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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

無電柱化

2019-10-11 00:00:00 | 軽井沢
 市街地を車で走っていて、何か周囲の様子が違っていると感じることがあるが、それは電柱が取り払われて、電線や通信線が地中化されている時が多い。景観に与える電柱・電線の影響は大きいようである。軽井沢の町内でもこの無電柱化が順次進められている。

 現在、無電柱化が完成しているのは、軽井沢駅入口から東雲交差点までの区間と、かつて旅籠が軒を連ねていた旧中山道の追分エリアで、共に2013年度までに工事が行われた。

 軽井沢駅周辺では観光地としての景観向上のため、また、旧追分宿では石畳風の道路にするなど大規模な改良工事を行い、江戸時代の面影を演出するために行われている。

 県佐久建設事務所は、続いて軽井沢本通りの東雲交差点から中部電力軽井沢サービスステーション前まで、580m区間の電線を地中に埋める工事計画を発表している。これによると、工事は2016年(平成28年)度に着手し、2019年(平成31年/令和元年)度の完成を目指している。事業費総額は4億円である。



軽井沢駅前から旧軽井沢銀座方面の無電柱化状況

 2016年11月の住民説明会では、工事は原則、10~4月を中心とした閑散期のみ実施され、5区画にわけ東雲交差点から旧軽井沢方面へ向かって、中部電力サービスステーションまでの区間で実施し、都市下水路移設工事、上下水の移設、電線地中化工事、電柱撤去、舗装工事を行い完了する予定とされた。

 最近、2019年9月にも住民への説明会が行われているが、それによると、今後、雨水を流す都市下水路を歩道から車道の地中に移設したのち、地中に送電線などを埋設する。車道幅を1m狭め、西側の歩道幅を現状の3.5mから4.5mに広げ、両側の歩道に自転車通行帯を設置する計画という。

 さらに、旧軽井沢銀座通りも含め、サービスステーションより北側の無電柱化も、将来の構想に入っている。この工事が完成すれば、軽井沢の入り口である駅前から、旧軽井沢銀座通りまでの無電柱化が完成することになり、町の景観は大きく変化するものと期待される。


既に無電柱化工事が完了した軽井沢駅前から東雲交差点区間(2019.10.8 軽井沢駅側から撮影)


既に無電柱化工事が完了した軽井沢駅前から東雲交差点区間(2019.10.8 東雲交差点側から撮影)


現在無電柱化工事が進められている東雲交差点から中部電力軽井沢サービスステーションまでの区間(2019.10.8 東雲交差点側から撮影)


現在無電柱化工事が進められている東雲交差点から中部電力軽井沢サービスステーションまでの区間(2019.10.8 中部電力軽井沢サービスステーション側から撮影)


将来無電柱化の計画のある中部電力軽井沢サービスステーションから旧軽井沢銀座通り入り口までの区間(2019.10.8 中部電力軽井沢サービスステーション側から撮影)


将来無電柱化の計画のある中部電力軽井沢サービスステーションから旧軽井沢銀座通り入り口までの区間(2019.10.8 旧軽井沢銀座通り入り口側から撮影)


将来無電柱化の計画のある旧軽井沢銀座通り(2019.10.8 旧軽井沢銀座通り入り口側から撮影)


将来無電柱化の計画のある旧軽井沢銀座通り(2019.10.8 二手橋方面のつるや旅館側から撮影)

 参考までに、上の最後の写真で、電柱や電線を写真上で消してみると次の様になる。なかなかすっきりとした景観になる。


前の写真の電柱や電線を写真上で消してみた
 
 日本はかねてから、欧米はおろか、アジアの主要都市と比較しても無電柱化の割合は著しく低いことが指摘されている。こうした事態を打開し、「積極的に政府や民間等との連携・協力を図り、無電柱化のより一層の推進により、安全で快適な魅力のある地域社会と豊かな生活の形成に資することを目的」として、2015年に「無電柱化を推進する市区町村長の会」が設立された。軽井沢町もこれに参加している。

 観光地としては、もっぱら景観の改善が目的となるが、果たして景観改善が地域経済にどの程度の効果をもたらすのか、また無電柱化のそれ以外のメリットにはどのようなものがあるのか見ておきたいと思う。

 これまでに電柱の地中化を行った観光地としては、東京の銀座6丁目付近、 奈良県奈良市の三条通りなどがあり、景観改善と共に通行空間の確保が図られている。また、埼玉県川越市の川越一番街では、電柱・電線によって隠れていた蔵造りの町並がよみがえり、それまで年間150万人であった観光客数が400万人に増加しているという事例や、三重県伊勢市のおはらい町では、電柱・電線によって破壊されていた伊勢の伝統的な木造建築の町並みをよみがえらせた結果、1992年に約35万人まで落ち込んでいた通りの往来者は、1994年に200万人に急増し、2008年には400万人を超えるようになったという具体的な数字も見られる。

 軽井沢駅の南側に広がるアウトレット・モール(プリンス・ショッピング・プラザ)は新しい施設であるが、ここも全域が無電柱化されている。
 また、別荘地としての軽井沢にとっては、別荘地内の景観をよくし、ブランド価値を高めることは重要であり、このために限られたエリア内ではあるが、無電柱化が行われている例もある。同様のことは、全国にも見られ、兵庫県芦屋市の六麓荘町では、開発の当初からガス、水道のみならず電気、電話を地下に埋設するという構想の下に住宅地の造成が進められた結果、芦屋市でも最も高級な住宅地として知られているというし、奈良県奈良市の近鉄あやめ池住宅地では、「あやめ池」の地域価値を向上するために、一部エリアで共同溝を設けて電線等を地下に配置している。


無電柱化されているプリンス・ショッピング・プラザ (2019.10.8 撮影)

 景観改善以外の電柱地下化のメリットとしては、むしろこちらの方が急務ではないかと思える位であるが、台風や地震といった災害時に電柱が倒れたり、垂れ下がった電線類が、消防車などの緊急用車両の通行の邪魔をする危険がなくなり、防災性が向上するという点が挙げられる。

 このことは、今年千葉県を襲った台風15号による直接の被害と、それに伴う大規模な停電、そしてその後の電力供給の回復状況を見れば明らかである。阪神・淡路大震災では震度7の地域で、電柱の停電率は10.3%であったが、地中線は4.7%であり、電柱に対する地中線の被害率は45.6%と低かったと報じられている。

 10月7日の読売新聞には、「電柱大国ニッポン」として日本の電柱数の多さが示されたが、それによると2017年度末の電柱数は3,585万本であり、今も毎年7万本づつ増加を続けているという。この多くの電柱が災害で倒れた数もまた示されているが、次のようである。
・1995年1月、阪神淡路大震災・・・電力 約4500本、通信 約3600本
・2003年9月、沖縄県宮古島市・・・電柱 800本
・2011年3月、東日本大震災・・・・・電力 約2万8000本、通信 約2万8000本
・2013年9月、竜巻・・・・・・・・・・・・・埼玉県越谷市 46本、千葉県野田市 5本
・2018年9月、台風21号・・・・・・・・・電柱 約1700本、停電最大 約260万戸
・2019年9月、台風15号・・・・・・・・・電柱 1000本超、停電最大 約93万4900戸

 被害額の推定は示されていないが、いったいどれくらいになるのであろうか。

 この記事には、日本と世界各都市の無電柱化率も比較して記されているが、それによると、
・ロンドン・・・・・・・・100%
・パリ・・・・・・・・・・・100%
・シンガポール・・・100%
・香港・・・・・・・・・・100%
・ハンブルグ・・・・ 95%
・ニューヨーク・・・ 83%
・ワシントン・・・・・ 65%
・ソウル・・・・・・・・ 49%
・ホーチミン・・・・・ 17%

であり、わが日本の主要都市の無電柱化率は、
・東京23区・・・  7.8%
・大阪市・・・・・  5.6%
・名古屋市・・・  5.0%
・日本全体・・・  1.2%

という数字である。彼我の差は一目瞭然である。次のような図も掲載されていた。


日本の都道府県別無電柱化率(2019.10.7 読売新聞から)

 この図によると、無電柱化率が3%を超えているのは、東京都だけであり、2~3%は神奈川、岐阜、福井、大阪、兵庫の5府県、1~2%が23県、残る18府県では1%未満である。

 このように無電柱化が日本で遅れている要因としては、「故障時の対応に時間がかかる」、「工事中の通行のへの妨げ」、「電線を地下化しても地上部の変圧器の場所は必要」といったことがあげられているが、やはり最大の要因は1kmあたり5.3億円とされるコストの問題であろう。現在、軽井沢で計画されている、前記の580m の区間の総費用は、約4億円とされているから、寒冷地での工事費用は更に割高になっていると思われる。

 これに対しては、電線を埋める深さを浅くして、掘削量を減らしたり、土に代わって発泡スチロールを使って埋め戻し時間を減らすなどにより、工期短縮を図る工夫が取り入れられている。また、従来は通信への影響を避けるために、離れて埋めなければならないとされていた電力と通信のケーブルを同じ側溝状のボックスに埋めるなどのコスト対策も進められているという。

 しかし、高速道路網や新幹線網、リニア鉄道建設などのことを考え合わせると、もう少しバランスのとれた国土のインフラ整備はできないものかと思う。
 
 日本で最初に電線地中化が行われたのは、前出の兵庫県芦屋市に高級住宅街として造成された六麓荘町とされているが、これは90年も前の1928年のことであった。その後、1986年度から1998年度までに、全国で約3,400kmの地中化が達成されているというが、このままのペースでいけば、日本全体の電線地中化が完了するまでに2700年かかるという計算もある。

 東京都知事になった小池百合子氏が発足人となって作られた無電柱化推進議員連盟、無電柱化小委員会により作成された「無電柱化推進法案」が2016年12月9日に無電柱化の推進に関する法律として成立している。また、東京都と大阪府もそれぞれ2018年2月と2018年3月に「(仮称)東京都無電柱化計画」(素案)、「(仮称)大阪府無電柱化推進計画」(素案)を発表している。

 国土交通省は、上記法律を受けてであろうか、災害時に緊急車両が走る幹線道路では、2016年以降電柱を新設することを禁じているし、災害時の輸送で重要となる道路を対象として、電力会社や通信会社に電柱を撤去させる制度を新設すると発表している。

 地球温暖化が進む中、台風15号のあとにはまだまだ大型で強力な台風が日本に押し寄せてくる気配である。千葉県のような住宅被害や大規模停電が、再び起きなければよいがと願わずにはいられない。



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軽井沢の霧の話

2019-10-04 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢は霧の日が多く、「霧の軽井沢」と呼ばれることもあるが、軽井沢町の公式ホームページでは、年間120日も霧の出る日があると紹介している。特に夏の軽井沢は霧のかかる日が多いようである。


朝の霧につつまれた雲場池(2019.6.19 撮影)

 軽井沢で霧が発生する理由は、次のように詳しく説明されている(ウィキペディア)。

 「日中、関東地方南岸では大規模な海風(太平洋海風)が生じて、およそ5 m/sで大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら二つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって平衡状態となる。午後になると地表面の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。山を登る空気は気圧が低くなるとともに膨張して温度が下がり(断熱膨張)、飽和した水蒸気が霧となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間130日以上も霧が発生している。」

 標高で見ると、峠の下の横川が387m、碓氷峠が960m、軽井沢が939mという関係である。


霧につつまれた旧軽井沢銀座通り(2019.6.9 撮影)

 観光の中心地である旧軽井沢銀座やアウトレット・モールあたりは、軽井沢でも碓氷峠に近い東側にあるため特によく霧が発生する。西の中軽井沢方面に行くにしたがって徐々に霧は薄くなり、信濃追分あたりまでくるとほとんどなくなってくる。

 軽井沢を出て佐久方面に車で向かい、追分を過ぎて佐久平にくると、それまでの霧が嘘のように晴れて、青空が広がっているというのはよく経験することである。ちなみに、佐久平から小諸・望月周辺は日本でも晴天率がとても高い地域であるとされているから面白い。


霧につつまれた聖パウロ・カトリック教会(2019.6.9 撮影)

