はこの論説で『テレビや新聞は受動のメディア、SNSは能動のメディアだ』としながら、なぜユーザはテレビよりSNSを信じるのか? というテーマについて、以下のように分析する。

 少し長くなるが、主論と思われる部分だけを、まず以下に引用しよう。

(ユーザがテレビよりSNSを信じる理由は)『ほとんどの人間にとって、もはやテレビや新聞といった、いわゆる「オールドメディア」は、水や空気のような存在であり、受動的で「受け流す」メディア・インフラになっているからだ。それに対してSNSでは、検索窓での入力や、画面のタッチ、クリックによって、「能動的に自分が選ぶ(選んだ)」という動作が加わることで、一部の人にとってはテレビよりもはるかに信用できるメディアとして機能しているからである』

『テレビは「勝手に流れてくるメディア」であり信用に値しない。一方、SNSやネットは「検索とクリック」という行為が、「これは自分で選んだ情報である」とユーザーを錯覚させる。人間は、国籍や年齢の別なく、「自分で選択したもの」に価値を置き、ありがたみを感じる。与えられたものより、自分の意志で選んだものの方が尊いと思う』

『検索とクリックという過程を経て「たどりついた」ように思えるネットやSNSや動画からの情報は、このような身体性の有無によって、テレビや新聞よりも「信用できる」と少なくない人は感じるのである』

古谷氏のいう「身体性」とは自分のカラダで選んだ実感を指す

 上でいう「身体性」とは、つまり検索やクリックのような自分で能動的に行う動作を指す。それが自分で選んだ=だから正しい、という心理的作用を人間に及ぼすーー。

 これが古谷氏の論説だ。

 新聞やテレビと違い、SNSではこれらの「身体性」が一枚噛むことでツールから情報を得る行為に「確からしさ」が加わる、と氏は論述されている。

 そして記事の中段で『筆者は永年、ネット保守や陰謀論者の動静を調査、分析してきた。その結果、荒唐無稽な作り話や、陰謀論を信じている者のほとんどが、老若男女問わず異口同音に言うのは「私が調べた、勉強した」と口にして、前述の陰謀論を信じる強い理由や動機にしている』と補足されている。

 だが氏の論説は、私の分析とかなり異なる。

 確かに氏が解説される通り、メディア構造としての「プッシュ or プル型」の違い(これらの意味は後述する)は、今回の現象を引き起こすひとつの大きな「誘因」になっている。

 氏が語るそれは、SNSというネットツールの機能が人間のメンタル(心理面)に与える影響を明快に解説されている。だがあくまでそれは今回の現象を引き起こした誘因(きっかけ)であり、各論のひとつだと私は考える。

 今回の現象を主構成するメインテーマ(本論)は、ほかにあるのだ。

 つまりこの社会現象は、人々が選んだメディアのタイプがこうした「プッシュ型か?」、あるいは「プル型か?」に起因するものでは必ずしもない。

 ちなみにこれらの言葉は、マーケティング用語だ。次項で解説しよう。

プッシュ型はメディアから一方通行で来る情報、一方のプル型は双方向通信だ

 カンタンにいえばプッシュ型とは、メディアから一方通行で情報を受け取るコミュニケーションを指す。

 これは従来の大手メディアなど、いわゆるオールドメディアが取ってきた手法だ。

 マーケティングの世界でプッシュ型は、「企業側から積極的に商品の宣伝・販売等を行う戦略だ」とカテゴライズされている。

 一方、ネットに代表されるプル型は双方向通信だ。

 ひとことで言えば「ユーザ参加型のメディア」である。今回のケースに見られるようにSNSをフル活用した「能動的」なコミュニケーションがこれに当たる。

 これらの差異を古谷氏は記事の中で、オールドメディア=受動的、SNS=能動的と定義付ける。

 つまりSNSが活躍した今回の現象では、人々はすすんで自分が検索するなどの動作を行うことにより、能動的に情報を選んだ。

 そのことで「SNSはそのぶん信用できるメディアだ」「このコミュニケーションは真実性が高い」「SNSから流れてくる情報はテレビより確度が上に違いない」と認知した。

 だから今回の案件では、多くの有権者がデマを信じてしまったのだ、と分析されている。

 繰り返しになるが、もちろんこの要素も「一因」としてあり得る。だがそもそも今回の社会現象を引き起こした「主因」は、あくまでそれとは別だ。

 氏のおっしゃる説は引き金・論にすぎず、現象のきっかけである。語るべき主題は、ほかにあると私は考えている。

主題は「1%(富裕層)vs 99%(貧困層)」という社会階層の対決にある

 結論から先に言おう。

 私の解釈では、今回の出来事はオールドメディアにずっと支配され続けてきた社会の「99%」を構成する人々が、ネット(=SNS)という飛び道具を手にしたことで起こった一種の擬似「大衆革命」だ。

 ここでいう「1% vs 99%」とは、「1%(富裕層=既得権益側)の人々と、99%(貧困層=持たざる者)」に社会階層を分類することで、貧富の格差と権力の支配構造、またそれに起因するアメリカ社会で過去に起きた運動を表現した言葉に由来している。

 おそらく今回の兵庫現象の源流はそこにある。

 この言葉は一時、日本でも話題になったので覚えている方もおられるだろう。

 ひとことで言えば、アメリカで起こった「富裕層 vs 庶民」の争いだ。極端な超・富裕層に支配されているアメリカ社会は、「1% vs 99%」の社会構造にあると分析されたわけだ。

 この言葉が今回の「兵庫案件」を説明するのにいちばんぴったりくる。つまりこれは社会構造の問題なのだ。

話は2010年代のアメリカにさかのぼる

 例えばアメリカに在住する映画評論家・コラムニストの町山智浩氏は、「99%対1% アメリカ格差ウォーズ」(講談社)と題する書籍を2014年にリリースした。そこにアマゾンはこんな解説をのせている。

