- 松永史談会 -

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「喜八自身による略 年 譜」ー大正5年条

2013年08月30日 | 教養(Culture)
尾崎喜八の略年表にいわく

「大正5年(24歳)

 長与善朗氏の厚意でしばらくその赤坂の家に寄宿している間に、当然「白樺」の同人やその傍系の多くの人達と知るようになった。みんな若くて芸術意欲に燃え、息苦しいほどの空気が渦巻いていた。その中には「エゴ」という雑誌の中心人物、愛情に脆くて熱烈でくしゃくしゃになった千家元麿がいた。しだいにデューラー風な画風に移りつつあった傲岸不屈な岸田劉生もいた。私よりも一つくらい年下で、盛んにゴッホの手紙や後期印象関係の本などを翻訳していた天才木村荘八もいた。椿貞雄がい、犬養健がい、近藤経一がい、道は違うがこの一群の空気を伶俐な澄んだ好奇の目で見ていた学習院の星と松方三郎もいた。ひとり高村光太郎は、離群癖というか党与の雰囲気を忌むというか、清涼な駒込のアトリエで粘土をつくね、のみを握り、静かにロダンの言葉の翻訳に専念していた。旋回する星雲系と遠く光る一つの星。私の心はこの間を微妙に往復した。そして或る日ロマン・ロランの音楽評論集「今日の音楽家」の新刊の英訳書を手に入れるや、渇いた者が泉に出逢ったようにこれに取りついて翻訳を始めた。ベルリオーズ、ワーグナー、フーゴ・ヴォルフ。「白樺」の人達には梢縁遠く、私には極めて親しく懐かしいロランの世界と音楽とが其処にあった。私の翻訳は直ちに採り上げられて「白樺」へ連載された。そして早くも12月には400頁(恩地孝四郎装幀)の本になって麹町の洛陽堂から出版され、記念として長与義郎氏に献ぜられた。これが私の最初の本だった。そして私と喜びを共にして熱い涙の中にその一冊を抱きしめた愛人隆子の最初にして最後に見た私自身の本だった。 」

これがこの年譜で言及されているロマンロランの音楽評伝の翻訳書だ。


恩地幸四郎の装丁らしい。わたしが疑ったら、古書店の女主人が、先に紹介した「喜八自身による略 年 譜」を持ち出してきた。・創文社尾崎喜八詩文集第三巻「花咲ける孤独」の巻末に付された略年譜らしい。


尾崎喜八か~。そういえば小学校か中学校の教科書に喜八の短文(詩?)が載っていたな~。


木村庄八(死後、芸術院恩賜賞受章)とか今なお根強い人気のある尾崎喜八などが二十歳すぎで東京帝大英文科中退の連中を差し置いて、盛んに翻訳書をだした。それを引き受けたのが東京洛陽堂だった。家庭教師にはついてはいただろうが、旧制中学卒程度の学歴の彼らの語学力にはちょっと不安だが、・尾崎から天才と持ち上げられた木村、如何程のものだったのだろ。文化功労者大田黒元雄がそうだが、やはり、彼らは並みの旧制中卒ではなかったらしい。


柳宗悦、「ヰリアム・ブレーク 彼の生涯と製作及びその思想」、洛陽堂(東京市麹町区)、大3(1914)辺りが代表的な評論集(「柳宗悦全集・第4巻」所収)か?!なんと柳25歳の時の大著だ




ちょっと横道にそれるようだが

「白樺」掲載 柳宗悦の論文(「『白樺」総目次』で論文として分類されているもの)は以下の通り。 1 「メチニコフの科学的人生観」 2巻8・9号 2 「哲学におけるテムペラメントに就て」 4巻12号 3 「ヰリアムブレーク」 5巻4号 4 「肯定の二詩人」 5巻5号 5 「哲学的至上要求としての実在」 6巻2・3号 6 「宗教的無限」 7巻1号 7 「宗教的自由」 7巻2号 8 「宗教的無」 8巻3号 9 「宗教的究竟語」 8巻4号10 「「規範経験」の字義に就て」 8巻7号11 「神秘道への弁明」 8巻9・10号12 「無為に就いて」 9巻4号13 「「中」に就て」 9巻7号14 「種々なる宗教的否定」 9巻9~12号15 「即如の種々なる理解道」 10巻4号16 「奇蹟の宗教的意味」 11巻3・4号17 「宗教的哲学に於ける方法論」 12巻4号18 「ゴシックの芸術」 12巻11号19 「李朝陶磁器の特質」 13巻9号20 「神と吾々との関係について」 14巻4号21 「埋もれたる一神秘詩に就いて」 14巻6号(雑誌「白樺」複製版別冊『白樺総目次』p138-141に柳宗悦が白樺に執筆した文章の一覧より)


略年譜中で言及された「麹町の洛陽堂」や河本亀之助についてだが、今後白樺派の作家連中の作品や彼らの残した日記類中からも探ってみる必要がありそうだ。
それにしても河本が白樺派の作家たちをしっかりと囲い込めなかった(あるいは囲い込まなかった)のは何故だったのだろ。
そういえば竹下夢二も世話になった洛陽堂からは離れていっていた。





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『家庭・婦人・児童』からみた晩年の高島平三郎

2013年08月30日 | 教養(Culture)
平野書房から出された『家庭・婦人・児童』(昭和11年)を盛岡市内の古書店にて入手した。
東京市麹町区三番町にあった東京家政学院(現在の東京家政学院大学)の学生・大森が教科書として購入したもの。
本題からはずれるので今回は大森についてはこれ以上詮索しない。



本書は高島平三郎が学習院で教師をしていたころのつてで、伯爵松平直亮から子女教育を委嘱され、その後現在の高松宮との婚約が決まった現在の高松宮喜久子妃殿下(旧姓徳川喜久子姫)のそのときに作成した講義ノート(稿本)をベースにしたものらしい。このように当時高島はまぎれもなく女子教育分野で我が国最高権威者であったことがわかろう 。
高島の著作物を読んでみると現在我々が苦手とする「東洋と西洋」、および「哲学と科学」との、懐の深い横断的思考(知性)にあふれていることを痛感する。

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