 1995年頃に広島県の三次市に赴任していたことがあるが、ここは秋から早春にかけて朝、霧が頻繁に出る場所であった。天気が悪いわけではなく、濃い霧が出て、視界がとても悪い朝でも時間とともに晴れていき、昼前には青空が見えるようになるといった具合である。ちょうどその頃、NHKの大河ドラマで毛利元就が取り上げられたが、番組の冒頭、この霧のシーンが流れていたことを思い出す。

 この霧は軽井沢の霧とは発生メカニズムが異なるようで、川霧とされる。三次盆地では、西城川・馬洗川・神之瀬川の三つの川が流れ、三次市の中心部で合流して江の川となる。これらの川が運んできた冷気によって、こうした川霧が発生するのだという。

 霧は地表50メートルから100メートルの間を液体のように立ちこめ、すべてを覆い隠してしまう。高谷山・比熊山・岩屋寺など、標高100メートルを越える小高い丘に登ると、雲海のように足下で渦巻く霧や、ところどころで丘や小山の頂が小島のように浮かび上がり、幻想的な光景が眺められるというが、残念なことに私はそういう機会を持つことはなかった。

 この霧は、前記の通り水蒸気を含んだ大気の温度が何らかの理由で下がり露点温度に達した際に、含まれていた水蒸気が小さな水粒となって空中に浮かんだ状態をさすとされている。その意味で霧は雲と同じであると考えてよい。雲との一番大きな違いは水滴の大きさなどではなく、両者の定義の違いということになる。すなわち、霧は大気中に浮かんでいて、地面に接しているものと定義され、地面に接していないものは雲と定義している。山に雲がかかっているとき、地上にいる人からはそれは雲だが、実際雲がかかっている部分にいる人からは霧ということである。

 よく天気予報などで霧と靄(もや)の違いを説明しているが、それによると、視程が1km未満のものを霧とし、視程が1km以上10km未満のものを靄と呼んで区別している。

 「霧の都」としてロンドンもまた有名だが、こちらは軽井沢などのロマンチックな霧とは違い、その発生原因は公害であった。産業革命以来続いていた石炭の大量使用により発生した煤煙(スモーク)と霧(フォグ)を合成した言葉であるがスモッグがその原因であることは今では有名である。このスモッグの発生は20世紀に入ると激しくなり、1950年頃には大量の死者を出すほどになり、「大気浄化法」という法律を作り規制しなければならなくなった。最近ではこの大気汚染も収まり霧もまたほとんど発生しなくなっているようである。

 先日、新聞紙上に東京の霧発生日数の推移が紹介されていたが、東京では霧発生日数が減っているとのこと。お天気キャスターの森田正光氏の文章であるが、一部引用すると次のようである。

 「・・・気象庁気象研究所に在籍した藤部文昭さんの論文『都市が降水に及ぼす影響』で、霧日数のデータを1880年頃(明治時代)から示しています。明治時代に、東京の霧日数は年10から5日ほど。大気汚染や都市化の影響が小さかった東京本来の姿なのかもしれません。
 その後、昭和初期には50日前後となり、高度経済成長期にかけてはおおよそ20日以上で推移します。霧粒の芯となる空気の汚れが顕著だったことも関係あるかもしれません。・・・
 最近では、ほとんど霧が観測されていません。本来の東京の姿とはかけ離れています。空気の浄化というよりも、都市化による気温の上昇や地表面の乾燥が占める部分が大きいのでしょう。東京都心から富士山の見える日数は、近年、過去になかったほど増えていますが、霧日数は2012年の秋以来、一日もありません。・・・」(読売新聞 2019.9.8 掲載記事『晴考雨読』から)


霧日数と都心から富士山が見えた日の推移(2019.9.8 読売新聞掲載の記事から引用)
 
 さて、軽井沢とその周辺の霧であるが、多くの文学作品や小説にも採り上げられている。先ずは軽井沢にこの霧をもたらす基になっている碓氷峠の霧から見ていく。

 碓氷峠の北方には霧積温泉がある。今はここには一軒の宿を残すだけになっているが、かつては40軒以上の宿があり、賑わいをみせていたという。温泉の発見は1200年代であるというからその歴史は古い。

 明治時代初期には温泉旅館が季節営業を始め、別荘が建てられるなど、軽井沢よりも一足先に、避暑地として知られるようになった。

 明治天皇をはじめ、伊藤博文、勝海舟、尾崎行雄、岡倉天心、西條八十、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻ら多くの政治家や文化人らもここを訪れている。伊藤博文が明治憲法草案を起草した部屋は2018年現在でも旅館・本館の一部として残されているという。
 
 1888年(明治21年)に軽井沢に初めての別荘を建て、避暑地・軽井沢の父と呼ばれているカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショー(1846年~1902年)も霧積温泉を訪れていて、英文の広告を発行するなどし、外国人にこの地を紹介している。

 また、1893年(明治26年)に日本人として初めて軽井沢に別荘を建てた旧海軍大佐で福井県選出の衆院議員だった八田裕二郎(1849年〜1930年)も、療養を兼ね霧積温泉に来ていて、軽井沢に多くの外国人が別荘を建てていることを知ったのが建設のきっかけであったとされている(2017.4.21公開の当ブログ「八田別荘とコクサギ」参照)。

 しかし、明治も後期になると軽井沢が避暑地として開発され、人気は奪われていった。さらに1910年(明治43年)に山津波(土石流)が発生し、4軒あった温泉旅館、50~60軒あった別荘が流され、温泉街・別荘は壊滅してしまった。現在はその当時被害を免れた金湯館のみが営業を続けている。

 この山宿を守り続ける3代目当主Sさんによれば、「一寸先も見えない深い霧に包まれることがあります」とあり、さすがの霧の濃さである。

 「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうね?」というせりふは、今では森村誠一さん(1933年~)の小説を映画化した「人間の証明」で有名であるが、出所は西条八十(1892年~1970年)の詩である。碓氷峠から霧積に続く深い渓谷でなくした少年の麦わら帽子と、母への思慕が次のように詠われている。

ぼくの帽子

   西条八十  
   
母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谿底へ落したあの麦稈帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあの時、ずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

母さん、あのとき、向から若い薬売が来ましたつけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたつけね。
けれど、たうとう駄目だった、
なにしろ深い谿で、それに草が
背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。

母さん、ほんとにあの帽子、どうなつたでせう?
あのとき傍に咲いてゐた、車百合の花は
もうとうに、枯れちやつたでせうね。そして
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で、毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

母さん、そして、きつと今頃は、今夜あたりは、
あの谿間に、静かに雪が降りつもつてゐるでせう、
昔、つやつや光つた、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S といふ頭文字を
埋めるやうに、静かに、寂しく。
・・・

 碓氷峠を下って、軽井沢の霧についてみると、次のエッセイは、軽井沢とは縁が深く、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』の翻訳、ボーヴォワールの翻訳、そしてパリについての著書で知られる朝吹登水子(1917年~2005年)のもの。彼女が幼少期から過ごした別荘や、夫君と暮らした住まいはともに軽井沢にあったが、別荘・睡鳩荘は今、中軽井沢の塩沢湖畔に移築保存され、見学することもできる。

 ・私の軽井沢物語-霧の中の時を求めて
 朝吹登水子のエッセイ。1985年、文化出版局。


「私の軽井沢物語-霧の中の時を求めて」、文化出版局発行の表紙

 内容は、著者の記憶にある大正末期から戦争を経て、再び平和が戻るまでの軽井沢を、戦火を逃れた、たくさんの古いアルバム写真とエッセイで記している。書き出しは次のように始まる。
 「私の軽井沢の記憶は薄霧の中から始まる。・・・場所は小坂別荘。小坂善太郎氏、徳三郎氏の父上順造氏の別荘である。大正六年(1917)、両親は小坂家の別荘を借りて、はじめて軽井沢で夏を過ごしたのであった。・・・」
 
 またあとがきの中で、次のように軽井沢の霧について触れて、そしてこの著書の題名について解説している。

 「私が這いはいをしながら人生を進み始めたのは、軽井沢の小坂別荘である。父は簡素で良風の軽井沢が大変気に入り、大正九年(1920)に別荘を買ったので、私は子供時代と少女時代を兄たちと毎夏ここで過ごすことになる。・・・
 パリに住んでいた頃、時折、隣接するブーローニュの森に近い私の住居で、ピョロッピョロッピー、と軽井沢と同じ小鳥の鳴き声を聞くことがあった。甘い郷愁に浸ったわけでは決してなかったが、ふいに軽井沢の一陣の白い霧を頬に感じ、父と母と一緒にいた頃の幼い自分や、嵐が来る前の、泡沫の平和の中であそんだ若人たちの姿が浮かんで、私の胸をしめつけた。これらの映像が霧の中に永遠に消えてしまう前に、私は自分が見、聞き、味わった軽井沢を紙上にとどめておきたいと思った。・・・
 『霧の中の時を求めて』という副題は、読者にフランスの名作、プルーストの『失われた時を求めて』をただちに想いおこさせるだろう。たしかに私は、『失われた時を求めて』という美しい題が大好きなのである。・・・」

 次に、軽井沢の霧を扱った小説から代表的なものを紹介する。

・『霧の山荘』
 横溝正史(1902年~1981年)の小説。角川文庫『悪魔の降誕祭』に本の表題の作品、「女怪」と共にこの「霧の山荘」が収録されている。


「悪魔の降誕祭」、角川書店発行の表紙

 あらすじは、K高原のPホテルに滞在していた金田一耕助を訪ねてきた江馬容子という女に、奇妙な依頼をされる。M原にあるという容子の叔母で元映画スターの紅葉照子が待つ別荘地を訪問したところ途中で霧に巻かれて道に迷ってしまう。
 途方に暮れる金田一を迎えに来た、照子の使いの者と名乗る若い男に案内されて別荘に来ると、そこには照子が倒れていた。金田一が別荘の管理人に連絡し、警察にも通報してもらって、戻ってみると若い男とともに照子の死体も消えてしまっていた。ところが翌朝、K署の捜査主任・岡田警部補から、照子の死体が発見されたと連絡が入る。金田一が別荘に急行すると、別荘の裏の潅木林の中に裸にされた照子の死体が横たわっていた。・・・
 
 横溝正史は金田一シリーズを通して舞台となる地名をアルファベットで抽象的にあらわすことが時々見られるという。この作品にでてくる「K高原」や「K署」の「K」は「軽井沢」、「Pホテル」の「P」は「プリンス」、「M原」の「M」は「南」とされているが、この作品が書かれた当時、まだプリンスホテルは今の名前で呼ばれていなかったといわれ、小説の内容とは別の謎との意見もある。

・『日美子の軽井沢幽霊邸の謎』
 斉藤栄の小説。中公文庫。


「日美子の軽井沢幽霊邸の謎」、中央公論社発行の表紙

 斉藤 栄さん(1933年~)は、大変作品数の多い作家だが、その中の占術ミステリーの『タロット日美子』シリーズのひとつ。

 あらすじは、津名村画伯夫人に、矢ケ崎川の近くの小高い丘の上にある別荘へ招かれた日美子と従姉妹の由佳が、親友を誘って軽井沢に出かける。南軽井沢には、津名村画伯の息子・幸一が奇岩城と名づけているまっ黒い恐ろしい形の巨大な岩が、いくつも林立している場所がある。その奇岩城と発地川の間にある、豪邸を舞台に起きる事件に、二階堂日美子のカードリーディングによる謎解きが展開するというもの。この小説では、推理小説としては稀なことであるが、殺人は起きない。
 このほか軽井沢を舞台とする著者の作品には「新幹線軽井沢駅の殺人」「軽井沢愛の推理日記」などがある。

