すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

「関係性の病」に侵された人に売れるコミュニケーション・ソング

2008-01-06 01:54:45 | 社会分析
■あなたはクリスマスに1人でいられるか?

 現代人は関係性の病(やまい)に侵されている。

 現代人にとって、他人とのコミュニケーションは生きる糧だ。だから「恋人がいるかどうか?」、「友だちが何人いるのか?」で人間の等級(価値)が決まる。で、負け組はひっそりアパートで孤独死して行く。

 たとえばあなたは、クリスマスに1人でいられるだろうか?

 バレンタインデーになると意味もなくそわそわしてないか?

 そんな世の中の喧騒とはまったく関係なく、自分は自分だと超然としていられるか?

 他人との関係性こそが生きている証だと感じる人は多い。だから音楽をピュアに楽しむのでなく、音楽を人とのコミュニケーション・ツールとして使う人たちにCDは売れた。それが90年代に起きた出来事だった。

音楽ビジネスはもともと純粋な音楽ファンを相手にした商売ではなかった。

それよりも、音楽自体に対する関心の強弱とは関係なく、音楽を媒介にしたコミュニケーションに興味ある一般層がターゲットだった。

●くだらない踊り方『「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年』


■お茶の間で歌われた家族のためのコミュニケーション・ソング

 だがコミュニケーション・ツールとして機能する音楽の系譜は、筆者のrmxtoriさんがおっしゃるような10年前だけでなく、もっと前の時代にも存在した。

 たとえば450万枚以上を売り上げた子門真人の『およげ!たいやきくん』(1975年)は、当時まだ日本に存在したお茶の間で、家族みんなに歌われた。あるいは西城秀樹の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』(1979年)もそうだ。

 まだ小学生の息子からおばあちゃんまで家族全員が仲よく居間に並び、テレビを前に同じ歌を同じように口づさんだ時代だった。それは家族の関係性のためのコミュニケーション・ソングである。

 ところが核家族化が進み、夫婦と1人の子供で構成される3人の家族においてさえ「お茶の間」はなくなった。

 今では家族1人1人がそれぞれの個室で別のテレビを観ているか、そのテレビさえ消えてなくなっている。下手をすると各人が、自分の部屋でてんでにインターネットしていたりする。

 これだけ人間の関係性が変われば、かつてのようなコミュニケーション・ソングは成立しないし、必要ない。

■パラレルなコミュニケーションの時代に生き残った音楽たち

 だが家族で歌うためのテーマソングはお茶の間から消えても、コミュニケーション・ソングは生き永らえた。それがrmxtoriさんのお書きになった10年前の状況だ。

もともと志の高くない音楽のユーザーとは、純粋な意味での音楽ファンではない。

彼らにとっては音楽は、所詮ツールであり、媒介だった。

10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした。(中略)

学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。

だからこそ、「みんなが聞くからみんなが聞く」というインフレーションを起こし、ミリオン・ヒットが量産されていった。それが10年前だ。 ●同


 家族とは、「親と子」、「祖父と母」みたいな垂直のコミュニケーションである。一方、rmxtoriさんが例示した「学校や職場の友達同士」のそれは、パラレルなコミュニケーションだ。

 垂直のコミュニケーションは世代間断絶を生みやすく、それゆえに70年代型のコミュニケーション・ソングは死んだ。なぜなら「宿主」だったスタンダードな家族像そのものが死滅したからだ。

 それに対してパラレルなコミュニケーションには、年代差という絶縁体はない。だからより伝播力、浸透力が強い。

 で、70年代から80年代をへて10年前に生き残ったのは、水平に伝わる90年代型のコミュニケーション・ソングだった。

 恋人たちは同じ立ち位置と目線から、たがいに目と目で見つめ合う。そして彼らはドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌である『ラブ・ストーリーは突然に』(1991年)を聞き、ともに泣くことで2人の愛を確認した。

 CDがドンドコ売れた90年代の幕開きである。

■CDが売れないってどこの世界の出来事なの?

 rmxtoriさんが言及されてない古い時代を補足する形にはなったが、このへんの私の時代認識はrmxtoriさんのそれに近い。

 ただし極めて個人的な実感を言えば、CDが売れないってどこの世界の出来事なの? という感じがする。不思議なものだ。

 例えば私事で恐縮だが、私は昨年11月の2週間で、ブラッド・メルドーのCDを合計15枚くらいアマゾンとHMVで購入した。クレジット払いがきくネット通販は、金を浪費しちゃった感がない。だから気が向いたときにガーッと買ってしまう。私のCDの買い方は、いつもこんなふうだ。

 とすれば結局、CDの売れ方は個によってちがうんじゃないだろうか?

