すちゃらかな日常 松岡美樹

すちゃらかな視点で世の中を見ます。

【サッカーW杯予選】わが親愛なるサルミーンに祝杯を ~日本1-0バーレーン

2005-03-31 04:44:28 | 日本サッカー

 
 バーレーン戦、日本は「13人」の選手で戦った。はてさて、13人とはこれいかに? 12人目はホームに詰めかけたサポーターだ。13人目はいうまでもない。日本が密かにバーレーンに送り込んでおいた密使だ。日本唯一の得点を叩き出したサルミーン選手である。

 しかしオウンゴールってのは、なんでこうも見事なシュートが多いんですかね。サルミーン、正確にゴール左スミを狙って決めてるやん。あまりの美しさに初めはてっきり中澤が決めたのかと思ったよ。「おお、すごいシュート決めたなあ。中澤、やるじゃないか」って。

 ま、あれだけ自陣ゴール前で敵味方がぐちゃぐちゃに密集し、おまけにサルミーン選手にすりゃ、味方のゴール方向に向かって守備してるんだからキツイよなあ。わかるよぉ、サルミーンさん。つらかったよねえ。

 横からゴール前に入ってくる強いボールに下手に触ると、ゴールに入っちゃうんだよね。それだけ日本の選手が相手ゴール前に押し込んでた、ってことなんだけど。サルミーン、相当プレッシャーかかってたんだろうな。うんうん。

 ちなみにサッカー・ブログの人気ランキングで常に10位以内に入ってる「スポーツ見るもの語る者~フモフモコラム」さんでは、このシーンを写真入りで解説してる。見て笑ったよ。

 それによれば中澤の「神の手」が、サルミーンをして「わが親愛なる選手」たらしめたらしい。中澤が手でサルミーンを引っ張ったために、クリアの角度が狂っちゃったんだってさ。てことは実質、中澤の1点な。いやはや、よくファウル取られなかったよなあ、中澤。えらいよ。

 しかし笑ってばかりもいられない。この勝利はもちろん「想定内」だ。このホームで負けたり引き分けたりしてた日にゃ、ドイツ・ワールドカップなんておぼつかない。

 さてディフェンスに関しては、イラン戦とくらべて見違えるようによかった。相手ボールに対してプレッシャーがかかってたし、イラン戦のときみたいにヘンなところにスペースをあけてしまうこともなかった。だが問題は攻撃だ。

 まずプラスの要素からいこう。再認識したのはサントスだ。やっぱり彼がいると左に攻めのポイントができる。イラン戦では右の加地がサイド攻撃の起点になってたが、バーレーン戦ではまったく逆で常に火の手は左から上がった。

 中田のボランチも及第点だろう。彼は案外もう年だし、ペルージャ時代みたいに1.5列目でたっぷりスペースをもち、縦横無尽な攻めダルマになれるほど若くない。中田はサッカーをよく知ってるし全体のバランスも見られる。対人プレイにもめっぽう強い。玉際のネバリもある。年を取ったら取ったで、実にボランチ向きな選手だ。

 ローマ時代のカペッロ監督(当時)も、同じことを一時は考えたようだった。だがローマでは圧倒的なブラジル人ボランチが途中加入したため、充分に成果を上げられなかった。この試合の形はジーコにとって、ひとつの解になるかもしれない。

 なぜならジーコは中村と中田を攻撃的なポジションで同時に使うために、常に4バックの誘惑にかられてるからだ。

 3-5-2の「5」のうち両翼は、いうまでもなくウイングハーフである。だからセンターには3人しか人がいない。守備の比重がどんどん高まっているいまどきのサッカーでは、ボランチがシングルって形はあんまりない。とすると3-5-2にするかぎり、セントラルな攻撃的MFは「1人」になる。

 そこで4-4-2にして中盤の攻撃的な選手を2枚にし、中村と中田を置こう。ジーコがいつも4バックにブレるのはこういうことなんだろう。持ち駒がすべてそろっているとき、すなわち欧州組もふくめて全員が使えるときには、ジーコは常にこの魅力的な考えにとりつかれる。

 とはいえ理由はそれだけじゃないだろう。ジーコは誇り高きブラジル人であり、彼の辞書にある偉大なるブラジルのサッカーは4バックだ。だからある意味、ジーコが4-4-2にしようとするのは、彼に埋め込まれた遺伝子がそうさせているともいえる。

 まあ中田ボランチ論をここで開陳してると本題からそれるので、別の機会にゆずろう。

 さて、ではバーレーン戦の攻撃はどこがダメだったのか? フィニッシュに持って行く形が、イラン戦同様まったくはっきりしなかった。この試合、鈴木はいたが、彼をクサビに使って前線でのボールポゼッションを高めよう、みたいな意図はあんまり見られなかった。とにかくシュートを打つ形にならないのだ。

 日本の中盤がボールをもち、前を向いても、得点のニオイがしない。「ああ、点が入りそうだな」ってイメージがわかない。

 もし神様がくれたオウンゴールがなかったら、引き分けで終わっててもおかしくはなかった。内容的には北朝鮮戦で苦しんだあげく、やっとこさ大黒様のゴールで勝ち越したときと似ている。あのゲームも、だれもが引き分けを覚悟しただろう。いまの日本代表には決定的な形を作れる気配がないのだ。

 たしかに中村はボールをもつと、再三、相手GKが取れるか取れないかぐらいのきわどい空間を狙い、クロスを入れている。「ここにボールを入れられるとイヤだな」と守備者のだれもが考えるゾーンにボールを刺し込んでる。

 けど、すべてバーレーン守備陣、および神がかり的なデキのGKが、めいっぱい伸ばした手にひっかかっちゃう。イラン戦でもまったく同じだった。あのときも中村が入れるクロスを見ていると「ああ、狙ってるなあ」と意図がよくわかった。だけどことごとく、神がかったイランGKの手にボールはすっぽり収まってしまってた。

 個人的には、高原じゃなく「あそこに柳沢がいたらなあ」と思う。彼は自分の足元に入ってきたボールを、ダイレクトで処理できる。だから中盤の選手がボールをもったとき、ターゲットマンになれる。いったん前タテにいる柳沢にボールを当て、MFが基本通りにパス&ゴーをする。ここでワンツーを使って中盤の選手がシュートを打ってもいい。

 あるいは柳沢にクサビのボールが入れば、当然、相手の守備陣は中央に絞るだろう。すると必然的にサイドが開く。そこで柳沢が落としたボールをいったん外に開く。と、今度は相手の守備者は絞ったものをまた開かなきゃならない。瞬間的に味方同士のマーキングの確認や、ポジショニングの修正をせざるをえない。

 で、最終的にはサイドからクロスがコール前に入るわけだから、またもや相手は開いたものを絞り直すことになる。こんなふうに「絞らせて、次は開かせて、また絞らせて」ってな感じで相手守備陣にゆさぶりをかけ続ける。するとどこかで必ずディフェンスの網の目にほころびができる。最終的にはそこを突くわけだ。

 ゆえにもっと強いグラウンダーのクサビのボールを、FWの足元に入れることを考えてもいいんじゃないか? 柳沢は高原とちがい「オレ様タイプ」じゃないから、自分ではなかなかシュートに行かない。でも彼には技術があるんで、もらったボールをはたいたり開いたりして「最前線のゲームメーカー」になれるんだ。

 いまの日本代表を見ていると、最前線でのボールのおさまりがめっぽう悪い。柳沢がいればこれってかなり解消されるような気がするんだが、どうだろう? ただし彼を入れるなら、MFやDFが柳沢をうまく使い、前にかかってシューターになる必要がある。日韓ワールドカップで稲本が見せた「あのシュート」みたいに。

「監督がジーコになってから攻撃がよくなった」って言う人がいるけど、いまの状態を見ているととてもそうは思えない。じゃあ守備のほうはといえば、どうやらジーコはノータッチのようだ。

 なら、「監督がジーコである意味」はいったいどこにあるんだろう? どうしてもそう考えてしまう。別にジーコを解任しろとかそんな話じゃなく、素朴な実感なのだ。

 いつぞやのジーコ解任運動と、それを叩こうとする組織的な「非国民・排除運動」のおかけで、すっかりジーコの是非を語ることは「聖域」になってしまった。私はあのときまったくの傍観者だったが、いまの状態って日本代表にとってもサポーターにとっても、とうていいいとは思えない。

 いや、だからジーコをやめさせるとかいう話じゃなく、「ジーコさん、ここをもっとこうしたらよくなりますよ」てな問題提起は常に必要だと思うのだ。

 ゲームがいったん始まれば、ひたすら叫び続けて応援する。だけど試合が終われば結果を客観的に分析し、次につなげていくことが必要だ。だから私は審判のホイッスルが鳴った時点で熱狂的サポーターの衣を脱ぎ捨て、いつも冷静な分析者になるよう心がけている。

 バーレーン戦、熱狂の中で応援し、めでたく試合に勝った。よし、じゃあモードを切り替えて次は分析だ。手放しで喜ぶ時間帯はもう終わった。ではあのバーレーン戦で見えた日本代表の問題点って、いったい何だろう。さて、あなたはどう思いますか?
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【サッカーW杯予選】バーレーン戦まであと5時間~すべてのサポーターよ。念を結集せよ

2005-03-30 14:37:50 | 日本サッカー
 あと5時間でバーレーン戦だ。もうバーレーンが残り試合をやる気をなくし、棄権してクニに帰っちゃうくらい完膚なきまでにたたきつぶしてほしい。