『オバマはヒトラー! オバマはアフリカへ帰れ! 貧乏人に医療保険を与えるやつは殺す! ワシントンに集まり気勢を上げる幾万もの金持ち保守層。金持ちに増税しろ! ウォール街を選挙せよ! 経済を危機に陥れ民主主義のプロセスを犯罪的に逸脱してきた金融屋を弾劾する貧乏リベラル。取材で訪れた著者も思わず「もう、沢山だ!」と叫んだ。富める1%と貧しき99%との壮絶な「アメリカの内戦」を鋭い舌鋒で斬る!』

 類似の書籍はもちろん他にもある。以下の書籍も2010年代初頭に起こった社会的な激動を扱っている。

99%の反乱-ウォール街占拠運動のとらえ方」(サラ・ヴァン・ゲルダー・著)

 同書のアマゾンによる解説にはこうある。

「世界の不況はここから始まった!  いま、アメリカで何が起きているのか?! 2011年9月、最先端資本主義国家アメリカで、政治家や識者が起こるはずがないと思っていた何かが起こった。 サブプライムローンの暴落、それに続くリーマンショックを経て、さらに肥え太った1%のスーパーリッチに対して、99%の大衆はついに異議申し立てを開始した」

アメリカで起こったことは「10年後」に日本でも起こる

 つまり今回の兵庫の現象は、日本におけるこうした社会構造の「揺り返し」なのだ。まぁ古めかしい表現をすれば「社会運動」の一種とも解釈できる。

 ちなみにアメリカでもまだ当時、こうした現象におけるインターネットの影響はあまり語られてなかった。だが今回の兵庫案件も、主題はここにあるのだろう。

 アメリカで起こったことは、10年経って日本でも起こるーー。

 これは昔からよく言われてきた言葉だ。その通り、町山智浩氏の上記の書籍は2014年に発売されている。

 アメリカでこの出来事が起きたそれから10年後、つまり日本の今、2024年にそれが当たる。やっぱりあの現象は、10年後に日本へ来たのだ。

 日本における「1% vs 99%」の戦いこそが、兵庫における出来事だった。

 これは長く続いたオールドメディアによる支配構造に反発する、ネットユーザによる揺り返しといえる。

「見よ、ネットの勝利だ!」とあのとき彼は叫んだ

 今でもよく記憶に残っているのは、2000年頃、誰でもカンタンに記事更新できる「ブログ」がまず初めて興隆し、大ブレイクしたときのことだ。

 それまでのWebページは、サイトの構築や記事更新に手間や専門知識が必要だった。だから一般人にはなかなか難しかった。

 だが、そんな常識を誰にでもカンタン便利に扱えるブログがぶち壊し、一気にネットを広く一般化したのだ。

 これで新聞やテレビなどの既存メディアは、いっぺんに追いやられた。

 で、当時、ある名もない1ネットユーザーが、ブログでこう言った。

「見よ、ネットの勝利だ!」

 と。

 マスコミが支配する社会に対する、アンチ勢力としてのネットーー。

 インターネットの発祥以来、ネット世界ではこうした図式で社会構造が語られることが多い。ネットユーザは歴史的に、ずっとこの煩悶を抱えてきた。

 その意味で上にあげた「見よ、ネットの勝利だ!」は、オールドメディアの対局に位置するカウンターカルチャーとしてのブログ側による勝利宣言だったわけだ。

 以後、mixiができ、またFacebookやLine、TikTokなどのSNSが続々と一般化したのはご存知の通りである。

SNSを自在に操れる10〜30代の若い層が「兵庫革命」の主役か?

 では、今回の兵庫SNS革命とも呼べる出来事の主役になった「彼ら」の属性は、どんなふうか? 想定してみよう。

 一部にお年寄りの有権者もおられただろう。だが私の肌感覚では、比率はそう高くないと感じる。

 何より今回はSNSが事態を左右する主役を担った。とすれば主役は、SNSを自在に操れる(有権者ではない人々も含めた)若い層のはずだ。

 これは容易に想像できる。

 私のイメージでは、おそらく多くは10代〜30代のネトウヨ層も多く混じる若い年代だろう。

 すなわち彼らは生まれた時からネットが存在し、当然のようにSNSに馴染んでいる(具体例は後述する)。当然、ハナから新聞なんて読まない。さらにいえば(従来の地上波などの)テレビも観ない。

 若者の新聞離れはすでに有名な話だが、最近では視聴者のテレビ離れもかなり顕著になっている。

 まず年代的な分析は以上の通りだ。

都知事選の石丸旋風と国民民主ブーム、兵庫の斎藤&立花支持者にある共通項とは?

 では兵庫の斎藤知事や立花氏の支持者を、「政治的な層」として分析するとどうか? 

 おそらく小池氏が勝った先日の都知事選で2位に躍進した石丸伸二候補を支持し、あの石丸旋風を巻き起こした層と「丸かぶり」だろう。

 さらには国民民主党の支持率が急上昇した現象を実現した階層や、また今回の「兵庫案件」で立花氏や斎藤知事を支持する層とも重なっているはずだ。

 石丸旋風、国民民主の台頭、斎藤知事の再選(と立花支持)という3つの社会現象には、大きな共通項がある。1つは支持層が若いこと。2つめは、そんな彼らによるネット(特にSNS)の活用術だ。

 彼ら支持層に共通するキーワードは「反既得権益・反オールドメディア・親ネット(=SNS)」である。

 もうひとつ言えば、これまでの政治に嫌気がさし、ずっと選挙を棄権してきた層とも一部、重なる。

彼らの支持を得れば大きな政界再編や政権交代の可能性もある

 余談だが……ならば今後、この層を果たしてどの政治勢力がコントロールし、握るか? によって政治の流れは大きく変わる。

 今まで政治にまるで参加せず、投票を完全に棄権してきた層がまったく新しく加わるのだ。では彼らの政治参加は、いったい何を引き起こすのか?