 マスコミを販促ツールにして策を弄する業界側は、自分たちが食うためにコンシューマを関係性の病に落とし込もうとする。わかりやすい例で言えば、バレンタインデーにチョコが売れたり、人々がクリスマスに1人でいられなくなる構造である。かくて業界側はマスコミを通して人々を洗脳し、モノを売り上げ収益を上げる。

 で、コンシューマは90年代に引き続き今も関係性の病にかかったままなんだけど、音楽がそのためのツールたりえなくなったからCDが売れなくなったんだ、というのが元記事の論理だ。

 だけど「あなたはクリスマスに1人でいるんですかぁ?」と煽られたって不安にならない個の確立した人もいる。そういう人は業界側が「かかれ」と念じる関係性の病にもかからない。で、結果的にCDを買わないという時代のトレンドともまるで無縁でいる。これは論理的にありえることだ。

【本日の結論】

 CDが売れる、売れない、って実は世の中全体に言えることじゃなく、個によってちがう話ではないだろうか?

 ある人は相変わらずバンバン買っている。だけどめっきり買わなくなった人も多い。だから総体としてCDの売り上げは落ちてしまった。

 しかし今でも買ってる人にとっては、「CDが売れなくなった。音楽業界は覚悟する必要があるぞ」って、いったいどこの世界の話なの? てな感じだ。つまり音楽地図の上でロングテールのしっぽにいる人には実感がわかない。

 もちろんボリュームゾーンになっているヘッドの部分は、そりゃうんざりするほど商業主義化してるんだろう。だけどヘッドの部分だけを称して「CDは売れなくなった。終わりだ」と言われても、しっぽの人たちには関係ないし同意もできない。

 結論としてCDが売れる、売れない、って、やっぱり個によってまるで実感がちがうのだろう。

【関連記事】

『CDが売れない「本当の理由」』

(追記)この記事を公開した後、あちらの筆者rmxtoriさんが以下の最新エントリをお書きになっていることに気づいた。行き違いになったので追記だけしておく。

●くだらない踊り方『音楽の「質」の話とか』

 前半でわかりやすい交通整理をされているので、興味のある方は一読をおすすめしたい。また後半で展開している複数の論点もおもしろい。私もあらためて記事を書き、このエントリに言及するかもしれない。(2008年1月6日)

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CDが売れない「本当の理由」

2008-01-05 01:26:32 | 社会分析
■売れているのは「質の低い音楽」だった?

 ああっ。ブックマークが7つくらいのときに書こうと思ってたのに。もう「500 users」を超えてるじゃないか。

 音楽業界の中の人である筆者が、「CDが売れない」とボヤきつつ、理由を分析するブログ記事である。

 極めて慎重に、奥底にある自分の本音には触れずに。

CDの売れない理由として、音楽の質の低下をあげるむきがあるが、それは根本的に間違っている。(中略)

ちょうど10年位前、CDが最も売れていた時代にも質の高い音楽と質の高くない音楽がそれぞれ無数にあった。そしてガシガシ売れていたのはむしろ質の高くない音楽だった。(中略)

●くだらない踊り方『「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年』


■「売れているのはゴミ」はアーチストの思い込みか?

