すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

【ブログ文章術】他人の記事に「反応」することが自分の記事を生む

2008-01-19 12:48:38 | 仕事の日記
 ネット連載「松岡美樹の“深読みインターネット”」(ASCII.jp/アスキー)を更新しました。

■第6回 【ブログ文章術】 他人の記事に「反応」することが自分の記事を生む

 あなたはブログを書くときに、自分でゼロからネタを考えていますか?

 自分の内側から湧き上がるアイデアをもとに書くか? それとも他人のブログ記事を読み、「あっ、私の場合はこうだな」などと触発されて書くか?

 もちろんどちらのケースもあるでしょう。でも、より比率が高く、かつ書きやすいのは後者のパターンではないでしょうか?

 そこで今回は記事を書くにあたり、ブログを続けやすくなるネタの見つけ方について考えました。また他人の記事をサカナにする場合などに、より読み手の印象に残りやすい記事の書き方に関しても提案しています。

 ではお楽しみに。

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あなたはブクマコメント派? それともブログにコメント派?

2008-01-13 12:19:41 | メディア論
■ブログに書き込む行為は「筆者の手を握る感覚」だ

 ブログを読み、「おもしろい」と感じた。

 じゃあ、あなたが次に取る行動は何か?

 相手ブログのコメント欄に感想を書き込むか? それともソーシャルブックマーク(SBM)でコメントするか? それが問題である。

ブログを読んでいてコメントしたいな、と思うときが多々ありますよね。で、そんな時コメントする場所(方法)ってたくさんあるんですよね。(中略)

中でもブログのコメントとブクマコメントで迷いますよね。

●まだ限界だなんて認めちゃいないさ『どこにコメントすべきか問題』


 みんな同じだなあ。

 たとえば私の場合、デフォルトはブクマコメントだ。SBMを使い始める前は相手ブログに書き込んでいたが、今ではよほど感銘を受けた/反発を感じたとき以外、そこまでしない。

 すごく親しい人ならブログのコメント欄に書くが、たいていはブクマ・コメントで終わりだ。

 私にとって相手ブログへ書きに行く行為は、相手の両手を握り、「すばらしかっですよ!」と祝福するようなニュアンスがある。

 ただしこう書くと、SBMよりブログのコメント欄のほうが価値があるように感じるが……実は案外、そうでもない。

■記事を世の中に紹介する意味があるSBM

 たとえば相手ブログじゃなくSBMに書く行為を、(1)社会的な意味と、(2)ブログ筆者との関係──に分けて考えてみよう。

 相手ブログに書き込むのとくらべ、SBMでブックマークする行為は「みなさん、このブログはおもしろいですよ」と社会に向けて呼びかける意味合いが強まる。

 すると他ユーザがあなたのブックマークを見て、「オレも読んでみようかな?」と考える可能性が生まれる。つまり当該エントリを世に出す機能を果たすことになる。

 一方、相手ブログにコメントを残せば、ブログの筆者は喜ぶかもしれない。だけどあなたのコメントは、筆者とブログの読者が見て終わりだ。

 あなたが相手との1対1のコミュニケーションを重視するなら話は別だが、どちらがより「公益にかなうか?」といえばSBMのほうだろう。

■SBMは心理的負担の少ない「そこそこ感」がいい

 一方、SBMでコメントするのと、相手ブログに書き込むのとでは、あなた自身が感じる心理的な壁はどちらが高いだろうか?

 ブログにコメントを書けば、必然的に筆者とコミュニケーションが生まれる。もちろん感動のあまり手を握りたいならいい。けど、そこまでする気はないが「おもしろかった」と感じたことは公知、または記録したい、と考えるなら、SBMがもってこいだ。

 いわばSBMは、このそこそこ感がいいのである。

 だからこそ億劫にならず、たくさんのサイトを選ぶ気になる。また、あなたのセレクションが自動的に他ユーザと共有・公開される点も、社会的な意義を含めて得点が高い。

 てなわけで手のぬくもりがほしい、って筆者さんには受難の時代かもしれないけれど……まあそのぶんあなたの文章は、世の中の役に立ってるんだからいいじゃないですか。

【関係エントリ】

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』

『あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?』

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

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局面限定主義の実名論なら「現実味アリ」か?

2008-01-12 14:13:28 | 実名・匿名問題
■総務省や文科省が誹謗中傷対策に乗り出す

 去年から今年にかけ、ネット上の誹謗中傷や有害サイトをなんとかしよう、って動きが活発になってきた。(文末の「参考サイト」参照)

 今回は総務省や文科省など、お役所が対策作りに乗り出してるだけに本格的だ。うかうかしてると将来的には、「なんでもかんでも実名にしてしまえ」てな暴論に基づく法律ができちゃう可能性もなくはない。

 そこで今回は実名制の実現性と、実名論議が陥りやすい「ポジショントークの罠」について考えてみる。

■局面を限定した実名制以外は空理空論だ

 まず最初にお断りしておこう。私はインターネットの実名化に反対だ。だけど単に反対してるだけじゃ、お役所にとんでもない案件を通されかねない。

 で、あえて実名制の肩をもち、どんな実名制なら実現する可能性があるか? を提案の意味も込めて考察してみることにした。

 いちばん実現の可能性が高く現実的なのは、局面を限定した実名制だと私は思う。それ以外の実名論はたいてい空理空論に近い。

 リアル世界の芸能人や評論家、学者などの有名人を除き、だれも名前を明かしたがらないのに制度だけ導入しても意味はない。「実名でなきゃダメなの? なら、ネットなんてやめるわ」と、せっかくユニークな発想や思考、文章、絵、動画を発信してるネットユーザがごっそり減るだけだ。

 そんなことになってしまえば、ネット上における総体としてのクリエイティビティは大幅に下落する。とんでもない損失だ。

 私が実名制に反対する理由はこれである。

■一種のローカルルールとしての実名制

 さて局面を限定した実名制に話を戻そう。

 たとえば仮に、ある分野の「専門家」が実名で情報発信してるとする。じゃあこの人は以下、どっちの実名主義なのか?