 わかりやすく単純化すれば、選挙のとき、まず「自公で投票全体の50%を取る」、「残りはすべて家で寝ている。すなわち棄権=0%」。

 これですなわち自公政権が永続するーーという、これまで長く続いた政治構造自体が、彼らの政治への参加で大きく変わる可能性がある。これは大きい。

 つまり仕掛け方によっては、大規模な政界再編のひとつくらいは起こせるだろうし、もちろん先では政権交代もある。

 これらの予想は、すでに各種の調査結果でも明らかになっている。

G7各国における自殺死亡率は日本がダントツの1位だ

 過去にも一度書いたが、彼ら若い人々は自公政府の酷い行財政政策(特に財務省主導の緊縮財政)に晒されてバカを見てきた層だ。

 おかげで日本は30年も続く酷い不況下にある。

 加えて「政府はお前たちを助けないぞ」という自己責任論に基づく弱者切り捨て政策が長年、取られ続けた。

 政府による大きな財政支出や消費減税もなく、ただ貧しい者は見捨てられ、滅びゆくーー。

 その結果、特に若い層では低賃金で不安定な非正規雇用や派遣、ワーキングプア化が進んだ。

 なかでも都市部の若者は、経済的・社会的に貧しく孤立している。

 ゆえに異性との出会いもない。その結果としての少子高齢化だ。そんな追い詰められた若い層の自殺が、いまや深刻な問題になっている。

 ちなみに世界保健機関資料(2023年2月)によれば、G7各国における自殺死亡率はなんと日本がダントツの1位だ。

 この環境下で若い層は借金だらけになり、最近では苦し紛れに一時しのぎのつもりで「闇バイト」に手を出す。

 クレジットカードで借りたカネを返すために、一回だけーー。そんな追い詰められた彼らの心情が透けて見える。

 そして結局、足が抜けなくなり、とんでもない事件になるケースが続発している。いまや深刻な社会問題である。

 昔とちがい、「犯人」は社会のごく一部を占める暴力団やヤクザではない。なんの変哲もない、ただの若者だ。それだけに事態は急を要する。緊急事態だ。

 こんな社会情勢にあって、日本では急速に若い層による敵・味方の区別、つまり「ヤツらは体制派(=利権者側・既得権益側)か? そうでないか?」という峻別が進んでいる。

 二極化した社会階層が、激しく対立する構造だ。

オールドメディアはネット民から見て「利権者(既得権益側)の象徴」だ

 さて今回のこれら3つの現象(石丸、国民民主、兵庫案件)を起こしたのは、誰か?

 おそらくいわゆるネトウヨ層を多く含んでいるだろうと思われるが、もっともその政治思想が起因し起こしたものではない。

 単にネトウヨ層がイコールそのまま、いまの若い人たちの主流になっているだけのことだ。政治思想は関係ない。

 若い層がドッと一気に動いた、そんな彼らは(結果的に)実はネトウヨ層が多かったーーそういう話だ。

 つまり最大の眼目は、その人の経済力や所属組織に由来する「上流か? 下流か?」「1%か? 99%か?」という階層関係にある。

 そんな被支配者層(搾取される側)である彼ら(下流=99%側)から見れば、いわゆるオールドメディアは利権者(既得権益側)の象徴に見える。

 彼ら下々にとっては、オールドメディアは政府に代表されるいわゆる体制側と一体化したナアナアの存在なのだ。

 体制側(支配層である上流=1%側)と既存メディアはグルになり、(わかりやすい例で言えば)「公金チュウチュウ」する存在だと彼らに見られている。

「だからオールドメディアは、政府のような既得権益側に都合が悪いことは報じない」

「奴らは『報じるべきこと』を報じないのだ」

 そう彼らは考えている。オールドメディアの実態を、すでに彼らは知っている。

 だから彼ら若い層は受動的なオールドメディアではなく、「結果的」に自分の手で操作し能動的・恣意的に双方向で発送信できるSNSを頼りにする。

 ゆえにSNSの情報を信じたーーこう解釈すればすべての謎は解ける。ストンと落ちる。

オールドメディアの栄枯盛衰に関するメディア分析は次回以降で

 いったんまとめよう。

 古谷氏がおっしゃる「すべてはSNSというメディアがもつ能動性が起こした」説は、あくまでSNSの能動性がネットユーザを「その気にさせる引き金」になったこと、つまり誘因を説明したものだ。

 つまりこの社会現象は氏のおっしゃるように、メディアが「プッシュ型か? それともプル型か?」に起因するものではない。もちろんそれは一因ではあるが、決して主因ではない。本論は別にある。

 では本論とは何か?

 繰り返しになるが、最後に再度、カンタンにまとめよう。

 今回の社会現象の底流に流れる大きな胎動は、明らかに「1% vs 99%」「支配 vs 非支配」「抑圧 vs 非抑圧」「利権者側 vs 持たざる者」という大きな社会構造的な対立が引き起こしたものだ。

 SNSの能動性や、いわゆるオールドメディアの後進性等は、それらの現象を構成する脇役であり一要素にすぎない。

 ではこうしたSNSの最前線では、いったい何が起こっているのか?

 いまどきのSNSは、若いユーザにどんな使われ方をしているか? 他方、テレビや新聞などのいわゆるオールドメディアの栄枯盛衰ぶりや、現状はどうなっているのか?

 このところ、そんなとても興味深い「驚愕の最新調査データ」が立て続けに公開されている。

 その中では特にテレビの見るも無惨な凋落ぶりが、まざまざと浮き彫りになった。一方、それに代わるYouTubeの躍進も、とんでもない数字やデータで厳然と論証されている。

 そこで次回以降は、これらのデータを順次ご紹介しながら、さらに深くメディア分析をしていこう。

 お楽しみに。

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【SNS規制】兵庫県議会がSNS規制を求める「怪しい動き」。それに反対する声を伝える記事も

2024-12-15 21:44:21 | 社会分析
賛否が入り乱れる現状を見る

 まあこういう動きは当然、出るだろうなとは思っていた。

『「辞職しろコノヤロー」知事選めぐり兵庫県議に「SNSで誹謗中傷」 県議会が法整備求め国に意見書提出へ』(関西テレビ「newsランナー」2024年12月13日放送)