 1983年5月から軽井沢に住み、先ごろ亡くなった内田康夫(1934年~2018年)には次の推理小説がある。

・『軽井沢の霧の中で』
 内田康夫の短編集。中公文庫、角川文庫、など。表題の下に軽井沢を舞台にした「アリスの騎士」、「乗せなかった乗客」、「見知らぬ鍵」、「埋もれ火」の4編が収録されている。いずれも初出誌は1986年の「別冊婦人公論」とされる。
 先に世に出た、中公文庫版の「あとがき」に寄せられた、著者の友人で同じく軽井沢在住の小池真理子さんの次の文章を、角川文庫版の「自作解説」で紹介している。
 「私個人としては『埋もれ火』が強く印象に残った。短編ミステリーの命とも言えるオチが小粋に決まっていることももちろんだが、高原の別荘地で陶芸をしている男、そこに突然、現れた美しい青年、不吉な暗号のように出て来る白い犬・・・等々、サスペンスの典型ともいうべき設定を大胆に利用して、女の怖さを描いているあたり、内田康夫が意図的にこれまで隠し続けてきたのであろう、第二の才能を感じさせる」


「軽井沢の霧の中で」、中央公論社発行の表紙


「軽井沢の霧の中で」、角川書店発行の表紙

 本作品は同氏のベストセラーである浅見光彦シリーズではない。「アリスの騎士」のあらすじは、父親の死をきっかけに、自身が26年前に生まれ、それから毎年夏には必ず訪れたという、幼い日々の思い出の刻まれた軽井沢の別荘を取り壊し、ペンション経営を始めた絵里という主人公のミステリー。
 絵里は東京・日本橋で4代続いた老舗の呉服店を畳み、軽井沢でペンションを始めた。幼い頃からの夢であった「アリスの館」の経営は、父親が強引に結婚させた画家である婿養子の夫・嘉男の力を借りなくても順調に進んでいた。二年後、絵里は頼りない夫に不満を抱き、出入りの経理士と不倫関係になった。ところが、高崎で逢った後の夜、その経理士が殺害され、その日を境に夫の態度が変わっていく...というもの。

 同じく、2004年から軽井沢に在住している作家、唯川恵さん(1955年~)も「軽井沢の霧」を扱った作品を発表している。

・『途方もなく霧は流れる』
 唯川恵の小説。単行本と、表題を『霧町ロマンティカ』と改題した文庫本がある(共に新潮社)。


「途方もなく霧は流れる」、新潮社発行の表紙

「霧町ロマンティカ」、新潮社発行の表紙

 文章は、「峠を越えた辺りから霧が流れ始めた。群馬と長野を結ぶ碓氷峠である。・・・」とはじまる。

 あらすじは、航空会社で数十億の仕事を任されていた主人公・岳夫は、会社の倒産に伴いリストラの憂き目にあう。東京の住まいを引き払い、父親が残してくれた軽井沢のボロ家に引っ越してきて、田舎暮らしを始める。父親は彼が十三才のときに行方不明になっていた。ある日、迷い犬が現れ、飼いだすようになる。新生活を始めた彼の周りには、知的な獣医、小料理屋の優しい女将と19歳のその娘、誘いをかける妖艶な人妻、など次々と女性が現れる。
 
 と、霧の軽井沢を紹介してきたが、霧を見ることのできなくなっている都会の方々は、霧が見たくなったら「軽井沢にいらっしゃい」ということになるのだろう。



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軽井沢文学散歩(8)萩原朔太郎

2019-09-20 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢町が発行している、「軽井沢文化財・歴史的建造物マップ」には、これまでに紹介した事のある旧三笠ホテル、ショーハウス記念館、室生犀星記念館、旧有島武郎別荘「浄月庵」や八田別荘などと共に、旧三井別荘を見ることができる。この旧三井別荘が、最近新聞紙上を賑わした。


旧三井別荘の解体の危機を報じる新聞記事

 2019年8月27日付の読売新聞には「三井別荘 解体の危機」と題して、次のように書かれている。
 
 「1900年(明治33年)に建築され、軽井沢町に現存する最古の洋和館別荘とされる『三井三郎助別荘』が取り壊される可能性があることが、関係者への取材で明らかになった。建物を購入した英領バージン諸島の法人が解体の意向を表明しているという。避暑地として約130年の歴史がある軽井沢の別荘文化を今に伝える建造物の保存に取り組んできた町や住民らは解決の糸口を探るが、私有財産の保護には限界もあり、有効な手だては見つかっていない。」

 記事では、この別荘について更に次のように解説しているが、この別荘には記事に名前が見られる人たちのほかに、萩原朔太郎も、室生犀星の紹介で滞在していたことがあるという。

 「三井三郎助別荘:三井財閥の三井三郎助(1850~1912年)が現在の軽井沢町の愛宕山山麓に建てた。木造2階建ての洋館と和館が連結した造りが特徴。三郎助のおばで、NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデルとなった広岡朝子も利用し、ノーベル文学賞を受賞したインドの詩人タゴール、元総理大臣の西園寺公望も滞在したことで知られる。」


旧軽井沢愛宕山にある旧三井別荘(2019.9.6 撮影)

 さて、今回は軽井沢文学散歩に萩原朔太郎をとりあげる。軽井沢には、萩原朔太郎に関連する文学碑などはなく、又彼が別荘を持って住んでいたということもないので、軽井沢町が発行している「軽井沢文学散歩」(1995年発行、11版)には、この萩原朔太郎は登場してこない。

 ただしかし、本ブログの軽井沢文学散歩で最初に取り上げた室生犀星とのつながりがとても深く、互いに生涯の友と認め合う仲であり、上記の通り、室生犀星の紹介で「三井別荘」に滞在したとの記録があることや、室生犀星を訪ねて、芥川龍之介などとともに旧軽井沢の宿「つるや旅館」にも滞在していることから採り上げておこうとおもう。

 萩原朔太郎については、私たちの世代は中学か高校の国語の授業で学んでいて、今も覚えているのは彼の詩「竹」である。あらためて読んでみると次のようであった。
 
萩原朔太郎 「竹」(詩集『月に吠える』より)



ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。



光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。
かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

 萩原朔太郎と室生犀星、北原白秋は次の年表に見るように、同時代を生きた。また萩原朔太郎と北原白秋は同年に没している。


明治大正期生まれの文士とその中の萩原朔太郎(赤で示す、黄はこれまでに紹介した文士)

 室生犀星は、「我が愛する詩人の傳記」(1974年 中央公論社発行)の中で次のように記している。

 「先に死んで行った人はみな人柄が善すぎる、北原白秋、山村暮鳥、釈迢空、高村光太郎、堀辰雄、立原道造、福士幸次郎、津村信夫、大手拓次、佐藤惣之助、百田宗治、千家元麿、横瀬夜雨、そしてわが萩原朔太郎とかぞえ来てみても、どの人も人がらが好く、正直なれいろうとした生涯をおくっていた。・・・」

 室生犀星と萩原朔太郎の出会いは、北原白秋の主宰誌である「朱欒(ザンボア、ザボンのこと)」においてであった。犀星はその折のことを「大正二年の春もおしまひのころ、私は未知の友から一通の手紙をもらった。私が當時「ザンボア」に出した小景異情といふ小曲風な詩について、今の詩壇では見ることのできない純な真実なものである。これからも君はこの道を行かれるやうに祈ると書いてあった」と述べている(月に吠えるの跋文から)。

 その後の二人の交流についてはふたたび、「我が愛する詩人の傳記」に記されている。

 「前橋市にはじめて萩原朔太郎を訪ねたのは、私の二十五歳の時であり今から四十何年か前の、早春の日であった。前橋の停車場に迎えに出た萩原はトルコ帽をかむり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを口に咥えていた。第一印象は何て気障な虫酸の走る男だろうと私は身ブルイを感じたが、反対にこの寒いのにマントも着ずに、原稿紙とタオルと石鹸をつつんだ風呂敷包一つを抱え、犬殺しのようなステッキを携えた異様な私を、これはまた何という貧乏くさい瘠犬だろうと萩原は絶望の感慨で私を迎えた。と、後に彼は私の印象記に書き加えていた。それによると、萩原は詩から想像した私をあおじろい美少年のように、その初対面の日まで恋のごとく抱いていた空想だったそうである。・・・」

 「萩原と私の関係は、私がたちの悪い女で始終萩原を追っかけ廻していて、萩原もずるずるに引きずられているところがあった。例の前橋訪問以来四十年というものは、二人は寄ると夕方からがぶっと酒をあおり、またがぶっと酒を飲み、あとはちびりちびりと飲んで永い四十年間倦きることがなかった。・・・」

 二人が酒を飲んでいたのは、東京でのことであるが、1938年(昭和13年)53歳の時に朔太郎は軽井沢に別荘を借りて住んでいる。先に紹介した三井別荘と思われる。その時のことが同じく「我が愛する詩人の傳記」に記されている。

 「1932年に北沢に彼は遺産で家を建てた。まわりは悉く渋いココア色で塗り潰した家である。彼はこの家で若い第二夫人を迎えた。その年の夏、はじめて軽井沢に別荘を借りて住み、私と萩原は夕方五時半の時間を決めて町の菊屋で落ちあい、ビールを飲んだ。若い時分のくせをこの避暑地でうまく都合つけたのも、よい思いつきであった。彼は五時半には菊屋に現れ、私もその時間におくれずに現れた。そしてビールを二本あけると二人は別れた。彼は若い妻のいる別荘へ、私は自分の家へ、そして私達はそれぞれにあらためて家で晩酌の膳についたのである。併し彼の別荘借りは一年しか続かなかった。」

 萩原朔太郎が借りていたという別荘は、冒頭紹介した「旧三井別荘」のことと思われるが、その位置は次の地図のようであって、ビールを飲んだという菊屋があったであろう軽井沢銀座通りをはさんで、室生犀星の別荘とは反対側に位置しているので、犀星のこの話のようになるのは理解できる。


旧三井別荘と室生犀星の別荘の位置

 萩原朔太郎の年譜「萩原朔太郎全集 第十五巻」(1978年 筑摩書房発行)には、この家の建築と、新妻との別荘生活については次のように記されている。尚、犀星の記述と年譜とでは、新居の住所や軽井沢での別荘生活の期間に相違があるが、これは犀星がその前の住まいの住所と思い違いをしていたり、記憶違いによっているからかもしれない。

 「1931年(昭和6年)46歳、9月、世田谷町下北沢新屋敷1008番地(現在の世田谷区北沢二丁目37番地)へ移り、母ケイ、二児、妹アイと一緒に住む。」

 「1932年(昭和7年)47歳、11月、世田谷区代田1丁目635番地の2(現在の世田谷区代田1丁目6の5の3)所在の土地147坪6を借地し、自己設計の家の建築にかかる。」
 
 「1933年(昭和8年)48歳、1月、代田の家の新築落成。母ケイ、二児、妹アイと共に入居。・・・新居は木造二階建て瓦葺、一階43坪75、一階以外16坪12、計59坪86。」

 「1934年(昭和9年)49歳、9月2日に、軽井沢避暑中の室生犀星に招かれ、犀星と沓掛などに遊ぶ。」

 「1938年(昭和13年)53歳、4月、北原白秋夫妻の媒酌で、大谷美津子(当時27歳)と結婚するも入籍せず。 7月から9月まで、室生犀星の斡旋で三井の別荘を借り、美津子夫人と軽井沢に滞在。」

 室生犀星の目で見た軽井沢での萩原朔太郎についてはこれくらいであるが、朔太郎自身は室生犀星について、合わせて11編の作品を残していることが、全集には記されている。しかし、朔太郎が軽井沢で借りて過ごしたとされる三井別荘での生活のようすなどはうかがい知ることができない。その三井別荘は現在解体の危機に直面している。解体と共に朔太郎の僅かな軽井沢との繋がりも消えてしまうのだろうか。

 次に、軽井沢と直接の関係ではないが、本ブログの隠されたテーマである3Dすなわちステレオ写真と萩原朔太郎について興味深い話題があるので紹介する。

 私がこの事を知ったきっかけは、ずいぶん前に読んだ雑誌「サライ」の「文士に学ぶカメラ道」という特集記事であった。これは文士とその愛用のカメラについてのもので、この中に大佛次郎、向田邦子、永井荷風、松本清張、池波正太郎らと共に、萩原朔太郎が紹介されていた。

