すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

筆者の問題意識が「ほかの記事も読んでみようか」と思わせる

2008-02-16 12:28:18 | へっぽこ文章講座
■あなたは自分の中に「仮説」があるか?

 前々回のエントリ『ホットな話題にリアルタイムでからむブログ力』では、アウトプットの速さとタイミングが重要だと書いた。

 ただしもちろん速いだけでは意味がない。記事に内容がなければ「仏作って魂入れず」だ。では記事の内容の高さって、いったいどこから生まれてくるのか?

 また私が書いた「話題を先読みするアンテナ力」とは、自分の中のどんな能力が作り出すのか? ブログ「DESIGN IT! w/LOVE」さんが、私の説をうまく補足してくださった。

僕は<火がつく前に先を読む>ためにも、<タイミングを逃さない>ためにも、結局、普段からどれだけ仮説をもっているのかが重要だということかと思っています。(中略)

あらかじめ仮説としての自分の視点がなくては、目の前に何か大切なものが提示されたとしても、その価値を見出すことはできないんです。つまり、普段からものを考えて、問題意識をもっていなくては、どんなに情報収集をしたところで、<ホットな話題にリアルタイムでからむ>なんてことはできないんだと思います。

自分の仮説=問題意識の文脈があってこそ、目の前にあらわれた金脈やダイアモンドの原石を発見し、それを自分で加工=編集してその価値を高めるアウトプットが出せるのだと思うんです。

●DESIGN IT! w/LOVE『最初にパッと<映像がしっかり浮かばない>と』


「自分の仮説」とは、言い換えれば自分なりの物語である。

 話題を予測し、いち早く言及記事を書くためには、ふだんから自分の中に物語がなければダメだ。つまり蓄積である。

 頭が白紙の状態なのに誰かの記事に言及しようとしても、アウトプットするまでに時間がかかる。タイムリーな話題に素早くからむには、記事を見つけた時点ですでに自分の中に蓄積がなけれならない。

■問題意識がスピードを生む「反射神経」になる

 そして「DESIGN IT! w/LOVE」さんは、文末をこう締め括られている。

結局のところ、いかに普段から頭を使って考えているか、ということなんだと思います。人間って、わかることしかわからないんですから。わかるための枠組みを事前に準備できているという前提があってこそ、<ホットなトピックにいち早くからむ>という反射神経につながります。
いろんなものごとに興味をもち、問題意識を組み立てられているかです。


 自分の中に問題意識や視点がなければ、話題の記事にからんでも内容のないエントリしか書けない。これでは単にアクセスアップを狙い、大手ブログのコメント欄に、自ブログのURL入りで意味のないコメントをするのと同じだ。

 そんな小手先のテクニックでは、読み手の心を動かし、「ほかのエントリも読んでみようか」という気にさせることはできない。たとえ「最大瞬間風速」的なアクセスがきても、読まれるのはその記事だけになってしまう。

 問題は、ほかの記事も読んでもらい、自分のブログ自体のお得意さんになってもらえるかどうか? なのだ。

 そのためには他人の記事に反応する時点で、ふだんから問題意識をもっておくこと。独自の視点がない記事は、読み手の記憶に残らないのである。

【関連エントリ】

『ブログを毎日書くとクリエイティブな思考が「クセ」になる』

『ブログを公開するには「あきらめ」が必要だ』

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ブログを毎日書くとクリエイティブな思考が「クセ」になる

2008-02-15 10:23:35 | へっぽこ文章講座
■ブログを続けて書くことの効能は?

 前々回エントリの関連であれこれ記事を読み、面白いものをたくさん見つけた。

 たとえば前々回のエントリでは、ブログの更新頻度と人気の関係について書いた。その流れで「ブログは気が向いたときに書くのがいいか? それとも毎日書く方がいいのか?」を考察した記事が読めた。

 毎日書くことの効能がわかりやすく述べられていて興味深い。

一般論的にいえば、
「毎日書く」ほうが圧倒的にいいのではないか、と思う。(中略)

毎日書く、と決めることで、
「何を書こうか?」という目線で物事を見るし、
そこから先へ進むと、何かに触れた時に、
「これってこう書けるな」とか思えるようになる


そこが無意識にできるようになると、
どんどん書けるし、
今まで考えが及ばなかったところまで、
自分の思考がまわるようになる

だから、圧倒的に毎日書いたほうがいい、と思っている。

●じだらく『ブログは書きたい時に書け論 vs ブログは毎日書け論』
(強調表現は松岡による/途中で改行した)


 書くことは、思考することとイコールだ。ブログを毎日書くようになると、思考がクリエイティブに回り続ける状態になる。私の体験でいえば、書けば書くほど日を追うごとにアイデアや視点がますます湧いてくる。

 アウトプットするとリソースが枯渇するのではなく、逆に1回アウトプットするごとに「次」のイメージが浮かんでくるのだ。

■内なる締め切りが「書くこと」を自動化する

 また自分で締め切りを設定することの効果も大きい。別に毎日ではなく「2日に1回」でもいいし、「3日に1回」でもいい。とにかくパターンを作り、自分の中で締め切りを作るのがポイントだ。

 たとえば私は「超」がつくほど怠け者だ。だから「ブログは書きたいときに書けばいいんだ」なんて考えてると、永遠に書かなくなってしまう(本当の話だ)。

 つまり締め切りが文章を書かせてくれるのだ。

 もうひとつ理由がある。

 まず「毎日書く」とか「3日に1回書く」てな感じでパターンを決める。で、続けると、それがクセになるのである。

 同じパターンの行動を一定期間続けると、「やりたくない」という思考より先にカラダが勝手に動いてしまう。いい意味で行動が自動化される。これは心理療法のひとつである行動療法の原理に近い。(詳しくは文末の「関連エントリ」参照)

