軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

軽井沢の霧の話

2019-10-04 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢は霧の日が多く、「霧の軽井沢」と呼ばれることもあるが、軽井沢町の公式ホームページでは、年間120日も霧の出る日があると紹介している。特に夏の軽井沢は霧のかかる日が多いようである。


朝の霧につつまれた雲場池(2019.6.19 撮影)

 軽井沢で霧が発生する理由は、次のように詳しく説明されている(ウィキペディア)。

 「日中、関東地方南岸では大規模な海風(太平洋海風)が生じて、およそ5 m/sで大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら二つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって平衡状態となる。午後になると地表面の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。山を登る空気は気圧が低くなるとともに膨張して温度が下がり(断熱膨張)、飽和した水蒸気が霧となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間130日以上も霧が発生している。」

 標高で見ると、峠の下の横川が387m、碓氷峠が960m、軽井沢が939mという関係である。


霧につつまれた旧軽井沢銀座通り(2019.6.9 撮影)

 観光の中心地である旧軽井沢銀座やアウトレット・モールあたりは、軽井沢でも碓氷峠に近い東側にあるため特によく霧が発生する。西の中軽井沢方面に行くにしたがって徐々に霧は薄くなり、信濃追分あたりまでくるとほとんどなくなってくる。

 軽井沢を出て佐久方面に車で向かい、追分を過ぎて佐久平にくると、それまでの霧が嘘のように晴れて、青空が広がっているというのはよく経験することである。ちなみに、佐久平から小諸・望月周辺は日本でも晴天率がとても高い地域であるとされているから面白い。


霧につつまれた聖パウロ・カトリック教会(2019.6.9 撮影)

 1995年頃に広島県の三次市に赴任していたことがあるが、ここは秋から早春にかけて朝、霧が頻繁に出る場所であった。天気が悪いわけではなく、濃い霧が出て、視界がとても悪い朝でも時間とともに晴れていき、昼前には青空が見えるようになるといった具合である。ちょうどその頃、NHKの大河ドラマで毛利元就が取り上げられたが、番組の冒頭、この霧のシーンが流れていたことを思い出す。

 この霧は軽井沢の霧とは発生メカニズムが異なるようで、川霧とされる。三次盆地では、西城川・馬洗川・神之瀬川の三つの川が流れ、三次市の中心部で合流して江の川となる。これらの川が運んできた冷気によって、こうした川霧が発生するのだという。

 霧は地表50メートルから100メートルの間を液体のように立ちこめ、すべてを覆い隠してしまう。高谷山・比熊山・岩屋寺など、標高100メートルを越える小高い丘に登ると、雲海のように足下で渦巻く霧や、ところどころで丘や小山の頂が小島のように浮かび上がり、幻想的な光景が眺められるというが、残念なことに私はそういう機会を持つことはなかった。

 この霧は、前記の通り水蒸気を含んだ大気の温度が何らかの理由で下がり露点温度に達した際に、含まれていた水蒸気が小さな水粒となって空中に浮かんだ状態をさすとされている。その意味で霧は雲と同じであると考えてよい。雲との一番大きな違いは水滴の大きさなどではなく、両者の定義の違いということになる。すなわち、霧は大気中に浮かんでいて、地面に接しているものと定義され、地面に接していないものは雲と定義している。山に雲がかかっているとき、地上にいる人からはそれは雲だが、実際雲がかかっている部分にいる人からは霧ということである。

 よく天気予報などで霧と靄(もや)の違いを説明しているが、それによると、視程が1km未満のものを霧とし、視程が1km以上10km未満のものを靄と呼んで区別している。

 「霧の都」としてロンドンもまた有名だが、こちらは軽井沢などのロマンチックな霧とは違い、その発生原因は公害であった。産業革命以来続いていた石炭の大量使用により発生した煤煙(スモーク)と霧(フォグ)を合成した言葉であるがスモッグがその原因であることは今では有名である。このスモッグの発生は20世紀に入ると激しくなり、1950年頃には大量の死者を出すほどになり、「大気浄化法」という法律を作り規制しなければならなくなった。最近ではこの大気汚染も収まり霧もまたほとんど発生しなくなっているようである。

