ゼンリンの「ブルーマップ 芦田川より西」の内容にあやまりが散見され使い物にならないので明治の和紙公図に当たってみた。第一印象としては角筆を上手に使った地籍図だ。製図者は素人に毛が生えた程度の技量ではあったが名方潔比古(1847-1925、行年89歳,本名は名方唯能)だった。今津村の「野取帳」では村長の河本幹之丞(筆跡から判明)や嘱託で従事した平櫛又四郎(署名)・三島治平らの名前を一度見かけたが・・・・・。こういうmapmaking(測量・和算)の能力が村落社会の内部に蓄積されてきたのだろう。地図好きだった河本英三郎(1850-1925)の場合もおそらくそういう村のmapmakerの一人だったのだろ。この家には英三郎の三角関数表があった。
ただ、かれらは補助的に関わったかもしれないが『明治26年10月沼隈郡今津村測量図』及び同字切図を実際に制作したのは『沼隈郡西村切図(和紙公図)』(明治27年月)や『明治26年3月尾道町全図』(尾道市立中央図書館蔵本については調査済み)などを作成した松下勘造だった。今津村測量図に関しては明治26年度歳入出予算表等の断片的資料が若干残存(2021年1月27日確認)。松永村については明治27年三角測量図が残っており、岡山市の瀧音吉により見晴らしの良い高台にある承天寺を基点に複数の計測点を決め村内測量を行っていた。同村の字限図の製図者は不明だったが、瀧音吉自身であった可能性が高い(要確認)。
奈良県の事例では「1887(明治20)年の奈良県再設置後に県令税所篤のもとで奈良県独自の地籍編製事業が改めてスタートし,1891(明治24)年に『奈良県大和国地籍一覧表』が,1892(明治25)年に『奈良県大和国実測全図』が完成し」ている。『明治26年10月沼隈郡今津村測量図』及び同字切図はこの時代の産物だった訳だ。
名方は神村伊勢宮さんの神主、河本英三郎は村役場職員だった。
山林⇒保安林(大成館中学の立地する低山の山林、八幡さんの境外所有地)と訂正があるので明治30年の旧森林法制定を挟んで作成されたかと思いきや「松永町」とあるので明治33年3月以後のモノらしい。いうまでもなく松永町分は字「長和島岡-東島北端部」。字「トンタ」の語源は不明だが、類似地名としては 川の堰(せき)から水が流れ落ちる所。落水の音から出た語(ドンドン)。どんど。面白い名称だ。
西国街道を挟んでこの一帯(現在の福山市宮前町)は幕末期以来、石井四郎三郎家所有の土地で占められていた。
下図中の❶は大正4年11月5日に渡辺巻助(柳津村)が買得し、経営権を石井より譲り受けた形で赤壁酒場という清酒工場が、そして昭和5年10月以後近藤勇一(製麺所)となっていたところ。また❷は現在は国道2号線を挟んで南側ということになるが、同じく石井四郎三郎の土地だったところだが、松永高等小学校長の福原甚之助が大正4年12月24日に買得し、昭和32年に息子の福原麟太郎が相続している。
この区域の土地はほぼ石井四郎三郎・石井猪之助、石井良之助、石井忠の所有地だった。
製図者名の入った公図は珍しい。機会があればこの町全体の和紙公図(明治の地籍図)について史料調査してみたい。滋賀県志賀町で野外調査している時も感じた事だが、神社境内に和算家の額が奉納されたり、彼らが地図の作成に関わっていた事実に度々気づかされたものだ。近江は京都・大坂に近い関係でそういう人物(農民)が多かった。
名方家墓地の全景。現在は親戚の人が墓守をしている。寺岡氏は江戸時代以前までさかのぼれるこの地方ではとても長い歴史を刻む古い家系だ。現在この一族の分家筋には、ロイヤル自動車学校・寺岡有機など各種の企業体(ロイヤル・コーポレーション)を経営する寺岡氏がいる。