【シーン別実名主義】

「オレの学説を取り上げ、ほめたり批判したりするときには、『お前』も実名で意見を書け」

【365日実名主義】

「オレは実名で情報発信している。だから匿名の『お前』もオレと同様、常に実名で情報発信しろ。自分だけ匿名でモノを言うお前は卑怯者だし、今の状況は不公平だ」

 くらべてみてどうだろう?

 自分は勝手に実名で書いているのに、「周りの人間すべて」に同じことを強要する──。「365日実名主義」がいかにナンセンスな論理かよくわかる。

 一方、最初にあげた局面限定主義の実名論なら、まあ現実味はある。一種のローカルルールみたいなものだ。ただしこの場合、「自分が運営する実名ブログのコメント欄に、匿名書き込みがあれば削除する」ってだけじゃない。

「ネット上のあらゆる場面で『オレ』の学説を取り上げる場合、実名を使え」って話だ。ゆえに厳密な意味ではローカルルールじゃない。

(断っておくが、私自身は匿名で私のことが取り沙汰されようが気にしない)

■Googleがテスト中の実名版Wikipedia「knol」は支持される?

 また前述のケース以外にも、局面限定主義の実名論はありえる。たとえばGoogleがテストしている実名版Wikipedia「knol」なんかもそうだ。

「Wikipediaみたいな客観的事実を積み上げた辞典を作りたい。ついては実名化することにより、文責がだれにあるかを明らかにする。そのことでノイズを減らし、論述のクオリティを上げたい。客観的事実を書くぶんには、実名でも差障りないでしょう?」

 上記のような論理なら理解できるし、それはそれで現実的だと思う。ちみなにこの場合も「knol上では実名で書け」って話だからローカルルールだ。

 いったんまとめよう。

 こんなふうに局面や媒体を限定した上での実名制なら話はわかる。だけど「365日実名主義」には賛成できない。また現実味もない。

■「人種」を限定した人権論はおかしい

 一方、実名論議をすると必ず出てくる言説で、「それはおかしいだろう」という物言いをひとつだけやっつけておきたい。

 それは次のような主張である。

「実名で情報発信する専門家の人権は守られるべきだ。その専門家が誹謗中傷や荒らしに遭わないよう、守られるべきだ」

 この人自身が専門家だから、いわば自分の権利を主張してるんだけど……目指すべきは、あらゆる人がネット上で誹謗中傷にさらされない世界の実現じゃないだろうか?

 専門家実名者の人権だけでなく、匿名者も含めたすべての人の人権が等しく守られるべきなのだ。

 なのに「専門家」の人権だけを主張するこんな言説は、実名主義者のポジショントークにすぎないといえる。

■実名者をいくら攻撃しても許される?

 一方、同じことは匿名主義者にもいえる。「自分が匿名だから関係ないや」と、無責任な物言いをするポジショントークの例だ。これも実名論議になると繰り返し出てくる珍説である。

「実名で書いてるやつは売名が目的だろ? 自分を宣伝するために実名で書いてるんだから、匿名者から攻撃されるリスクはちゃんと織り込んでおけよ」

 言い換えれば、「お前は宣伝のためにやってるんだから、殴られても文句は言うな。それは自分が悪いんだ」って論法だ。ところが一方の匿名者サイドは、いくら攻撃しようが誹謗中傷しようが許されるんだ、みたいな話になっている。

 つまりこれは匿名者が、周囲の匿名者たちの空気を読んで行なう言説なのだ。

 この論法では、「実名者なら攻撃してもオッケーだ」ってことになってしまう。明らかな暴論である。

 繰り返しになるが、人権が守られるべきは「実名者か匿名者かを問わず」だ。同様に誹謗中傷は、「実名者か匿名者かを問わず」許されるべきではない。そんなものは当たり前である。

 まあ、もとは「実名を出すなら自己責任でやれ」って主張なのかもしれない。もちろんそれはそうだ。けど、だからといって逆側(匿名者)が行なう暴力が許されるんだ、って話にはならない。

 こんな暴論を主張する匿名者がいるから、○○さんみたいな人が「実名者だけ」の権利を主張するようになっちゃうわけ。まさに悪循環の堂々めぐりだ。

 もうひとつ言っておきたい。

 このテの暴論をタテに、匿名者の暴力を「オッケーだ」なんて認めていると……いやまじめな話、お役所が「よーし、もう見逃せんわ。さあみんな、明日からインターネットは365日実名でやることにしたぞ」とかいってヘンな法律を出してきかねない。

 私はそんな事態になることを、真剣に危惧している。


【参考サイト】

『学校裏サイト:文科省が実態調査 対策案策定も検討』(毎日jp)

『「情報通信法」(仮)が最終報告――ネットに「最低限の規律」』(@IT)

『“闇サイト”など違法・有害情報の対策強化へ、総務省が検討会を開催』(INTERNET Watch)

『携帯サイトフィルタリング、未成年者は原則加入に』(ITmedia)

『有害サイト削除、民主が独自法案・プロバイダーに義務化』(日経ネット)

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「アウトプット」の数だけ「インプット」があるネットの不思議

2008-01-11 18:58:13 | 仕事の日記
 ネット連載「松岡美樹の“深読みインターネット”」(ASCII.jp/アスキー)を更新しました。

■第5回 「アウトプット」の数だけ「インプット」があるネットの不思議

 ブログやmixi、ソーシャルブックマーク(SBM)などのCGMは、発信することでインプットがあるネットメディアです。出し惜しみせずアウトプットすればするほど、コメント欄やトラックバック経由で情報が集まります。

 またこの原理を応用し、記事で読み手に問いかけをする手法も有効です。わざと記事中で結論を出さず「寸止め」にすれば、「オレはこう思う」とユニークな発想、面白い答えが集まります。

 今回はそんなネットメディアならではの原理を取り上げました。

 前半ではその対極にあるものとして、他人が出した答えを鵜呑みにしてしまうリテラシーのないマニュアル脳の事例も出しました。実際には読み手全員が洗脳されて「右向け右」てな極端なことはないですが、まあ話をわかりやすくするための一例と思ってください。

 ではお楽しみに。 

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ブログはタイトルから? それとも結論重視?