 私は代表に対してさんざん辛辣なコトを書いている。だから当ブログを読んで、こうお思いの方も多いだろう。

「こいつは本当にサッカーが好きなのか?」

「このおっさんは日本代表を愛してるのか?」

 冗談じゃない。あのイラン戦で日本が同点にした瞬間、いったい私がどんな大音響で奇声をあげ続けたと思いますか? テレビの前で何度もガッツポーズをくり返し、

「おっしゃあ! やったぞぉぉぉぉ」

 マンションの隣の部屋の人が「もう少し静かにしてくれませんか?」と怒って来たくらいだ。あのねえ、こっちは4年に1回しかないワールドカップ予選やってんだから、うるさいとかそゆ問題じゃないでしょう? ってのはこっちの都合なんで、その場は「すみません」とあやまった。

 だがノドもと過ぎれば熱さを忘れる。彼が帰ったあとは何事もなかったかのように、試合終了までずっと叫び続けていた。敗戦が決まった時にはぐったりし、もう何もする気力がなくなったよ。まじで。

 実際、日韓ワールドカップのときなんてホントにひどかった。あんまりテンションが上がりすぎたせいでソウウツにかかり、しばらく病院に通ってた。

 私は単に日本的な「ナアナア」が嫌いなだけだ。どんなに親しいヤツに対しても、言うことは言う。また同時に「問題点はどこにあり、それを修正するには何が必要か?」を考えることが、サッカーチームを強くする近道だと考えている。だから「ダメな点」を分析してるだけだ。

「好き」だからほめる、応援する。「嫌い」だからけなす。子供のケンカじゃあるまいし、そゆことじゃないでしょう。好きだからこそ厳しいんだよ。

 試合に負けて、「感動をありがとう。次、がんばってね」じゃダメなんだ。そんなんじゃ、問題点は修正されないままズルズルいっちゃう。

 てなわけで私のコンセプトをちょっと説明させていただいた。この文章は仕事の移動の合間のモバイル環境で書いている。取材に遅刻しそうなんで、そろそろ終わりだ。

 はっきり言って、私は今夜は試合が終わったあとも仕事なんてするつもりはない。というか、すでに昼間の段階からするつもりがない。

 夜にはどっかに祝杯を上げに行くつもりだ。だって勝つに決まってるじゃないか。それ以外に何があるんだ? だれか私といっしょに行く人、いますか?w

 ぶっちぎれ! ニッポン!

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【サッカーW杯予選】ジーコが作った「烏合の衆」の行方

2005-03-29 22:47:24 | 日本サッカー
 イラン戦で引き分けられる試合を落とし、先が思いやられる我が日本代表である。私の感想をひとことでいえば、このチームの体質は以前と何ら変わってない。そして何年かけようが、おそらく変わることがない。まったく空恐ろしい話だ。

 私は以前みたいに年間ずっと張り付きで代表をウォッチしてるわけじゃない。いまや親善試合や予選本番になると湧いて出るニワカである。だけどニワカだからこそわかることもある。

 たとえば1年前に問題になってたことが、1年後に突然、実際のゲームを見るといまだに解決できてない。まったく驚かされてしまう。たまにしか見ないから、それがよくわかる。この1年間に内部でどんな議論があったかなんてずっとウォッチしてないから知るよしもないけど、これってかなり危険なことじゃないの?

 その典型がプレスのかけ方だ。ちょっとサッカーを知ってる方ならおわかりだと思うが、相手ボールになったとき、まったくプレスをかけずに「どうぞ攻めてください」なんてチームはいまどきありえない。「プレスが必要かどうか?」てな議論はすでに結論が出てる話だ。

 ただしプレスをかけるならかけるで、当然チームの持ち味や方針によってやり方にちがいがある。それが出たのが、メディアでも大きく報道されたテヘランでの紅白戦だ。中田英と福西が口論した件である。

 サイト「All About」で現地レポートをした元川悦子氏は、加地の補足説明をこんなふうに伝えている。

「ヒデさんの後ろに敵が来た時、ヒデさんが行くか、フクさんが行くかについて意見が分かれた。フクさんが前に出てしまうとボランチのところが空いてしまう。そこを自分やユージさんがカバーすると、もっと大きな穴が出来る。このあたりが難しい」

 これだけじゃ、サッパリ状況がわからない。だが想像するに中田が問題になってるってことは、右サイドの話なんだろう。たとえば【図1】みたいなケースだ。


【図1】中田の背後に敵のアタッカーが侵入した。
    さてどうする?

 中田の背後に敵のアタッカーが侵入してきた。じゃあこのアタッカーに対し、中田が背後からチェイシングするのか? それとも福西が前に出て対応するのか? こういう問題なんだろうか?

 なにが問題になっているのかやっぱりよくわからない。だってこんなの、草サッカーレベルの練習問題じゃないの?

 もちろんチームのやり方にもよるけど、【図1】のケースでは中田はチェイシングするのがふつうだ。一方、福西が前に出て正面からプレッシャーをかけるのだって当たり前だろう。

 で、それをやったとき元川レポートで問題になってるのが、スペースの処理のしかたらしい。

 加地の言葉を借りれば、福西が前に出るとバイタルエリアにスペースができる。このスペースをDFの選手がカバーすると、今度は後ろに穴ができる。さて困った。どうすればいいんだ? 簡単にいえばこうなる。しかしいったい、なんでそんなことが問題になるんだ? 

 だって【図1】の局面で基本通り対応すれば、スペースなんてそもそもできないんだから。

 議論の中でまったく忘れられているのが、もうひとりのボランチである小野だ。で、私が言う「基本通りの対応」とは、【図2】の形である。


【図2】福西が前に出てプレッシャーをかけ、
    小野が絞って中央のスペースを殺す
    ダブルボランチの基本形

 ダブルボランチなんだから、片方のボランチ(福西)が前に出る、またはサイドに引っ張られた場合、もうひとりのボランチ(小野)が引きながら絞って(中央にポジショニングすること)バランスを取る。で、小野がまん中のスペースを埋めながら福西の背後につき、彼が万一、抜かれたときのカバーもする。

 もちろん小野と福西が逆になっても理屈は同じだ。

【図2】は、ダブルボランチがバランスを取る場合の基本である。こんなのは草サッカーの選手でも知ってるだろう。だいたいそれができないんじゃ、ボランチを2人置いてる意味がない。別にDFの選手が前に出て、福西があけたスペースをカバーする必要なんてない。

 たぶん実際には私が想像してる局面よりもっと複雑なんだろうが(そう祈ってるが)、もし予想通りなんだったら、恐れ入りましたというしかない。

 もっといえば、中田は高い位置(前)からプレスをかけたほうがいいと思ってる。一方、DFのリーダーである宮本も同じ考えだ。ところが福西は、プレスをかけ始めるゾーンをもっと後ろに置いた方がいいと考えてるらしい。単にやり方のちがいだから、どっちが正しいってわけじゃない。ただし問題なのは、どっちで行くのか意思統一ができてない点だ。

「どこからプレスをかけ、ボールを取りに行くのか?」

「ボールがどのゾーンにあるとき、どんなプレスのかけ方をするのか?」

 いったいこれって、ジーコ・ジャパンではいつから問題になってると思います? 私の記憶が正しければ「はるか昔から」だったように思うが、気のせいだろうか?

 なのにこのチームはいまだに同じところでつまづいてる。試合があるときだけ見るニワカの目には、「えっ。それって、まだやってたの?」てな感じだ。そしておそらくジーコが監督であるかぎり、状況はこれからもずっと変わらないんだろう。

 こゆこと書くと、「『知ったか』はすぐにプレス、プレスの大合唱だな」みたいな論点をずらした反応が返ってきそうだ。

 だけど前述の通り、「相手ボールになったとき、まったくプレスをかけずに『どうぞ攻めてください』なんてチームはいまどきありえない」のだ。だったらやるならやるで、ちゃんと決め事を作っておくべきなのはいうまでもない。つけ加えれば、それを決めるのは監督の仕事だ。

 一方、驚いたことに、くだんの中田と福西のやり合いについて「選手同士が率直に意見をぶつけ合っていて好ましい」みたいな論調で報道してるメディアまであった。1年以上前からやり残してる宿題でいまごろモメてる選手を見て、そのいいぐさはないだろう。まったくあきれてものがいえない。

 さて、これまで書いてきたような問題点の解決策として、「守備専任コーチを入れたらどうか?」って提案してる人もいる。でもさ、それ言い始めたらキリないんじゃない? 

 だったらヘディングシュート専任コーチを入れよう、やれフリーキック専任コーチが必要だ、戦術を統括する副官がいたほうがいいんじゃないか? って話になるでしょ。じゃあいったいジーコは何する人なの? 「気合いを入れる人」なんですかね? 