 萩原朔太郎が愛用したカメラはステレオカメラで、彼が撮影したステレオ写真も数点紹介されていた。ステレオカメラ・写真を愛好した文士というのは、後にも先にもこの萩原朔太郎くらいで、強く記憶に残っていた。


雑誌「サライ」2009年2月5日号の表紙
 
 「サライ」の記事を改めて読んでみると、群馬県の前橋文学館には朔太郎の遺蔵書として「写真術全書」、「実地応用最新素人写真述」が含まれているとあり、朔太郎が使っていた立体写真のネガ乾板と日光写真の器具などもここに収蔵されている。また、関東大震災直後の被災地の様子を撮影したステレオ写真もその中に含まれる。

 残念なことに、ステレオ写真を撮影した、肝心のカメラは残されておらず、詳しいことは不明だが、彼が書き残した「僕の写真機」(アサヒカメラ昭和14年10月号掲載のエッセイ)の文章があることから、関係者は「朔太郎の撮影した写真には『TOKIOSCOPE』と刻印されたものがいくつかある。これからフランス製立体写真機の『ベラスコープ』を模して製造された国産カメラ『トキオスコープ』を使用したことがわかる。」としている。

 この他に、朔太郎がステレオ写真を愛好したことを示す記述を探してみると、萩原朔太郎全集(筑摩書房発行)の年譜の方には記載がないものの、同全集第十一巻には、先の「僕の写真機」が収められており、同じく全集第十五巻の巻頭に次の文章と数枚の写真が紹介されている。

 「若い時から朔太郎にはカメラ趣味があり、前橋の風物、東京の大森・馬込、旅行地などの写真が相当数遺っている。妹たちと利根河畔に遊んだ日の利根川の鉄橋風景や、時報の櫓は、その遺品中のもので、今では二枚とも古い前橋の姿を伝える珍しい写真である。」

 また、ウィキペディア「萩原朔太郎」の「人物・その他」の項には、1902年(明治35年)16歳の頃のこととして、次の記述があって、ステレオカメラの機種に関しては「サライ」の記事とはやや異なる見解があることを紹介している(注:ここには16歳とあるが後述の年譜では当時の年齢の数え方に合わせて17歳としている)。

 「16歳の時最初のカメラを買って写真を始めた。この時従兄である萩原栄次の日記に『朔ちゃんが六五銭の写真機を買って来て、屋根の上から釣鐘堂を撮す』とある。
 この頃はパノラマでない通常の、おそらく軽便写真器を使っていたが、明治期に撮影されたと思われるステレオ写真乾板も存在することから写真を始めて10年程ですでにステレオカメラを入手し、その後は特にパノラマ写真を好んだ。ステレオカメラに詳しい島和也によれば使ったカメラはジュール・リシャールのヴェラスコープではないかという。前橋文学館に45×107mm判写真乾板が展示されている。 これらの写真は妹の幸子の家で1972年に発見され、前橋市立文化会館館長で若い頃から朔太郎の詩に魅せられ研究を続けていた野口武久の元に持ち込まれ、7年をかけて撮影年代や場所を特定され、1979年『萩原朔太郎撮影写真集』として出版され、また再編集の上で1994年10月『萩原朔太郎写真作品-のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景』として出版された。」

 ここに紹介されている本「萩原朔太郎写真作品-のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景」(新潮社発行)を入手することができた。表紙と帯のデザインは次のようである。




「萩原朔太郎写真作品-のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景」の表紙とその帯

 この本には、朔太郎が撮影したステレオ・ペアを含む写真と共に、前出の「僕の写真機」、朔太郎の長女・萩原葉子さんの「父と立体写真」、葉子さんの子息・萩原朔美さんの「四角い遊具の寂しさ」というエッセイが載せられている。それぞれの文章から、朔太郎がステレオ写真に抱いていた思いを知ることのできる箇所を引用すると次のようである。

 「寫眞といふものに、一時熱中したことがあった。しかし僕の寫眞機は、普通のカメラと大いに変わったものであった。・・・レンズが二つあって、それが左右同時に開閉し、一枚の細長い乾板に、二つの同じやうな絵が寫るのである。これを陽画にしてから、特殊のノゾキ眼鏡に入れてみると左右二つの絵が一緒に重なり、立体的に浮き上がって見えるのである。と言えば、すぐ読者にも解るであらうが、つまり僕の愛玩した寫眞機は、日本で俗に双眼寫真と呼んでる、仏蘭西製のステレオスコープなのであった。
 このステレオスコープは、日本に来てから随分古い年代が経ち、既に明治初年時代にさへ、大形の物が輸入されていたにかかわらず、どういふわけか、日本では一向に流行しない。僕がこんな機器を持っていることさへ友人たちは軽蔑して、何んだそんな玩具みたいなものをといふ。・・・

 とにかく僕にとっては、このステレオスコープだけが、唯一無二の好伴侶だったのである。・・・
  
 元来、僕が写真機を持つてゐるのは、記録写真のメモリィを作る為でもなく、また所謂芸術写真を写す為でもない。一言にして尽せば、僕はその器械の光学的な作用をかりて、自然の風物の中に反映されてる、自分の心の郷愁が写したいのだ。僕の心の中には、昔から一種の郷愁が巣を食つてる。それは俳句の所謂「佗びしをり」のやうなものでもあるし、幼い日に聴いた母の子守唄のやうでもあるし、無限へのロマンチックな思慕でもあるし、もつとやるせない心の哀切な歌でもある。そしてかかる僕の郷愁を写すためには、ステレオの立体写真にまさるものがないのである。・・・

 僕は今でも、昔ながらのステレオスコープを愛蔵してゐる。だが事変の起る少し前から、全くその特殊なフィルムや乾板の輸入が絶え、たださへ入手困難だった材料が、いよいよ絶望的に得られなくなってしまった。その上にカメラも破損し、安価の玩弄品以外には、新しい機械を買ふことができなくなった。これは僕にとって、いささか寂しいことである。」(「僕の写真機」)

 「父が写真に興味を持ったのは明治三十五年中学生の頃で、写真機を当時六十五銭で買ったそうだが、翌年五月大阪の父の実家へ行った時には、もう立体写真機で、風景を撮ったりしていた。・・・私は、もしかすると小学生の頃から撮っていたかも分らないと思う。・・・
 中学時代から、晩年まで立体写真を覗き(外国製の既製品の写真も覗いていた)、亡くなる前、病床に伏してからも枕元に置いてあった。
 立体写真機はレンズが二つあり、それで撮った二枚同じ写真を横長の板に並べてステレオスコープで覗くと、立体に浮き上って見えるのである。
 四百字原稿用紙大くらいの大きさで、厚みは十センチ余りの箱型で(寸法は、はっきりとは覚えていないが)、覗いてみると、風景や人物が浮き上がって見える。・・・」(萩原葉子「父と立体写真」)

 「ステレオ写真機の方は、どんなカメラだったのだろう。・・・
 日本カメラ博物館の『パノラマ&ステレオカメラ展』のカタログを見ると、この時期に入手可能なフランス製ステレオカメラは十台程ある。画面サイズからすると『カルブ・ポシェット』と『ステレオ・フィジオグラフ』、『ステレオ・マリン』、『フォト・ブカン・ステレオ』だ。ただし、残された立体写真用ガラス乾板は4.0x10.6センチ。カタログの中のカメラはどれも4.5x10.7センチなのだ。これも、計測の誤差なのかもしれないが、それも今となっては正解がない。・・・」(萩原朔美「四角い遊具の寂しさ」)

 以上のように、朔太郎が所有していたステレオカメラについては、撮影用のステレオカメラと、撮影後のステレオ写真を見るためのステレオビュワーとが共にステレオスコープというように表現されているようで、混同されているようなところもあり、確かに本人がフランス製と書き残しているのにもかかわらず、関係者はその他の部材から国産と推定したりしているのであろうと思う。

 カメラが破損してしまったという記述もあり、また複数台を所有していたと受け取れる文章もあるので、フランス製のステレオカメラと国産のステレオカメラの両方を持っていたとするのがいいのかもしれない。

 さて、もうひとつ私には思いがけないことがあった。朔太郎が大阪に出かけた時に撮影した、阪急宝塚線「石橋駅」のステレオ写真がこの本に掲載されていたのである。石橋駅は私が学生時代に乗り降りをしていた駅であるし、一時期は近くに下宿生活をしていた場所でもある。当時、このことを知っていたら、又違った目でこの石橋駅周辺を眺めていたかと思う。

 ところで、ここで、私が撮影した2組のステレオ写真のペアを見ていただく。最初は今年改修工事が終了したばかりの室生犀星記念館。もう1組は朔太郎と犀星が歩いた軽井沢銀座である。ステレオペアは交差法と平行法で配置しているので、立体視のできる方は挑戦していただきたい。


室生犀星記念館のステレオ写真(2019.9.12 撮影、ステレオ・ペアは交差法で配置)


同、平行法で配置


軽井沢銀座通りのステレオ写真(2019.9.12 撮影、ステレオ・ペアは交差法で配置)