 ブログを書くことに限らず、「わかっちゃいるけどできない」ことって多い。特に私みたいに怠惰な人間にとって、「やらなければいけないこと」や「やったほうがいいけど続けにくいこと」が自動化できるってすごく大きい。

 私の体験では、早ければ3日目、遅くても1週間後くらいにヤマ場がくる。それを超えると自動化される。禁煙と同じだ。まずは1週間続けてみるのがコツである。

 てなわけで文末の「関連エントリ」にも書いたが、私は昨年12月に「毎日書いてみる実験」を一ヶ月続けてみた。効果はテキメンだった。創造的な思考やイメージが毎日湧くようになり、メンタル面でもいい意味での高揚感が続いた。

 で、年末年始をはさみ、今回は2月5日に「またしばらく毎日書いてみよう」と決めた。目下、10日間続いている。

「何かネタはないか?」と苦しむこともないし、「書くのが面倒くさい」なんて思うこともない。

 思考とカラダがかなり自動化されてきたようだ。

【関連エントリ】

『「クセをつけろ」があなたの人生を変える』
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ホットな話題にリアルタイムでからむブログ力

2008-02-14 17:31:22 | へっぽこ文章講座
■火がつく前に先を読む

「ネタが腐らないうちに書く」はブログの一大セオリーだ。これを一歩発展させれば、ホットなトピックにいち早くからむのが人気ブログの秘訣といえる。

 公開されて間もない、話題になりそうなエントリを見つける。そして火がつく前に記事で取り上げ、トラックバックやブックマーク・コメントなどで言及する。

 すると紹介した元の記事がSBMやニュースサイトなどで一斉に取り上げられた時点で、その記事と同時にあなたの記事も多くの人の目にふれる。

 なんだか他人のフンドシで相撲を取るような話だ。だけど人気ブログの筆者は狙ってこれをやってるんじゃなく、自然にふるまうとそうなるのである。

多くブクマを集めているブロガーは、注目されているエントリに対して言及する早さがすさまじい。すぐに自分の意見が表明できるようだ。それは、過去に言及したことが蓄積され、すぐに提供できる状態に熟成されていたからなのだと思う。

●THE HOME RUN SHOW『言及力の蓄積』


■タイミングを逃さないための3つの能力

 旬のネタに(火がつく前に)すばやく言及するには、大きく分けて3つの能力が必要だ。

【アンテナ力】

 常にネット上にアンテナを張りめぐらせ、話題になりそうなネタをウォッチする力。まずこれがなければトピックを発掘できない。

【オリジナリティ】

 他人がもたらした話題であっても、そこに自分なりの視点を提供する力。これがないと人と似たようなアウトプットになってしまう。結果、あなたの記事は埋もれてしまい、注目されない。

【フィルタリング力】

「このネタは必ず話題になるぞ」といち早く予測し、見分ける力。ポイントは、その記事が話題になる前に見つけ出し、言及することだ。

 たとえばAさんがある日の午前中に、「○○」をテーマに記事を書いた。で、あなたはその記事をほぼリアルタイムで読み、「このネタはきっと話題になるぞ」と予測したとしよう。そして同じ日の午前中のうちに、記事を紹介するエントリを書いたとする。

 一般にブログ記事がネット上で取り沙汰されるのは、公開された当日か、遅くとも翌日いっぱいだ。

 とすれば公開日の午前中に言及記事を書けば、Aさんの記事が評判になるのと同時にあなたの記事も読まれることになる。で、あなたの記事は話題の波に乗ることができる。

 いわゆる人気ブログの筆者は、無意識のうちにこれをやっている。だから言及が早いと言われるのだ。ちなみにアウトプットの速度を速める意義については、以下の記事が参考になるだろう。

『速度を速めるとゆっくりできる』(DESIGN IT! w/LOVE)
 
 ポイントはAさんの記事がネット上でさかんに読まれている最中に、あなたの言及記事がすでに存在していることだ。

 逆に多くの人がAさんの記事を読み終えたあとにトラックバックを送ったり、コメントを書いたりしても、あなたの記事が読まれる確率はグンと低くなる。

 火がつくのと平行して自分の記事が読まれるかどうか? このタイミングが問題なのだ。

【関連エントリ】

『ブログを公開するには「あきらめ」が必要だ』

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ブログの「関連記事」は3本までにするのが読まれるコツだ

2008-02-11 08:23:11 | へっぽこ文章講座
■拾う文章と捨てる文章をフィルタリングする人間の認知システム

 いまやブログやSNSの記事は洪水のように氾濫している。その上、SBMや個人ニュースサイトからは、絶えず読むべき記事が流れ込んでくる。こうなると情報を集めることより、いかに捨てるか? が重要になってくる。

 で、人間はこんな自動フィルタリング機能を備えている。

ネット上である程度の長文を読むとき、無意識に一定範囲の文章を選択したり非選択にしたりしている。選択すると色は反転するわけだからそこを強調して読もうとしているのかというと、別にそういうわけでもない気がする。でも、読んでいるところの前後を含めて選択したり外したりしているので、読む作業とは何らかの関係がある気もする。

●kokokubeta;『ネットで文章を読むときの癖』


 これは確かに私も無意識のうちにやっている。「選択した文章」だけを精読し、ほかの部分はナナメ読みして「次のブログ」へ行くのだ。だって順番待ちしてる読むべき記事が、ほかにもたくさんあるんだから。

■表に出す情報を「いかに絞るか?」がコツ

 てことは読まれるブログを書くためには、表に出す情報をいかに絞るか? が重要になる。たくさん読んでもらおうと欲張り、あれもこれもになってしまうと、逆にどれも読まれずに終わってしまう。