2008-01-08 10:01:17 | へっぽこ文章講座
■浮かんだセリフを生かすために全体を書く

 あなたはブログをどんな手順で、どう書いていますか?

 これはホント人によってぜんぜんちがうから面白い。たとえばこの人の例は小説だけど、ストーリーを作る前にある場面がポンと浮かんだ。で、そのシーンを生かすために全体の話を作った、って体験だ。

一つのセリフが思いついて、それをもとにして物語を構築していくという書き方がそれです。(「死を生きる」がそうでした。「肉体は死しても、魂は未来永劫生き続けるのです」というセリフを思いつき、それを最後に主人公に言わせるためだけに物語を構築していったものでした)

●変わらない世界のふらちな呟き『天から降ってくるものを書いているような感じ』


「それを主人公に言わせるためだけに作った」というところに、筆者のこだわりが感じられる。よほどセリフに思い入れがあったのだろう。

 もちろん小説じゃなくブログでもこういうのはある。何かのシーンや心にひっかかる発想が突然わき、まずメモる。で、それをテーマにしたりオチにしたりして1エントリを書く。カケラから全体が生まれるパターンだ。

■考えた道のりを公開するのが面白い

 またひねり出した結論そのものより、それに至る思考の過程こそが面白いんだ、って考えもある。

 結論へ行くまでに自分が考えたことを仔細に書き、「もう本望だ」。で、「あれ? どんな締め方をしようか?」と。いや私がそうなんだけど。

 よく言えば主旨はこうである。

「結論は、これ読んだあなたが自分で考えてください。だって他人がまとめるより、自分で発想するほうが面白いでしょ?」

 ニュースサイト「明日は明日の風が吹く」のyas-toroさんも近い感覚だ。

ふとした時に「これって○○だよなぁ……」と思う。そこからどんどん考えていって、ああでもないこうでもないと頭の中で考える。(中略)

その思考の過程も含めて全て書いてしまう。だから、閃いた所から書き始める訳。結論がどうなるかはあまり分かっていない事が多い。勢いで書き上げてるという気もする(笑)。

●明日は明日の風が吹く『ブログの記事はどこから書き始めるか?(via まなめはうす)』


 文章って別に結論まで用意する必要なんてないと思う。

「答え」は読んだあなたが決めればいいんだから。

■ブログでは特に有効な「タイトルと冒頭の3行で心をつかめ」

 よく言われる文章書きのコツは、「タイトルと冒頭の3行で心をつかめ」ってやつ。私は紙媒体の経験が長いから違いがよくわかるのだが、特にブログみたいなウェブ媒体って文章のド頭が重要だと思う。

 ブログの数は膨大だ。RSSリーダーに登録してるお店だけでも、もういっぱいいっぱいである。だがそれに加えて、ソーシャルブックマーク(SBM)や個人ニュースサイトで見かけたブログまで毎日読むのだ。読むべきものは次々に湧いて出る。

 とすれば読む側にすれば、文章の冒頭で「それが面白いかどうか?」を素早く見極め、つまんなかったら一刻も早く「次」へ行きたいって心理が働く。逆に頭の3行で読み手の気持ちをキャッチすれば、あなたのエントリは最後まで読んでもらえる。

 たとえば最近私は記事の冒頭の1行目に■マークを入れ、いきなり中身出しをつけることが多い。これも意味は同じだ。最初に印象的な見出しでアピールし、「続けて読んでね(はぁと)」てな仕掛けである。

 つまり本文の文頭だけでなく、タイトルや中身出しで読み手を勧誘するわけだ。

わたしは、タイトルが決まらないと先に進めないタイプなので、まずはタイトルをウンウン唸りながら、考えるのです。(中略)

なぜかというと、タイトルはその記事の看板で、その看板が人目を引かないとイカンであろう、とおもっているからです。
ゆえになるべくキャッチーにしようと、心がけています。
それが時に行き過ぎて、記事の内容のどこに係ってんねん?! と言われるタイトルが付いてしまうこともしばしばあります。

●瀬戸際日記「『タイトル』からです」


 まあ、あんまりキャッチーすぎて「釣りかよ?」ってのはよろしくない(自戒を込め)。特にネットユーザはリテラシーの高い人が多いので、あんまりタイトルに力が入っていると「中身がないな」と見切られる。かえって逆効果だ。

 とはいえ前述の通り、ブログの読まれ方は短サイクルでスピーディーである。やはりタイトルの威力はでかい。

 私はもともと「文章は中身が問題だ。タイトルなんて付け足しにすぎない」派なんだけど、ブログを書くようになって考えが変わった。やはり端的にタイトルだけを見て、「なるほどこの人はこれが言いたいのか」ってわかったほうがいい。

 で、日夜タイトル決めにウンウン唸るのだが、さて効果のほうはどうなんだろうか。

■人とコラボレーションしながら流れを作る

 ラストは最近私のインスパイア元になることが多いブログのご意見だ。人とコミュニケーションしながら記事の流れを作る、という発想が面白い。少し長くなるが引用しよう。

一人でブログ記事を書く方法はそれぞれが好きに考えてやればいいと思っていますが、いろんな人とやりとりしつつブログ記事の流れを作っていくって部分もいろんなやり方がありそうだな、と考えています。

