運よく「白樺8-10(大正6)」を入手した。
柳宗悦「神秘道への弁明ー2」が巻頭を飾る洛陽堂版「白樺」最終の雑誌。編集(編輯)人・発行人=河本亀之助、白樺編集(編輯)所=小泉鐡方
雑誌白樺の復刻版には河本亀之助の雑誌「白樺」からの撤退挨拶が8巻10号の別刷(差し込み式チラシ広告様の、字数にして原稿用紙2枚程度の社告)という形で出されている。
それによると、白樺同人が文壇に新風を吹き込むとの期待から、7年間雑誌白樺の発行を引き受けてきたが、近頃になって白樺同人も独り立ちできるくらいに育ち、また雑誌経営も軌道に乗ってきたので、白樺同人の要望に沿って、今回自分は白樺の経営者を辞することにしたというものだ。
・・・・現実はどうであったか。
いろいろあったようだ。
白樺同人側の言い分を参考にしていえば、3,4年前(大正2,3年は洛陽堂の絶頂期)まで「白樺」を発行していることを自慢していた亀之助が大正5,6年段階に至って白樺同人に対して冷淡を装うようになったらしい。
白樺同人執筆の記事「編輯室」では「無者」(ペンネーム)の執筆で少し事情が読めてくる。
それによると「ウイリアム・ブレイク」という大著を出してもらった柳宗悦が河本俊三(無者というペンネームの人物いわく「亀之助弟」)に雑誌「都会と農村」の売れ行きを聞いたら、俊三が答えて曰く「景気が悪くて困る」。それに続けて「売れ行きは白樺ほど悪くはない」とちょっと角の立つ返答をしたらしい。
亀之助が勢いで引き受けた事とはいえ、夢二の場合と異なり、予想以上に売れ行きが悪く、(第一次世界大戦当時の物価高騰なども加わって)経営を圧迫するようになった。そういう状況が長く続いていたので柳の質問に対し亀之助弟がああいう風に答えたのだろう。
その話を同人に持ち帰り話したところ、親分の武者小路はちょっと感情を害した。同人らの印象では洛陽堂は今年(大正6年)になって反感を露骨に表すようになっていたらしい。大正6年と言えば、富士川游主幹の雑誌「人性」が(第一次世界大戦による)紙価高騰により休刊公告を出す頃。
河本亀之助曰く「今白樺と別れることは実際愛児と別れるような気がしますが、白樺同人が自分たちで経営されると言うことには別に何等の異議も持ちません。ただ益々発展をして末長かれと願うばかりです。」
「白樺同人が自分たちで経営されると言うことには別に何等の異議も持ちません」という書き方からはやはり白樺同人と洛陽堂とが相当険悪な関係にあったのかな~という気がしている。
そういうことが背景にあり、3か月前に刊行予定の大正6年の8月号が発売禁止(原因は長与の小説「誰でもしっている」の内容が検閲に引っ掛かったため)になった。志賀・柳・園池のところには催促してやっとその雑誌が届けられたり、洛陽堂側から長輿・有島武郎の本は刊行を断るという話が持ち込まれたりした。
問題が表面化する前年にあたる大正5年には赤木桁平「芸術上の理想主義」といった白樺派の作家たちをやや小馬鹿にしたような文芸評論(放蕩文学の追放論など)書を洛陽堂は出したりしている。また、河本の周辺には天野藤男(1887-1921)のように現今の日本文学が「よく申せば貴族的、悪く申せば高等書生的」、同世代の作家連中を捉え、かれらは実業家でもなければ、教育家でもなし、軍人でもなければ宗教家でもない、単なる書生さんたち。したがって露骨に申せば彼らの文学は「倅の文学」だと。かなり冷笑的というか侮辱的な見方である。そう主張する天野の著書を大正2-5年にかけて河本は相当数出版していた。
考えてみれば赤木の評論集(放蕩文学だとは決めつけていないが、書法的に稚拙だと批判)を出すといった洛陽堂側のアテツケガマシイやり口も中々のもの・・・・。
亀之助の弟の嫌味な言動やこうしたことが白樺同人および天下に対する不快や不満のもとになっているという確かな認識を亀之助は持っていただろ。
大正5年には「縮刷夢二画集」の版権を他社に譲渡しており、自転車操業状態の洛陽堂が相当資金繰りに困っていた時期の話だ。