同、平行法で配置

最後に、略年譜を記して本稿を終る。

略年譜

萩原朔太郎
・1886年(明治19年)1歳
 11月1日、群馬県東群馬郡前橋北曲輪町69番地(のちの前橋市北曲輪町⦅現・千代田町二丁目一番十七号⦆)に、開業医の父・密蔵(35歳、大阪出身)母・ケイ(20歳、群馬出身)の長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名された。
・1890年(明治23年)5歳
 妹(長女)ワカ誕生。
・1893年(明治26年)8歳
 群馬県尋常師範学校附属小学校に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、「学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。」と孤独を好み、一人でハーモニカや手風琴などを楽しんだ。
・1894年(明治27年)9歳
 妹(次女)ユキ誕生。
・1900年(明治33年)15歳
 旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)入学。妹(三女)み祢誕生。
・1903年(明治36年)18歳
 与謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首掲載され、石川啄木らと共に「新詩社」の社友となる。
・1904年(明治37年)19歳
 妹(五女)アイ誕生
・1906年(明治39年)21歳
 3月、群馬県立前橋中学校卒業。4月、前橋中学校補習科入学。9月、早稲田中学校補習科入学。
・1907年(明治40年)22歳
 7月、高等学校入学試験を受験、第五高等学校に合格。9月、熊本にある第五高等学校第一部乙類(英語文科)に入学。
・1908年(明治41年)23歳
 9月、岡山にある第六高等学校第一部丙類(ドイツ語文科)に転校。
・1909年(明治42年)24歳
 岡山高等学校を第一学年で落第。
・1910年(明治43年)25歳
 4月、六高に籍を残しつつ慶應義塾大学予科一年(J組)に入学するも直後に退学。同年の夏頃にチフスにかかり、帰郷し5月、六高を退学する。6月、大逆事件の群馬県下への波及により、朔太郎の知人坂梨春水が逮捕される。10月、妹ユキ、津久井惣次郎(医師)に嫁ぐ。
・1911年(明治44年)26歳
 慶応義塾大学部予科一年(B組)に再入学する。11月、慶大予科を中途退学。津久井惣次郎・ユキ前橋に帰住し、惣次郎は萩原医院の仕事をした。
・1913年(大正2年)28歳、
 北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の詩を発表、詩人として出発し、そこで室生犀星作品に感動して手紙を送り、生涯の友となる。
・1914年(大正3年)29歳
 東京生活を切り上げて帰郷し、屋敷を改造して書斎とする。6月に室生犀星が前橋を訪れ、そこで山村暮鳥と3人で詩・宗教・音楽の 研究を目的とする「人魚詩社」を設立。
・1915年(大正4年)30歳、
 1月、北原白秋が前橋を訪問し、萩原家に滞在。3月、室生犀星、山村暮鳥、萩原朔太郎の3人により、人魚詩社から詩集誌『卓上噴水』創刊。誌名は犀星による。5月、金沢に犀星を訪問。10月、犀星前橋を訪問。
・1916年(大正5年)31歳、
 春頃から自宅で毎週一回の「詩と音楽の研究会」を開き、6月に室生犀星との2人雑誌『感情』を創刊。
・1917年(大正6年)32歳、
 第一詩集『月に吠える』を感情詩社と白日社共刊により自費出版で刊行。北原白秋の斡旋による縁談の見合いに上京。
・1918年(大正7年)33歳、
 『感情』に詩3編を発表したのを境に、作品発表を中断。前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催し、前橋在住の詩人歌人たちと「文芸座談会」を設ける。
・1919年(大正8年)34歳、
 5月、上田稲子(21歳)と結婚。6月、若山牧水来訪。父密蔵(68歳)が老齢のため開業医をやめ、津久井惣次郎が「津久井医院」を開業。
・1920年(大正9年)35歳
 9月、長女葉子誕生。
・1921年(大正10年)36歳
 7月、室生犀星に電報で軽井沢駅に招かれ、共に妙高山麓の赤倉温泉に遊ぶ。12月、妹み祢、碓氷郡安中町の星野幹夫に嫁ぐ。
・1922年(大正11年)37歳
 3月、詩集『月に吠える』アルスより再版。風俗壊乱の理由で初版では削除されていた二編を収録。4月、『新しき欲情』を刊行。9月、次女明子(あきらこ)誕生。8月、室生犀星と伊香保へ赴き、軽井沢に遊ぶ。
・1923年(大正12年)38歳
 1月詩集『青猫』刊行、7月『蝶を夢む』を刊行し、8月には妹ユキ、アイと谷崎潤一郎を訪問。
・1924年(大正13年)39歳
 2月に雑誌『新興』創刊号に発表した「情緒と理念」により同誌が発売禁止となる。直接の理由は軍国主義の虚妄を衝いた「ある野戦病院に於ての出来事」。5月、妹津久井ユキと関西を旅行。
・1925年(大正14年)40歳
 2月、妻と娘二人を伴い上京し、東京府下荏原郡大井町6170番地(現・品川区西大井5丁目)へ移り住む。4月、東京市外田端町311番地(現・北区田端2丁目)へ移転、近隣の芥川龍之介や室生犀星と頻繁に往来する。犀星とは毎日のように会う。8月、妹ユキ、アイと共に軽井沢に行き、つるや旅館滞在中の室生犀星を訪問。芥川龍之介、堀辰雄らと遊ぶ。次いで四萬温泉に行く。。雑誌『日本詩人』の編集を、後に妹・アイが嫁ぐ佐藤惣之助と担当。11月、妻稲子の健康回復のため鎌倉町材木座に転居。
・1926年(昭和元年)41歳、
 三好達治、堀辰雄、梶井基次郎などの書生や門人を多く抱えるようになる。三好達治は朔太郎の4人いた妹の末っ子アイに求婚するが断られ、のちにアイが再々婚した佐藤惣之助に先立たれると、妻を離縁しアイを妻として三国町で暮らすが、まもなく離縁する。11月、東京府下荏原郡馬込村平張1320番地(現・大田区南馬込三丁目二十三番)へ移る。
・1927年(昭和2年)42歳
 7月、湯ヶ島温泉滞在中、朝食時に芥川龍之介の自殺を知る、10月、朔太郎の奨めで三好達治、大森へ来住し、爾後晩年にいたるまで親しく交わる。
・1928年(昭和3年)43歳
 11月、稲子夫人の紹介で、室生犀星、大森谷中1077へ来住。互に近隣住居となり、犀星、朔太郎は田端時代に似て再び頻繁に往来。
・1929年(昭和4年)44歳
 2月-3月、室生犀星と帝国劇場、中央映画社試写会、浅草の映画館などに出かけ、その帰りなどに頻繁に飲み歩く。7月、離婚決意を室生犀星あて書簡に書く。同月末、稲子夫人(31歳)と離別。娘二人を伴い前橋の実家に帰り、離婚と家庭崩壊の苦悩により生活が荒廃し始める。10月、『虚妄の正義』を刊行。11月、単身上京、赤坂区檜町六番地(現・港区赤坂八丁目)のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。父発病、重態となり前橋に帰る。12月、東京定住を決め、妹アイと住む借家をさがす。
・1930年(昭和5年)45歳
 7月、父密蔵死去(78歳)。10月、妹アイとともに上京、牛込区市谷台町十三番地(現・新宿区市ヶ谷台町十三番地)に居住。
・1931年(昭和6年)46歳
 5月、万葉集から新古今集にいたる和歌・437首の解説を中心とする『恋愛名歌集』を刊行。9月、世田谷町下北沢新屋敷1008番地(現在の世田谷区北沢二丁目37番地)へ移り、母ケイ、二児、妹アイと一緒に住む。このころ江戸川乱歩を知る。
・1932年(昭和7年)47歳
 4月、室生犀星、大森区馬込町東三の七六三に新築移転。犀星に家を建てることを奨められる。11月、世田谷区代田1丁目635番地の2(現在の世田谷区代田1丁目6の5の3)所在の土地147坪6を借地し(地代月17円71銭)、自己設計の家の建築にかかる。
・1933年(昭和8年)48歳、
 1月、代田の家の新築落成。母ケイ、二児、妹アイと共に入居。個人雑誌『生理』を発刊。ここで、与謝蕪村や松尾芭蕉など、古典の詩論を発表し、日本の伝統詩に回帰した。 10月、妹アイ、佐藤惣之助に嫁ぐ。
・1934年(昭和9年)49歳、
 6月、詩集『氷島』を刊行。同年7月に明治大学文芸科講師となり、詩の講義を担当するようになる。9月、軽井沢避暑中の室生犀星に招かれ、犀星と沓掛などに遊ぶ。10月、室生犀星の斡旋で再婚話がほとんど決定したが、結局まとまらず。12月ころ、一人の女性と交渉があったが、同女はその後昭和十二年頃死去。この女性には犀星は一度も会っていないという。
・1935年(昭和10年)50歳、
 4月『純正詩論』、10月『絶望の逃走』、11月には『猫町』を刊行。自らが発起人となって伊東静雄の出版記念会を行った。
・1936年(昭和11年)51歳、
 3月『郷愁の詩人与謝蕪村』、5月随筆論評集『廊下と室房』を刊行。前年に雑誌『文学界』に連載した「詩壇時評」により、第八回文学界賞を受ける。10月に「詩歌懇和会」が設立されると役員となる。
・1937年(昭和12年)52歳、
 2月、上毛新聞主宰の「萩原朔太郎歓迎座談会」に出席し帰郷。同月下旬、大谷忠一郎の斡旋で、結婚の見合いのため福島県白河市に赴く。朔太郎は見合いの相手よりも、お茶を運んできた忠一郎の妹美津子に強く惹かれた。3月、大谷美津子に正式に結婚を申し込み、同女より交際をした上でという返事を受ける。「透谷会」の創立発起人となり、9月に「透谷文学賞」が設立されると、島崎藤村・戸川秋骨・武者小路実篤と共に選考委員となる。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになる。
・1938年(昭和13年)53歳、
 1月、「新日本文化の会」の機関紙『新日本』を創刊。3月、『日本への回帰』を発表して日本主義を主張し、一部から国粋主義者と批判される。雑誌『日本』に「詩の鑑賞」を執筆した。4月、北原白秋夫妻の媒酌で、大谷美津子(当時27歳)と結婚するも入籍せず。7月から9月まで、室生犀星の斡旋で三井の別荘を借り、美津子夫人と軽井沢に滞在。
・1939年(昭和14年)54歳、
 2月、美津子夫人、萩原家を出て東京四谷区に住む。朔太郎はそこで原稿を書いた。その後、美津子夫人は二・三ヵ所ほどに移り住み、そこへ朔太郎は通った。萩原家、朔太郎、美津子夫人の間が円滑でなかった模様。11月、バノンの会(正式名・詩の研究講義の会)を結成。9月『宿命』を刊行。
・1940年(昭和15年)55歳、
 『帰郷者』(第四回透谷文学賞受章)、『港にて』を刊行し、10月『阿帯』を刊行する。この頃から身体に変調を感じ始める。
・1941年(昭和16年)56歳
 8月、妹・津久井ユキ宛ての書簡で健康に変調があることを告げ、その後津久井医師の診察を受けるも、格別の病状は認められなかった。9月、明治大学文藝科の講義を、三好達治に代講をあおぐ。
・1942年(昭和17年)57歳、
 4月末付で明治大学講師を辞任。同年5月11日に急性肺炎で世田谷の自宅にて57歳で死去。墓所は前橋市榎町政淳寺。法名は光英院釈文昭居士。



追記(2019.10.10):冒頭紹介した旧三井別荘が解体されたと、地元の「軽井沢新聞」(2019年10月10日号)が報じた。



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軽井沢文学散歩(7)北原白秋

2019-07-19 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢というとすぐに思い浮かぶものの一つに、カラマツがある。町内全域にカラマツは多く植えられているが、特に三笠通りにあるカラマツ並木は美しく、人気の場所になっていて、観光案内のパンフレットにも記されている。


観光地図・軽井沢エリアガイドに紹介されている三笠通りのからまつ並木


三笠通りのカラマツ並木(2019.7.10 撮影)

 先日、福岡から訪ねてきた友人の奥様が、「カラマツの林の下で『落葉松』の歌を歌いたい!」と言われたので、この三笠通りに案内したことがあった。彼女の所属している合唱団の発表会が近く開かれ、そこでこの『落葉松』を歌うということであった。

 駐車場の関係で、旧三笠ホテルの近くに案内し、ここで思う存分歌っていただいたが、「念願が叶い、とても気持ちよく歌えました」と言っていただいた。


三笠通りの並木の中で『落葉松』を歌うN夫人(2019.5.12 撮影)


旧三笠ホテル(2019.5.12 撮影)

 軽井沢には、母を何度か連れてくることがあった。すると、いつも決まったように「シラカバの林を過ぎて・・・」と詩の一節を口ずさむのであるが、そのつど妻に、「お母さん、それは『カラマツの林を過ぎてですよ・・・』」と正されていた。どうも、どこかでシラカバとカラマツとを取り違えて覚えてしまっていたようである。

 この「カラマツの林を過ぎて・・・」はもちろん、北原白秋の詩である。母が、どこまで覚えていたのか知らないが、全文は次のとおりで思いのほか長い。

北原白秋「落葉松」全文


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。


からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。


からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。


からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。


からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。


からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。


からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。


世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

 北原白秋がこの詩を作ったのは、1921年(大正10年)のことで、軽井沢滞在中、朝夕菊子夫人と落葉松林を散策し想を得て、同年11月の「明星」にこの『落葉松』の詩を「誌二十五章」の題で発表したとされる(「軽井沢文学散歩」⦅1995年 軽井沢町編・発行⦆に一部筆者追記)。

 また、年譜(白秋全集別巻 1988年 岩波書店発行)にはこの時のことは次のように記されている。
 「8月2日から軽井沢星野温泉で開かれていた『自由教育夏季講習会』に三日目から出講、児童自由詩について講話。他の講師に、山本鼎、山崎省三、鈴木三重吉、巖谷小波、島崎藤村、沖野岩三郎、弘田竜太郎らがおり、内村鑑三も飛び入りで講話。全国から百名以上の参加者があった。山本鼎の別荘に宿泊。」とある。

 現在、中軽井沢の、星野温泉入口の右側、ハルニレテラスにつながる遊歩道の脇に北原白秋の文学碑がある。これは、軽井沢町が北原白秋の詩業をたたえ、これを永遠に伝えるべく白秋ゆかりのこの地に詩碑を建設したもので、1969年(昭和44年)6月、カラマツの新緑の美しい頃のことである。


星野温泉の入り口、遊歩道脇にある北原白秋文学碑(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑に刻まれている「落葉松」の詩全文(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑に刻まれている「落葉松」の第八節(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑背面に刻まれている設立趣意文(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑脇に設けられている解説パネル(2019.7.10 撮影)