お題を決めて、それについての記事を各メンバーが書くなんて形もあれば、たんたんと文通の様にトラックバックを飛ばし合いつつ記事を書き続けていく形もある。最近は、ソーシャルブックマークやTwitterのようなミニブログなどもでてきたので、そういう場所での発言も参照しつつブログ記事を書くなんてやり方も面白そう。

●北の大地から送る物欲日記『ブログ記事の書き方の可能性』


 いい意味で独善的に「オレが言いたいのはこれだ」と書くのもテだ。だけど「他人とコラボレーションしながら作り上げる」というのはブログらしい。

 ブログの醍醐味って究極的には人とのコミュニケーションだと思うし、他人の考えに触れて変わっていく自分を記録するって発想もアリかなと。
コメント (2)
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「関係性の病」に侵された人に売れるコミュニケーション・ソング

2008-01-06 01:54:45 | 社会分析
■あなたはクリスマスに1人でいられるか?

 現代人は関係性の病(やまい)に侵されている。

 現代人にとって、他人とのコミュニケーションは生きる糧だ。だから「恋人がいるかどうか?」、「友だちが何人いるのか?」で人間の等級(価値)が決まる。で、負け組はひっそりアパートで孤独死して行く。

 たとえばあなたは、クリスマスに1人でいられるだろうか?

 バレンタインデーになると意味もなくそわそわしてないか?

 そんな世の中の喧騒とはまったく関係なく、自分は自分だと超然としていられるか?

 他人との関係性こそが生きている証だと感じる人は多い。だから音楽をピュアに楽しむのでなく、音楽を人とのコミュニケーション・ツールとして使う人たちにCDは売れた。それが90年代に起きた出来事だった。

音楽ビジネスはもともと純粋な音楽ファンを相手にした商売ではなかった。

それよりも、音楽自体に対する関心の強弱とは関係なく、音楽を媒介にしたコミュニケーションに興味ある一般層がターゲットだった。

●くだらない踊り方『「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年』


■お茶の間で歌われた家族のためのコミュニケーション・ソング

 だがコミュニケーション・ツールとして機能する音楽の系譜は、筆者のrmxtoriさんがおっしゃるような10年前だけでなく、もっと前の時代にも存在した。

 たとえば450万枚以上を売り上げた子門真人の『およげ!たいやきくん』(1975年)は、当時まだ日本に存在したお茶の間で、家族みんなに歌われた。あるいは西城秀樹の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』(1979年)もそうだ。

 まだ小学生の息子からおばあちゃんまで家族全員が仲よく居間に並び、テレビを前に同じ歌を同じように口づさんだ時代だった。それは家族の関係性のためのコミュニケーション・ソングである。

 ところが核家族化が進み、夫婦と1人の子供で構成される3人の家族においてさえ「お茶の間」はなくなった。

 今では家族1人1人がそれぞれの個室で別のテレビを観ているか、そのテレビさえ消えてなくなっている。下手をすると各人が、自分の部屋でてんでにインターネットしていたりする。

 これだけ人間の関係性が変われば、かつてのようなコミュニケーション・ソングは成立しないし、必要ない。

■パラレルなコミュニケーションの時代に生き残った音楽たち

 だが家族で歌うためのテーマソングはお茶の間から消えても、コミュニケーション・ソングは生き永らえた。それがrmxtoriさんのお書きになった10年前の状況だ。

もともと志の高くない音楽のユーザーとは、純粋な意味での音楽ファンではない。

彼らにとっては音楽は、所詮ツールであり、媒介だった。

10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした。(中略)

学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。

だからこそ、「みんなが聞くからみんなが聞く」というインフレーションを起こし、ミリオン・ヒットが量産されていった。それが10年前だ。 ●同


 家族とは、「親と子」、「祖父と母」みたいな垂直のコミュニケーションである。一方、rmxtoriさんが例示した「学校や職場の友達同士」のそれは、パラレルなコミュニケーションだ。

 垂直のコミュニケーションは世代間断絶を生みやすく、それゆえに70年代型のコミュニケーション・ソングは死んだ。なぜなら「宿主」だったスタンダードな家族像そのものが死滅したからだ。

 それに対してパラレルなコミュニケーションには、年代差という絶縁体はない。だからより伝播力、浸透力が強い。

 で、70年代から80年代をへて10年前に生き残ったのは、水平に伝わる90年代型のコミュニケーション・ソングだった。

 恋人たちは同じ立ち位置と目線から、たがいに目と目で見つめ合う。そして彼らはドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌である『ラブ・ストーリーは突然に』(1991年)を聞き、ともに泣くことで2人の愛を確認した。

 CDがドンドコ売れた90年代の幕開きである。

■CDが売れないってどこの世界の出来事なの?

 rmxtoriさんが言及されてない古い時代を補足する形にはなったが、このへんの私の時代認識はrmxtoriさんのそれに近い。

 ただし極めて個人的な実感を言えば、CDが売れないってどこの世界の出来事なの? という感じがする。不思議なものだ。

 例えば私事で恐縮だが、私は昨年11月の2週間で、ブラッド・メルドーのCDを合計15枚くらいアマゾンとHMVで購入した。クレジット払いがきくネット通販は、金を浪費しちゃった感がない。だから気が向いたときにガーッと買ってしまう。私のCDの買い方は、いつもこんなふうだ。

 とすれば結局、CDの売れ方は個によってちがうんじゃないだろうか?