名方平二さんの兄弟のお墓。担一(大正期はブラジルからコーヒー豆を輸入し、”カフェ・ブラジル”を全国展開した有名起業家)は潔比古の長男。庸は潔比古の5男。担一兄弟の時代に墓地をテラス状に整備したようだ。担一のお墓のすぐ上の段に弟庸夫婦墓がある。親類の人が常時清掃している感じで小ぎれいだ。
名方平二さんの父祖たちの墓石(神官墓)
潔比古墓には「名方唯能夫婦墓」とある。
名方潔比古に言及した別稿
ただ、かれらは補助的に関わったかもしれないが『明治26年10月沼隈郡今津村測量図』及び同字切図を実際に制作したのは『沼隈郡西村切図(和紙公図)』(明治27年月)や『明治26年3月尾道町全図』(尾道市立中央図書館蔵本については調査済み)などを作成した松下勘造だった。今津村測量図に関しては明治26年度歳入出予算表等の断片的資料が若干残存(2021年1月27日確認)。松永村については明治27年三角測量図が残っており、岡山市の瀧音吉により見晴らしの良い高台にある承天寺を基点に複数の計測点を決め村内測量を行っていた。同村の字限図の製図者は不明だったが、瀧音吉自身であった可能性が高い(要確認)。
奈良県の事例では「1887(明治20)年の奈良県再設置後に県令税所篤のもとで奈良県独自の地籍編製事業が改めてスタートし,1891(明治24)年に『奈良県大和国地籍一覧表』が,1892(明治25)年に『奈良県大和国実測全図』が完成し」ている。『明治26年10月沼隈郡今津村測量図』及び同字切図はこの時代の産物だった訳だ。
名方は神村伊勢宮さんの神主、河本英三郎は村役場職員だった。
山林⇒保安林(大成館中学の立地する低山の山林、八幡さんの境外所有地)と訂正があるので明治30年の旧森林法制定を挟んで作成されたかと思いきや「松永町」とあるので明治33年3月以後のモノらしい。いうまでもなく松永町分は字「長和島岡-東島北端部」。字「トンタ」の語源は不明だが、類似地名としては 川の堰(せき)から水が流れ落ちる所。落水の音から出た語(ドンドン)。どんど。面白い名称だ。
西国街道を挟んでこの一帯(現在の福山市宮前町)は幕末期以来、石井四郎三郎家所有の土地で占められていた。
下図中の❶は大正4年11月5日に渡辺巻助(柳津村)が買得し、経営権を石井より譲り受けた形で赤壁酒場という清酒工場が、そして昭和5年10月以後近藤勇一(製麺所)となっていたところ。また❷は現在は国道2号線を挟んで南側ということになるが、同じく石井四郎三郎の土地だったところだが、松永高等小学校長の福原甚之助が大正4年12月24日に買得し、昭和32年に息子の福原麟太郎が相続している。
この区域の土地はほぼ石井四郎三郎・石井猪之助、石井良之助、石井忠の所有地だった。
製図者名の入った公図は珍しい。機会があればこの町全体の和紙公図(明治の地籍図)について史料調査してみたい。滋賀県志賀町で野外調査している時も感じた事だが、神社境内に和算家の額が奉納されたり、彼らが地図の作成に関わっていた事実に度々気づかされたものだ。近江は京都・大坂に近い関係でそういう人物(農民)が多かった。
名方家墓地の全景。現在は親戚の人が墓守をしている。寺岡氏は江戸時代以前までさかのぼれるこの地方ではとても長い歴史を刻む古い家系だ。現在この一族の分家筋には、ロイヤル自動車学校・寺岡有機など各種の企業体(ロイヤル・コーポレーション)を経営する寺岡氏がいる。
名方平二さんの兄弟のお墓。担一(大正期はブラジルからコーヒー豆を輸入し、”カフェ・ブラジル”を全国展開した有名起業家)は潔比古の長男。庸は潔比古の5男。担一兄弟の時代に墓地をテラス状に整備したようだ。担一のお墓のすぐ上の段に弟庸夫婦墓がある。親類の人が常時清掃している感じで小ぎれいだ。
名方平二さんの父祖たちの墓石(神官墓)
潔比古墓には「名方唯能夫婦墓」とある。
名方潔比古に言及した別稿