学生時代最後の年に、大阪で万博があり世界中から未来の新技術に関する展示があって、その中には動く歩道、モノレール、リニアモーターカー、電気自転車、電気自動車、テレビ電話、携帯電話、缶コーヒー、ファミリーレストラン、ケンタッキーフライドチキンなどの製品やサービスが初めて登場した。
あれから54年、当時は夢の技術と思われていたこれらの技術はすべて実現し、製品化や実施運用が行われている。
この内、リニアモーターカーについては、すでに中国で短距離の磁気浮上式が運行しているが、未だ日本での本格的な商用運転は行われていないので、その実現が期待される。
このような、新しい技術や国家プロジェクトに関して、私が楽しみにしているものが3つある。
リニアモーターカーと核融合発電、そして技術的なブレークスルーは特にないが、新幹線の敦賀から大阪への延伸である。この3つの話題はいわば私の夢であって、実現するのを見届けたい気がしている。
北陸新幹線の大阪までの延伸はまだだいぶ先になるが、途中敦賀までは先月、2024年3月16日に営業が開始されたので、1か月が過ぎて、少し落ち着いたところで、乗ってみることにした。ただ新幹線に乗ったり、車窓から景色を眺めるだけではもったいないので、以前から興味を持っていた、福井県の恐竜博物館と、若狭湾・三方五湖のひとつの水月湖から採取した湖底の堆積物が展示されている年縞博物館を訪れることにした。
実は、福井県と軽井沢町とはご縁があって、相互発展に向け、令和4年3月17日に「相互発展に向けた連携協定」を結んでいる。 次のようである。
連携協定の内容(上)と締結式に臨んだ杉本達治福井県知事〈右から2人目〉と藤巻 進軽井沢町長〈同3人目:当時〉(写真下、共に福井県HPより)
これは、旧軽井沢にある日本人初の別荘(1893年建築)を建てた八田裕二郎氏が福井市の出身であったことと、軽井沢の観光名所の一つになっている、旧三笠ホテル(1905年建築)を建てた山本直良の父が福井県出身であったことによるものとされる。
新幹線で福井県と軽井沢町とが直接結ばれることになるのを機に、軽井沢駅の構内で、昨年、福井フェアが行われた。この時、福井県内各地の観光案内や物産展が行われた。
そこで配布されたパンフレットの一つに福井県の代表的な観光施設として紹介されていたのが「恐竜博物館」、「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」、「年縞博物館」であった。一乗谷朝倉氏遺跡と現地の(旧)博物館には以前車で行ったことがあるので(2018.10.19 公開当ブログ)、今回は残る2つの博物館に行くことにした。
軽井沢駅構内で開催された福井フェアのパンフレット
軽井沢からは敦賀行の直通も運行されているが、こちらは上下とも1日1本に限られているので、通常は「あさま」か「はくたか」で長野駅に行き、ここで「かがやき」乗り換えることになる。今回の乗り継ぎ時刻は到着が08:35で、発車が08:39と乗り継ぎ時間は4分となかなか便利である。
今回もそのようにして、まず長野駅に向かった。指定席券の座席を見ると、「あさま」と「かがやき」の号車番号は共に同じで、駅員さんが乗り継ぎに便利なように選んでくれたのだと、その配慮に感謝していた。
ところが、我々の乗った「あさま」は、途中佐久平で接続している小海線が遅延していたため、約3分ほど遅れて発車した。長野着は、少し遅れを取り戻して2分遅れになるとのアナウンスがあった。これでも同じ号車間の移動なので、乗り継ぎには問題はなさそうである。
長野駅には車内アナウンス通り2分遅れで到着し、ホッとして後から追いかけてくる「かがやき」が同じホームの反対側に来るのを待った。しかし、先ほど車内でアナウンスがあった「かがやき」の発車ホーム番線を思い出して確認すると、それは隣のホームからの発車だと気がついた。一度エスカレーターで上の階に上がって、隣のホームに移動しなければならない。
やや焦りながら、隣のホームにエスカレータで下っていくと、「かがやき」がすでに到着していて、乗客が下りてくるところであった。危ないところであったが、無事「かがやき」の座席に着くことができた。
乗車券と特急券の発券時、駅員が選んでくれた乗り継ぎの2本の列車の号車番号が同じだったのは、移動しやすいからというよりも、エスカレータに近いものであったことに、後になって気がついたのであった。
行きはこの「かがやき」に乗り「福井駅」で下車した。目指す「恐竜博物館」には「えちぜん鉄道」に乗り換えて行くことを事前に調べていたので、到着した福井駅ホームでこの「えちぜん鉄道」への乗り換え案内表示を探したが見当たらず、次のような手作り感のある乗り換え口案内があるのみである。