 マスコミを販促ツールにして策を弄する業界側は、自分たちが食うためにコンシューマを関係性の病に落とし込もうとする。わかりやすい例で言えば、バレンタインデーにチョコが売れたり、人々がクリスマスに1人でいられなくなる構造である。かくて業界側はマスコミを通して人々を洗脳し、モノを売り上げ収益を上げる。

 で、コンシューマは90年代に引き続き今も関係性の病にかかったままなんだけど、音楽がそのためのツールたりえなくなったからCDが売れなくなったんだ、というのが元記事の論理だ。

 だけど「あなたはクリスマスに1人でいるんですかぁ?」と煽られたって不安にならない個の確立した人もいる。そういう人は業界側が「かかれ」と念じる関係性の病にもかからない。で、結果的にCDを買わないという時代のトレンドともまるで無縁でいる。これは論理的にありえることだ。

【本日の結論】

 CDが売れる、売れない、って実は世の中全体に言えることじゃなく、個によってちがう話ではないだろうか?

 ある人は相変わらずバンバン買っている。だけどめっきり買わなくなった人も多い。だから総体としてCDの売り上げは落ちてしまった。

 しかし今でも買ってる人にとっては、「CDが売れなくなった。音楽業界は覚悟する必要があるぞ」って、いったいどこの世界の話なの? てな感じだ。つまり音楽地図の上でロングテールのしっぽにいる人には実感がわかない。

 もちろんボリュームゾーンになっているヘッドの部分は、そりゃうんざりするほど商業主義化してるんだろう。だけどヘッドの部分だけを称して「CDは売れなくなった。終わりだ」と言われても、しっぽの人たちには関係ないし同意もできない。

 結論としてCDが売れる、売れない、って、やっぱり個によってまるで実感がちがうのだろう。

【関連記事】

『CDが売れない「本当の理由」』

(追記)この記事を公開した後、あちらの筆者rmxtoriさんが以下の最新エントリをお書きになっていることに気づいた。行き違いになったので追記だけしておく。

●くだらない踊り方『音楽の「質」の話とか』

 前半でわかりやすい交通整理をされているので、興味のある方は一読をおすすめしたい。また後半で展開している複数の論点もおもしろい。私もあらためて記事を書き、このエントリに言及するかもしれない。(2008年1月6日)

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CDが売れない「本当の理由」

2008-01-05 01:26:32 | 社会分析
■売れているのは「質の低い音楽」だった?

 ああっ。ブックマークが7つくらいのときに書こうと思ってたのに。もう「500 users」を超えてるじゃないか。

 音楽業界の中の人である筆者が、「CDが売れない」とボヤきつつ、理由を分析するブログ記事である。

 極めて慎重に、奥底にある自分の本音には触れずに。

CDの売れない理由として、音楽の質の低下をあげるむきがあるが、それは根本的に間違っている。(中略)

ちょうど10年位前、CDが最も売れていた時代にも質の高い音楽と質の高くない音楽がそれぞれ無数にあった。そしてガシガシ売れていたのはむしろ質の高くない音楽だった。(中略)

●くだらない踊り方『「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年』


■「売れているのはゴミ」はアーチストの思い込みか?

 アーチストとかクリエイターとか呼ばれる人たちは、今も昔も「いいものが売れない。売れているのはゴミばかりだ」みたいな空腹感を抱えている。

 だからこそ彼らは、いつかいいものを作れるのだ。

 いいものを作ってる(と自分では思っている)けど売れてない今の自分を、無意識のうちに自分でそうやって励ましているのである。

「なあ、ほら、売れているのはゴミばかりだろう? お前(自分)は確かにいいものを作ってるさ。けど、今は売れてないだけだ。わかるだろ?」

 で、貧乏に耐えて何年も難儀するうち、ひょっこりいいものを作っちゃうのだ。

 筆者の思考パターンもそれと同じく、「いいものが売れない。売れているのはゴミばかりだ」になってるところが非常に興味深い。

■音楽をコミュニケーション・ツールとして使う「病人たち」

 そして筆者はCDが売れない背景を、他人との関係性が保てなければたちまち心が壊れてしまう現代人のある種の病理(筆者はこうは書いてないが)に求めている。(私はこの病理を、「1人ではいられない病」とか友だち原理主義、つまり関係性の病(やまい)だと考えている)

もともと志の高くない音楽のユーザーとは、純粋な意味での音楽ファンではない。

彼らにとっては音楽は、所詮ツールであり、媒介だった。

10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした。(中略)

学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。


 彼らは音楽を聴くことそのものを楽しんでいたわけじゃない。音楽をコミュニケーション・ツールとして使っていただけだ。「1人ではいられない病」にかかった多くの現代人にとって、人とのコミュニケーションは生きる上での必須科目である。だからそのツールとして使われた音楽は売れたのだ──。

 筆者は原因をこう分析し、落とし前をつけている。確かにそうかもしれない。だけど(邪推だろうが)、筆者は真の本音を書いてないと思う。

 なぜならそれは業界人にとって禁句だからだ。

■「お前ら消費者がバカだからCDが売れない」
 
 想像にすぎないが、たぶん書かれなかった筆者の本音はこうである。

『理想は「志の高い音楽」が売れることだ。なのに消費者が衆愚だから、いいものを作っている彼らは売れない。悪いのは消費者だ。音楽をわかってない「奴ら」が悪いんだ──』

 音楽界に限らずどこの業界でも、こう思っている業界人は多い。
 
 繰り返しになるが、アーチストとかクリエイターとか呼ばれる人たちは、このテの思考に陥りがちなのだ。冷徹に「何が利益なのか?」を計算し、「お客様は神様です」と言ってしまえる商売人になり切れない。

 我々が生きている高度消費社会の主役は、広告主と消費者だ。だからコンシューマに対する呪詛の言葉を口に出すことは、広告主を貶すのと並んで現代最大のタブーである。

 広告をもらえなけりゃ、メシが食えない。
 
 消費者にモノを買ってもらえなきゃ、おまんまの食い上げだ。
 
 だから俺たちゃ、クライアント様とコンシューマ様の悪口は言えないんだ。
 
     
 
 (○○モナー)


【関連エントリ】

『「関係性の病」に侵された人に売れるコミュニケーション・ソング』
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【警察庁に電凸】新聞記事はこれだけ書き方が違う -ニュースの読み方とメディアリテラシー

2008-01-03 09:33:22 | メディア論
■自転車をこぎながらiPodが聞けなくなる?