 典型的なのが、ブログ記事の文末などにつける「関連エントリ」だ。「この記事と関係のある記事はこれとこれだから、ぜひそっちも読んでください」というアレである。

 ブログを書く側としては、「せっかく自分が書いた記事だ。1本でも多く読んでもらいたい」というのが人情である。

 だけど読む側の論理でいえば、読むべきものはほかにも山ほど待機している。なんせ彼は日夜、津波のようなRSS攻撃を食らっているのだ。1秒だってムダにはできない。

 そんなところに5本も6本も「関連記事だ」と表示されても、「じゃあ読もう」って気にはならない。それどころか逆効果である。

 切迫し、脊髄反射な心理になってる読み手に向かい、5本も6本もサイン(関連記事)を出すと拒否反応しか返ってこない。たちまち「彼」は逆方向に反応し、「全部まとめて読みません」という選択をしてしまう。

 つまりたくさん表示しすぎると、逆に1本も読まれない可能性が高まるのだ。

■3本以内の関連記事なら全部読まれる可能性も

 とすれば読んでほしい自分の気持ちをグッと抑えよう。

 関連記事は、本当に自信のある3本までに止める。

 これならそのうち1本が読まれる可能性は高まる。目に飛び込んでくる「3本以内」の記事数が、急ぐ相手に心のゆとりを与えるからだ。で、「これなら読もう」と、運がよければ3本全部読んでもらえるかもしれない。

「急いてはコトを仕損じる」は、ネット上でも有効な普遍の法則なのである。
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ブログを公開するには「あきらめ」が必要だ

2008-02-07 10:14:52 | へっぽこ文章講座
■アウトプットするには2つの難関がある

 ブログ記事を書いて投稿するまでには、2つの大きな難関がある。

 1つはネタを考えつくまでの産みの苦しみ。もう1つは「もっとよくなるんじゃないか?」と思いながら書きあがった記事を、思い切って公開する踏ん切りだ。

 前者については、ネタが思いつかなければ誰かの記事に反応することから始めてみるといい。創造物にインスパイアされ、他人の思考(記事)への感想から書き始めるのだ。すると自分にしかない発想って、案外、あとから湧いてくる。

 だが問題は後者である。

■完全主義者タイプは読ませるのをためらう

 世の中には2種類の人間がいる。

 完全主義者と、そうでない人だ。

 何か行動するに際してあまり構えない人は、気軽に何でもやってみることができる。トライ・アンド・エラーで、走りながら考えることが可能だ。だからサクッと記事を投稿するのもわけはない。

 だが走る前にあらゆる要素を熟慮してからでないと、スタートできない人もいる。完全主義な人である。

「半分くらい書いたが、なんかイマイチだな」

 そう考え、また冒頭の導入部に戻っていじり始める。

「ひと通り書き終えたが、このネタはもっと面白くなるはずだ」

 いったいどこが悪いのか? 何度も推敲しては各部分を修正する。あげく、現段階の原稿が果たしてベストなのか、だんだんわけがわからなくなってくる。

「とりあえず原稿を保存しておき、寝かせてから明日また読んでみよう」

 こうして書きかけの原稿ばかりがたまっていく。

 そうこうしているうちにタイミングを逃し、せっかくタイムリーだったネタが腐ってしまう。

■「公開してから完成させる」というブログ時代の新発想

 紙の媒体とくらべ、消費のサイクルが速いブログ記事は、内容もさることながらスピードが命だ。「書き直せばもっとよくなるはずだ」と思っても、思い切ってアウトプットしてしまう勇気も大切である。

 完全主義者はとかく、「非の打ち所のない最高のものを作ってみんなを驚かせよう」なんて考えるもの。

「パーフェクトなパッケージを作り、完成したらあとは見てもらうだけだ」

 だがその発想はブログには合わない。

 記事をいったんオープンにしても、あとから書き直すなんていくらでもできる。逆に読んだ人から感想をもらい、それに触発されて新しい何かを書き足すのだってOKだ。読み手とのコラボレーションって、いかにもブログらしい。

「完成されたパッケージを作る」というのは、そもそも紙の媒体しかなかった時代の発想だ。

 適当なところで見切ることも、ときには必要なのである。
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ブログはタイトルから? それとも結論重視?

2008-01-08 10:01:17 | へっぽこ文章講座
■浮かんだセリフを生かすために全体を書く

 あなたはブログをどんな手順で、どう書いていますか?

 これはホント人によってぜんぜんちがうから面白い。たとえばこの人の例は小説だけど、ストーリーを作る前にある場面がポンと浮かんだ。で、そのシーンを生かすために全体の話を作った、って体験だ。

一つのセリフが思いついて、それをもとにして物語を構築していくという書き方がそれです。(「死を生きる」がそうでした。「肉体は死しても、魂は未来永劫生き続けるのです」というセリフを思いつき、それを最後に主人公に言わせるためだけに物語を構築していったものでした)

●変わらない世界のふらちな呟き『天から降ってくるものを書いているような感じ』


「それを主人公に言わせるためだけに作った」というところに、筆者のこだわりが感じられる。よほどセリフに思い入れがあったのだろう。

 もちろん小説じゃなくブログでもこういうのはある。何かのシーンや心にひっかかる発想が突然わき、まずメモる。で、それをテーマにしたりオチにしたりして1エントリを書く。カケラから全体が生まれるパターンだ。