 自然石でできているこの碑には、落葉松の詩の全文が活字体で、また詩の最後の第八節が白秋の自筆で銅板に刻され、はめこまれている。

 こうしたことを見ると北原白秋と軽井沢とは随分関係が深いように思えるが、実際には北原白秋と軽井沢とのつながりは、それほどではないようで、この詩作のほかに白秋全集の年譜を探しても、関連した出来事は僅かで、唯一1923年(大正12年)に次の記述があるのみであった。
 「4月14日、妻子を連れ信州へ出発。翌5日、信州大屋の農民美術研究所の開所式に出席、その晩から小杉未醒、平福百穂、倉田白羊らと別所温泉柏屋別荘に二泊。(軽井沢の)追分油屋に五泊後、22日から沓掛の星野温泉に滞在。熊の平から坂本まで碓氷峠の旧道を一人で徒歩で下り、妻子と合流。帰途前橋の萩原朔太郎を訪問、一泊する。萩原家では、日の丸を掲げて歓迎。」とある。

 ウィキペディアの年譜(ウィキペディア 2019年5月6日)を見ると、これより前、白秋が28歳の時に、「1913年(大正2年)、長野県佐久のホテルに逗留し、執筆活動を行った。」と記されている。このホテルとは「佐久ホテル」のことで、信州でも最古の温泉宿で、創業1428年、開湯600年に迫る歴史の湯とされている温泉「旭湯」で知られているところである。

 このことは、佐久商工会議所発行記念誌の「暖簾~時を繋いで佐久に生きる~」欄・「佐久ホテル」の項に記されていて、次のようである。

 「・・・佐久ホテルの年表には蒼々たる武将、文化人、皇室関係、政治化などの名前が連なる。古くは武田信玄の名があり、『信玄直筆自画図』が保管されている。文化人では、小林一茶、葛飾北斎、老南堂、島崎藤村、柳田国男、北原白秋、若山牧水、萩原井泉水、種田山頭火、佐藤春夫などが宿泊。皇室は高円宮妃殿下などが来館されている。また昭和60年に解体されたが明治天皇の専用室もあった。・・・」

 軽井沢とはすぐ近くの佐久であるが、この頃はまだ軽井沢に多くの文士が集まるという状況ではなかったようである。

 室生犀星が軽井沢に別荘を建てたのが1931年、堀辰雄が初の住まいを得たのが1938年、正宗白鳥が別荘を建設したのが1940年である。室生犀星の別荘には、志賀直哉、川端康成、津村信夫、立原道造などが出入りしていたとの記録はあるが、北原白秋の名前を見つけることはできない。

 いつもの明治・大正期の文士の表中での北原白秋の位置を見ておくと次のようである。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の北原白秋(赤で示す)と、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥、津村信夫と有島武郎(黄で示す)

 軽井沢との関係を探っていくと、専ら室生犀星との個人的なつながりが見えてくる。

 室生犀星は、著書「我が愛する詩人の傳記」(1958年 中央公論社発行)で第一番に北原白秋を紹介している。書き出しは次のように始まっている。

 「明治42年3月、北原白秋の処女詩集『邪宗門』が自費出版された。早速私は注文したが、金沢市では一冊きりしかこの『邪宗門』は、本屋の飾り棚に届いていなかった。当時、北原白秋は25歳であり私は21歳であった。金沢から二里離れた金岩町の裁判所出張所に私は勤め、月給八円を貰っていた。月給八円の男が一円五十銭の本を取り寄せて購読するのに、少しも高価だと思わないばかりか、毎日曜日ごとに金沢の本屋に行っては、発行はまだかと言うふうに急がし、それが刊行されるといばってまちじゅうを抱えて歩いたものである。誰一人としてそんな詩集なぞに目もくれる人はいない、彼奴は菓子折りを抱えて何の気で町をうろついているのだろうと、思われたくらいである。
 処女詩集『邪宗門』を開いて読んでも、ちんぷんかんぷん何を表象しているのか解らなかった。・・・泥臭い田舎の青書生の学問では解るはずがなく、私は菓子折りのような石井柏亭装丁の美しい詩集をなでさすって、解らないまま解る顔をして読んでいた。
 それから47年もたった今日、『邪宗門』をふたたび精読してみて、邪宗門秘曲一連の詩はやはり昔とおなじで、解らないものがあった。・・・」

 室生犀星は続いて、北原白秋への思いを次のように記している。

 「明治44年の6月に第二詩集『思ひ出』が、自費出版ではなく美しい装丁本となって、その時代の華やかな詩歌集出版元である東雲堂という書店から出版された。『思ひ出』一巻にあふれた抒情詩はすべて女の子に、呼吸をひそめて物言うような世にもあえかな詩情からなり立っていて、島崎藤村、薄田泣菫、横瀬夜雨、伊良子清白、河井酔茗、与謝野晶子らの詩境から、ずっと抜け出した秀才の詩集であった。・・・」

 「・・・明治44年頃の私の毎日の日課は一日に一度ずつの、本屋訪問が抜き差しならぬ文学展望の形になっていた。私はそこで四六判の横を長くしたような東雲堂発行の『朱欒』(ザムボア*)という、白秋編輯の詩の雑誌を見つけた。そして私は白秋宛に書きためてあった詩の中から、小景異情という短章からなる詩の原稿を送った。例の《ふるさとは遠きにありてうたふもの》という詩も、その原稿の中の一章であった。もちろん、返事はないが翌月の『朱欒』に一章の削減もなく全稿が掲載され、私はめまいと躍動を感じて白秋に感謝の手紙を送った。・・・」(*筆者注:ザムボアとは柑橘類のザボンのこと)

 この後、室生犀星は『朱欒』への詩の投稿を通じ、萩原朔太郎を知ることとなる。そして、友情は朔太郎が犀星よりも先に死去するまで続く。北原白秋とこの二人の関係については、後年の次のような犀星と娘とのやり取りを紹介している。

 「この間家の娘がいったいお父チャンには、小説を書くのに先生がいたのかどうかと、これだけは聞いて置かなければならないというシンケンな顔付で訊ねた。私曰く、お父チャンは小説の原稿をえらい小説の大家に見て貰ったことは一度もない、お父チャンは小説というものは何時も一人で考えて書いたのだと私は説明した。では詩の先生はいやはりますかと言ったから、詩はやはり北原白秋が先生みたいなものだ。白秋が生きている時分は大きな声でいうと、白秋におべんちゃらを言うているようであかんと思うたが、今になると萩原朔太郎と私とはなんといっても白秋の弟子だ、原稿の字は一字もなおして貰わなかったが、白秋のたくさんの詩のちすじがからだに入って、それが萩原と私にあとをひいている、これほど明確な師弟関係はない、白秋も生前にはこの二人を弟子なんぞと言うには、息子が大きくなりすぎているのであれはあれの好き勝手にさせておけばいいんだよと、弟子とはよんでくれなかった。しかし、おれのほねを拾うやつはこの二人の男だ、あれらはちすじをひくことでは間違いのない人だと、白秋は夫人にもそれは言わないで頭に持ったままで、死んでしまわれた。そして一人の兄弟萩原朔太郎も残念にも私より先きに死んで行った。私はこの伝記だかなんだかわからないものを書くために、白秋アルバムと白秋全集を併読しながら写真にある白秋の顔を毎日眺めていた。気難しくやさしく、小僧、大きくなって宜かったよかった、今度はがらになく伝記と来たね、丹念にうまく書けよと、開く頁の先々で顔を見せられた。・・・」

 このように、北原白秋は室生犀星にとり、師であり兄貴であったようだ。しかし、軽井沢という地での交流となると何も見えてこない。

 この「我が愛する詩人の傳記」の中で、犀星は白秋の日常を様々に紹介しているが、それらは白秋の次の略年譜に譲ることとして、本稿を終わろうと思う。

 尚、冒頭で紹介したN夫人の歌った「落葉松」は、作詩:野上彰、作曲:小林秀雄によるもので、北原白秋の詩ではもちろんなく、次のようなものである。

落葉松の秋の雨に
わたしの手が濡れる

落葉松の夜の雨に
わたしの心が濡れる

落葉松の陽のある雨に
わたしの思い出が濡れる

落葉松の小鳥の雨に
わたしの乾いた眼がぬれる

では、年譜(年齢は当時の数え方による)。

・1885年(明治18年)1歳 
  1月25日(戸籍上は2月25日)、福岡県山門郡沖端村(現、柳川市沖端町)に、父・長太郎(当時29歳)、母・しけ(通称しげ、当時25歳)の長男(戸籍上は次男)として生まれた。本名隆吉。
  実際には母の実家で生まれ、1か月後に母と柳川に帰り、出生を届け出。長太郎・しけの最初の子である隆吉は、戸籍上は次男だが、先妻の子豊太郎が夭折したため、事実上は長男として育てられた。
  母しけは、長太郎の三度目の妻に当たる。
・1887年(明治20年)2歳
  夏、チフスに感染、一命はとりとめたが、乳母シカがチフスに感染して死去。二人目の乳母が来る。
  9月5日、弟・鉄雄誕生。
・1890年(明治23年)5歳
  7月20日、妹ちか誕生。
・1891年(明治24年)6歳
  4月、矢留尋常小学校に入学。
  この年から、異母姉かよと、南町の青木フヂの私塾に通い、習字を習い始める。
・1893年(明治26年)8歳
  5月17日、妹いゑ誕生。
・1895年(明治28年)10歳
  3月、矢留尋常小学校を卒業。
  4月、柳河高等小学校(当時四年制)に入学。
・1896年(明治29年)11歳
  1月31日、弟義雄誕生。
・1897年(明治30年)12歳
  柳河高等小学校二年修了で中学校の試験に合格、県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)に入学。
・1899年(明治32年)14歳
  3月、三年進級に際し、二番の成績にもかかわらず、数学一科目が及第点に満たず落第。この頃より詩歌に熱中し、雑誌『文庫』『明星』などを濫読する。ことに明星派に傾倒したとされている。
・1901年(明治34年)16歳
  沖端の大火の際に、川向うからの飛火によって北原家の酒蔵が全焼し、以降家産が傾き始める。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年、友人たちと「白」の下に一字を置く雅号を定め、籤で「秋」の字を引き当てて「白秋」の号を用い始める。
・1904年(明治37年)19歳
  親友の中島鎮夫が「露探」(筆者注:ロシアの軍事スパイ)の嫌疑を受け、白秋宛ての遺書を残して自刃。衝撃を受けた白秋は長編詩『林下の黙想』の執筆に打ち込む。この詩が河井醉茗の称揚するところとなり、『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好みによって若山牧水と親しく交わるようになる。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。
・1907年(明治40年)22歳
  鉄幹らと九州に遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味に目覚める。また森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。
・1909年(明治42年)24歳
  3月15日、処女詩集『邪宗門』を易風社より刊行。装幀石井柏亭。12月下旬、生家破産のため急遽帰郷。
・1910年(明治43年)25歳
  2月20日付の、『屋上庭園』第二号に発表した白秋の詩『おかる勘平』が風俗壊乱にあたるとされ、発禁処分を受け、同誌は二冊で年内に廃刊となった。またこの年、松下俊子(名張市の医師の娘、後述)の隣家に転居。(東京原宿)。
・1911年(明治44年)26歳
  第二詩集『思ひ出』刊行。故郷柳川と破産した実家に捧げられた懐旧の情が高く評価され、一躍文名は高くなる。また文芸誌『朱欒』(ザムボア)を創行。
・1912年(明治45年 / 大正元年)27歳
  母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京する。
  白秋は隣家にいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられたが、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。
・1913年(大正2年)28歳
  初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行。春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引き揚げる。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品であるという。『朱欒』廃刊。発行期間は短かったが、萩原朔太郎や室生犀星が詩壇に登場する足がかりとなった。その年、長野県佐久のホテルに逗留。
・1914年(大正3年)29歳
  肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。『真珠抄』『白金之独楽』刊行。また『地上巡礼』創刊。
・1915年(大正4年)30歳
  前橋に萩原朔太郎を訪う。弟・鉄雄と阿蘭陀書房を創立し、雑誌『ARS』を創刊。さらに詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』刊行。
・1916年(大正5年)31歳
  詩人の江口章子と結婚し、東京・小岩町の紫烟草舎に転居。『白秋小品』を刊行する。
・1917年(大正6年)32歳
  阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。
・1920年(大正9年)35歳
  『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。白秋が妻の不貞を疑い章子と離婚。
・1921年(大正10年)36歳
  佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚。軽井沢滞在中想を得て、『落葉松』を発表する。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。
・1922年(大正11年)37歳
  長男・隆太郎誕生。文化学院で講師となる。また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。歌謡集『日本の笛』などを刊行。
・1923年(大正12年)38歳
  三崎、信州、千葉、塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災によりアルス社が罹災し、山荘も半壊する。
・1925年(大正14年)40歳
  長女・篁子(ドイツ語学者・岩崎英二郎夫人)誕生。樺太、北海道に遊ぶ。童謡集『子供の村』など刊行。
・1930年(昭和5年)45歳
  南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途奈良に立寄り、しきりに家族旅行に出かける。
・1933年(昭和8年)48歳
  皇太子明仁親王誕生の際に、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲:中山晋平)を寄せる。
・1934年(昭和9年)49歳
  『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督府の招聘により台湾に遊ぶ。
・1935年(昭和10年)50歳
  新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。大阪毎日新聞の委託により朝鮮旅行。
・1937年(昭和12年)52歳
  糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし、入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。
・1938年(昭和13年)53歳
  ヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。
・1941年(昭和16年)56歳
  春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、さらに宮崎、奈良を巡遊。またこの年、芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。
・1942年(昭和17年)57歳
  小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日、糖尿病と腎臓病のため阿佐ヶ谷の自宅で逝去。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。