 私はiPodを聞きながら、郊外の緑の中を自転車で走るのが大好きだ。

 ところが2007年12月27日、「走行中のヘッドホンステレオが禁止される」というニュースが流れた。大ショックである。最初に読んだのは、以下の産経新聞の記事だ。

 自転車運転のルールづくりを進めていた警察庁の有識者懇談会(座長・吉田章筑波大教授)は27日、走行中の携帯電話、ヘッドホンステレオの使用禁止、保護者が幼児を乗せる際はヘルメット着用を義務付けることなどを盛り込んだ報告書をまとめた。

 報告を受け、警察庁は年度内にも自転車運転のマナーなどを定めた「交通の方法に関する教則」(国家公安委員会告示)を改正する方針。(強調表現は松岡による)

●MSN産経ニュース『携帯、ヘッドホンは禁止 自転車の運転で新ルール』


 あえてこの記事だけで判断してみよう。まずニュアンス的には新しく規則ができ、ヘッドホンステレオが法的に禁止されるかのように受け取れる。ただし「マナー」という言葉を使っているため、じゃあ法的な拘束力はないのか? との疑問もわく。

 またこの記事からは、「交通の方法に関する教則」なるものの(法的効力も含めた)社会的な位置づけがわからない。これ以上は検索などで調べる必要がありそうだ。新聞1紙を読んだだけでは、事態を正確に把握できそうにない。

■毎日新聞の記事では印象がガラリと変わる

 てなわけで、お次は毎日新聞である。

 自転車の安全運転のあり方を検討する警察庁の有識者懇談会(座長・吉田章筑波大大学院教授)は27日、(中略)報告書をまとめた。同庁は報告内容を歩行者、運転者の守るべきルールなどを説明した「交通の方法に関する教則」に取り入れて、教則を29年ぶりに抜本改正し、警察が行う安全教室などで役立てる。(中略)

 教則はあくまでも警察が安全教育のために活用する指針で、罰則規定はない。

●毎日jp『自転車運転:携帯電話の通話ダメ 警察庁懇談会が提言』


 ニュースの印象がガラリと変わった。

 まずタイトルを比較しよう。産経の場合、「ヘッドホンは禁止」、「新ルール」という2つの言葉を使っている。読者はこの「禁止」と「ルール」の語感から、タイトルを見た時点で「新しい法律ができ、ヘッドホンステレオは禁止されるんだな」と思うはずだ。

 ところが毎日はタイトルで「提言」なる文言を採用している。提言てのは法律とは直接関係ない。つまりタイトルを見ただけでも、こんなにニュアンスがちがうのだ。

 次は本文へ行こう。毎日の記事からは、ヘッドホンステレオの禁止を呼びかける「交通の方法に関する教則」とは、警察が行う安全教室などで「こういう行為はマナー違反ですよ」などと啓蒙するための基準だとわかる。

 また「教則はあくまでも警察が安全教育のために活用する指針で、罰則規定はない」の一行により、最大の関心事だった社会的位置づけに関する疑問が一部解ける。ヘッドホンステレオ禁止は単なるマナーであり、指針なのだ。

 ヘッドホンをして自転車をこいでいると、お巡りさんに止められる。「あなた、それは危険ですよ。やめてくださいね」。ひと声かけられ、放免される。そんなイメージである。

 もちろん罰則もないただのマナーだから「守らなくていいや」ってことにはならない。本エントリの主題はその話ではない。

 今回のテーマをいったんまとめておく。

1. 新聞は「事実を報道している」というイメージがある。だけど新聞1紙を読んだだけでは、事実関係はこれだけ「わからないもの」なのである。

2. やっぱりメディアリテラシーは重要だ。


 こういうお話である。

■時事通信の記事は毎日に近いが新たな疑問が

 一方、時事通信も毎日のトーンに近い印象だ。

警察庁は27日、自転車の通行区分などを明確にした改正道交法の来年6月までの施行を踏まえ、交通に関するルールやマナーを分かりやすくまとめた「交通の方法に関する教則」(国家公安委員会告示)を改正する方針を決めた。
 教則は安全教育や教本の基礎となるもので、自転車に関する内容の見直しは、現在の教則が作成された1978年以来、約30年ぶり。有識者の懇談会(座長・吉田章筑波大大学院教授)がまとめた報告書に基づき、3月までの改正を目指す。

●時事ドットコム『幼児は1人、傘の固定危険=自転車安全対策で教則改正へ-30年ぶり・警察庁』


 まず、「教則は安全教育や教本の基礎となるもの」のくだりから、ヘッドホンステレオは法律で禁止されるわけではないことがわかる。

 ただし細かいツッコミを入れると、「教本」という新たな言葉が出てきたがこれは何者なのか? また記事中には、「交通に関するルールやマナーを分かりやすくまとめた『交通の方法に関する教則』」とあるが、ルールとマナーじゃえらいちがいだ。ルールは「法律」とも解釈できるが、マナーはちがう。