「守備専任コーチが必要だ」的な議論てさ、「まずジーコありき」なんだよねえ。監督がそれをできないなら、首をすげかえればいい。ただそれだけの話だよ。単純明快じゃないの? 現場はおたがいプロなんだから、われわれみたいな外野はともかく本人たちはドライに割り切ってるのが当たり前だ。

 いまでさえエドゥーは何やってんだかわかんないのに、これ以上スタッフふやしてサッカースクールでも作るつもりなんでしょうか。

 最後に川淵サンにいっとくけど、あなたは特に1990年代以降の現代サッカーの流れやら戦術だのをよくわかってないんだから、今後はいっさい代表監督の人事には口を出さないように。

 あなたのドラスティックな改革の手腕は認めるし、すごいと思うよ。けど少なくともあなたには、監督人事で手腕を発揮する能力はないですよ。まったく「私の日本代表」をどこまで貶めれば気がすむんだろう、このお方は。

 ちなみにアタシはニワカなんで、やれジーコ支持だ、解任派だ、なんてむなしい議論に組するつもりはない。

 私がこれまで書いてきたことは、あくまで客観的な分析にすぎない。「まずジーコありき」の論述じゃないし、逆に「まずジーコ解任ありき」の陳述でもない。私の客観的な分析と、じゃあ私個人が主観的にジーコをいいと思うかどうか? は別の話なので、そこんとこよろしく。

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【サッカーW杯予選】ゲームプランなき無能な死 ~日本1-2イラン

2005-03-27 00:21:58 | 日本サッカー


 ゲームプランのないチームは負けるべくして負ける。3月25日、イランに1-2で敗れたあのゲームをひとことで表現すればこうなる。

 サッカー・ドイツワールドカップアジア最終予選。アウェイでのイラン戦は予選前半戦の超ヤマ場だった。グループからは2チームが残れる。ふつうに考えれば日本とイランだ。だったら日本は順当な結果が出るように、ふつうに戦えばいい。ところが我らがブルーズはふつうじゃなかった。

 いったいどういう意味か?

 敗戦に直接つながった原因は大きく分けると2つだ。ひとつは総論、ひとつは各論である。

 総論でいえば、まず最大の失敗はゲームプランのなさだ。前述の通り、グループからは2チームが残れるんだから、最大のライバルとは意味のないケンカをする必要はない。ならばジーコはあの試合に、いったいどんなゲームプランで臨んだのか? 

 相手は最強、しかもアウェイ。引き分けで充分なのだ。

 0-1でリードされていた日本が、同点に追いついたのは後半21分。残りは20分ちょっとしかない。くり返しになるが相手は最強、かつ場所はアウェイだ。もし「勝つつもり」で試合を迎えたんだとしても、あの局面(時間帯や状況)ではプランを修正する必要がある。

 ホーム&アウェイのリーグ戦なんだから、「まともなプロ」なら同点に追いついて残り20分という状況を瞬時に判断し、まず自動的に引き分けをイメージする。

 アホな比較だが、以前、優勝を狙って臨んだ東京・渋谷区のサッカー協会主催の大会2回戦で、似たような局面に遭遇した。後半に自チームが同点にした瞬間、私はベンチに大声でどなった。

「残り時間はあと何分だ?」

 サッカー選手が考えることは同じだ。アマの私ですら考えることを、なぜプロのあの人たちがやれないのか? まったく不思議でしようがない。

 イランはホームなんだから当然、勝ちにくる。同点にされて前がかり(攻撃に人数をかけて前に出てくること)になるだろう。だったら守備6~7割、攻撃3~4割の比率でリスクを避け、これ以上失点しないことを最優先にする。イランが攻め切れず、あせればあせるほど思うツボだ。

 相手は点がほしくて前にかかってくるんだから、イラン陣内には当然スペースができる。いいところで日本がボールを取れれば、おもしろいようにカウンターが決まるはずだ。つまり同点にした時点で、まずしっかり守り、あわよくばカウンターで加点する戦い方に切り替えるのだ。

 あのアジアカップで日本は、「そうする必要もない局面」でまでそんな戦い方をしてたじゃないか? なぜ同じことができないんだ? 

 私はリアルタイムで試合を見ていて、同点になった時点で当然、前述のような試合運びにモードチェンジするもんだとばかり思っていた。だって残り時間はあと20分だぜ? キツいアウェイ・ゲームで「勝ち点1」を取れるんだよ。

 人数をかけて守っていれば、決勝点になった局面のようにゴール前で相手をどフリーにしちゃうなんて可能性も低かったろう。同様に、あんなふうに右サイドからきっちりカリミに折り返しを入れられるのも防げたかもしれない。「たらは北海道」って笑い話はあるが、実際、すべてはゲームプランの問題に帰結していく。

 中村によれば、同点になった時点でジーコに戦い方を確認したらしい。するとジーコの答えは「攻めろ」だったという。

 アホですか?

 これだからブラジル人は困るんだよ。彼らの「血」は勝つことしか考えてないんだ。ブラジル人とかユーゴあたりの人は、試合中、カーッと頭に血がのぼって視野狭窄になる。もし監督がイタリア人なら、同点にした時点で迷うことなく守備的にしていただろう。

 もうひとつのポイントは各論になる。あれだけ2トップが「殺し切られ」て、勝てるわけないじゃないか。日本は4-4-0のシステムで戦ってたのと同じだ。トップに入るボールもサイドからのクロス以外はひどいのが多かった。

 玉田に対しては、日本のMF、DFはバックラインの裏へロングボールを放り込んでばかりいた。玉田のスピードを生かそうと考えたのかもしれないが、彼にはそんなボールの受け方をするつもりがない。すると当然、ボールが出た瞬間に「よーい、ドン」でマーカーとボールを追うことになる。

 バックラインの裏にボールが出てるんだから、(当たり前だが)ボールに近いのは玉田よりマーカーのほうだ。「よーい、ドン」で同時にスタートしたら、敵を背負って守るハンデはあるにしろ相手の守備者が有利だ。結局、結果的にすべて敵にパスするのと同じ形になっていた。

 もしボールの出し手と受け手の間で「裏に出す」「裏でもらう」って意思統一があったなら、玉田はマイボールになった瞬間に裏に向かってスタートを切るだろう。すると彼が走り出した「あと」にボールが出る。

 こうすればオフサイドぎりぎりでマーカーの背後に飛び出し、先にボールキープできる可能性が生まれる。だが試合の間中ずっと、彼らはそんな工夫をする様子すらなかった。

 イラン戦は鈴木のようなポストプレーヤーがいないこともあり、グラウンダーの速いボールがFWの足元に通り、FWがダイレクトではたいてそれをいったんサイドに展開し、みたいな形がまったくなかった。

 フィニッシュに行く形は、「長い浮きダマの放り込み」、もしくは「右サイドから」のどっちかしかなかった。攻めが2パターンしかないんだから、そりゃ相手は守りやすいわな。

 一方の高原はといえば、これはもう終わってる。私に2度と高原のあのぶざまな姿を見せないでくれよ頼むから。彼は足元にきたボールすらきっちりトラップして止められない。あれじゃあ、攻めになるはずがないじゃないか。

 足元だよ、足元? まだ私のトラップのほうがうまいんじゃないか? と、目を疑うようなありさまだった。途中で柳沢が入ってボールタッチするのを見て、大人と子供くらいの技術の差があるのが歴然としていた。

 純粋に技術だけで見れば、日本人FWのトップは柳沢だ。けど、柳沢には積極性がない。かたや高原は積極性の固まりだが、あまりにも技術がなさすぎる。2人を足して2で割れば一人前なんだが、そういうバランスの取れたFWが日本にはなかなか出てこない。

 イラン守備陣は日本の2トップの背中に複数人数で張り付き、ゴール方向に決してふり向かせない守備の仕方をしていた。もしあそこで鈴木がいたら、バックチャージでファウルをもらうことができたろう。

 フリーキックになればこっちには中村って飛び道具がある。しかも位置はペナルティエリア付近の「おいしい場所」だ。鈴木がいれば向こうが厳しくくればくるほどこっちの思うツボになる。だがフィールドにいたのは鈴木ではなく、味方のパスをむなしくはじいてばかりいるデクノボウの高原だった。

 また特別に「対イラン仕様」の布陣を組むなら、(あんまり現実的じゃないが)中田と中村のポジションを逆にすることだって考えられた。イランは(イランから見て)右サイドが攻めの軸になるのがわかってるんだよ。あの選手の構成とシステムを見ればさ。

 なら、対人プレイに強く守備もできる中田を左に置いて三浦と組ませ、イランの攻撃に対応させるやり方もあった。一方、中村は守備の負担を軽くして右サイド(というより右前からセンターにかけて)にポジショニングさせ、彼を攻撃の軸にするって発想だ。こうすると4-4-2というより、4-3-1-2のようなシステムになる。「1」が中村だ。いや厳密にいえば4-2-1-1-2か。

 これなら中村はゴールに近いソーンでプレイできる。実際の試合では、中村は自分のサイドから攻めてくるイランの攻撃陣に対し、「守備者」として対応するのに追われていた。そのためにマイボールになっても消える時間が多かった。

 私は個人的には中村をあんまりいい選手だと思ってない。だが彼を使い、生かすとすればそれなりのやり方がある。もし私が監督で彼を使うのが前提なんだったら、前述のシステムも考えたろう。

 代表でブランクのあった中田をイラン戦で急に入れれば、全体の連携は急造になる。どうせ付け刃なんだったら、中田を左に置いて守備にも使い、そのぶん中村を右から中央にかけて攻めに使おう。私ならそんな考え方をする。どっちみち連携が取れてないなら、効果的なオプションを選んだ方がいいに決まってる。

「守る中村」と「攻める中村」なら、チームにとってどっちが貢献度高いと思います? だれに聞いたって答えはあきらかだろう。

 それから細かい局面で見れば、1点目の失点は交通事故みたいなもんだ。ん? ちょっと採点が甘いか。

 厳密に言えば、あの強いボールに対して敵のアタッカーが開いたために、日本の選手3人が固まって思い切り右に引っ張られた。で、中央が開いてしまい、たまたままん中にこぼれたボールをフリーで決められている。シビアに分析すると、センターのスペースを埋めきれてなかったのが失点の原因だ。

 とはいえ、偶然ボールがこぼれた位置が「どうぞ決めてください」てなタイミングと場所だったのも事実である。まあ、あれはしかたないと言えばしかたない。

 問題は2失点目だ。折り返しが入った局面で見れば2対1なんだよ。日本の守備者のほうが1人多いんだ。1人余ってカバーはいるんだから、もっとボールホルダーのカリミと距離を詰め、最悪、折り返しをカラダに当ててはじきたいところだった。

 だが右サイドでカリミがボールをもったとき、対面にいた中沢がちょっとバランスをくずして瞬間、動きが止まった。そのためにカリミは密着マークを受けることなく、余裕をもってボールを処理できた。カリミにあれだけゆとりをもたせちゃ、ピンポイントのボールを入れるよ。だって、カリミだぜ?

