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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

雲場池の四季(3)秋・冬の水鳥

2021-02-05 00:00:00 | 軽井沢
 前回に続き、9月から2月、秋から冬にかけて雲場池にやって来る水鳥を紹介する。

 1年を通じて見られる種はカルガモのみで、越冬のために渡ってきていた、マガモ、キンクロハジロ、オオバンなどの種は5月下旬になると姿を消しマガモとキンクロハジロが再びやってくるのは10月下旬になってからである。

 この後、少し遅れて、再びオオバン、コガモ、ヒドリガモ、ホオジロガモなどの姿も見られるようになり、雲場池はにぎやかになる。また時には、アオサギやダイサギの姿も見られる。

 雲場池に観光客が訪れるゴールデン・ウイーク時には渡りの前のマガモとキンクロハジロ、そしてカイツブリを見ることができるが、夏期にはほとんど水鳥の姿はない。秋の紅葉は10月下旬から11月上旬が見ごろになるが、大勢の観光客が訪れるこの季節には先ずマガモとキンクロハジロが戻ってきていて、その姿を見ることができる。

 冬は観光客の姿はほとんどないが、水鳥の種類はこの時期に多くなる。数が多いのはマガモ、キンクロハジロ。カルガモは時々全く姿を消してしまうことがある。オオバンは冬にはいつ行っても見られるが、数は少なく、今年は二羽だけである。コガモ、ホシハジロ、ホオジロガモ、ヒドリガモは移動途中で立ち寄るだけなのだろう、姿を見ることができれば運がいいということになるようだ。

 今回ダイサギとして紹介したシラサギは、まれに雲場池にやって来る種であるが、今年1月にはめずらしく8羽の群れを目撃し、撮影した。

 種の同定では、チュウサギとの区別が難しく、ここではダイサギとしたが、実のところあまり自信がない。
 図鑑によると、口角が眼の後方を越えるのがダイサギで、口角が眼と同じくらいのところにあるのがチュウサギ。また、目先の色が青緑色がダイサギ、黄色がチュウサギとされている。

雲場池で見られる水鳥(2020.1-2021.1) 

水鳥の四季 冬-秋・冬(2020.1,2, 9-2021.1 撮影)


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雲場池の四季(2)春・夏の水鳥

2021-01-15 00:00:00 | 軽井沢
 今回は雲場池の季節の移り変わりを、訪れてくる水鳥の様子を通して見ていこうと思う。春・夏と秋・冬の2回に分けて紹介するが、初回は前半の3月から8月にかけて撮影したオオバン、カイツブリ、カルガモ、カワウ、キンクロハジロ、ダイサギ、ホシハジロ、マガモを見ていただく。

 軽井沢は野鳥の生息数では日本でも有数の生息地とされている。中軽井沢にある「軽井沢野鳥の森」は、標高950mから1100mに位置する高原の森で、広さは約100ha。日本野鳥の会の創設者である中西悟堂(なかにし ごどう/1895~1984年)が、軽井沢・星野の地を「日本三大野鳥生息地」と呼び、1974年に環境省(当時は環境庁)により、国設野鳥の森に指定されているもので、この森では、年間で約80種類の野鳥を観察することができるという。

 この野鳥の森からは、少し離れているが、雲場池周辺を朝散歩していると、オオルリ、キビタキ、ベニマシコ、ヒレンジャクなどの代表的な種を目撃することができるのだが、ここには種類はそれほど多くはないが水鳥もやってきており、年間を通じて見ていると10種以上を観察、撮影することができた。

 個別にはすでに当ブログで紹介してきているが、年間を通じて、いつどのような水鳥がやってきているのを表にし、スライドショウでこれらの姿をまとめてみた。

 3月には、冬鳥として雲場池に飛来した7種類の水鳥をまだ見ることができるが、暖かくなるにつれて、次第にその数は減っていき、6月にはほとんどが姿を消してしまい、カルガモだけになる。

雲場池で見られる水鳥(2020.1-2021.1)

 私が雲場池に出かけるのは、だいたい朝7時半から8時半くらいに限られているので、それ以外の時間帯ではどのような状況になっているのかは不明であり、必ずしもこの表の様であるとは言えないし、年によっても変わっているであろう。その程度のものとの条件付きであるが、今回は1年の観察の前半として、3月から8月にかけて撮影した写真を3分間のスライドショウにしたものを見ていただく。

水鳥の四季 春・夏(2020.3-8 撮影)

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雲場池の四季(1)定点撮影

2021-01-01 00:00:00 | 軽井沢
 雲場池に朝の散歩に出かけるようになったのは、去年の1月11日からである。早いもので、1年が過ぎようとしている。この間、季節の移り変わりを雲場池とその周辺の植物、動物を通じて眺めてきた。

 また、この1年は特別な1年になったが、それは勿論新型コロナウイルスの突然の出現による。朝、1時間足らずの散歩であったが、その間にあれこれ考えさせられることが多く、その時々に疑問に思ったことなどを調べてブログに綴ってきた。