 つまりオールドメディアと政治家が結託し、自分たちの「エサ場」を荒らす新興勢力であるSNSを退治しようというわけだ。

 だから先読みし、それに警鐘を鳴らすため、以下の2本の記事を書いたのだ。

「【兵庫発の社会現象】N党・立花氏はしばらくネットから離れるべきか?」(すちゃらかな日常 松岡美樹)
https://blog.goo.ne.jp/matsuoka_miki/e/f6f2a49fdc266d0ff425801dbddac875

「【政府の思うツボ】世界的に大規模なネット規制が始まりつつある」(同上)
https://blog.goo.ne.jp/matsuoka_miki/e/c2a61b841148d24413dc650d600449f0

 かと思えば「ネット民の支持を得よう」という狙いなのか、こういうスポーツ紙の記事もある。

『「どの口が?」 兵庫県議会、選挙中のSNS利用に法整備求める意見書案を可決… 「不信任の検証が先では」批判の声』(中日スポーツ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/d4729085377cdd102406e2f9350c5af1a247641d

 上記の記事では(N党・立花氏的な行動を抑止しようとする)「この県議会の動きに、X(旧ツイッター)では賛否が交錯した」とし、「『どの口が?』などと県議会批判の声が多くを占めた」という。

 まぁ、そうだろうねぇ。世の中、いろいろだ。

あのとき朝日新聞記者の反応はこうだった

 ちょうど過去に、このテの動きに絡んで朝日新聞を取材したことがある。

 そのとき私の取材に同行した担当編集者が開口一番、「新聞から見ると(反体制SNSメディアを気取る)こういう動きは『素人衆が何を言うか!』みたいな感じですか?」などと、相手からエキセントリックな反応を引き出そうとする、いかにもトンデモな誘導尋問をしたのだ。

 すると驚いた先方は別の意味でエキセントリックな反応をし、「いや冗談じゃない。そんなことを言ったらどんな反応が返ってくることか」と物凄く警戒していた(笑)。

 つまり「このインタビューに答えると、いったいどんな記事を書かれるんだろう?」と、見るからに危ぶんでいるわけだ。

 いやぁ、あの誘導尋問はさすがに居合わせた私の目から見ても「危ない質問」だったなぁ。

(遠い目)

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「関係性の病」に侵された人に売れるコミュニケーション・ソング

2008-01-06 01:54:45 | 社会分析
■あなたはクリスマスに1人でいられるか?

 現代人は関係性の病(やまい)に侵されている。

 現代人にとって、他人とのコミュニケーションは生きる糧だ。だから「恋人がいるかどうか?」、「友だちが何人いるのか?」で人間の等級(価値)が決まる。で、負け組はひっそりアパートで孤独死して行く。

 たとえばあなたは、クリスマスに1人でいられるだろうか?

 バレンタインデーになると意味もなくそわそわしてないか?

 そんな世の中の喧騒とはまったく関係なく、自分は自分だと超然としていられるか?

 他人との関係性こそが生きている証だと感じる人は多い。だから音楽をピュアに楽しむのでなく、音楽を人とのコミュニケーション・ツールとして使う人たちにCDは売れた。それが90年代に起きた出来事だった。

音楽ビジネスはもともと純粋な音楽ファンを相手にした商売ではなかった。

それよりも、音楽自体に対する関心の強弱とは関係なく、音楽を媒介にしたコミュニケーションに興味ある一般層がターゲットだった。

●くだらない踊り方『「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年』


■お茶の間で歌われた家族のためのコミュニケーション・ソング

 だがコミュニケーション・ツールとして機能する音楽の系譜は、筆者のrmxtoriさんがおっしゃるような10年前だけでなく、もっと前の時代にも存在した。

 たとえば450万枚以上を売り上げた子門真人の『およげ!たいやきくん』(1975年)は、当時まだ日本に存在したお茶の間で、家族みんなに歌われた。あるいは西城秀樹の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』(1979年)もそうだ。

 まだ小学生の息子からおばあちゃんまで家族全員が仲よく居間に並び、テレビを前に同じ歌を同じように口づさんだ時代だった。それは家族の関係性のためのコミュニケーション・ソングである。

 ところが核家族化が進み、夫婦と1人の子供で構成される3人の家族においてさえ「お茶の間」はなくなった。

 今では家族1人1人がそれぞれの個室で別のテレビを観ているか、そのテレビさえ消えてなくなっている。下手をすると各人が、自分の部屋でてんでにインターネットしていたりする。

 これだけ人間の関係性が変われば、かつてのようなコミュニケーション・ソングは成立しないし、必要ない。

■パラレルなコミュニケーションの時代に生き残った音楽たち

 だが家族で歌うためのテーマソングはお茶の間から消えても、コミュニケーション・ソングは生き永らえた。それがrmxtoriさんのお書きになった10年前の状況だ。

もともと志の高くない音楽のユーザーとは、純粋な意味での音楽ファンではない。

彼らにとっては音楽は、所詮ツールであり、媒介だった。

10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした。(中略)

学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。

だからこそ、「みんなが聞くからみんなが聞く」というインフレーションを起こし、ミリオン・ヒットが量産されていった。それが10年前だ。 ●同


 家族とは、「親と子」、「祖父と母」みたいな垂直のコミュニケーションである。一方、rmxtoriさんが例示した「学校や職場の友達同士」のそれは、パラレルなコミュニケーションだ。

 垂直のコミュニケーションは世代間断絶を生みやすく、それゆえに70年代型のコミュニケーション・ソングは死んだ。なぜなら「宿主」だったスタンダードな家族像そのものが死滅したからだ。

 それに対してパラレルなコミュニケーションには、年代差という絶縁体はない。だからより伝播力、浸透力が強い。

 で、70年代から80年代をへて10年前に生き残ったのは、水平に伝わる90年代型のコミュニケーション・ソングだった。

 恋人たちは同じ立ち位置と目線から、たがいに目と目で見つめ合う。そして彼らはドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌である『ラブ・ストーリーは突然に』(1991年)を聞き、ともに泣くことで2人の愛を確認した。

 CDがドンドコ売れた90年代の幕開きである。

■CDが売れないってどこの世界の出来事なの?

 rmxtoriさんが言及されてない古い時代を補足する形にはなったが、このへんの私の時代認識はrmxtoriさんのそれに近い。

 ただし極めて個人的な実感を言えば、CDが売れないってどこの世界の出来事なの? という感じがする。不思議なものだ。

 例えば私事で恐縮だが、私は昨年11月の2週間で、ブラッド・メルドーのCDを合計15枚くらいアマゾンとHMVで購入した。クレジット払いがきくネット通販は、金を浪費しちゃった感がない。だから気が向いたときにガーッと買ってしまう。私のCDの買い方は、いつもこんなふうだ。

 とすれば結局、CDの売れ方は個によってちがうんじゃないだろうか?