 先日、新聞紙上に東京の霧発生日数の推移が紹介されていたが、東京では霧発生日数が減っているとのこと。お天気キャスターの森田正光氏の文章であるが、一部引用すると次のようである。

 「・・・気象庁気象研究所に在籍した藤部文昭さんの論文『都市が降水に及ぼす影響』で、霧日数のデータを1880年頃(明治時代)から示しています。明治時代に、東京の霧日数は年10から5日ほど。大気汚染や都市化の影響が小さかった東京本来の姿なのかもしれません。
 その後、昭和初期には50日前後となり、高度経済成長期にかけてはおおよそ20日以上で推移します。霧粒の芯となる空気の汚れが顕著だったことも関係あるかもしれません。・・・
 最近では、ほとんど霧が観測されていません。本来の東京の姿とはかけ離れています。空気の浄化というよりも、都市化による気温の上昇や地表面の乾燥が占める部分が大きいのでしょう。東京都心から富士山の見える日数は、近年、過去になかったほど増えていますが、霧日数は2012年の秋以来、一日もありません。・・・」(読売新聞 2019.9.8 掲載記事『晴考雨読』から)


霧日数と都心から富士山が見えた日の推移(2019.9.8 読売新聞掲載の記事から引用)
 
 さて、軽井沢とその周辺の霧であるが、多くの文学作品や小説にも採り上げられている。先ずは軽井沢にこの霧をもたらす基になっている碓氷峠の霧から見ていく。

 碓氷峠の北方には霧積温泉がある。今はここには一軒の宿を残すだけになっているが、かつては40軒以上の宿があり、賑わいをみせていたという。温泉の発見は1200年代であるというからその歴史は古い。

 明治時代初期には温泉旅館が季節営業を始め、別荘が建てられるなど、軽井沢よりも一足先に、避暑地として知られるようになった。

 明治天皇をはじめ、伊藤博文、勝海舟、尾崎行雄、岡倉天心、西條八十、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻ら多くの政治家や文化人らもここを訪れている。伊藤博文が明治憲法草案を起草した部屋は2018年現在でも旅館・本館の一部として残されているという。
 
 1888年(明治21年)に軽井沢に初めての別荘を建て、避暑地・軽井沢の父と呼ばれているカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショー(1846年~1902年)も霧積温泉を訪れていて、英文の広告を発行するなどし、外国人にこの地を紹介している。

 また、1893年(明治26年)に日本人として初めて軽井沢に別荘を建てた旧海軍大佐で福井県選出の衆院議員だった八田裕二郎(1849年〜1930年)も、療養を兼ね霧積温泉に来ていて、軽井沢に多くの外国人が別荘を建てていることを知ったのが建設のきっかけであったとされている(2017.4.21公開の当ブログ「八田別荘とコクサギ」参照)。

 しかし、明治も後期になると軽井沢が避暑地として開発され、人気は奪われていった。さらに1910年(明治43年)に山津波(土石流)が発生し、4軒あった温泉旅館、50~60軒あった別荘が流され、温泉街・別荘は壊滅してしまった。現在はその当時被害を免れた金湯館のみが営業を続けている。

 この山宿を守り続ける3代目当主Sさんによれば、「一寸先も見えない深い霧に包まれることがあります」とあり、さすがの霧の濃さである。

 「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうね?」というせりふは、今では森村誠一さん(1933年~)の小説を映画化した「人間の証明」で有名であるが、出所は西条八十(1892年~1970年)の詩である。碓氷峠から霧積に続く深い渓谷でなくした少年の麦わら帽子と、母への思慕が次のように詠われている。

ぼくの帽子

   西条八十  
   
母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谿底へ落したあの麦稈帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあの時、ずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

母さん、あのとき、向から若い薬売が来ましたつけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたつけね。
けれど、たうとう駄目だった、
なにしろ深い谿で、それに草が
背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。

母さん、ほんとにあの帽子、どうなつたでせう?
あのとき傍に咲いてゐた、車百合の花は
もうとうに、枯れちやつたでせうね。そして
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で、毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

母さん、そして、きつと今頃は、今夜あたりは、
あの谿間に、静かに雪が降りつもつてゐるでせう、
昔、つやつや光つた、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S といふ頭文字を
埋めるやうに、静かに、寂しく。
・・・