 そうして、日々起きるコロナに関連するさまざまな出来事を忘れないために、購読している読売新聞をとっておいたが、次第にそのボリュームが増えてきたので、見出し語だけをブログに記録として残すことにして、新聞のスクラップは捨てた。

 コロナ感染者数は今も世界中で拡大を続けていて、1年前に感染が報道されはじめた時には予想もしなかった1億人に達する勢いである。死者数もこれに伴い増加を続けていて、200万人になろうとしている。

 軽井沢で隠遁生活をしていると、この間の観光客の急激な減少や、我々自身に求められた行動規制、マスクの着用をはじめとした生活の見直しなどで、世の中で起きていることの一端を肌で感じるものの、幸いなことにコロナについてはほとんど実感がないというのが正直なところである。勿論、埼玉と神奈川に住んでいる子供達や娘夫婦、そして孫に会えないという影響はあるが。

 一方、人間世界の騒動をよそに、自然は確実に移り変わり、春になれば一斉に若葉が萌え、池を賑わしていた水鳥たちが次第に去り、夏になると濃くなった緑が池を覆うようになり、秋には紅葉が美しく雲場池を飾り、周辺の道路は突然の渋滞になる。そして静かになった池には再び水鳥が帰ってくる。

 識者が言うように、新型コロナウイルスもやがて我々と共生するようになり、自然の一部としてしずかに人間社会の仲間入りをし、我々もその存在をことさら騒ぎ立てることもなくなるのであろう。そうした日が一日も早く来ることを望むのである。

 ここでは、ひと時コロナを離れて、雲場池のこの1年の移り変わりを改めて写真で紹介していこうと思う。

 今回は定点観測として、雲場池の入り口付近から撮影した写真を1月から12月までの1年間を通じてみていただく。

 雲場池は、上流の鹿島の森にある湧水を水源としているので、真冬でも凍ることはない。寒い朝には、水蒸気が冷気に接して靄となり、水面を這うように流れていく景色を見ることがある。

 一方、入り口近くにある小さな池の方は、流れ込む水量が制限されているためか、冬には全面凍りついてしまう。

 撮影した画像から60枚を選び、これを3分間のスライドショウに纏めてみた。

雲場池の四季 (2020.1.12 - 12.28 撮影画像を編集)


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軽井沢文学散歩(10)川端康成

2019-12-20 00:00:00 | 軽井沢
川端康成もまた、軽井沢に別荘を持っていた。その別荘について自身で次のように書いている。

 「軽井沢の私の山小屋は、<幸福の谷>にある。野上君の『軽井沢物語』の主人公弓月明とその母の山小屋も<幸福の谷>にある。私がこの<幸福の谷>の山小屋を外人宣教師から買ったのは、たしか昭和十二年の秋だったと思ふ。尾崎士郎君の『人生劇場』と私の『雪国』とが文藝懇話会賞に選ばれて、軽井沢の宿に長逗留していた私は賞を受けるために東京へ出、真直軽井沢に帰って、賞金(1000円)をそっくり山小屋の代金に入れた。その後毎夏の山小屋暮らしを考えると、私としてはめずらしく金を生かした方である。・・・
 山小屋を買った年、私夫婦は十一月の末までいた。まわりの小屋はみなとざされ、雑木の葉は落ちつくし、町に出る道はまだら雪だった。私たちが去ったあとに、堀辰雄君が来て冬を過ごし、この山小屋で『風立ちぬ』の終章ができた。・・・
 今、野上君の『軽井沢物語』では、『弓月の亡くなった父は<幸福の谷>という言葉のひびきにひかれて、晩年をしずかにここで暮した。<南幸の谷>という言葉のひびきに。』とあるものの、弓月の一人息子明と母のふさなどのために、その呼び名通りの<幸福の谷>となった。
 尾上君もここに明たちの山小屋をおいたのは、やはり少し『言葉のひびき』にひかれてだろうが、また野上君が長年のあいだしばしば私の山小屋を訪れてくれ、泊って行ったこともあるからであろう。・・・
 <幸福の谷>とか<南幸の谷>とかは無論数十年前ここらに山小屋をつくった外人宣教師たちの名づけである。」(野上彰著「軽井沢物語」川端康成の序文から)

 川端康成が上に書き記しているように、川端が1307番別荘を購入直後、5歳年下で川端と親しかった堀辰雄がその別荘を借りて、難産だった『風立ちぬ』の終章「死の影の谷」をそこで完成させたことが知られている。終章に描かれた舞台は、執筆別荘のあった桜ノ沢周辺だとされる。この逸話とは逆に、堀辰雄が以前から気に入っていた軽井沢・釜ノ沢の1412番別荘が売りに出たさい、川端が逸早くそれを知り、堀に速達で知らせ、紆余曲折の末、堀が1941(昭和16)年に米人牧師から購入するに至ったという話も残されている。