 マスコミを販促ツールにして策を弄する業界側は、自分たちが食うためにコンシューマを関係性の病に落とし込もうとする。わかりやすい例で言えば、バレンタインデーにチョコが売れたり、人々がクリスマスに1人でいられなくなる構造である。かくて業界側はマスコミを通して人々を洗脳し、モノを売り上げ収益を上げる。

 で、コンシューマは90年代に引き続き今も関係性の病にかかったままなんだけど、音楽がそのためのツールたりえなくなったからCDが売れなくなったんだ、というのが元記事の論理だ。

 だけど「あなたはクリスマスに1人でいるんですかぁ?」と煽られたって不安にならない個の確立した人もいる。そういう人は業界側が「かかれ」と念じる関係性の病にもかからない。で、結果的にCDを買わないという時代のトレンドともまるで無縁でいる。これは論理的にありえることだ。

【本日の結論】

 CDが売れる、売れない、って実は世の中全体に言えることじゃなく、個によってちがう話ではないだろうか?

 ある人は相変わらずバンバン買っている。だけどめっきり買わなくなった人も多い。だから総体としてCDの売り上げは落ちてしまった。

 しかし今でも買ってる人にとっては、「CDが売れなくなった。音楽業界は覚悟する必要があるぞ」って、いったいどこの世界の話なの? てな感じだ。つまり音楽地図の上でロングテールのしっぽにいる人には実感がわかない。

 もちろんボリュームゾーンになっているヘッドの部分は、そりゃうんざりするほど商業主義化してるんだろう。だけどヘッドの部分だけを称して「CDは売れなくなった。終わりだ」と言われても、しっぽの人たちには関係ないし同意もできない。

 結論としてCDが売れる、売れない、って、やっぱり個によってまるで実感がちがうのだろう。

【関連記事】

『CDが売れない「本当の理由」』

(追記)この記事を公開した後、あちらの筆者rmxtoriさんが以下の最新エントリをお書きになっていることに気づいた。行き違いになったので追記だけしておく。

●くだらない踊り方『音楽の「質」の話とか』

 前半でわかりやすい交通整理をされているので、興味のある方は一読をおすすめしたい。また後半で展開している複数の論点もおもしろい。私もあらためて記事を書き、このエントリに言及するかもしれない。(2008年1月6日)

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CDが売れない「本当の理由」

2008-01-05 01:26:32 | 社会分析
■売れているのは「質の低い音楽」だった?

 ああっ。ブックマークが7つくらいのときに書こうと思ってたのに。もう「500 users」を超えてるじゃないか。

 音楽業界の中の人である筆者が、「CDが売れない」とボヤきつつ、理由を分析するブログ記事である。

 極めて慎重に、奥底にある自分の本音には触れずに。

CDの売れない理由として、音楽の質の低下をあげるむきがあるが、それは根本的に間違っている。(中略)

ちょうど10年位前、CDが最も売れていた時代にも質の高い音楽と質の高くない音楽がそれぞれ無数にあった。そしてガシガシ売れていたのはむしろ質の高くない音楽だった。(中略)

●くだらない踊り方『「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年』


■「売れているのはゴミ」はアーチストの思い込みか?

 アーチストとかクリエイターとか呼ばれる人たちは、今も昔も「いいものが売れない。売れているのはゴミばかりだ」みたいな空腹感を抱えている。

 だからこそ彼らは、いつかいいものを作れるのだ。

 いいものを作ってる(と自分では思っている)けど売れてない今の自分を、無意識のうちに自分でそうやって励ましているのである。

「なあ、ほら、売れているのはゴミばかりだろう? お前(自分)は確かにいいものを作ってるさ。けど、今は売れてないだけだ。わかるだろ?」

 で、貧乏に耐えて何年も難儀するうち、ひょっこりいいものを作っちゃうのだ。

 筆者の思考パターンもそれと同じく、「いいものが売れない。売れているのはゴミばかりだ」になってるところが非常に興味深い。

■音楽をコミュニケーション・ツールとして使う「病人たち」

 そして筆者はCDが売れない背景を、他人との関係性が保てなければたちまち心が壊れてしまう現代人のある種の病理(筆者はこうは書いてないが)に求めている。(私はこの病理を、「1人ではいられない病」とか友だち原理主義、つまり関係性の病(やまい)だと考えている)

もともと志の高くない音楽のユーザーとは、純粋な意味での音楽ファンではない。

彼らにとっては音楽は、所詮ツールであり、媒介だった。

10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした。(中略)

学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。


 彼らは音楽を聴くことそのものを楽しんでいたわけじゃない。音楽をコミュニケーション・ツールとして使っていただけだ。「1人ではいられない病」にかかった多くの現代人にとって、人とのコミュニケーションは生きる上での必須科目である。だからそのツールとして使われた音楽は売れたのだ──。

 筆者は原因をこう分析し、落とし前をつけている。確かにそうかもしれない。だけど(邪推だろうが)、筆者は真の本音を書いてないと思う。

 なぜならそれは業界人にとって禁句だからだ。

■「お前ら消費者がバカだからCDが売れない」
 
 想像にすぎないが、たぶん書かれなかった筆者の本音はこうである。

『理想は「志の高い音楽」が売れることだ。なのに消費者が衆愚だから、いいものを作っている彼らは売れない。悪いのは消費者だ。音楽をわかってない「奴ら」が悪いんだ──』

 音楽界に限らずどこの業界でも、こう思っている業界人は多い。
 
 繰り返しになるが、アーチストとかクリエイターとか呼ばれる人たちは、このテの思考に陥りがちなのだ。冷徹に「何が利益なのか?」を計算し、「お客様は神様です」と言ってしまえる商売人になり切れない。