 ゴール前のマーキングもおそまつだった。加地はボールに意識が行って、ヘッドを決められたときは完全に「後追い」の形だった。あんなにフリーにしちゃったらシュート練習と同じだよ。

 あのヘディングって、楽々、ゴールの右スミを狙ってるんだよ。つまりコースを狙う余裕がたっぷりあったわけだ。あれじゃあ、やられて当然だよねえ……。

 まとめると、1失点目はなかば交通事故だ。2失点目は完全なマーキングのミス。どっちもくずされて取られた点じゃない。自滅である。

 これまた細かい各論をいえば、なんで小野と小笠原を替えるんだ? 小野のコンディションが悪かったのか? あの試合の中盤でいちばんデキがよく、「日本の芯」になってたのは小野だよ、ジーコさん?

 唯一、救いは右サイドからの攻めが、もう安心して見られるって確信をもてたことだ。加地はさんざん叩かれてきたが、いまや完全に自分のフォルムを維持できている。大きなポイントである。

 いろいろ細かい指摘をしたが、原稿の後半以降はすべて各論にすぎない。すべては冒頭に書いた通り、「ゲームプランのなさ加減」が招いた敗戦だ。

 もっとサッカーをよく知ってる監督にやってもらったほうがいいんじゃないの? そんなふうにすら思える「勝ち点0」だった。あーあ。やってらんないよ、まったく。

 さあ、次だよ、次。バーレーン戦でぶっちぎろうぜ。

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共同通信のあきれた無知蒙昧に釣られてみる

2005-03-26 02:41:39 | メディア論
 記者クラブはよく批判の的になるが、ひさしぶりにツッコミどころ満載の文章を読んだので紹介しよう。共同通信の小池新氏「マスコミを勧めない理由」だ。おどろいたことに小池氏は、記者クラブは新人の研修制度として機能すると考えてるらしい。ちょっと長いが一部を引用しよう。

「取材や記事の何たるかを全く知らない新人でも、そこ(松岡注・記者クラブ)に投げ込めば、同じ会社の先輩だけでなく、同業他社の記者たちがよってたかって教えて(時にはしかったりバカにして)くれる。そこに1、2年いれば、一応記事が書ける程度には「養成」してくれるシステムだった」

 共同通信てのは個人的な体験でいえば印象最悪なんだが、そっちのエピソードを書いてたら別の話になっちゃうんでここでは置く。

 さてまずガクゼンとするのは、新人教育に対する認識だ。これじゃあまるで人を育てるのは大変だから、記者クラブにでも放り込んでおけとでもいわんばかりだ。

「(記者クラブという名のエディタースクールが機能しなくなった)今、記者はほとんど自分の力で独り立ちすることを求められる」だって? そんなモン、どんな仕事だって当たり前の話ではないか。釣りじゃないのか? これは。

 新人の養成とか記者クラブそのものについて、こんな旧弊で貧困な認識しかもっていない人が「あの」共同通信にいるんだからまったく驚かされる。

 そもそも「取材や記事の何たるか」なんて、手取り足取り人から教えられて身につけるもんじゃない。そんなものは「自分の頭」で能動的に考えるんだよ、自分の頭で。まったく。

 今回は反駁するために、私の個人的な体験のオンパレードになっちゃうかもしれない。とはいえ具体例を出すには自分の体験を書くしかない。その点、ご容赦願いたい。

 私がまだ会社勤めをしていたころの話だ。ご多分にもれず私も20代の中ごろに、○○省のクラブにブチこまれた。結論からいえば、あのクラブ生活が私に「取材や記事の何たるか」を教えたなんて事実はタダのひとつもない。

 もちろん学んだことはある。官僚とはいったいどんな論理で動くのか? いまの官僚システムがいかに動脈硬化を起こしているか? 記者クラブ制度が記者をいかにダメにするか? 大きく分けると学習したことは3点だ。こういうのは内部に入らないとなかなかわからない。その意味じゃ貴重な体験をさせてもらったとは思っている。

 もっとも私は当時まだ若く、世の中がどんなシステムで動いているかをわかってなかった面はある。

 たとえば私は中央省庁のクラブにいながら、まず革靴を履いてなかった。いつも白のスニーカーだった。これには私なりの論理があった。

「記者は歩いてナンボの商売だ。だったら疲れやすい革靴よりもスニーカーのほうがはるかに合理的だ。だいたいオリンピックの短距離走やマラソンに、ハイヒールを履いて出るバカはいないだろう。みんな走りやすいシューズを履くじゃないか。おれがスニーカーを履いてるのはそういう理由だ」

 ある意味、これは若さゆえの「へ理屈」だ。だが当時の私は自分の考えをかたくなに貫き通した。

 そして第二に、私はクラブにいながら、ネクタイを締めたことがほとんどなかった。対面取材をするときや、よっぽど「あらたまり意識」をもつべき場所に出る以外は、完全にノータイだった。理由は同じくネクタイをする合理的な理由が見当たらなかったからだ。

 さらにとんでもないことに、私はクラブ詰めの記者だってのにチノパンをはいていた。チノパンといっても柔らかい業種の勤め人がはくようなビジネスライクなやつじゃない。もっとド・カジュアルなシロモノだった。

 おまけに私は99%、上着も着てなかった。これも合理的じゃないと考えたからだ。

 白のスニーカーとチノパンを履き、いつもノーネクタイで上着は決して着ない、クラブ詰めの記者。こんなやつはおいそれとはいないだろう。まあそういう意味では、私はほりえもんさんと同種の人間なわけだ。

 ただし彼は「それが許される業種」の人間だが、私の場合は官庁のクラブ詰めである。当然、周囲からの風当たりははなはだ強い。だが私は自分の信念を絶対に曲げなかった。

 もっとも30才をすぎて過去を振り返り、「ああ、若かったよなあ。おれはまちがってたな」とニガ笑いする程度には成長もした。それがいかに若気の至りだったか、理解できるようになった。また、たとえ記者クラブに閉じ込められていても、やり方によっては充分にクリエイティブな仕事ができることもいまではわかっている。

 当時の私はとにかく、意味のない既成概念をブチ壊したかったわけだ。もちろん夏の30度を越す暑い日に、上着やらネクタイをして人と会うのはナンセンスだ、って考えはいまでも変わらない。じゃあなぜ自分は「まちがってた」と思うのか? 理由は機会があったらあらためて書こう。たぶんみなさんの想像とはちがう答えだ。

 で、そんな出で立ちをしてることからもわかる通り、私は「取材や記事の何たるか」を人に教えてもらおうなんて考えたことは一度もない。もちろん人からいろいろ盗んできたし、自分の脳みそを使ってさんざん考えたが、「教えて下さい」なんて発想はカケラもなかった。

 実際、クラブ詰めの先輩記者から学ぶことなんてほとんどないのだ。唯一、あるとすれば、「おれは絶対にああいうふうにはならないようにしよう」という反面教師としての意味だけだ。とにかく私はあの鳥カゴから逃げ出す算段ばかりしていた。

 冷房のきいたクラブに1日詰めているのとはちがい、夏場に外回りをするのはきつい。朝から晩まで取材して帰社すると、Tシャツがまるで水浴びしたみたいに汗ぐっしょりになっている。そこで私は会社にもどると必ずトイレに入り、Tシャツを着替えていた。

 いままで着ていたTシャツを絞ると、バケツにつけたぞうきんみたいにボタボタと大量の汗が落ちる。そのしたたり落ちる汗のぶんだけ、「取材や記事の何たるか」について、私は今日も「自分で」学んだわけだ。

 自分の頭で能動的に考えず、だれかに「教えてもらおう」なんてやつはマスコミに限らず何をやってもだめだ。「リアクション・サッカー」ってのはそれはそれでおもしろいけれど、リアクション・人生じゃあ「ちょっとなあ」だろう。

 で、これだけじゃナンだから、クラブにいて自分で学んだことをいくつか書こう。ただし具体的にまんまを書くとアレなので、抽象的な表現にとどめておく。ひらにご容赦を。

 さて私が当時いた新聞社はあるイベントを主催し、毎年、開催していた。その後援だか協賛だか「開催にあたってのご挨拶」だかを、○○省に毎年依頼していた。で、たまたま私が○○省のクラブにいた時期にイベントが開かれることになったので、省内の担当部署のおえらいさんに挨拶に行くことになった。「今年もよろしくお願いします」ってわけだ。