 このことを書いた堀辰雄の作品を見ると、次のようである。
 「私の借りた小屋は、その村からすこし北へはいった、ある小さな谷にあって、そこいらにも古くから外人たちの別荘があちこちに立っている、-なんでもそれらの別荘の一番はずれになっているはずだった。そこに夏を過ごしに来る外人たちがこの谷を称して幸福の谷と云っているとか」(堀辰雄『風立ちぬ』最終章「死のかげの谷」)。」

 もう一つ、この別荘購入について、夫人の川端秀子さんの回想が残されている(川端康成とともに)。
 「・・・ちょうどいわゆる支那事変の起きた年で外人の引き揚げが目立った年ですが、外人は決して投げ売りなどはしませんし、その頃の日本もそろそろ軍需景気で土地など上り目でした。結局先方の言い値を値切って二千三百円ぐらいで買ったはずです。持主はシップルという仙台に住んでいた人で、軽井沢町一三〇七の別荘でした。買うことに話が決ったのは八月二十日過ぎ、登記は九月に入ってからで、九月二十二日附の石井(佐藤)碧子さんへの手紙に『宣教師の建てた山小屋を一つ買ひました』とあります。 この昭和十二年十三年という頃は、作家が、軽井沢に別荘を買ったり借りたりした時期で、それが一種の流行にもなっていたようですが、満州事変、支那事変で外人の引き揚げが続いて売り物が出たということがあったのでしょう。・・・」。
 二回目の購入については、「・・・この秋に軽井沢の別荘の隣の山小屋を一軒外人から買いました。外人の所有権が認められていなかった頃の話で、九百九十九年の地上権の引き継ぎという形です。これが戦後になって住むようになった一三〇五番の別荘で、当座はドイツ人に貸していました。・・・」

 この「幸福の谷」の別荘で川端康成自身もまた多くの作品を残してる。現在残されている別荘は、この二回目に購入したものの方であり、一回目の別荘はもう何も残っていないとされる。

 川端康成の別荘はどうなっているだろうかと思い、現地に出かけてみた。旧軽井沢のテニスコート横の道を東に万平ホテルの方に向かい、途中で左に折れると付近一帯は静かな別荘地帯となっている。近くには室生犀星の別荘(現在は記念館)もある場所である。矢ケ崎川にかかる橋を渡ると「幸福の谷(ハッピーバレー)」と呼ばれる道に通じるが、このやや奥の方に川端康成の別荘はあった。

この一帯はせせらぎの森という別荘地である。古い案内板がある(2019.9.17 撮影)

川端康成の別荘のある「桜の沢」を示す案内板(2019.9.17 撮影)

川端康成の別荘地の前の道は珍しく浅間石が固められ、舗装されている(2019.9.17 撮影)

別荘敷地内へのアプローチ(2019.9.17 撮影)

傍らに今も残る別荘番号1305と所有者名「川端」の名(2019.9.17 撮影)

アプローチの手前には駐車スペースと思える場所がある(2019.9.17 撮影)

傍らには英字でKAWABATAと書かれた名板が残されている(2019.9.17 撮影)

 これまで、室生犀星に始まり芥川龍之介まで、明治・大正期に活躍した文士と軽井沢との繋がりを紹介してきたが、その中では、生年で見ると川端康成は芥川龍之介と堀辰雄の間に位置する。72歳に没したということもあり、先の二人に比べると昭和期の作家という印象が強い。

明治・大正期に活躍した文士とその中の川端康成(赤で示す。黄色はこれまでに紹介した文士)

 川端康成と軽井沢の出会いは1931(昭和6)年8月、菊池寛らと旅行した際のこととされている。その後、別荘購入の前年の1936年(昭和11年)に再び軽井沢に来ている。その時の様子は、2019年に軽井沢高原文庫で開催された「川端康成と軽井沢」という講座で、小川和佑の「文壇資料 軽井沢」からの引用として次のように紹介されている。

 「・・・川端康成は軽井沢に入って先ずつるやの玄関に立った。中山道の古い道場の俤を残す建物が彼の心を魅きつけた。芥川龍之介や室生犀星の愛したつるやはその後、昭和期に入っても、やはり多くの作家たちの集る旅館だった。彼の親友の一人、片岡鉄兵もしばしばここで長編を執筆している。川端はそんな倹しさもあってつるやを訪れたのであったが、相憎満室で、番頭は丁寧に断りを言い、その代り少し下手の小さな藤屋を紹介してくれた。 事実、つるやは六月の末になると予約の客で例年満員になる。突然訪れた川端を泊める部屋はどこにもなかったのだった。この最初の川端の軽井沢訪門には一説があって、例のつるや七不思議の一つの居眠り番頭が川端の顔を知らず、極めて索気なくこの高名な作家を一見の客と思い断ったため、川端がひどく不快を覚えたというエピソードもある。 しかし、それは飽くまで誤りであろう。作家を大切にした佐藤不二男が、川端康成を知らなかったはずはない。満室でどうにもならなかったことの方がより真実に近いのではなかったか。 藤屋は旧軽井沢の本町通りの中程に近い、神宮寺の入口右手にある小さな旅館であった。そこで応対に出たのは藤屋主人小林忠義氏の妹愛子さんだった。藤屋も満員。一つだけ広い部星に学生が宿泊していて、そこに合部屋ならばと招じ入れてくれた。川端康成は苦笑しながらそれも仕方がないと部星に上った。改装前の藤屋は旅籠風な旅館だった。しかし、それがいかにも宿場らしい旅情があったことが、川端の気に入った。彼は気軽に学生と相部屋になった。学生もこの高名な作家の顔を知らなかった。翌朝、朝食時になって、昨夜の客が、作家の川端康成と気がついたのは、愛子さんだった。もう二、三日宿泊したいという彼を、愛子さんは急いで、空いたばかりの別室を用意した。その部屋は窓から神宮寺の境内の見下ろせる小部屋だった。・・・」
 