 すると教則なるものは、法律とマナーが混在した性格のものなのか? などと新たな疑問もわく。

 結局、新聞記事だけじゃラチが明かない。かくて自分で調べることに相成った。

■最後は「警察庁に電凸」することに

 まずはネットで検索だ。「道路交通法」でググってみる。すると「交通の方法に関する教則」とは、交通安全の啓蒙活動などを推進するため、活動の基準にする目的で作られたものだとわかった。国家公安委員会が作成し、公表するしくみだ。

 厳密に言えばこの教則は、道路交通法第6章の4「交通の安全と円滑に資するための民間の組織活動等の促進」の中で、「交通安全教育指針及び交通の方法に関する教則の作成」として、第108条の28で規定されている。(強調表現は松岡による)

 つまり「交通の方法に関する教則」の性格は、毎日新聞の説明通りであることがわかる。だけどこれだけじゃ、わかったようなわからないような感じだ。

 そもそも教則に盛り込まれるってのはすなわち、「法律になる」ということなのか? また破ると「道路交通法違反」になるのか? まだまだ解けない疑問は多い。

 で、警察庁に電話取材することにした。

 結論から先に言おう。

 まずヘッドホンステレオを聞きながら自転車で走ると、今日現在においても「道路交通法違反だ」と言う人がネット上にはたくさんいる。だがそれはデマだ。目下のところ(2008年1月3日現在)道交法本体はおろか、教則の中にさえそんな禁止項目はない。

 同じく警察庁によると、教則にヘッドホンステレオ禁止が盛り込まれるのは、あくまでマナーとしてだ。

 では従わなければどうなるのか? もちろん道交法違反ではないし、罰則もない。警察庁によれば、単なる「マナー違反」である。(ただしマナーを守らなくていいのか? って議論はまた別の話だ)

 一方、教則にヘッドホンステレオ禁止が盛り込まれるのは、報道によれば「2008年3月までにも」だ。で、それ以後に、警察が取る対応はこうである。

『ヘッドホンをして自転車をこいでいる人を見かけた場合、注意を促すことはありえます。ただしどう対応するかは警官個人によって違う。名前を聞くことも考えられるし、声をかけるだけになるケースもあるでしょう』(警察庁)

 結局、今日現在も、また教則に盛り込まれて以降も、法律ではなくマナーであることに変わりはない。ちがうのは教則に入れて明文化すれば、「警官が指導しやすくなります」って点だけだ。

 私の疑問はやっとすべて解消した。

 こんなふうに新聞を3紙読み比べた場合でさえ、疑問が残ることはけっこう多い。

 最終的にはネタ元である警察庁に直接聞かなきゃわからないのである。

■「検証する目」で記事を読むのがポイントだ

 まとめよう。

1. 忙しい現代人はごく一部の人を除き、新聞各紙の紙面を読み比べるなんてことはしない。

2. とすれば「どの新聞をたまたま読んだか?」、または「どの新聞を定期購読しているか?」により、同じニュースに接する場合でも解釈が大きくちがってくる

3. 現に今回検証したように、産経だけを読んだ人と毎日のみを見た人とでは、受ける印象がかなり異なる。

4. とすれば新聞1紙だけを読んでいたのでは、客観的事実とはかけ離れた認識をもってしまう可能性がある。(これはかなり危険だ)

5. 解決策のひとつは複数の新聞を読み比べることである。だが日常的にそうするのが無理ならば、絶えず記事に疑問を持ちながら検証する目で読むのがコツだ。で、必要と判断した場合のみ、他紙も読んでみるってことになりそうだ。

【本日の結論】

 今回の検証では複数の新聞を読むだけでなく、自分で道路交通法の中身を調べた。またネタ元である警察庁にも確認の取材をした。これらはいわゆるウラ取りという行為である。新聞社が調査報道をする場合には一般的だ。

 メディアリテラシーという意味では、自分が持っている不確かな情報をネタ元に当て、ウラを取るのは大切である。だけどお巡りさんだって、いちいち国民全員から問い合わせがくるんじゃ大変だ。また普通の人は、とてもそんなことまでしていられない。

 とすれば最大のポイントは、まずマスコミの報道を鵜呑みにしないことだ。流れてくる情報を常に疑う心を持ち、記事や番組をチェックする目で読む。これが現代人にとって最低限必要な、情報に対する佇まいだといえるだろう。

【関連エントリ】

『共同通信のあきれた無知蒙昧に釣られてみる』

『ほりえもんに見るメディアリテラシーの憂鬱』

『ほりえもんで読み解く「ブログはアウトサイダー」か?』

『「韓流」がいつも1面トップの新聞なんていらない』

『参加型ジャーナリズムと「衆愚」のあやうい関係』
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「クセをつけろ」があなたの人生を変える

2008-01-01 11:55:39 | エッセイ
 みなさん、明けましておめでとうございます。

 1年の計は元旦にアリ。

 てなわけで今朝は起きてすぐブログを書き始めた。RSSリーダーで読んでくれてる人には、年賀状代わりにもなるかと。まあ書き初めみたいなもんである。

 で、今回のお題はタイトル通り、「クセをつける」だ。

■クセにしちゃえば「苦」でなくなる

 人間てものはなかなか学ばないもので、私はこの年になりやっといくつか人生のコツを体得できた。そのひとつがポジティブな意味でクセをつければ、生きるのがラクになるってやつだ。

 代表例はブログの更新である。

 私は超ものぐさで、やる気にならなきゃホントにやらない。その悪いクセが如実に出るのがブログだった。

 私は2005年3月にブログを始めたが、今までに1、2度、リタイアの危機があった。1度なんかは10カ月も更新をサボり、自分にすっかり呆れてしまった。しかもgooブログの有料コースの料金を支払い続けていながら、である。