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軽井沢文学散歩(6)有島武郎

2019-05-24 00:00:00 | 軽井沢
 今回は有島武郎。これまで室生犀星(2017.10.13 公開)、堀辰雄(2017.11.10 公開)、立原道造(2018.2.9 公開)、正宗白鳥(2018.6.27 公開)、津村信夫(2019.2.1 公開)と軽井沢ゆかりの作家をとりあげてきた。これらの作家は軽井沢に住み、或いは逗留するなどして、互いに交流している。

 有島武郎については、前出の文士たちとの交流の話は聞かない。軽井沢との縁という点では、1916(大正5)年に父・武の死後譲り受けた軽井沢三笠の別荘に初めて訪れてからは、ほぼ毎年のように避暑に訪れている。代表作の一つとされる『生まれ出る悩み』はこの別荘で執筆された。そのほか軽井沢を舞台にした作品に『小さき影』や『信濃日記』などがある。また軽井沢の夏季大学で2度、講演を行っている。

 しかし、何よりも有島武郎と軽井沢を結び付けているのは、氏が終焉の地に軽井沢を選んだことである。1923(大正12)年6月9日、別荘「浄月庵」で武郎は愛人の波多野秋子と、情死したのであった。現在、三笠の別荘跡には有島武郎終焉地の石碑があり、別荘自体は中軽井沢の軽井沢高原文庫に移築され、その一角は茶房「一房の葡萄」として現在も使用されている。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の有島武郎(赤で示す)と、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥と津村信夫(橙で示す)

 妻と私が軽井沢に移住してくる前に、2年間の期間限定で鎌倉に住んでいたことがあったが、その頃、月に2度くらいのペースで、鎌倉のレストランや居酒屋に出かけていた。

 あるとき、小町通りの少し裏手にある居酒屋風の店に入って飲んでいたところ、若い店主が、自分は有島生馬の孫ですと話してくれた。店の壁には、確かに有島生馬ゆかりの書などが飾られていた。

 有島生馬といえば、有島武郎の弟で、画家であるが、有島武郎が軽井沢にゆかりのある人とは、当時はまだ知らなかった。軽井沢に移住してからは、様々な機会に三笠別荘地に有島武郎の終焉の地があると見聞きすることが多くなっていたが、今回初めて現地を訪れた。

 石碑の場所は:旧軽井沢のロータリーを三笠通りに進み、カラマツ並木を過ぎて、旧三笠ホテルの少し手前の道を右に入るが、この入り口の角に小さな案内板がある。別荘地の中を左にカーブする道路を進むとそれ以上は車では進めなくなり、最後の別荘の前を徒歩で進むと、50mほどで、2番目の案内板が右側に目に入る。ここを右に折れて、50mほどゆるい坂道を登ったところに訪ねる石碑がある。


三笠通りからの分岐点にある案内(2019.5.21 撮影)


同拡大(2019.5.21 撮影)


2番目の案内板(2019.5.21 撮影)


緩やかな登り道を進む(2019.5.21 撮影)


登り切った平坦地に2基の石碑がある(2019.5.21 撮影)


有島武郎終焉地碑(2019.5.21 撮影)


同拡大(2019.5.21 撮影)


説明パネル(2019.5.21 撮影)

 中央部に設置されている説明パネルには次のように書かれていて、石碑にはこの詩文が刻まれているとあるが、これは石碑の右側面(向かって左側)に刻まれているもので、とても分かりにくく見過ごしてしまいそうである。この詩は吹田順助著「葦の曲」の中の「混沌の沸乱」からの一節という。

 『昭和28年、有島終焉の地”浄月庵”跡にこの碑が建てられました。この浄月庵とは、旧三笠ホテル近く有島武郎の別荘があったところで、大正12年6月9日、この別荘で愛人波多野秋子と共に自ら生命を絶ったのでした。
 有島生馬の筆により次の詩文が刻まれています。
  大いなる可能性 エラン・ヴィタル 社会の心臓(*エラン・ヴィタルとは生命の飛躍の意。)
  さういふ君は 死んじゃった!運命の奴め 凄い事を しやあがったな!」
  この碑の他に、「チルダへの友情の碑」が英文で同地にあります。』


石碑の右側面に刻まれている詩文(2019.5.21 撮影)


同拡大(2019.5.21 撮影)

 また、石碑の裏面には長方形のくぼみがあって、ここには有島生馬による次の文章が刻まれているというが、こちらも今はほとんど読み取ることができない。

 大正十二年六月九日早暁 浄月庵に滅す
 武郎行年四十六才 波多野秋子三十才
 昭和二十六年夏 有島生馬書
 

石碑の裏面(2019.5.21 撮影)

 ここにあるもう一つの石碑「チルダへの友情の碑」は、有島武郎がスイスのシャフハウゼンの、ホテル・シュヴァネンの娘チルダ・ヘック嬢に宛てた手紙の内容の一部を英文で刻んだもので、次の英文が刻まれている。

 Takeo to Tilda
 Tokyo March 15th 1919

 How is our friendship
 pure+noble+deep.
 Is there annother such
 friendship on earth?
 Tilda, let us keep it dear.
 Let us carry it dear
 to our tomb.
  Tilda 1953


「チルダへの友情の碑」(2019.5.21 撮影)


2基の石碑を見る(2019.5.21 撮影)
 
 この軽井沢・三笠の地は武郎の妹・愛の嫁ぎ先である山本家が三笠ホテルの経営者であったという縁もあって、武郎の父・武が選んだものであったようだ。

 この有島武郎の心中に関して、代表作である「カインの末裔」、「惜しみなく愛は奪う」、「生れ出ずる悩み」、「一房のぶどう」などを知る身としてはとても違和感を覚えるのであるが、当時の受け止め方はどうであったか、「有島武郎集・現代日本文学大系35」(1970年 筑摩書房発行)に掲載されている、作家・広津和郎氏の「有島武郎の心中」から少し引用してみると次のようである。

 「有島武郎氏の例の心中問題については、もう世間の所謂(いわゆる)論者達の議論は、大体出切ってしまったことと思う。私は一々読んでみなかったからどういう名批評があったかは知らないが、併(しか)し大体に於いては、頗(すこぶ)る評判が好かったようだった。・・・相当の知識のある連中でも、『死ぬという事はよくよくの事だ。その死を敢(あえ)て決行したのだから、生きている連中の考えるようなものではない。もっと尊敬すべきものだ』といったようなところに、結局落ちていったようだった。・・・無論その通りだ。よくよく考えたものに違いない。苦悩したに違いない。煩悶したに違いない。それは有島武郎でなくとも、新宿や吉原で心中したものでも、隅田川に飛び込んだものでも、浅間山に飛び込んだものでも、みんな『よくよく考えたものに違いない』。
 けれども・・・よくよく考えて死ぬ人間もいれば、よくよく考えて生きている人間もいれば、又よくよく考えずに死ぬ人間もいれば、よくよく考えずに生きている人間もいる。
 それだからこの『よくよく』などは双方から差引いてしまわないと、物事がこんがらかってくる。こんがらかって来るから、はっきりした事が解らなくなって来る。・・・
 『心中』を道徳的に、又論理的に否定する連中までが、やはりその言葉の端で、有島氏の『死』が『よくよく考えた末の思い詰めたもの』であることに、変な敬意を払っている、そいつが、どうも読んでいて擽(くすぐ)ったい。・・・
 僕には『心中した有島氏』が特に厳粛とも思われないし、平生生きていた時分の有島氏とそう変わったものに思われない。表面の事実は異常であっても、内面の心的意味は特に異常と思われない。・・・
 やっぱり武郎は死んだって不思議はなかったのだし、武郎氏としてはその他に生きる道がなかったのだろう、と云って差支えないように思う。そういう意味は、氏の『心中』を是認したという意味ではない。僕自身の主観的な気持からいえば、僕は氏の『心中』に少しも賛成しない。・・・
 恋人の良人から金をよこせと言われた時、氏は『自分は自分の恋人を金に換えることはできない』ときっぱりと言い放ったそうだ。そして『寧(むし)ろ警視庁に行って、姦通の罪を着よう』と云ったそうだ。ここに、氏の面目躍如たるものがある。氏はこんな風に真実だった。そして実にこの程度のそして段階のみの『真実』しか持合わせていなかった。それだから、結局死んだって無理はないと云うのである。・・・
 平然として相手の男に金を払う。・・・そこまで氏には到底達する事が出来なかった。それは氏の生きていた間に書いたものを読めばよく解る。達することが出来なかったと云って、別に非難するわけには行かない。と同時に、賛美する気にも尊敬する気にも別段なれない。・・・
 愛妻に死に別れた時、再婚を勧めた男に向って、氏は「非凡人」という嘲笑の言葉を以て突撃している。これが、氏の好んだところの「真実」だったのだ。・・・この小さな、狭い「真実」の盲信者が、「最後まで『真実』を追うために死の方へ」行ったということは、決して考えられない事ではない。・・・
 僕は武郎氏の「心中」そのものからは別段何の感動も受けなかった。併(しか)し氏のような性格の人が、生きていた間絶えず感じたに違いない内心の苦しい葛藤については、同情を禁じ得ない。」(大正12年11月)

とあり、その行動の是非はともかくとして、現代では考えにくい事であるが、有島武郎の思想や文学からの必然的な帰結であるとしている。

 有島武郎の思想背景については、やはり年譜を見ておくべきだろう。同じ「有島武郎集・現代日本文学大系35」からの抜粋であるが、概略を次に示す。

 その前に、軽井沢高原文庫に移築された「浄月庵」にも出かけて来たので写真をご覧いただこう。現在、2階部分は有島武郎記念室として公開されていて、1階部分はライブラリーカフェ「一房の葡萄」として利用されている。ただ、この日「一房の葡萄」は閉じられていた。


「浄月庵」は軽井沢高原文庫に移築された(2019.5.21 撮影)


軽井沢高原文庫案内板の拡大(2019.5.21 撮影)


現地に設置されている説明パネル(2019.5.21 撮影)

 「浄月庵」の1階部分はライブラリーカフェ「一房の葡萄」として使用されていて、2階は有島武郎記念室として資料が展示されている。


移築された「浄月庵」(2019.5.21 撮影)


有島武郎の情死を伝える当時の新聞各紙(2019.5.21 撮影)


有島武郎の情死を伝える東京日日新聞の記事の一部(2019.5.21 撮影)


有島武郎の辞世の歌の一つを収めた扁額(2019.5.21 撮影)

 先日訃報が伝えられた京マチ子さんが主演を務めた映画「或る女」のポスターが貼られていた。有島武郎の長男・俳優の森雅之の名前も見える。


映画化された「或る女」のポスター(2019.5.21 撮影)


道を隔てた軽井沢高原文庫からみた「浄月庵」(2019.5.21 撮影)