 アーチストとかクリエイターとか呼ばれる人たちは、今も昔も「いいものが売れない。売れているのはゴミばかりだ」みたいな空腹感を抱えている。

 だからこそ彼らは、いつかいいものを作れるのだ。

 いいものを作ってる(と自分では思っている)けど売れてない今の自分を、無意識のうちに自分でそうやって励ましているのである。

「なあ、ほら、売れているのはゴミばかりだろう? お前(自分)は確かにいいものを作ってるさ。けど、今は売れてないだけだ。わかるだろ?」

 で、貧乏に耐えて何年も難儀するうち、ひょっこりいいものを作っちゃうのだ。

 筆者の思考パターンもそれと同じく、「いいものが売れない。売れているのはゴミばかりだ」になってるところが非常に興味深い。

■音楽をコミュニケーション・ツールとして使う「病人たち」

 そして筆者はCDが売れない背景を、他人との関係性が保てなければたちまち心が壊れてしまう現代人のある種の病理(筆者はこうは書いてないが)に求めている。(私はこの病理を、「1人ではいられない病」とか友だち原理主義、つまり関係性の病(やまい)だと考えている)

もともと志の高くない音楽のユーザーとは、純粋な意味での音楽ファンではない。

彼らにとっては音楽は、所詮ツールであり、媒介だった。

10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした。(中略)

学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。


 彼らは音楽を聴くことそのものを楽しんでいたわけじゃない。音楽をコミュニケーション・ツールとして使っていただけだ。「1人ではいられない病」にかかった多くの現代人にとって、人とのコミュニケーションは生きる上での必須科目である。だからそのツールとして使われた音楽は売れたのだ──。

 筆者は原因をこう分析し、落とし前をつけている。確かにそうかもしれない。だけど(邪推だろうが)、筆者は真の本音を書いてないと思う。

 なぜならそれは業界人にとって禁句だからだ。

■「お前ら消費者がバカだからCDが売れない」
 
 想像にすぎないが、たぶん書かれなかった筆者の本音はこうである。

『理想は「志の高い音楽」が売れることだ。なのに消費者が衆愚だから、いいものを作っている彼らは売れない。悪いのは消費者だ。音楽をわかってない「奴ら」が悪いんだ──』

 音楽界に限らずどこの業界でも、こう思っている業界人は多い。
 
 繰り返しになるが、アーチストとかクリエイターとか呼ばれる人たちは、このテの思考に陥りがちなのだ。冷徹に「何が利益なのか?」を計算し、「お客様は神様です」と言ってしまえる商売人になり切れない。

 我々が生きている高度消費社会の主役は、広告主と消費者だ。だからコンシューマに対する呪詛の言葉を口に出すことは、広告主を貶すのと並んで現代最大のタブーである。

 広告をもらえなけりゃ、メシが食えない。
 
 消費者にモノを買ってもらえなきゃ、おまんまの食い上げだ。
 
 だから俺たちゃ、クライアント様とコンシューマ様の悪口は言えないんだ。
 
     
 
 (○○モナー)


【関連エントリ】

『「関係性の病」に侵された人に売れるコミュニケーション・ソング』
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直木賞作家・坂東眞砂子氏が語る子猫殺しと「堕胎の論理」

2006-09-24 21:35:13 | 社会分析
 なんかナチスドイツまで引っ張り出してるけど、どうなんだこれ。

 だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。(中略)

「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。

 ■作家・坂東眞砂子氏が説明する「子猫殺し」(livedoor NEWS)
 これってなんか、君のことは本気で愛してるんだ。だから肌と肌で直接、触れ合いたいんだとかなんとか言って避妊せずに○ックスしようとする男みたいだなあ。

 で、いざ彼女が妊娠したら……嫌がる彼女を引きずって、無理やり産婦人科に連れてくヤツな。「堕ろせよ」って。

 だったら初めから避妊すりゃいいのに。

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世の中を変える。世の中は変わる

2005-07-06 03:04:45 | 社会分析
 更新はお休みしますと言いながら、ひとつだけエントリーを立てることにした。私は今、日本という国を変えようとした男たちの物語を書いている。彼らの話を聞きながら深く共感し、涙をボロボロ流しながら原稿を書いている(いやホントに泣いているのだ)。で、ふるえる心を抑えきれないので、1本だけエントリーを立てることにした。これ読んでキモチ悪いとか思わないでね。まあいいけど。