 そのおっさんはハナから態度が尊大で、まるでお殿様が下々に施しをするように「○○省の名前をめぐんでやってる」みたいな官僚意識が丸出しだった。まあそこまでならまだ許せるが、こともあろうにこのおっさん、話のついでに私の会社をある理由で侮辱する言動をした。コトここに至って、もうあたしゃ完全にキレました、ええ。

「わかりました。もう頼みません。今年はお宅の省は抜きでやります」

 そう言い捨てて、とっとと帰ってきた。もちろんそんなことを決める権限は私にはない。さて困ったのは会社のほうだ。例年通り、そのイベントに○○省がからまないことにはハクがつかない。そこで編集局長が私のところに連絡をよこし、もう1度おっさんのところへ頼みに行ってくれという。

 冗談じゃない。私は局長に何があったかを細かく話し、おっさんが先にわびを入れるならともかく自分は絶対に頭を下げる気など毛頭ないと説明した。

 で、進退窮まった私の会社が何をやったか? ウラから手を回し、政治家を動員したのだ。そこから先は私は直接関知してないから無責任なことは言えないが、要は某政治家を○○省のおっさんのところに派遣したのである。するとおっさんはビビり上がってたちまちこめつきバッタと化し、「自分の不徳の致すところ」をわびたらしい。かくてイベントは会社の目論見通り、○○省のお墨付きと相成った。

 なるほどこれが世の中のしくみか。まだ大学を出て3年ほどしかたってない私は思ったものだ。官僚は政治家に圧倒的に弱い。その後、似たような場面には何度も遭遇した。

 たとえばこんなこともあった。○○省のエースと目されていた某局長が、ある業界の補助金制度を見直そうと考えた。その補助金制度は、活用すれば業界側に圧倒的に有利に働く。そこで規制を厳しくし、利権の構造を変えようというわけだ。

 すると業界団体が寄ってたかって局長の策動をつぶしにかかった。最後は自民党の○○委員会を動かし、一大反対キャンペーンをくり広げる始末だ。そのとき現場で取材していて感じたのは、「正しいこと」ってのはこんなふうにつぶされていくんだなあ、という一種の感慨だった。これも世の中のメカニズムのひとつである。

 こんなふうに自分の足で取材し学んだことは多々あった。でもくり返しになるが、クラブで先輩記者から「書くこととは何か?」とか、取材のあり方について教えられたことなんて何ひとつない。

 もっとも自社他社を問わず、先輩記者はひとクセもふたクセもあるおもろいおっさんが多く、人間の味やらおもしろさについてはいろいろと伝授されたが。

 むしろ教えられるという意味では、私は取材相手から学ぶことのほうがはるかに多かった。記者生活数年にすぎない私の取材に対し、紳士的で示唆に富む応接をしてくれた方がたくさんいた。私は取材対象である彼らに育てられたと思っている。この点に関しては今でもとっても感謝している。

 まあそんなわけで「記者クラブが新人を育てる」という珍説には、大いに笑わせてもらった。小池氏には今後も第2、第3の壮大な釣りを期待したいものである。
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なつかしき本の時代、不良読書少年の顛末

2005-03-24 06:31:10 | 


 小説を読まなくなってからもう10年以上がたつ。少年時代、私は絵に描いたような本の虫だった。小学生のころは休憩時間になるたびに図書室へ行き、10分だけ本を読んではチャイムが鳴ったら教室へもどる。それが日課だった。

 もちろん寝る前には、毎晩、枕元に電気スタンドを置き、眠くなるまで読んでいた。気がつくと朝になってることもしょっちゅうだった。朝がくるとまた学校へ行かなきゃならない。まったくうんざりだぜ。不良読書少年である。

 小学3年生のときに読んだガストン・ルルーの「黄色い部屋の秘密」はショッキングだった。こいつのおかげでしばらくミステリにハマった。

 そのほかエポックメイキングだったのは、小学6年のときに出会った「夏草冬濤」(井上靖)か。あっというまに井上靖の作品は読みつくし、ついでに安岡章太郎とか遠藤周作あたりの私小説の世界をさまようきっかけになった(それまで私はずっと洋モノ派だった)。

 第三の波はSFだ。中学に入ったころから小松左京や星新一は読んでいたが、決定的だったのは中学3年のとき、悪友に無理やり読まされた筒井康隆だった。

 あれだけ1人の作家に入れあげたのは、後にも先にも初めてだ。のちに沢木耕太郎にも浮気はしたけど、私の人生に白黒つけさせたのは(なんだそりゃ)まちがいなく筒井康隆だ。寝ても筒井、覚めても筒井。

よしおれも書くぞ。このおれがSFで最初の直木賞を取ったろうじゃないか。ここから人生の歯車が大きく狂って行った。筒井のせいだ。

 あとはレイモンド・カーヴァーと邂逅するまで、もうひたすらSFの時代だ。フィリップ・K・ディックのパンチは強烈だった。J・G・バラードの右フックもキレがあったし、イタロ・カルヴィーノの回し蹴り、カート・ヴォネガット・ジュニアのはたきこみにも連続KOされた。

 筒井の影響でチャンドラーとダシール・ハメットにも逝った。翻訳されてる作品はかたっぱしから読んだ。「こいつらのユーモアは日本の小説ではまだ未開拓だ。ぜひパクろう」。本に出てくるフレーズを、断片的に写経したのはあれが初めてだ。こんなふうに10代も20代も本といっしょにあけくれた。

 ところが30の声を聞くあたりから、読んだ文章がさっぱり頭に入らない怪現象に見舞われ始めた。いったん読んだはずのセンテンスがまったく頭に残ってないのだ。

これじゃあすぐに話の辻褄が合わなくなる。だからまた5行前にもどって読み直す。何度も何度も同じ5行をくり返し読む。そのうちにバカらしくなってやめてしまった。それ以来、小説とは縁がない。

 ノンフィクションや評論のたぐいならそんなことはない。だけどなぜか小説だけはカラダが受け付けない。したがって私はある意味、昔の貯金を食いつぶしながらいま文章を書いている。

 そんなかつての本の虫が、気まぐれに選んだ「洋モノ・BEST 5」がこれだ。本当はコルタサルとかラテンアメリカな人たちも入れたかったが、別の機会にゆずろう。

 この5冊はだれが読んでも絶対におもしろい(と私が勝手に思っている)5冊である。なんだか、ありし日の筒井康隆の影響が見えるが、そこはご愛嬌だ。

 どうでもいいけど私が好きだった人はみんな、いまは「ありし日」状態になっちゃってるなあ。

                  ※

◆「バビロンを夢見て」(リチャード・ブローティガン)

 こいつは冒頭にある扉の3行を紹介するだけで昇天できる。

 おれがどうしても一流の私立探偵になれない
 理由のひとつは、年がら年じゅうバビロンの
 夢ばかり見ているからではないかな。

 ブローティガンが傑出したストーリーテリングに
ユーモアとペイソスを織り交ぜて贈る擬似ハードボイルドの一級品だ。
 読むまで死ねない。

                  ※

◆「夜になると鮭は…」(レイモンド・カーヴァー)

 さりげない日常の横っぱらにぽっかり開いた異空間。カーヴァーである。

                  ※

◆「われらのギャング」(フィリップ・ロス)

 ロスは「素晴らしいアメリカ野球」とどっちをあげるか迷ったが、クジ引きでこっちにした。いずれ劣らぬ傑作であることは疑う余地はない。

                  ※

◆「ワールズ・エンド」(ポール・セロー)

 世界の果てにいる人間たちが、それぞれに出くわす日常の歪み。最後は決まって読者はあっけなく突き放されたまま終わる。こんなの、いやあああ。どうしてくれるのよっ。M的快感漂う1冊。

                  ※

◆「ソロモンの指輪」(コンラート・ローレンツ)

 いわずと知れた自然科学分野の名著。カラスがとってもかわいい。一気に読んで夜明けがくることまちがいなし。

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ほりえもんに見るメディアリテラシーの憂鬱

2005-03-22 00:56:37 | メディア論
「インターネットはあなた(情報の受け手)まかせよ」

 前回はそんな前フリをした。いまや情報化社会なんて言葉が3回くらい死語になり、ゾンビになってそのたんびに生き返っちゃうほど情報があふれてるわけだけど(どないやねん)、情報の受け手の側はそれらを自分の目で仕分けし、正しく取捨選択する心のファイアウォールをもってなきゃなんない。これって特にネットの世界では切実な問題だ。メディアリテラシーである。

 じゃあ本題に入る前に、まず前提になる情報の確からしさから考えてみよう。たとえば紙のメディアならばどうか? 「そこに存在する書き物」は当然しかるべきプロの手を経ており、一定レベル以上に信頼できるものである、てな共通認識がある。もちろん書き手のレベルや意識にもよるけど、一応はそういう社会的な暗黙の合意が存在する。

 活字になって世の中に出るまでには、何段階ものチェックがある。もちろん書いた本人だって(まともな書き手なら)キッチリ裏を取り、確認の上に確認を重ねている。だから「ある程度」は信用していいだろう、という不問律がある。

 私がココで言ってる「信頼」とか「信用」って意味は、情報操作があるかどうかや、バイアスの強さなんかとはまったく別の話だってことをまずお断りしておく。最低限、その情報が「事実としてまちがってない」ということだ。それさえ担保されてれば、あとは偏向度なんてそれこそ自分の目で見て斟酌しながら読める。説明するのもアホらしいほど当たり前の話だ。