■考えた道のりを公開するのが面白い

 またひねり出した結論そのものより、それに至る思考の過程こそが面白いんだ、って考えもある。

 結論へ行くまでに自分が考えたことを仔細に書き、「もう本望だ」。で、「あれ? どんな締め方をしようか?」と。いや私がそうなんだけど。

 よく言えば主旨はこうである。

「結論は、これ読んだあなたが自分で考えてください。だって他人がまとめるより、自分で発想するほうが面白いでしょ?」

 ニュースサイト「明日は明日の風が吹く」のyas-toroさんも近い感覚だ。

ふとした時に「これって○○だよなぁ……」と思う。そこからどんどん考えていって、ああでもないこうでもないと頭の中で考える。(中略)

その思考の過程も含めて全て書いてしまう。だから、閃いた所から書き始める訳。結論がどうなるかはあまり分かっていない事が多い。勢いで書き上げてるという気もする(笑)。

●明日は明日の風が吹く『ブログの記事はどこから書き始めるか?(via まなめはうす)』


 文章って別に結論まで用意する必要なんてないと思う。

「答え」は読んだあなたが決めればいいんだから。

■ブログでは特に有効な「タイトルと冒頭の3行で心をつかめ」

 よく言われる文章書きのコツは、「タイトルと冒頭の3行で心をつかめ」ってやつ。私は紙媒体の経験が長いから違いがよくわかるのだが、特にブログみたいなウェブ媒体って文章のド頭が重要だと思う。

 ブログの数は膨大だ。RSSリーダーに登録してるお店だけでも、もういっぱいいっぱいである。だがそれに加えて、ソーシャルブックマーク(SBM)や個人ニュースサイトで見かけたブログまで毎日読むのだ。読むべきものは次々に湧いて出る。

 とすれば読む側にすれば、文章の冒頭で「それが面白いかどうか?」を素早く見極め、つまんなかったら一刻も早く「次」へ行きたいって心理が働く。逆に頭の3行で読み手の気持ちをキャッチすれば、あなたのエントリは最後まで読んでもらえる。

 たとえば最近私は記事の冒頭の1行目に■マークを入れ、いきなり中身出しをつけることが多い。これも意味は同じだ。最初に印象的な見出しでアピールし、「続けて読んでね(はぁと)」てな仕掛けである。

 つまり本文の文頭だけでなく、タイトルや中身出しで読み手を勧誘するわけだ。

わたしは、タイトルが決まらないと先に進めないタイプなので、まずはタイトルをウンウン唸りながら、考えるのです。(中略)

なぜかというと、タイトルはその記事の看板で、その看板が人目を引かないとイカンであろう、とおもっているからです。
ゆえになるべくキャッチーにしようと、心がけています。
それが時に行き過ぎて、記事の内容のどこに係ってんねん?! と言われるタイトルが付いてしまうこともしばしばあります。

●瀬戸際日記「『タイトル』からです」


 まあ、あんまりキャッチーすぎて「釣りかよ?」ってのはよろしくない(自戒を込め)。特にネットユーザはリテラシーの高い人が多いので、あんまりタイトルに力が入っていると「中身がないな」と見切られる。かえって逆効果だ。

 とはいえ前述の通り、ブログの読まれ方は短サイクルでスピーディーである。やはりタイトルの威力はでかい。

 私はもともと「文章は中身が問題だ。タイトルなんて付け足しにすぎない」派なんだけど、ブログを書くようになって考えが変わった。やはり端的にタイトルだけを見て、「なるほどこの人はこれが言いたいのか」ってわかったほうがいい。

 で、日夜タイトル決めにウンウン唸るのだが、さて効果のほうはどうなんだろうか。

■人とコラボレーションしながら流れを作る

 ラストは最近私のインスパイア元になることが多いブログのご意見だ。人とコミュニケーションしながら記事の流れを作る、という発想が面白い。少し長くなるが引用しよう。

一人でブログ記事を書く方法はそれぞれが好きに考えてやればいいと思っていますが、いろんな人とやりとりしつつブログ記事の流れを作っていくって部分もいろんなやり方がありそうだな、と考えています。

お題を決めて、それについての記事を各メンバーが書くなんて形もあれば、たんたんと文通の様にトラックバックを飛ばし合いつつ記事を書き続けていく形もある。最近は、ソーシャルブックマークやTwitterのようなミニブログなどもでてきたので、そういう場所での発言も参照しつつブログ記事を書くなんてやり方も面白そう。

●北の大地から送る物欲日記『ブログ記事の書き方の可能性』


 いい意味で独善的に「オレが言いたいのはこれだ」と書くのもテだ。だけど「他人とコラボレーションしながら作り上げる」というのはブログらしい。

 ブログの醍醐味って究極的には人とのコミュニケーションだと思うし、他人の考えに触れて変わっていく自分を記録するって発想もアリかなと。
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ブログの記事はどこから書き始めるか?

2007-12-28 07:41:12 | へっぽこ文章講座
 みなさんはブログを書くとき、どんな書き方をしてるだろうか? 「人によってこんなにちがうんだなあ」と、興味深く感じた記事を見かけたので反応してみる。

僕は文章を書きながら考えをまとめるのが苦手で、ある程度、結論めいたものを考えてから書き始めます。「書き出し」にとりかかるのに時間がかかるんですね。その代わりに、「書く」ときには、言葉を選んだり構成を整えたりすることに集中しますので、書いている間に結論がぶれたりすることはほとんどありません。

●FETISH STATION『「考える」ことと「出力」の間』


 筆者のKenさんは、設計図を作ってから書き始めるタイプの人みたいだ。私の場合はKenさんと正反対で、後半部分(や結論)がまったく頭にない状態で書き始めることが多い。で、その部分にさしかかると、突然書くべきことが思い浮かぶのだ。

 だから「おお、こんな結論になったか」みたいなこともしょっちゅうある。自分で自分に驚いてるんだから世話はない。

 楽器の演奏に例えると……Kenさんの場合はあらかじめキッチリ譜面を作り、それを見ながら演奏するのに近い。で、そのことにより、自分の描いた構想を文章で再現しているのだろう。