 さて、今年は川端康成の生誕120年の年にあたる。2年前に偶然その生誕地に行く機会があり、「川端康成生誕之地」と彫られた石碑を見ることができた。このことは前にも紹介したが(2017.9.21 公開の本ブログ)、この石碑は以前この地にあった和風建築の料亭の玄関脇に設けられていたという。その当時の様子はウィキペディアに写真が出ているので見ることができる。

 2017年に、私がその場所に行った時には、元の料亭は取り壊されて、その跡地はマンションの建設工事中であったが、石碑は大切に守られていた。

「川端康成生誕之地」の石碑(2017.9.13 撮影)

石碑上部の文面(2017.9.13 撮影)

 石碑上部には次のように記されている。

 「『伊豆の踊子』『雪国』などの名作で、日本的抒情文学の代表作家とされる川端康成は短編小説の名手として国際的に知られ、昭和43年(1968)に日本人では初めてノ-ベル賞を授与されました。彼は明治32年(1899)6月14日の生まれで、生家は料亭相生楼敷地の南端あたりにありました。」

 川端康成の生い立ちを見ておくと、1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋 1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生。7か月の早産だった。
 4歳上には姉・芳子がいた。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱であった。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学や書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった。蔵書には、ドイツ語の小説や近松、西鶴などの本もあった。
 しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転移し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」という書を遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記したとされる(ウィキペディアから)。

 川端康成ゆかりの碑などは、前記の生誕之地石碑の他、次のようなものがある。

・旧居跡
 茨木市宿久庄1丁目11-25には「川端康成先生旧跡」の碑がある。
・文学碑「以文会友」
 1969年10月26日に、母校・大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)で除幕式が行われた。
・「川端康成ゆかりの地」の記念碑
 1974年(昭和49年)4月16日の三回忌に、伊藤初代の父親・忠吉の郷里の岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区)の増沢盆地を見下ろす向山公園の高台に建立された(題字は長谷川泉で、裏側の銘文は鈴木彦次郎)。尚、伊藤初代は川端康成の元婚約者。15歳の時に22歳の川端と婚約し、その1か月後に突然婚約破棄を告げた女性である。その事件による失意が川端の生涯の転機となり、様々な作品に深い影響を与えたことで知られる。
・「川端康成記念館」
 1976年(昭和51年)5月に、鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に落成・披露された。
・「反橋」の文学碑
 1981年(昭和56年)5月20日、大阪の住吉神社境内に建立された。
・「牧歌」の一節と、川端自筆の道元禅師の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑
 1981年(昭和56年)6月に、長野県上水内郡鬼無里村(現・長野市鬼無里)松巌寺境内に建立された。
・「伊豆の踊子」の冒頭文を刻んだ新しい文学碑
 1981年(昭和56年)5月1日に、伊豆の湯ヶ島の水生地に、川端の毛筆書きによる文学碑が建てられ除幕式が行われた。左半分の碑面には川端の顔のブロンズのレリーフがはめこまれている。
・ 茨木市立川端康成文学館
 1985年(昭和60年)5月に開館した。
・小説「篝火」にちなんだ「篝火の像」(長良川に向い、鵜飼船の篝火を眺める川端と伊藤初代が並んだ像)
 生誕110年の年に当たる2009年(平成21年)11月14日に、岐阜県岐阜市湊町397-2のホテルパークから鵜飼観覧船乗り場に行く途中のポケットパーク名水に建立され除幕式が行われた。

(2021年8月4日追記)
 ここで紹介した川端康成氏の別荘の解体情報が突然舞い込んできた。信濃毎日新聞(2021.8.2付け)によると、「現在別荘を所有する神奈川県内の不動産会社の関係者が7月下旬、別荘周辺の住民に9月からの解体作業着手を伝えたという。
 軽井沢町内の文化団体や文学愛好家からは『解体されれば、町の貴重な文化遺産が失われる』と危惧する声が上がっている。」と報じている。
 こうしたことを受けて、「軽井沢文化遺産保存会」をはじめとした団体が共同して、川端康成別荘の保全に向け町議会への請願書提出の動きが始まった。
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軽井沢文学散歩(9)芥川龍之介