 ところがかたやネット上には、「私がここに書いてる内容は一切保証しませーん」って明記してあるWebページがいくらでもある(まるでどっかの巨大OSベンダーみたいな言説なわけだが)。

 ここでいう「保証しない」の意味は、大ざっぱに分けると2つあるだろう。1つは、ネット上じゃこの情報をいったいだれがどんな使い方をするかわかったもんじゃない。だから何が起こるかに関しては、私はいちいちすべてを保証できまへん。みなさん自己責任でやってね、って話。

 もう1つは、私は自分が書いた情報の裏を取ってるわけでもないし、確認もしていない。私が書いたことはテキトーだから保証しません。こういうことでしょう。ネットはだれもが情報発信できるぶん、そんなクラスの人までがさかんに電波を飛ばしてるわけだ。

 で、いま私がさりげなく放った釣りに対し、ほりえもん流ポピュリズムな言い回しで対抗するとこうなる。いやそんなことはない。だれもが情報発信できるのはいいことじゃないか。一部の巨大メディアに社会的な帯域を独占させるな。情報を我らの手に。

 いやあ、耳障りさわやかです。事実、そんな言説が大向こうウケしてるわけだ。まあこのこと自体はもちろんいい。だけどそれをやる以上、ある覚悟がいる。意図も内容の精度も問わず、だれでも情報発信できるんだから、当然ながらネット上は「客観的事実」のほかにも「まあ罪のない話半分のウワサ話」や「未確認情報」、あるいは任意の作意をもつ「真っ赤なウソ」やら「策謀」やらが、いっしょくたにうずまく世界になる。

 とすれば情報の受け手の側が、自分のものさしで当否をチェックできなきゃお話になんない。発信もすれば、受信するときにはきっちりフィルターも働かせる。これらがワンセットになってる必要がある。

 話をもどすと、かたや紙の世界の常識では、少なくとも後者の言説「私が書いたことはテキトーだから保証しません」ってのはありえない。紙の媒体になって世の中に出てる時点で、すでに情報の確度はセレクトされてる。いわば、情報の出口と入り口に関するアウトソーシングが行なわれてる。

 出口、すなわち発信するほうは「私に代わって情報発信してね」っていうアウトソーシングだ。一方、情報の入り口に関しては、「私はいちいち現場に行って確認できないから、あなたが代わりに見てきてよ」てな意味の外注がプロに対してされている。

 一方、ほりえもんさん的ネットワールドでは、入り口も出口も自前でやろうと。ブロに代わって「私」が発信するし、情報を取り入れるときにも「自分の目」で見て判断します。建前ではこうなってる。でも現状、発信するほうはカンタンだからみんなやってるけど、メディアリテラシーを働かせて情報を取り入れるなんてだれがやってるの?

 話が飛ぶけど、たとえばトルシエ氏がサッカー日本代表の監督だったころ、彼はメディアと対立してた。メディアがネガティブなことを書くもんだから、トルシエを支持する人たちはメディアリテラシーが大事だ、みたいなことをさかんに言う。偏向報道だ、ってわけである。

 で、彼らが買っていたのは、元川さんていう女性ライターさんの記事だった。この人は選手のコメントをこまめに取ってくる。つまり「選手のコメント=メディアのフィルタがかかってない一次情報」である、だから信頼できる、っていう理屈だ。

 ところが彼らがわかってないのは、彼女が取ってくる選手のコメントってのは、あくまで元川さんていうフィルタを通したコメントなんだってことだ。

 選手に何を質問するのか? お題の選び方から始まって、取れたコメントの取捨選択、表現のしかたに至るまで、すべてに彼女のバイアス(視点)がかかってる。もちろんコメント原稿そのものだって、一言一句、選手が言ったとおりに書いてるわけじゃない。結局、一次情報といっても「見る目」はやっぱり元川さんに外注せざるをえないのだ。

 ほりえもんさんの言説があやういなあと思うのは、これと似たような構造になっちゃってるところだ。一部報道によれば、彼は巨大メディアによる「調査報道は必要ない」っていう。ネットを使って一次情報だけを大量に集めて流し、あとは読者が判断すればいいじゃないか、みたいな話になってる。そりゃ一見、正論なんだけど、大きな疑問が2つある。

 まず彼が言ってる「一次情報」なるものは、いったい何なのか? たとえばネット上にあふれてる「ここに書かれてることは一切保証できません」みたいなウワサ話レベルの情報なの? 

 それともパブリック・ジャーナリストたらいう人たちが取ってくるネタのことなのか? 8000円払って1日だけ研修受けた人がひろってくる一次情報をもとに、受け手の側が正否を判断するってわけ? 

 どっちにしろ、正確な情報を取る技術や経験を備えたプロとくらべて、「確からしさ」では格段に劣る。(ただし擦り切れたプロよりも、ネタのおもしろさを目利きするセンスは上かもしれない。これって確かに大きいことだ)

 さて次は2番目の疑問である。おととい、田原総一郎氏がやってるテレビ朝日の「サンデープロジェクト」で、ほりえもんさんがこんなことをいってた。

「優秀なフリーランスの人はたくさんいるんだから、巨大メディアじゃなく彼らと契約を結べばいい」

 なるほどこれなら確からしさは保証されるだろう。しかもこのテの発言は一種の仕掛けにもなっている。「フリーランスを使うのか? なるほど既成の社会システムを壊そうとしてるんだなあ」、「さすがはネクタイしてないだけのことはある」、「反権威主義的でいいじゃないか」。そう思わせる装置として機能する。

 でもさ、バランス感覚のある人から見たら、「この人、どこまで本気で言ってるの?」って疑問も同時に湧くわけで。「こう言っときゃ、一般ウケするだろう」みたいなうさんくささが漂ってるんだよねえ、この人の場合。だって顔に出てるもん(おい)。
 
 それはともかく。

 第3の方法ならば情報の正確性は確保できる。でも依然としてもうひとつの問題は残る。一次情報をもとに自分で判断する土壌なんて日本にないんだから、まじめな話、こっちはどうするのよ? いや、それをオレがこれから作るんだ、ってんならそりゃエライね、としかいいようがないけれど(でもそういう話ですよね?)。

 ほりえもんさんがいってることって半分は正しい。けど半分はあやしい。彼が空想してるどこにも偏向してない完全中立なメディアなんて(素人さんなら考えそうだが実は)フィクションだ。だからこそ自分の目で見てジャッジする能力=メディアリテラシーが重要なの。いくらメディアが偏向してようが、仕分けする目があれば自分の頭で考えて、その報道の中から客観的な事実らしきものだけを取り出せばいいんだから。

 適切な例えかどうかわからないけど、たとえば「赤旗」を購読して紙面から動かしがたい事実だけを抽出し、それをニュースとして読みながらも政治的な主義主張をもたずに暮らす、ってアクロバットは原理としてはできる(筆者注●やるやつはいない)。要は対象がなんであれ、自分のものを見る目が確かならノー・プロブレムじゃん、ってことだ。

 だったらメディアリテラシー身につけるには、どうすりゃいいのよ? 

 まず情報の受け手が認識すべきなのは、すべての情報には意図があるってことだ。記事に見出しをつけた時点でそれはもう意図だし、そもそも記事の「切り口」なるものがすでに狙いの固まりだ。テーマを設定するんだって、何がしかの意図にもとづかなきゃできない。

 すると流れこんでくる大量の情報に対して、「これにはいったいどんな意図があるんだろう?」と、まず一歩引いて客観的に疑ってみることがスタート地点になる。その上で事実関係を確認して行く。

 でも前者はものの見方の問題だからともかく、事実関係を自分で独自に確認するのって大変な作業なんだよ。わかりやすい例でいえば、日本に入ってくるイラクのテロ報道ってのは、基本的にはアメリカ的価値観のフィルタを通ってる。いまでこそブッシュ――ラムズフェルドのラインはありゃ、あやしいぞ、あぶないぞ、って認識が広まってだいぶマシになったけど、湾岸戦争のころなんてもうかなり一方的だった。

 で、それじゃ真実を見極められない、と考える。そして現場(イラク)に自分の足で入ったとしよう。テロの現場を見て、「オレはこの目で事実を客観的に確認したぞ」。でもいったいこれは正解なのか? 