 さてフリーターと社会の関係については、以前も何度かブログに書いた。1980年代の前半にフリーターという概念が出てきたとき、「これは日本が変わるな」と私は直感した。

 日本は資本主義国家なのに、ある意味、「企業社会主義」みたいないびつな構造になっている。当時はまだガチガチの終身雇用制で、いったんウチに入ったヤツは墓場のめんどうまで見ますよ、てな世の中だった。

 そのかわり企業は人々に隷属を要求し、強いしばりをかけた。で、「社畜」なんていう言葉も生まれた。これって世の中のあり方としておかしいじゃないか? 私はそう思った。

 そんな企業に属すことを放棄するフリーターがふえれば、かならず世の中が変わる。たぶん万単位で、のたれ死ぬヤツが出てくるだろう。だけど社会革命は、大いなる屍の上にしか成り立たない。とはいえたくさんの人が死ぬのをほうってはおけない。私には日本全国のフリーターを救うことはできないが、目の前にいる10人ならなんとかできるはずだ。

 で、当時そんな若い連中を10人、20人引き連れて、ことあるごとにメシを食わせに連れて行った。働いても働いてもどんどん金が出て行く一方だ。だけど金は天下の回り物。いま、自分が使ってる金が人々を救い、そのことで世の中が変わるんならいいやと思った。ここで私が使った金は、いつかめぐりめぐって戻ってくるだろう──こんな考えだからたぶん私は一生、金にはエンがない。

 何を書いてるんだかわけがわからなくなってきたが、とにかく世の中は変わるってことだ。私はこれからも、そのために「自分は何ができるのか?」を考えていきたいと思う。いま、私が書いている男たちがかつて考えたように。

 蛇足だが、私がこの仕事を選んだのも、書くことで世の中を変えられるんじゃないかと思ったからだ。私は財閥の息子じゃないし、さっき書いたみたいに金に対する執着心がない。だから財力で世の中を変えることはできない。だけどちょろちょろとつまらない原稿を書くことなら自分にもできる。そう思ってこの仕事を選んだ。

 ただし「オレこそが世の中を変えるんだ」「オレだけが世の中を変えられるんだ」なんて奢っちゃいけない。それじゃあ、大マスコミと同じだ。だから私は「ちょっとは変えられるかな?」と慎ましく思いながら、今もチマチマ原稿を書いている。

 今日はもう寝るけど、明日からまた書かなきゃいけない。ではもうしばらくの間、失礼します。Good night! みなさん。

 んー、やっぱりキモチ悪いな、この原稿(笑)
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日本に「ゲシュタポ」を作ってどうする? 人権擁護法案が招く暗黒の世界

2005-04-06 02:13:24 | 社会分析
 おい、みんな。おキラクにネットなんかしてる場合じゃないぞ。何がって、今、とんでもない法律がまかり通ろうとしてるんだよ。政府が今国会に再提出を目指してる「人権擁護法案」のことだ。

 といわれても「なにそれ?」って人も多いだろう。で、まずはこやつの骨子と、問題点をカンタンに整理してみよう。

◆5人の人権委員会、人権擁護委員2万人からなる組織が、「この行為は差別だ」と独断でジャッジしたら罰則が下される。

⇒そもそも、いったいだれが委員になるのかが不明。「差別」の基準もあいまいで、いくらでも拡大解釈できる。人権委員会は差別と決めたらもうナンでもアリ、いわば「神」の集団である。これにより、あらゆる芸術活動、言論活動が萎縮する可能性がある。

◆人権委員会は、人権侵害、および「人権侵害を誘発・助長する恐れ」のある発言や出版などに対し、調査する権限を持つ。人権侵害が疑われると、委員会は該当者を出頭させることができる。

⇒あやふやな基準で「差別」と疑われ、調査されたり出頭させられる。

◆委員会は証拠品の提出や、立ち入り検査などの措置を取ることができる。委員会は「令状なし」で立ち入り検査まで行える。

⇒罰則を含む「措置」はなんと裁判所の令状もなしで、人権委員会の判断だけで行われる。警察でさえこんな権限はもってない。まさに超法規的集団である。一歩まちがえるとほかならぬ彼ら自身が、逆にとんでもない人権侵害を犯す可能性がある。