 我々が生きている高度消費社会の主役は、広告主と消費者だ。だからコンシューマに対する呪詛の言葉を口に出すことは、広告主を貶すのと並んで現代最大のタブーである。

 広告をもらえなけりゃ、メシが食えない。
 
 消費者にモノを買ってもらえなきゃ、おまんまの食い上げだ。
 
 だから俺たちゃ、クライアント様とコンシューマ様の悪口は言えないんだ。
 
     
 
 (○○モナー)


【関連エントリ】

『「関係性の病」に侵された人に売れるコミュニケーション・ソング』
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直木賞作家・坂東眞砂子氏が語る子猫殺しと「堕胎の論理」

2006-09-24 21:35:13 | 社会分析
 なんかナチスドイツまで引っ張り出してるけど、どうなんだこれ。

 だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。(中略)

「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。

 ■作家・坂東眞砂子氏が説明する「子猫殺し」(livedoor NEWS)
 これってなんか、君のことは本気で愛してるんだ。だから肌と肌で直接、触れ合いたいんだとかなんとか言って避妊せずに○ックスしようとする男みたいだなあ。

 で、いざ彼女が妊娠したら……嫌がる彼女を引きずって、無理やり産婦人科に連れてくヤツな。「堕ろせよ」って。

 だったら初めから避妊すりゃいいのに。

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世の中を変える。世の中は変わる

2005-07-06 03:04:45 | 社会分析
 更新はお休みしますと言いながら、ひとつだけエントリーを立てることにした。私は今、日本という国を変えようとした男たちの物語を書いている。彼らの話を聞きながら深く共感し、涙をボロボロ流しながら原稿を書いている(いやホントに泣いているのだ)。で、ふるえる心を抑えきれないので、1本だけエントリーを立てることにした。これ読んでキモチ悪いとか思わないでね。まあいいけど。

 さてフリーターと社会の関係については、以前も何度かブログに書いた。1980年代の前半にフリーターという概念が出てきたとき、「これは日本が変わるな」と私は直感した。

 日本は資本主義国家なのに、ある意味、「企業社会主義」みたいないびつな構造になっている。当時はまだガチガチの終身雇用制で、いったんウチに入ったヤツは墓場のめんどうまで見ますよ、てな世の中だった。

 そのかわり企業は人々に隷属を要求し、強いしばりをかけた。で、「社畜」なんていう言葉も生まれた。これって世の中のあり方としておかしいじゃないか? 私はそう思った。

 そんな企業に属すことを放棄するフリーターがふえれば、かならず世の中が変わる。たぶん万単位で、のたれ死ぬヤツが出てくるだろう。だけど社会革命は、大いなる屍の上にしか成り立たない。とはいえたくさんの人が死ぬのをほうってはおけない。私には日本全国のフリーターを救うことはできないが、目の前にいる10人ならなんとかできるはずだ。

 で、当時そんな若い連中を10人、20人引き連れて、ことあるごとにメシを食わせに連れて行った。働いても働いてもどんどん金が出て行く一方だ。だけど金は天下の回り物。いま、自分が使ってる金が人々を救い、そのことで世の中が変わるんならいいやと思った。ここで私が使った金は、いつかめぐりめぐって戻ってくるだろう──こんな考えだからたぶん私は一生、金にはエンがない。

 何を書いてるんだかわけがわからなくなってきたが、とにかく世の中は変わるってことだ。私はこれからも、そのために「自分は何ができるのか?」を考えていきたいと思う。いま、私が書いている男たちがかつて考えたように。

 蛇足だが、私がこの仕事を選んだのも、書くことで世の中を変えられるんじゃないかと思ったからだ。私は財閥の息子じゃないし、さっき書いたみたいに金に対する執着心がない。だから財力で世の中を変えることはできない。だけどちょろちょろとつまらない原稿を書くことなら自分にもできる。そう思ってこの仕事を選んだ。

 ただし「オレこそが世の中を変えるんだ」「オレだけが世の中を変えられるんだ」なんて奢っちゃいけない。それじゃあ、大マスコミと同じだ。だから私は「ちょっとは変えられるかな?」と慎ましく思いながら、今もチマチマ原稿を書いている。

 今日はもう寝るけど、明日からまた書かなきゃいけない。ではもうしばらくの間、失礼します。Good night! みなさん。

 んー、やっぱりキモチ悪いな、この原稿(笑)
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日本に「ゲシュタポ」を作ってどうする? 人権擁護法案が招く暗黒の世界

2005-04-06 02:13:24 | 社会分析
 おい、みんな。おキラクにネットなんかしてる場合じゃないぞ。何がって、今、とんでもない法律がまかり通ろうとしてるんだよ。政府が今国会に再提出を目指してる「人権擁護法案」のことだ。

 といわれても「なにそれ?」って人も多いだろう。で、まずはこやつの骨子と、問題点をカンタンに整理してみよう。

◆5人の人権委員会、人権擁護委員2万人からなる組織が、「この行為は差別だ」と独断でジャッジしたら罰則が下される。

⇒そもそも、いったいだれが委員になるのかが不明。「差別」の基準もあいまいで、いくらでも拡大解釈できる。人権委員会は差別と決めたらもうナンでもアリ、いわば「神」の集団である。これにより、あらゆる芸術活動、言論活動が萎縮する可能性がある。

◆人権委員会は、人権侵害、および「人権侵害を誘発・助長する恐れ」のある発言や出版などに対し、調査する権限を持つ。人権侵害が疑われると、委員会は該当者を出頭させることができる。

⇒あやふやな基準で「差別」と疑われ、調査されたり出頭させられる。

◆委員会は証拠品の提出や、立ち入り検査などの措置を取ることができる。委員会は「令状なし」で立ち入り検査まで行える。

⇒罰則を含む「措置」はなんと裁判所の令状もなしで、人権委員会の判断だけで行われる。警察でさえこんな権限はもってない。まさに超法規的集団である。一歩まちがえるとほかならぬ彼ら自身が、逆にとんでもない人権侵害を犯す可能性がある。