 だが一方、私の場合は譜面は使わない。コード進行だけ見てアドリブで演奏し、その瞬間、その瞬間にわいたアイデアを反射的にアウトプットする。私はベースを弾くのだが、言われてみると自分の演奏は確かにそんな感じだ。「書く」と「弾く」で行為はちがうが、背景にあるマインドが自分の中で共通している。おもしろい現象である。

■まず書きたい箇所から書くのもテだ

 さて「譜面」がないという意味では、私の書き方はこのパターンに近い。

一方、書くことは全部書きあがってから発表するので、どこから伝えたいことを処理しても良い。例えば一番書きたいところを最初に書いて、次に前提、結論を書くとか。僕はブログを書くときそうしてしまいがちだ。

●tomityの日記『話すことと書くこと』


 なるほど。アドリブっぽい感じが共通している。

 ただ筆者のtomityさんとちがうのは、私の場合は断片的に書きたい箇所、たとえば「結論だけを先に書く」みたいな方法じゃない点だ。たいてい文章の頭から書き始め、書いてるうちに次の展開が浮かんで自動的に先へ先へとまとまって行く。

 だからたまに仕上げの段階であるにもかかわらず、結論だけが出てこないなんていう本末転倒なこともある。

 その意味では書く前から結論が頭の中にハッキリ描かれていたり、逆に書きたい箇所から書き始め、文章が後ろ(結論の方向)にだけでなく前へもふくらんで行くような人がうらやましい。

■「私の書き方公開します」企画ってどうかな?

 こんなふうに、たまたま3人の書き方をくらべただけでもこれだけちがいがあるのだ。きっと文章作法は百人百様なのだろう。それなら「自分はこんな書き方しています」と、自分独自の方法をみんなで公開してみたらどうかな?

「へえ、そんな書き方があったのか」てなぐあいで互いに参考になりそうだし、お役立ち企画としてはいいかもしれない。

 しかし思えばその昔、原稿用紙に万年筆やらボールペンで文章を書いていた時代は大変だった。もちろん下書きはするのだが、書き上げてから「真ん中へんのココを直したい」となると別の紙にまた最初から書き直したりしていた。

 ところが今や「結論から先に書き、あとで編集する」なんてことが自在にできるんだから、ホントに楽だ。それを考えただけでもパソコンの登場は、人間の作業をいかに効率的にしたことか……。

 ああ、ヤバい。結論が思い浮かばないや。イマイチだなあ、この締め方は。

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「過去ログ読め」がない時代の新・文章術

2007-12-17 01:23:13 | へっぽこ文章講座
 エントリ単位で読むブログがポピュラーになってからというもの、ネットユーザの常套句だった「過去ログ読め」って言葉はすっかり鳴りを潜めた。

 なぜならブログは、各エントリが独立して存在しているからだ。時系列に関係なく、目についたエントリからバラバラに読まれる。過去にさかのぼり、順番に目を通すなんて系統だった読み方はあまりされない。

 しかもたまたまリンクでたどりつき、1エントリだけ読んだら「ハイ、さようなら」ってケースもふつうにある。

 てことは以前のネットマナーや、ネットの常識はもう通用しないってことだ。「当然、過去ログはひと通り読んでるはずだ」とか、「そうするのが当たり前だ」なんて概念は過去の遺物である。

 これを書く側から見ればどうなるか?

 あれは前に1回説明したからもういいやと思っても、「そのエントリ」を読んでる人は初めての人かもしれないのだ。しかもどの最新エントリに対しても、常にそれがいえるのである。すると同じことを何度もそのたびに説明しなきゃならない場合が出てくる。

 たとえばあるエントリで、「私は京都の出身です。京都では~」と書いたとする。で、何回かあとに別のエントリで、祇園祭を取り上げようと考えた。すると前に一度「京都の出身だ」と書いたけど、また同じことを言わなきゃならない。

 しかも京都に関係あることを書くたびに、以後、毎回これが起こるのだ。

 もちろん出身地の話だけじゃない。もっとややこしく、むずかしい事態もあるだろう(けど、すぐにはいい例が思いつかない)。

 みなさん、こういう経験ないですか? 

 というかこんな場合、みなさんはどうしてます? そのたびに同じ話を書きますか?

 ところが、である。そのつど同じ説明を書けば書いたで、また新たな問題が発生するのだ。

 もちろん初めてそのブログを訪問し、新鮮な気分で読んでる人が相手ならOKだ。だがそのブログをRSSリーダーに登録し、毎日のように目を通してる読者から見るとどう感じるか?

「おいおい、またその話かよ。同じ説明を何度も書いてるぞ。くどいなあ、この筆者は」

 こう思われてしまうのである。

 うーん、むずかしい問題だ。どうすりゃいいのこれ?

 なんかたまたま気づいたことなんだけど、すごい気になってきちゃった。



(追記)「ところが、である」以降を一部加筆した(2007年-12/17)
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自分で自分の文章を解説するなんてイタイよねえ

2007-12-15 01:24:48 | へっぽこ文章講座
 文章とは、読んだ人が自由に解釈できるところがすばらしい。筆者がどんな意図で書いていようが、読み手が思うままにイメージの翼を広げられる。それが読むことの醍醐味である。

 まあ別に作文に限らず、芸術とはそういうものだ。だから自分の文章を自分で解説するなんてヤボだし、非常にみっともない行為である。

 だけどたまたまブログ「北の大地から送る物欲日記」さんから、私が書いたコラム『初心者ブロガーが「ブログ青春時代」を卒業するとき』(ASCII.jp)に以下のような問いかけをいただいた。

ブロガーとして立派な社会人ってのが何を指すのかは分からないけれど、

●北の大地から送る物欲日記『ブロガーとしての成長に卒業はない』


 なるほど。あの原稿は比喩を多用したから、読んだ人に意味が通じてない箇所も多いのかも? そう気づいた。とても貴重なご意見をいただいたと感じた。こういうのは実際に読んだ人から言われてみないと、自分じゃ案外気づかないものである。

 そこで今回は自分で自分を検証する意味を込め、ヤボを承知で自分の文章を解説してみることにした。これも自己研鑽になるはずだ。まあ一種の独り言みたいなものである。

 テキストは連載「松岡美樹の“深読みインターネット”」で書いた前述の拙文だ。短いコラムなので、よろしければまずは上記の文章をお読みいただければと思う。

■隠された本当のテーマは何か?