◆委員会はこうした措置に非協力的な人物に対し、罰則を課すことができる。たとえば「氏名等を含む個人名」を公表する権限がある。

⇒あいまいな基準でプライバシーを侵され、「差別者」の烙印を押されたあげく、名前を公知される。

◆差別と判断されて実は冤罪だった場合、人権委員会は訂正・謝罪する事はない。

⇒はぁ? ていうか、「差別者だ」と公に告知されたあとで、訂正なんかしてもらっても後の祭りだ。本人の名誉回復はとてつもなくむずかしい。

◆委員会をコントロール(抑止)する機関や法律がない。

⇒人権委員会が差別と判断したら止めようがない。たとえ組織が暴走したとしても「やりっぱ」である。

 これっていわば、「絶対にまちがえない正しい独裁者ならば、国の運命をまかせてもいいね」って論理でできてる法案なわけだ。チェック機構がないんだから。

 あるいはまた、被疑者を一方的に断罪する「セクハラ論議」とも共通してる。女性本人が「イヤだ」と感じさえすれば、すべてがセクハラ。片思いの好きな男性にされるんならいいけど、同じことをイヤな相手にされたらそれはセクハラ。

 なんでもかんでも「人権委員会」が独断で決める、この法案と似てないだろうか?

 さすがに自民党の中にも「これはヤバイ」と考える議員もいて、4月6日付の読売新聞によれば、総勢30人が法案に反対するための懇談会を設立したようだ。
 
 こんなのが可決されたら、まさに暗黒時代の到来だ。日本に「ゲシュタポ」を作ってどうしようっていうんだ?

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「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん

2005-04-03 04:23:48 | 社会分析
「答えを教えてあげるよ」。結論を先に言えば、ほりえもんさんがオウムに近いのはこの一点だ。だから切込隊長の俺様キングダム「ライブドア騒動と、オウム真理教事件が構造的に酷似している件について」は微妙に空振りしてる。よせばいいのに、それ以外の枝葉もふくめて全部オウムに当てはめようとしてるからだ。

 たぶん切込隊長はこう考えたんでしょう。

「なんか似てるよな」

「よし。いっちょう、あいつをオウムに仕立て上げてやれ」

 たしかに切り口はいい線行ってるんだけど、でもこれって小林よしのりと同じ論理だよ(笑)。自分に都合の悪いヤツが出てくると、すぐ「あいつはオウムに近い」って話になっちゃう。それこそ酷似してるよねえ、小林よしのりと切込隊長は。逆にさ。

 例の言説の冒頭近くで、隊長はこう書いてる。

「※ 本稿はライブドアが犯罪性のある集団であるという意図ではなく、メディアでの取り上げられ方や組織の構造が類似していることを示唆するもので、誤解のないようにお願いしたいと思います」

 隊長、煙幕張ってるけどさあ、でも結局、結論はソコに行ってるじゃん。

 わはは。 

 ていうか、実はこの注釈こそが、隊長の発想の原点なんだよね。これが隊長の衣の下の鎧だ。

 で、そのあとからすべてのディテールをほりえもんさんに無理やり当てはめようとするから、論理が破綻しちゃうんだよ。隊長。

 ほりえもんさんとオウムは「答えを教えてあげるよ」の一点で酷似してる。ここで留めときゃいいのに。じゃあ「答えを教えてあげる」ってのは何を意味してるのか? 説明するには20年前にさかのぼらなきゃ。

 このブログのコメント欄でも前にちょっと触れたけど、それまではみんな何も考えずに大学を出て就職し、2、3年たったら結婚してセックスして子供作って、社会の成員としてせせこましく暮らしてたわけだ。ちまちま税金払いながら、こうしてみんな一生終わってた。

 それで世の中はうまく回ってたし、ずっとこいつが人生の「答え」だった。全員でちょっとづつ社会に貢献し、平凡ながらも小さな幸せを糧にして死んで行く。それが答えだった。