 テロだってそれ自体が一種の情報=政治的メッセージなわけで、もちろん意図がある。

 じゃあ彼らはなぜテロリズムに走るのか? 今度はそれを知る必要が出てくる。すると現地でいっしょに生活しなきゃわかんないことだってあるだろう。あるいはメソポタミア文明まで遡るかどうかは趣味の問題かもしれないけど、相当に歴史を調べて検証しなきゃなんない。

 これ、一般の人にできるんですか? 突き詰めるとこういう話になっちゃう。できないから一般の人はそこをメディアに外注してるわけだ。情報の確からしさはプロに担保してもらい、(現場へ確認に行くとかじゃなく)日常生活のできる範囲でメディアリテラシーを働かせればいいと。

 結論として、「情報の出口と入り口両方とも自分でやります」なんてのは妄想的ユートピアなんですね、やっぱどっかで外注が必要なのね、ってことになる。

 まあ極論はこれくらいにして現実を見よう。身近な例をひとつあげると、いま仕事である出来事について書いている。何かっていうと、ちょうど1年くらい前にQ&A掲示板で、「今週妻が浮気します」って質問が出た。投稿した夫は「どうすればいいんでしょう?」と聞いている。

 これをめぐって夫婦とは何か? 恋愛ってなんだ? みたいなマジメなやり取りがネット上で繰り広げられた。今年の1月には、掲示板での質疑応答がそのまんま本にもなってる。それがきっかけで議論はリアルの世界にも飛び火し、いま現在も夫婦ってなあに? がさかんにやり取りされている。

 んで、まあその中で議論されてる中身のほうはいい。だけどこの出来事自体を客観的に見ると、いくらでもおかしなところが出てくる。判断材料は掲示板に残ってるログしかない。でもログを細かく検証していくと、もうあやしさ満点なわけだ。

 ところがブログを検索すると、疑問をもってない人がえらく多い。夫の行動や夫婦の結末を見て、「感動した」「泣いた」って人がたくさんいる。おかしいなあ。もっと流れてくる情報(夫の書き込み)の意図を読んで、まずは分析的に見たらどうなのかなあ、と思ってしまう。

 夫婦には、本人同士にしかわかんないことがたくさんある。でも掲示板で質問したりレスしてんのは夫のほうだけだ。妻の視点がごっそり抜け落ちてる。

 浮気してる妻についても語られてるけど、観衆(閲覧者=情報の受け手)の側は、夫という触媒を通して「妻の残像」を見てるだけにすぎない。これじゃあ、客観的な状況判断なんてできっこないやん。一方的に夫の立場からの説明(すなわち言い分)を聞かされ続けてるだけなんだから。

 なのにみんな夫の語りに、すっかりハマっちゃってる。

 もちろん夫に鋭いツッコミ入れてる人も中にはいるし、特に既婚女性だと彼に否定的な人も多い。こんなふうに意見が割れるのってとても健全だ。

 これ見て泣いちゃった人は純粋なんだと思うけど、ためしに別の角度から見てみるとどうだろう? 「なるほど夫はこう言ってる。けど、妻の側に立てばどうなんだろう?」ってイメージを広げる。「夫の主張=自分」の視点でひたすら一元的に世界を見るんじゃなくて、もっと複眼的な思考をしてみる。

 たとえば夫はすべての言い訳が「仕事」になってるんだけど、それって聖域にしちゃっていいのか? 家庭という複雑系システムを運営する家庭人としてアリなのか? この人みたいに仕事でしか自己実現できない生き方ってどうなんだろう? とかね。

 読んで泣いた人って夫の価値観を無意識のうちに肯定してるわけだから、夫が作ったこれらの前提がデフォルトでOKになっちゃってるわけでしょ? 自分の中で。それをひとつづつ疑ってみるとかさ。

 そうやって自分の中でチェック機構を回していく。するとポートを開けっ放しで、何かの思想や宗教にアタマから思い切り突入しちゃうなんてこともなくなる。「セルフ・リテラシー」を働かせるわけだ。そもそもこういう思考法ができなきゃ、メディアリテラシーなんて夢のまた夢じゃないか?

 結局、メディアリテラシーってまだまだ絵に描いたモチだよなあ、とため息しか出ないのが現状なんだけど……なんかほりえもんさんが育ててくれるっていうから期待して待ってます私♪
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あなたまかせのインターネット~作り手の意図はどこまで届く?

2005-03-21 15:51:47 | インターネット
 私はずっと雑誌や書籍に文字を書く仕事をしていたので、Webの商業媒体に書き始めたころは面食らうことが多かった。いまでは笑っちゃうようなことばかりだが、ニンゲンは試行錯誤しながら成長する生き物である。しかたないじゃないか。悪かったな。

 てなわけで、しばし笑い話におつきあいいただきたい。

 まずメディアが紙ならば、読者が読むときの最終形をこっちが完全に規定できる。情報の送り手側が想定したレイアウトで読者に読んでもらえる。だれかさんのセリフじゃないが、「想定内」ってやつだ。たとえば写真がココにこの大きさで入れば、あの行はあそこで改行され、てなぐあい。

 ところがWebサイトの場合、それを決めるのは読み手の側だ。作った方から見れば、視覚的にどう見せられるのかは一定以上の読みがきかない。私が前回書いた原稿でいえばこんなふうだ。

「とにかくリズムセクションのからみ方がとんでもない」

 上記のコピーは、1行でキリよくスパンと見せたい。まあこの長さなら相手が何を使い、どう表示しようが1行になるのでいい。だがもっと微妙に長いコピーになると、とたんに先行きがあやしくなる。紙のメディアに慣れている体質でいえば、

「とにかくリズムセクションのからみ方がとんでも
 ない」

 仮にWeb上で上記のように表示されると、はてしがなくキモチ悪い。頭をかきむしりたくなる。相手の環境依存で「とんでも」のところで改行され、次の行に「ない」の2文字だけが鎮座している。おまけに「ない」の右側には、何もない巨大なスペースが意味もなく広がっている。

 で、視覚的にみっともないから、あと2文字以上削ってどうしても1行におさめたくなる。たとえば。

「とにかくリズム隊のからみ方がとんでもない」

「リズムセクション」の「セクション」を「隊」と言い換え、縮めて1行に収めるわけだ。「紙の感覚」ならば。だが実はこんなものはムダな努力である。相手がブラウザの文字サイズを「大」にしていれば、もうこっちの想定外のところでバンバン改行されちゃう。いくら作り手の側が句読点ひと文字にいたるまで計算しつくして書こうが、そんなことはおかまいなしだ。いったん手を離れると「あなたまかせ」の世界になる。とすれば、もうあきらめるしかない。

 もちろん写真や画像も理屈は同じだ。

 先週、発作的にこのブログを作った私は、こないだ第1回目の原稿を書いた。で、写真を3カット入れたが、これがまた悩ましい。紙媒体なら、その写真がどんなふうに見えるか計算した上でサイズを決められるが、Webの場合はそうはいかない。

 仮に読んでくれた人がブラウザにIEを使い、エクスプローラバー(「お気に入り」とか)を表示させていなければどうか? 冒頭に左ヅメで置いた450×337ピクセルのメインカットは、【画像1】のように表示される。(制作の都合上、画像はIEではなくDonut R。以下同じ)


【画像1】筆者はもともと、こう見えるのを想定して作っている

 写真の右側にスペースができる。これならセンターに配置してもいいかもしれない。まあともかく450×337ピクセルの写真ならば、この表示のしかたがいちばんバランスがいい。

 また写真の下につけたキャプション「※ジョン・ウー監督ではなく、まちがいなくジョン・ウェットンのサインである」の1行までが、ちょうど一発で見えるように計算して写真のサイズを決めている。

 アクセスをもらったとき、タイトルとメインカット(写真)、キャプション1行の3点セットをまず見てもらい、ひと目でページのテーマや狙い、全体像がわかるようにと、ない知恵を絞るわけだ。
(で、後述の通り、そんな想定は音を立てて崩壊していく)

 たとえば同じくIEを使い、今度はエクスプローラバーを表示させているとどう見えるか?【画像2】


【画像2】想定外その1。写真が左右いっぱいに幅を取り、窮屈な印象になっている

 ちょっと冒頭の空間が息苦しい。写真の周囲にスペースがないからだ。見たとたん、たちまち写真のサイズを変えたくなる。ただまあ、「オレは写真を大きく使い、ビジュアルのインパクトを優先させたのだ」と考えれば納得できなくはない。

 さてお次は読み手の側がタブブラウザを使い、タブを複数列表示にしている場合だ【画像3】。


【画像3】想定外その2。タブがページの表示領域を食い、写真とキャプションが欠けている

 写真は見る影もなく欠けてしまい、下につけたキャプションも見えない。当たり前の話だが、私のブログに読者の方がアクセスしてくれたとき、その人がタブをたくさん開いていればいるほど、表示されるページ領域は小さくなる。こればっかりはどうしようもない。

 さて最後も、同じく読みを完全にはずされた例だ。同じページをgoo謹製のRSSリーダで見ると、こうなってしまう【画像4】。


【画像4】想定外その3。RSSリーダで見ると、もくろみは完全崩壊である

 もはや計算もヘチマもない。写真の下につけたキャプションはブッ飛び、写真自体も切れちゃってる。まるっきりこっちの想定外だ。で、コトここに至って、「ああ、Webじゃ計算しようがないんだ」「ムダなあがきはもうやめよう」と成仏することになる。

 こんなふうにインターネットは読み手の側に依存するメディアだ。あなたしだいで、もうどうにでもなっちゃう。今回はビジュアルを例にあげたが、視覚効果のレベルならまだかわいいモンである。

 実は今回は長い前フリだったわけだが、次回は本題に入ろう。もそっとヤバめのお話だ。「そこに書いてあること」をどう解釈し、どんなふうに仕分けするのかも「あなたまかせよ」てなお題である。

 その前提に立てばいかなる問題が起こりえるか? だとすれば情報の受け手の側はどんな居住まいでいるべきなのか? 次回はそのへんについてちこっとマジメに考えてみよう。

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ありし日のジョン・ウェットンに捧げるオマージュ

2005-03-18 23:28:25 | 音楽

※ジョン・ウー監督ではなく、まちがいなくジョン・ウェットンのサインである

 たまたま、いま昔のKing CrimsonのCDを聞いてるのでそれについて書こう。こりゃ、1973年11月23日、アムステルダムで彼らが演奏したときのブートレッグだ。青春である。