◆委員会はこうした措置に非協力的な人物に対し、罰則を課すことができる。たとえば「氏名等を含む個人名」を公表する権限がある。

⇒あいまいな基準でプライバシーを侵され、「差別者」の烙印を押されたあげく、名前を公知される。

◆差別と判断されて実は冤罪だった場合、人権委員会は訂正・謝罪する事はない。

⇒はぁ? ていうか、「差別者だ」と公に告知されたあとで、訂正なんかしてもらっても後の祭りだ。本人の名誉回復はとてつもなくむずかしい。

◆委員会をコントロール(抑止)する機関や法律がない。

⇒人権委員会が差別と判断したら止めようがない。たとえ組織が暴走したとしても「やりっぱ」である。

 これっていわば、「絶対にまちがえない正しい独裁者ならば、国の運命をまかせてもいいね」って論理でできてる法案なわけだ。チェック機構がないんだから。

 あるいはまた、被疑者を一方的に断罪する「セクハラ論議」とも共通してる。女性本人が「イヤだ」と感じさえすれば、すべてがセクハラ。片思いの好きな男性にされるんならいいけど、同じことをイヤな相手にされたらそれはセクハラ。

 なんでもかんでも「人権委員会」が独断で決める、この法案と似てないだろうか?

 さすがに自民党の中にも「これはヤバイ」と考える議員もいて、4月6日付の読売新聞によれば、総勢30人が法案に反対するための懇談会を設立したようだ。
 
 こんなのが可決されたら、まさに暗黒時代の到来だ。日本に「ゲシュタポ」を作ってどうしようっていうんだ?

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「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん

2005-04-03 04:23:48 | 社会分析
「答えを教えてあげるよ」。結論を先に言えば、ほりえもんさんがオウムに近いのはこの一点だ。だから切込隊長の俺様キングダム「ライブドア騒動と、オウム真理教事件が構造的に酷似している件について」は微妙に空振りしてる。よせばいいのに、それ以外の枝葉もふくめて全部オウムに当てはめようとしてるからだ。

 たぶん切込隊長はこう考えたんでしょう。

「なんか似てるよな」

「よし。いっちょう、あいつをオウムに仕立て上げてやれ」

 たしかに切り口はいい線行ってるんだけど、でもこれって小林よしのりと同じ論理だよ(笑)。自分に都合の悪いヤツが出てくると、すぐ「あいつはオウムに近い」って話になっちゃう。それこそ酷似してるよねえ、小林よしのりと切込隊長は。逆にさ。

 例の言説の冒頭近くで、隊長はこう書いてる。

「※ 本稿はライブドアが犯罪性のある集団であるという意図ではなく、メディアでの取り上げられ方や組織の構造が類似していることを示唆するもので、誤解のないようにお願いしたいと思います」

 隊長、煙幕張ってるけどさあ、でも結局、結論はソコに行ってるじゃん。

 わはは。 

 ていうか、実はこの注釈こそが、隊長の発想の原点なんだよね。これが隊長の衣の下の鎧だ。

 で、そのあとからすべてのディテールをほりえもんさんに無理やり当てはめようとするから、論理が破綻しちゃうんだよ。隊長。

 ほりえもんさんとオウムは「答えを教えてあげるよ」の一点で酷似してる。ここで留めときゃいいのに。じゃあ「答えを教えてあげる」ってのは何を意味してるのか? 説明するには20年前にさかのぼらなきゃ。

 このブログのコメント欄でも前にちょっと触れたけど、それまではみんな何も考えずに大学を出て就職し、2、3年たったら結婚してセックスして子供作って、社会の成員としてせせこましく暮らしてたわけだ。ちまちま税金払いながら、こうしてみんな一生終わってた。

 それで世の中はうまく回ってたし、ずっとこいつが人生の「答え」だった。全員でちょっとづつ社会に貢献し、平凡ながらも小さな幸せを糧にして死んで行く。それが答えだった。

 ところが80年代初頭にフリーターって概念が出てきた。この社会思想は、いままでの世の中のメカニズムを根こそぎ壊すカウンター・アタックだった。

 世の中なんてカンケーねえよ。俺は俺のやりたいようにやるぜ。国民年金? んなもん、払うわけねえだろバカヤロー。

 保守陣営にとってはえらい脅威だ。もっと言えばほりえもんさんに代表されるITバブリーな人たちって、明らかにフリーター思想の延長線上にある。

「ネクタイなんかしなくたっていいだろ」

「俺らはやりたいこと(=IT)をやって食ってくぜ」

 ところがフリーター思想を掲げる大多数の人たちは、そんな答えを明確にもってなかった。だいたいごく一部の天才をのぞいて、世の中の80%の人たちは平凡な「普通の人」なんだから、そもそもフリーターなんてキビシイ生き方は似合わないの。でも時代の同調圧力に負けて、みんながこう考えちゃった。

 今の自分は、「本当の自分」じゃないんじゃないか?

 んで、就職せずにひたすら「自分探し」の旅を始めちゃった。

 じゃあ、あのころ旗振り役になった勢力は、大衆をどう煽ったか? たとえば中小企業でお茶汲みやってるOLさんに、こう問いかけた。

 今のあなたって、お茶汲みなんかやってるよねえ。それって「つまらない自分」だと思わない? 実は「本当の自分」はそうじゃなくて、もっとほかにあると思わないか? さあ僕らといっしょに探しに行こうよ。

 で、何の取り得もない平凡なOLさん(に代表される世の中の80%の人たち)が、みーんな、カンちがいしちゃった。

 今のアタシはたしかにつまらないわ。

 もっと輝かしい「本当の自分」を見つけよう。

 本来ならこの人たちって、何も考えずに結婚して税金払いながら世の中に食わせてもらって一生終わる、「つまらない人」なんだよね。誤解を恐れずに言えば。でもさ、それがこの人たちの「役割」なの。