それもこれも、亀之助としては,経営上のお荷物をなんとか切り捨てたいという必死な思いだけでなく,よちよち歩きだった白樺派の人たちの面倒を永年見てきたが、自らの衰えに比して旺盛な活動を展開し続ける彼らを見ながら、そろそろ独り立ちしてほしいという気分も手伝ってのことだろう。
白樺8-11/記事「編集室」での無者の書きぶりでは亀之助の真意は武者小路によってほぼ理解されていない。
ある程度採算を度外視した形で白樺同人たちの著書を刊行してきた亀之助の心意気などいろんな意味で若い彼らには想像することなどできなかっただろ。
まあ、白樺同人にとってあれほど白樺雑誌の発行を自慢していた河本亀之助が、最近は手のうらを返すように冷淡になった、その豹変ぶりに坊ちゃん育ちの武者小路らは時に不信感を募らせながら、洛陽堂と決別することになった次第である。
高楠順次郎(沢井洵)の起こした「反省会雑誌」は名編集者を得て、後の流行作家(芥川龍之介や菊池寛)をいち早く起用するなど大いに飛躍するが、こういう面で亀之助およびその弟らは残念な結果に終わった。
経営がやや下降線をたどり始めたころ(大正4年当時)の洛陽堂の出版図書目録。
A面は高島(平三郎)・永井(潜)・山本(瀧之助)・西川光二郎や竹久夢二のもの、武者小路ら白樺派の面々のものはB面。
夢二画集の読者層に背を向け、高島平三郎・永井潜・山本瀧之助を前面に打ち立てた経営路線が何となく見え隠れする?!(わたしの単なる思い過ごしかもしれないが・・・)、阿武信一「親と月夜」だが、阿武は河本の出身地沼隈郡の郡長。「親と月夜」は雑多な出典からかき集められた道話集だが、同じ表題の書籍は沼隈郡青年会、山本瀧之助編でも出されている。これらはふるさと思いの河本が情に任せ出版を引き受けたものだろ。
雑誌白樺だが、中には美術展などの展示目録などのいろんな付録があり、その種の付録の中に洛陽堂主人河本亀之助「白樺の経営者たることを辞するに就いて」のパンフがあった。
柳宗悦「神秘道への弁明ー2」が巻頭を飾る洛陽堂版「白樺」最終の雑誌。編集(編輯)人・発行人=河本亀之助、白樺編集(編輯)所=小泉鐡方
雑誌白樺の復刻版には河本亀之助の雑誌「白樺」からの撤退挨拶が8巻10号の別刷(差し込み式チラシ広告様の、字数にして原稿用紙2枚程度の社告)という形で出されている。
それによると、白樺同人が文壇に新風を吹き込むとの期待から、7年間雑誌白樺の発行を引き受けてきたが、近頃になって白樺同人も独り立ちできるくらいに育ち、また雑誌経営も軌道に乗ってきたので、白樺同人の要望に沿って、今回自分は白樺の経営者を辞することにしたというものだ。
・・・・現実はどうであったか。
いろいろあったようだ。
白樺同人側の言い分を参考にしていえば、3,4年前(大正2,3年は洛陽堂の絶頂期)まで「白樺」を発行していることを自慢していた亀之助が大正5,6年段階に至って白樺同人に対して冷淡を装うようになったらしい。
白樺同人執筆の記事「編輯室」では「無者」(ペンネーム)の執筆で少し事情が読めてくる。
それによると「ウイリアム・ブレイク」という大著を出してもらった柳宗悦が河本俊三(無者というペンネームの人物いわく「亀之助弟」)に雑誌「都会と農村」の売れ行きを聞いたら、俊三が答えて曰く「景気が悪くて困る」。それに続けて「売れ行きは白樺ほど悪くはない」とちょっと角の立つ返答をしたらしい。
亀之助が勢いで引き受けた事とはいえ、夢二の場合と異なり、予想以上に売れ行きが悪く、(第一次世界大戦当時の物価高騰なども加わって)経営を圧迫するようになった。そういう状況が長く続いていたので柳の質問に対し亀之助弟がああいう風に答えたのだろう。
その話を同人に持ち帰り話したところ、親分の武者小路はちょっと感情を害した。同人らの印象では洛陽堂は今年(大正6年)になって反感を露骨に表すようになっていたらしい。大正6年と言えば、富士川游主幹の雑誌「人性」が(第一次世界大戦による)紙価高騰により休刊公告を出す頃。