2019-11-22 00:00:00 | 軽井沢
 先ごろ文化庁が発表した「国語に関する世論調査」は、本来と違う使い方の広がる言葉をとり上げているが、その一つに<憮然>があった。<憮然>とは「立腹する様子」の意で使いがちだが、正しくは「失望してぼんやりする様子」だという。
 いつごろからこのように本来の意味とは異なって使われるようになったのだろうか。

 読売新聞の「編集手帳」(2019.10.31)がこの<憮然>について、芥川龍之介の小説「戯作三昧」の中の滝沢馬琴の言葉として次の様に紹介している。
 「・・・芥川龍之介は、この「戯作三昧」の中で、来る日も来る日も物語を生み出さねばならない主人公・滝沢馬琴の仕事の苦衷を描いた。老境に入った馬琴が湯屋で体を洗う場面に始まるとされるが、<老人は憮然として、眼を挙げた・・・にぎやかな談笑の声につれて、大勢の裸の人間がめまぐるしく湯気の中に動いている・・・>と書いている。・・・」
 もちろんここでは本来の意味で用いられている。

 さて、今回はこの芥川龍之介である。軽井沢ゆかりの文士ということで、これまで室生犀星に始まり萩原朔太郎まで、軽井沢という場所との関わりを中心に紹介してきたが、芥川龍之介も35歳という短かい生涯の中で、いくつかの足跡を軽井沢に残している。これを見ていこうと思う。


明治大正期に活躍した文士とその中の芥川龍之介(赤で示す、黄はこれまでに紹介した文士)

 芥川龍之介を軽井沢に誘ったのは、先にこの地に来るようになっていた室生犀星であったようである。
 「芥川龍之介全集」(1978年 岩波書店発行)には軽井沢について次の2件の記載が見られる。第七巻の「軽井沢日記」と第八巻の「軽井澤で-『追憶』の代りに」である。
 
軽井澤で
   -「追憶」の代りに-

黒馬に風景が映っていゐる。
         *
朝のパンを石竹の花と一しょに食はう。
         *
この一群の天使たちは蓄音機のレコオドを翼にしてゐる。
         *
町はづれに栗の木が一本。その下にインクがこぼれてゐる。
         *
青い山をひっ掻いて見給へ。石鹸が幾つもころげ出すだらう。
         *
英字新聞には黄瓜(かぼちゃ)を包め。
         *
誰かあのホテルに蜂蜜を塗ってゐる。
         *
M夫人--舌の上に蝶が眠ってゐる。
         *
Fさん--額の毛が乞食をしてゐる。
         *
Oさん--あの口髭は駝鳥の羽根だらう。
         *
詩人S・Mの言葉--芒の穂は毛皮(けがは)だね。
         *
或牧師の顔--臍!
         *
レエスやナプキンの中へずり落ちる道。
         *
碓氷山上の月、--月にもかすかに苔が生えてゐる。
         *
H老婦人の死、--霧は仏蘭西の幽霊に似てゐる
         *
馬蠅は水星にも群って行った。
         *
ハムモツクを額に感じるうるささ。
         *
雷は胡椒よりも辛い。
         *
「巨人の椅子」と云ふ岩のある山、--瞬かない顔が一つ見える。
         *
あの家は桃色の歯齦(はぐき)をしてゐる。
         *
羊の肉には羊歯の葉を添へ給へ。
         *
さやうなら。手風琴の町、さやうなら、僕の抒情詩時代。

                      (大正十四年稿)

 ここで、登場している詩人S・Mとは室生犀星のことであろうか。

 芥川龍之介がはじめて軽井沢に長期滞在したのは1925年(大正十三年)のこととされる。軽井沢に来た龍之介は、「つるや旅館」に滞在した。「軽井沢日記」にはその時のことと思われる記述がみられる。
 室生犀星が軽井沢に別荘を建てたのは、1931年(昭和六年)のことであるから、この頃はまだ犀星も旅館を利用していた。また、萩原朔太郎もこの時期つるや旅館に滞在していたはずであるが、何故かそれには触れていない(2019.9.20 公開の本ブログ参照)。

 「八月三日。晴。室生犀星来る。午前四時軽井沢に着せし由。『汽車の中で眠られなくつてね。麦酒を一本飲んだけれども、やっぱりちょつこしも眠られなくってね。』と言ふ。今日より舊館の階下の部屋を去り、犀星とともに『離れ』に移る。窓前の池に噴水あり。鬼ぜんまい、葱などの簇れる岩に一條の白を吐けるを見る。縁側に巻煙草吸ひ居たる犀星、倏ち歎を發して曰、『噴水と云ふものは小便によく似てゐるものだね。』又曰、『あんなに出續けに出てゐると、腹か何か痛くなりさうだね。』
 犀星と共に晩凉を逐ひ、骨董屋、洋服屋などを覗き歩く。微月天にあり。日曜學校の前に至れば、分別臭き亜米利加人、兩三人日本語の讃美歌を高唱するを見る。