 碓氷峠を下って、軽井沢の霧についてみると、次のエッセイは、軽井沢とは縁が深く、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』の翻訳、ボーヴォワールの翻訳、そしてパリについての著書で知られる朝吹登水子(1917年~2005年)のもの。彼女が幼少期から過ごした別荘や、夫君と暮らした住まいはともに軽井沢にあったが、別荘・睡鳩荘は今、中軽井沢の塩沢湖畔に移築保存され、見学することもできる。

 ・私の軽井沢物語-霧の中の時を求めて
 朝吹登水子のエッセイ。1985年、文化出版局。


「私の軽井沢物語-霧の中の時を求めて」、文化出版局発行の表紙

 内容は、著者の記憶にある大正末期から戦争を経て、再び平和が戻るまでの軽井沢を、戦火を逃れた、たくさんの古いアルバム写真とエッセイで記している。書き出しは次のように始まる。
 「私の軽井沢の記憶は薄霧の中から始まる。・・・場所は小坂別荘。小坂善太郎氏、徳三郎氏の父上順造氏の別荘である。大正六年(1917)、両親は小坂家の別荘を借りて、はじめて軽井沢で夏を過ごしたのであった。・・・」
 
 またあとがきの中で、次のように軽井沢の霧について触れて、そしてこの著書の題名について解説している。

 「私が這いはいをしながら人生を進み始めたのは、軽井沢の小坂別荘である。父は簡素で良風の軽井沢が大変気に入り、大正九年(1920)に別荘を買ったので、私は子供時代と少女時代を兄たちと毎夏ここで過ごすことになる。・・・
 パリに住んでいた頃、時折、隣接するブーローニュの森に近い私の住居で、ピョロッピョロッピー、と軽井沢と同じ小鳥の鳴き声を聞くことがあった。甘い郷愁に浸ったわけでは決してなかったが、ふいに軽井沢の一陣の白い霧を頬に感じ、父と母と一緒にいた頃の幼い自分や、嵐が来る前の、泡沫の平和の中であそんだ若人たちの姿が浮かんで、私の胸をしめつけた。これらの映像が霧の中に永遠に消えてしまう前に、私は自分が見、聞き、味わった軽井沢を紙上にとどめておきたいと思った。・・・
 『霧の中の時を求めて』という副題は、読者にフランスの名作、プルーストの『失われた時を求めて』をただちに想いおこさせるだろう。たしかに私は、『失われた時を求めて』という美しい題が大好きなのである。・・・」

 次に、軽井沢の霧を扱った小説から代表的なものを紹介する。

・『霧の山荘』
 横溝正史(1902年~1981年)の小説。角川文庫『悪魔の降誕祭』に本の表題の作品、「女怪」と共にこの「霧の山荘」が収録されている。


「悪魔の降誕祭」、角川書店発行の表紙

 あらすじは、K高原のPホテルに滞在していた金田一耕助を訪ねてきた江馬容子という女に、奇妙な依頼をされる。M原にあるという容子の叔母で元映画スターの紅葉照子が待つ別荘地を訪問したところ途中で霧に巻かれて道に迷ってしまう。
 途方に暮れる金田一を迎えに来た、照子の使いの者と名乗る若い男に案内されて別荘に来ると、そこには照子が倒れていた。金田一が別荘の管理人に連絡し、警察にも通報してもらって、戻ってみると若い男とともに照子の死体も消えてしまっていた。ところが翌朝、K署の捜査主任・岡田警部補から、照子の死体が発見されたと連絡が入る。金田一が別荘に急行すると、別荘の裏の潅木林の中に裸にされた照子の死体が横たわっていた。・・・
 
 横溝正史は金田一シリーズを通して舞台となる地名をアルファベットで抽象的にあらわすことが時々見られるという。この作品にでてくる「K高原」や「K署」の「K」は「軽井沢」、「Pホテル」の「P」は「プリンス」、「M原」の「M」は「南」とされているが、この作品が書かれた当時、まだプリンスホテルは今の名前で呼ばれていなかったといわれ、小説の内容とは別の謎との意見もある。