北陸新幹線「福井駅」ホームにある乗り換え口案内表示(2024.4.16 撮影)
指示通り、ホーム前方に行って、下の階に下りるとすぐ右側に乗り換え改札口があったが、これはJR在来線へのもので、やはり周辺には「えちぜん鉄道」の案内表示はない。ホームに出ていた案内表示はこの在来線への乗り換え口のことで、「えちぜん鉄道」のことを指しているのではないことが分かった。
職員にたずねると、えちぜん鉄道の乗り場は、改札口を出て左の方に行ってくださいとのことであった。
JRの建物を出て、左の方に進むとに「えちぜん鉄道」の建物と高架上にあるホームと車両が見えている。改札口は、Suicaカードが使えそうにないので、乗車券売り場に行くと、「恐竜博物館」行きの列車とバスの乗車券がセットになった1日乗車券があると判ったので、これを購入して終点「勝山駅」に向かった。1両編成の車内にいた乗客のほとんどは博物館に行く観光客で、中には外国人も1組混じっていたし、車いす利用者も含まれていた。
えちぜん鉄道の駅窓口で販売している恐竜博物館行きの1日乗車券
駅から博物館までは直通バスが運行されていて、我々が乗ってきた列車からの客で席はすべて埋まり、数名の立ち客も出た。博物館までは約12分ほどの乗車で、途中、先ほど列車内からも見えていた銀色のドーム型の大きな建物が近づいてくる。これが「恐竜博物館」のメイン会場となるものであった。
直通バスの車窓から見える「恐竜博物館」の大きなドーム(2024.4.16 撮影)
「恐竜博物館」の詳細については別途このブログで紹介させていただく予定なので割愛するが、この立派な施設では驚くほど多くの恐竜化石の実物やレプリカ、そして精巧に作られた実物大の動く恐竜模型などを見学することができた。
「恐竜博物館」入り口付近のパノラマ写真(2024.4.16 撮影)
恐竜博物館の見学の後、再び福井駅にもどり、この日の宿は三方五湖の一つ、水月湖湖畔に予約していたので、新幹線「つるぎ」で「敦賀駅」まで行き、ここでJR小浜線に乗り換えて「三方駅」で下車、宿に向かった。
宿までは、バスの便もあるが、本数が限られているため、夕食や入浴時間のことを考えるとタクシー利用になる。あらかじめ宿に問い合わせて教えていただいていたので、敦賀駅を出るとすぐにタクシーの予約は済ませておいた。
翌日は、先ず宿のすぐそばから出る水月湖の遊覧船に乗り、水月湖と、これにつながる菅湖の遊覧と周囲の山に咲くヤマザクラの花や春の芽吹きなどの美しい景色を楽しんだ。
朝の水月湖(2024.4.17 撮影)
船が走り出すと、2階席で受ける風は思いのほか冷たく、船員が操舵室のすぐ後ろの風の来ない場所に折りたたみ椅子を用意して、そこに座るようにと勧めてくれた。
遊覧船から見える湖岸の木々(湖の傍にはこの地方の産品である梅の木が見える 2024.4.17 撮影)
途中、この後行く「年縞博物館」に展示されているはずの年縞をボーリング掘削した地点近くを通過した。この辺りが水月湖の水深が一番深い場所であるという。
水月湖遊覧船のルートと、年縞採取位置などを示す地図(遊覧船HPより)
遊覧船を下りて宿にもどり、宿の主人の好意で年縞博物館まで車で送っていただいた。前日フロントでバスの便を確認していたところ、本数が少なく不便をかけるとして、宿の車で年縞博物館まで送ってもらえることになっていたのであった。
訪ねた年縞博物館の展示は予想以上に素晴らしいものであった。特に7万年分45mに及ぶ実物サンプルは、一体どのようにして作ったのだろうかと、来る前から興味を持っていたのであったが、現地で説明パネルを読み、納得するとともにその努力と技術に感心した。
この年縞博物館の詳細についても、また別途紹介させていただこうと思う。
博物館見学の後、少し離れた場所にある食堂で昼食を済ませて敦賀駅に向かった。実は、年縞博物館には併設のカフェがあり、ここで特別なランチやデザートが提供されることとを事前に知っていたので、期待していたのであったが、この日カフェは休業であった。博物館そのものはオープンしているのに何故と思うのだが仕方ない。平日は入場者数が少ないからだろう。
旅の疲れもあり、昼食後はこの食堂でタクシーを呼んでもらおうとしたが、車は出払っていて1時間ほど待たなければならないと判り、食堂の主人が三方駅まで車で送ってくださることになった。この日2回目の地元の方のご好意であった。
敦賀には、若いころ大阪に住んでいたので、海水浴に来たことがあった。しかし、市と市街地についてはほとんど何も知らないでいた。