河本亀之助曰く「今白樺と別れることは実際愛児と別れるような気がしますが、白樺同人が自分たちで経営されると言うことには別に何等の異議も持ちません。ただ益々発展をして末長かれと願うばかりです。」
「白樺同人が自分たちで経営されると言うことには別に何等の異議も持ちません」という書き方からはやはり白樺同人と洛陽堂とが相当険悪な関係にあったのかな~という気がしている。
そういうことが背景にあり、3か月前に刊行予定の大正6年の8月号が発売禁止(原因は長与の小説「誰でもしっている」の内容が検閲に引っ掛かったため)になった。志賀・柳・園池のところには催促してやっとその雑誌が届けられたり、洛陽堂側から長輿・有島武郎の本は刊行を断るという話が持ち込まれたりした。
問題が表面化する前年にあたる大正5年には赤木桁平「芸術上の理想主義」といった白樺派の作家たちをやや小馬鹿にしたような文芸評論(放蕩文学の追放論など)書を洛陽堂は出したりしている。また、河本の周辺には天野藤男(1887-1921)のように現今の日本文学が「よく申せば貴族的、悪く申せば高等書生的」、同世代の作家連中を捉え、かれらは実業家でもなければ、教育家でもなし、軍人でもなければ宗教家でもない、単なる書生さんたち。したがって露骨に申せば彼らの文学は「倅の文学」だと。かなり冷笑的というか侮辱的な見方である。そう主張する天野の著書を大正2-5年にかけて河本は相当数出版していた。
考えてみれば赤木の評論集(放蕩文学だとは決めつけていないが、書法的に稚拙だと批判)を出すといった洛陽堂側のアテツケガマシイやり口も中々のもの・・・・。
亀之助の弟の嫌味な言動やこうしたことが白樺同人および天下に対する不快や不満のもとになっているという確かな認識を亀之助は持っていただろ。
大正5年には「縮刷夢二画集」の版権を他社に譲渡しており、自転車操業状態の洛陽堂が相当資金繰りに困っていた時期の話だ。
それもこれも、亀之助としては,経営上のお荷物をなんとか切り捨てたいという必死な思いだけでなく,よちよち歩きだった白樺派の人たちの面倒を永年見てきたが、自らの衰えに比して旺盛な活動を展開し続ける彼らを見ながら、そろそろ独り立ちしてほしいという気分も手伝ってのことだろう。
白樺8-11/記事「編集室」での無者の書きぶりでは亀之助の真意は武者小路によってほぼ理解されていない。
ある程度採算を度外視した形で白樺同人たちの著書を刊行してきた亀之助の心意気などいろんな意味で若い彼らには想像することなどできなかっただろ。
まあ、白樺同人にとってあれほど白樺雑誌の発行を自慢していた河本亀之助が、最近は手のうらを返すように冷淡になった、その豹変ぶりに坊ちゃん育ちの武者小路らは時に不信感を募らせながら、洛陽堂と決別することになった次第である。
高楠順次郎(沢井洵)の起こした「反省会雑誌」は名編集者を得て、後の流行作家(芥川龍之介や菊池寛)をいち早く起用するなど大いに飛躍するが、こういう面で亀之助およびその弟らは残念な結果に終わった。
経営がやや下降線をたどり始めたころ(大正4年当時)の洛陽堂の出版図書目録。
A面は高島(平三郎)・永井(潜)・山本(瀧之助)・西川光二郎や竹久夢二のもの、武者小路ら白樺派の面々のものはB面。
夢二画集の読者層に背を向け、高島平三郎・永井潜・山本瀧之助を前面に打ち立てた経営路線が何となく見え隠れする?!(わたしの単なる思い過ごしかもしれないが・・・)、阿武信一「親と月夜」だが、阿武は河本の出身地沼隈郡の郡長。「親と月夜」は雑多な出典からかき集められた道話集だが、同じ表題の書籍は沼隈郡青年会、山本瀧之助編でも出されている。これらはふるさと思いの河本が情に任せ出版を引き受けたものだろ。
雑誌白樺だが、中には美術展などの展示目録などのいろんな付録があり、その種の付録の中に洛陽堂主人河本亀之助「白樺の経営者たることを辞するに就いて」のパンフがあった。