- 松永史談会 -

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尾道・旧荒神堂(住吉)浜界隈

2019年02月05日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


今朝市史編纂室の方から富吉屋関係の情報をもらい、その確認を兼ねてしばらくぶりに尾道行



写真中央、赤ワイン色日よけのある一階が若い女性のたまり場cafe「やまねこ」(広島県尾道市土堂2-9-33)になっている豊田ビルが旧富吉屋跡(むかって右側の横断歩道奥の三階建ての建物一帯)。その右方に尾道ロイヤルホテル、その辺りは旧油屋分。右端(海べり)に尾道住吉神社 『葛原勾当日記』では出稽古時の尾道での稽古場はほぼ富吉屋、松永では高須屋麻生家だった。


しまずい」は住屋島居氏ゆかりの名称


一昨日はカープチケット購入に半日待ち。
ここでも・・・・


住吉神社境内にあるジャンボ常夜灯を寄進した富吉屋嘉助&小林宣雄」(あるいは富吉屋嘉助こと小林宣雄かもしれないし最初の石灯籠は富吉屋だが、これがある時期壊れ、その後小林宜雄が再建したのかもしれない)。
【メモ】その後の調査で吉富屋=山田氏が判明。
『第20回・日本全国諸会社役員録、明治45』に記載された尾道商業会議所役員で、土堂の小林・島居。小林良人は広島県議会議員経験者だ。

常夜灯基礎部分の文字、海側の「常夜灯」と富吉屋のロゴマーク「L+富」の彫刻部分の異なる字体、しかも彫刻が異質、かつ風化度合がかなりことなり後者は寛政9年以後の再建時に彫り加えられた可能性もある。やはり全体は過去に倒壊し、落下して壊れた中台・基壇部分の石材は新しいか・・・・検討中


梁川 星巌の弟子が今津宿で寛塾を営んだ武井節庵。荒神堂(住吉)浜には雁木が復元されてる。




石工は川崎清吉と藤原貞之。藤原貞之は川﨑清三郎貞之・貞皆 と同一人物だろ。


荒神堂浜の一角には現在尾道ロイヤルホテルや商工会議所の建物が立っている。

この丸山茂助は浜口雄幸内閣時代の警視総監:丸山鶴吉の親父。茂助は北海道の木材を移入していた木履業者。






岩子島の「三坂幸助」(婿養子は沼隈郡神村の小林松太郎、菅原守編纂『備後向島岩子島史』にご本人は岩子島出身で、家業は瀬戸物屋とある)は大正3年10月22日に沼隈郡神村字「宮ノ下」にあった石井四郎三郎の田畑をかなり買得した土堂居住の尾道商人。明治10年(紀元2537年)尾道・住吉神社に石塀を奉納した有志の中に加わっていた。





この富吉屋は寛延期には松永に塩田を5浜所有していた。



観光客をときどき見かける。客入りがよいのはクレープ屋とかラーメン店。貸店舗を利用した町おこしショップが散見されるがどこも顧客を引き付けているようには見えない。〇〇フェスタ風のストリートパフォーマンスの要素を取り入れた町の賑わい感不在で旧市街は店主の老齢化で一段と閉店数増えた感じ。
2月10日連休最初の日曜日の来街者・・・・尾道駅プラットホームは終日かなり賑わっていた。


いささかインパクトに欠ける文化観光資源頼みの尾道市の地域振興策はやはり考え直すべきだ。しかし、それにすがり続けようとするのなら市民参加型のイベントや日替わり観光大使(有名人)を大動員しながらでも徹底的に都市全体を劇場化していくべきだ。

広島県に於ける政界の分野(大正8年)・・・・県会議員選挙関連  小林良人

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