 さて今回、拙文『初心者ブロガーが「ブログ青春時代」を卒業するとき』で題材にしたのは、ブロガーの心理である。

 ブログは一般に、始めた頃は何も考えず好きなことを書くものだ。ところが「記事を書き、アクセス数を見て」てな作業を続けるうち、幸か不幸か余計なことを考えるようになる。その代表格が「どうすればページビューが増えるのか?」である。

 せっかくブログを始めたっていうのに、「たくさんの人に読まれるにはどうすればいいのか?」、「ウケる原稿ってどう書くんだろう?」と思案するうち、多くの人が負の連鎖に陥ってしまう。

 最初はピュアな動機でスタートしたはずなのに、悪い意味でプロと同じこと、すなわち「売るためにはどうすればいいのか?」という商業主義の袋小路に迷い込む。今回のコラムでは、そんなブロガーの心理の変化をシニカルに描いている。

 ゆえにタイトルで使った「卒業」とは、純粋な心を失うことを指す。つまりネガティブな意味である。青春時代とは、恐ろしいまでにピュアなものだ。一方、誤解を恐れずにいえば、社会に出るというのはある意味「汚れる」ことである。

 ではコラム中で使ったポイントになる表現を、カンタンに説明していこう。以下、太字はすべて文中からの引用である。

『就活』

 文中では、初心者ブロガーが好きなことだけ書いてる状態を、「青春時代」「学生時代」と想定している。

 だけど学生さんはいつかは就職する。職に就けば、いままでとちがって好きなことだけやってればいいわけじゃない。生活するためには、やりたくない仕事もガマンしてやらなきゃいけない。人生の第二局面である。

 で、文中ではこの「食うために働く状態」を、アクセス・アップ目ざして「書きたくはないがウケる原稿を書くこと」に置き換えている。すなわちここでいう「就活」とは、手段が目的化した日々に突入する前段階のことを指している。

『嫌な仕事でもガマンして収入を稼がなきゃ』

 前述の通り、書きたくない原稿を書いて収入=アクセスを稼ぐって意味だ。仕事とは原稿を書くことである。

『テーマは絞ったほうがいい。でもそれは「正しい」のか?』
 (2ページ目の中見出し)

 前段は読んで字の如し。テーマを絞ったほうが、アクセス・アップの効果がある。でも書くことに対する純粋なモチベーションを忘れ去り、小手先の技巧(テーマを絞ること)に邁進するのは果たして「正しいこと」なのか? それが後段の問いかけである。

『これがいいことなのか? 悪いことなのか? 判断はその人本人がすることである。なにしろ更新頻度からいえば、その筆者がいちばん興味があるのはゲームなのだから』

 本人にとっては、ゲームの原稿を書くのが「いいこと」であるはずだ。だけどアクセス・アップを狙い、テーマを絞るという選択もある。どっちを選ぶかは本人が決めることである。それがいいことなのか、悪いことなのかは別にして。

『その意味では今やプロの出版人だけでなく、素人さんも売れる媒体を日夜考えているのである』

 これまたシニカルな意味を込めた表現だ。本来なら考えなくていいことを、素人さんが考えてるよね、って話だ。

 いわゆるプロの人々は経営を考え、「売れる媒体」を目指さなきゃならない。だけどその必要もない素人さんが、わざわざ自分で自分の創作活動を鋳型にはめ込んでどうするの? それってつまらないと思わない? てな意味で書いている。

『果たして彼はこの難局を乗り切り、ブロガーとして立派な社会人になれるのか?』

「就活」の項で説明した通り、この場合の社会人とは「食うためにやりたくない仕事をガマンしてやってる人々」の意味だ。つまり「ブロガーとして立派な社会人になる」とは、アクセス稼ぎのために日夜書きたくない原稿を書く「リッパなブロガーになること」を指す。これもシニカルな表現である。

『いやそれ以前に社会人になること自体がいいことなのか? 悪いことなのか?』

 この場合の「社会人」も、前項で説明したのと同じ意味だ。アクセス・アップのために書きたくもない文章を書く「社会人」になることは、果たしていいことなのか? 疑問の提示である。

【本日のまとめ】

 文章を仕事で書いている「プロ」の立場から見ると、「素人さんは何をどう書いてもいいはずなのに、なぜわざわざ自分で自分に窮屈な枠組みをハメるんだろう?」って疑問がわく。アクセス・アップという「大義」のために。

 そんな皮肉な疑問を文章にし、「あなたは本当にそれで後悔しないですか?」と問いかけたのが今回のコラムである。以上、無粋な解説はこれにて終了。次回からはいつものモードにもどろう。

 ではみなさん、またよろしくお願いします。

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ボーガスニュース、説明過多症候群に認定 ─患者の悲痛な訴え実る

2007-11-09 19:25:58 | へっぽこ文章講座
 2年前に書いたエントリ【へっぽこ文章講座】わざと説明しないことのかっこよさで今回と同じ指摘したんだけど、また見かけたんでしつこく書いちゃお。

 文末の以下のくだり(というか説明)は、蛇足ですってば(失礼)。いやあくまで個人的な好みですけど。

スリーサイズを明記したプロフィール写真つきの記入済み婚姻届を送りつけるような嫌がらせは、けっしてしないようにしたいところだ。

●ボーガスニュース『アルファブロガー認定恐怖症「苦しみ理解して」─患者の悲痛な訴え 』


 前回同様、ネタバレになるんで説明するのがむずかしいけど……文末の前に置いた「かわいいお嫁さんがこわい」を読んだ時点で、読者は「ああ、落語の『まんじゅうこわい』のパロディなんだな」って分かるわけじゃないですか? 