「ああ、そういやオレは夏休みが終わる直前になるまで、『夏休みの友』(宿題集)をやらない子供だったなあ」

 毎日毎日、少しづつコツコツ続ける──。

 子供の頃から、これができなかった。だからブログも書く気になると一時期にガーッと書いてはまたサボり、ってサイクルになりがちだった。

■毎日書くクセがつけば、書かなきゃ逆に落ち着かない

 そこで去年の12月の初めに、壮大な実験をやろうと考えた。

「試しにブログを無理にでも毎日書いたらどうなるか?」

 そんな人体実験である。

 書く時間もおよそ決めた。朝、起きて仕事を始める前に、1日1本。これが基本である。まあ食前にクスリを飲むようなもんだ。

 するとネタには割と困らず、1日が2日、2日が3日になって行った。で、月末までほぼ毎日(人並みにクリスマスと年末は除く)、記事を書き続けることができた。

 やってみて驚いたのは心理的な変化である。

 これだけ怠惰な性格の私なのに、いったん毎日書くクセがつくと、もうカラダが自動的に動いちゃうのだ。フトンの中で目覚めるとき、「ああ、あれをブログに書こう」などとネタを思いつきながら起き上がるのである。

 で、顔を洗い歯を磨くと同時に、書き始める。こんなふうに行動パターンをきっちり決めるのがコツだ。そして機械のように毎日同じ作業を続けて反復する

 すると5日~1週間ほど続けた頃に、ふと気づく。

「ああ、自分の行動は自動化されたな」と。

 脳がパターンを覚え、ちがうこと(書くのをサボること)をすると「おい、ちがうぞ。行動を修正しろ」って、ピピピーッと信号が出る。だから朝起きてブログを書かないまま時間がたつと、逆にすごく落ち着かない気分になるのだ。

 こうなったら勝ちである。

 あとは自動化されるがまま。自然にふるまえば、それがすなわち無意識のうちに「決めた行動パターン通りになっている」って状態が実現する。

■日常生活で身に付いた3つのクセ

 傍証のために、ブログを書くこと以外の例もあげよう。私は去年、実はわが人生において非常に重要な複数のクセをつけた。以下の3つだ。

1. メシを食ったらその場で食器を洗うこと。

2. 服を着替えたら、その場で畳むこと。

3. 限界までためず、こまめに洗濯すること。


 ちなみに1、2は「その場で」というのがポイントだ。

 1~3を見て、「なんだそんなことかよ」と言うなかれ。普通の人にとっちゃ普通のことだろうけど、私から見れば太陽が西から昇り、銀河系のあらゆる惑星が直列しちゃうような大変化なのだ。

 前述の通り、私はハンパじゃないものぐさだ。だから台所の流しには食器がたまり放題になるわ、服を脱いだらグチャグチャのまま放置して山になるわ。

 食事して満腹になるとダルくなり、ゴローンと横になって「洗い物はあとでいいや」。また面倒がりギリギリまで洗濯しないもんだから、洗濯物が大量になりすぎて複数回に分けなきゃ洗えない。だから洗うのがすごく大変だった。

■コツは「その場で」「その都度」やることだ

 で、「1」の食器洗いについては、とにかく食事が終われば反射的に立ち上がるクセをつけた。そして台所に直行して洗い物をする。いまでも自分が信じられないのだが、これが絵に描いたようにクセになった。

 なんと今や、ふと気が付くと無意識のうちに食器を洗っているのである。(大丈夫なのかこれ)

「2」の服を畳むクセも徹底した。服を脱いだり洗濯したりすると、すぐに服屋さんで売っていた通りの畳み方を再現するのだ。

 たとえばボタンダウンのシャツは、ボタンを上までキッチリ留め、正面真ん中の襟元が前から見えるようタテに3つにたたむ。この状態で置いておくと、なんだか新品を買ったみたいでえらく気分がいい。トクをした気持ちになれる。ひとつぶで二度おいしい。

 1~3はどれも、溜めれば溜めるほど追いつかなくなるものばかりだ。

 たまる→大変になる→面倒だ→だからやらない→さらにたまる。

 負のスパイラルである。
 
 逆にその場ですぐにやるようにすれば、作業はラクだし、なにより気分がいい。ポジティブがスパイラルしちゃう流れになる。(なんか日本語がおかしい)

 つまり「クセをつける」とは、自分にとってプラスになる行為を自動化し、反復することにより、正のスパイラルを呼び込むことにほかならない。

 そしてもちろんこの法則は、ブログを書くことや食器洗い以外のあらゆることに当てはまる。

■10年、20年たたないと説教の「正体」はわからない

 子供の頃、よく学校の先生に言われたものだ。

「○○するクセをつけろ!」って。

 しかし人間、このテの「説教」なるものはたいてい聞き流すのが普通だ。往々にして右から左にスルーしてしまう。その言葉に込められた深い意味なんて、よく考えようともしない。

 実はその説教は、先人が長い人生経験から導き出した実用的なマニュアルなのだ。にもかかわらず「ああ、またオッサンがなんか言ってるよ。ウザいなあ」で聞き流してしまう。

 で、私みたいなイイ年になってやっと気がつき、いきなり仏門に入ったりするのである。

 いったんまとめよう。


【本日の結論】

1. 実現したいことをイメージし、理想の行動パターンを具体的に決める。

2. その行動パターンを1週間はガマンして無理やり反復する。

3. 何でも溜め込まず、「その場」でやるのがコツ。

4. するとクセがつき、逆にやらなきゃ落ち着かない状態になる。

5. 人生のあらゆる局面で類似の現象が起き、あなたは人生の勝ち組に。


 私は精神医学も得意分野のひとつなのだが、今回書いた「クセをつける」は行動療法の原理に近いかもしれない。

 さて、じゃあ私の人生は変わったのか?

 いやまだ去年クセがついたばかりなんで、今年変わるんですッ。
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