今回、北陸新幹線のターミナル駅ができた敦賀市街地を見てみようと思い、敦賀駅から徒歩圏内にある「氣比(けひ)神宮」に行くことにして歩き始めた。駅前からまっすぐに延びる無電柱化された道路はとても道幅が広い。これはしばらく行って、右に曲がってからも同様で、神宮まで続く道の両側にはアーケードのある商店街が続き、その前には駐車スペースが設けられている。このような配置はこれまで見たことが無かった。
氣比神宮に続く道路の両側の商店街とその前の駐車スペース(2024.4.17 撮影)
氣比神宮とその前の広い道路のパノラマ写真(2024.4.17 撮影)
氣比神宮1/2(2024.4.17 撮影)
氣比神宮2/2(2024.4.17 撮影)
道路からも目立っているこの氣比神宮の大鳥居は、江戸時代前期の正保2年(1645年)の造営で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺(7.29メートル)である。これは、佐渡の旧神領地の鳥居ケ原から奉納された榁(むろ)の大木を使用して、建てられたと伝えられる。
社殿のほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になるが、この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されていて、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられているという。
境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名の由来であるとされ、祭神の都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)像は敦賀駅前に見られる。
氣比神宮境内社の角鹿(つぬが)神社と解説板(2024.4.17 撮影)
敦賀駅前に立つ都怒我阿羅斯等命〈つぬがあらしとのみこと〉像(2024.4.17撮影)
また、駅前から氣比神宮に続く道路沿いには松本零士氏の漫画作品をモチーフにしたブロンズ像が多数配置されていて目についていた。
これらは、敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」のモニュメントを1999年に設置したものという。
松本零士モニュメントMAPと解説板(2024.4.17 撮影)
駅から続く道路沿いに設置された松本零士モニュメントのひとつ(2024.4.17 撮影)
これらの解説板やモニュメントは、かつてこの敦賀がヨーロッパへの玄関口であったことを思い出させてくれてる。
「時刻表歴史館」のホームページには敦賀について、次のような記述がある。この最短ルートを利用して、与謝野晶子やオリンピック選手の金栗四三もフランスに渡っている。
「欧州への旅路の序章・欧亜連絡列車
鉄道も国際化した20世紀『毎週金曜午後8時25分東京発金ヶ崎(現・敦賀港)ゆき』
船会社の代理店発行のこの時刻表には、こんな列車が紹介されています。正確には、神戸行き急行に一等寝台車を併結し、米原でこの車両を分離して敦賀に向かいました。乗客は、敦賀からの大阪商船ウラジオストック航路に乗り継ぎ、遥か欧州を目指す旅行客。大戦前の国際連絡華やかなりし時代を象徴する列車です。・・・
欧亜連絡国際列車は、1912年(明45)に運転開始。その後第一次世界大戦やロシア革命で、欧亜連絡が途絶状態になったことで一時期消滅しましたが、昭和戦前に復活し、再び激動の時代を走りました。 」
欧亜連絡国際列車は、1912年(明45)に運転開始。その後第一次世界大戦やロシア革命で、欧亜連絡が途絶状態になったことで一時期消滅しましたが、昭和戦前に復活し、再び激動の時代を走りました。 」
近年、敦賀は先の解説板にあるように、科学都市としても発展を遂げようとしている。駅前にある敦賀市観光図には、敦賀半島の先端部にある「敦賀原子力発電所」と「美浜原子力発電所」の名前は見当たらないが、3つの原子力関連施設、「日本原子力発電(株)敦賀原子力館」、「ふげん」、「もんじゅ」の名前が見られる。
敦賀駅前に設置された敦賀市観光図の一部(北が下に描かれている。 2024.4.17 撮影)
さて、北陸新幹線のターミナルとなった敦賀、これからどのような未来が待ち受けているのであろうか。
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