 だったらラストは、「と夢を語る」でスパンと締めちゃったほうがいい(いや個人的好みですが)。じゃあなぜ筆者は、「スリーサイズを明記した~」以降の文章を最後に付け加えたのか? 

「最後にもうひと押し説明しておかないと、分からない人には分からないな」

 こう考えたとしか思えないのだ。しかし前回も書いたけど、「かわいいお嫁さんがこわい」の時点で分からない人は見切っていいんじゃないかなぁ。理由は2年前のエントリで説明したから繰り返さないけど。

 ……とまあ、筆者さんがアルファブロガーに認定されちゃいそうなんで、恐怖症がひどくなるのを見かねて思わず助太刀しちゃいました。

(ああ……。説明したくなるなあ。この最後のくだりは)

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最近のトラックバックスパム

2005-10-22 15:43:32 | へっぽこ文章講座
 ブログのトップページの画面は、実にさまざまな要素でできている。またサイドにはいろんな項目が並んでいる。それぞれがまるで将棋のコマのように、あるいはサッカーの各ポジションにおける選手のように、はたまたバンドにおける各パートのように、自分に託された異なる機能を発揮しあい、ブログという「全体」を形成している。対する各項目は全体の「一部」だ。

 まずカレンダーである。それから月別のアーカイブやカテゴリ、ブックマーク、プロフィール、リンク。これら「部分」が助け合い、チーム全体が点を取って試合に勝つこと、または相手の「王」を詰ますことを目ざしている。

 そのうち特に重要なのが、「最近の○○」シリーズである。たとえば、

「最近のエントリ」

「最近のコメント」

「最近のトラックバック」

「最近のトラックバックスパム」

 ん? いやブログのサイドに「最近のトラックバックスパム」って項目があったら、笑えるなと思って。それだけ。

 これ書いといたら、トラックバック研究家のえっけんさんあたりが、ネタでほんとに作って笑わせてくれるかな? とか。

 だめ?


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【ユーモア力・テスト】

 (質問) あなたは今回の駄オチを、どの時点で察知しましたか?

【1】冒頭のタイトルを見た瞬間 
   (松岡の浅はかなワナなんかにかかるかよタコ、と発想した)

   [診断] 
   
   あなたはある種の芸術的才能、もしくは洞察力、
   あるいは猜疑心が強いタイプです。
   生き方に気をつけましょう。
   大成するか、堕ちて行くか、
   オール・オア・ナッシング型です。

【2】3段落目の「特に重要なのが最近のシリーズだ」を見た時点

   [診断] 

   【1】の心理的側面から、「猜疑心」だけがないタイプです。
   あなたは良い要素で満たされています。
   ただし生き方に気をつけるべきであることに、
   変わりはありません。

   芸術な人はとかく身を持ち崩しやすく、
   また洞察力はそれを生かす職業に就けば成功しますが、
   日常生活では友人等に「うがった見方をするヤツだ」と
   受け取られることもしばしばです。

【3】文中の「最近のエントリ」以下、
  「最近の○○」シリーズが次々に並び始めたとき

   [診断]

   あなたには「気配」を察知する能力があります。
   続々と発生する社会現象を見て、
   「いま、日本は希望格差社会へ向かっている」
   などと考えるタイプです。

   あなたは気配を読みます。
   ですから浮気がバレることもなく、
   未然に対策を取られていることでしょう。

   でもひょっとしたらあなたは、
   この時点でオチを先読みしたのではなく……

   本文中に「最近のエントリ」等のシリーズが並び始めたとき、
   最下段の太字で書かれたオチが
   先に目の端に入っただけではありませんか?
                    ……ウソつき。   

【4】本文中盤の「最近のトラックバックスパム」を見た瞬間

   [診断]

   こんなのありえねーだろ? と。
   常識に富み、法則や原理、公式などに
   慣れ親しんできたタイプです。

   ただ、ややもすると既成概念にとらわれすぎ、
   あなたの価値観では「ありえないこと」を
   認められない側面があります。
   弁護士や警察官、公務員等を目指せば勝ち組です。 

【5】「ん? いやブログのサイドに~~それだけ。」という、
   オチをわざわざ筆者が自分で説明するくだりを読んだ瞬間

   [診断]

   きわめてノーマル、健康的な精神の持ち主です。
   書き手の狙った通りにハマってくださいます。
   性格は屈折しておらず、天真爛漫、
   みんなから好かれるタイプです。
   特に筆者から好かれます。

   ただしあなたはややもすると、
   与えられた情報をうのみにする傾向があります。
   それさえ留意すれば幸せな結婚をし、
   満ち足りた人生が送れるでしょう(サービス)。

【6】この「ユーモア力・テスト」が始まってから

   [診断]

   現代社会の常識においては、
   やや負け組みにカテゴライズされそうです。

   ですがあなたには大きな魅力があります。人を信じる力です。
   これは何物にも勝る才能といえましょう。
   自信をもち、希望を捨てずに生きようではありませんか。
   人間とは、そもそもそういうものなのです。

【番外編】

【7】いまに至るも、何が起こっているかわからない

   [診断]

   大物です。政治家をめざしましょう。
   日本のリーダーの条件は、「ユーモア力がないこと」です。

【8】筆者の松岡は、書いているうちに前半のネタが「弱いな」と感じ、
   あわてて後半部分に「テスト」をつけ加えるという逃げ
   思いついたにちがいない

   [診断]

   合格です。

 ところでみなさん。今回のエントリは、「ユーモア力・テスト」の部分全体が、実は【へっぽこ文章講座】を兼ねていたことにお気づきだったでしょうか?