 なのにアジテーターの煽りに乗って、みんながカンちがいしちゃった。で、そこまではいいんだけど、彼らってホントは別段「目標をもつべきじゃない平凡な人たち」なわけだ。だから別の生き方をしようなんて考えても、それがなんだかわかんない。

 答えが見つからないわけ。

 実は「答え」なんて、そんなん、どこにもないんだよ。ないものを探してるから、いつまでたっても見つからない。

 あーあ、余計なことしなきゃ、「そこそこの幸せ」で一生終えられたのに。アジ演説にだまされて踏み外しちゃったよこの人も。そんな感じ。

 これが80年代に起こった変動の第一波だった。

 で、続く90年代には、第二波がやってきた。そんな人たちをだまして、彼らから上がりを巻き上げよう。オウムに代表される新々宗教がぞろぞろ出てきた。

「あなたたち、私が答えを教えてあげますよ」

 ないはずの答えを求めて浮遊してるかなりの人たちが、こうして吸収されていった。つまりオウムは「ひっかけの集団」だったわけだ。冒頭の定義に戻ると、この「ひっかけの集団」って意味でほりえもんさんはオウムに「酷似」してるよね、たしかに(笑)

 たとえば宮台真司さんが2002年に出した本も、同じ原理を利用して売ろうとしてた。

「これが答えだ! ―新世紀を生きるための108問108答」(朝日新聞社)

 ほら。宮台さんの本でも、「答えを教えてあげるよ」がキーワードになってる。(実は黒幕は別にいるんだけど)宮台さんは確信犯的に「答え」って言葉を使ってる。

 でもそれ以前の1996年には、「ありし日」(笑)の鶴見済が「人格改造マニュアル」(太田出版)の中ではっきり答えを出してる。ちょっと長いが引用しよう。

『何人かの知人から「(自殺マニュアルの件で/注釈・松岡)インタビュアーに詰問されているのに、なぜニコニコ笑っているのか」と聞かれた。答えは「抗うつ剤を多めに飲んでいたから」だ。こうすれば何を言われたってニコニコしてしまう。こうして僕は、狙いどおりの「にこやかな著者」として多くの人の目に映ることになった。

 もちろん、初めは色々な仮面をつけている気分になっていた。それがだんだんどれが仮面で、どれが“本当の顔”なのかわからなくなってきた。けれども、もともと“本当の顔”などというものがないのだ、と気づくまでにそれほど時間はかからなかった。その時、体が一気に軽くなった気がした』

 本当の自分なんて、実はないんだよ。

 でも相変わらずネクタイせずにテレビに出てきちゃ、ほりえもんさんがなんか正論言ってる。それ見てハマっちゃう人はこう考える。

 ああ、この人について行けば答えが見つかるんじゃないか? 今の自分を決して満たしてくれない、この社会システムを壊してくれるんじゃないか? 

「満たされない自分」を満たしてくれる世の中が、その先にあるにちがいない。俺って今まで「本当の自分」がわかんなかったけど、きっとこのおっさんについて行ったら「ワンダーランド」にたどり着けるんだろう。 

 ほりえもんさんが背負ってるポピュリズムの正体はこれだ。で、ウンカのように「平凡でつまらない人たち」の支持が集まる。この「ひっかけの構造」が、まったくオウムと同じだ。

 じゃあ宮台さんはあんまり叩かれないのに、なんでほりえもんさんは叩かれるのか? それは宮台さんは完全に「わかってやってる」んだけど、ほりえもんさんの場合、半分、ワケわかってないのね。残りの半分は本気なんだよ、あれ。

 100%、ひっかけなんだったら、「ああ、なんかやってるな。ミエミエだな」で終わるのに、ほりえもんさんの場合は衣の下に鎧が見える。その意味では切込隊長のほりえもんバッシングと同じだ。もうね、本気の部分がチラチラしてる。だから保守な人たち、今までの社会のあり方をかろうじて保とうとしてる勢力が危機感をもつ。

「こいつ。ほっといたら、まじでやばいんじゃないか?」

「ホントに世の中を変えちゃうんじゃないか?」

 こう思われてんだよね。あの人。で、叩かれる。そもそもほりえもんさんて、いじられキャだしねえ。叩く人にとっては、いじめるとすごいキモチいいタイプなんだよ。かわいそうに(笑)

 そんなわけで切込隊長も無理くり叩くわけだけど、果たしてどっちが答えをもってるのかな。たぶんほりえもんさんについてっても、ロクなことにゃならないと思うけどね。わかんないけど。

 でもねえ、実はそんなことやってる場合じゃないんだよ。世の中はかなりやばくなってるんだ。もう10年くらい前から、認知心理学の専門家たちはかなり危機感をもってるよ。「21世紀はウツ病の時代だ」ってのが大問題になってるの。

 いったい、どゆことか? 

 自分探しをして答えが見つからない。どっかにもっといい生き方があるんじゃないか? そんなことをずーっと考えてると、常に理想と現実のギャップがつきまとう。これがストレッサーになって、みんなかたっぱしからウツになっちゃうんだよ。

 これって下手に思考する人ほどなりやすい。何も考えずに就職して結婚する人よりもね。

 で、病院で正式に診断されてなくても、ウツ病、あるいは抑ウツ状態にある人がここ10年くらい激増してる。先進国の中で日本の自殺率が飛びぬけて高いのも、実はそのせいだ。長くなるから解説は別の機会にゆずるけど、試しにグーグルに「認知の歪み」って入れて検索してみ。みんな。

「あーっ。これって俺そのものじゃん」

 そんな症例がぞろぞろ出てくるぞ。そのへん普通に歩いてる人たちが、みんな結構当てはまってるはずだ。

 実は今の日本の抱えてる深刻な社会問題って、北朝鮮でもイラクでもなんでもないんだ。

 自分探しの果てにやってきた、「ウツという名の荒れ果てたゴール」なんだよ。

 1980年代以降に激変した現代日本が解決すべき難問は、海の向こうにあるんじゃない。最大のテーマは「内なる自分」だ。まじでやばいよ、この問題は。

 だって答えがないんだもん。

【関連エントリ】

『人生をスルーした人々』

『自分探しシンドロームを超えろ』

自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋
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