 八月四日。晴。堀辰雄来る。暮に及んで白雨あり。犀星、辰雄と共に軽井沢ホテルに赴き、久しぶりに西洋風の晩餐を喫す。客に独逸人多し。食堂の壁に佛畫兩三幀を挂く。電燈の光暗うして、その何たるかを辨ずる能はず。隣卓に禿頭の独逸人あり。卓上四合入の牛乳一罎を置き、英字新聞に目を曝しつつ、神色自若として牛乳を飲み、五分ならざるに一罎を盡す。食後サロンに閑談すること少時。雨を侵して鶴屋に歸る。
 夜半『僻見』の稿を了す。

 八月五日。陰。村幸主人、土屋秀夫来訪。辰雄、二時の汽車にて東京に歸る。
 薄暮、散歩の途次、犀星と共に萬平ホテルに至り、一杯のレモナアデに渇を癒す。客多くは亜米利加人。露臺に金髪紅衣の美人あり。籐椅子に倚つて郎君と語る。憾らくは郎君の鼻、鷲の嘴に似たることを。ホテルを去ってオウディトリアムの前に至れば音楽会の最中なり。堂前樹下、散策の客少なからず。偶御亭主と腕を組みたる黄面短軀の奥様を見る。月を仰いで嘆じて曰、『蒼白い月だわねぇ。』窮巷に文を賣ること十年、未だ甚だ多幸ならざれども、斯の如き夫人の毒手に入るを免る、亦一幸たるに近かるべし。
 夜、オオニイルの『水平線の彼方』を讀む。淺俗、映畫劇を見るに似たり。

 八月六日。晴。感興頓に盡き、終日文を艸する能わず。或は書を讀み、或は庭を歩し、犀星の憫笑する所となる。この庭に植ゑたる草木花卉、大體下に掲ぐるが如し。松、落葉松、五葉松、榧、檜葉、枝垂れ檜葉、白槇、楓、梅、矢竹、小てまり、山吹、萩、躑躅、霧島躑躅、菖蒲、だりあ、凌霄はれん、紅輪草、山百合、姫向日葵、小町草、花魁草、葱、針金草、鬼ぜんまい、雪の下、秋田蕗、山蔦、五葉、--五葉の紋章めきたるは愛すべし。
 午頃、田中純来る。運動服を調へ、チルデン愛用ラケットを買ひ、毎日テニスしつつありと言ふ。」 

 旧仮名遣いや、旧漢字で読みづらいが、室生犀星、堀辰雄と親しく交流していた様子が見られる。また、意外なことに植物の種類についての知識が深い。

 多くの文士が宿泊したことで知られる「つるや旅館」には龍之介の写真が、他の文士などの写真と共に今も展示されている。宿泊の際に撮影させていただいたものを紹介すると次のようである。


つるや旅館に展示されている文士などの写真の数々


つるや旅館に展示されている芥川龍之介の写真 1/4

 この写真の下には、次のような説明が記されている。

 「・・・大正13年、14年の夏につるやの藤『ふじ』の部屋に滞在。『軽井沢日記』『書簡集』につるやを舞台とした記述がある。
 当時、神経症を患っていたが、つるやでは木登りをしたり、『つるや』の看板の文字に『゛』をつけて『づるや』と落書きをして遊び、驚くほど陽気になったという。室生犀星とともに、『つるや七不思議』の作者。・・・」


つるや旅館に展示されている芥川龍之介の写真 2/4 (左2人目から、二代目市川左団次、龍之介、菊池寛)


つるや旅館に展示されている芥川龍之介の写真 3/4 (左から、龍之介、菊池寛)

 この写真の下には、「芥川龍之介『書簡』より」として、次の文が紹介されている。

 「大正十三年七月二十三日
    軽井澤から 室生犀星宛
 鶴屋にゐます 君も来ればよいと思ってゐます 来月十日迄いて、少し仕事をするつもり 小畠君や何かによろしく、堀君ももう行ってゐるでせう 俳句などを弄すると、小説を作る気がなくなる故、我慢して何も作らずにゐます 頓首
    軽井澤 芥川龍之介

  大正十三年八月十九日
    軽井澤から 室生犀星宛
  御手紙拝見
    つくばひの藻もふるさとの暑さかな
 朝子嬢前へ這うようになったよし、もう少しすると、這ひながら、首を左右へふるようになる さうすると一層可愛い
 雉子車は玩具ずきの岡本綺堂老へ送ることにした。けふ片山さんと『つるや』主人と追分へ行った 非常に落ち着いた村だった 北國街道と東山道との分れる處へ来たら美しい虹が出た
廿日か廿一日頃かへるつもり
    十九日 龍之介」


つるや旅館に展示されている芥川龍之介の写真 4/4 (左から 室生犀星、龍之介)

 上の写真(1/4)の解説文に記されているように、このころ龍之介は神経症を患っていたが、2年後の1927年(昭和2年)に服毒自殺している。斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んだとも、主治医だった下島勲の日記などから青酸カリ服毒とも言われている。

 この訃報に接した萩原朔太郎は次の文を残している(萩原朔太郎全集 第九巻 『芥川龍之介の死』、1976年筑摩書房発行)。長文であるが、ここでは室生犀星と萩原朔太郎自身に関する記述のある所だけを引用する。