 とにかくリズムセクションのからみ方がとんでもない。もう、ブイブイいわせてる。もちろんBassは全盛期のジョン・ウェットン、Drumsはビル・ブラッフォードだ。そこにあやしく乗っかってくるロバート・フリップのGuitarと、デビッド・クロスのViolinがこれまたイカすバンド天国(死語以前の問題)になっている。

 こんな攻撃的なリズムセクションは現代でもめったにいないだろう。そんなわけで私の中のジョン・ウェットンは1970年代で完全に時計が止まっている。それ以降の彼はもうはっきり言って「うんこ」だ。(食事中のみなさん失礼します)

 御多分に洩れず、その当時彼がリリースしたソロアルバムも、フニャフニュした甘ったるいだけの単なるポップスだった。かといって特筆するほどメロディーラインが美しいわけでもなんでもない。ひとことでいえば、毒にも薬にもならないシロモノだった。

 そんな見る影もなくなった彼が、見る影もないつまらないソロアルバムを作り、そのプロモーションのために来日したときの話だ。もう10年位前のことだろう。

 あのころの私はまだ若く、ちょうど自分の仕事に対して考えるところがあった時代だ。

 それはともかく。

 彼は宣伝するために来日したわけだから、いろんなメディアに声をかけて取材を受けている。私はそのとき、ある雑誌の仕事で彼にインタビューした。このblogでは、そのとき原稿に書かなかったことを書こう。

 私はいちおう基本的に仕事とプライベートを区別している。仕事で会った人間にサインなんてもらったことはない。後にも先にもあれ1度だ。

 なのに自分の汗臭いベースのストラップをもってってサインしてもらうわ、「太陽と戦慄」「STARLESS AND BIBLE BLACK」のレコードをバッグから取り出し「さあここにくれ」とかもうめちゃくちゃ。(もちろんインタビューが終わった後の話ではあるが)。


※「太陽と戦慄」「STARLESS AND BIBLE BLACK」とサイン。
  やっぱり「ジョン・ウー」に見える

 おまけに大変申し訳ないことに、彼自身やその取材をセッティングしてくれたレコード会社(だったか音楽事務所だったか? もう忘れた)の意に反し、私はそんなクソみたいなソロアルバムの話なんか聞く気は毛頭ない。

 先方がニューアルバムの話を聞いてもらってバンバン書いて(宣伝して)ほしいと思っているのはもちろんだ。なんでも来日した彼は、1日に10本からの取材をこなしてるらしい。そのとき取材した人たちはみんな一様にソロアルバムについて聞いたはずだ。ウェットンも相手が変わるたんびに何度も同じことをみんなに答えて、プロモーションのためとはいえ内心うんざりしていただろう。

 が、私にはそんな気はハナからない。なんせ私は怒ってるんだ。「怒ってる」ってのは彼に対してはもちろんだが、当時の自分自身に対してもそうだった。私はとにかく「あてどもなく怒りに行った」のだ。

 握手したあと私が聞いたのは、King Crimson時代の話ばかりだった。

「ナーバスな音を使ってたよね?」って聞くと、ウェットンは「その通りだ」とかなんとかいってわざわざ自分のBassをケースから取り出し、フレットを押さえてスケールを教えてくれる。なかなかフランクなおっさんだ。私もいちおう趣味のベーシストなので見ればある程度の意味はわかる。

【ウェットン】

「あのころ僕らが使ってたのは、
『デビルズ・トーン』(だったか『トライトーン』? もう忘れた)
 と呼んでたスケールで、教会なんかじゃ絶対使っちゃいけない音なんだよ」

【私】

「ところでブライアン・フェリーのソロアルバムで
 あなたがレコーディングした、いくつかの演奏は
 個人的にとても気に入っているのだが、どう思うか?」
 
 具体的には「LET’S STICK TOGETHER」とか「ANOTHER TIME,ANOTHER PLACE」あたりの話だ。これらのアルバムを聞くと彼のルーツがわかる。ジョン・ウェットンの根っこには、R&Bがある。こういうのはKing Crimsonだけ聞いててもよくわからない。そういう音楽性の話を聞きたかったのだが……。

「そりゃあ、『仕事』だから受けた話もあるさ」

 えらくすげない返事だ。通訳を通して質問の意図が正確に伝わってないのだろうか? しかしフェリーの仕事って、彼は中身に興味はないけど「仕事だから受けた」のかあ。この時点でウェットンさんは「本音で話す人」だってのが判明したわけだ。彼はツッコめばしゃべるタイプの人間だ。よし、いけるぞ。

 で、話はいよいよ核心に向かっていった。

 私「ところであなたはなんでいま、あんなつまんない音楽やってるの?」(直訳)
 ウェットンいわく、
「いまは、昔みたいな演奏をしたテープを持ち込んでもどこも使ってくれないよ」
「だいいち私はKing Crimson時代にも、いまと同じようにメロディアスな部分を提供していたさ」

 いや酷な話なのはもちろんわかっている。

 ミュージシャンだって年を取れば、プレイヤーとして体力的にも技術的にもピークを越える。おまけに市場のニーズに合わせてアルバムをリリースしなきゃビジネスにならない。そもそもこのインタビュー自体、「いま現在のウェットン」の象徴であるくだんのソロアルバムが売れるような記事を書いてもらうために組まれている。

 つまり私の問いに対する答えは、彼にすればこの場で「絶対に言っちゃいけない話」なのだ。そんなことはもちろんわかっている。だがどうしても彼の本音が聞きたかった。というか、私はそれを聞きに行ったのだ。だってもう2度と会えないかもしれないんだから。

 記事に書くかどうかは別の話だ。果たしてジョン・ウェットンはいまの自分を「いい」と思っているのか?
それがいちばんの問題なのだ。「ソロアルバムが出た」っていうのは彼に会う口実にすぎない。

 そんなCDレビューにからめて本人に話を聞くインタビュー企画だというのに、何が私にそんな逸脱をさせたのか? こっちは70年代の「Family」時代から通しウェットンのベースをずっと聞いている。(私事で恐縮だが)私が高校1年のときBassを始めたのも、中学時代に彼の演奏を聞いてしまったからだ。

 実は私はジョン・ウェットンに会いに行ったのではなく、あのとき時間を遡って「自分自身」に会っていたのかもしれない。そして鏡に映ったもうひとりの自分に、答えを言わせようとしている。

 彼も話してるうちに、「どうやらコイツはほかのやつとはちがうぞ」と思っただろう。

 最後にこんなことを聞いた。

 私「じゃあ、いま好きで聴いてる音楽は?」

 ウェットン「それは『プライベート』でか?」(彼はもう完全にこっちの意図をわかっている)

 私「もちろんそうだ」

 ウェットン「スティーリー・ダンとクインシー・ジョーンズだ」

 私(心の中で)「ほうら、あんた仕事でやってることと全然ちがうやん。もっと自分のやりたいことやりなさいよ」

 直接的にはウェットンに言っているが、この言葉は当時の私自身にも向いている。で、最後は商業主義と私(青年の主張か?)みたいな流れになって終わった。「作ってるモンはちがうけど、やっぱりみんな同じなのね」。こんなことを記事にしてもつまらないからもちろん書かなかった。ただの世間話だ。

 だが唯一、記事の締めでこれだけは書いた。

「好きな音楽はスティーリー・ダンとクインシー・ジョーンズ? 
 ほうら、やっぱりいまでも好みは私とまったく同じじゃないか」

 なのになんでこんなつまらないソロアルバム作ってんの? もちろんシニカルなニュアンスを込めている。インタビューが終わり、通訳の人がこっそり私に耳打ちしてきたのをいまでも覚えている。

「彼は自分の言いたいことを必死でこらえている感じでした」

 実はこのインタビューのお題になったアルバムの次(?)くらいに彼が出した最新のソロアルバム(確かインタビューから1年後くらい)では、なんでもジョン・ウェットンは「先祖返り」しているらしい。その最新アルバムがリリースされたとき、たまたま本屋で立ち読みしていてレビューを見かけたのだ。

 他人が書いたCDレビューを読んだだけだから、中身がどんなものかはわからない。記事の筆者の言葉を借りればこんなふうだ。(記憶はテキトーなのであしからず)

「まるで20年前に戻ったような音だ。
 このアルバムのジョン・ウェットンは、
 完全にKing Crimson時代にもどっている」

 そういうことらしい。

 ひょっとしたらとんでもない失敗作かもしれない。でもいったい彼の中で何が起こったのか? そしてもしそれが私の想像通りだとしたら、私にはアルバムを確かめる義務がある。(こういうのを信者特有の「原理主義的思い込み」と言う)

 私の中では彼はもう過去の人だ。本当なら「いまのジョン・ウェットン」を好んで聞く気なんてまったくない。だが問題のアルバムだけはどうしても実際の音を確認しなきゃ、絶対に。そう思いながらも、終わりなき「すちゃらかな日常」に押し流され、ズルズルと確認しないまま気がつけばもう10年がたっている。

 すちゃらかな日常は誰の心にも忍び寄り、「まあいいや」「こんなモンだろう」とすべてをチャラにしてしまう。

 はたして彼はそんなすちゃらかをはね除けて、そのアルバムを作ったのだろうか? 音を聴き、もしそうでなかったら? 私はそれが恐くてどうしてもいまだに確認できないでいる。

 どうしてるかなあ、ジョン・ウェットン。
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