 では、年譜を見ていこう(年齢は当時の数え方による)。

有島武郎、
・1878年(明治11年)1歳 
 3月4日、東京市小石川区に、父・武(37歳)、母・幸(25歳)の長男として生まれた。
・1880年(明治13年)3歳
 1月2日、妹・愛(長女)出生。
・1881年(明治14年)4歳
 神田区表神保町(現・千代田区)に居住。東京女子師範学校付属幼稚園に通った。
・1882年(明治15年)5歳
 一家は横浜市月岡町(現・中区老松町)の官舎に移る。11月26日、弟・壬生馬(二男・後に生馬と改称)出生。 
・1883年(明治16年)6歳
 三月から妹・愛とともに横浜山手居留地のアメリカ人の家庭で英会話を学ぶ。
・1884年(明治17年)7歳
 2月27日、妹・シマ(二女)出生。八月から愛とともに山手居留地の横浜英和学校(現・成美学園)に入学。
・1885年(明治18年)8歳
 7月15日、弟・隆三(三男)出生(父方の祖母の実家・佐藤家の養子となる)。
・1887年(明治20年)10歳
 横浜英和学校を退き、自牧学舎に入り、学習院入学に備えた。9月、神田錦町の学習院予備科第三年級に編入学。寄宿舎に入り、毎土日曜日に横浜に帰った。
・1888年(明治21年)11歳
 皇太子明宮嘉仁の学友に選ばれ、毎土曜日に吹上御殿に参上した。7月14日、弟英夫(四男、後の里見弴、山内家の養子となる)出生。
・1890年(明治23年)13歳
 9月、学習院中等科に進む。
・1892年(明治25年)15歳
 横浜の旧友を訪ねた時、中年寡婦の誘惑を受けて逃れたが、このことは非常な悪影響を残した。
・1893年(明治26年)16歳
 父・武が大蔵大臣・渡辺国武と政案意見対立し、国債局長を辞職、鎌倉材木座に隠棲した。武郎は愛とともに麴町の家で母方の祖母・山内静の世話を受け、克己一心のきびしいしつけを受けた。
・1896年(明治29年)19歳
 学習院中等科卒業。9月、札幌農学校予科5年に編入学。同校教授・新渡戸稲造の官舎に寄留。毎朝稲造の行っていたバイブル・クラスに加わる。
・1897年(明治30年)20歳
 5月初旬から隔日に曹洞宗中央寺にて参禅。7月予科五年終了、本科に進む。夏季休暇に帰京、増田英一とともに内村鑑三を訪問。父・武が武郎の将来に備えて狩太の農場を入手。12月6日、妹・愛が山本直良と結婚。
・1899年(明治32年)22歳
 森本厚吉と定山渓に行き、死を覚悟したが思いとどまる。これを機縁にキリスト教入信を決意、家人の反対を受ける。
・1901年(明治34年)24歳
 1月、帰京して内村鑑三を訪問、3月24日、独立教会に入会。12月1日、一年志願兵として第一師団歩兵第三聯隊に入営。
・1902年(明治35年)25歳
 11月30日、除隊、予備見習士官となる。
・1903年(明治36年)26歳
 1月、新渡戸稲造から皇太子明宮嘉仁の輔育者に推挙の内談があったが断わる。5月21日、妹・シマが高木喜寛と結婚。7月、稲造から児玉内相の秘書官に勧められたが、これも断る。このころ稲造の姉・河野象子の娘・信子を知る。8月15日、森本厚吉とともに米国留学の途につく。9月、ペンシルヴァニア州ハ―ヴァフォド大学の大学院に入学。経済・歴史を専攻し、日本文明をテーマとする。11月、アーサー・クローウェルの家をアポンデールに訪ね、その妹・フランセスを知る。
・1904年(明治37年)27歳
 2月、日露開戦、深く憂慮しキリスト教信仰を懐疑しはじめる。6月「日本文明の発展-神話時代から将軍家の滅亡まで」を提出し、M・Aの学位を得る。9月29日、ハーバード大学選科入学、歴史・経済を専攻。社会主義者金子喜一を知り、カウツキー、エンゲルスの著作を読む。
・1906年(明治39年)29歳
 4月、阿部三四の恋愛事件に関わり、短銃で脅かされ極度の神経衰弱に陥る。9月1日、ニューヨーク港を発ち、13日、ナポリで壬生馬と落ち合い、二人でヨーロッパを歴訪。11月17日、スイスのシャフハウゼンに到着、ホテル・シュヴァネンの娘チルダ・ヘックを知る。
・1907年(明治40年)30歳
 ひとりロンドンに行き、図書館に通う。2月、ロンドン郊外にクロポトキンを訪問、幸徳秋水への手紙を託される。8月、北海道に赴く。9月1日、予備見習士官として歩兵第三聯隊に入隊、三カ月間勤務。その間、壬生馬の友人・志賀直哉の恋愛事件の調停にあたる。自身も河野信子との結婚を父に反対され、心に痛手を受けた。10月東北帝国大学農科大学(9月昇格の札幌農学校の改称)の英語講師となる。
・1908年(明治41年)31歳
 1月、学長付主事。社会主義研究会を続ける。狩太(かりぶと)の農場が武郎名義となる。4月、大学予科教授。6月、陸軍歩兵少尉(予備役)となる。8月、帰京し、9月、陸軍少尉・神尾光臣次女・安子と婚約。
・1909年(明治42年)32歳
 3月、東京にて神尾安子と結婚。妹・愛の長男・山本直正の病気見舞いに自筆絵入り翻案童話「燕と王子」を書き送る。
・1910年(明治43年)33歳
 4月、『白樺』創刊、弟の壬生馬、里見弴とともに同人参加。札幌独立教会を退会。
・1911年(明治44年)34歳
 1月13日、長男・行光(森雅之)出生。8月20日、皇太子来道の際、北海道庁から危険人物として大学に警告あり、拝謁を拒絶された。
・1912年(明治45年/大正元年)35歳
 7月17日、次男・敏行出生。
・1913年(大正2年)36歳
 8月、新居に移転。12月23日、三男・行三出生。
・1914年(大正3年)37歳
 4月、狩太の94町歩の土地(第二農場と呼称)を買収、農場総面積は439町歩となる。9月下旬、妻・安子肺結核発病。11月下旬、一家帰京し、安子を鎌倉に転地させた。
・1915年(大正4年)38歳
 2月、安子を平塚の杏雲堂病院に入院させた。3月下旬、札幌に行き、農科大学に辞表提出。休職扱い、となる。
・1916年(大正5年)39歳
 8月、妻・安子死去(享年28歳)。12月4日、父・武が胃癌のため死去(享年)75歳。父と妻の死が転機となり、本格的に文学の道に打ちこむようになる。与謝野晶子を知る。
・1917年(大正6年)40歳
 6月、「惜しみなく愛は奪う」、7月、「カインの末裔」、などを次々に発表し、文名にわかに挙がる。8月、「クララの出家」などを続いて発表。4月、有島武郎著作集第一輯『死』を新潮社から出版。12月、著作集第二輯『宣言』を新潮社から出版。同月23日、遺産の一部を弟妹に分配。このころ、神近市子と交際あり。父の遺志として、鹿児島平佐村の田地八反余、畑地五反を平佐村に贈った。
・1918年(大正7年)41歳
 1月、「小さき者へ」を発表。2月、著作集第三輯『カインの末裔』を新潮社から出版。3月、「生まれ出づる悩み」を『大阪毎日新聞』に連載したが病気のため中絶。4月、著作集第四輯『反逆者』を、6月、著作集第五輯『迷路』を新潮社から出版。著作集第六輯『生まれ出づる悩み』を叢文閣から出版。10月、三日から五日間、牛込横寺町の芸術倶楽部にて芸術座研究劇として島村抱月・松井須磨子により「死と其の前後」上演。著作集第七輯『小さき者へ』を叢文閣から刊行。
・1919年(大正8年)42歳
 2月、「松井須磨子の死」を発表。3月、著作集第八輯『或る女』前編を叢文閣から出版。5月、朝日新聞社入社を断る。6月、著作集第九輯『或る女』後編を叢文閣から出版。8月7日、軽井沢の夏季大学課外講演でホイットマンを講じた。12月、著作集第十輯『三部曲』を叢文閣から出版。
・1920年(大正9年)43歳
 6月、著作集第十一輯『惜しみなく愛は奪ふ』を叢文閣から出版。このころ河上肇、倉田百三を知る。同月「信濃日記」を、八月「一房の葡萄」を発表。11月、著作集第十二輯『旅する心』を叢文閣から出版。12月、「運命の訴へ」を書いたが未完、創作力衰える。
・1921年(大正10年)44歳
 4月、著作集第十三輯『小さな灯』を叢文閣から出版。年末、秋田雨雀・藤森成吉・宮島資夫とともに大阪での露国飢饉救済募金講演会に加わったが、官憲の妨害にあって帰京。この時のことを書いた「旅」を『中央公論』に送ったが掲載されなかった。
・1922年(大正11年)45歳
 4月、このころ牛込区原町(現・新宿区)の借家に移り、生活革命の実行に踏み切る。5月、著作集第十四輯『星座』を叢文閣から出版。6月、童話集「一房の葡萄」を叢文閣から出版。7月中旬、北海道に赴き、狩太の有島農場の解放を宣言する(同地の有島農場解放記念碑建立は大正13年9月12日、「有限責任狩太共生農団」の発足は13年7月15日)。このころから『婦人公論』記者・波多野秋子と親しくなる。著作集第十五輯『芸術と生活』を叢文閣から出版。12月12日、所蔵する書籍・書画を公売に付した。
・1923年(大正12年)46歳
 新聞に麴町下六番町の千二百坪の邸宅の売却広告を出す。3月、四谷南寺町の借家に移る。6月7日、波多野秋子との関係を足助素一に告白、9日早暁、軽井沢三笠山の別荘浄月庵にて秋子と心中。7月7日、遺体発見。9日、麹町の本邸で告別式、青山墓地に埋葬(後に多摩墓地に改葬)された。11月、著作集第十六輯『ドモ又の死』が叢文閣から出版された。」(山田昭夫編より抜粋)

 年譜を見ていると、有島武郎と北海道とのつながりの深さがわかる。北海道のニセコ町(1964年に狩太から町名変更)には、現在有島記念館が建てられているが、そのHPの概要の項を見ると、記念館建設の経緯が次のように記されている。

 「武郎は自身の思想から農場所有に疑問を抱いており、父の没後の1922年(大正11年)、農場を小作人全員の共有として無償解放することを宣言した。それは、武郎の没する前年であった。・・・しかし、1949年(昭和24年)、占領軍による農地改革の対象となり、農団は解散し、農地はそれぞれの持ち分に従って私有地となった。後に、旧場主の恩に報いるために『有島謝恩会』が設立され、旧農場事務所に武郎や旧農場の資料を保存・展示した。しかし昭和32年(1957年)5月失火による火災により旧農場事務所とともにこの記念館は焼失。幸いなことに収蔵品の殆どは無事搬出され、昭和38年(1963年)7月、有島謝恩会が中心となり、再建運動がおこり、募金により、1階がレンガ造、2階が木造の2階建ての有島記念館が再建された。やがて、管理上の問題や会館の老朽化に伴い、有島武郎生誕百年を記念して町による新しい記念館が建設されることになり、有島謝恩会が保存していた農場の資料の収蔵品が町建設の新記念館に寄託され、昭和53年(1978年)4月、その資料を継承し、設立されたのが有島記念館である。」

 有島記念館とその周辺の写真を見ると、軽井沢とは異なり、背後に羊蹄山が見える明るく開けた立地である。地元の人たちが有島武郎に寄せる思いもまた軽井沢のそれとは随分違っているだろうと思う。

 しかし、この農地を小作人に開放するといった自らの思想を実践する姿勢や潔さには、軽井沢での心中とつながるものを感じる。

 武郎の文学忌は作品「星座」にちなんで星座忌と名づけられていて、6月9日の武郎の命日には、今年も有島記念館で星座忌コンサートが企画されている。


2019.6.9 星座忌コンサートの案内(有島記念館HPより)




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