 「七月二十五日、自分は湯ヶ島温泉の落合樓に滯在してゐた。朝飯の膳に向かつた時、女中がさりげない風でたづねた。
『小説家の芥川といふ人を知つてゐますか?』
『うん、知つてる。それがどうした?』
『自殺しました。』
『なに?』
 自分は吃驚して問ひかへした。自殺? 芥川龍之介が? あり得べからざることだ。だが不思議に、どこかこの報傳の根柢には、否定し得ない確實性があるやうに思はれた。自分はさらに女中に命じて、念のために新聞を取り寄せさせた。けれども新聞を見る迄もなく、ある本能の異常な直覺が、變事の疑ひ得ないことを斷定させた。・・・」

 「何故に芥川龍之介は自殺したか? 自殺の心原因は何であつたか? 思ふにそこには、いろいろな複雜した事情がある。・・・自分について言へば、自分は彼の多數の友人――實に彼は多數の友人と交はつてゐた――の一人であり、しかも交情日尚淺く、相知ることも最もすくない仲であつた。しかもただ、自分が彼について語り得る唯一の權利は、あらゆる他のだれよりも、すべての彼の友人中で、自分が最も新しい、最近の友であつたといふことである。
 この『最近の友』といふことに、自分は特に深い意味をもつて言ふのである。何となれば彼の最近の作風には、一の著るしい變化と跳躍とが見られるから。そしてこの心的傾向は、しばしば私と共鳴同感するものを暗示するから。何故に彼が、あの文壇の大家芥川龍之介君が、私如き非才無名の一詩人に對して、格別の意と友情とを――時としては過分の敬意さへも――寄せられたかといふことに、今にして始めて了解出來たのである。・・・」

 「室生犀星君は、最近における故人の最も親しい友であつた。室生君と芥川君の友情は、實に孔子の所謂『君子の交り』に類するもので、互に對手の人格を崇敬し、恭謙と儀禮と、徳の賞讚とを以て結びついてた。けだし室生君の目からみれば、禮節身にそなはり、教養と學識に富む文明紳士の芥川君は、正に人徳の至上觀念を現はす英雄であつたらうし、逆に芥川君から見れば、本性粗野にして禮にならはず、直情直行の自然見たる室生君が、驚嘆すべき英雄として映つたのである。即ちこの二人の友情は、所謂『反性格』によつて結ばれた代表的の例である。
 自分と芥川君との交誼は、室生君よりも尚新しく、漸くこの三年以來のことに屬する。自分は芥川君の死因について書く前、この短かい年月の間における、我々の思ひ出深い交情を追想して見たいと思ふ。・・・」 

 「私が田端に住んでる時、或る日突然、長髮痩軀の人が訪ねて來た。『僕が芥川です。始めまして。』さういつて丁寧にお辭儀をされた。自分は前から、室生君と共に氏を訪ねる約束になつてゐたので、この突然の訪問に對し、いささか恐縮して丁寧に禮を返した。しかし一層恐縮したことには、自分が顏をあげた時に、尚依然として訪問者の顏が疊についてゐた。自分はあはててお辭儀のツギ足しをした。そして思つた。自分のやうな書生流儀で、どうもこの人と交際ができるかどうか。自分はいささか不安を感じた。・・・」

 「芥川君は、詩に對しても聰明な理解をもつてた。彼は佐藤春夫、室生犀星、北原白秋、千家元麿、高村光太郎、陽夏耿之介、佐藤惣之助等の詩を、たいてい忠實に讀破してゐた。のみならず、堀辰雄、中野重治、萩原恭次郎等、所謂新進詩人の作物にも、一通り廣く目を通してゐた。・・・」

 「・・・芥川君の文學は、そのあまりに文學的であると共に、またあまりに少年的な、少年的であることに於て著るしい。今日の新しき日本詩壇が、芥川君と同趣相通ずるのも、實にただこの一點にある。そして芥川君以外の既成大家等が、我々の新しい詩と交渉をもたないわけも此處にあるのだ。實に芥川君の文學は、少年客氣の文學だつた。丁度、彼のあの容貌がさうである如く、どこかに子供らしい、元氣の好い、何でも新しいものや舶來のものに憧憬をもつ、鮮新無比の感覺がをどつてゐる。・・・」 

 「海に面した鵠沼の東家に、病臥中の芥川君を見舞つたのは、私が鎌倉に居る間のことだつた。ひどい神經衰弱と痔疾のために、骨と皮ばかりになつてる芥川君は、それでも快活に話をした。不思議に私は、その時の話を覺えてゐる。病人は床に起きあがつて、殆んど例外なしに悲慘である所の、多くの天才の末路について物語つた。『もし實に天才であるならば、かれの生涯は必ず悲慘だ。』といふ意味を、悲痛な話材によつて斷定した。それから彼は、一層悲痛な自分自身を打ちあけた。何事も、一切の係累を捨ててしまつて、遠く南米の天地に移住したいと語つた。・・・」

 「その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。『室生君と僕の關係より、萩原君と僕のとの友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。』
 この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向かつて次のやうな皮肉を言つた。『君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。』その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。」