・『日美子の軽井沢幽霊邸の謎』
 斉藤栄の小説。中公文庫。


「日美子の軽井沢幽霊邸の謎」、中央公論社発行の表紙

 斉藤 栄さん(1933年~)は、大変作品数の多い作家だが、その中の占術ミステリーの『タロット日美子』シリーズのひとつ。

 あらすじは、津名村画伯夫人に、矢ケ崎川の近くの小高い丘の上にある別荘へ招かれた日美子と従姉妹の由佳が、親友を誘って軽井沢に出かける。南軽井沢には、津名村画伯の息子・幸一が奇岩城と名づけているまっ黒い恐ろしい形の巨大な岩が、いくつも林立している場所がある。その奇岩城と発地川の間にある、豪邸を舞台に起きる事件に、二階堂日美子のカードリーディングによる謎解きが展開するというもの。この小説では、推理小説としては稀なことであるが、殺人は起きない。
 このほか軽井沢を舞台とする著者の作品には「新幹線軽井沢駅の殺人」「軽井沢愛の推理日記」などがある。

 1983年5月から軽井沢に住み、先ごろ亡くなった内田康夫(1934年~2018年)には次の推理小説がある。

・『軽井沢の霧の中で』
 内田康夫の短編集。中公文庫、角川文庫、など。表題の下に軽井沢を舞台にした「アリスの騎士」、「乗せなかった乗客」、「見知らぬ鍵」、「埋もれ火」の4編が収録されている。いずれも初出誌は1986年の「別冊婦人公論」とされる。
 先に世に出た、中公文庫版の「あとがき」に寄せられた、著者の友人で同じく軽井沢在住の小池真理子さんの次の文章を、角川文庫版の「自作解説」で紹介している。
 「私個人としては『埋もれ火』が強く印象に残った。短編ミステリーの命とも言えるオチが小粋に決まっていることももちろんだが、高原の別荘地で陶芸をしている男、そこに突然、現れた美しい青年、不吉な暗号のように出て来る白い犬・・・等々、サスペンスの典型ともいうべき設定を大胆に利用して、女の怖さを描いているあたり、内田康夫が意図的にこれまで隠し続けてきたのであろう、第二の才能を感じさせる」


「軽井沢の霧の中で」、中央公論社発行の表紙


「軽井沢の霧の中で」、角川書店発行の表紙

 本作品は同氏のベストセラーである浅見光彦シリーズではない。「アリスの騎士」のあらすじは、父親の死をきっかけに、自身が26年前に生まれ、それから毎年夏には必ず訪れたという、幼い日々の思い出の刻まれた軽井沢の別荘を取り壊し、ペンション経営を始めた絵里という主人公のミステリー。
 絵里は東京・日本橋で4代続いた老舗の呉服店を畳み、軽井沢でペンションを始めた。幼い頃からの夢であった「アリスの館」の経営は、父親が強引に結婚させた画家である婿養子の夫・嘉男の力を借りなくても順調に進んでいた。二年後、絵里は頼りない夫に不満を抱き、出入りの経理士と不倫関係になった。ところが、高崎で逢った後の夜、その経理士が殺害され、その日を境に夫の態度が変わっていく...というもの。

 同じく、2004年から軽井沢に在住している作家、唯川恵さん(1955年~)も「軽井沢の霧」を扱った作品を発表している。

・『途方もなく霧は流れる』
 唯川恵の小説。単行本と、表題を『霧町ロマンティカ』と改題した文庫本がある(共に新潮社)。


「途方もなく霧は流れる」、新潮社発行の表紙

「霧町ロマンティカ」、新潮社発行の表紙

 文章は、「峠を越えた辺りから霧が流れ始めた。群馬と長野を結ぶ碓氷峠である。・・・」とはじまる。

 あらすじは、航空会社で数十億の仕事を任されていた主人公・岳夫は、会社の倒産に伴いリストラの憂き目にあう。東京の住まいを引き払い、父親が残してくれた軽井沢のボロ家に引っ越してきて、田舎暮らしを始める。父親は彼が十三才のときに行方不明になっていた。ある日、迷い犬が現れ、飼いだすようになる。新生活を始めた彼の周りには、知的な獣医、小料理屋の優しい女将と19歳のその娘、誘いをかける妖艶な人妻、など次々と女性が現れる。
 
 と、霧の軽井沢を紹介してきたが、霧を見ることのできなくなっている都会の方々は、霧が見たくなったら「軽井沢にいらっしゃい」ということになるのだろう。



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