 ところが80年代初頭にフリーターって概念が出てきた。この社会思想は、いままでの世の中のメカニズムを根こそぎ壊すカウンター・アタックだった。

 世の中なんてカンケーねえよ。俺は俺のやりたいようにやるぜ。国民年金? んなもん、払うわけねえだろバカヤロー。

 保守陣営にとってはえらい脅威だ。もっと言えばほりえもんさんに代表されるITバブリーな人たちって、明らかにフリーター思想の延長線上にある。

「ネクタイなんかしなくたっていいだろ」

「俺らはやりたいこと(=IT)をやって食ってくぜ」

 ところがフリーター思想を掲げる大多数の人たちは、そんな答えを明確にもってなかった。だいたいごく一部の天才をのぞいて、世の中の80%の人たちは平凡な「普通の人」なんだから、そもそもフリーターなんてキビシイ生き方は似合わないの。でも時代の同調圧力に負けて、みんながこう考えちゃった。

 今の自分は、「本当の自分」じゃないんじゃないか?

 んで、就職せずにひたすら「自分探し」の旅を始めちゃった。

 じゃあ、あのころ旗振り役になった勢力は、大衆をどう煽ったか? たとえば中小企業でお茶汲みやってるOLさんに、こう問いかけた。

 今のあなたって、お茶汲みなんかやってるよねえ。それって「つまらない自分」だと思わない? 実は「本当の自分」はそうじゃなくて、もっとほかにあると思わないか? さあ僕らといっしょに探しに行こうよ。

 で、何の取り得もない平凡なOLさん(に代表される世の中の80%の人たち)が、みーんな、カンちがいしちゃった。

 今のアタシはたしかにつまらないわ。

 もっと輝かしい「本当の自分」を見つけよう。

 本来ならこの人たちって、何も考えずに結婚して税金払いながら世の中に食わせてもらって一生終わる、「つまらない人」なんだよね。誤解を恐れずに言えば。でもさ、それがこの人たちの「役割」なの。

 なのにアジテーターの煽りに乗って、みんながカンちがいしちゃった。で、そこまではいいんだけど、彼らってホントは別段「目標をもつべきじゃない平凡な人たち」なわけだ。だから別の生き方をしようなんて考えても、それがなんだかわかんない。

 答えが見つからないわけ。

 実は「答え」なんて、そんなん、どこにもないんだよ。ないものを探してるから、いつまでたっても見つからない。

 あーあ、余計なことしなきゃ、「そこそこの幸せ」で一生終えられたのに。アジ演説にだまされて踏み外しちゃったよこの人も。そんな感じ。

 これが80年代に起こった変動の第一波だった。

 で、続く90年代には、第二波がやってきた。そんな人たちをだまして、彼らから上がりを巻き上げよう。オウムに代表される新々宗教がぞろぞろ出てきた。

「あなたたち、私が答えを教えてあげますよ」

 ないはずの答えを求めて浮遊してるかなりの人たちが、こうして吸収されていった。つまりオウムは「ひっかけの集団」だったわけだ。冒頭の定義に戻ると、この「ひっかけの集団」って意味でほりえもんさんはオウムに「酷似」してるよね、たしかに(笑)

 たとえば宮台真司さんが2002年に出した本も、同じ原理を利用して売ろうとしてた。

「これが答えだ! ―新世紀を生きるための108問108答」(朝日新聞社)

 ほら。宮台さんの本でも、「答えを教えてあげるよ」がキーワードになってる。(実は黒幕は別にいるんだけど)宮台さんは確信犯的に「答え」って言葉を使ってる。

 でもそれ以前の1996年には、「ありし日」(笑)の鶴見済が「人格改造マニュアル」(太田出版)の中ではっきり答えを出してる。ちょっと長いが引用しよう。

『何人かの知人から「(自殺マニュアルの件で/注釈・松岡)インタビュアーに詰問されているのに、なぜニコニコ笑っているのか」と聞かれた。答えは「抗うつ剤を多めに飲んでいたから」だ。こうすれば何を言われたってニコニコしてしまう。こうして僕は、狙いどおりの「にこやかな著者」として多くの人の目に映ることになった。