 「・・・何故に芥川は自殺したか? 自分はもはや、これ以上のことを語り得ない。しかしながらただ、一つの明白なる事實を斷定し得る。即ち彼の自殺は、勝利によつての自殺でないといふことである。實に彼は、死によつてその『藝術』を完成し。合せて彼の中の『詩人』を實證した。眞にすべての意味に於て、彼の生涯はストイック――それのみをただニイチェが望んでゐた――であつた。最後の遺書に於てすらも、尚且つ藝術家としての態度を持し、どこにも取り亂した所がなく、安靜なる魂の平和(精神の美學的均齊)を失つてゐない。彼こそは一つの英雄、崇美なる藝術至上主義の英雄である。」

 「・・・そし私が此處まで考へた時、始めてあの鵠沼における悲壯な會話が、言語の隅々まで明らか解つてきた。いかにその時、あらゆる天才の不運について、藝術家の宿命的な孤獨と悲慘について、彼が沈痛な聲で訴へたか。愚かにも自分は、その時の彼の悲哀について、眞の事情を知ることができなかつた。あまつさへ彼が反復した最後の言葉――自殺しない厭世主義者の言ふことなんか、たれが本氣にするものか。――の深い意味さへ、少しも了解することができなかつた。實にその時、既に既に、彼は死を計畫してゐたのである。・・・」

 この鵠沼における悲壮な會話については、龍之介を見舞った時のものかもしれないが、もう一つこれを示す内容が、萩原朔太郎の少し後の文「芥川君との交際について」(萩原朔太郎全集 第九巻)に次のように書かれている。

 「芥川君と僕との交際は、死ぬ前わづか二三年位であったが、質的には可なり深いところまで突っ込んだ交際だった。『君と早く、もっと前から知り合ひになればよかった。』と、芥川君も度々言った。僕の方でも、同じやうな感想を抱いて居たので、突然自殺の報告に接した時は、裏切られたやうな怒と寂しさを感じた。・・・」
 「鎌倉に住んでいた時、或る夜遅くなって芥川君が訪ねて来た。東京から藤澤へ行く途中、自転車で寄り道をしたのださうである。夜の十一時頃であった。寝衣(ねまき)をきて起きた僕と、暗い陰鬱な電気の下で、約一時間ほど話をした。来るといきなり、芥川君は手を開いて僕に見せた。そして『どうだ。指がふるへて居るだらう。神経衰弱の證據だよ。君、やって見給へ。』と言った。それから暫く死後の生活の話をして、非常に厳粛顔をして居たが、急に笑ひ出して言った。『自殺しない厭世論者の言ふことなんか、當になるものか。』そしてあわただしく逃げるように歸つていった。・・・」

 一方、朔太郎について龍之介が書き残した「萩原朔太郎君」という、次の文がある(芥川龍之介全集 第八巻 1978年 岩波書店発行)。 

 「萩原朔太郎君の『純情詩集』のことは『驢馬』の何月號かに中野重治君も論じてゐる。僕はその論文を愉快に讀んだ。すると何週間かたった後、堀辰雄君が話の次手に『萩原さんの詩には何か調べと云ったものがありますね。それも西洋音楽から来た調べと云ったものですが。』と言った。僕はその言葉にも同感した。・・・それらの因縁から萩原君の詩のことを考え出した。」
 「『月に吠える』、『青猫』等の萩原君は病的に鋭い感覚を自由に表現した詩人である。これは誰も認めてゐるであらう。しかしそれ等の作品にも詩人の耳を感ずることは堀君の言葉のとおりである。日本の詩人の多い中にも韻律を説かない詩人はいない。けれども彼等の作品の上に真に韻律を提へた詩人は十指を屈するのに足りないであらう。萩原君はギタアを愛している。が、それ等の作品に『言葉の音楽』のあることは萩原君自身も認めてゐるかどうか、その邊の消息ははつきりしない。・・・」
 「萩原君は詩人たると共にこの情熱を錬金することに熱中せずにはゐられぬ思想家である。萩原君が室生犀星君と最も懸絶してゐる所はこの點にあるといっても好い。室生君は天上の神々の與へた詩人の智慧に安住してゐる。が、宿命は不幸にも萩原くんには理知を與へた。・・・」
 「萩原君は詩人としても、或は又思想家としても、完成するかどうかは疑問である。少くとも『月に吠える』、『青猫』、『純情詩集』等は『完成』の極印を打たれる作品を存外多く含んでゐない。これは萩原君の悲劇であり、同時に又萩原君の栄光である。・・・」
 「僕は『純情詩集』の現れた時、何か批評を草することを萩原君に約束した。が、とうとう今日までその約束を果さなかった。今この文章を草するのは前約に背かない爲である。必しも『近代風景』に原稿を求められた爲ばかりではない。(十五、一一、二七)」
 
 多くの作品で我々にもなじみの深い芥川龍之介。生あるものの死はいつも悲しいが、若すぎる自殺という結末には特別なものがある。


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