 え、お気づき? 大変失礼致しました。私の負けです。

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【へっぽこ文章講座】わざと説明しないことのかっこよさ

2005-10-06 02:39:07 | へっぽこ文章講座
 カゼが直るまで更新は休むと言いながら、またまた書いちゃお。最近、私のお気に入りブログになっている『bogusnews』についてである。お題は、「説明しすぎる文章」って面白さを殺しちゃう場合があるよね、ってお話だ。

 この『bogusnews』、実際にあったニュースをふたひねりし、パロディとして読ませるユーモアが身上である。いわば1年365日がエイプリルフールみたいなノリだ。

 このテの文章は、かなりの技術がないと成立しない。だけど筆者は、毎回、きっちり仕上げてくる。特に10月3日付の「Yahoo!ロボット検索中心へ変更 非難の声も」のデキは抜群だった。このエントリーを読み、「筆者はひょっとしてプロなのかな?」と思ったくらいだ(プロだったらゴメン)。

 で、今回、まな板にあげるのは、10月5日付の「[阪神買収] 村上ファンドの裏に謎の外国人?」である。ただし残念ながら(この人がもっているだろう能力を考えれば)失敗作としてだ。みなさん、まずは先に上記のエントリーをお読みいただきたい。

 さてネタバレになるのでどこまで分析していいものやらむずかしいのだが……このエントリーはご覧の通り、右上段に掲載してある写真と、本文の中盤に出てくるコメント「ヘドロのにおいを漂わせていた」を読んだ時点で、オチがわかるしかけになっている。

 阪神という球団の歴史に関するちょっとした知識とユーモアを解するセンスがあれば、この「ヘドロのにおいを漂わせていた」のくだりでぷぷっと吹き出して「いっちょうあがり」な作品なわけだ。

 で、読み手のレベルをそこに設定するならば、本来ならこの文章は、最終段落にもってきた『この老紳士、風体と「かなりの資本をもっているらしい」という以外のことは一切わかっていない。ただ、阪神に強い恨みを抱いているのは確かなようだ』の二行で、サラリと締めくくって終わるのがベストだ。

 そのほうが余韻も残るし、さりげない締め方が逆にインパクトを生む。ココで切ったほうが文章としては絶対におもしろい。

 ところが残念なことに、筆者はそのあとに余計な一文をつけ加えてしまう。最後にオチを自分で説明してしまうのである。この最終段落にあるコメントの部分は、完全な蛇足だ(失礼)。

 ひょっとしたら筆者の頭には、こんな思いがよぎったのかもしれない。

「道頓堀に投げ込まれたアレのことを知らない人が読んだら、なんのことだかサッパリわかんないかもしれないな。だったらラストでちょっと説明しておこうか」

 文章を書く上で「どこまで説明すればいいのか?」って、とてもむずかしい問題だ。説明不足のせいで読者が意味をくみ取れないのでは、それこそ意味がない。

 だけどその一方で、わざと説明せずにやめておくという寸止め戦法も、これまた高等な文章技術のひとつである。今回のケースで使ってほしかったのがまさにコレだ。

 今回のネタは、アレがかつて道頓堀に投げ込まれたことを知らない人が読んだらそもそもアウトなのだ。どんなに筆者が説明しようが、笑えないものは笑えない。だってその人は笑うための予備知識がないんだから。だったらもう割り切って、説明しないことを選択するのが正解だ。

 つまり本文の中ほどに出てくる「ヘドロのにおいを漂わせていた」を読んだ時点で笑えない人は、もう見切っていいのである。もし私がこの筆者の担当編集者だったとしたら、そう進言しただろう。

 以前、私はエントリー『人は映画の中に「観たいもの」を観る』の中で、映画は説明しすぎるととたんに色あせてしまうと書いたことがある。これは映画に限らず、文学や美術、音楽など芸術全般にいえることだ。

 たとえばユーモアがわからない人に、ユーモアの意味を説明するのって最高にダサい。笑う才能がない人は、どうしたって笑えないものだ。

 仮にあなたが友人にジョークを言ったとき、意味が通じず笑ってもらえなかったとしよう。

 でもそこであなたはわざわざ、「いや、いまオレが言ったのはジョークなんだよ。意味はコレコレこうでさぁ~」などと説明し直したりはしないだろう。なぜならあなたが放ったジョークは、相手に説明している時点ですでに失敗なのだから。

 同じようにゲージュツがわからない人に、その意味を解説するのは無粋だ。世の中には、わかる人だけわかってればそれでいいやみたいな世界ってやっぱり存在する。

 というか今回、たまたま私は他人の文章をサカナにし、エラソーに論評なんぞをぶっこいているが……もちろん私だって毎回、同じことに頭を悩ませ、七転八倒しているひとりである。

 現に今回のエントリーにしても、仮に10人がコレを読んだとしていったいそのうち何人に意味をわかってもらえるだろうか? 私は不安でいっぱいだ。

 ああ、うまく説明できてないよなあこのエントリー。すんません。出直してきます。やっぱりブログ書くのはカゼが直ってからにしようっと。
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