 もちろん、初めは色々な仮面をつけている気分になっていた。それがだんだんどれが仮面で、どれが“本当の顔”なのかわからなくなってきた。けれども、もともと“本当の顔”などというものがないのだ、と気づくまでにそれほど時間はかからなかった。その時、体が一気に軽くなった気がした』

 本当の自分なんて、実はないんだよ。

 でも相変わらずネクタイせずにテレビに出てきちゃ、ほりえもんさんがなんか正論言ってる。それ見てハマっちゃう人はこう考える。

 ああ、この人について行けば答えが見つかるんじゃないか? 今の自分を決して満たしてくれない、この社会システムを壊してくれるんじゃないか? 

「満たされない自分」を満たしてくれる世の中が、その先にあるにちがいない。俺って今まで「本当の自分」がわかんなかったけど、きっとこのおっさんについて行ったら「ワンダーランド」にたどり着けるんだろう。 

 ほりえもんさんが背負ってるポピュリズムの正体はこれだ。で、ウンカのように「平凡でつまらない人たち」の支持が集まる。この「ひっかけの構造」が、まったくオウムと同じだ。

 じゃあ宮台さんはあんまり叩かれないのに、なんでほりえもんさんは叩かれるのか? それは宮台さんは完全に「わかってやってる」んだけど、ほりえもんさんの場合、半分、ワケわかってないのね。残りの半分は本気なんだよ、あれ。

 100%、ひっかけなんだったら、「ああ、なんかやってるな。ミエミエだな」で終わるのに、ほりえもんさんの場合は衣の下に鎧が見える。その意味では切込隊長のほりえもんバッシングと同じだ。もうね、本気の部分がチラチラしてる。だから保守な人たち、今までの社会のあり方をかろうじて保とうとしてる勢力が危機感をもつ。

「こいつ。ほっといたら、まじでやばいんじゃないか?」

「ホントに世の中を変えちゃうんじゃないか?」

 こう思われてんだよね。あの人。で、叩かれる。そもそもほりえもんさんて、いじられキャだしねえ。叩く人にとっては、いじめるとすごいキモチいいタイプなんだよ。かわいそうに(笑)

 そんなわけで切込隊長も無理くり叩くわけだけど、果たしてどっちが答えをもってるのかな。たぶんほりえもんさんについてっても、ロクなことにゃならないと思うけどね。わかんないけど。

 でもねえ、実はそんなことやってる場合じゃないんだよ。世の中はかなりやばくなってるんだ。もう10年くらい前から、認知心理学の専門家たちはかなり危機感をもってるよ。「21世紀はウツ病の時代だ」ってのが大問題になってるの。

 いったい、どゆことか? 

 自分探しをして答えが見つからない。どっかにもっといい生き方があるんじゃないか? そんなことをずーっと考えてると、常に理想と現実のギャップがつきまとう。これがストレッサーになって、みんなかたっぱしからウツになっちゃうんだよ。

 これって下手に思考する人ほどなりやすい。何も考えずに就職して結婚する人よりもね。

 で、病院で正式に診断されてなくても、ウツ病、あるいは抑ウツ状態にある人がここ10年くらい激増してる。先進国の中で日本の自殺率が飛びぬけて高いのも、実はそのせいだ。長くなるから解説は別の機会にゆずるけど、試しにグーグルに「認知の歪み」って入れて検索してみ。みんな。

「あーっ。これって俺そのものじゃん」

 そんな症例がぞろぞろ出てくるぞ。そのへん普通に歩いてる人たちが、みんな結構当てはまってるはずだ。

 実は今の日本の抱えてる深刻な社会問題って、北朝鮮でもイラクでもなんでもないんだ。

 自分探しの果てにやってきた、「ウツという名の荒れ果てたゴール」なんだよ。

 1980年代以降に激変した現代日本が解決すべき難問は、海の向こうにあるんじゃない。最大のテーマは「内なる自分」だ。まじでやばいよ、この問題は。

 だって答えがないんだもん。

【関連エントリ】

『人生をスルーした人々』

『自分探しシンドロームを超えろ』

自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋
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